2013年07月09日
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小綜を好きでいる理由の一つに、
彼と母親のことがある。
小綜の母親は、彼がまだ小学生の時、不倫の末に家を出た。
理由が理由だったので、父親も親戚も母親に子供達に会う事を禁じたが、
4歳年上の姉と二人、学校に会いに来た母親と会い、
帰宅した二人は、布団の中で父に隠れ泣いたと言う。
そんな思いをしているのに、
高校を卒業した小綜は台中から台北に出て、
今兵役を送っている基隆で母親と暮らし始めた。
まあ、男の子の母親に対する思いと、娘の母親に対する思いは違うのかもしれないが、
よく、母親を受け入れられたと感心してしまった。
多分、不倫の末に家は出たけれど、子供たちに対する愛情はあったのだろう。

私の母親は、会社が無くなり家を無くし、こちらに帰って来る時、
「一緒に住む?」と聞いた私に、
それまで、母に厳しかった私とは一緒には住めないと言い、
東京で物書きになっていた弟と、すぐ近くで暮らし始めた。
弟にしたら、結構な年金をもらっている母と暮らすことは、
飛んで火に入る何とかだっただろうが。

散々パパに迷惑をかけた弟とは、色々な理由で疎遠になっている。
それはどこの家にも一つや二つある、陰の部分だろう。
その弟の所に行った母に対し、やっぱりと言う思いと、
ずっと実家の近くで暮らし、
お誕生日はもちろん、母の日にも一緒に食事に連れて行ったり、
母の支えになっていたつもりだった自分が、バカみたいだと思った。
鬱がひどくなったこともあって、
ますます、母にこちらから電話することもなくなり、
最初の頃は、電話番号さえ知らなかった。、
母の声を聞かない日が多くなり、まるで潮が引くように
母に対する、長年の恨みつらみも胸を衝くことはなくなった。

考えてみれば、彼女こそ、晩年になり夫が作った会社が無くなり、
会長の妻と言う座もなくし、只一人どんなに途方にくれただろう。
荷物や家具を持ち出した私に比べ、
身の回りのものだけ持って出た77歳の気持ちは、私以上だったと思う。

以前、荷物を取りに帰った時、近所の実家に立ち寄ったが、
全く何もかも、家具も声楽で使っていたピアノも、
500年続いた父の実家の大きな仏壇もそのままだった。
ましてや、彼女には財産である家やマンションがあったから、
なかなか裁判の審判が下りず、今年の春になってやっと、責任なしの審判が降りたから、
どれほどの心痛だったかと思う。
だが、勿論、あの人の事だから初めのうちは、裁判の事が気になり、
私に分かるはずもないのに電話をかけてきては、
喧嘩になったりもした。

今は冷静にこう書ける自分が、とても不思議でもある。
小さなころから「だらしがない」「どうしてちゃんとできないの!」と罵倒し続け、
勉強しているふりさえすれば、何も言わなかったが、
テスト成績が悪い時は「私の娘なのに」と泣いて怒った母。
何度も殴られた。
小学生の時、殴られ、鼻血を出したことさえある。
娘だったのに・・・自分の見栄のためには、例え娘の顔に傷をつけても構わない人だった。
口答えをしない・・・・これが私の唯一の身を守る方法であり、
母と接する時の「生きるすべ」だった。

あちこちの教育相談所に連れて行かれ、
暗記してしまうくらい、ロールシャッハテストを受け、
積み木の組み合わせをさせられた。
すべて母のため。
勿論私の心はずたずたになった。
どうしてできないのか、自分でもわからない部分を責め続けられた。
後に私がADHD障害であることが分かった時、
「そんな風に産んでごめん」と吐き捨てるように母は言った。

7歳下に生まれた弟は心臓疾患を持って生まれ、
自然、私は放っておかれ、内心ほっとしたものの、
愛されない寂しさは、どこにも持って行きようもなく
何度、しられないよう湯船に浸かって声を殺し泣いただろう。
小学校に入った弟は、いつもトップクラスの成績。
父も母も優秀な弟に夢中になり、
私はますます一人が一番居心地の良い人間になってしまった。

そんな私を理解し、包み込んでくれた伯母の代わりに
大人になりパパが現れ結婚し、折角家を離れることができたのに、
結局、父の跡を継いでくれたパパが、
「実家の傍が良いだろう」と姑を引き取る時に、実家の近くに家を買った。
流石に孫はかわいかったのだろう、子供たちには、十分なことをしてくれた。
上の娘が成人式を迎える頃、難病で余命いくばくもなくなった父が、
「お前には本当にかわいそうなことをした」と
泣いて謝ってくれた事が、私の心の氷が解け始めた理由かもしれない。

最近は母と接しても、以前のような嫌悪感はなく、
「この人も、可哀想だったんだなぁ」と、優しい気持ちで接する事ができるようになった。
相変わらず弟の事を責めると、同じ自分が産んだ子供なのに、全力でかばうが(笑)
可哀想にその弟に「倒れたら、悪いが面倒はみれない」と言われていても・・・だ。
母の対して、普通に接することができるようになり、
歳を重ねるって、こういうように成るんだなぁと思った。

先日は、横浜に遊びに行く時、母を誘ってあげようと思い、
一緒に連れて行った。
少なくとも、ロッカーベビーにならず、捨てられることもなく、
ミルクを与えおむつを替えてもらった事は間違いなく、
心を満たしてもらう事はなかったが、おなかを満たしてもらったのは確かなことだ。
自分が親になった時、絶対に母のようにはなるまいと思ったが、
愛されなかった子供は、愛することがうまく出来ないのも確かだから、
母も、両親が厳しい教育者の家に生まれ、もしかすると愛されなかったのかもしれない。
そんな風に考えられるようになったことが、自分でも驚きだ。

母は今年79歳になった。
私に負けず劣らず波乱の人生だった。
母があちらの世界に行くまで、
もう少し、優しくしてあげられるようになったら良いのにと思う。
それができたら、きっと私自身も救われるのだろう。








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最終更新日  2013年07月10日 00時22分37秒
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