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しかたのない蜜
菊丸のホワイト・デー 菊丸×リョーマ
青春学園駅前の商店街には、ホワイト・デーのプレゼントをあてこんだ商品の宣伝ポスターや看板がカラフルにならび、街ははしゃいだムードをかもしだしていた。
「ねえ、あれ買ってよォ」
「だめだよ、高いから」
「どうして? せっかく愛情たっぷりのチョコレートあげたのに」
そんな会話を交わすカップルの姿もよく見受けられる。
(俺がおチビにあんなこと言われたら、なんだって買ってあげるのににゃー)
傍らを歩くリョーマを横目で見ながら菊丸は思った。
今日もリョーマは仏頂面である。いちゃつくカップルにも、店の看板やポスターにも目もくれないでまっすぐに前だけを向いて歩いている。
「ねえ、おチビ。ホワイトデーのプレゼント、何が欲しい?」
なるべくさりげない風をよそおって、菊丸は尋ねてみた。
リョーマはちょっと驚いた表情で、菊丸を見上げた。夕暮れの日差しがリョーマの顔をオレンジ色に染め上げていて、とても綺麗だと菊丸は思った。
「ホワイトデー? 何ッスか、それ?」
リョーマの答えに菊丸は脱力した。もしかして自分をからかって遊んでいるのではないかとすら思った。
(まあ、おチビは帰国子女だから)
気を取り直して、菊丸はリョーマに説明する。
「ホワイトデーっていうのは、バレンタインデーにチョコレートをもらった男の子が、お返しにその相手に何かを送る日のことなのにゃ。おチビは俺に今年チョコくれたでしょ?
だから俺もなんかあげようと思って……」
「ああ、あの乾チョコね」
リョーマは苦笑した。
「べつにプレゼントっていうより、ちょっとしたいたずら心みたいなもんだったんスけど」
驚くべき薄情なことをリョーマはしれっと言ってのける。
だが、菊丸はもうこの程度のことでメゲたりはしなかった。
二人の付き合いは長いのである。
菊丸はリョーマの耳に口を近付けて、意地悪く言った。
「そのいたずら心のおかげで、俺はずいぶんおチビと楽しませてもらったんだけど?
あの時、すっごくエッチだったよねェ、おチビ」
リョーマの顔は真っ赤になった。
「や、やめてくださいよ、菊丸先輩! こんなところでそんな変なこと言うの」
「へへーんだ。俺もおチビのマネして、ちょっといたずら心を出してみただけ」
勝利のVサインをしながら、菊丸は言った。リョーマは口をとがらせる。
「話を元に戻すけど、ホワイトデーのプレゼント何がいい? 一応、キャンディって決まってるんだけど、それじゃつまんないよね。乾キャンディなんてあったら俺、大歓迎なんだけど」
頭の後ろで手を組みながら、菊丸はあれやこれやと思いをめぐらせた。
リョーマは首を赤くしながら、うつむいたままだ。
「こんなのはどう? 俺ン家で、菊丸特製スペシャルディナー、ケーキつきを一緒に食べる」
もちろんその後、俺はベッドでおチビにご奉仕するつもり。
胸の内でそう付け加えた菊丸がにんまりとしかけた時。
リョーマがふと顔をあげて言った。
「俺、とっても欲しいものがあります」
「え、何、何? なんでも言うこと聞いちゃうよ!」
菊丸が身を乗り出して尋ねと、リョーマは不敵な笑みを浮かべて言った。
「ホワイトデーの日って、ちょうどランキング戦ですよね? その日に、菊丸先輩が手塚先輩に勝つのが見たいなあ、って思うんです」
その日から、菊丸の地獄の猛特訓が始まった。
「おい、英二。これからどこに行くんだ」
大石が菊丸に尋ねた。
「そうですよ、英二先輩。これから先輩の大好きなふわふわオムレツのあるファミレスにみんなで行くっていうのに」
桃城が残念そうに言った。
菊丸は青学レギュラーメンバーたちに背を向けて、かばんを背負い直した。すでに体は練習でヘトヘトに疲れている。だが、並の努力では自分は絶対に手塚には勝てない。
菊丸は手塚の顔をそっと見た。
手塚は眼鏡の奥の目をすがめて、菊丸をなにげなく見返す。
菊丸はにっこりと微笑んだ。
それがこの青学のキャプテンに対する、菊丸なりのささやかな宣戦布告だった。
「ごめんよ、みんな。俺、ちょっと野暮用があるからさ! じゃあね!」
菊丸はそのまま皆に背を向けて、市営のスポーツジムに向かって歩き出した。
菊丸の背中を見送りながら、桃城が不思議そうにつぶやいた。
「英二先輩、彼女でもできたンスかねえ?」
「さあ。つれない恋人のためにがんばってたりしてね。君はどう思う、越前?」
不二に問われて、リョーマはいつも通りの素っ気ない口調で答えた。
「さあ……」
不二は、リョーマの涼しげな横顔を微笑みながら見つめていた。
リョーマの大きな目は菊丸に向けられていた。
「ゲームセット! ウォンバイ、手塚!」
審判の声が、暮れかけた空に響いた。
菊丸は滝のような汗を流しながら、コートに崩れ落ちた。
青学メンバーたちは安堵にも似たため息を一斉に漏らした。
「惜しかったなあ、菊丸先輩!」
「もしかしたら、手塚部長にもうちょっとで菊丸先輩が勝てるんじゃないかって俺思ったよ!」
菊丸はみじめにそんな声を聞いた。
たしかに「もうちょっとで」自分は手塚に勝てたかもしれない。
でもその「もうちょっと」は、実ははてしない実力の差に裏打ちされた「もうちょっと」なのだ。
その差とは、手塚と菊丸のテニスにおける明らかな才能の差だった。
「いい試合だったな、英二」
手塚がネットを超えて、菊丸に歩み寄ってきた。
菊丸は黙って手塚を見上げた。
引き締まった長身。
冷静で知的な容貌。
威厳のある声。
どれもこれも、菊丸が持っていないものだった。
(俺と同い年だなんてとても思えないよ……。こんなヤツだから、きっとおチビにも勝てたんだろうな……。おチビには俺なんかより手塚の方がよっぽど……)
そう考えた時、菊丸の視界はぼやけた。
「どうした、英二? どこかケガでもしているのか?」
手塚が気遣わしげに尋ねて、菊丸に手をさしのべた。菊丸は手塚に自分の涙に気付かれないように、ごしごしと目をこすりながら勢いよく立ち上がる。
「ううん! こっちこそありがとう! 手塚って、本当に強いねっ! 俺、手塚にはかなわないよ」
菊丸は精一杯明るく笑った。
その微笑ましい様子に、青学部員たちから笑みがもれた。
「英二は本当に陽気な奴だなあ」
河村が腕組みをしながら、感心したように言った。
「そッスよね。なあ、お前もそう思わねえか、越前?」
「……」
桃城には答えずに、リョーマは手塚と握手する菊丸を見つめていた。
青学部室。
真っ暗だった部室に、不意に灯りがついた。
部室の長いすに座って、うずくまっていた菊丸は、驚いて顔をあげた。
「だ、誰?」
ドアのそばの電気スイッチに手をかけていたのは、リョーマだった。
「な、なんだよ、おチビ?」
泣いている顔を見られたくなくて、菊丸はごしごしと顔を手の甲でぬぐいながら言った。
「先輩を笑いに来たんです。こんなことくらいで、そんなに落ち込むのか、ってね」
クールな笑みを浮かべながら、リョーマは菊丸に近づいてきた。
「べつに落ち込んでなんかいないにゃ! 俺のことからかうつもりなら、おチビ、さっさとみんなと一緒に帰れよ! 下校時間、とっくに過ぎてるんだからにゃ」
「その顔で落ち込んでないって言っても、説得力ないッスよ」
リョーマは菊丸の涙に濡れた顔を見ながら言う。
痛いところをつかれて、菊丸は押し黙った。
「……本当は、あのトレーラーの上に登りたかったんだ」
ぽつり、と菊丸は言った。
「トレーラーって? もしかして、菊丸先輩と大石先輩が試合に負けた時、ずっと反省会してたっていうあのトレーラー?」
「うん」
菊丸はうなずいた。その拍子に、新しい涙がどっとこぼれる。菊丸は鼻をすすりながら、カバンからくしゃくしゃになったタオルを取り出して涙をぬぐった。
「でもあれ、取り壊されちゃったんだよね。ずいぶん古かったから……」
その古ぼけた外観に、なんとも安らいだ風情があったものだ。今はどこにもないトレーラーを思い出しながら、菊丸はリョーマに語った。
「あのころは、テニス始めたあのころは、努力で勝てないものは何もないって信じてた。俺、小さいころから自分で言うのもなんだけど、器用だったし、運動神経も良かったから。だけど、そんな自信なんてただの井の中の蛙さんだって気付いたんだ。手塚や……おチビを見てるうちに」
菊丸は笑いながら泣いた。ぼやけた視界で、自分を立ったまま見下ろしているリョーマを見上げる。
「おチビにしたら俺なんか笑っちゃうでしょ? 勉強もスポーツも、おチビよりできないくせに、おチビの先輩でその上恋人気取りだなんてね。俺なんかおチビには釣り合わないよね」
「そうですね、笑っちゃいます」
リョーマの答えに、菊丸は息を詰めた。わかってはいたことだけれど、当人の口から言われるとやはり胸がぐっさりと傷ついた。
リョーマは微笑みながら、菊丸に言葉を続ける。
「けど、俺、笑っちゃうから菊丸先輩と一緒にいるんですよ。いつも俺のためにがんばって、必死な先輩見てるとなんだか俺、笑っちゃうんです。この人、本当に俺のことが好きなんだなってね。俺が笑うのなんかめずらしいでしょ、先輩。だから……」
リョーマは菊丸を抱きしめた。
「は、離せよ! なぐさめなんかいらないもんね!」
拗ねる菊丸の唇をリョーマは優しくふさいだ。
キスの甘さに、菊丸の心はみるみるうちに溶けていく。
いつしか、菊丸はリョーマの小さな体をかき抱いていた。
「ねえ、菊丸先輩。こんなところで……」
「大丈夫だよ。もう誰もいないから」
「でももしかして……」
「大丈夫。大丈夫でなくても俺がおチビを守っちゃう。それにおチビ、今やめていいの?」
菊丸の問いに、リョーマはとろんとした目でふるふると首を振った。
「かーわいいの」
菊丸はチュっとリョーマのうなじにキスをする。リョーマは切なげな悲鳴をあげた。
「もういいよね……おチビ、そのまま腰をおろして。ゆっくり、ゆっくり。俺が支えてあげるから。ね、痛くないでしょ?」
リョーマは返事の代わりに、菊丸の背中に両手を回した。
(俺にはもう、これだけでいい)
リョーマの甘い吐息を聞きながら、菊丸は思った。
この不器用な恋人は、憎まれ口をたたきつつも自分を必要としてくれているのだ。
けれど、それを認めたくないから意地悪ばかりする。
だから今、菊丸はリョーマにささやかな仕返しをしてみることにした。
「ね、先輩。もっと……」
「だーめ。自分ばっかり楽しまないの! おチビもちゃんと動きなさい」
「そんな……」
「いいんだよ、俺は? このままでも」
潤んだうわめづかいで菊丸をにらみつけながらも、リョーマは華奢な腰を自分から使い始めた。
「ああ、おチビって本当にエッチだなあ」
菊丸はわざとあきれた声をあげながら、リョーマのひたむきな様子を楽しむ。
「おチビは体だけじゃなくて、心もこのくらい素直になってくれたらいいのにねえ。そう思わない、おチビ?」
「べつに体も素直なんかじゃ……」
菊丸にそこで強く突かれて、リョーマは言葉とはうらはらな声を上げた。
「じゃ、おチビ。俺、今日はここで」
駅前の雑踏で、菊丸にそう別れを告げられてリョーマは驚いた表情をした。
「どこ行くんですか、先輩?」
「ちょっと自主トレに」
菊丸は笑いながら頭をかく。
「自分の可能性ってものに賭けてみたくなってさ。たしかに才能の差ってあるかもしンないけど、俺なりの資質のばし方ってのはまだまだあるかもしンないでしょ? 俺、そう思うようになったの」
菊丸はそこで身をかがめて、リョーマのほおをちょん、とつついた。
「だって、あんなにつれなかったおチビも、俺のものになってくれたもんね!」
「俺のどこが菊丸先輩のものなんですかっ?」
リョーマは真っ赤になって言った。
「はいはい。とりあえず今日はさよならね、っと」
菊丸はリョーマに背を向けて歩き出した。
軽い足音が聞こえて、ふと振り返ると、リョーマが後ろからついてきていた。
「どしたの? おチビ」
リョーマは菊丸の制服の裾をつかみながら、うつむいて答えた。
「才能の差ってやつを、先輩に分からせてやろうと思うから今日の練習つきあいます」
菊丸は驚いてリョーマを見つめた。
天才ルーキーはつれないそぶりを見せながらも、しっかり菊丸の後をついてきている。
「じゃあ、つきあってよ! 俺もおチビが俺のことをこ~んなに好きだってことを分からせてあげるからさ!」
菊丸はリョーマの小さな体を抱き上げて言った。
「や、やめてくださいよ、先輩! こんなところで……」
「いいの、いいの!」
菊丸は笑いながら、リョーマの体を抱きしめた。
(おチビが俺の腕の中にいるなら、俺はなんだってできちゃう)
身の程知らずだけれど、力強い自信が菊丸の胸にあふれだしていた。
END
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