こんなものですが

こんなものですが

永遠の仔


 圧倒される重みに、他のドラマを見ていて感じるある種の“遊び”というか、そんな部分の挿入がない、ただただ嘆息するしかないという感情を抱かざるを得ないのである。

 テーマは 「子供の頃に受けた親からの虐待を背負って生きる、生きなければならぬ」 ということを基にしているが、この作品を通底するものとは 「救い」「赦し」 にある。

 かつて小児病棟に入院して出会った3人は、17年後、弁護士、刑事、看護婦として再会する。それは、「出会うべくして出会った」というものであった。

 父から性的虐待を受けた女の子。そして、その事実を感じつつも信じたくないという思いもあり、父から娘を守れなかった母。その母が背負い続けた苦悩、自責と赦しを乞いたいという思い。

 母に見捨てられ、体中にタバコの火を押し当てられた男の子。

 性に奔放な母によって、性不能になった男の子。

 物語は、再会後と小児病棟に入るに至った事実-それはフラッシュバックともいえる回想によって進んでいく。

 深い心の傷にさいなまれてきた彼らは、必死に努力し今の地位をつかみ、仕事に打ち込んでいる。絶えず、心に深い傷を沈殿させたまま。再会を果たした後、それは表出させずにはおかない。

 人を愛することに底知れない不安を持ちながら、今に至るまで「救い」を求めるのである。心を慰撫させるものは、仕事に打ち込むことによってでなく、やはり、人しかない。彼らは、お互いその辛い過去を分かり合ってきた。過去を消し去りたいと必死に生きてきても、しかし、完全に消し去ることなどできないのだ。

本当に苦しく、辱めを受け、生きていて意味を見出せない人生というものもあるのかも知れないと思う。苦痛から解放された安息なる死を選択したくなることもあるのだと思う。しかしである。生き続けることで必ず、「他人のものでなく、自分のための人生」「自分が生きる人生」はあると思う。

 「相手を認め、認められることによって心を少しずつ開いていけばいいじゃないか。」人は、共に生きる相手を求めていく生き物、そうすることで生きている生き物という気がする。


 『山岳信仰』に触れたシーンがある。神が住み、人々を救うため地上に降りてくるという霊峰(愛媛県石鎚山)。3人は霊峰に救いを求め、生まれ変われることを願う。ところが、毎年小児病棟で行われている登山途中、「聖なる事故」によって女の子の父は死んだ。この事故には衝撃的な結末が隠されていたのである。


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