不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

2007/02/19
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カテゴリ: 日本旅行記
◇萩の武家屋敷跡の町並みは、ちょっと南国風な感じがします。
その通りを進んでいると白い壁が目に入ります。
そこに看板があり 問田益田氏旧宅土堀 だそうです。
問田益田氏は永大家老益田家の分家筋にあたり、給領地(4096石余)を問田(現山口市)に持っていたのでこう呼ばれた。
この土掘のある堀内地区は旧萩城三の丸にあたり、高い土堀を巡らした重臣たちの屋敷が建ち並んでいた所である。
なかでもこの土堀は延長131.7mあり、往時の姿を最もよく留めている。

白い土壁の一部が剥がれていますが、長いと思う白壁でした。
京都御所の壁には負けますけどね(笑)。
あまり目にとめる人はいませんが、雰囲気はあると思いますね。
山萩h31問田益田氏旧宅土堀

そこから城の方へ進むと 旧毛利家別邸表門 があります。
この門は、もと毛利元徳公が鎌倉材木座に建てた別邸の表門である。
大正10年別邸と共に毛利家萩別邸の門として萩東田町に移されたが、昭和49年に再びここに移築された。
建築年代は明治時代である。

現在は「山口県萩青年の家」の門になっています。
門と中のコンクリートの建物のバランスの悪さを感じがしますね。
山萩h41旧毛利家別邸表門

その先を曲がった所に 天樹院墓所 があります。
天樹院墓所は毛利輝元の墓所で、輝元と夫人および殉死者長井治朗左衛門の墓石3基がある。
これらの墓は花崗岩製の五輪塔形である。
なかでも輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mといずれも大型である。
ここは以前輝元の隠居所、四本松邸のあった所で、彼の死後に天樹院(輝元の法号)が菩提寺としてたてられたが、1869年に廃寺になり墓所のみが残った。

拝観料は20円です。
寺がなくなったのに墓所だけ残った場所らしいです。
境内は整備されていました。
墓所で夫婦が並んでいるのは珍しいかもしれませんね。
毛利家は夫人の墓なども、思ったより残っているのが多いですね。
山萩h51天樹院墓所


萩旅行は、まだ続きます





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Last updated  2007/02/19 09:56:01 PM
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