ゆきあけのボヤキ

心に残るもの


今まで母がいなくなるなんて思いもしなかった。

結局は私の自己満足になったかもしれない私の看病。

決して満足はしきれていない。

よく頑張ったと思える自分と何であの時・・と後悔が残る自分がいる。

実際、今思えば私はもうあんな全力疾走が出来ないというくらい突っ走っていた。

本当に勉強もしたし、寝る間も無かった。

“私が代わってあげたい”とも思った。

術後3期cと告知されてから、私の中でもある程度の覚悟を持っていたに違いない。

色んな本を読むにつれ、もう長くはないという事も分かっていた。

丸山ワクチンを買いに行った時の抗議で、今の母にはもう効果は出ないという事も分かっていた。

タヒボ茶を飲ませても、ビタミンを摂っても、姫マツタケを飲ませても、プロポリスを飲ませても。。。。

もう何をしても母は助からないと分かっていた。

でもしなくて後悔するよりはして後悔する方がよかった。

そして1%・・・0.1%でもの奇跡を信じた、信じるしかなかった。

だから結局は私の自己満足になるんだろう・・・

母の死のカウントダウンがされ始めた頃、担当医は私達に延命措置をとるか聞いてきた。

私は祖父の最期が頭によぎった。

「延命措置をしても、長くはもちません。」という言葉に、私も父も「しません」と答えた。

とても辛い選択だった。

けれど、もうこれ以上母を苦しめるのは嫌だった。

生きていて欲しいのは当然だったけど、もうそこには別の愛情表現しか出来なかった。

苦しい思いをさせてまで延命させたくない・・・・

今、母と会話が出来るのなら「これでよかったの?」と問いかけたい・・・


色んな意味でのショックも大きかった。

それは母本人が一番感じていたであろう。

綺麗で格好良かった母。

いつもヒールを履いて姿勢よく歩く姿しか見たことがなかったのに

腰を曲げてよたよたとしか歩けなくなった母。

言い出したらキリがないくらい、元気だった時の母と闘病中の母を比べてしまう。

どんな姿になろうと、意識がなくとも、寝たきりだろうとも、私は母に生きていて欲しかった。

生前、母は父に「私がおらんなったらお世話してくれる人探しや。し~ちゃん☆にだけは絶対に迷惑かけないで。」と言っていたらしい。

父はそんな人間ではない。

母のことを誰よりも愛していた。

お風呂に一緒に入り髪や体を洗ってあげたり、先に自分が母の布団に入り暖めておいてあげたり。

本当に仲の良い、愛し合っていた両親だった。

髪の毛が抜けた母の頭初めて見た時、父は何も話さずただひたすら撫でていたらしい。

母は父の愛情を言葉は無くとも一番よく分かっていたはずだ。

私は父に申し訳ないことをしたと思っている。

辛く泣きたいのは私だけでなく、一番は父だっただろう。

私の前では弱音を見せてはいけないと父に我慢させていたのだろう。

母の最期を看取れず悲しかっただろう、辛かっただろう、悔しかっただろう。

父の中にも後悔の念はたくさんあるだろう。

全て私任せだったのではなく、私の好きにさせてやりたかったんだろう。


大阪からたくさんの友達が来てくれた事、とても感謝している。

私はこの母との闘病生活の中、友達がいてくれたからこそ乗り越えられた部分が大きい。

きっと支えてくれる友達がいなかったら、私はとっくに自堕落になっていたに違いない。

大阪と松山、遠く離れていても私を想ってくれていた友達の気持ちをこれからも大切にしていきたい。

友達に何かあったらいくら離れていても直ぐに飛んでいってあげなさい、と父は私に言った。


私がもし将来母のような立場に立たされたらどうするだろう。。。

私の意志ではなく、周りの好きなように、子供がいたら子供の好きなようにさせるだろう。。。

逝く側も辛いけれど、残された側はもっと辛いから・・・・


「し~ちゃん☆がいなかったら、とっくの昔にお母さんは死んでたよ」という母の言葉が唯一の救い。


お母さんに逢いたいです。



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