( 承前 )
もう一つのニシン御殿なるものがあるとのことで、旧青山邸に向かいましたが、これはご覧のような豪邸。貴賓館というレストランになっているようで、ここで食事をするのでなければ中には入れないようです。
小樽と言えば運河ですが、その市街地に行くにはトンネルを三つ越えなければならない。一つ目のトンネルを出た処で二つ目のトンネルはこれを迂回する道があるのでそれを行く。するとこんな小さな海水浴場がありました。
少しだけ浜に出て遊んで行く。目の前の岬を潜るトンネルが新高島トンネルで、それを過ぎると小樽の中心へと入って行くことになる。
新高島トンネルを越えて暫く行くと小樽博物館がありましたがパス。向かいには手宮洞窟遺跡なるものがあったので、入館してみた。館内は暗い。洞窟の壁をガラス越しに覗く窓があり、そこには縄文時代の人が彫った浮彫壁画で、狩りをする人や動物を描いたものがあると言うが判然とはしない。
やがて、小樽運河にやって来ました。ここは前日の早朝にも神威岬へと出掛ける前に少し走っているので、写真はそれらを一部併用です。
運河沿いに咲いていたのは八重咲きのハマナス。八重のハマナスの花なんぞ見たことがない。バラかと思ったが葉がハマナスのそれ。実が生っていればバラではなくハマナスだと断定できるのだが、実は見えない。山吹や柘榴と同じで八重咲きは実を付けないのか。これで、これがバラだったらお笑い草だが、同じ仲間なのだから似ていて当然である。
お囃子の音が聞こえて来たと思ったら祭りの行列。住吉神社の祭礼でした。
この運河プラザでお土産を買いましたが、上の写真は前日の早朝のものにて、未だ人影もなく閉まっています。
この交差点を奥に坂を上って行くと小樽駅。小樽駅前の石川啄木歌碑を訪ねることとする。小樽には石川啄木の歌碑が3基ある。それを巡ってみることにします。
啄木は1907年、函館、札幌を経て9月末に小樽にやって来て、小樽日報の記者となる。同僚に野口雨情が居て、彼が当時の主筆と対立関係にあり、ごたごたの末、雨情が退社に追い込まれるが、此の時、雨情の側に立った啄木も12月に退社に追い込まれ、翌1908年1月に家族を小樽に残したまま釧路新聞に移っている。
この歌碑の歌は釧路へと単身旅立つ時のものである。
もう一つの歌碑は水天宮境内にあるという。
水天宮は運河がお終いになる辺りで右に坂を上って行き、路地を左に入って更に坂道を上った処にある。
水天宮にさしかかる道で、一人旅の若い女性から道を尋ねられる。小樽駅へはどう行けばよいかと。こちらは自転車で軽装。地元の人間に見えたのであろう。銀輪散歩の旅ではよくこういうことがある。こちらも旅行者だから「存じません」でもいいのだが、ついつい教えてしまうのは「世話焼き大阪人」の血である(笑)。
かなしきは 小樽の町よ 歌ふこと なき人人の 聲の荒さよ (啄木)
小樽の人は、この歌によって啄木に余りいい感じを持たないのだと言うが、本当だろうか。
かなしきは 啄木の歌よ 聲荒き 小樽の人の 心に触れずや (偐小樽人)
( つづく )
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