ゆきあけのボヤキ

亡き母の事


娘バカになるかもしれない。

でも言わずにはいられない。

とても綺麗でセンスが良く、家事も完璧にこなす最高の母だった。

自慢の母だった。

今でも自慢の母である。


昔にすれば30半ばという高齢で祖父母が授かった母。

それはそれは宝のように母を育てたらしい。

当時、愛媛県の山奥に住んでいた祖父母、そして母。

村人からも“ゆきの嬢”と言われ大切にされた。

当時、祖父母宅に奉公として住んでいた女の人や年の離れた従姉妹達が母の子守役。

そんな中、母はとても我儘に育ったらしい(笑)


母は弟との2人兄弟だった。

昔でいえば少ない兄弟だ。

とても裕福に育ててもらった。皆モンペを穿いている中、街で買ったおしゃれな洋服をいつも着させてもらっていた。

とよく私に話していた。

中学校からは寮に入り、高校は松山だった為親戚の家に下宿していた。

追いかけるようにして祖父母は松山へ家を構えた。

専門学校を出た母は大阪の親戚を頼り海を越えた。

そして父と知り合い結婚した。

大反対をした祖父母。

我儘、何不自由なく育ってきた母だったが、お互いの両親に頼る事なく2人の力だけで結婚式を挙げた。


難産の末、吸引分娩で取り上げられた私。

離乳食も何も、何時間もかけて全て手作りだった。

兄弟が少ないからと、祖父は母に5人は子供を生んで欲しいと言っていた。

だけど、何一つ手を抜かない育児をしている母を見て

「もう1人で十分じゃ」と祖父は言ったらしい。

甘やかされて育った母に、たった1人で完璧な育児は出来ないと思っていたのだろう。


私が小学生の頃の懇談会。

私の話はそっちのけで、先生はいつも母に洋服・料理の話を聞いていたらしい。

とてもおしゃれでセンスもよくスタイルも良かった母。

写真のモデルをしていた事もあった。

私はいつも素敵な服を着させてもらっていた。

小学校の遠足ではいつも先生の隣り。

母が作ったお弁当を先生が見たいから。


私はいつだって母に相談してきた。

学校の事、友達の事、恋愛の事。

そこに隠し事は一切なかった。

いつだって私の一番の理解者。

頭ごなしに怒るとかそんなことはない。

“友達親子”って言葉が一時メディアで取り上げられ流行っていたけれど

そんななれなれしくダラダラした関係ではない。

友達でいて、母と娘という認識と限りない強い絆で結ばれていた。

今でも私が一番リスペクトしている人間は母である。

決して母を超えることは私には出来ないけれど、一歩でも母に近づけるのが私の夢。




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