そこで、普通は小田原にLanguage Institute Of JAPANという学校に入学するのが決まりだ。だから昭和五十七年六月七日ワシはLIOJに入学した。先生はすべてアメリカ人。日本語は一切御法度。一言日本語をしゃべると百円とられた。なかなか大変だった。約一ヵ月勉強した。最初にクラス分けがあった。ワシはAクラス。これは英語力最低のクラス。是枝もAクラス。成田はCクラス。Cクラスは英語力最高のクラス。タイランドの女性も二人Cクラスだった。チャオバピットラプラプソンとトミーだった。彼女らはもちろんCクラスだった。ワシは毎日苦しい英語勉強をした。最初自己紹介。これは、まあまあ出来る。さて自分の仕事の内容を英語で皆に説明しなさい、と言われた。これはかなり難しい説明だ。日本語で説明しても難しいワシの仕事だのに英語でそれが説明できるかい。しかし、一ヵ月も英語だけで生活すると、まあなんとかなるものだぜ。ワシはオリベッティのタイプライターを持ち込んで勉強した。『パシャ、パシャ』それから、雨の日以外は毎日、小田原城の公園散歩をかかさなかった。最終日には皆でファイヤーワークをした。これはワシのアイデアであった。日本語で言うと花火の事じゃよ。昭和五十七年七月三日無事小田原LIOJは卒業したのう。よかったのう。ちょうど一ヵ月間の英語の勉強だった。この学校はワシの今後の人生に大きく影響した。明石高専もそうじゃが、学校ちゅうのは青年期の思想を作り、将来への道をかたち作るもので、非常に大切なものじゃのう。