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山神社の遠景です。ここは賀茂郡ですが、ここまで来ると、本当に奥伊豆まで来たなという感じがします。静かで綺麗なところですよね。大和地方にいた賀茂氏(アジスキタカヒコネ系)が八咫烏となって京都に移動してタケツノミ系となり、さらには事代主系の賀茂氏として伊豆半島に集団移住したのではないかと、私はみています。紀伊半島と伊豆半島には、同じような地名があまりにも多いですからね。大和地方と九州地方にも同じような地名の”相似形”が見受けられます。集団移住の証左ではないでしょうか。ちなみに広島と岐阜にも加茂郡があります。さて、ようやく西伊豆に到着。風が強かったので、海は少し荒れておりました。通常でも、東伊豆よりも西伊豆のほうが海は荒々しく感じます。猫越(ねっこ)火山群の仁科峠付近。駿河湾を隔てて富士山が見えてきます。この後、天城山系、箱根を経て帰りました。伊豆半島一周の旅でした。(終わり)
2023.12.30
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名残の風景。明日から9月。酷暑だった8月の名残の風景となるのでしょうか。名残といえば、京セラの稲盛氏が逝去、ソ連元大統領のゴルバチョフ氏も亡くなりました。どちらも一時代を築いた方々ですね。昭和も遠くなりました。稲盛氏が亡くなられたと報じられた昨日(30日)には、奇しくも稲盛氏とも縁が深かった清田益章氏の「還暦祝いパーティー(?)」に参加しておりました。10数年ぶりに清田氏を拝顔。相変わらず元気そうでした。久しぶりにムーの三上氏とも再会。ほかにも何人か知り合いがおりました。ちょっとしたオカルト同窓会です。このほか、この夏の話題といえば、スペインの干ばつで、ダムの湖底から再び「スペインのストーンヘンジ」が顔を出したことでしょうか。カナダに住む甥っ子が教えてくれたロイターの記事はこちら。今から7000年前の紀元前5000年に建造されたストーンサークルだそうです。何とも凄い遺跡です。超巨石文明の名残なのでしょうね。
2022.08.31
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昨日のブログではうっかり間違えて、アマテラスをイザナギの右目から生まれたかのよう書きましたが、左目の間違えでした。失礼しました。実はこの右目と左目の問題は極めて重要で、私が知る限りこれまで誰も真剣に右目左目問題を取り上げてきませんでした。取り上げようと思うに至ったきっかけは、いつものように第73世武内宿禰こと竹内睦泰氏でした。彼はそれまで、日本から大陸に渡ったスメル族には海ルートの天(海)族と、陸ルートの「スサの王」のグループがいて、理想の国をつくることができなかったので、スメルの地(いわゆるメソポタミアのシュメール)から日本にそれぞれのルートで戻ったのだと話していました。ところが、2015年になって実は第三の草原のルートがあり、ツクヨミの一族が草原ルートで日本に戻ってきたのだと言い始めました。それでピンと来たのが、アマテラス、ツクヨミ、スサノオが左目、右目、鼻から生まれたとする記紀の記述です。すぐに分かったのは、ヒマラヤを鼻に見立てた陸ルート。見事に合致しますね。しかも日本から見たら、左が海ルートで、右が草原ルートとなります。これでは海の彼方からの視点がないではないかと思われるかもしれませんが、注目すべき『日本書紀』に左手で白銅鏡を持ったときにアマテラスが生まれ、右手に白銅鏡を持ったときにツクヨミが生まれたと書かれていることです。鏡は左右が逆になる呪具の象徴ですね。加えて、スサノオは真後ろに振り返ったときに生まれたと『日本書紀』に書かれています。なぜ後ろを振り向く必要があったのか。つまり左右の視点を変えて読めと言っているように思えませんか。都の左京と言ったら、東のことです。右京は西ですね。地図上では左右が逆転します。つまり下々の者から見た視点では、スメラミコトの日本への帰還ルートは、日本に戻って振り返ったスメラミコトの左目が東南アジアの海ルートとなり、右目がモンゴルの草原ルートになると言っていることになるわけです。ほかにも記紀の国生み神話の中には、日本を見下ろす天(高天原)からの視点も存在します。あえて離れて日本を見ようとしている視点があるんですね。この視点を持って記紀を読むと、実はスメル族の「蛭子」がとった第四のルートがあったのではないかと思われてきます。海ルートの先遣隊だったのでしょうか。しかし帰還に失敗、「葦船あるいはイワクス船に乗せられて、流された」と記紀にあるのは、東南アジアのどこかの海で遭難してしまったことを意味しているのではないでしょうか。このようにイザナギの右目左目問題だけでも、結構面白く記紀神話を読むことができるのです。
2021.08.17
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『古事記』は非常にシンボリックな話に満ちています。今日は「因幡の素兔(白ウサギ)」の話をしましょう。隠岐の島(あるいは沖の島)から因幡国(鳥取県)に渡りたいと思ったウサギが、ワニをだましてワニの背を踏み台にして渡ろうとしました。もう少しで上陸するところで、ウサギが騙したことをワニに告げると、怒ったワニにウサギは皮を剥ぎ取られてしまいます。怪我をしたウサギは八十神にも騙されていじめられます。苦しんでいるウサギをオオナムジこと大国主が助けたら、因幡のヤガミヒメを娶ることができたというのが物語のプロットです。『帝皇日嗣』の口伝継承者竹内氏によると、手籠めにされた巫女をオオナムジが助けた話であるといいます。それはそれで興味深いのですが、それよりも私が面白く思ったのは、『誰も知らない世界の御親国日本』や『竹内文書の謎を解く2ー古代日本の王たちの秘密』でも書いたと思いますが、日本を海外から見ている視点がこの神話に盛り込まれていることです。助けられた白うさぎは、因幡のヤガミヒメを娶ることになるのは、八十神ではなくオオナムジであると予言していますから、確かに神の神託を受ける巫女であったことはまちがいないでしょう。ワニはおそらくサメと同じで、鳥が飛ぶように速い鳥船に次いで早い、サメが泳ぐような速度のサメ船(ワニ船)のことであると思われます。一番遅い船は当然、カメ(亀)船ですね。浦島太郎が乗っていた釣船です。海神とされるオオワタツミの王女たちが乗っていたのは、ワニ船でした。すると一つの推理として、日本を訪れたいと強く願って、ワニ船に乗って海を渡ってきた巫女がおり、それをオオナムジが助けたという筋書きが現れます。普通、海幸彦山幸彦の話にしても浦島太郎の話にしても、あくまでも日本から海に彼方に旅立ち琉球や竜宮城に行って戻ってくるという話です。ところが、白うさぎが持つ海の向こうから日本を見た視点は異彩を放っています。これは、月の世界から来たかぐや姫の視点に非常によく似ています。『古事記』の作者は、海の向こうから見た日本という視点を持っていたということが重要なのです。そこで私は、ほかにもこの海の彼方から見た日本という視点がないかどうか、探してみました。そして見つけたのが、右目の天照、左目のツクヨミ、鼻のスサノオであったわけです。(続く)
2021.08.16
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天孫高族の流れでは、高木神から娘のアマテラス、その娘のタギリに「高」が継承されたのはほぼ間違いないと思われます。アマテラスの別名タクハタチヂヒメの「タ」とタギリヒメの「タ」はおそらく「高」から来ています。そしてタギリヒメの子供がタカヒコとタカヒメですから、明確に高族であることがわかります。さて、問題の宗像三女神の末子タギツヒメことタカツヒメ(高津姫)ですが、タギリヒメと同様にスサノオとアマテラスの子であれば、当然「高族」の血統なのですが、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、高津姫ことタギツヒメは、実はスセリビメであることになります。というのも、『帝皇日嗣』ではカムヤタテヒメはスセリビメであると伝わっているからです。カムヤタテヒメがスセリビメであるという証拠は、ほかにもあります。それが「ヤ(屋)」です。カムヤタテヒメの「ヤ」は娘タカテルヒメの別名「ヤオトメ(屋乎止女)」に引き継がれています。ヤオトメは「八乎止女」とも書きますね。神に奉仕する八人の巫女を指します。スセリビメの母親は、八つの川の頭領(越の八岐大蛇)を束ねていた祭祀女王「ヌナカワヒメ」でした。その娘のスセリビメがそこから「ヤ(屋)」をもらって、「カムヤタテヒメ(神屋楯姫)」となったと推察することができるわけです。カムヤタテヒメは事代主の母親ですが、『先代旧事本紀』では高津姫であると書かれています。そして国宝の「海部氏系図」にはカムヤタテヒメとはタギツヒメのことであるとしています。それらを総合すると、スセリビメ=カムヤタテヒメ=タギツヒメ=タカツヒメとなります。すると当然、スセリビメはスサノオの連れ子であって、アマテラスの子ではありませんから、高族の直系ではないことになります。高木神からすると、義理の孫です。その義理の孫に「高」という称号が付いたことが面白いんですね。「高」がスセリビメに渡った理由は、おそらくニギハヤヒことオオドシが天火明として天孫日向族の系図に組み込まれた理由と同じです。出雲神族の正統な後継者を天孫日向族の系図に入れておかないと、自分たちの正統性を主張することができなかったのではないかとみます。クマノクスヒのケースと似ていますね。タカテルヒメの「高」は、タカテルヒメ(別名ヤオトメ、アメノミチヒメ)とニギハヤヒの間に生まれたアマノカグヤマに受け継がれます。アマノカグヤマの別名は、『帝皇日嗣』に書かれているように「タカクラジ(高倉下)」であることから、それがわかります。タギツヒメの系統から継承された「高」は、タカヒコネ(高鴨)やタカヒメからどこに受け継がれたのでしょうか。おそらくタケツノミの「タケ(タカ)」、タギツヒコの「タギ(タカ)」として継がれ、タマヨリヒメの「タ」への流れになったのではないでしょうか。三女神のうち残るイチキシマヒメの別名とみられるミホツヒメ(高木神の実孫)から、ホツ(フツ)や玉として「高」が継承された可能性もあります。そのイチキシマヒメとニギハヤヒが結婚して生まれたのが、後にタマヨリヒメと結婚してヒメタタライスズヒメを儲けた「朱塗り矢」ことオオヤマクイです。タタラは蹈鞴のこととされていますが、意外と「タカラ(宝)」とか「高良」のことではないかと思っています。
2021.08.08
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「神」「天」「大」のほかに出てくる「高」についても書いておきましょう。高はタカミムスビこと高木神の「高」です。その娘がアマテラス(天照大御神)ことヨロズハタトヨアキツシヒメ、またの名タクハタチヂヒメです。アマテラスはアメノオシホミミと結婚して、ニニギを儲けました。ただし、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、次男ニニギのほかに、長男アメノホヒ、三男ヒコホホデミ、四男ウガヤフキアエズを儲けているそうです。このアマテラスの夫と四人の子供の五柱の男神が、誓約で誕生したことになっています。ここまでが『帝皇日嗣』で明らかになったことです。で、この「高」という名がどのように世襲されたかと言うと、最初に登場するのは、タカヒコネ(アヂスキタカヒコネ)とタカヒメです。大国主と宗像三女神の長女タギリヒメの間に生まれた息子と娘ですね。つまり高木神の「高」は、娘に「タク」として伝わり、その孫に「高」として継承されたことがわかります。ところがここで問題が起こります。そのタカヒメと結婚したアメノワカヒコが高木神を裏切って出雲神族側についてしまったんですね。怒った高木神はアメノワカヒコを射殺します。残されたタカヒコネは、出雲神族と天孫日向族の板挟みになります。そして「こんなのやってらんない!」とばかりに、アメノワカヒコの喪屋をけ飛ばして逃走します。このときオオドシを頼って大和の葛城山に拠点を置いたのだと思われます。その証拠に葛城山麓の奈良県御所市には、全国のカモ(鴨、賀茂、加茂)神社の総本社とされる高鴨神社があるでしょ。ご祭神は、アヂスキタカヒコネ。高木神の「高」族であったことがわかります。同時に賀茂(鴨)氏の祖神であることもわかるわけです。つまりタケツノミですね。その高鴨神社から葛城山を仰ぎみると、中腹に高天彦(たかまひこ)神社があります。そのご祭神が、アヂスキタカヒコネの祖父・高木神とその孫イチキシマヒメになっています。高族の痕跡が残っているんですね。ではなぜ、高木神とともに孫のイチキシマヒメが祀られているかというと、それは宗像三女神の次女であるイチキシマヒメとスサノオの四男であるオオドシが政略結婚したからです。「大」が「高」の二人(タカヒコネとイチキシマヒメ)を受け入れて、ある程度の協力関係を築いたと解釈できるわけです。そのことは『日本書紀』にもそれとなく書かれています。高木神が大物主神ことオオドシに対して「わが娘のミホツヒメをお前に娶らせて妻とさせたい。八十万の神たちを引き連れて、長く皇孫のために守ってほしい」と頼んでいますね。この「わが娘ミホツヒメ」が高木神の孫イチキシマヒメである可能性は高いとみます。またの名をアメチカルミズヒメと言います。しかし、ここに問題があります。それがタカテルヒメなんですね。母は高津姫。「高」族の正統な後継者のような名前を持っています。だけどこの高津姫の正体は宗像三女神の三女タギツヒメなんですね。次回は、タギツヒメから始まる「高」の秘密について論じてみましょう。天孫高族の正体?
2021.08.06
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天照大御神。菊花紋のごとく、四方八方に太陽の光を放ちます。太陽の巫女、すなわち日御子(ひみこ)ですね。でも天照だけが日巫女(卑弥呼)ではありませんでした。ほらこの通り・・・おそらくアマテラスことヨロズハタトヨアキツシヒメは高木神の娘で、第90代の日御子(祭祀王)です。三世代後の神武天皇と結婚した五十鈴姫が第93代。その後、第8代孝元天皇の異母妹ヤマトトトヒモモソヒメが第百代の日巫女を襲名。第101代目の日御子は表がヤマトトトヒメ、裏がヒコフツオシノマコトだとにらんでいます。まさに101人目の日巫女をもって、表の歴史から姿を消したとみています。
2021.08.04
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京都の下賀茂神社に参拝したことがあれば、タケツノミが八咫烏であることを知っている人は多いと思います。しかし、タケツノミがアヂスキタカヒコネと同一人物であると知っている人は少ないですね。竹内氏の継承した口伝『帝皇日嗣』には、ちゃんと同一人物であると書かれているそうです。私も最初、竹内氏からその話を聞いたときに「本当に同一人物なのかな」と疑って、調べました。すると、大国主と宗像三女神の長女タギリヒメとの間に生まれたアヂスキタカヒコネの別名は迦毛大御神で、神武天皇の道案内をしたことでしられるタケツノミは賀茂氏族の祖神となっていることに気づきます。どちらもカモの祖神様ということになりますね。更に調べると、最初アヂスキタカヒコネは九州や出雲にいますが、出雲神族とは袂を分かち、大年とともに大和の葛城山辺りに拠点を置いたことがわかります。神武東征のときは八咫烏として先導して功を上げた後、カモタケツノミとして山城の国に移ったこともわかってきます。つまり、二人が同一人物であると考えると、辻褄が合うんですね。タケツノミはタケチヌツミともいいます。神武の后となったイスズヒメの祖父(実際は義理の父らしい)とされるミシマミゾクイミミ、別名スエツミミもタケツノミの別名です。クシヒカタアマヒカタタケチヌツミという異称も持っています。最後の異称だけ説明しましょう。クシヒカタとは「奇日方」、すなわち大年神流系(櫛玉)を指します。アマヒカタは「天日方」、すなわち天孫日向系を指します。喪屋を蹴り飛ばして出雲神族と決別したアヂスキタカヒコネは、大年神流大和族と天孫日向族の側に付いたことを示していますね。そのクシヒカタアマヒカタタケチヌツミから「クシヒカタアマヒカタ」の称号をもらったのが、上賀茂神社のご祭神で、神武天皇とともに祭られているカモワケイカズチです。別名・鴨王。イスズヒメのお兄さんですね。カモワケイカズチの父親・火雷神とは、朱塗り矢ことオオヤマクイであるとすれば、すべてが説明できます。アヂスキタカヒコネは、迦毛大御神であり、八咫烏であり、タケツノミであり、タケチヌツミであり、ミゾクイミミであり、スエツミミであり、クシヒカタアマヒカタであったわけです。まさに八変化。激動の時代を生き抜いたキーパーソンでした。
2021.08.02
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仮に神武天皇の父親が出雲神族系でなくとも、イスズヒメの父親は間違いなく出雲神族系(正確には大年神流大和族)のオオヤマクイですから、「神」の呼称が神武天皇に渡ったとしても矛盾しません。そしてその「神」の名は「ヌナカワ」の世襲名とともに息子のカムヌナカワミミに引き継がれたと私はみます。ほかにも懿徳、孝霊、孝元など歴代の天皇に「大日本」を冠した名前が付けられたのも、大年神流大和族の流れを意識した呼称であることは間違いないと思われます。二世紀半ばになると、大和国は内乱の時代に突入しますが、それを救ったのが第九代開化天皇と第十代崇神天皇。二人とも大年神流大和族直系の母親を持ちます。開化天皇の兄はオオビコですから、まさに大年の「大」が付いています。私が第101代卑弥呼(日御子)と比定しているオオタタネコも「大」が付いていますね。間違いなく大年神流の血統を継ぐものです。だから大物主神を祀る祭主になれたわけですね。第100代卑弥呼のヤマトトトヒモモソヒメではいけなかったのです。ヤマトトトヒメならOKです。なぜなら彼女もまた、大年神流の直系オオヘソキの娘イカシコメが母親だからです。その辺のことは、それとなく『日本書紀』に記されていますね。このように「天」、「神」、「大」、それに今回は説明しませんでしたが、タカミムスビの「高」の名を冠した正式名称にはそれぞれの王族の血流を示す意味がちゃんとあるのです。それを念頭に記紀を読むと、より分かりやすく物語を理解することができるのではないでしょうか。
2021.07.31
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神武天皇の父・ウガヤフキアエズことクマノクスヒがスサノオの息子だとしたら、一体誰なのかという問題の続きです。 私には二人の候補がいるように思われます。 一人は大和の王となった四男のオオドシ(ニギハヤヒ)ですが、熊野は地政学的に遠いように思われます。それにオオドシと神武天皇が親子になってしまうと、神武東征の物語が破綻してしまいますね。 そこで考えられるもう一人の候補は、紀伊国(木の国)の王となったイタケル、別名オオヤビコです。 オオヤビコは八十神に命を狙われた大国主を助けて、スサノオに助けを乞うようアドバイスしています。ところがその後のオオヤビコの消息は記紀には記されていません。 長い空白期間の後、次に実質的な紀伊国の王としてアメノカグヤマ(別名高倉下)が登場します。アメノカグヤマはニギハヤヒとアメノミチヒメ(おそらくタカテルヒメ)との間に生まれた王子です。つまり、オオヤビコとアメノカグヤマは叔父と甥の関係となるわけですね。オオヤビコに後継者がいなかったのだとしたら、アメノカグヤマが紀伊国の王を継承したのかもしれません。 また、竹内氏が海運王(海軍大将)だと表現しているウガヤフキアエズとアメノカグヤマは、同じ熊野に拠点を置いている点も注目に値します。かなり近しい関係であったのは間違いないでしょう。 つまり地政学的にみて浮上してきたのが、イタケル=ウガヤフキアエズ説というわけなのです。誓約で生まれたとされる五柱の男神の末子は、後に熊野の王となったスサノオの長男(あるいは次男)とみられるイタケルであった可能性は十分にあると思います。 さらに私がこの謎を解くカギとして着目しているのは、『先代旧事本紀』にウガヤフキアエズの五番目の子、もしくは弟として登場するタケクライオキ(武位起)です。アメノカグヤマとホヤヒメが結婚して生まれた子の名前はイタテ(五多底)。クライオキ(位起)は「イタテ」とも読めますから、同一人物もしくは世襲名「イタテ」の後継者とも考えられることもできます。 同一人物でかつウガヤフキアエズの子だとしたら、ウガヤフキアエズの正体はアメノカグヤマということになりますが、誓約の場面でスサノオの孫が出てくるのはやはりおかしいです。 一方で、ウガヤフキアエズがオオドシ(ニギハヤヒ)だとすると、クライオキ(イタテ)はアメノカグヤマとなります。 神武の父親ウガヤフキアエズ(クマノクスヒ)が本当にスサノオの息子なのかはわかりませんが、少なくともイタケルやアメノカグヤマと非常に近い人物であったことは間違いないと思われます。
2021.07.31
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神武天皇ことサノノミコトの正式名称は、カムヤマトイワレビコといいます。正式名称の頭に「神」が付いています。それはつまり出雲神族であることを示しますね。なぜ神武天皇の正式名称に出雲神族の名前が付いているのか――。実は、竹内氏が口伝継承したという『帝皇日嗣』を読み解く最大の難関がここにあります。 竹内氏自身も、神武天皇の父親であるウガヤフキアエズの別名クマノクスヒがなぜか出雲神族の名前であると認めています。だけどそれは、出雲の神の系図を天孫族の系図に組み入れて正統性を強調するためだったとも言っています。 果たしてそれは形式上の話なのか、それとも実際に出雲神族の王統の血がサノノミコトに入っているのでしょうか。ハムレット的に大きな問題です。 竹内氏はこれに関連して、京都の上賀茂神社のご祭神は二柱おり、一柱は通常知られているカモワケイカズチノカミで、秘されているもう一柱は神武天皇であるとしています。そしてそのことが隠されているのは、天皇家を守るためだとも言っていますね。 これをどう解釈するかですが、これもいくつかのシナリオがあります。 形式上、出雲神族の神の名を入れたのだとすると、確かに簡単に決着します。オオドシの名前を天火明(アメノホアカリ)として天孫日向族に組み入れたように、正統な王統であることを強調するために、他族の神を組み入れたのかもしれません。その場合、ウガヤフキアエズはアマテラスとオシホミミの間の末子となり、正統な天孫日向族の直系になります。巷に知られている通り、神武天皇も天孫日向族で間違いありませんね。 ただし、私は必ずしもそうではないのではないかとみています。神武天皇は、正統な出雲神族の直系なのではないかという可能性です。そうでなければ、「神」という名を付けなかったのではないでしょうか。 思い出してください。 『帝皇日嗣』によると、スサノオとアマテラスが「誓約」で知られる政略結婚をした際、スサノオの子(実際はオシホミミとアマテラスの子)として四柱の男神が生まれ、アマテラスの子(実際はスサノオとアマテラスの子)として宗像三女神が生まれました。しかし、その際、宗像三女神の長女と次女が天孫族アマテラスの子で、末子タギツヒメは出雲神族の子である可能性があるということは既に説明したとおりです。 だとしたら、四柱の男神の末子クマノクスヒ(ウガヤフキアエズと同一神)もオシホミミの子ではなく、スサノオの子である可能性が強いのではないでしょうか。つまりそれぞれの末子だけ、たすき掛けにして入れ替えているわけです。 もしそうだとしたら、どの神なのでしょうか。 私が推測するに、有力候補は二人います。 (続く) 寄せ植えのように、いろいろな部族の王の血統が入り乱れて一つに集まっているのかもしれませんね。
2021.07.29
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記紀に出てくる神々などの名前を見ると、本名の最初に「天」があるのか、「神」があるのか、「大」があるのかで、記紀の編者はどういう系統の神であるか、あるいはどういう系統であると主張したかったかがわかるようにしているのです。アメノオシホミミやアマテラスは「天」ですから、天孫日向族ですね。オシホミミとアマテラスは天孫族の王と女王で、統治王と祭祀王でした。その二人の息子であるアメノホヒ、アメノニニギも日向族。後で説明しますが、アメノホアカリやアメノカグヤマ、アメチカルミズヒメ、アメノミカジヒメ、アメノミチヒメもすべて編者が天孫族として紹介しています。一方、「神」は出雲神族系です。神素戔嗚(カミスサノオ)、カムヤタテヒメ、カムオオイチヒメは完全な出雲族。カミムスビの子とされるスクナビコも出雲神族です。では「大」はどこから来ているかと言うと、スサノオと袂を分かった四男大年の神流を表します。オオドシは大物主神、すなわち大和の王となったニギハヤヒのことですね。オオドシに命を助けてもらった大国主も実質的には大年神流大和族です。当然、大年の子であるオオヤマクイ、オオカグヤマトミも大年神流の系統で、後に開化天皇の兄として出てくるオオビコ、事実上の第101代ヒミコであるオオタタネコもニギハヤヒ(大年神流)の系統です。面白いところでは、どっちつかずの名前もあることです。それが鴨王の異称をもつアメヒカタクシヒカタ。天日方奇日方と書きますが、天孫族であると同時に、クシタマ(奇玉=櫛玉)を持つニギハヤヒの大年神流大和族であるとも読めます。上賀茂神社のご祭神・カモワケイカヅチの神のことだと思われます。天孫日向族と出雲神族の政略結婚の結果生まれた宗像三女神も、それぞれ天孫族と神族の名前を持っている可能性があります。イチキシマヒメの天孫族の名はおそらく、アメチカルミズヒメです。タギツヒメの娘タカテルヒメも、アメノミチヒメもしくはアメノミカジヒメと呼ばれた可能性があると私はみています。そのアメノミチヒメとニギハヤヒが結婚して生まれたアメノカグヤマの出雲神族の呼び名が、オオカグヤマトミではないでしょうか。ニギハヤヒ自身も、天孫族の名で呼ばれるときは、天火明(アメノホアカリ)となります。ニニギの兄扱いですね。ニギハヤヒが天孫日向族の姫(イチキシマとアメノミチヒメ)と政略結婚しているので、天孫族に婿養子にいったとも解釈できるからです。では、なぜ神武天皇がカムヤマトイワレビコなのかという大きな問題があります。神は出雲神族の系統のはずですから。次回はこれについて語りましょう。一体、名前が何だっていうの?薔薇はどんな名前で呼んでも、素敵な香りがするでしょ。
2021.07.28
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今日から9月。涼しくなったので、次の次の本に関係する写真を紹介してゆきましょう。世界の巨石シリーズです。最初はこちら。マナティとかマンモスに似ていませんか?存在感のある巨石ですよね。英国エイヴベリーの巨石遺構の一つで、二つあるアヴェニューのうちの南西に延びているアヴェニューの終点に置かれている立石です。ところで、『卑弥呼は二人いた』の著者校正がほぼ終わりました。今月19日ごろ書店に並ぶ予定です。カバーが出来上がりましたら、詳しくご紹介いたしましょう。
2020.09.01
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竹内氏の『古事記の邪馬台国』は、「魏志倭人伝」で「伊支馬(いきま)」として登場した「伊久米(いくめ)」こと垂仁天皇の時代を最後にして、終わります。簡単に説明すると、崇神天皇の時代は大物主神を再認識する時代であり、垂仁天皇の時代は大国主神を再認識する時代であったということなのかもしれません。孝元、開化、崇神とニギハヤヒ系の血を濃く入れて、垂仁の時代は大国主系をより重用したということでしょうか。そうかもしれませんね。 いずれにしても、どこの血統かが重視された時代であったことは間違いありません。ヤマトトトヒモモソヒメでは大物主神を祀るのに適していなかったことは、オオタタネコの説話を読んでもわかります。 つまり系図を知ると知らないとでは、雲泥の差がでるということでもあるようです。その意味で『帝皇日嗣』には歴史を正す力があります。記紀を読んでもわからない系図が『帝皇日嗣』にはあるからです。 この後、竹内氏は二〇一七年八月に『古事記の暗号』を、二〇一九年二月には『天皇の秘儀と秘史』を上梓します。 その後、二〇二〇年一月一三日に帰幽されたわけですね。「竹内文書」の一時代が終わった気がします。生前竹内氏は「武内宿禰は第七三世で最後」と話していたそうです。もうこれ以上『帝皇日嗣』が外に出てくる可能性はない、ということかも知れません。もしそうであるならば、これまでに竹内氏が語った『帝皇日嗣』をまとめて、いつか本にできればなと思っています。(終わり)
2020.06.21
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崇神天皇は、影の祭祀王制度を作って、主に幽祭を執行する祭祀王にヒコフツオシノマコトを、伊勢斎宮の顕祭を執行する祭祀王(祭主)にトヨを就任させました。で、幽祭を執行する祭祀王だけ世襲制にしたんですね。そこから武内宿禰が生まれます。同時にオオタタネコも大物主神(ニギハヤヒ)を顕祭で祭る初代祭主、イチシノナガオチを倭の大国魂神を祭る顕祭の祭主としました。 倭の大国魂神とは、謎の神ですが、系図上は大年の子(大国御魂神)であるとみられています。ほとんど同じ名前ですからね。大年はニギハヤヒのことですから、ウマジマジ、アマノカグヤマ、オオヤマクイが候補となりますが、後の二人は明確に大年の系図に入っています。ニギハヤヒの子であることを隠したかった神だとすれば、意外とウマシマジかもしれませんね。あるいは、大和国の地主神とみるならば、大和国を先に支配していた徐福ないしは徐福系のことを指しているのかもしれません。ほかにもスサノオ説、オオナムジ(大国神)説があるように思います。 いずれにせよ、崇神天皇は一大宗教改革を断行した感じがします。さらに、四道将軍を北陸、東海、山陽、山陰の四道に派遣して大和国に従わない者たちを帰順させたといいます。それによって国はようやく治まった。こうして崇神天皇は神武天皇と同じ諡(おくりな)である「初国知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」を持つことになったわけです。大和建国の初心に返ったということでしょうか。(続く)
2020.06.20
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この辺りの人事関係に関しては、竹内氏は詳しく語っていませんね。『古事記の邪馬台国』でも、卑弥呼がいてその時代の天皇は崇神だったということを念頭において読んでほしいと書いて、大田田根子の話を導入しています。 オオタタネコは極秘伝中の極秘伝だからです。私もそのことに感づいていましたら、一度だけ、竹内氏に「オオタタネコは何者か」と尋ねたことがあります。そうしたら、「言えません。ただ・・・」と言って、ヒントだけくれました。明確な答えをもらえませんでしたが、そのヒントから「なるほど、そういうことだったのか」と思い至る答えを見つけたんですね。それがあっているかどうかはわかりませんが、一応それで全部説明できます。 もしオオタタネコが『先代旧事本紀』に書かれている通りだったら、私にそれを言えばよかった。だけどそれを伝えずに、あのヒントをくれたということは、『先代旧事本紀』の系図が間違っていることを意味します。その答えも追々このブログで紹介することにして、話を先に進めましょう。 影の祭祀王がヒコフツオシノマコトにしたというところまで話しましたね。影の祭祀王は幽祭と顕祭を執行し、表の祭祀王は顕祭のみを執行するという役割分担があったようです。たぶんまだ、卑弥呼ことヤマトトトヒモモソヒメが生存中にそれは始まったように思います。 表の祭祀王と裏の祭祀王。 ただし中国側はそのことを知りませんから、『魏志倭人伝』では、卑弥呼が死んで男が王となったので、国が再び荒れたと書かれています。で、再び女性(宗女=一族の娘)が王になったので、国が治まったとも書いています。 この男王とは、おそらくヒコフツオシノマコトのことですね。そして再び女王となったのは、「台与」ことトヨスキイリヒメです。(続く)
2020.06.19
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卑弥呼に仕え、ただ一人部屋への出入りを許された男とは、それはヒコフツオシノマコト(彦太忍信命)であったと竹内氏は言います。そしてこのヒコフツオシノマコトの異父弟(あるいは実弟)が崇神天皇です。時代考証的にはぴったり合いますね。中国側は、ヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメの区別がつかなかったので、崇神天皇のことを卑弥呼の男弟としてしまったわけです。 その崇神天皇が即位してからも実に28年間も第8代祭祀王として君臨した卑弥呼も西暦248年ころ亡くなってしまいます。径百四歩の「大いなる墓」とは、箸墓古墳で間違いありません。かつて箸墓古墳は三世紀後半か四世紀初めの古墳であるから卑弥呼の墓ではありえないとされていましたが、その後の年代測定で三世紀半ばごろの古墳であると認定されました。 ここでポイントとなるのは、卑弥呼が高齢で亡くなる前に、崇神天皇が宗教改革に着手したことです。崇神天皇の時代、悪性の伝染病が流行り、人々がバタバタと倒れ始めたのです。ヤマトトトヒモモソヒメの祭祀王としての呪力では、これを食い止めることができなかったことは、『日本書紀』にヤマトトトヒモモソヒメが大物主神との結婚に失敗した逸話として象徴的に書かれています。大物主大神を怒らせてしまった卑弥呼は、ショックでドスンと座り込み、その際、箸で陰部をついて死んでしまいます。 これは非常に象徴的な話です。というのも、ヤマトトトヒモモソヒメではニギハヤヒの王統を継いだ祭祀王ではなかったからですね。そこでヤマトトトヒモモソヒメを祭祀王としたまま、ニギハヤヒの直系であるオオタタネコを祭祀王の代理にしたわけです。同時に、影の祭祀王としてヒコフツオシノマコトを任命しました。ヒコフツオシノマコトは、ニギハヤヒの直系であるだけではありません。ナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメの直系でもあります。徐福の血をひいているわけですね。(続く)
2020.06.18
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「魏志倭人伝」を見てゆきましょう。景初二年(あるいは景初三年)に、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えたという記述があります。西暦でいうと、238年あるいは239年です。崇神天皇の即位年は220年で、次の垂仁天皇は254年ですから、ちょうど崇神天皇の時代に卑弥呼ことヤマトトトヒモモソヒメは「親魏倭王」の称号を得たことになります。 仮に孝元天皇元年(186年)にモモソヒメが10歳だったとしたら、「親魏倭王」をとなったのは、62歳くらいだった計算になります。「年既に長大なりしも夫壻(ふせい)なし」と書かれていますから、まさにその通りとですね。 「男弟ありて、国を治むるを佐(たす)く」と書かれていますが、男弟とは崇神天皇のことです。中国側から見れば祭祀王がトップですから、統治王である崇神天皇は祭祀王の補佐ということになるわけです。 しかし、系図をよく知る人は、ヤマトトトヒモモソヒメは崇神天皇の弟ではなく、孝元天皇の弟であるから記述がおかしいと思うかもしれません。そう、確かに間違っています。だけれども、これにも理由があるんですね。 同時代の巫女であるヤマトトトヒモモソヒメと、開化天皇の実妹ヤマトトトヒメが同一人物であると中国側が勘違いしたと考えると、すべて説明できてしまうんですね。 問題は、この時代の複雑な皇室の系図(人間関係)にあります。(続く)
2020.06.16
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三人の桃太郎の活躍によりようやく吉備を平定した邪馬台国こと大和国は、九州から大和への東遷を図ろうとします。西暦186年に即位した孝元天皇の時代です。 残る抵抗勢力は、東国の人たち、すなわちアラハバキ軍ということになります。ここで思い出してもらいたいのは、『東日流外郡誌』では孝元天皇はアラハバキ系であったと書かれていることです。「えっ!?」って思いますよね。なんでアラハバキ系なんだ、と。 断っておきますが、この件に関して竹内氏は何も言っていません。ただ、「物部一族の方が竹内家(当時は天皇家)に嫁いできた。その段階で出雲系と大和系(天皇系)の統合があった」とだけ書いてあります。 実はこれが非常に重要なポイントなんですね。孝元天皇はアラハバキ系の王女を正妃に迎えたんです。太田亮の『系図要綱』をよく見ると、浮かび上がってくるでしょ。ナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメの直系を孝元天皇は正妃に迎えるんです。一種の政略的結婚です。竹内氏はこれを「物部一族の方」と呼んでいるんですね。間違いではありません。ミカシキヤヒメと政略結婚したのは、物部氏の祖であるニギハヤヒですからね。そうすることによって、孝元天皇はアラハバキ系の抵抗勢力を懐柔したのではないかと私は思っています。このことについては、もう少し詳しく語りましょう。(続く)
2020.06.12
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最初に東国からのアラハバキ軍に負けて、西に移動。さらに吉備国との戦いに敗れて九州に遷都を余儀なくされた孝昭、孝安、孝元天皇の時代ですが、その日向国には遷都した痕跡があると、竹内氏は言います。その痕跡こそ、九州にある大和の地名だというんですね。 九州・熊本県の山門(やまと)郡と近畿・奈良県の大和の地名が見事に一致すると竹内氏は言います。北にはどちらも三笠山があり、さらに遠くには志賀島と滋賀がある。九州の耳納(みのう)山は美濃と相対し、日田は飛騨、球磨(くま)川は熊野と響き合います。日向の伊鈴川は三重の五十鈴川、志摩という地名まで同じです。 明らかに大和と日向の間で遷都があったことがわかります。ただし、どちらからどちらへ遷都したかは、これだけではわかりませんね。 ただ状況からして、100年以上住み慣れた大和の地名を、避難先の日向でも使った可能性は十分あると思います。 日向国で国力を蓄えた邪馬台国は、反乱軍を制圧するために反撃を開始します。それが孝元天皇の時代ですね。(続く)
2020.06.10
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二日前、懿徳天皇の時代の祭祀王は兄のオキソミミで、シキツヒコは祭祀王ではなく軍事王であったと訂正しましたが、2013年に学研から竹内氏が出した『正統竹内文書の謎』ではオキソミミが祭主代で、シキツヒコが祭祀王であったとしていますね。それを『古事記の邪馬台国』で竹内氏が修正・訂正したことになるわけです。つまり私が書いたことも間違っていたけど合っていた、ということになります。 でもどうしてそういうことになるかというと、一面においてはしょうがないわけです。というのも竹内氏は12の長老家からそれぞれ口伝を継承するのですが、それぞれ皆違う口伝を竹内氏に伝授するからです。『日本書紀』でも一書(第五)に曰くとか、次々と別の書が出てきますよね。あれが常に12あると思えばいいわけです。 で、竹内氏の仕事の一つは、それらを全部聞いて覚えたうえで、審神者をして何が本当の歴史かを明らかにすることなんですね。ですから竹内氏は最初のころ(2013年の『正統竹内文書の謎』まで)は神武天皇の即位年を西暦56年としていましたが、その後2017年の『古事記の邪馬台国』までには、第73世武内宿禰としてすべての口伝を勘案したうえで、最終的に西暦57年であると決断したわけですね。 ちょっと脱線しましたが、次からは孝昭天皇の時代の倭国大乱の有様を見てゆきましょう。(続く)
2020.06.08
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倭国大乱の時代、大和国は大変なことになります。天皇の時代でいうと、孝昭、孝安、孝霊、孝元の四代です。竹内氏が指摘しているように、皆、諡(おくりな)に「孝」が付いていますよね。孝昭天皇が即位したのは西暦140年ですから、そのころから開化天皇が即位する204年までの約64年間が倭国大乱の時代であったのではないかと竹内氏は見ているようです。しかもその時代、葦原中国すなわち「邪馬台国」は大和から九州に一時撤退を余儀なくされたといいます。 なぜ「孝」という諡を付けたのか、竹内氏は明らかにしていませんが、「孝」には親をよく思い、親によく仕えることという意味があります。つまり、内乱によって大和国を追い出された形になってしまったが、親(先祖)がせっかく大和につくった国を取り戻すべく、よく頑張って戦ったという意味が込められているのではないでしょうか。 この竹内氏の邪馬台国九州遷都説は、魏志倭人伝の記述とも一致します。「女王国ではもともと男子を王としていたが、70~80年を経て倭国が相争う状況となった」と書かれていますね。神武天皇が即位したのが西暦56年ですから、それから70~80年後というと、西暦126~136年ごろとなります。孝昭天皇が即位した年(140年)とほぼ一致しますね。 ただし、ここにはトリックがあって、「もともと男子を王としていた」とありますよね。これはもちろん神武天皇に始まる統治王のことを指している可能性はありますが、魏志倭人伝の作者が倭人の王のことを祭祀王だとしている場合は、カムヤイミミ以降の祭祀王のことを言っているとも解釈できます。後者の場合だと、まさに孝昭天皇の時代から倭国大乱が始まったことになります。 では邪馬台国はどこと戦ったかというと、それは「造山(つくりやま)古墳」で知られる吉備国であったと竹内氏は言います。でも、おそらく東北に逃れたというナガスネヒコとアビヒコの子孫たちの動静も侮れなかったと思われます。彼らがおとなしく黙っているわけはありませんね ここで思い出されるのは、偽書とされて学界からは見向きもされない『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』です。アビヒコを祖とする東北のアラハバキ軍は、「懿徳天皇の後、南下して、大和王朝を空位ならしめた」としています。『帝皇日嗣極秘口伝』とぴったり一致するでしょ。孝昭天皇は大和国から日向国に逃げたので、大和国の王位はその後、空位となったわけです。 『東日流外三郡誌』はまた、孝元天皇はアラハバキ系であったとも書いてあります。一般の人には何のことか全くわかりませんよね。ところが『帝皇日嗣極秘口伝』もしくは本当の天皇家の系図を良く知るものなら、何のことがピンと来るようになっているんですね。ですから、『東日流外三郡誌』は偽書かもしれませんが、当時の天皇家ならびに王たちの系図をよく知るものが書いた一流の偽書であることがわかるわけです。(続く)
2020.06.07
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再び竹内氏の『古事記の邪馬台国』を解説していきましょう。第四代懿徳天皇まで来ました。兄のオキソミミが祭祀王で、弟のシキツヒコが軍事王になったようです。 2011年に私が書いた『竹内文書の謎を解く2―古代日本の王たちの秘密』では、シキツヒコを祭祀王、オキソミミを祭主代としてしまいましたが、これは間違いだったようです。訂正させていただきます。 言い訳がましく聞こえるでしょうが、そもそもオキソミミは『日本書紀』には出てきますが、『古事記』には出てきません。その場合は隠された祭祀王である可能性が強いということですね。たぶん出自(母親)を隠さなければならなかった。開化天皇の妹のヤマトトトヒメも『古事記』に出てきませんね。ヤマトトトヒメも隠された祭祀王ではないかと思っています。 それはともかく、それほどシキツヒコという人は、重要なポジションにいたことは事実です。シキツヒコの孫にあたるハヘイロネ(姉)から倭人伝の「卑弥呼(ヤマトトトヒモモソヒメ)」、妹ハヘイロドから鬼退治で有名な「桃太郎(キビツヒコ)」が生まれます。また、ハヘイロネは「アレヒメ」という世襲名をもらっていたとも竹内氏は書いていますね。「アレ」とは歴史を担当する文部大臣のような役職のようです。 懿徳天皇の時代に、大規模な農業改革をやったので、お米がたくさん収穫できるようになったそうです。経済的に潤って豊かになったので「徳」という諡(おくりな)をもらったとか。逆に豊かになったがゆえに、周辺国から狙われるようになったと竹内氏は言います。「魏志倭人伝」に出てくる「倭国大乱」に時代に突入したわけですね。(続く)
2020.06.06
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神武天皇は後漢の光武帝から57年に「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」をもらった「倭奴国王(わのなのこくおう)」の可能性があります。「な」は「ぬ」とも「の」とも読みますから、神武の別名である狭野命(さののみこと)の「の」ではないかと竹内氏は言います。そうかもしれませんね。 でも本当に偉かったのは、イスケヨリヒメのほうであったと竹内氏は言います。どういうことかというと、当時は統治王と祭祀王がおり、祭祀王のほうが上席にあったからだそうです。つまり神武天皇が統治王で、イスケヨリヒメが祭祀王だったわけですね。 タギシミミの乱の後、統治王になったのは、綏靖天皇。祭祀王は神八井耳(カムヤイミミ)です。天下を安んじて治めることができたので、奈良時代の漢学者で、『帝皇日嗣』を知る淡海三船が「綏靖」という諡(おくりな)を付けたそうです。 次の安寧天皇は兄弟がおらず、兄弟間の揉め事もなく安らかに統治王になったので「安寧」になったとか。この時代に祭祀王を務めたのは、タギシミミの息子のキスミミです。謀反を起こしたタギシミミの息子が祭祀王になれるわけですから、何か深い事情がありそうですね。その辺の事情はわかりませんが、タギシミミも実は殺されておらず、逃げたか流刑になった口伝もあるようなことを竹内氏は話しておりました。安寧の本名である師木津彦玉手看(しきつひこたまてみ)の「師」が、倭の国王「帥升(すいしょう)」と名付けられた理由ではないかと竹内氏はみているようです。 安寧の次の統治王は懿徳天皇。祭祀王は息石耳(オキソミミ)です。耳という字がやたら目につきますが、ミミとは神の声を聞くことだそうです。つまり、まさに「祭主」「祭祀王」ということになりますね。そうなると、ミゾクイミミの別名を持つタケツノミも祭主だったのでしょうか。(続く)
2020.06.01
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再び『古事記の邪馬台国』を見ていきましょう。重要なのは、神武天皇が即位した年が明確に記されていることですね。紀元前660年ではなく、西暦57年です。以前は西暦56年ではないかと計算していたようですが、最終的には57年で決着したと書かれています。 この後竹内氏は、次々と歴代天皇の即位年を明らかにしていきます。綏靖75年安寧107年懿徳124年孝昭140年孝安157年孝霊171年孝元186年開化204年崇神220年垂仁254年景行304年 すごいですね。完璧です。これで魏志倭人伝など中国の記録がすべて読み解けます。私も『日本書紀』のお手盛り具合の法則を見出そうとして、計算式を作ってある程度の即位年を推定したことはありますが、竹内氏の口伝が正解だとすると、それぞれ約10~30年はずれていました。でもそれさえ、神武天皇の即位年が56年ごろであると竹内氏から聞いていたからできたんですけどね。 こうして欠史八代とされた歴史が詳らかになったわけです。(続く)
2020.05.31
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ナガスネヒコがなぜ「日本中央」と書かせたかは、推測するしかありませんが、仮にも日本の中央である葦原中国を治めた日之本将軍がやむなく遷都した地であれば、やはりそこは中央(葦原中国)なのであるという自負心があったのではないかと思われます。 ところで、『帝皇日嗣(極秘口伝)』にナガスネヒコが徐福の子孫であると書かれて(伝わって)いるのなら、安東氏もまた徐福の子孫だということになります。 そこで思い出すのは、秦の始皇帝の子孫が日本にいるということですよね。そう、秦氏です。東儀家にしても、長宗我部家にしても、秦河勝につながる秦氏の子孫の家には、秦の始皇帝を先祖とする系図が伝わっています。 どうしてわざわざその例を出すかというと、私が共同通信社の経済部で旧大蔵省(財研)担当のサブキャップをやっていたときの経済部長が長宗我部友親氏という長宗我部家の当主(親房から数えて17代目)だったからです。彼の家にも、秦の始皇帝を祖とする長宗我部家の系図が伝わっておりました。 私の大先輩でもある長宗我部氏は共同通信を辞めた後、歴史作家となり長宗我部家についての本を何冊か書いています。ちょうどそのことを今月上旬、たまたま原稿(まだ何の本の原稿かは明らかにできません)にして書いているその日に、何気に原稿提出先の出版社のサイトを見ていたら、なんと今月の新刊本のコーナーに長宗我部氏の新刊『秦氏の夢 長宗我部元親』が紹介されていました。なんというシンクロニシティ! 先輩や後輩を含め、共同通信の同僚たちとは、よくこうしたシンクロ現象が起きます。私の同期に後に経済部長、編集局長を務めた出世頭のK氏がいるんですが、私が共同通信社を辞めて、人生をかけてアメリカに飛び立とうとしていたその日、成田空港でばったりとK氏に会ったことがあります。 当時K氏は日銀のサブキャップを務めた後、ニューヨーク特派員になっていました。だから特派員としてニューヨークにいなければならないはずだったので、私は「なんでこんなところにいるのか!?」と問いただしたほど意外なことでした。なんでも私用で仕方なしに帰国していたのだ、というような答えだったと思いますが、特派員が任期の三年の間に、東京に戻ってくることは仕事を除いてほとんどありません。よほどのことがあったのかなと思いましたが、特に追及はしませんでした。いずれにしても、人生に一度の日と、ほとんどありえない帰国と再出国のタイミングがぴったりと合って、成田空港での出会いとなったわけです。向こうはニューヨーク行きで、こちらはワシントンDC行きと便も違います。それなのに出会うというのは尋常ではありませんね。 その日、成田空港の一般待合席でK氏としばらく話をしたことを覚えていますが、彼は思い切って会社を辞めてアメリカの大学院に進むことを決めた私の判断に少なからぬ興味を持っているようでした。思えばK氏とは浦和支局でも一緒だったし、私が経済部で農水省を担当しているときに、彼は産業部の食品担当として同じ農水省クラブに在籍していました。何か切っても切れない因縁のようなものがあるのかもしれませんね。 昔話はこれくらいにしておきましょう。東北の安東氏に徐福を源とする系図や秘史が受け継がれていたとしても、不思議はないという話をしたところでしたね。そうした歴史や系図の一部が、偽書とされてしまった『東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)』だった可能性があるわけです。実は本当にそういう資料や口伝があったからこそ、室町時代の武将・安藤康季は自分に「日之本将軍」という称号を付けたのではないでしょうか。(続く)
2020.05.28
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なぜ私が仰天したかというと、一つは神屋楯比賣こそ事代主神の母親だからです。つまり竹内氏の言っていることが正しいとすると、事代主神の母親はスセリビメということになるんですね。確かにそう考えないと、「出雲の国譲り」のとき、大国主が「まず事代主神に出雲国を天孫(日向)族に譲っていいかどうか聞いてくれ」とタケミカヅチに言った理由の説明がつきませんね。事代主神が正統な出雲国の王位継承者だからです。それは当然、スセリビメの子であることを意味しています。 では、タケミナカタの母である沼河姫の正体はどういうことになるのでしょうか。沼河姫も実はスセリビメの可能性が極めて高いです。そんなことを言っても、『古事記』に出てくる大国主の妻問いの物語では、越の沼河姫とスセリビメは別人のように描かれているではないかと疑問に思う方もいるでしょう。 そう、別人の可能性はなくもありません。でも前回説明したように、「沼河姫」は越国の「巫女王」を示す世襲名です。八俣大蛇を退治したときに、スサノオと越の巫女王が政略結婚したのであれば、当然「沼河姫」の世襲名は出雲国の王統を継ぐスセリビメに継承されたはずです。 スサノオが越の巫女王と結婚したのではない場合でも、スセリビメを差し置いて、越国の巫女王と政略結婚をしたとなると大問題になります。スセリビメが亡くなった後、越国の巫女王と再婚したのなら話は別ですが。 そこでヒントになるのは、竹内氏の次の言葉です。「長男がタテミナカタで、末子が事代主であった」そう、出雲国では末子相続なので、最初にタテミナカタが生まれて、後で生まれた事代主が王位(祭祀王)継承者になったと見ることができるわけです。おそらく長子のタテミナカタは統治王か軍事王を引き継いだはずです。つまり状況的にみても、二人ともスセリビメの子であるとしたほうが、真実に近いように思えるんですね。 事代主が確実にスセリビメの子で、タテミナカタももしかしたらスセリビメの子であるとわかったことも大きな衝撃なのですが、実は本当に驚かなくてはならないのはここからです。 『先代旧事本紀』によると、事代主神の母親は宗像三女神の末子タギツ(高津)姫であるとしているからです。ということは、スセリビメは宗像三女神の末子ということになってしまうんですね。「そりゃ、ないでしょ」と思いませんか。だって、宗像三女神はスサノオとアマテラスの政略結婚で生まれた娘だったはずでしょ、って。(続く)
2020.05.23
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竹内氏の『帝皇日嗣』が面白くかつ凄いのは、たった二、三行の文言で、記紀の記述によって信じられていた物語のプロットや系図が音を立てて崩れ落ちることです。「八岐大蛇を束ねていた巫女王(みこおう)が沼河姫でした」と言うだけで、もしそれが本当なら、一つの論文が書けてしまうくらいインパクトがあります。 すぐにわかるのは、「沼河姫」が越の巫女王(みこおう)の世襲名であるということです。スサノオとクシナダヒメの時代に巫女王だった沼河姫が、その一世代後の大国主とスセリビメの時代に大国主の側室としても沼河姫が出てくるわけですから、世襲・役職名としか考えられないわけです。 次に考えられるのは、クシナダヒメが実は沼河姫なのではないかということですが、これは竹内氏が何も書いていない以上、推測するしかありません。 でも、ここで問題として浮上するのは、出雲族は末子相続でスサノオの末子スセリビメが王位継承者であったのに、スセリビメの母親の名前が『古事記』のどこを探しても出てこないことです。越国の女王との和睦によりスサノオとクシナダヒメが政略結婚して、ヤシマジヌミという長男が生まれたとしか、『古事記』の読者は知らされていないのです。当然、竹内氏は知っているはずですが、おそらく極秘伝のために明かしておりません。 そもそもスサノオの子供たちの母親は、宗像三女神の母親がアマテラスで、四男の大年の母親が神大市姫であることがわかっているだけで、木(紀)の国の王となった次男五十猛命(大屋彦)の母親すら明かされていないんですね。 もっと怪しいのは、出雲国の王位継承者であるスセリビメの婿養子となった大国主とスセリビメの間にできたであろう子供が存在しないことになっていることです。それはあまりにもひどい扱いです。私は本当に二人の間に子どもがいなかったのか、竹内氏に聞いたことがあります。 そうしたら「隠されているだけです。ちゃんと書いてあります」というんですね。私が「まさか神屋楯比賣とか?」と聞くと、竹内氏は「その通り。だって神ですよ、神。神になれる女王はスセリビメ以外にいますか」と言うんですね。私は仰天しました。なぜ私が仰天したかわかる人は、かなりの神話通、古代史通です。(続く)
2020.05.22
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竹内氏の『古事記の宇宙』の面白いところをご紹介しましょう。もちろん「無の神」から始まるという創世記も面白いのですが、天照大神が帝皇日嗣132代であるという話や、ヤマトトトヒモモソヒメが第百代の日巫女であるという神様の日嗣系図があるところが非常に興味深いです。百襲(ももそ)が「第百代を襲名した」という意味だとは想像したことすらなかったですからね。もっとも「百代襲名」の話しは、最初に竹内氏が書いた『正統竹内文書の謎』に載っている話です。 しかしながら、『古事記の宇宙』の中でも特に衝撃を受けたのは、オシホミミがアマテラスの子ではなく、夫だったとしたところでしょうか。確かにオシホミミは天忍骨命と書きますから、「忍」を秘密にするという意味とすると、骨(死体)になっていたことを隠された神という意味になります。オシホミミはスサノオとの戦いで亡くなったわけですね。 そしてなんと、誓約で生まれた五人の皇子のうちほかの四人はすべてアマテラスとオシホミミの間にできた子供で、天津日子根尊がニニギ、活津日子根尊がヒコホホデミ(山幸彦)、熊野楠日尊がウガヤフキアエズだというんですね。つまりこれまで親子であると思われたニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズが実は兄弟であったと『帝皇日嗣』に書かれているというわけです。 これも実はすごい話なんです。これによって、日向族と出雲族の系図がぴったり合うからです。これまでは日向族の系図が長すぎて、出雲族の系図との整合性がとれなかったのですが、これによって矛盾が解消されました。 実は1970年代にそのことを指摘していた人はいました。原田常治氏(1903~1977年)です。原田氏は全国の神社のご祭神や由緒、それに「没収された神社の系図」を調べあげ、『記紀以前の資料による古代日本正史』を1976年に上梓しました。原田氏の凄いところは、ニギハヤヒが大物主であり、大年であったことを早くから見抜き、さらにタケツノミがアヂスキタカヒコネと同一人物であることも調べ上げ、神武が婿養子として大和に来たことを看破していたことです。 ただその原田氏ですら、オシホミミがアマテラスの子ではなく夫であったことは見抜けませんでした。それでも原田氏の偉大なところは、竹内氏の『帝皇日嗣』が出てくる前に、もっとも真実の系図に近づいた研究家であったということです。 で、私がどうしてその原田氏の存在を知ったかというと、北川恵子氏らが著した『アーリオーン・メッセージ』に彼の著作が彼の作成した系図と共に掲載されていたからです。つまり宇宙人も一目を置く著作が『記紀以前の資料による古代日本正史』であったということになるのでしょうか。(続く)
2020.05.20
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2016年11月に出版された『古事記の宇宙』は、実は本当に画期的な本でした。一番の衝撃は、前回話しましたが、竹内氏が口伝継承したという「正統竹内文書」が『帝皇日嗣極秘口伝』のことであると竹内氏が明らかにしたことです。 この『帝皇日嗣』とは何かというと、『帝紀』とも呼ばれ、天皇の系譜を記録した本のことです。『古事記』『日本書紀』の前に存在したとされる日本の歴史書で、記紀も『帝紀』を基にして書かれたとされています。そのことは『古事記』の序文にも書かれています。ところが奈良時代ころに散逸したらしく、原形はまったく残っていないんですね。それを口伝継承していたのが、正統竹内家であったというわけです。 本当だったら大ニュースなのですが、口伝だけに証拠とならない。それはそうですよね。いくら俺は口伝を継承したのだといっても、ホンモノの『帝皇日嗣』の内容を誰も知らないのですから、証明しようがありません。 しかしながら、もしその口伝の内容が、非常に整合性が取れており、理屈にも適っているのであれば、嘘だと決めつける必要はないわけです。逆にもし本物だったら、『古事記』や『日本書紀』が記している嘘八百や欺瞞、ごまかしが白日の下にさらされることになりますよね。 まさか『古事記』や『日本書紀』が真実の歴史であると思っている人はいないでしょうが、記紀の記述には、矛盾や嘘がかなりの分量で羅列されているのはだれもが認めるところです。嘘なら必ず足が出ます。仮にも同じ嘘同士なら、記紀と口伝のどちらがより説得力を持つかで比べてみるのも手だと思うんですね。真実は一つなのでしょうから、より整合性や合理性があるほうが真実に近いということになるはずです。 で、現段階で、どちらがより整合性があるかというと、間違いなく竹内氏の口伝に軍配が上がります。 それをいくつか紹介していきましょう。(続く)
2020.05.19
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2015年7月に出版された鼎談シリーズ第四弾は、私にとっては非常に面白く楽しい本となりました。何しろ、竹内氏が自ら本を出版した後ですから、私が背負っていた荷は軽くなり、良い加減に肩の力みが消えて、執筆できました。今読み返しても、竹内氏が本当に楽しそうに、滑舌よく語る姿が蘇ってきます。私にとっては、内容もかなり面白いモノとなりました。 メソポタミアにいたスメル族の中で、アマテラスの天孫日向族やスサノオの出雲神族のほかに、第三のグループが日本に戻っていたことが分かったことや、細かいところではアヂスキタカヒコネが実はタケツノミト同一人物で、別名・八咫烏であったこと、それに星は「筒」であり、大筒来垂根王(おおつつきたりねのみこ)とは、大きな星がやって来た土地の王であることなどが、新しくわかったことだったでしょうか。出雲の巫女が乱暴されたことに対する報復事件が、浦島太郎の物語の背景にあった話なども、初めて聞きました。 一般の読者の方はそれほど興味がないかもしれませんが、たとえばタケツノミがアヂスキタカヒコネと同一人物であるとわかるだけでも、大変な意味があるんですね。奈良の高鴨社が全国の鴨社の総本山とされる理由も、よくわかります。そもそも京都の人にアヂスキタカヒコネの名前を出しても、まさかタケツノミと同一人物だとは思わないでしょうね。八咫烏は三変化しているんです。アヂスキタカヒコネ、タケツノミ、ミシマミゾクイミミ(スエツミミ)。このことがわからないと、『古事記』は読み解けないんですね。ここに「正統竹内文書」が『帝皇日嗣』である所以(ゆえん)があるわけです。 もっとも当時の私も「正統竹内文書」が『帝皇日嗣』であるとは知りませんでした。竹内氏がそれを公にしたのは、2016年11月に出版された『古事記の宇宙』がおそらく初めてではないでしょうか。それまでは私に対しても、いっさいそのことを話しておりませんでしたからね。「話してくれたなら、もっと大々的に取り上げていたのに」と思わなくはありませんが、まあ、それはそれでよかったのでしょうね。 次回はその『帝皇日嗣』について語りましょう。(続く)
2020.05.18
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アフの第17サイクルが終わった後も、サイクルは続きます。2万4000年ですから、第17サイクルを含めて8サイクルが経過して現在に至っているわけですね。合計すると、人間(イヒン)が誕生してから24サイクル経ちました。現在は第25サイクルに突入したことになっています。ここで面白いのは、最初の16サイクル、4万8000年を担当した16人の大天使が、「竹内文書」に記載された万国に派遣された16人の皇子と対比することができ、かつ上古25代の天皇が24サイクルの大天使と現在の大天使を入れた25人の大天使と呼応することです。では上古25代に続く、ウガヤフキアエズ朝の73代の天皇は何に対応するのでしょうか。それは、それぞれ歴代の大天使のサイクル期間中に、地球の神に抜擢された地球出身の天使たちの数だったのではないかと思われるんですね。こういうことです。たとえば第一サイクルでは、最初の200年は大天使セザンテスが地球の神に就任しますが、次の400年は副神のハジャが地球の神を担当、その次の600年とさらにその次の500年間は地球出身の天使が担当するなど、一サイクル当たり地球出身の天使が三人ほど地球の神に就任しています。これが24サイクルあるわけですから、3×24=72とほぼウガヤフキアエズ朝の73人と一致します。もともと「竹内文書」のウガヤフキアエズ朝は、上古25代の後にとってつけたような架空の王朝である可能性が高いんですね。あるいは、上古25代の天皇と別系統のオオゴトオシオ王朝(日本からシュメールに旅立って、再び戻ってきた王朝)であった可能性もあります。そう考えると、25人プラス73人の天皇の存在とオアスペに出てくる24(25)の大天使の関係は、なんとなく辻褄が合うように思われます。結構、二つの奇書には、類似点があることが分かりますね。このシリーズは一応、ここで終了しますが、何か面白いことを発見したら、再びこのテーマを取り上げることにします。
2019.04.26
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『オアスペ』と「竹内文書」の比較で、最後に年代記について言及しておきましょう。『オアスペ』の年代は、非常にはっきりしています。今から7万2000年前に人類が誕生すると、エーテリア界から最初の大天使(神)が派遣されます。その神の名がセザンテスです。セザンテスが直接地球の神であったのは、200年間なのですが、基本的にエーテリア界から派遣された神は3000年間、地球のことを任されます。つまり残りの2800年間は自分の配下にいた天使たちに、地球の神職をまかせるんですね。この3000年間を1サイクルと呼びます。ですから、セザンテスは第一サイクルの担当大天使であったことになります。セザンテスの後、アーショング、フー・リ、スペ・アバンなどと15の大天使が地球担当となります。つまり人間が誕生してから、16サイクル、4万8000年が経ちました。それがパン大陸が沈没した2万4000年前となるわけです。そのときの神、つまり16サイクル目の担当大天使はネフでした。ネフの時代には人間のみならず、地球の天国の天使たちも堕落してしまったことは、すでに述べたとおりです。地球はそのころ、ネフの力だけでは、どうにもならないほどひどい状態になってしまったので、第17サイクルの神として派遣されることになったアフが地球の大手術に着手します。それがパン大陸の沈没と、堕落した天使や人間たちの救済でした。その後も地球の人間は、環境に適応すべく強くなるのですが、同時に戦争や快楽に浸り、堕落も続けます。(続く)
2019.04.24
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『オアスペ』「竹内文書」のどちらにも、神々や天使の乗り物として船が登場します。宇宙船とかUFOのことですね。オアスペでは、炎の船とか星の船とかエーテリアの船などと記載され、竹内文書では天空浮船、天浮船などと書かれています。ですが、残念ながらそれを描いたイラストはほとんどないんですね。ただ一つだけ例外があって、二人の女神エティシャイとオネシーの船だけは掲載されています。それがこちら。何と、この三日月をひっくり返したような物体が「炎の船」なんだそうです。茶色く書かれた部分が地球の大地で、その上に雲のようなところが、地球の天国。青と赤と黄色の光が集まっているところが、天国の中心であるホアドです。その下が、パン大陸ということになりますね。(続く)
2019.04.23
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で、どこかで聞いたことがあるプロットというのは、太平洋の大陸が沈んだ時に大勢の人が宇宙船に救われて、別の惑星に連れていかれたというプロットです。パン大陸沈没の際、実は他の惑星から無数の宇宙船が地球にやってきたと書かれています。その理由の一つは、パン大陸の地殻を破壊して沈没させるのに、多くの宇宙船の力を結集しなければならなかったからですが、もう一つの理由は、救助です。パン大陸にいたイヒンは、事前に船を造るように言われていましたから、船団を組んで脱出します。ところが脱出できなかった人間は海で亡くなり、その例は宇宙船に救われるんですね。そして宇宙の別の領域に連れていかれて、再教育を受けることになりました。これが、実は秋山氏が語ったアトランティス沈没の時に救助されたという記憶とほぼ一致するんですね。秋山氏も別の惑星で再教育されて、地球に戻された一人であったと言います。面白い符合です。オイカイワタチの人たちも、同じような記憶を持っているような気がします。何か大昔において、同じような出来事があったような気がしてならないんですね。どういう理由化はわかりませんが、大陸が沈没し、大洪水となった。その際、無数の宇宙船が地球を訪れていた。多くの人間および霊が宇宙船に救助され、一部は再教育された。船に乗って生き残った人たちは、それぞれ別の地域に漂着して、大変動を生き延びた。と、まあ、このようなプロットでしょうか。これ以外にも、面白い話が『オアスペ』には書かれています。このパン大陸沈没後、一部の宇宙人(別の星系から来たエーテリア人)が地球に残ることを許されて、地球の未開人(主にドルークとみられる)と一緒に暮らし、彼らを導くボランティアとなったようなことが書かれていることでしょうか。なんとも奇想天外な物語です。(続く)
2019.04.21
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パン大陸が水没して、世界は大洪水に見舞われた、と「オアスペ」には書かれています。その失われたパン大陸の地図がこちらです。今日本がある位置を一部にして、見事に巨大な大陸パンが描かれています。パン大陸の沈没は、聖書で言うところのノアの大洪水に相当するわけですが、もう一つ呼応するのが、アトランティスやムー大陸の沈没とその後に起きた大津波、大洪水の話ですね。「竹内文書」には、アトランティスとムーに相当するとみられるミヨイ(国)とタミアラが沈没したと書かれています。そのミヨイ、タミアラが描かれた地図がこちら。地図の左が東で右が西です。当然、上が南で下が北です。日本の東南にタミアラが、北東にミヨイクニが描かれています。日本はそのミヨイ、タミアラとだけでなく、北米大陸やオーストラリア大陸とも陸続きであったように描かれています。どちらの地図がより正確なのか、果たして同じ時代の地図なのか、といったところはわかりませんが、少なくとも太平洋上に失われた大陸があったことでは一致しますね。ちなみにパンタ陸沈没後の地図がこちらです。パン大陸がかつては、日本はもちろん、東はハワイ、南はパプアニューギニアまであったことがわかります。パン大陸沈没前と後では、世界地図がガラッと変わっています。(続く)
2019.04.20
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「竹内文書」には地球人類史については詳しく書かれていませんが、地球史に関しては、特に天変地異に関しては何度も触れられています。たとえば、上古第3代の時代に、地球大変動があり、神々は天空浮船で一時避難しています。上古第4代にも地球大変動が二度もあり、その後も上古第7代、第9代、第11代、第14代、第17代、第18代、第21代、第22代と何度も地球大変動に見舞われていると書かれています。その後、ウガヤフキアエズ朝になっても、天変地異は続きます。第20代の時に、世界各地で大地震が起こり、第69代の時には、とうとう太平洋にあったミヨイ、タミアラという二つの大陸(地図では日本と線で結ばれていることから、日本と地続きであった島とも解釈ができる)が海に沈んでしまいます。第71代の時代にには、日本列島で大地震が発生したと書かれています。そしてこうした天変地異があるたびに、万国が土(泥)の海となり、そこにいる五色人が全滅したりします。で、なぜこのような天変地異が発生するかというと、五色人が神の言うことを聞かず、神の教えに背いたからだと「竹内文書」には書かれています。このモチーフが、非常に『オアスペ』に似ているんですね。『オアスペ』によると、エーテリア界の大天使たちは、地球および太陽系がこの広大無辺なエーテリア界を移動する領域ごとに約3000年間、地球を担当することになっています。そこで3000年ごとに、担当する大天使が宇宙船でやってきて地球とその天国(霊界)に大変革をもたし地球の人間を「神の道」へ導こうとします。で、当初は改革がうまくいって、軌道に乗るのですが、たいてい3000年間持たずに、霊界、地上(人間)界とも堕落してしまうので、荒療治の大改革が必要になるんですね。すると、堕落した霊も人間も、大天使の乗る巨大宇宙船(天空浮船)を見て、驚天動地の大騒ぎになります。この描写が地球大変動と一致します。宇宙船(天空浮船)はまさに救助船の役割を演じるところも、「竹内文書」の記述と合致します。また宇宙船は神々による万国巡行に使われていますから、これも記述がそっくりです。さて、その3000年サイクルが終わると、毎回、このような大変革、大騒ぎが起こり、大天使の任務交代が行われるのですが、16サイクル(3000×16で4万8000年)が終わった時点で、もうにっちもさっちもいかなくなり、とうとう地球の中心であるパン大陸のプレートを破壊し、沈没させることが決まりました。これが2万4000年前のパン大陸沈没とそにれ伴う大洪水です。ミヨイ、タミアラの沈没と符合しますね。ここでも巨大宇宙船が、堕落した霊や人間たちを救助するのに大活躍します。さらに大天使たちは、地球の堕落した霊たちを別の宇宙に持って行って、そこで彼らを再教育するんですね。「神ながらの道」をもっと学べ、と。この教育プログラムは有効であったようです。このプロットもどこかで聞いたことがありますね。次回はその話をしましょう。(続く)
2019.04.19
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再び「竹内文書」を見ると、神人が黒人祖など人類と交配して五色人(イヒン、ドルーク、イフアン、ヤック、オングウィー・ガン?)が誕生したことが暗に書かれている後は、『オアスペ』ほど詳しく地球人類史については描いてありません。日本の天皇(おそらくイヒンの長)が五色人を統治したと書かれているだけです。しかも天空浮舟で万国を巡行したと書かれていますから、もしかしたら、地球の天国(アトモスフェリア界)の神様の歴史とタブらせている可能性もあります。とにかく、日本は『オアスペ』の言うところの沈没したパン大陸の北の残骸のような場所です。名前もパン大陸の残骸という意味で「ザ・パン」と名付けられました。だけど、地球の神はかつてパン大陸が地球の文明の中心であったことを示す証拠として、パン大陸沈没とそれに伴う大洪水の際、アジア(中国とインド)、アフリカ、アメリカに散った4船団のほかに、二隻だけを日本に漂着させるんですね。そしてどうやら、他の大陸ではかなりイフアンによる戦争がはびこるのですが、日本(ザ・パン)だけはイヒンの種族がイフアンらによる迫害を逃れ、穏やかに暮らしたかのように書かれています。とにかく、ほかの大陸では、イヒンが全滅するような事態もあったようです。確かに日本を見ると、縄文時代は1万年以上もの間、大規模な戦争もなく、比較的穏やかに文明を維持していたように思われます。『オアスペ』の記述をみると、イヒンと縄文人はほぼ一致するんですね。背が小さいことや、肌の色が黄色というのも同じです。しかしその平和な縄文時代も紀元前1000年ごろから、大陸から別の人種である弥生人が流入してくることによって、大きな摩擦が生じます。私はこの弥生人がイヒンとイフアンの混血であるオングウィー・ガンだと思っています。(続く)
2019.04.18
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『オアスペ』によると、現在地上で生きている人間はだれもが神に選ばれたイヒンの血と、野蛮で戦争好きなドルークの血を持っているそうです。ドルークの血が濃いと破壊的になり、人を殺したり、戦争をしたりします。一方、イヒンの血が濃いと、人間には永遠の命があるという神の言葉を理解したり、エーテル界のことがわかったりするそうです。ではなぜ、イヒンだけの地球にせずに、ドルークと混血させたのか、という疑問が湧くと思います。その疑問に対する答えも『オアスペ』には書かれていて、イヒンだけではとてもこの地球の過酷な環境で生きていくことができなかった、とあります。それで創造主と地球の神は一計を案じ、イヒンとドルークをあえて交配させてイフアンという強い人種を作ったわけです。やがてイフアンは地上で最強の生物になります。でもイフアンも、ドルークに負けず劣らず野蛮な人種で、すぐに破壊と殺し合いをします。特に近親憎悪的にドルークが大嫌いで、ドルークを殺しまくるんですね。やがてドルークは滅亡します。最初のころは、イフアンは神の掟を守り、神に選ばれた民であるイヒンを攻撃したりません。しかしながら、イフアンの横暴ぶりには歯止めがかからず、イヒンすら迫害するようになります。そこで、何とかイフアンを「神の教え」に導くために、イヒンの血が濃いオングウィー・ガンというイフアンとイヒンの混血を生み出すんですね。そして誕生したパン大陸沈没後の最初の「公式預言者」が、昨日紹介したツァラトゥストラだったというわけです。(続く)
2019.04.17
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9000年前のに現れたペルシャの預言者ツァラトゥストラ。9000年前というのがすごいですね。ゾロアスター教の開祖ツァラトゥストラが存在したとされるのは紀元前6世紀ですから、6500年ほど時代に開きがあります。『オアスペ』では、彼こそが元祖ツァラトゥストラで、彼によって最初の宗教と聖典が地上にもたらされたとしています。キリスト教も仏教も、主にこの預言者の数々の奇跡や教えから作られた宗教だそうです。その教えと歴史は長い間、エジプトのアレクサンドリア図書館に保存されていましたが、西暦390年と640年にキリスト教聖職者によって焼かれ、葬り去られました。ルーイスという人間にインスピレーションを与える天使(いわゆる恋の女神キューピッド)によって、神の民であるイヒンと、イフアンを交配させ、その子孫とイヒンをさらに交配させることを6世代繰り返したことによって、誕生したハイブリッドです。巨大な体を持っていたといいます。また神の計画によって誕生したハイブリッドであるため、性別を持たない中性でした。中性の人間のことを「イエス(i-e-su)」と呼ぶのだと『オアスペ』には書かれています。(続く)
2019.04.16
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これが『オアスペ』に描かれている、出エジプトで有名なモーゼのイラストです。紀元前16~13世紀の人物とされていますが、面白いことに『オアスペ』ではもっと新しい時代の紀元前13~11世紀ごろの人物だとされています。さらに面白いのは、大きな体をした純粋なイフアンであると書かれていることですね。里子で、エジプト王の王子として教育を受けて、何か国語も話すことができた、とあります。迫害を免れるために、神の名を隠した、とも。古代イスラエル人(ヘブライ人)のリーダーであったことは間違いなさそうです。アブラムもそうでしたが、本当にきれいな目をしています。(続く)
2019.04.15
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『オアスペ』に掲載されているアブラムのイラストです。現在アブラハムとして知られているペルシャ(シュメール)の預言者ですね。体は大きく、茜色の肌を持つイフアン(赤人)でした。黒髪で長い顎髭をはやしていましたが、心は女性のように優しかったといいます。ヘブライ人の祖で、信者をエジプトへ導いたとあります。(続く)
2019.04.14
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イヒンを数で圧倒するようになったイフアンですが、イフアンは都市を築いては戦争をして、破壊してばかりいます。やがて神の掟に背き、イヒンとも交配を始めます。それで誕生したのが、第六の人種であるオングウィー(ガーン)です。選ばれし民であるイヒンと、ドルークの血の影響を受けて戦争ばかりしているイフアンの混血ですね。オングウィーは、肌の色は茶色で、イヒンのように腕は短く、長い黒髪でした。またイヒンのように均整の取れた体系で、イフアンのような荒々しさも持っていました。オングウィーは神の教えに従い、イヒンともイフアンとも交わりませんでした。オングウィーはまた、イヒンから儀礼や神の法を学びます。そして、オングウィーはとうとう、数でもイフアンたちを凌駕しました。ここに来て、イヒン以外からも神の言葉を聞くことができる預言者が出るようになります。主にオングウィーからですが、中にはイフアンの預言者も出てきます。現在アブラハムとして知られているアブラムや、出エジプトで有名なモーゼは純粋なイフアンであったと『オアスペ』には書かれています。(続く)
2019.04.13
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再び『オアスペ』の地球人類史に話を戻しましょう。聖書に出てくるアベルを殺したカインとは、ドルークというアスとイヒンの間に生また種族のことだというところまで話しました。『オアスペ』によると、イヒンは創造主に選ばれた民で、永遠の命を約束された種族なのですが、ドルークは選ばれた民ではありません。だから永遠の命は与えられていないんですね。ここで永遠の命とは何かという説明をすると、肉体が死んでも霊として生き、創造主のことを理解して進化しながら存続できるのが永遠の命という意味だそうです。肉体が死んで霊となるのを「第一の復活」。霊となって働きながら学び、他者のために生きることが喜びとなったときに「第二の復活」を遂げ、エーテリア界(より高い天国)に旅立つことができるのだと『オアスペ』は言います。死んだばかりの人間の霊をエスヤンと呼びます。ところが永遠の命を持たないアスやドルークは、神のことを理解できないので、死んでも霊にはなれないのだと言います。永遠の霊になれるのは、イヒンだけ。ところが問題がありました。イヒンは力が弱くて、従順で、欲望が希薄な優等生。でも、それでは地球の環境では生き残ることは難しかったのだと創造主は言います。つまり、創造主はあえてドルークの血をイヒンに入れることによって、よりたくましい人間を創造しようとします。それが先日のイラストの中央に描かれたイフアンです。そのイラストを再掲しましょう。左端がイヒン、真ん中がイフアンです。イヒンがドワーフだとしたら、イフアンは現在の人間に近いでしょ。これが創造主の神慮です。ドルークはイフアンとしてなら永遠の生命を得ることができるようになりました。一方、ドルークの中には創造主の意に反して、アスと交配した者もいたわけです。それで生まれたのが、右のヤックであることはすでに説明したとおりです。で、ヤックとアスはお役御免となって、人間の歴史から消えます。ここまで来て、お気づきと思いますが、これはまさにトールキンの『指輪物語』の世界でもあるんですね。妖精や天使、人間や小人(ドワーフ)、堕天使と野獣のような人間が登場しますよね。これらに近いキャラクターは、『オアスペ』にすでに登場していたことになります。そして『オアスペ』では、人間に極めて近いイフアンが飛躍的に増えてイヒンを圧倒し、神の教えにも背くようになりました。(続く)
2019.04.12
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一方、「竹内文書」には「黒石の黒人祖」という記述の後は、何が書かれているのでしょうか。実は、ほとんど何も書かれていません。黒人祖がその後どうなったか、まったく説明がないんですね。唯一の説明らしきものは、その後五色人が誕生し、その一つが黒人であったと書かれていることです。ではどうやって、五色人が誕生したかですが、これに関しても詳しい説明はありません。でも推測することはできます。五色人誕生までのいきさつは次の通りです。まず上古第一代の時代に、天皇は月神の娘と結婚して、たくさん子供を生みます。その子供たちを世界中に派遣して、彼らの名前を国名にしたといいます。上古第二代の時代には、25人の皇子(編注:系図上は第二代天皇の子供になっているが、実際は第二代天皇の弟妹とみられる)が世界各国に派遣され、各地の統治者に就任していきます。そのうち特に優れた16人の皇子が主要16の地域を統治する民王(みっとそん)や祖氏に任命されます。この民王や祖氏が「五色人の祖」なんですね。つまり現地の妻と結婚して、それぞれの地域の人種の祖になったと書かれているわけです。その16人の称号から何人の祖であるかがわかるようになっています。(1)黄美王氏(2)黒人民王(3)黒人民王(4)赤人女祖氏(5)赤人祖氏(6)赤人民王(7)白人祖民王(8)青人民王(9)赤人民王(10)青人民王(11)赤人祖民王(12)黄人祖民王(13)黄人祖民王(14)赤人民王(15)赤人民王(16)赤人民王で、面白いのは、赤人祖、白人祖、黄人祖の付く皇子はいますが、黒人祖と青人祖はいないことです。つまり黒人祖と青人祖は天皇(神人・天使)が天孫降臨する前にすでに存在していたからだと考えられるわけですね。私の考えでは、黒人祖が『オアスペ』に出てくるアスです。そして青人祖がドルーク。ただし、『オアスペ』ではドルークは茶色、黒色の肌であったと書かれていますから、ほかにもいた可能性はあります。それでも、ここから一つの物語が浮かび上がってきます。天から降りてきた「神人」が黒人祖のアスと交配して、黄人祖(イヒン)、白人祖(イヒン)が誕生したというストーリーです。イヒンの肌の色は白と黄でしたからね。で、天使の子であるイヒンと黒人祖のアスが交配して青人祖のドルークが生まれ、イヒンとドルークが交配して赤人祖のイフアンが生まれた(イフアンの肌色は銅のような赤であると書かれています)。なんとなく辻褄が合いますね。一応ここで、『オアスペ』に出てくる人種の肌の色をまとめて記しておきましょう。アス:何色か不明だが、イラストを見ると、猿に近い黒っぽい色だったと思われます。イヒン:黄色、白色。ドルーク:茶色、黒色。イフアン:銅のような赤色。青色以外はすべて説明がつくように思われます。(続く)
2019.04.11
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アスから生まれた三種類の人間。一番左がアスと天使の掛け合わせで誕生したイヒンです。小柄で、黄色もしくは白色人種です。では、隣の二種類の人間は何かというと、ここには描かれていませんが、アスとイヒンの間にドルークという人種が生まれ、そのドルークとイヒンを掛け合わせて誕生したのが真ん中のイフアンです。右に描かれているのは、ドルークとアスが交配して生まれたヤックという人種ですが、彼らは去勢され、アスの滅亡と相前後して滅んでしまいます。『オアスペ』では、イヒンが誕生したのは、今から7万2000年前で、アスが滅んだのは7万年前であるとしています。つまり、2000年間、アスとイヒンは共存していたことになりますね。ちなみにイヒンとアスとの間に生まれたドルークは体が大きく、結構狂暴で、兄弟を殺します。聖書に登場するアベルを殺したカインは、このドルークのことであると、『オアスペ』には書かれています。(続く)
2019.04.10
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聖書ではイヴはアダムの肋骨から創造されたそうですが、『オアスペ』では物質化した異星人の霊とアスが関係して新しい人類が創造されたと書かれています。いきさつは次の通りです。創造主が最初の人種であるアスを造った後、宇宙に広がる天国を見回すと、地球が創造される前に他の惑星で存在していて、物質世界を全うできずに亡くなった何百万人もの無数の死者の霊が散見されたのだそうです。そこで創造主は彼らに呼びかけます。「私は新しい世界(地球)を創造した。来て、新しい世界を楽しみなさい。他の世界(エーテリア界)との関係を、その新しい世界で学びなさい」この呼びかけに応じて、無数の死者の霊(天使)が地球の行く手に現れました。彼らの多くは、肉体の人生を全うしたことがなく、幼年期に亡くなった他の惑星の天使たちだったそうです。遊び場を創造主からもらった天使たちは地球に舞い降りました。そのとき、創造主から命令が下されます。「地球の最初の人類アスを闇から救済しなさい。彼ら(アス)もまた、霊的に進化して、やがては私のエーテリア界を引き継ぐことになるからだ」そこで天使たちは、自らの意志力によって肉体をまとい、アスのそばに現れました。その時創造主は地上に降りた天使たちに、一つだけ注意事項(掟)を伝えます。「地球上にあるすべてのものを食べてもよい。だが、生命の樹の果実は食べてはならない。食べたら元いた天国のことが分からなくなるからだ」ところが、天使たちは肉体や物質のことについて未熟だったので、この掟の意味がよくわかりませんでした。天使たちはやがてアスと共に住むようになり、誘惑されて生命の樹の果実を食べます。それで、イヒンと呼ばれる新しい人種がアスから生まれたと書かれています。「生命の樹の果実」が具体的に何だったかは説明されていませんが、快楽(甘い蜜)を伴う生殖行為だったことが示唆されています。(続く)
2019.04.09
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これが『オアスペ』によるところの、地球で最初に誕生した「人間」です。その名はアス(Asu)。腕が異常に長いサルのような恰好をしていますね。我々のご先祖様です。秋山氏がかつて、地球で最初に誕生した人間はなんと言うのかと宇宙人に聞いたところ、「アシュ」とか「アス」と言っていたそうですから、「アス」という名の動物(人間)が人類最初の祖先であった可能性がかなり高いのではないかと思います。これが、「竹内文書」でまだ人類が誕生する前にいたとみられる「黒石の黒人祖」ではないでしょうか。地球に生物が誕生した初期のころにいきなり出てきて、その後言及のない不思議な存在です。『オアスペ』では、アスは7万8000年前から7万年前までの8000年間地球に生息していたことになっています。また、アスのことを『オアスペ』では『旧約聖書』のアダムのことであると言っています。で、聖書ではそのアダムのあばら骨からイヴが造られたことになっていますね。ところが『オアスペ』はそうではありません。アス(アダム)からイヒンという新たな人種が誕生するのですが、そのきっかけとなったのは、宇宙から来た天使(別の生命体)であったと書かれているんです。これはいったいどういうことでしょうか。(続く)
2019.04.08
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フランケンベリー・キャンプ、クリアベリー・リング、ソールズベリー大聖堂、オールド・セイラム、ストーンヘンジと続く古代測量ライン「オールド・セイラム・レイ」は、その後どこへ続くかというと、依然ちょっと紹介したオールドベリー・キャッスルに至ります。これがそのイラスト。エイヴベリーの遺跡の南西にある鉄器時代のヒル・フォートです。以前紹介したのは、こちら。左の丘の上にあるのがオールドベリー・キャッスルです。非常に目立つ場所に測量点・拠点を作ったことがこの絵からもよくわかりますね。まさに丘と丘を結ぶタカミムスビを古代人たちは実践していたのです。
2018.05.19
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オールド・セイラムがストーンヘンジを建造した人たちと同じ人たちが加工した丘であることは、間違いありません。その根拠は、ストーンヘンジとオールド・セイラム、それにクリアベリー・リング、フランケンベリー・キャンプといったヒル・フォートが一直線上に並んでいることです。明らかに狼煙の直線ルートです。既に説明したように、ヒル・フォートは鉄器時代構造物ですが、それ以前の新石器時代から丘が加工されて使用されていた可能性が高いわけです。それが約5000年前。彼らはおそらく、遠くからでも目立つ丘の上にさらに小山を築いたりして、その加工丘を測量点並びに光通信の拠点として使ったのだと思われます。私も2014年の5月にオールド・セイラムを訪れました。5000年の歴史があると書かれていますね。実に見事な環状構造物です。砦の中はこうなっています。さらに内側に砦がありますから、二重構造になっているわけですね。その最も内側の砦の中は次のようになっています。ここに古代ブリトン人の狼煙台があったはずです。最後はオールド・セイラムの遠景。この丘から、ストーンヘンジ、フィッグスベリー・リング、クリアベリー・リング、フランケンベリー・キャンプへと狼煙通信が行われいたのではないでしょうか。ちなみに13世紀に建てられたソールズベリー大聖堂もこの直線上にあります。後世の人々も、このラインの重要性に気づいていたわけですね。
2018.05.17
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