山ちゃん5963

山ちゃん5963

四十九、フィリピン マニラ



小田原で学んだ英語の実践の為にワシは私費を費やして、フィリピンマニラ国際空港に降り立った。昭和五十七年八月十二日だった。金は多少持っていった。同期の茂木と二人旅じゃよ。彼はすでにドバイ首長国連邦そしてバーレンと海外での仕事経験が非常に豊富であった。ワシはまだひよこで『英語人』としては生まれたてであった。さて、フィリピン国際空港はなぜかアジアの独特の臭いがした。ちょいと臭い、あれはいったいなんというのだろうか。空港を出ると子供が寄ってきた。『バクシー、バクシー』これは施し(金、マネー)をくれと言うとるんだわい。『シー、シー、Go Out!!』これにかまってはいけない。我々は空港にてマカティの近くのホテルを確保した。タクシーでホテルに荷物を運んだ。きたないタクシーだったな。またホテルが二流だった。まず、旅行代理店に行って、マニラからセブへの往復チケットを購入した。皆茂木が交渉した。彼はその道のプロの遊び人。繁華街マカティに買い物に行ったぞや。スーパーマーケットに行った。小物を買った。通貨はペソだった。さて、次ぎにマニラベイ(マニラ湾)に行った。わりと美しい港だったなあ。多分夕暮れのサンセットはもっともっと美しいだろうと思われた。普通のバスでタガイタイに行った。マニラ郊外には田んぼが多くあったなあ。まだ牛で田鋤きをしていた。あれはなんというのか日本の戦後、ワシ等の丹波の農家とまさにそのままそっくりだったなあ。なぜか昔の日本に戻った感じがしてならなかったなあ。稲作はこちらから伝わったのだったか?一方、タガイタイは火山で美しいところだった。夜になって、バスでマニラに戻った。フィリッピンの治安の悪い町中で夕食をした。恐い町マニラ、マカティ。しかし、なかなか夕食はうまかったなあ。ざわざわとしたレストラン。

なぜか、中近東からの客が多かったのう。あれは中近東のオイルダラーを使いに東南アジアに遊びにやってきた連中だなと思った。なぜ中近東の土漠に石油が埋蔵されておるのか?不思議なもんだのう。そもそも石油とは何なのか?本当に化石と同じものなのか?ワシには今だによく分からんなあ。さて中近東の彼らはモスリム(回教徒)だから、酒は飲めないはずだが、どういう訳か知らないが、がばがばと飲んでいたのう。異国にくるとアラブ人は宗教を一脱できるのか。マホメッドの教えコーランも詰まらん教えじゃーないのかい。彼らは金の使い方がえらく荒いように感じたなあ。そこでの夕食のあと、道端のマーケットに寄り、寧々に夏物ワンピースのスカート(刺繍が気に入ったきれいなもの)、藤吉郎秀吉にフィリピンシャツ、愛々に人形を買ってやったなあ。これはワシが日本に帰った時、皆喜んだぞや。一番喜んだのは寧々だった。やっぱりなあ。寧々は何でも喜ぶ子だった。喜ぶ達人じゃ。今でもそうじゃよ。それが一番こちらも嬉しいもんじゃわい。

さて、明くる日は、国内線で首都マニラからセブ島に渡った。一時間くらいの飛行機の旅。そのセブ島ではとても美しいビーチ沿いのコテージにタクシーで向かったのじゃ。砂浜はとっても美しかったのう。昔、第二次世界大戦においては日本軍もここに攻め込み、美しい海原を血潮で染めたフィリッピン、何人の日本人が死んだことかい。いやそれ以上にフィリピンの現地人が犠牲になったことだろうか。またアメリカ連合軍が血を流したのか。ワシ等の旅行当時はフィリピンはマルコス政権下、いわばアメリカの半統治下にあったのではなかったか。アメリカ無名戦士の墓にも行ったのだ。平成の今、あのフィリピンはとても治安の悪い国である。特にアキノ政権のフィリッピンには行きたいとは思わないのう。

このフィリピンへの旅行の『目的』は学びたての『英語』を使い、海外に慣れる旅行であったのだ、まずまずその目的は達成されたと考えている。帰国は昭和五十七年八月十八日。だからちょうど一週間のフィリッピン旅行。大成功たい。マガンダン・ウーガマ(有り難う)茂木。



© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: