年明け、6クール最後の治療を受け、母は完治した。
完治といっても完全に治ったわけでない事は私にも分かっていた。
ただこれからどうやって5年を乗り切るか、これが今後の私の目標だった。
母にはこんな事言えなかった。
術後の説明で“5年生存率20%未満”と言われた事は決して言ってはならないことだった。
母の中でも再発の心配、恐れはあっただろう。
お互い再発なんて言葉は口にはしなかった。
母が完全に退院する頃から祖父の病状が悪化しだした。
何かあったら携帯に連絡下さいと、私の番号を病院側にも伝えていた。
熱が下がらない。体中のリンパを冷やすが一向に下がらない。
導尿していたが、尿の出が悪い。
私は祖父の担当医に呼ばれた。
「かなり悪化しています。最悪の状況を考えた時、延命措置をされますか?」
「母がもうすぐ退院します。どうかそれまでは祖父に生きていてもらいたい。」と延命措置をお願いした。
「じいちゃん。お母さんもうすぐ退院やで。じいちゃんの大事なお母さんも頑張ってるよ。じいちゃんも頑張って。」
毎日祖父にこう語りかけた。
母が退院して数日後、高熱が出て尿がほとんど出ない状態になった。
私は看護婦さんに「泊まりたい」と言ったが無理だと言われ、夜中過ぎまで病室にいた。
翌日の早朝に携帯に連絡が入った。
なるべく早く病院に来て欲しいと。
私は慌てて病院へと向かった。
祖父の入院している病院は自転車でスグの距離だ。
個室に移されていた祖父を見て愕然とした。
担当医に呼ばれレントゲンを見せられながら説明を受けた。
レントゲンを見て、私の決断は間違っていたんじゃないかと自分を責めた。
祖父は既に人工呼吸器を付けられていた。
とてつもなく太い管が通されたレントゲンを見て、苦しかったやろうに・・・と申し訳なさでいっぱいになった。
入れる時は少し苦しみましたと言う先生の言葉に胸が張り裂けそうだった。
こんな思いをさせてまで延命させて良かったのか。。。
私の一言でこんな辛い思いをさせてしまった。。。
とても自分を責めた。
もう意識が無い祖父。
今日がもうヤマだと告げられた。
家に残してきた母に連絡した。
退院したてでまだ体調が万全でない母も直ぐに駆けつけた。
耳元で祖父が大好きだった演歌を流した。
聴こえてるの?
祖父の目から涙がこぼれた。
何度も何度も音楽を流した。
ミー姉も来た。体調が悪そうな母をいったん家へ連れて帰ってもらった。
私は祖父に語りかけながら、足、手、色んなところをマッサージした。
血圧がドンドン下がる。
慌ただしく看護婦さんと先生が部屋を出入りする。
私は母に直ぐ病院へ来るよう電話した。