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東京は今日は夏のように暑くて晴天 昔から苦手だった 雨が降るとホッとした この歳になってもそれは変わらない。 この治らない難病になって、行きたいところにも行けないようになってから、余計、雨の日はホッとする。 歳をとると足腰が弱くなるから軽い運動しましょう...... 医者から「なるべく動かないでね」と言われてる人はどうしたら良いのだろう。 足の筋力が落ちて来た事は自覚している。 動かなきゃ行けない時、気絶しそうになりながら、歩く。 アルブミンが普通の人の半分も無い。 栄養が全く摂れていない体を、家の中でも、家事が出来ずに恨めしく思うのに、表に出ると余計怠くて辛い。 そんな時、雨音は優しい。 身体が濡れても余り気にならない。 何度も何故こんな病気になっちゃったんだろうって自分の人生を振り返って、何のバチが当たったのかな?って思ってしまう。 年々病気が重くなってきているのは自覚している。 病院も手の施しようが無いから、入院してもいつも栄養補給だけ。 とうに覚悟は出来ている。 雨が降るとホッとするし、身体が潤う感じが好き。 でもね良い事もたくさんある。 病院で知り合った仲間たち。 色々な病気がある事を目の当たりにした。 栄養が足りなくて歩けない動けないなんて、大した事じゃ無いなぁって思わせてくれるから、 いつも自分で出来ることは自分でする。 包帯巻いたり浮腫で傷がいった足のガーゼ取り替えたり。 みんな戦っている。 そんな時、大きな窓の外に雨粒が落ちていくのを見るのも、 下の通路を学生達が傘を差して歩くのも、 木々が生き生きとするのを見るのも、好き。 明日から東京は雨が続くそう ホッとする。
2019年06月26日
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ここ1年、美味しいお野菜を食べて居る。 .....と言うのも、メルカリのおかげだ。 え?メルカリでお野菜? と言われるのがほとんどの方の第一声(笑) そうなんです。 農家の方々が余ったお野菜を出していたり、その季節季節の新鮮で無農薬で「注文が入ってから畑から取ってきます」とか。 焼き芋を作りたくて小さな紅はるかを沢山購入して楽しんだ。 小さなのがほしくて頼んだら、バーミキュラに複数入る小さな紅はるかを用意して下さった。 安納芋とか色々試したが焼き芋には紅はるかが一番だった。これも30個近く入って1500円しなかった。 とろける美味しさを知った。 全部スーパーより新鮮で安い。 ブロッコリーの最盛期には、脇芽(セニョールと言います)をしょっちゅう頂いた。 ちっちゃなブロッコリーが付いて居る筋の全く無いアスパラガスそのもの。 知っていますか? ブロッコリーは上の部分よりこの茎の部分の方が栄養が有るって。 メルカリボックスという25✖️20✖️5センチの箱にびっちりなので絶対1キロ以上は入って居る。 もう、ちょいとレンチンしてマヨネーズをつけて食べたり、それこそアスパラのように肉巻きにしたりスープに入れたり万能で栄養たっぷりで畑から届くから新鮮その物で美味しい美味しい。 スーパーに流通させる程生産量が無いので、売っていないが出ると人気で次々売れていた。 夏には無農薬のレモンではちみつレモンを漬けた。八朔も10キロ大きな段ボールにぎっしり毎日食べたら、体調が良くなった。 そしてカボス!! 絞って毎日炭酸で飲んだ。 どれもこれも、2000円前後で新鮮!! 最近は淡路島から1500円で採りたて新玉葱をリピートした。 スーパーや八百屋では手に入らない新玉ねぎの葉はネギより柔らかくて美味しかった。 ただただ皮をむき、切り込みを入れレンチン。 ポン酢でも麺つゆでもトロトロでほっぺが落ちそう。 スーパーで売っていない、間引き人参と人参の葉っぱ。 小さな人参はあまーくてトロトロ 葉っぱはサラダに、刻んでスクランブルエッグに、柔らかくて美味。 乾燥させてパセリの様なふりかけに。 これがA4のビニール袋にはち切れんばかりに2つ入って800円!! 人参の葉っぱの栄養価もとても高い。 一度買うと毎日食べても一週間は十分楽しめる。 じゃがいもも北海道から届く。 大根葉もたっぷりで800円だった。 刻んで甘辛く佃煮風にすると、ご飯に合う合う。 原木椎茸の肉厚のステーキは、その香りに深呼吸してしまいそうだった。 今は青梅、なかなか手に入らない南高梅が農家から届く。 それから、生にんにくがこれほど美味しいものと知らなかった。 生だから皮剥きはスルスル剥けるし、チンするとホックホク。香りも乾燥したものとは違う。 チンしてお塩かけるだけで美味しい。 そして春は山菜。 勿論、葉物野菜のセットもあるが、冬に白菜3つ1000円で買ったら使いきれなくて困った。 お鍋は勿論、野菜スープに炒め物、暫く車の後部座席に置いていた(笑) メルカリのお陰で、本当に助かっています。 メルカリに登録して、お野菜ゲットして下さいね。結構取り引きコメントでわがまま聞いてもらっちゃってます。 玉ねぎの葉っぱを切らずに沢山欲しいのですが.....とか、5キロ出して居る方に、夫婦2人なので2キロ欲しいのですが、とか。 購入する前に質問すると私専用で出品してくれます。 送料はほとんど出品者持ちです。 皆さまも是非、新鮮でお得なお野菜手に入れてください。
2019年06月05日
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若葉が目に優しい季節 山菜ももう終わりそうだが、只今山菜に夢中。 つくしに始まり、ふきのとう、タラの芽、ワラビ、フキ、山椒、みず、一通り口にした。 ふきのとうはもタラの芽も天ぷらが美味しかったが、油物は持病のお陰で本当はちょっとしか口に出来ない。 ヒットはワラビ! 甘辛く煮るくらいしか知らなかったが、購入した方に教えて頂いた、スライスしたニンニクと炒めお醤油と胡麻油をちょっと仕上げに入れる料理が、それはそれは美味しく、もう何度か食卓に上がった。 フキはワカメと筍(これも姫竹を購入して皮剥きから下処理した)と一緒にお醤油と出汁だけの薄味で煮たら、美味!! 伽羅蕗を頑張って作ろうと今アク抜きをしている。 山菜は殆どアク抜きが必要だが、覚えて仕舞えばどうという事は無い。 ワラビは沸騰したお湯に重曹をいれて火を消し、少し温度が冷める間にワラビを洗いザブンと浸けて一晩放って置けば良い。翌朝真っ黒な灰汁が出ている。 フキは、まな板の上で塩でゴロゴロと回しながら産毛を取り、そのまま沸騰した鍋で五分煮て、好みの固さになったら冷水にあげて、水の色がしばらくすると変わるので、新しく水を入れ替えを繰り返し、アク抜き完了、後はゆっくり薄皮を剥いたら終了だが、伽羅蕗の場合はすぐにお醤油とお酒で煮れる。 山椒の実は沸騰したお湯で指で潰せるくらいの柔らかさになったらザルにあげるだけ。 冷凍保存すれば一年中食べられる。 チリメン山椒や、お醤油漬け、しお漬け、煮物の味のアクセントに。勿論お醤油で煮て佃煮も。 みずは初めて食べたが、癖もなく、抜群の栄養価でシャキシャキして美味しかった。 買って来れば伽羅蕗もチリメン山椒も佃煮も食べられるが、自分で作れば無添加で値段も安い。 好みの味で食べられるのだ。 もうそろそろ、山菜の季節は終わる。 動けない毎日の中で、山菜は楽しい時間をくれた。 オマケに美味しいとくれば、いう事は無いよね。
2019年06月03日
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愛しきものの命を自分の命にかえても良いと思っている。 孫が3人出来て、子育ては夢中のうちに過ぎたが、少し心の距離を置いた孫がこれ程愛しく大切に思えるものだと思い知った。 今回の綿密に計画された川崎の殺傷事件で、多分自分の子供に向かった犯人を阻止しようと亡くなった外交官や重傷を負われた女性のお気持ちは痛いほど分かる。 私の愛しき者は小学校2年生と年長さんと3歳。 次々頸部や顔を切りつけられた子供達と同じかそう変わらない年頃だ。 そして犯人は卑怯にも罪を償う事なく自殺した。 お父様お母様そしておばあちゃんおじいちゃんご家族のお気持ちを慮るには余りにも心が痛く、地団駄踏むような悔しさだ。 何より、現場に居た子供達のこれから起きるであろうPTSD。 心の傷はちょっとやそっとじゃ拭えやしない。 自らも切りつけられながら駅まで逃げグレーの制服が血だらけの女の子は、驚いた大人達に言ったそうだ「私より大きな怪我をした子が沢山いるの。大人の人も刺された。助けて下さい」 泣きました。 子供達は正しく育っているのに、全く自己中な大人が何をしてくれたんだと。 子供達を守るにはどうしたら良いのだろう 背後から無言ですごいスピードで切りつけて来た犯人からどう守ったら良いのだろう。 脳裏に可愛い3人の孫の笑顔が浮かんでは思う。 いったい、どう守ったら良いのだろう....... 理不尽な凶行から、今後どう子供達を守ったら良いのだろう。
2019年05月29日
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敢えてアップするほどの事じゃ無いけど、風邪引いた。 入院ばかりしているが、実は風邪はあまり引かない。 自分が虚弱体質だからいつも、うがい手洗いは欠かさないし、だいたいあまり人混みには行かないから引かない。 久々にひいたら思い切り風邪だった(笑) たんの絡む咳は続けざまに出るし、鼻水はズーズー、喉は痛いし熱も出た。 まぁ寝込むほどの熱じゃ無いから座って出来ることはする。 お医者さんに行ってお薬出して貰ったけれど、4日経っても全然良くならず、薬が無くなったので貰いに行ったら、診察室で思わず咳が出て、 先生「酷いね〜」って、で、薬が変わった。 お陰様で翌日は薬が効いて少し咳も少なくなった。 栄養が足りて居ないし、免疫力も落ちているから気をつけて居たのになぁ。 早く治ってください、ほんと厄介ですこの身体。
2019年05月17日
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令和が始まった。 昭和が終わって平成が始まった時と違い、 ご健康なままで平成天皇が退位され、始まった次の時代。 ただただ祝賀ムードが日本を包んだ。 思った。 これ良いんじゃないの、これからも。 皆が幸せな思いで新しい年号を迎え、 願うは平成天皇の末長いご健康。 まるで年が明けた様な、お祝いムードって考えてみれば当たり前だよね、一年の始まりじゃなく、30年の平成が終わり、令和が始まったのだから。 日本人だけの文化 優雅な文化 美しい文化 誇りを持って良いと思う。 儀式が多くて皇族も大変だけれど、伝統に乗っ取った色々な儀式には、それぞれ深い意味があり、 幸いなことにその儀式の意味を分かりやすく解説してくれる文献が残っているから、 ふーんって説明を聞きながら、天皇陛下は大変だなぁと。 まぁそれがお仕事だから、当たり前だけど。 幸せな事に私は三重県に住んでいたので、三種の神器である鏡のある伊勢神宮にも、剣のある熱田神宮にも何度も行った事があるし、勾玉のある明治神宮にも行けた。 伊勢神宮のあの凛とした木立は、日本人が肌で感じる歴史の重みだろう。 おめでたい令和元年。 来年は、世界的なイベントのオリンピックも有る。 このまま平和で穏やかな日々が続きます様にと 美しい新皇后の笑顔を目にするたび願わずにはいられない。
2019年05月04日
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平成もあと残すところ4日になった。 なんだか寂しいね。 昭和生まれだが、人生の半分昭和で半分平成だ。 昭和時代は生まれて青春を過ごし、恋愛もして結婚、子供もまだ小さかったので夢中で子育てして居た。 そして平成。 子供達も成長して、昭和と違う子供との接し方が必要になり、考えたり悩んだり。 親の看護や介護と自分ではどうしようもない事が次々起き、親を見送り自分も歳を取った。 子供達もそれぞれ家庭を持ち幸せに暮らしている。 うーん考えると重みの比重は平成かな? 平成も色々有ったが良い時代だったと思う。 やはり、戦争と言う愚かな物が無かった事は大きいだろう。 その代わり天変地異による災害が多かったように思う、平和だった故に目立ったのかも知れない。 天皇制には賛否両論あると思うが、平成天皇ご夫妻程、国民に愛された皇室は居なかったように思う。 令和になってからも、どうかどうか、お元気で居て欲しい。 令和、どんな時代になるのだろう。 益々、地震や異常気象の時代が来るだろう。 そして来年は東京オリンピック 前回も新橋の小学校から聖火リレーに先生引率で旗振りに行った。 2度もオリンピックを開催地で見ることができる幸せに感謝。 令和始まって直ぐのイベントが成功する様祈っている。 平成、さようなら、そしてありがとう!
2019年04月27日
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4月23日 入院が長引き、やっと退院出来て4日目。ここ数日でついつい動いてしまい、今日は朝からぼーっとしています(笑) 主治医は私がじっとして居ないのをご存知なので、退院の時、釘を刺されました。 「いーい、動かないでね。Kさんは頑張りすぎるから、じっとして居てね」 無理ってもんです(爆) ただ流石に昨日は、必要な物が全部なくなって居て吉祥寺の100均や東急まで買い物に行き歩けなくなり、喫茶店で1時間休んで帰宅しました。反省してます(笑)
2019年04月26日
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4月19日やっと退院した 入院記録を更新 3月1日からだから丁度50日だ。 難病で治療法がないが、症状は浮腫みと栄養不足だから、ただただ栄養補給に終始する。 栄養が小腸から流れ出てしまうから、アルブミン数値、総蛋白数値、カルシウム数値、総コレステロール数値などなど、栄養の数値は全部「L」。 「H」なのは、利尿剤により体内の水分が少なくなるので脱水気味になってる数値だけ。 退院の目安はいつもアルブミン数値が2.0以上である事、だるさが軽減されている事、浮腫みが無い事。 今回は怠さがなかなか無くならず、毎日1500cc以上カテーテルで入れているので、浮腫みは多少は残っているが、点滴が無くなれば取れると言うのは、経験上分かっている。 ナースのKちゃんが「Kさんもう住んでるみたいだね」とお茶を入れてくれながら笑う。 事実、根が生えてしまった気分だった。 杏の花が開きだした頃に入院、眼下の大学の体育館で杏並木が満開の中、卒業式を見て、桜が咲き始め入学式を見て、とうとう桜吹雪が終わる頃やーっと退院。 は〜もういいわって感じです。
2019年04月26日
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4月10日の下書きから 母が生きていれば今日は母の85回目の誕生日だ 誕生日ひと月前が自分の葬儀になると思っても居なかっただろう 母の死因は急性大動脈解離 一瞬で召されたのだ 生きてる者から見たら、1番理想的な亡くなり方だろう 85年も生きていれば、色々なことがあるのは当たり前だが、 人生最後の方で、夫が興した会社が倒産の憂き目に合い全て失い散々だったけれど、 最後は可愛い可愛い息子と暮らし、病気もせず、海軍でロシアに抑留された父の遺族年金を国から頂いていたし、 終わり良ければ全て良しだったという事だろう 生きていれば、毎年この日前後のパパのお休みに、三人で食事に行っていたのだが 今年は私が入院中なので、どうなっていたか今では分からない。 だいたい、今年は電話で話しただけで、会って居ない。 いつもバレンタインディにチョコをパパに持ってくる母が今年は風邪とかで来なかったし、 私の3月の誕生日も私が入院してしまったので会って居ない。 昔から近所すぎて、反対に頻繁に会うこともなかったから こんな物だろうと思っていた 母と約束して果たせなかった事2つ 母の家と私の家は、市役所に近い。 1キロに及ぶ桜並木は今年も綺麗だったそうだが、 この市役所にある社員食堂が美味しくてお値打ちだそうで、 市民に開放している。 市役所だから平日しか行けないわけで、 母といつか行こうねと言っていた事 もう1つは、ちょっと離れているが、車で3〜40分の所にキューピーの工場兼ミュージアムがあり、平日だけ見学出来る。 ミュージアムショップも有り、可愛いキューピーグッズやお菓子を売っており ここへ一緒に行こうと思っていたが 私の体調がイマイチなのと母の風邪がなかなか治らず行けず仕舞いになった。 亡くなって早初月忌も過ぎ、そろそろ四十九日になろうとしているが 1月9日父の誕生日と4月10日母の誕生日はずっと忘れないだろう。
2019年04月14日
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3月10日 東京という所は人が多い 当然亡くなる人の数も多い訳で 結局亡くなって5日目にやっと焼き場の順番が回ってきてこの日の葬儀になった。 前日から外泊許可をもらい帰宅し 必要な物を買ったり洗濯をしたり動けないなりに用事を済ませ 翌朝、喪服に着替え葬儀社へ 祭壇も綺麗に飾り付けてあり、感謝です。 棺を開けてもらい、母に化粧を施そうと 下地でほおのシミを隠しファンデーションをスポンジで塗った 目にも何かしてあげたかったが、固くつむった目はどうしようもなかった。 最後に唇に紅をと思ったのだが、 硬直して荒れた唇は、綿棒で紅をのせようとしてもなかなかのらず、娘が私の紅筆使ってと言ってくれたが、 綿棒でさえ困難な状態なのに紅筆では到底紅を差す事は無理だと諦めた これ以上動けないので取り敢えず一番邪魔にならない場所に居ようと一番奥の一番前に座った。 暫く、遠くから来てくれた従兄弟達と話をしていた。 部屋が狭いので、参列くださった方全員が座れず一旦私以外の方が部屋から出され 親族のみが中に入り参列者が空いた場所に座って葬儀が始まった。 滞りなく葬儀が終わり出棺の時 花が好きだった母は皆が手向けてくれた花と 私の孫の「大バーバへ」と書かれた色鮮やかな可愛い絵に埋もれ、参列者の男性によって棺に蓋がされようとしていた。 ゆっくり厳かに蓋が降りてきたその時、思わず吹き出しそうになった。 母への思いで涙してくださる方がいる中、 申し訳なく下を向くのが精一杯だった。 私の横にいた孫の2歳のやんちゃ坊主が 目前に降りてきた蓋を両手で力一杯棺に押し付けチラっと私を見たのだ。 皆さんがそうっと蓋をしている中 力一杯両手を突っ張って上に体重をかけ蓋をしようとしたその可愛い行為に 彼としてはゆっくり降りてくる蓋に我慢ならずに出た行為に 可笑しいやら愛しいやら。 昨年、遊びに来てくれた時、ゆうに10キロは超えていた彼を抱っこしたがり、 私が支え抱っこした母も多分あちらで吹き出している事だろう。 そこから立派な霊園に向かい棺が運ばれ、私は用意された車椅子に乗って中へ 最後にずっと膝の上にあった写真が設置された この写真、父が余命いくばくもないと分かってから、 お肉が大好きだった父と我が家で行きつけだったステーキ屋さんの二階の個室で 何枚も撮った写真のうちの一枚で父も母もとても良い顔をしていたので、父の葬儀の時もここから遺影にしてもらった写真だ。 夫婦で同じ写真からとは感慨深い。 荼毘に付されるのに、やはり私は涙一滴出なかった。 炉に入っていく母に不思議な事に何の感情も湧かなかった。 ただ、バイバイお母さんと呟いていた。 今時は本当に短い時間にお骨になるのにはびっくりだったが、 遠くから来てくれた孫達とゆっくり過ごせた。 色鉛筆で似顔絵を描いてもらったり、 楽しいお喋りがもうできる歳になったんだなぁと嬉しかった。 呼ばれて下に降りると真っ白なお骨になった母が運ばれて来た。 係りの方が驚くほど、しっかりしたお骨だった。 通常割れてしまう部分もしっかり残っており、母が長患いの末に逝ったのでは無く、すこぶる健康体だった証拠だった。 小学生の孫が興味を持って聞いてくるのが嬉しかった。 何の先入観なく、どこの骨?と一つ一つのお骨を一番前で見ては質問してきた。 多分彼女が人生で初めて目にする、人骨で有り、理科室にある骸骨はすでに探究心のある子なので、見て知っているのだろう何度か、 あれが頭の骨?と聞いてきた。 彼女にとっての頭の骨は、骸骨だったのだろう。 きちんと教えてやらなければと、こちらもわかりやすく説明してやった。 こんなチャンスはなかなか無い。生きた生物学だ。 びっくりしたのは、父の時も親類の時も、部位のお骨を少しずつ入れていくのだが、こちらは台の上に有る粉も綺麗に小さなブラシで集めて入れていた事。 土地柄でこんなにも違うのかと驚いた。 骨上げが終わり、上の娘一家が翌日のため最寄りの駅から帰っていった。 本当に遠くからありがとうね。 そして私達は元の場所に行き、精進落としのお料理を頂きながら、久しぶりにに会えた従姉妹達と不謹慎だが楽しい時間を過ごした。 きっと母がくれた時間だろう。 そして解散後、弟の家に行き後片付け 午後9時が消灯なのでそれまでに何とか済ませ着替えと荷物を取りに一旦帰宅、 今夜はこちら泊まりの名古屋の次女家族と待ち合わせ、久しぶりにゆっくり話をしてギリギリセーフで病院に帰った。 正に怒涛の様な1日だったが、会いたくて会いたくてなかなか会えなかった孫達に会えた。 これから入院が長引くが、頑張ろうと思わせてもらった。 母も可愛い曽孫達が来てくれて、きっと父と喜んでいるだろう やっとダブルのお棺に入りたいと言っていたお父さんに会えたね どうか安らかに さようならお母さん
2019年04月13日
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3月6日の事 この日は私の誕生日 母はこの前日私に会いに病院に来るはずだったそうだ 弟が起きた時、炬燵に突っ伏していたと言う。 前にもそんな事があったのでまたかと、弟が声を掛けたが返答が無く、意識もない状態だった 外出許可をもらい、既に葬儀社に安置されている母に会いに行った 霊安室だから寒くて当たり前だが 今まで空調の効いた部屋にずっといたので酷く寒い 係りの方が棺の蓋をずらしてくれた。 棺に寝かされた母は、もう母の顔では無かった。 固く閉じられた目やまつ毛は元気だった頃のそれとは別の物。 右頬の大きな丸いシミは初めて目にするものだった そうっとほほに触れたらぞっとする冷たさだった 何故だか、どうしてだか分からないが、 悲しみも感じず、涙も出なかった。 もうとうに屍になった母を見て、 母の全てが既にそこには無いのが分かった 魂も想いも何もかも天に登って行ったとしか思えなかった。 父の時には感じなかった感覚。 本当にそこにあるのは、ただただ「シカバネ、亡き骸」だと感じた 考えれば自己中心の塊のような人だったから、 さっさと父や姉夫婦や伯母の居るあちらに逝ったのだろうと思ったら 悲しい思いより全く母らしいとほっとした思いが勝ってしまった 葬儀社の方が温かい美味しいお茶を入れてきてくださった。 入院中だと知ってらっしゃるので私を気遣い 寒いでしょう、大丈夫ですか?と優しい言葉をかけて下さった。 しばらくお話しして上の事務所に上がった。 死亡診断書やら、葬儀の時系列のコピーを頂き 細々とした事を決めその後、一週間ぶりに帰宅した。 少しゆっくりして夕食を摂り病院へ帰り車椅子で病室へ 流石に疲れました
2019年04月12日
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3月5日入院5日目の午前中 殆ど連絡を取って居ない弟からスマホに留守電が入っていた。 何だろうと聞いてみると母が倒れていて意識が無いので病院に救急車で搬送中との事 慌てて電話室に行き連絡すると、いつものように仏頂面が見えるような声で 「今、病院にいるけど、1時23分、死亡確認しましたって医者が言ってる」 と。 悲しみも驚きも無かった。 有ったのは、サァ大変だ....の思いだけだった。 どうしよう、こっちは入院中だし、弟は全く頼りにならない..... 父の葬儀も、社葬にし主人が喪主で取り仕切った。 そうだ!パパなら父の葬儀も姑の葬儀も舅の葬儀も経験済みだ そう思って居たら主人から着信 出勤前、ギリギリ電車に乗る前、弟から同じように留守電があり、今、駅近くで弟と会っていると。 ホッとした。 パパが居れば何とか対処してくれるだろう。 一昨年、母に頼まれ弟に苦言を呈した際の暴言から、絶縁状態だった。 でも結局の所、弟は主人を頼るしか無く、 以前から母が亡くなった際、どうなるんだろうと案じて居たが、 やはり、こうなったかと改めて思った。 入院中の身では何も出来ないが、 取り敢えず、主治医に外出許可を申請したが 外出できる状態でない事は百も承知。 亡くなった母親に会いたいと言う思いは、 夕方許可証になってベッドに届いた。 明日、会いに行こう
2019年04月11日
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3月1日ベッドの空きを待って今年初の入院 足がいつもよりパンパンに浮腫み、胸水も有り、 かなりやばい状態だった 勿論、杖無しでは短い距離も歩けず、 病院内の移動は車椅子。 入院既に10回を数えるが、病棟から出る事が禁止になったのは初めてだった いつものように、いつもの点滴 この病気は治療法がないので対処だけの入院だ 栄養が取れないから、栄養の点滴に、利尿剤の点滴、浮腫みから皮膚がパンパンになり裂けて体液が流れ落ちてる状態なので、感染防止の抗生物質の点滴。 だが私の場合、腕からの点滴では追いつかないので、 いつも入院したその日に、軽動脈からカテーテルの挿入処置が行われ、痛い思いをする。 だか、一度入れて仕舞えば、痛みは当日だけでもう慣れっこだ。 トイレも洗面所も、4人部屋にあるから不自由は無いが、 いつもコインランドリーに行くのに行けない不自由さは流石に応えた。 何故なら、強烈な利尿剤を点滴しているので、 たまに間に合わず、下着やパジャマを汚してしまい、洗濯出来ないのは、死活問題だったから、 かなりのストレスになった。 最初の頃は、レントゲンやらCT検査があるので、車椅子移動する時コインランドリーに寄って貰ったり出来たが、 結局の所、日曜しか休めない主人を待って、やって貰うしか無く、いつも夕方にしかやって来ず、面会時間ギリギリか間に合わず、よく喧嘩になった。 後は一日中同じ体勢で居ると浮腫みが酷くなるので 入院途中から窓際に移り立ち上がって、満開の杏並木を上から愛でたりの1日だった。 ナースさんも顔馴染みの方も多く、お名前も忘れていないので、 体の不調以外は、まぁいつも通りの入院生活が始まった訳ですな
2019年04月10日
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これは2010年の下書きからのアップです いつぞや、パパと作り始めたハーブ畑用の花壇がまだ出来ない。 今日は、良いお天気なので、パパが続きをし始めた。 明日、ゴルフに行くので、私から文句がでないように・・かな(笑) なかなか大変のようですが、私には手だしさせない。 何だか、楽しそうだなあ。
2019年04月10日
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これは下書きにあった2010年の日記です 荷物の片づけをしていた。 クリスマス用のデコレーションの箱が出てきた。 サンタクロースのリアルなお人形だとか、リース。 その中から、小さな毛糸のクリスマスツリーが出てきた。 思わず、心の底からこみあげ、 玄関のたたきの上で、泣いた。 このツリー、亡くなった従姉妹が作ってくれたものだった。 毛糸でセーターやカーディガンを器用に編む従姉妹だった。 癌で余命いくばくも無いと分かって、さっさと自分でホスピスを見つけて来て、本当に潔くそこで一生を終えた。 誰にも知らせず、私達にも、高齢の母親である伯母にさえ内緒の入院だった 突然、下の従姉妹から亡くなったと電話を貰い、 私はその場で従姉妹には申し訳ないほど泣いた。 Y姉ちゃんらしいと、天晴れだっだと、とても私には真似はできないと思った。 子供の頃から、姉の様で、ジブリのチケットを買いに一緒に自転車でコンビニに行ってくれ、 帰りに、そうそうお父さん(父)と子供の頃に住んでたとこ見にいこう..と寄り道をした時 既に65歳を超えていたのにスイスイと自転車を漕いでいたのを思い出す。 その従姉妹が、私が来るのを待って作って置いてくれた毛糸で編んだクリスマスツリー🎄 こう言うの好きでしょ? とニコニコしながら渡してくれた その時の優しい顔が浮かび、どうしようもなく悲しく寂しかった。 ふわふわの毛糸のクリスマスツリー 大切にしていこう
2019年04月10日
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これは下書きにあった2010年の日記です 今日、こちらにいる従姉妹が、我が家を訪ねて来た。 この家が出来上がって、初めての来訪者。 用事は、先日、私が亡くなった従姉妹から預かってきた遺品の引き渡し。 切ない用事だった。 丁度、パパもいて、話が弾んだ。 私の父は、11人兄弟の末っ子だから、 「従姉妹、従兄弟」と呼べる人が、ものすごく沢山いるが、 皆、年上。 この従姉妹は、ずっと幼稚園の先生をしていて、 園長さんまでした人。 で、私の知り合いの方達の方が、この従姉妹は有名人なのだ。 従姉妹の話が出て、従姉妹だよ・・・・と言うだけで、 「え?従姉妹さんなの?」と改めて聞かれる。 良い評判ばかりなので、 何だか、いつもその時、くすぐったい気持になる。 ちょっと、鼻が高い(笑) 彼女は私と趣味がとてもよく似ている。 好きなものが同じなのだ。 プロ級のパッチワークの趣味は、本当にすごい。 同じ従兄弟のお嫁さんが、キャシー中島の弟子をしていて、 名古屋にあるキャシー中島のパッチワークのお店の店長をしているが、 そっちは、ハワイアンキルトで、 彼女は、ごく普通のミシンキルト。 それも、先日、プロが使う、刺繍の凄い機械ミシンを購入し、 本当に美しいキルトができて、うらやましいのだ。 親戚の間で、パッチワークをライフワークにしている人が意外と多い。 彼女は毎年、大作を制作する。 写真の整理も私のように、パンフレットや、その国のお金を張り付けたりする。 で、私が恵比寿の三越で見つけた 色々なものを入れられるストックブックを見せたら、気に入り、 一冊、余分があったので、いつでも買えるから・・・と差し上げたら、 とても喜んでくれた。 美味しいフレバーティを飲みながらのおしゃべりは楽しいが、 亡くなった従姉妹の話は、切ないね。 同じ気持ちを共有できるから、 嬉しい。 夕方、従姉妹は「また、遊びに来るね」と言い残し、帰って行った。 初めてのお客様。 何だか、嬉しかった。
2019年04月10日
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桜って、皆、「ここの桜が好きなのよ」って場所をお持ちかと思います。 私は四日市に住んでいる頃には、一級河川の海蔵川の堤防の桜が大好きでした。 ここは、河川敷が広いので、皆、お花見にバーベキューをしたり、夜店が並んだり、夜桜用にぼんぼりが並んだり、それはそれは、圧巻の桜でした。 桜を庭に植えたくて植木屋さんに言ったら 「奥さん、そりゃ世話が大変ですから、おやめなさい」と止められました。 栄養、病気防止薬剤の散布、害虫駆除、毎春、私達がきれいな桜を見られるのは、お世話をしてくださる方がいらっしゃるから・・・・と、思います。毎回、その方々に感謝を込め、お花見をさせてもらいます。 だから、今年も、武蔵野市役所の桜のお世話くださってる方に、改めて「綺麗な花を咲かせてくださって、ありがとうございます」とお伝えしたいです。 感謝、感謝ですm(__)m まぁ今年は入院中なので、見られそうも無いのが本当に残念です。 平成最後の桜なのになぁ 市役所の周りの桜並木です 桜のトンネル! 圧巻でしょ? 1キロに渡ってこの状態です。
2019年04月02日
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久しぶりの書き込みです色々なことがありましたがいずれ書き込もうと思って居ます。 では 今日のを書いていきます。 あと1時間余りで新元号が発表になる。 窓の外、早々に咲いた桜がまるで平成との別れを惜しむ様に、風が吹くたび花吹雪が舞う 昭和が終わる時、1月7日に昭和天皇が崩御された。 64年の年が明け、松の内が明けたその日に崩御なさったとの報道に、嗚呼、もう既に意識が無く、生命維持装置で命を繋ぎ、国民のために松の内を避けたのだなぁとご冥福を祈った。 そして「平成」の発表。 実はその一連の日々、我が家も忘れられない日々を送って居た。 パパが癖になってしまった腕の脱臼の為手術をしたのだが、ひと月入院していた間に起きた事だった。 病院へ行くたびベッド居らず、探すと決まって喫煙室で入院仲間たちと居た。 「テレビは崩御の特番と、平成の特番ばかりで、観るものが無くて暇で仕方がない」とぼやいて居たのが我が家の平成の始まりだった(笑) そして今回新元号が発表になる日 今度は私が入院中 ただ今回は「崩御」と言う悲しい出来事の後では無いのが、とても嬉しい。 30年続いた平成は、天変地異の災害が多かったが、昭和や明治のように愚かな戦争が無かった。 そして今日、崩御と言う悲しい出来事の後では無く新しい元号が発表になるお祝いムード、本当に嬉しいです
2019年04月01日
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今から40年も前の話 私は友人と北陸一周の旅をした時の事 社会人を三年してもう一度専門学校に入って学生をしてた頃。 東尋坊に着いた時は土砂降りで、時間も夕方だったので観光客は私達二人だけ、雨に濡れながら東尋坊の展望台の土産やさんに走り込む前、ふと見ると、岩場に女性が立って居ました。 自殺の名所と言うこともあり、友達と2人、とても心配になり、お店の方に告げたのですが、 その後どうなったのかこちらもずぶ濡れで、洋服を乾かすのに往生し、そのままになりました。 今でもあの時をふと思い出し、無事に保護できたか心の隅っこに小さく残っています。 自分が不治の病、難病になって入退院を繰り返す毎日の中、普通に歩け、普通に行きたいところに行ける事が、どれほどの幸せか、皆さんに知ってもらいたい。 生きているだけで幸せだと、知ってもらいたい。 辛いことは神様からの、この世に生を受けた者の宿題なんです。 「神様は耐えれる者に、より辛い宿題を出すんだよ」 って、会社を閉め何もかも無くし、何億と言う負債を抱えた時、友人が言ってくれました。 何とか落ち着いてやれやれって思った1年後、この病気が判明した時、難病の親の看病、重なった認知症の親の介護、二人を送り出し5年後、経営してた会社の倒産、自分の難病と、どうして私ばかりとへこんだけど、この言葉が支えてくれました。 明日にもまた入院になるだろうと言う状態ですが、 頑張ろうって思えます。 家族に迷惑掛けてごめんねって手を合わせながら。 私にとって宝物の言葉です。 生きてるだけで、良いんです その時が来たらいつか皆平等に、生まれて来た世界に帰るのですから。 何百年も生きられないのですから。 その時まで、生きられるだけで幸せなのです。
2018年01月22日
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最近、介護に関する事件が、ますます増えたように思えてならない。年々、お年寄りの数が増えて行く中、施設不足が顕著になってきたからだろう。国は軍備にお金を掛ける前に、介護にお金、掛けてほしいと、つくづく思う。たった6年ではあるが、私も経験した。私がここで何か書くことで、おひとりでも、心の負担が、ほんの少しでも無くなりますようにと、願いを込め、書きたい。介護してらっしゃる方、どうか、頑張りすぎないでください。介護のために、離職され、ぎりぎりの生活をしてらっしゃる方、親を思う気持ちと、自分を無くしてしまうんじゃないかと言う気持ちのジレンマで、苦しまないでください。デイサービスの時間に、福祉課に相談してください。私の場合は特殊かもしれないが、少しでも参考になれば・・・と書いてみよう。姑は糖尿病から2度目の脳梗塞で、一人暮らしをしていた関西の病院から、すぐに来て貰えないかと電話があり、近くに住んでいた弟夫婦が駆け付け、認知症が発覚、夫婦共働き子供3人の子育て中の弟夫婦は即座に「介護は無理」と。実はその前から、鬱病を患っていた私は、医師から「認知症の介護は無理」と診断書を携えて、病院に駆け付けた。が、長男であったし、診断書は出せずに、結局姑を引き取ることになった。勿論、自分でトイレ、入浴、食事ができる間は、弟の処にも世話になりながら、拠点は、我が家だった。何年も経って、姑が逝ってから解った事だが、公共の介護施設には「要介護4」以上じゃないと、まず入れない。だが、自分でトイレも食事も出来た姑は「要介護2」だった。片っ端から申し込みをしたが、入れるわけがなかった。いつも思う。寝たきりの頭のしっかりした方と、認知症の「要介護度」を一緒に認定するのは、本当にまずいと。今ご自宅でぎりぎりの介護をなさってらっしゃる方。どうか、まず市役所の福祉課に相談してください。必ず、ほんの少しかもしれませんが、救いになります。姑の場合、私の医師からの診断症があり、「介護鬱」になりつつあり、私が入院しなくてはならない状態になり、市役所の介護課に相談に行き増床予定のグループホームに入れてもらえた。その時の介護度は「要介護2」。それまでは、家で私が見ていたが、徘徊が始まり、目を離すと、歩けるから家から出ていなくなり、大騒ぎで探したら、何と隣りの団地まで歩いていき、ご親切なお宅に保護されていることが解り、警察からの連絡で保護できたり、家の中からカギはかけられるが、表からは鍵はかけられないと、本当に困った。勿論、糖尿病性網膜症などの通院の時、病院の中でいなくなってしまうから、目を離せず、会計の時が一番困った。足も太って杖を使わなくてはならなかったから、駐車場に車を撮りに行く間、誰かに頼まなくてはいけなかった。心も体もへとへとになったが、福祉課に相談し、出来る限りのサービスを利用、姑がいない間に、昼寝、入浴、買い物を済ませる生活だった。その上、鬱病だから、買い物に行きたくても、出られない。本当に毎日毎日が過ぎて行くのに精いっぱい。子供達は、下が中学生、上が高校生だったが、毎日のお弁当もまともに作ってやれず、可哀想な思いをさせた。介護は、突然にやってきます。こちらの都合は全く入る余地はない。何か計画してあっても、全部、諦めなければならない。翌日から戦いが始まる。実の親、夫の親・・・・大切な人達だから、余計に辛い。3年目に入ろうとしていた頃グループホームにお世話してもらえる事になり、反対に、苦しんだ。「なぜ自分で自宅で介護している方が大勢いるのに、自分には出来ないんだろう・・・」毎日毎日鬱がひどくなった。その時、介護施設の方に仰って頂いた言葉が忘れられない。「Kさん、一緒にいて、介護で自分を追い詰め、相手に恨みが生まれるより、こうしてプロの私達に託し、会う時、優しい気持ちで接することができたら、その方が数倍良いのですよ。決して、薄情なのでも冷たいのでもないですよ」と。この言葉がどれほど私を救ったのか、介護されてる方ならお分かりになるでしょう。そうなんですよ。弱音吐いて良いんです。「助けて~」って声をあげて良いんです。「福祉」はそのためにあるんですから。姑の認知症は、6年経ち、もう、トイレも自室のごみ箱にしてしまうまでに。そして、時々、介護施設から「すみませんが、ひと月でかまいませんので、精神科に入院させていただけますか?」と言われるように。1年に一度、ひと月、精神科の施錠の出来る施設に入院させた。ある日行くと、両腕を拘束する服を着せられていて、尋ねたら、「食堂の椅子を振り上げ、ガラスを割ろうとしたものですから」ショックだった。だが、こういうことの繰り返しだった。そしてとうとう「もう、ここで看るのは、無理になったので、施設を移ってもらえませんか」と最後通告。翌日から、旦那は仕事を社員に任せ、私は父の看護も家事も放って施設探し。そしてひと月後、やっと少し遠くだが、温泉のある施設が「良いですよ。明日、連れてきてください」と。良かったね~と疲れ果てていた私達は、帰りの車の中、ほっとしたが、その夜、4回目の脳梗塞を起こし、グループホームを出ることなく、亡くなった。介護の費用は、幸い、本人が長い事、公の保育園で働いてくれていたので、先に亡くなった夫の遺族者年金とともに、月に13万円あったので、プラス3~5万円で済んだ。当時は会社経営をしていたので、金銭的には困ることはなかったが。今、金銭的に困ってらっしゃる方は、生活保護を受けてください。決して恥ずかしい事じゃありません。介護のために働けない、生活保護を受けるのは、当然なことだと思います。そのために税金があり、国の予算があるんです。そして、心の言葉を吐き出す場所を作ってください。私はここがそうでした。姑の介護の最中、実父が骨髄異形性症候群で、余命半年と宣告され、姑の介護と、実父の看護で、自分の生活はめちゃくちゃになり、吐き出さなければ、鬱がどんどんひどくなり、私が先に逝ってしまいそうな状況でした。そして、出会ったのが、「嵐」君。「頑張れ頑張れ」と言う彼らの歌にどれほど救われたでしょう。姑の介護中に父が亡くなり、会社経営していたので、後処理が大変だったが、通夜からひと月法要の間、義弟夫婦が看てくれ、私は毎日嵐の歌の中にいた。真面目な方は、介護を頑張ってしまいます。でも、姑を介護する中で、本当に多くの福祉に携わる若い人達に出会った。そして救われた。彼らはとても優しい。介護なさってらっしゃる方。一人で苦しまないでください。行政の方、「要介護4」以上じゃなければ施設に入れない状況を、打破してください。姑が亡くなってから、幾つもの施設から「空きました」と電話が有った。非常に事務的。亡くなったかどうかより、「要介護4」になったから、電話をよこす。どれだけ、腹が立ったことか。最初から「要介護4以上じゃなければ当分入れません」と言って欲しかった。何か解ることがあれば、何でもお答えします。何でも質問してください。くれぐれも頑張りすぎないでください。くれぐれも、「自分」も大切にしてあげてください。
2015年05月16日
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過ぎたが、24日は32回目の結婚記念日だった。
2015年03月26日
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とうとう50代最後の日を迎えた。昨日は、50代に有った色々をかいつまんで書いた。今日、本当に最後の日を迎え、懐かしい友達からお電話を頂いた。長い事住んだ四日市で、上の娘の幼稚園の入園式の日、声を掛けてくださった方。それも「先輩」と(笑)振り返ると、美しい品の良い女性が、人懐っこい目で私を見ていた。申し訳ないが、覚えが無かった。私は人のお顔と名前をなかなか覚えられない。これはもう、病気だ。すると、彼女から名乗ってくださり、この総合学園の高校の時の後輩だと解った。某大手企業トップのお嬢さんでウィキペデアにも、彼女のお父様の名前がある、従兄弟は国会議員と言う方。私は普通に「後輩」と思ってお付き合い始めたものだから、別のお友達に教えられ、彼女が本当に普通の感覚の持ち主で、私以上に不条理なことに腹を立てるような面白い方だったので、反対に驚いてしまった。「今日は少し贅沢してお蕎麦食べよう」と言う私に、「何贅沢言ってんの!!、マックで良い」と言うような子(笑)それから25年、子供達の幼稚園、小学校、中高6年制と一緒に過ごし、下の子供がお互い卒業するまで、途中からは一緒にコーラス部に所属し、毎週、お茶や食事会をしてきた大切な大切な友達だった。あんな事がなければ、今も、月一回の食事会をしていただろう。そう言えば、今日は木曜日。仲間7人のうち医者の奥さんが二人いて、木曜がお休みなので、いつも食事会をしていた日だ。先日おひとりの方からメールを頂き、お手紙を出していたので、私の身体を心配してくださってのお電話だった。50代最後の日に、20年以上お付き合いのあった彼女からお電話を頂き、久々に長電話をしてしまったのは、私にとって、とても幸せな時間だった。友達って、本当にありがたいね。ありがとう、Tちゃん。昨日は、愚痴っちゃったけど、宅配がくるたび、ドアを開けると、出来あがっていく家達が見え、辛い事も多いけれど、今が幸せなら、良いんじゃないかなぁって思う。元々、マイナス思考だから、鬱病にもなるし、こうして吐き出したくなっちゃう。それは、小さな頃から「期待しない」方が傷つかないし、「悪い方」に考えていれば、「やっぱり」って安心できる環境にあったからそうなってしまったのだが、相変わらずマイナス思考は直せないが、穏やかに過ごすことができている。50代最後の日も、あと5時間あまり、大変な50代だったけれど、幸せな50代でもあったのだと思う。どうあろうと、自分が望んだとおりの設計の家に3年も住むことができ、自然の恵みのふきのとうの天ぷらやきゃらぶきを作り、毎年たわわに実った梅で梅酒を作って楽しみ晩秋にはやはり、たわわに実った美味しい富有柿を楽しめた。パパが2週間かけて作ったハーブ園に沢山のハーブを植え、新鮮なハーブ茶を楽しめた。お湯が出る表の水道で、ジュリアンを看取るまで毎日清潔に介護してやることができた。娘の結婚前、記念に・・と子供達と加賀屋に泊って、北陸を旅行できたし、銀婚式には、子供達がプレゼントしてくれた下呂温泉に家族で行き、地酒の古い工場で、美味しいお酒も飲めたし、何より、子供達が好きな人と結婚でき、愛しい愛しい孫達にも会えた。何だ、私、幸せじゃない?(笑)十代の10年も色々あるけれど、やっぱり50代の10年て、大きいよね。私の周りの人々に、感謝でいっぱいです。辛い事も多かったけれど、とりあえず、今日は幸せです。一日一日、還暦になっても大切に生きていきたいなぁ。神様の宿題は、もういらないけどね(笑)
2015年03月05日
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50代最後の日々が過ぎて行く。ここにブログを書き始めた40代から、もう、10年以上が経ち、まだ当時は「ブログ」ってものが浸透していなくて楽天さんも「日記」と銘打ってたから。父が病気になり、姑が認知症になり、吐き出す場所がここだけで、随分癒されたものだ。そして、波乱万丈の50代が始まった。たしか、50代になる時の私は、本当にジタバタしたと思う。「自分はいったい、何をしてきたのだろう」「自分に何があるのだろう」そして50歳になった日、「昨日と今日の違いだけじゃない?」と思った。そして10年。ブログをやっていて良かったと思ったのは、人は10年も経つと、小さな日々の事は忘れ、ただ、時間が過ぎてしまうけれど、読み返すことにより、その時自分が何をし、何を思っていたのか知ることが出来た。「何をやっていたんだろう」って思わなくて済んだ(笑)50代。その始まりは父の葬儀後3カ月から始まった。そしてあの、認知症の姑との戦いの日々と突然の終わり。ほっとしたら鬱病が酷くなり、パパが家の建て直しを決め、1年近くの設計、相談の後、借家に移り半年、念願のアンティークの似合う、豪邸(笑)への引っ越し。3年の穏やかな日々の中、上の娘がお嫁に行き、親になり、後は、下の娘を嫁に出し、静かな夫婦の日々が始まるはずだった。新しい家も住み慣れてきて、孫が遊びに来るのを楽しみに・・・・と思っていた。しかし、神様はそうはさせてはくれなかった。40年、父の代から経営していた会社が倒産。家も、土地も、マンションも実家も、何もかも無くし、「死ぬ時は生まれ育った東京で」と漠然と思っていたことが、こんな形だったが、叶った。ただし、何もかも無くしてから。そして、50代最後の日々、ここでこうして何とか暮らしていたのに、今度は、最後の最後に、10万人に一人の難病になった。原発性リンパ節肥大によるたんぱく質漏出性胃腸症。ひと月の検査入院の後判明したのは、小腸から、たんぱく質が漏れてしまう難病。治療法はまだない。次々起きる症状に対処していくしかない。毎月通院して、血液検査の数値に一喜一憂する日々。これが、私の50代。まあ、なんて10年なんだろうと思う。悪いことばかりじゃ勿論無い。上の娘が二人の可愛い孫を作ってくれ、下の娘が結婚をした。実母はボケもせず、健康で80歳を過ぎてもスタスタ歩く。多分これだけでも、幸せな事なんだろう。でも、やはりどうしてなんだろうなぁって思う。どうしてこう、私の上には色々な事が起きちゃうんだろうなぁって。あまりに「波乱万丈」過ぎやしない?認知症のお姑さんの介護をしてらっしゃる方は多い。会社が倒産し、何もかも失った方も多い。難病になった方も多い。でも、全部あった方は、そう多くは無いだろう。それが、この50代に全部来ちゃったから、来られたこっちは、たまったものじゃない、本当に大変だった。その50代も、あと少しで終わる。還暦。多分、会社も倒産せず、あの豪邸に住んでいたら、おおっぴらにお祝いをしただろうなぁと思う。パパのお陰で、現在は無事に生活はできている。感謝m(__)m私は、鬱病が治らず、お国から障害者年金を頂くようになった。きっともっともっと辛い思いをなさってらっしゃる方もいるだろうけれど、先の事を思うと、怖くて死にたくなるから、考えないようにしている。せめて鬱病だけでも治りますようにと思うが、元々のADHD障害から来ているから、治るはずもないのに、副作用で15年飲まなかった抗鬱剤も、私にしては一大決心をし、服用し始めた。少しでも色々なことができるようにと願いながら。なかなか神様は、楽にはさせてくれそうもない。最近、ちょっと辛い事がある。うちのアパートの前の広い畑が宅地になり、あまたあるハウスメーカーのうち、よりによってあの豪邸を建てた会社が、10棟以上の建設をしている。これも神様の意地悪か。毎日その音がうるさい(笑)毎日、毎日、家が出来上がっていく様子を、あの頃見に行ったその匂いが同じなのだ。当たり前だが、木の匂い。思い出したくないのに、思い出してしまう。「忘れろ、俺はもう忘れたぞ」といつも言うパパさえ、雨の日に帰宅し、玄関のカギをあけていると、「この匂いなぁ・・・」と苦笑する。まあ、これも私の運命なのだろうけれどね。まだ、時々、わぁっと泣いてしまう事がある。あのお日様一杯の吹き抜けのリビングや、アンティーク家具のダイニング。庭に埋葬した猫のミルキーやオールドイングリッシュシープドックのジュリアンの事。この季節、スーパーに行くと、ふきのとうが売られ、見るたび、庭に次々芽吹いたふきのとうの事、家の中まで良い香りがしてきた、群生していた香り水仙の事を思い出す。駐車場の隅に植えた赤いモクレンは大きくなったかなぁ、モミジは今年も綺麗に色付いたかなぁ、斜面に植えたつる薔薇は、咲いたかなぁ、パパが創ってくれた煉瓦のハーブ畑には、今年もミントは生えてきたかなぁ。もう、考えても時間は戻らないし、乗り越えなくちゃ、頑張ってるパパに申し訳ないと思うんだけど、50代で一番辛かった。最後だから、言っても良いよね。還暦迎えたら、前向きに生きていきたいから。ここに思いを捨ててしまいたいから。50代最後に、愚痴っちゃったけど(笑)
2015年03月04日
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やっとちゃんと起き上がり、旅行の洗濯物を洗濯することができた。でもまだ、消化の良い物しか食べられないし、食べたくない。朝、パンとスクランブルエッグを食べ、お昼にお粥と梅干し、卵焼きを食べ、夜は、買ってきたカニ雑炊を食べたが、胃がまた小さくなっちゃったのか、小どんぶりに半分しか入らなかった。下痢って、本当に体力を奪う。利尿剤を飲んでいるから、余計、水分は取らなくてはならなくて、一日で、ポカリの大きなボトルが空っぽになった。元々、この病気のお陰で無理はできないが、少し動くと、少し休憩の一日。パパの食事だけは、造らなくちゃと、頑張って作った。お迎えも、一昨日からハンドルにぶら下がりながらも行った。生まれつき身体が弱いから、回復も遅い。本当に損だなぁとつくづく思うし、だからこそ、せめてパパに迷惑をこれ以上掛けたくないと思う。折角、楽しい4日間を過ごしてきたのだから、良い思い出のままにしたい。頑張るぞぃ
2014年06月29日
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嘔吐は、今朝になりもっと酷くなり、下痢も、回数は増え、もう、水分しか出ないのに、トイレに駆けこんだ。熱も、38度近くになり、これは絶対まずいと思ったが、起き上がって医者に行く元気もない。で、仕方なく、救急車を要請。丁度パパが休みだったので助かった。後はのちほど
2014年06月25日
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翌日、昨日の嘔吐はあの「生かき」かなぁと思いつつ、ちょっとずつ動いて、留守中の堪った洗濯物を洗濯したりできた。まあ、この分なら大丈夫でしょう・・・・・と思っていたら、夜から、嘔吐、下痢。は~またやっちゃった?わが身の弱さに、辟易。薬をいつもより多く飲み、明日お医者さんに行こうと一日、横になっていた。パパに申し訳ないなぁと思う物の、起き上がれなかった。
2014年06月24日
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集合は午後だったので、DESTINOに最後に行こうということになり、皆でタクシーに乗り、DESTINOに向かった。朝、オムレツを食べたばかりだったので、お友達とシェアすることにし、初日から我慢していた生牡蠣を食べることにした。東京便と大阪便は30分違いだったので、割とゆっくりランチを頂けました。後はのちほど
2014年06月23日
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昨日は、帰りが夜中になったし、朝、ゆっくり起き、お友達と最後の方だったが、下のレストランに行った。お昼前、今日は私のスケジュールでお友達を案内?行動することが行く前から決めていたので、まず、黄さんに相談に行った。歯とはのちほど
2014年06月22日
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台湾は、暑いです。ホテルの中にいるとそうでもないが、表はさすがに亜熱帯。暑い。朝、ホテルで食事を終えて集合し、バスに乗り込んだ。最後だったので、いつもお世話になった黄さんの方に乗りたかったが、違う方のバスに乗ることになった。後はのちほど
2014年06月21日
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今回のツアーは、午前中に出発の、夜便帰国とベストスケジュール。最後だし、少し早目に行こうと吉祥寺の駅前からのリムジンパスも間に合う時間より一つ早い時間に乗った。続きはのちほど
2014年06月20日
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今回のイベントでの決まりは「ズボン着用のこと」これが、私の腹痛、嘔吐の原因の一つであることは、間違いない。プレゼントも用意した。着ていく洋服も、夏に行くことが多かったので、ぬかりはない。あとは、「ズボン」続きはのちほど
2014年06月19日
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20日から、また台湾に行く。しかし、今回で、台湾でのジョセフのイベントは、最後にしようと決心した。続きはのちほどm(__)m
2014年06月18日
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これは2014年3月31日の日記です 日記を書きながら、 「笑っていいとも」グランドフィナーレを見ている。 さっき、お買いものに行ったら、 いつものスーパーが、レジで長蛇の列。 ははぁーん,明日からの増税のせいだな・・と思った。 「笑っていいとも」は、なぜか、最初の放送から見ていた。 考えてみれば、学生や社会人をしている人は、 お昼のこの1時間、見れない訳で、 それが見れていたのは・・・・と思い あ、そうか。 今年結婚32年目を迎えたってことは、 結婚準備のため、うちにいた頃から始まったと気がついた。 観ていたが忘れていたが、 キラボシのごとく、今、芸能界の中心になっている芸人さん達が 皆、この番組から売れてきている。 そして、さんまたけしの「オレ達ひょうきん族」につながっている訳なのだが。 当時のフジTVのディレクター達、放送作家達は、 亡くなった方もいるが、今や重役さんだ。 まだ若かった私達夫婦は「オレ達ひょうきん族」が、それはそれは楽しみで、 毎回、TVにかじりついて、観ていた。 さんまも、たけしも、そりゃ勢いがあったものだ。 さんまは、私と同じ歳。 そう言えば、昭和30年生まれの方が本当に多い(小堺君も島田伸助も亡くなった勘三郎も確か30年だった) そして私は毎日「いいとも」を見て、過ごした。 偶然、スタジオアルタ前で、先日お友達と食事前に待ち合わせした。 今や新宿東口前のポピュラーな待ち合わせ場所となった。 32年、まるで、結婚する前から、結婚して31年、 私達と一緒だなぁと感慨深い物がある。 途中から、子育ても終わり、ニュースが気になりだし、 芸人さん達のわぁわぁ言うのにもうるささを感じ、 いつの間にか観なくなっていたが、 ギネスにも認定された32年生放送、御苦労さまでした。 そして、増税。 明日からは3パーセント上がるが、 忘れてはいけないのは、そのうち10パーセントになることだ。 そうもう大きな物を買わないので、 買いに走る事もしなかった。 お洋服も以前のように、何万もするものは買えないし、 そこの3パーセントのため、 人ごみに疲れるのが嫌なのが本音かな? 例えば1万円で300円の違い。 買いに走ったら、必ず疲れてお茶するに違いないし、 返ってそれ以上の出費になるものね(爆) スーパーで見ていたら、かご一杯に、小さなパック飲料を買って行く 小さな子どもさんを連れた若いご夫婦がいたが、 「ママ頑張ってるなぁ」と感心したのは、正直な感想(笑) 若いご夫婦には、3パーセントで買いに走る元気も良い物です。 嬉しいのは、増税前に皆が買いに走るので、 商品がいつもより安かったこと。 でも、商魂たくましいお店は、多分、明日からも変わらず お値打ちな商品を提供してくれるに違いない。 期待してます大手スーパー様。 いよいよ明日からは4月。 頑張ろうっと(*^_^*)
2014年03月31日
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ここ数日、毎晩、フィギアスケートを楽しんだ。 ソチオリンピックは、昼夜、生活が逆転してしまうほど見たが、 久しぶりの素晴らしい物を見せていただいた気がする。 初日の男子ショートプログラムで、多分彼にとって不本意な結果になった羽生君が、 フリー演技で見事に逆転し、金メダルを手にしたのも、 今回の大会で引退を発表した鈴木明子さんの、本当に優雅な演技と笑顔も、 真央ちゃんのオリンピックの演技より、少し失敗はあったが、 金メダルを獲得した演技も素晴らしかった。 うーん、これは名古屋近郊の方には多少の事はあるかとは思うが、 実は、我が家は女子フィギア選手と、意外と偶然のご縁が多い。 たとえば、最初のフィギアのスターであった伊藤みどりさんは、私の大学の後輩で、 ・・・・ということは、下の娘夫婦の先輩。 そして、真央ちゃんが、中京大中京高校在籍の頃は、 中京の大学院を出て臨床心理士になった上の娘が、 最初の勤務先になった時期と重なる。 そして、今は中京大学の後輩でもある。 もう一つ、まあ、フィギア選手とは関係がないが、 実は創立何十周年だったか忘れたが、 パパがその記念のアルバムを大学から依頼され作ったのが、 デザイナー時代の仕事。 何度も会社から大学へ取材しに行った。 まさかその大学の学生になるとは、娘が生まれたばかりだった頃だったので思いもしなかったが。 そして何より、村上佳菜子ちゃんも、鈴木明子さんも、名古屋市長が仰る「名古屋のお嬢さんたち」だ。 上の娘が生まれた時、「名古屋っ子」と言う冊子をいただいたのを思い出す(笑) だから実に勝手な話だが(笑)、ソチの時も、もう本当にTVにかじりついて応援をしたし、 今回も、手に汗にぎって食事もしないで観た。 特に真央ちゃんが、本当に世界中の人に人気があるのは、 彼女の演技だけじゃなく、 勿論、アスリートとしての努力が認められている事もだが、 その笑顔にあると思う。 彼女の笑顔は、奈良広隆寺の弥勒菩薩のように感じられてならない。 まるで、慈悲深い弥勒菩薩のような、 彼女の内面から出る美しさにあると思えて仕方ないのは、私だけだろうか。 今日のエキシビジョンは、ソチの物と同じだったが、 スーパーマリオを演じた、外国選手には頭が下がった。 こういう柔軟さが、日本人選手にもほしいかな? 「楽しむ」ことに慣れない、真面目な日本人だから無理かもしれないが、 こういう柔軟さがあったら、もっともっと日本のフィギアスケートは、 高みに行けると思うのだか。 さてさて、真央ちゃんは、この先どうするのだろう。 選手を続けてほしいのは一番の希望だが、 彼女なら、世界中、何をしてもやって行けるだろうし、 世界中の人が応援してくれるだろう。 今シーズンは終了。 日本の冬季アスリートの皆さま、お疲れ様でした。
2014年03月30日
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今日は、私の誕生日。 もう、最後の50代になった。 昔で言えば、数えで「還暦」になったということだ。 若い時は「還暦」と聞くと、 もう、人生の終盤、まとめの歳と思っていた。 赤いちゃんちゃんこをまとい、皆からお祝いされてる写真を何回も観たが、 皆、おじいちゃん、おばあちゃんだった。 しかし、今の「還暦」はまだまだこれからだ・・・と知ったのは、 自分がその歳になってからだ。 4月に80歳を迎える母も、 たったったったと歩くし、どこへでも行く。 ただ、自分は、母のように長生きは出来ないだろうと思っている。 事実生まれつき、身体が弱い。 以前はいつもカバンに「セイロガン」「ビオフェルミン」頭痛薬を持ち歩いていたし、 今も、病院との関係は切れない。 その上、食も細い。 今日朝から食べた物と言えば、 ブランチに 一斤八枚切りを1枚、 卵1個 ウィンナー1本、 コーンスープカップ1杯 そして夕食は、 豚肉の薄切りのピカタ3枚 サニーレタス1枚ほどとトマト半分のサラダ、 お茶碗半分の白米。 これ以上は、無理・・・・というか、 これ以上食べたら、おなかを壊してしまう。 当然、栄養は摂れていないから、サプリメントが必要。 決して健康とは言えない。 人間食べられてこその健康だというのは、ちゃんと理解しているから、 長生きはできないなぁと思う。 ただ、去年ひと月近く検査入院をして、 多分自分は、胃腸に疾患を抱えているだろうとおもっていたが、 胃腸の中は、とても綺麗で我ながら驚いた。 腸カメラは1時間近くかかるが、 一目たりとも見逃すまいとずっとモニターを見ていたら、 先生が終わった後、笑って仰った。 「最初から最後まで、モニター観れた患者さん、Kさんが初めてです」(笑) そのくらい、私には不安があったから、 綺麗な自分の胃腸を見て、大変驚いたのも事実だ。 そして今までしょっちゅう、吐き気、腹痛、腸からの腰痛があったのは、 すべて、メンタル的な物が、胃腸にきていたと思い知った。 お陰で、今までの人生ひと月に一度、腹痛から発熱、頭痛を起こし、 寝込んでいたことが、本当は胃腸が原因ではないと知り 不思議なことに、それが解ってから、一度も寝込んでいない。 還暦を前に、まだまだ頑張れるんだなぁと実感でき 思わぬ病気が判明はしたが、感謝の「検査入院」だった。 幾つまで生きられるかなぁと、この年になると、人は思う。 自分の終焉が見え隠れし始めた頃、 反対に、「生きる」ことを実感する。 2年前起きた出来事も、神様の宿題だと思うし、 年末に起きた火事騒ぎも神様の宿題だろう。 私には、あと幾つこんな宿題が待っているのかと思うと、そら恐ろしい。 だが、昔のように、「死んでしまおう」とも思わなくなった。 自ら「死んで」しまわなくとも、 そう遠くない未来に必ず訪れる事だから、 もう一回、何か頑張ろう、 頑張る時間はまだ残っているなぁと、今日、改めて思った。 行きたいと言った横浜のドルフィンに食事に連れて行ってくれたパパと、 狭いながらも楽しい我が家、仲良く、一緒に歳を重ねていきたいし、 頑張っているパパのために、美味しい食事も作ってあげたい。 まあ、考えてみれば、私ができることってそう大した事ではないけれど、 もうちょっと頑張ってみようと思った誕生日だったのは、間違いはない。 さあて、何をしようかなぁ~
2014年03月06日
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退院してふた月経った今日は、退院後の初めてのT教授の診察。 すべての検査結果が出ている頃だった。 私の大切な大切な数少ない読者の方へ。 楽天ブログは、「前月」までしかさかのぼって書けません。 「ここ数カ月あったこと」も、12月中に書きたかったのですが、 書けずに月が変わってしまったので、こういう形で書きましたが、 今日は2月28日。2月最終日。 私のブログを読んでくださる数少ない読者の方にお願いします。 月が変わってまた前前月が書けなくなってしまいます。 そこで考えました。 少しでも書いておけば、編集はできますので、 後から書き足しますので、尻切れトンボの文章で申し訳ありませんが、 書き足すまでこのままでお許しくださいm(__)m
2014年01月22日
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やれやれ、これで何とか新居のめども立ったし、あとは、契約と引っ越し・・・・。うつ病患者にとって、引っ越しほど大変な物はない。ADHD障害者の私にとって、整理して梱包することは、本当に至難の技だった。しかし、2月中には引っ越しを済ませなければ、新しいマンションの家賃ももったいないし。。。と覚悟を始めていた。そんな毎日の中、今日、大家さんがやってきた。あとは、契約と引っ越しの日にちを決めて・・・・とすっかり心を切り替え、引っ越しに向け、準備をし始めていた。だが大家さんから一転、退去お願い撤回の文書が、手渡された。冗談じゃない。ここまで事を進めてくるのに、どれほどのエネルギーが要ったと思っているのか。。。。「保証人」に悩み、周りの人にもいやな思いをさせてしまった。どれほど、男としてのプライドが高いパパを追い詰め、傷ついた日々を過ごしたのか解っていらっしゃるのだろうか・・・。同じように、年齢的に借りるのが難しいお年の2階の方が、お知らせを持ってきた大家さんに大きな声で噛みついていた。お気持ちは痛いほど解った。多分、社宅として使っていた、消火器で消火しようとしてらした方が、火事後すぐに退出され、その会社から「立ち退き料」を請求され、その金額にびっくりされたのだろうと、今は思う。だが、冗談じゃないと本当に腹が立った。このひと月のバタバタは何だったのか。このひと月、借りられない恐怖に夜も眠れず、夜が明ける毎日を過ごした気持ちは、どうしてくれるのか。「まだまだ、ここで頑張りなさいって神様の意思だと思えよ」と言うパパだったが、毎日毎日、不動産会社に足を運び、M君と次々観に行き、やっと、本当にやっと気持ちがマンションに行っていた私は、今度は諦めるのが大変だった。今のお風呂や洗面所のように設備は良くない。だが、「南向きなんだから」「駅まで歩いていけるんだから」「少し広く成るんだから」と、マイナス面を打ち消し、マンションに移る決心を固めていった日々はどうしてくれるのか・・・と。成るようにしかならない。今はそう思える。しかし、メンタル的に弱い私は、寝込んだ。パパのように、いつも前向きに物を考えられたら、どんなに良いかと思う。まあ、だからこそ、こういう私だからこそ、うつ病になるんだけどね。ここ数カ月、本当に気持ちがグチャグチャになることばかり起きた。神様は、まだまだ私に試練を与えている。多分、一人なら乗り越えられなかっただろう。パパと二人、お互いが大切な存在であることを改めて実感させられた数か月だった。二人で、まだまだ乗り越えなくちゃいけないことがあるかもしれないね。頑張らないと・・・・。
2014年01月21日
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火事や退出のお願い以来、打ちのめされていた私達にも良いことがあった。結婚して30年、毎年用意したおせち料理も用意せず、年末の大掃除も、どうせ取り壊してしまうから・・・と全くせず、私の大切な大切な数少ない読者の方へ。楽天ブログは、「前月」までしかさかのぼって書けません。「ここ数カ月あったこと」も、12月中に書きたかったのですが、書けずに月が変わってしまったので、こういう形で書きましたが、今日は2月28日。2月最終日。私のブログを読んでくださる数少ない読者の方にお願いします。月が変わってまた前前月が書けなくなってしまいます。そこで考えました。少しでも書いておけば、編集はできますので、後から書き足しますので、尻切れトンボの文章で申し訳ありませんが、書き足すまでこのままでお許しくださいm(__)m
2014年01月08日
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年末から今年に入って、本当にバタバタの毎日だったが、2日から3日にかけ、下の娘夫婦がやってきた。前日2日は、元旦の夜から名古屋を出て、2日は朝から彼女が大好きなディズニーランドに夜遅くまでいて、三鷹の駅前、そう、私達が火事の夜に宿泊したホテルに来た。夜遅かったが、パパも帰っていたので、ホテルに娘夫婦を訪ねた。今日は私は娘夫婦と遊びに行く約束だったが、パパはお仕事だったので、会うのはこの時間だけ。ホテルのロビーのソファで、深夜だったが、パパが買ってきたたこ焼きを、「おなかすいて、コンビニに何か買いに行こうと思ってたの」とパクパク口にたこ焼きをほおりこむ姿は、新妻になっても昔と変わらぬ、可愛い娘だった。1時間ほど話をして、私たちは、ホテルを後にした。翌日、深夜まで話をしていたので、お昼前、娘夫婦を迎えに行き、荷物を家で預かり、100円バスに乗り、吉祥寺の駅まで行き、前々から、食べさせてやりたいと予約していた新大久保のお店に向かった。ここは、コリアンタウン。平日だったが、韓流ファンの年配の方や、お正月休みの学生さんや家族連れで、ごった返していた。予約したお店は、厚切りの豚肉や野菜を鉄板で焼く「サムギョプサル」と言うお料理で有名。以前は予約していなかったので、並ぶのが嫌いなパパに拒否され、入れずにいたお店。相変わらずの人気で、予約していないお客さんが、お店の前で沢山待っていた。通された席は、奥の席で、おいしいサムギョプサルいただきました。若い二人は、もう、食べる食べる。「腹も身のうち」と言いたくなるくらい、気持ちよく平らげてくれた。表に出て、少し歩き、いつも行く韓国スーパーに。彼女たちも楽しそうに商品を見ていたので、お邪魔しないよう(笑)私も、ここにきたらいつも買う韓国海苔や、かりんのジャム、新しい商品なのだろう、韓国海苔を細かくした袋入り、以前から気になっていた「でんでん虫のパック」など購入。そのスーパーも、凄い人だった。吉祥寺に戻り、以前パパと入った、日本で初めてお食事系のフレンチトーストを出すお店に連れて行った。どうかな?と思ったが、二人とも大喜び。だんな様のほうが、甘いものがだめだったらどうしよう・・・と心配したが、好きだという。二人で、ベリーとアイスクリームがたっぷり乗った物、イチゴとアイスクリームが乗った物を頼んでいたが、私は、見るだけで満足(笑)クランベリージュースをいただきました。夕方、我が家に戻り、車に荷物やお土産を積み、帰って行った。久しぶりに、楽しい時間をすごした。アパート探しや、引越しのことを忘れ、娘たちの幸せそうな顔を見ているだけで、親ってこんなに、癒され、幸せを感じるものなんだなぁと、改めて、子供にもらった「幸福」を想った。安全運転でね。また、遊びにおいで。
2014年01月03日
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大家さんから、「退出のお願い」の文書が、 ポストに投函されたのは、火事から2週間後のことだった。 結局、私達は、「2日連休」が今後取れそうもないと、 新幹線で彦根の孫に会いに行った。 臨月に入っていた娘は、大きなおなかをして、 もうすぐ2歳になる孫とのひと時は、本当に火事の事を忘れさせてくれ、 癒しの時間だった。 帰宅してからの私は、 「俺は身動き取れないから、お前頼むな」とパパに言われ、 毎晩、パソコンで明け方まで空き室探しに追われた。 私達に部屋を貸してくれるところがあるのだろうか。 そして、意を決し、駅前の不動産会社に出かけた。 偶然だったが、そこは、まだ大きな家に住んでいた頃、 2DKに住み変わらなくてなならないと言う意味も解らず、 自己破産する前に抑えた、今住んでいる部屋を斡旋してくれた会社の支店で、 その時の担当者が、何と今は店長になっているお店だった。 ・・・と言うことで、私達の立場を隠す必要も無く、 事情をわかって斡旋をしていただこうと、 不在だった店長に代わり、Mさんが本当に一生懸命に部屋を探してくださった。 部屋を借りたことがある方はご存じだろうけれど、 借りるに当たり、「連帯保証人」がいる。 われわれの事は、金融関係にはすでにブラックリストに載っているから、 クレジットやローンは使えない。 だが、最近は大手の住宅会社が入っているマンションやアパートが多く、 そこは、クレジットを持っていないと、 私達がいくら気に入っても、借りる事が出来なかった。 「保証人」 誰も、そんなものには成りたくない。 我が家自身、「保証人」になり他人の借金をかぶり、 その父親は責任を感じパパに遺書を残し、亡くなった。 警察から遺書を渡された時、お葬式の時、どれほど切なかったことか。 その後、大変な思いをして返した。 勿論、私達とて人様に迷惑をかけるつもりはないが、 誰もが皆、そう思い「保証人」を頼むのだ。 それを、誰に頼めというのだろう。 本当に不本意であったが、義弟に恥を忍んで頼んだ。 だが、思いやりある言葉で、自分たちで頑張るよう長いメールが届いた。 従姉妹も「良いよ保証人になるよ」と言ってくれたが、 「印鑑証明」が要ると聞き、これ以上迷惑はかけられないと思った。 この時の私達は、今更ながら、会社が倒産した事実、 自己破産者になる・・・と言う意味を思い知らされた。 放漫経営からの倒産ではない。 40年下請けをしてきて、どんな親会社の要求にも応じてきた。 24時間で、造りこんでくれと頼まれれば、徹夜し、日本の60パーセントに当たる自販機に、 部品を供給し続けてきた会社だった。 それがある日突然、親会社からの子会社切りにあったのだ。 でも、今はもう、そんなことは過去のことであり、 事実私達は、8部屋もあった広い家も広い庭も土地もマンションも何もかもなくし、 このアパート住まいの生活をしているのだ。 そして今、そこも追い出されようとしている。 八方ふさがりとはこのことだと思った。 そんな時だった。 担当のM君が「保証会社でも構わない物件を探しましょう」 と提案してくれた。 このアパートもそうして捜したが、まだ自己破産する前だったから、 保証会社が利用出来たのだと思っていた。 「大丈夫、利用できますよ」 その言葉がどれほど嬉しかったことか。 捜したマンション、アパートが、ことごとく「要保証人」で、 もう、心が折れてしまいそうになっていたひと月後、 「ここなら、僕、よく知っていますし、大家さんも良いかたなので」 と提案してくれたのは、古い5階建てマンションの1階、 家賃は少し高くなるが、今より1部屋多く、 何より、従姉妹の家から歩いて10分もかからず、駅からもバスで5分ほどの場所だった。 今のように、お風呂の追いだきはできない。 洗面所とは名ばかりで、大昔のマンションだから、 水道と小さなボールが付いているだけ、 トイレにはコンセントがないから、洗浄付き便座をどうやってつけたら良いものやら。 だが、収納は十分だし、南向きでお日様が入る。 広さも今よりは広い。 今の私達には、十分な住まいだった。 駐車場もM君が大家さんに交渉してくれ、少し安く借りられるようになった。 その晩から、やっとゆっくり眠ることができるようになった。 一つのことに夢中になる私は、 この間、ろくに家事も出来ずにいた。 気がつけば、例年以上の寒さの中、 食事の買い物と病院に行くのが精いっぱいの毎日だった。 やれやれ、本当にそんな気持ちだった。 年が明け、遊びにおいで・・・・と言ってくれていた従姉妹のお宅にも やっと遊びに行けた。 何だか、トンネルを抜けた気持だった。 あとは、契約とお引っ越し。 引っ越し・・・・大変だ。 どこから手をつけたら良いのか… 頑張ろう。 その時は、大変だが、頑張ろうと思っていた。 その後もまた、ひと波乱待っているとも知らず。
2014年01月02日
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12月に入ってから、9日10日11日と、三谷温泉で開かれたジョセフの忘年会に参加した。 入院が長引いたらキャンセルだなぁと思っていたから、 とてもうれしかった。 綺麗な海と温泉。 パパには申し訳ないが、命の洗濯。 ジョセフも退役してすぐ来日してくれてから、こんなに間隔短くまた来日して、 迷と接してくれ、ご機嫌だった。 二日続けて罰ゲームは私達のお部屋、おまけに 毎回出るたった一人のラッキーガールも私達のお部屋から出た。 念願の2枚目の腕組ツーショットは、面白被り物をし、 お部屋仲間全員でジョセフを思い切り脅かし楽しませたご褒美に ジョセフのガハハ笑いとともに「ありがとー」と言ってもらえ、、 私の番には、ジョセフ自ら腕を差し出して待っていてくれ、超幸せツーショットだった。 そして今回は、愛知県。 イベントが終わって解散後、チビ夫婦がホテルに迎えに来てくれ、 一緒に行きたかった蒲郡ホテルに行き、 1杯500円の紅茶を飲んでアンティークなホテルを満喫し、 近くのラグーナ蒲郡で開催されていたジブリ展を一緒に一日かけて回わり、 新鮮な海鮮丼を3人で楽しんだり、夜は出かけると言う旦那様の運転で娘の家に行き、 久しぶりに娘と二人で夕食を食べて、新幹線の駅まで送ってもらい、 とても幸せな時間を過ごすことができた。 この日のために、お国から頂いている障害者年金を 月々の生活費に充てる他に、少しずつ貯めておいた甲斐があった。 病気も大病にならず、ジョセフにも会え、娘夫婦にも会え、幸せな数日を過ごせたが、 その数日あとに来る、大事件を私はまだ知らなかった。 ジョセフやお友達に会えた楽しい時間がまだ覚めやらない15日。 夜8時過ぎ、編み物をしていた。 鼻が人より効くと自負している私に、プラスチックの焦げる匂いがしてきた。 「あ、また食洗器の熱線にプラスチックの物を落としちゃったかな?」と立って台所に行った。 開けてみたが、どうもそうじゃないらしい。 ・・・・・と表の非常ベルが鳴っているのに気がついた。 何? とドアを開け、表に出た途端、隣りの男の子3人のママが洗い髪のまま飛び出して来て 「Kさん、火事、火事っ」と叫んだ。 え?っと見回すと同時に、男の人が2軒先のドアを開けた。 瞬間、真黒い煙がもうもうと噴き出し上がった。 「消防署に電話したっ?」と聞く私に彼女は「まだっ」と。 慌てて取って返し、119番しながら「落ち着いて、落ち着いて」とつぶやいた。 「119番です、火事ですか?急病人ですか?」 「火事です」 「住所をお願いします」 心の中でまだ「落ち着いて、落ち着いて」と言いながら住所を言った。 「貴方は火元の方ですか?」 「いいえ、二軒となりのKと申します」 「はい、分かりました。すぐに避難してください」 電話を終え、そのまま表に出ると、煙はさっきより凄い勢いで噴き出し、 隣りのママは「庭から見たら、火の海だった」と震えて、子供達と駐車場にいた。 さっきの男の人はどうやら、火元の向こうの部屋の方らしく、 消火器を持ちながら 「こんなの役に立たないよ、すぐに終わっちまう」と。 おろおろして、自分が着の身着のまま、携帯電話も持たず、飛び出した事に気が付き、 取りに戻ろうとした時、到着していた近くの交番の警官に止められた。 消防車はまだ来ていないが、遠くにサイレンの音がした。 「危ないです!爆発するかもしれませんので、住民の方はそこの公園に避難してください」と叫んでいて、 その警官がきてすぐに、黄色のテープが張られ、もう近づけない状態だった。 近所の人も大勢集まりだし、洗い髪だったママにも、 着の身着のままで、恐怖と寒さで震える私にも、誰かがコートを掛けてくださった。 ほどなくして何台もの消防車が到着し、 消防士の方が、一軒一軒アパートの部屋に残っている人がいないか見て回っていた。 パパに連絡しなくちゃ・・・・でも携帯ないし。。。と思っていたら、 ご近所の方が貸してくださった。 パパに連絡「無事だな?」と聞かれ「大丈夫」と答えるのが精いっぱい。 それぞれ号数と名前を呼ばれ、確認作業が終わるころには、 凄い数の野次馬でいっぱいになった。 走り回る消防士の怒号の中、1時間ほどすると、 「今からコートと、貴重品など取りに入ってもらいます」と警察官が一人ずつ付いて、 家の中にはいれるようにしてくれた。 やっとコートと、携帯電話を持って、表に出た。 ご近所の方が、「うちで休んでください」と仰ってくださり、 遠慮したが、寒さでの身体の震えは隠せなかった。 同じアパートの方数人でお邪魔し、暖かいお茶をごちそうになった。 暫くして、その家の旦那様が、「鎮火したようですよ」と知らせにきてくださって、 失礼して元の公園に戻った。 新たに救急車が来たが、見たこともないドーム状の物が積まれていた。 人工呼吸されていた火元のSさんは、大丈夫だっただろうか。 時間が早かったからアパートにいた住民の皆さんは逃げだせたが、 これが夜中だったら・・・・と思うと、本当にぞっとした。 大家さんが「今夜は現場検証もありますし、みなさんホテルに泊ってください」 とのことで、その場でホテルに皆で電話。 時間はもう、12時近かった。 後で聞いた話だが、火元のSさんは、亡くなった。 そして、上の階、2部屋も類焼。 パパが帰宅し、二人でホテルに着いたのが1時過ぎだったので、 翌日、起きたのが遅く知らなかったが、ニュースにもなっていたそうだ。 ホテルでゆっくり寝て、朝食を摂り落ち着きを取り戻し、駅前のホテルだったので、 パパはそのまま出社した。 帰宅すると、大家さんと警察の方、消防の方達で現場検証は続いていた。 ドアを開けると、ものすごい焦げた匂いと、細かなすすで、 こりゃ、全部洗濯できるものはしないと。。。。と気が遠くなる気持ちだった。 愚痴っていても仕方ないと、洗濯をしようと庭に出たら、 消防士さんが、庭を行ききしていて、部屋の中が丸見え、参った。 実は、その翌日、本当に久しぶりでパパが二日連休だったので、 彦根の娘の家に行く予定を、以前から立てていた。 だがこんな時にどうしよう。。。。という気持ちと、 孫に会いたいし、この匂いから解放される。。。という混乱した気持ちで揺れていた。 パパも今朝、考えとくよと、出かけて行った。 お隣の一家は、さすがに匂いがひどく、真ん中のお兄ちゃんの具合が悪くなり、 その後暫くお正月開けまで、市が用意した被災者用の住宅に、移った。 そして、火事の翌日の夕がた、ママと二人でそんな話をしていたら、 作業着の大家さんが二階から降りていらした。 「大変でしたね~」 「はい、去年、銀行に融資してもらって、直したばかりの部屋がやられました。」 「。。。。」 大家さんは、少し言いにくそうに次ぎの言葉を仰った。 「こういう事になり、亡くなった方も出ましたので、3月以降に取り壊そうと思います。。。。」 つまり、出て行って欲しいということだ。 ママと思わず顔を見合わせた。 どうなっちゃうんだろう、私達。 これからどうなるのか。 自己破産者に貸してくれるアパートがあるのだろうか・・・。 完全に私の中で、何かどす黒い重い物がじわじわと生まれるのがわかった。 大きな大きな不安の塊だ。 まずは明日、どうしよう・・・・行きたいけど。。。。
2014年01月02日
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昨年11月、検査入院してから驚くことばかりだった。 長い人生、入院したことがない訳じゃない。 だが、私が知ってる「入院」は、なんだか一昔前の「入院」だ。 私の名前の下に書かれた医師の名前は6人に及んだ。 「はぁ?」と首をかしげると、看護師さんが笑って仰った。 「ここの先生方全員でKさんの状態を判断します」 そうなんだと納得。 仰る通り、毎朝、5人の先生がいらした。 まるで院長回診だが、今時だなぁと思ったのは、女医さんが二人いらしたこと。 そのうちのおひとりのかわいらしい事、かわいらしい事。 そしてその施設。 ホテルか?と見まごうばかりのデイルーム。 燦々とお日様が降り注ぎ、テーブルとイス、ソファは、正にホテルのよう。 4人部屋だったが、1部屋ごとに広いトイレと大きな鏡の洗面所、ロッカー付き。 入口の名札は普段はお花の液晶画面だが触れると名前が出る。 セキュリティもしっかりしていて、 各入院病棟へは、カードを持っていないと出入り出来ない。 私達患者は、検査や買い物などして帰る時は、 入り口で名前を言うと、中で操作して開けてもらえる。 お風呂は広い一人用バスで朝、希望時間を予約し、その時間は一人占め。 病院内には、立派な図書館、スタバ、コンビニ、売店、洗濯室、輸入雑貨のお店、介護用品のお店が並んでいた。 久しぶりの入院、まして普通の生活ができる状態、TVを見るのも飽き、 持っていったポータブルDVD機器でドラマを見るのにも飽き、 読みたかった本を片っ端から借りて読んだ。 検査以外は、食事制限もなく、なんだか申し訳なくなる時間だった。 検査は、重要なものでは、シンチと言う放射性物質とたんぱく質を混合させたものを注射して、5時間置きにCTを撮る物、 TVで見た事があったが、まさか飲むことになろうとは思わなかったカプセルカメラを飲み、15時間身体に機械を装着し、体内の写真を撮るもの、 普通にCT、血液検査、一番嫌だった、胃カメラの延長の腸カメラなどなど。 シンチの時は、なかなか「放射性物質を入れる」ということに納得がいかなくて、 まして漏れたら、皮膚科にかからなくてはならないと聞き、 先生に納得いくまで説明をしてもらった。 検査は火曜から金曜までしかないので、最初の金曜担当医から 「外泊なさいますか?」と聞かれ、あ、うちに帰って良いんだ!と外泊を希望。 土曜の朝から、月曜の午前まで帰宅した。 最初の予定の2週間が大きく延び、結局退院できたのは23日だった。 検査で分っているところまでパパと説明を受けた。 たんぱく質が身体から漏れているのは入院前から分っていたが、 どこから漏れてしまっているのか今回の入院で分かった。 小腸から漏れ、体外に排出されて、きちんとたんぱく質が摂れていないそう。 発症率がとても低く、何十万人に一人だそう。 そして、腹部のリンパが腫れてしまっているそう。 つまりリンパの流れが悪いうえ、たんぱく質が漏れてしまう、 「たんぱく質漏出性胃腸症」と言うのが私の病名だそうで、 治療法はまだ無いそうだ。 つまりは難病の上、治療法のない病気。 中鎖脂肪酸の入った油を一日20~30グラムに控え、 浮腫に対応する利尿剤を飲むしか、今のところ対処できないのだという。 退院前に、管理栄養士に指導してもらったが、 いつも摂っている食事で何も問題ないそうで、ただ、油を、オリーブオイルから、 中鎖脂肪酸の油(今、世の中で売っているのはリセッタのみ)に換える事だけ。 今後、重篤な状態にはならないということで、 ただ、やはりたんぱく質や栄養が漏れているので、疲れやすいのは否めないそうだ。 日本有数の病院で診てもらい、そういう結果になったのだから、 これ以上の結果は望めないだろう。 まあ、のんびり暮らしていくしかないのかな・・・・とパパの言。 午前中に退院し、荷物を家に置いて、そのまま、 この日封切りになった「清州会議」を観に行った。 何万人に一人の病気になっちゃたなんて、私らしいっちゃ、私らしいな。 うつ病に「たんぱく質漏出性胃腸症」と一生のお付き合いってことかな
2014年01月01日
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9月の初め。 足の浮腫みがひどくなり、行きつけの精神科のある病院の内科で検査を受けた。 いつも履く靴が入らない。 歩くと、タポタポという感じがしていたし、 四日市にいるころから少しずつ浮腫みが酷くなっていたのは分っていたが、 この2年近く、とても自分の身体を省みる余裕がなかった。 だが、7月に2年ぶりパパと受けた人間ドックの数値に問題が出た。 たんぱく質の数値が少し正常値を下回っていた。 で、行きつけの病院で2回血液検査を受けた。 しかし、その病院の内科医2人に言われたのは 「まあ、問題ないでしょう」 で、浮腫みを取る、利尿剤を出された。 この利尿剤「ラシックス」と言うものなのだが、 飲んでいらっしゃる方は分ると思うが、 30分に一回・・・・私の場合それ以上尿意をもようし、出かける予定がある時は飲めない。 それでも暫くそれで対処していたが、浮腫みは相変わらずだった。 近くに従姉妹夫婦やはとこ家族がいる。 電話で浮腫みの話をしていた時、良い内科医が近くにいることを知り、早速行った。 血液検査のデータと人間ドックのデータを持って行き 次の週に、胃カメラ検査になった。 異常は無し。だか、血液検査の数値にやはり問題が出た。 そうしたらその医師「これだけたんぱく質の数値が低ければ、浮腫みます」と 本当に気持ちの良いほど、一刀両断、浮腫みの原因を言い当てた。 その上「ここでは色々な検査ができないので」と、 何と日本でも超最先端医療を行っている、言えば誰でも知っている某病院の、 それも、所謂スーパードクターを紹介してくださった。 10月、紹介状を持って、T消化器内科教授を訪ねた。 ああ、こういう人が、本当の名医なんだなぁと、お会いして思った。 患者に対しては非常に丁寧な対応、柔和な笑顔で接し、 看護師に対しては、どんなに若い子に対しても、尊厳を損なわない物言い、 最近の医者は、すべてパソコンに書き込むが、 彼のそばには、PCを打ち込むお弟子さんがいた。 先生が仰った事の要点をまとめ、カルテを打ち込んでらっしゃるから、 彼女も相当の切れ者だろうことは、理解できた。 T教授は、私に向き直ると、穏やかな表情。 は~、これだからスーパードクターと言われる所以なんだろうと感心しごく。 翌週、大腸検査と、CT検査になった。 10月末、T先生を訪ね、非常に分かりやすい説明を頂き、 「Kさん、2週間ほど検査入院できますか?」ということになった。 患者が不安にならぬよう、先生は、本当に細かく紙に私の今わかっている状態を ペンの色を分けて説明してくださった。 まあ、日本でトップクラスと言って良い病院の、それもトップの消化器内科医の言うことだ。 そんなところで検査が受けられる幸せを考えたら、1も2もなく承諾するしかないだろう。 そして11月5日、入院した。
2014年01月01日
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以前から、会社をやっていた時から、 うちは、土日に連休だったためしがない。 だからもう、慣れちゃったが、 Uターンラッシュってのもあまり経験がないし、 行楽地へのラッシュに巻き込まれても、 「行楽地からの行き帰り」だったこともあまりない。 会社の機械は24時間動いたいたから、 土日でも誰かが会社に行かなくてはならなくて、 土曜がお休みだったことはあまりない。 下の娘が量販店に入ってから、販売促進部に配属になるまで 土日の量販店は書き入れ時だから、勿論休みはなかったし。 考えてみれば、私自身も百貨店勤めだったから、 土日の連休はあるはずがなく、元々社会人1年生から、 人さまが休みの時、働いて、平日がお休みって方が 人生多かった。 そして今も、パパは人さまがお休みの時は、 書き入れ時のお仕事をさせてもらっているので、休みはない。 世の中、そう言う方も多いと思う。 なのにTVのニュースや、番組は、 土日や、普通のお休み、連休の方中心で進む。 一人お昼ご飯を食べながら、は~、また同じような特番やってるし。。。。と 正直、思っちゃう。 土日がお休みじゃ無いって、結構、なれちゃうと心地良い。 映画に行っても、展覧会に行っても空いている。 反対に正直、土日の繁華街には近付かないようにしている。 平日の方が、お買い物もスムーズだし、 土日は考えられないほど並んでいる人気店も、そう並ばずに買える。 今日もまた、行楽地からのUターンラッシュで、高速道路は渋滞ですって。 今日少し表に出てお買い物し、ガソリンスタンドに行った。 快適と言えば、快適なのかもね。
2013年07月15日
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東京は、今日で35度を超えた日が、7月では史上初とか・・・・。ヒッキーのような生活をしているし、私がいつもいる部屋は、ベランダへ出る窓は開けられない。前の家からどうしても諦められず、玄関のロビーとキッチンとの間に探して探して京都のアンティークショップで見つけ付けたステンドグラスのドアを外して持ってきて、ベランダに出る前に置いちゃった上、表に物置を置いたので、事実上使用不能になっている。東南向きだから、朝日が入ると、ステンドグラスが本当に綺麗で、大変だったが、つくづく、持ってきて良かったと思っているが、お陰で、窓が開かないから、風が通らない。つまり、「暑い」となったらクーラーを点けるしかなく、そのエアコンが、上についているので、正直、家の中全体を少しでも涼しくしようとすると、エアコンはこれ一台でその前にPCの机があるので、もろに冷気が当たり、寒い(爆)風邪ばかりひいている冬、お医者さんに「夏にもっと沢山汗をかくように」と言われてるのに、いっこうに、守れていない。だが、今年のこの気温は異常だ。宅配業者が来て対応にドアを開けると、最近は表の熱気がもう、凄い勢いでモワ~っと入ってくるし、日差しも隙間から、目に強烈に入ってくる。こういう時、宅配業者さんは、本当に大変だ。車に勿論、冷房装置は付いているが、お届けするおうちの前でドアを開け閉めするから、全然車内は冷えないそう。お仕事とはいえ、ご苦労さまですm(__)m庭のバジルも毎日ちゃんと水はやっているが、それ以上に水分が蒸発してしまうのだろう、葉っぱが縮んで、苦みも出てしまっている。元気なのはパセリと、地植えにしてある薔薇とマーガレットだけ。もともとお隣との境にあったアジサイさえ、雨が降らないから花の部分に水分がいかないんだろう、とっても綺麗な紫の花が去年咲いたのに、蕾が開かないうちに、お花部分が茶色く枯れ始めている。いくら、猛暑と言っても、去年はこんなことにはなっていなかった。今年の「夏」は、まだ、梅雨明けしてから始まったばかり。この先の事を思うと、空恐ろしい。気象予報士の中には、8月は、もう少しましになる・・と言っている人もいるが、あくまで予報。すでに、熱中症で多くの方が搬送され、亡くなった方も出ている。それも、表での農作業ではなく、室内で亡くなった方もいる。電力の事を考え、省エネの事を考え、できるだけ、我慢するようにしているが、朝7時の時点で東京は30度になっている。観ていたら、コンクリートジャングルの道路の交差点、地面近くの温度は45度を超えていた・・・・うっそサウナ状態の所に、皆、洋服を着て、表を歩いているわけだ。どうしてこうなっちゃったのか、気象予報士が説明していたが、本当は皆、解っているはずだ。オゾン層の破壊は、何年も前から言われていたことだ。太陽からの直射日光を和らげてくれるオゾン層の破壊が、肌に痛いほどの日差しを地球に届けてしまう原因の一因であることは間違いが無い。これは、日本だけが頑張っても、地球は救われない。世界中の人が、肝に銘じて「オゾン層」を死守しなければならないのだ。環境破壊の工場からのスモック、車の排気ガス、冷蔵庫のフロンガス・・・etc難しい事は、政治家に任せ、私達にも出来ることからしていかないと、この夏、暑さの被害は尋常じゃ無い被害になるようで、本当に恐ろしい。暑い・・・・・
2013年07月14日
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近頃よく観るCMに出て来る女の子が気になって仕方ない。ある飲料メーカーのCMなのだが、観るたび、何だかフラッシュバックして、幼少期の自分をこっちの世界から見ている感じなのだ。むちむちした腕の感じや、おかっぱ頭、ぷくぷくしたほっぺに、仁王立ちになった姿、その落ち付きなさそうな動き・・・。まるで「私」なのだ。子供って皆、たいがい小さな時はこんな感じだろう…と打ち消しても、その特徴的な動きが、やっぱり、私なのだ。ずっと自分を見てるみたいで、懐かしいような、恥ずかしいようなCMを見て、そう感じ入ってる人も少なかろう。所が、その思いが自分の思いこみだけじゃなかったんだ・・・と確信になったのは、パパの一言。「この子、お前の子供の時に、そっくりだな」・・・・やっぱり(爆)彼女がそうだと言うわけじゃない。CMというごく短い間の演技に違いないのだが、凄い勢いで三輪車を漕ぐ姿、大人達の間に居てもものおじしない姿、動き続けるパワー、やっぱり何もかも、私そのもののよう。生きてると面白いことに出会うもんだと思う。今日もこのCMが流れると、「うっ私だ」とつい見てしまうのだから仕方ない。ちなみに、その飲料は、まだ飲んだことがない。彼女に敬意を表し、買ってこようかな(笑)
2013年07月12日
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ずっとそれを知るために人は生きているんだと思っていた。鬱病になって、マイナス思考、ネガティブな方向に考えが行くが、口から「どうせ」と言う言葉がよく出てしまうが、この年になると、少しだが解ってきたような気がする。特別な才能があるから、特別な人・・じゃないのだ。科学者、哲学者、数学者等など学者が、新しい何かを発見して「偉人」になることでもない。芸能人だからって、特別じゃ無い。人生の成功者が、自分が成功したからって、それが生きている意味ってことでもない。そう言う人達の中には、そう思っているような人も多くいるが、決してそうじゃないのだ。物質やお金、美味しい物や、そう言う物には全く関係がないところに、人にはそれぞれの生きる意味があるんじゃないかと思う。だって、もしそうなら、他の何も持たない人が生きている意味が無いじゃない?ホームレスの人にだって、人の地位とか、そういうの全く関係なく、神様は私達に「生きる意味」を与えたと思う。それを思うと、私が体験したことなんて、そんなに大変なことじゃ無いなあって思う。勿論、普通にサラリーマンになって、普通に家庭を持って、普通に生活してらっしゃる方から見たら、サラリーマンから会社を興し、年商十数億の会社にした人の娘に生まれ、夫が後を継ぎ、何不自由ない暮らしをしていたのに、ある日すべてを無くし、今はアパート暮らしでおまけに鬱病、多分、所謂、声をひそめ「あの人ってね・・・」って言われてしまう立場なのかもしれないが、私の周りにも、同じような体験をし命を絶った人もいたが、しかし、本当に申し訳ないが、そういう中傷は、全く気にならない。反対に、もしかするとそう言う経験をしたからなのかもしれないが、自分が生きている意味が、少し見えるようになって、実はそう大したことじゃ無いなあって、今は思っている。勿論、ご迷惑をおかけした関係各所の方には、どれだけ詫びても、詫び足りないくらいの思いでいるのは、真実だか一つ一つが本当に大切な命なんだよね。勿論、それぞれに夢を持っている人もいれば、絶望に打ちひしがれて、死んでしまおうかって思う人もいる。でも、考えてみれば、地球がこの宇宙に出来てからの年月に比べて、私達の人生なんてたかだか100年、吹けば飛ぶような一瞬なんだよね。その中で、皆、自分の周りの人と生きてる。私はここによく書くけど、人は産まれたときから、「神様の宿題をしに、この世に生まれた」と思っている。嫌なことだが、私の周りに、自ら命を絶ちお葬式に行った人だけで3人もいる。「神様の宿題、解ったのかな?答えがこれなの?」ってお葬式でいつも思った。亡くなった理由は、それぞれ違うけれど、命に代わるものなんて何もないのに・・と毎回思った。自分が生きている意味、才能は何もない。社会的な力もない。勿論、お金もない。家族も娘達は独立し、パパに世話になっている。鬱の酷い時は、「私がいなくなったら、パパ、楽になるなぁ」って本気で思う。子供たちの前でもそう言い放ったこともある。それが、どれほど家族を傷つけたのか、今は解る。全く「生きている意味が解らなかった」から。でもね、今は本当にちょこっとだけど、解る。勿論、「神様の宿題が、まだ解っていないし、出せていないから」って事もあるんだけど。多分、こういう状況になったのは、神様が、「もうちょっと頑張ってみたらどう?」ってまた新しい宿題をだしてきたんだなぁって思ったし、今度の宿題は何よ?って、天に向かって、夜中、表に出て叫びたくなったりもする。でも、それが生きるってことなんだなぁと思う。伯母のように、皆に愛を与え続けられたら、どんなに素晴らしいかと思う。まだまだ、修行が足りないね。
2013年07月11日
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少し前の話になるが、6月5日、久しぶりにパパの休日、前々から、行きたかったドルフィンにランチしに行こうと出掛けた。久しぶりに、母を連れて行ってやろうと、母も同行、嬉しそうだったよ(笑)ドルフィンは、ユーミンの曲「海を見ていた午後」に出てくるユーミンファンには、言わば聖地(笑)当時は、平屋だったが、前にマンションが建ってしまい、「売り」だった海が見え無くなって、今は立派なレストランウェディングも出来るくらいの建物に変わっている。横浜まで車で行くのは初めてだか、路線でしらべても1時間少しなので、平日の昼過ぎだし、車もそう混んではいないだろうから、同じくらいの時間かなぁと家を出たら、やはり、1時間ちょっとでドルフィンの駐車場まで行けた。思い通り、素敵なお店だった。建屋は勿論のことだが、歌のように「静かなレストラン」だった。そのうえ、抜群に美味しい。ランチの時間は過ぎてしまっていて、残念だがランチセットは食べられなかったが、その後、中華街に行き、夕食を摂る予定だったので、少し何か食べたくて、勿論、歌に出てくるソーダ水、鯛のカルパッチョ、カボチャの冷静スープ、お店の女の子に「お薦めは?」と聞いたら、「カルボナーラ、美味しいですよ」と教えてくださったので、カルボナーラを頼んだ。窓際の席から、遠く本当に三浦岬が見え、海の上を船が往来しているのが見えた。「海の見える午後」の世界そのもの。階下には、沢山のお皿にサインしたものが並んでいて、圧巻。勿論、ユーミンのもあったが、パパは大好きな「クレージーけんバンド」の物をみつけ、嬉しそう。まず、ドルフィンソーダが運ばれてきた。付けられたオレンジを上手にドルフィン、イルカのように切ってあったのには感心した。窓際に置いてみたが、「ソーダ水の中を、貨物船・・・・」は通らなかった(笑)色が濃いので、むこうが透けて見えない鯛のカルパッチョは、新鮮でとてもドレッシングが美味しかった。そしてお薦めのカルボナーラ!!!!これが、めちゃくちゃ美味しかった多分、私が今まで食べたカルボナーラの中ではNO1かもしれない。惜しみなく、ホワイトソースを使っていて、そのソースがまた、とても美味しくて、3人でシェアしてたべたけれど、中華街に行って何も食べなくて良いから、もう一人分頼んじゃおうかと思ったほど(爆)かぼちゃのスープは普通に美味しかった。ドルフィン、流石でした。本当に皆とっても美味しかった。パパ、「今度絶対ランチしに来ような」だって。パパも、青春はユーミンだったから、結婚した時、それまでお互いに持っていたレコード(CDじゃないところが時代が解る)が、二枚ずつになっちゃったくらい、二人とも大好きだった。昔、このブログにも書いたが、最期の「シャングリラ」は家族4人で見に行った。ドルフィンのお向かいにあった、ミニ(車です)のお店も可愛かったし、ドルフィンに行く前に通った公園も綺麗で散歩したくなるような大きな木々のある場所。横浜は坂の多い街だが、それもまた素敵だった。リベンジランチ、近いうちにいきますそれから、中華街に移動。この中華街、本当に好きで数えきれないくらい来ているから、勝手知ったる何とかで、必要だった普段1年中履いているビーズシューズをいつものお店で買って(母はこれが欲しくて、ついて来たようなもの)中華食材やさんでピーナッツケーキ(クッキーだといつも思うんだけど)、台湾のピータンを買って、崎陽軒でシュウマイを買って、路地裏にある中華屋さんで食事。久しぶりのお出掛けに、母も楽しそうで良かった。帰りはすっかり暗くなり、高速に入る前、横浜のウォーターフロントの観覧車がとっても綺麗だった。でも・・・・・買いたかった豚まん、買うの忘れてきちゃった。残念。また、行こうね
2013年07月10日
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小綜を好きでいる理由の一つに、彼と母親のことがある。小綜の母親は、彼がまだ小学生の時、不倫の末に家を出た。理由が理由だったので、父親も親戚も母親に子供達に会う事を禁じたが、4歳年上の姉と二人、学校に会いに来た母親と会い、帰宅した二人は、布団の中で父に隠れ泣いたと言う。そんな思いをしているのに、高校を卒業した小綜は台中から台北に出て、今兵役を送っている基隆で母親と暮らし始めた。まあ、男の子の母親に対する思いと、娘の母親に対する思いは違うのかもしれないが、よく、母親を受け入れられたと感心してしまった。多分、不倫の末に家は出たけれど、子供たちに対する愛情はあったのだろう。私の母親は、会社が無くなり家を無くし、こちらに帰って来る時、「一緒に住む?」と聞いた私に、それまで、母に厳しかった私とは一緒には住めないと言い、東京で物書きになっていた弟と、すぐ近くで暮らし始めた。弟にしたら、結構な年金をもらっている母と暮らすことは、飛んで火に入る何とかだっただろうが。散々パパに迷惑をかけた弟とは、色々な理由で疎遠になっている。それはどこの家にも一つや二つある、陰の部分だろう。その弟の所に行った母に対し、やっぱりと言う思いと、ずっと実家の近くで暮らし、お誕生日はもちろん、母の日にも一緒に食事に連れて行ったり、母の支えになっていたつもりだった自分が、バカみたいだと思った。鬱がひどくなったこともあって、ますます、母にこちらから電話することもなくなり、最初の頃は、電話番号さえ知らなかった。、母の声を聞かない日が多くなり、まるで潮が引くように母に対する、長年の恨みつらみも胸を衝くことはなくなった。考えてみれば、彼女こそ、晩年になり夫が作った会社が無くなり、会長の妻と言う座もなくし、只一人どんなに途方にくれただろう。荷物や家具を持ち出した私に比べ、身の回りのものだけ持って出た77歳の気持ちは、私以上だったと思う。以前、荷物を取りに帰った時、近所の実家に立ち寄ったが、全く何もかも、家具も声楽で使っていたピアノも、500年続いた父の実家の大きな仏壇もそのままだった。ましてや、彼女には財産である家やマンションがあったから、なかなか裁判の審判が下りず、今年の春になってやっと、責任なしの審判が降りたから、どれほどの心痛だったかと思う。だが、勿論、あの人の事だから初めのうちは、裁判の事が気になり、私に分かるはずもないのに電話をかけてきては、喧嘩になったりもした。今は冷静にこう書ける自分が、とても不思議でもある。小さなころから「だらしがない」「どうしてちゃんとできないの!」と罵倒し続け、勉強しているふりさえすれば、何も言わなかったが、テスト成績が悪い時は「私の娘なのに」と泣いて怒った母。何度も殴られた。小学生の時、殴られ、鼻血を出したことさえある。娘だったのに・・・自分の見栄のためには、例え娘の顔に傷をつけても構わない人だった。口答えをしない・・・・これが私の唯一の身を守る方法であり、母と接する時の「生きるすべ」だった。あちこちの教育相談所に連れて行かれ、暗記してしまうくらい、ロールシャッハテストを受け、積み木の組み合わせをさせられた。すべて母のため。勿論私の心はずたずたになった。どうしてできないのか、自分でもわからない部分を責め続けられた。後に私がADHD障害であることが分かった時、「そんな風に産んでごめん」と吐き捨てるように母は言った。7歳下に生まれた弟は心臓疾患を持って生まれ、自然、私は放っておかれ、内心ほっとしたものの、愛されない寂しさは、どこにも持って行きようもなく何度、しられないよう湯船に浸かって声を殺し泣いただろう。小学校に入った弟は、いつもトップクラスの成績。父も母も優秀な弟に夢中になり、私はますます一人が一番居心地の良い人間になってしまった。そんな私を理解し、包み込んでくれた伯母の代わりに大人になりパパが現れ結婚し、折角家を離れることができたのに、結局、父の跡を継いでくれたパパが、「実家の傍が良いだろう」と姑を引き取る時に、実家の近くに家を買った。流石に孫はかわいかったのだろう、子供たちには、十分なことをしてくれた。上の娘が成人式を迎える頃、難病で余命いくばくもなくなった父が、「お前には本当にかわいそうなことをした」と泣いて謝ってくれた事が、私の心の氷が解け始めた理由かもしれない。最近は母と接しても、以前のような嫌悪感はなく、「この人も、可哀想だったんだなぁ」と、優しい気持ちで接する事ができるようになった。相変わらず弟の事を責めると、同じ自分が産んだ子供なのに、全力でかばうが(笑)可哀想にその弟に「倒れたら、悪いが面倒はみれない」と言われていても・・・だ。母の対して、普通に接することができるようになり、歳を重ねるって、こういうように成るんだなぁと思った。先日は、横浜に遊びに行く時、母を誘ってあげようと思い、一緒に連れて行った。少なくとも、ロッカーベビーにならず、捨てられることもなく、ミルクを与えおむつを替えてもらった事は間違いなく、心を満たしてもらう事はなかったが、おなかを満たしてもらったのは確かなことだ。自分が親になった時、絶対に母のようにはなるまいと思ったが、愛されなかった子供は、愛することがうまく出来ないのも確かだから、母も、両親が厳しい教育者の家に生まれ、もしかすると愛されなかったのかもしれない。そんな風に考えられるようになったことが、自分でも驚きだ。母は今年79歳になった。私に負けず劣らず波乱の人生だった。母があちらの世界に行くまで、もう少し、優しくしてあげられるようになったら良いのにと思う。それができたら、きっと私自身も救われるのだろう。
2013年07月09日
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