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師でなくても、走る走る師走です(爆)。クリスマスくらい静かに過ごせよ!と言いたいのだが、クリスマス・イブに家族サービスもしとらんオイラが家族に言えるわけもなく(^^;少し落ち着いたとこで、自分でも何を書いたか忘れてたんですが、メッセージ・ボックスを見たら、こんなことを書かせて頂いてました。「なるほど、オイラはこんな風に考えてるんだー」と想ったので「最後の喝!」記念(?)に(^^)< 2011.12.24.配信 >******* 最後の喝! ******** 形あるものは全て壊れます。 消滅するものは消滅し残るべきものは残るのが摂理でしょうね。 良心こそ道標だと思います。 (2011.12.23.)***********************▽▼▽▼▽▼▽ 私は、こう読ませて頂きました ▽▼▽▼▽▼▽自然や運命は、時に人には過ぎるほど、過酷です。では、どうせなら今のうちに楽しむさ!と悪事を重ねたとしたら・・・?あるいは、それを良しとする人も多いかも知れません。しかし、いざ「さらば!」の、その瞬間はどうでしょう。過酷な状況にあっても己の良心に従った者のみこそが、胸を張り、笑顔で「さらば!」と言い得るのではないでしょうか?それは、あまりに地道で、誰に褒められることも、あるいは誇れるようなことでもないかもしれません。しかし「確かに最後まで共にする己」に対してこそ、真に誇るべきものが必要なのではないだろうか?私は、そう想わずにはいられません。決して堅苦しく考える必要などありません。家族や仲間達と冗談を言い合い、労わり合い、感謝し合い。そんな当たり前の人間の営みにこそ、その真実がある。私は、そう読ませて頂きました。今日も有難う御座います。そして、これからも!△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△改めて読むと、なんかエライ御大層なことを書いてしまった気がしないでもなく・・・フリーズしそうだわ( ̄▽ ̄;毎度の如く、自分で書いたはずなのに理解出来てないし。まあ、いっか!そんなもんさー(爆)!!
2011.12.25
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久しぶりになってしまいましたよびりんさんの記事。読んでいて、これは普通に言ってる「利口」というのと違うなぁ、などと感じながら、いきなり話が飛ぶのですが「もののけ姫」の有名な言葉、「曇りなき眼」を想い出しました・・・(^^;*この評論が参考になりそうです権右衛門さんの養子候補(?)として「応える」子供は、確かに利口ではありますが、それは素直な心、言い換えれば「曇りなき眼」で物事を見ていたからこそ、あれこれ捻ることなく難問を解決出来たのでしょう。そういう意味で、答えたと言うよりは、やはり「応えた」が相応しそうです。「曇りなき眼で見定め、決める」今、私自身の一番の課題でもあるよなぁ・・・(^^;人間、欲得も勿論ですが、色々なものを、どうしても自分の感情やら何やらに乗っかって見聞きし、言動にも移しがちなもので御座います。しかし「曇りなき眼で見定め、決める」というのは、内的感情を抑え込むというのとも違う。ありのままに受け取る、というのが一番、分かり易い表現だろうか・・・仏教の八正道のトップも「正見」である。正しく見れなければ、状況を正しく把握していないのだから、その後は困難を極めてしまうことになる。普通に、極めて当たり前のことではあるんだがなぅ・・・orzだから、よびりんさんの言葉に出てくる「天の蔵」」も、いつでも開いているのに、見えないままだから、たまたま恵みを享受出来る人、享受出来ない人がいたりするんだろうなぁ、とも。もっとも「天の蔵」は、天にあるのと同時に自分の中にあるわけですが、そもそも自分が分かってないですからね・・・(爆)やはり「愛の心」は偉大なのです。・・・と、読み返しても訳の分からんことを(大爆)。まあ、人生不可思議なので楽しいのだ!的な感じで、取り敢えずはいっか(^^;
2010.08.05
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今日のよびりんさんの記事は吉四六さんのお話です・・・が、今回は、いつもと勝手が違うようです(^^;人の頭と言うのは不思議なもので、どういう場面で能力が発揮されるかは、本当に人それぞれ。吉四六さんは、もしかしたら自分の商売に関しては、我々と同じだったのかもしれませんね(苦笑)。それにしても「茶、栗、柿」と三種の商品を背負って「ちゃくりかきー!」と叫ばれても、何のことやら。近所の方の言う通り、せめて別々にアナウンスしてもらわないと(^^;こういうことは、よびりんさんの仰る通りで、よく遣りがちな失敗ではありますが。orzもっとも、先ずネーミングを考えてもヒジョーに難しかったりもしますね。分かり易く端的に商品の特徴を・・・と想っても、商標や先行品があったりで苦心することは多いもの。そうすると、第一に人目を惹くような名前を、となりますが、これまた出たとこ勝負だったり・・・当たれば大きいですが(笑)。それに、せっかく三種の商品があるんですから、セット販売にも結び付けたいものです。仕事の一服に美味しいお茶~♪小腹空きにはホックホクのクリ~♪お口直しにあま~い柿~♪とでもいうような感じでしょうか?我ながら甚だしくセンスがないことに呆れはしますが(大爆)。商売と言うのも、難しく考えると本当にいくらでも難しくなりますね(^^;どなただったか忘れてしまったのですが、「売る事より笑ってもらうように心掛けていれば自然と売れる」というようなことを聞いたことがあります。もちろん、それだけで事足れり、という商売ばかりではありませんが、TVショッピングなどを見ても、確かに上手いですね。下手な番組を見てるより面白かったりして(爆)。でもこういう失敗は避けた方が良いような気はしますです、はい(^^;*48秒位からの男性の右手に注目です(爆)
2010.07.23
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今日のよびりんさんの記事は吉四六さんと長鬚で金持ちの長兵衛爺さんのお話。当時は、お金持ちでも村を出て町に行くということは容易ではなかったのかもしれません。そう言えば「町一番の・・・」というよりも「村一番の・・・」という表現の方が耳目にすることが多いかも知れません。それにしても長兵衛爺さん、日本一とは大きく出たものですが・・・(^^;それでも鬚を褒められただけで大盤振る舞いとは気前が良いですね~。人には色々なアイデンティティーがあるもんなんだな、と(苦笑)。そう言えば、爪の長さ世界一という記録もありましたね。このお話、大分に伝わるものだそうですが、そうだとすれば伊勢から来た客人になれば有頂天になる気持ちも分からないでも(爆)。まあ、詐欺の常套手段とも言いますが(大爆)。吉四六さんも、頭ごなしに長兵衛爺さんを説得にかかるでもなく、穏便に収める知恵を発揮していますが、長兵衛爺さんが「そんなの出して寝るに決まっとる!」というタイプでなくて良かった、良かった。というか、そこまで拘っていないことも承知の介だったのでしょうけれど(笑)。でも長兵衛爺さん、騙される程の有頂天は大いに反省すべきですが、自慢の長鬚なんですから、更に精進して伸ばして頂き、村一番から町一番を目指しても良かったような・・・(^^;こういう他愛のない自慢をするキャラクターの人がいるのも、また面白いとは想うんですが(笑)。
2010.07.22
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今日のよびりんさんの記事は有名な猿蟹合戦。御紹介されているのは表現や筋書きを柔らかくした現代版ですね。小学校の教科書で見た記憶があるのですが・・・例により記憶が怪しい(^^;この猿蟹合戦、元は残酷なオチだったりで、含意するところは難しいと感じさせられたりも。かの文豪芥川龍之介は、それに対して後日談を作っていますが、仏教で言う「怨みは怨みによって・・・」の一節を想い出させます。実際に、日本は、この思想の大恩を頂戴することになったわけです。ジャワルデネ閣下(セイロン、スリ・ランカ)の演説は有名ですが、北に頭を向けて寝ないのではなく、南に足を向けて寝てはいけないというべきかもしれません。とは言え、その理想が難しい実務的議論に及ぶことは想像に難くなく・・・参考私なんぞも、万が一、家族に危害が加えられたら捕縛される前に復讐したる!捕縛されても、どっかで復讐したる!!とか考えてしまう方です。orzこの御釈迦様の一言自体はシンプルですが、どう受け止めていいのかは、高潔な心魂を以てしか真意を図ることは出来ない気がします。ただ、一つ言えるのは、「あの人は悪い事をしているが、自分は悪い事をしていないからいいんだ。」というような、自分だけが正しければ良いというような感覚や発想は、少なくとも仏教的には馴染まないだろう・・・と。そして「自分さえ我慢すればいいんだ。」と自虐的になるのではなく、力の及ぶ範囲で、より積極的に悪事を為さしめない(生じさせない)ための智慧も必要だ、とは言えそうです。う~ん・・・子供の頃に感じた違和感から大した成長をしていないのが悲しい。orzおいら、大した事を学んできてねぇなぁ・・・つくづくに・・・(^^;
2010.07.21
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しばしお休みを頂戴しておりました(^^)今日のよびりんさんの記事は吉四六さんのお話。いつも想うのですが、主役の吉四六さんの知恵回りも冴えていますが、周囲の素朴な方々も素晴らしいですね。今回は年貢のお話と言う事で、どれだけ厳しい時代かは分かりませんが、少しは楽な時代に当たっていたとしても、年貢を納められなければ大変ではあったことでしょう。それでも、馬に飲ませる水がないことが分かった時の言葉が、「このまま水も飲ませずに無理をすれば、馬が倒れてしまうぞ」という馬を労わるものだというのが何とも。もちろん、馬の心配と自分の心配は一緒だということでも、馬自体が貴重な財産であったということでもありはしたことでしょう。それでも馬と自分が運命を共にする仲間ではある、ということではあったようで、少なくとも、このお話からは、馬を“単なる道具”として使っているというような様子は伺えない気がします。ノンビリ屋の私などは、このような生物や自然との温かい交流が描かれている文章を目にするだけでも安らかな気になってしまうわけですが(^^;知恵というものも、冷たい知恵もあれば、温かい知恵も、悪戯な知恵もあります。一人で生きている中で発揮する知恵もあれば、皆と共に生きている中で発揮する知恵もあります。吉四六さんは「色々な知恵」を使いこなしたようですが、このような温かい知恵の発揮振りが、やはり一番、吉四六さんらしい気がします。そこには、厳しい時代でも色々な特技の持主がいて、そこに温かい交流があって「共に生きている中での知恵」を感じるからだと想うのです。吉四六さんは、自らの知恵が自分だけが幸せであればいいというようなものではなく、皆と共に幸せになるために授かったものである、と知っていたのかもしれません。もちろん、どのように備わっている知恵なり才能なりを使うかは、それに恵まれた人に任されているわけではありますが・・・(^^;
2010.07.20
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今日のよびりんさんの記事は竹の由来、朝鮮半島に伝わるお話だそうです。古今東西、意地悪な継母・継父というのは定型的に語られています。ある種の猿にも子殺しの習性が見られる等、学問的には難しい問題になるようです・・・とは言え、戦時でも老人や女性・子供というのは第一に保護すべき対象でもあり(非戦闘員ということもありますが)、なにより人命を軽んじていいという倫理的な理由もないでしょう。神の化身か、見知らぬ男が吹いた笛の音から響くタエの歌は悲しいです。天知る地知る我知るとは、こういうことで、形は変われども、このように悪事が露見することは決して珍しいことではありません。やはり日々刻々、自らを省みることが大切ですね(^^;ただ、この手の話で非常に残念なのが、このお話であればお父さんの対処です。この、やさしいはずのお父さん、タエが可哀想で、世話をしてもらうために新しい奥さんをもらったようです。その気持ちも痛いほど分かりますが、どれほどの想いを新しい奥さんに振り向けてあげたでしょうか?どうも大したものではなかったようで、それでは継母も遣る瀬無いでしょう。もっとも、優しく愛情を持って接したとしても、新しい継母は意地悪だったかもしれませんが・・・(^^;それでも新しい奥さんとの間での交流があれば、どのような人か分かっても良さそうなもの。時代が時代だからということもありましょうが、ただ、単に子供の面倒を見る母代わりであれば、お手伝いさんを雇うのと何変わることがありましょうか?とは言えるでしょう。そう言えば、アメリカでは少し違う風が吹いている様子です。こういう事は形は違えども決して珍しくないもので、私も含めて世の男性は猛省すべきでしょう。私の場合であれば、今の時代には珍しくなってしまった三世代同居。女房は嫁という立場で、両親にも良くしてくれています。これはもう何を言われても頭が上がらない位、大変なことだと想っておりますので、折に触れて感謝、感謝!です。いくら折り合いが良いようでも、所詮、他人は他人なのですから。カウンターとして、夫は食費運搬人のようなもの、という考えもまた。お互いの少しの心遣いや愛情があるだけでも、物事が穏やかに進むことは多いもの。特に疎かになりがちな家族への想いは、血の通ったものでありたいものです。それにしても・・・四度も宝くじ当選ってスゴイっすな・・・18億というと・・・金利無で1億/年遣っても18年も掛かるだ~よ。確かに募金位しか使い道が想い浮かばん(爆)。
2010.07.16
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今日のよびりんさんの記事はイギリスの昔話だそうです。物に名前を付けて可愛がったり大事にする方はいらっしゃいますが、それは可愛がったり大事にしたりした結果であって別というか逆というか・・・の話ですね(^^;自分で訳の分からない名前を付けまくって分からなくなってしまうとは。他にも、身近なところでは警察の方なども、職務上、隠語を使ったりしますが、それは必要性あってのこと。短時間で正確に意図を伝える必要がある場合、というケースですね。しかし、笑ってばかりもいられず(爆)、よびりんさんが付記されているように、>この、おじいさんのような人、世の中にたくさんいますよ。ああ、おいらみたいなんですのぅ・・・( ̄▽ ̄;忘れないようにメモしたはずの内容がなんだったのか、自分でも分からなくなってしまうという(大爆)。まあ反省は置いておいて、このおじいさんのように、人を煙に巻くような言辞というのは、詐欺的セールスでも頻繁に使われるから要注意ですね。ただ、誠実に説明しようとすると、止むなく長くなってしまうこともあるので見極めが難しかったり。もっとも、一言で済む事を長々と・・・ということは普段の生活でもありがちで汗)。逆に省略し過ぎて分からん!ということもあったりして(苦笑)。また理屈と現実では違うんだよ、という意味でも反省材料になります。実務上、何の関係もない時は評論家として滔々と論陣を張るのも、それはそれで良いかも知れませんが、大抵の場合、実務で役立てるのは難しいものです。実務では、細かい事も気配りしたくても出来ないケースが多くなりがちで「エイヤッ!」とせざるを得ないことも多々あるもの。それでも外せないポイントは外さない、というのが実務能力に大きく関ってくるものです。いずれにしても、下らないお遊びと大切なことをゴッチャにしないことは、やはり大切ですよね。そうでないと大事を見失って無意味に帰す、と・・・(汗)それにしても、この女の子、頭良いですね~(^^;
2010.07.15
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今日のよびりんさんの記事は、鹿児島は吉野町に伝わる民話だそうです。登場する神様が火と土の神様だったり、多様な人種を創造したりと鹿児島らしいお話です。子供の頃、「西郷さんみたいな(体格の)人が何でいるんかいな?」と想ったことがありますが、鹿児島には色々な人種が渡来したのか、体格の大小から色の白黒に至るまで、非常にバラエティーに富んでいるところがあります。地元に行くと、西郷さんのような、いかにもサモア系の方も少なくなく、私の祖父も同じような体格の持主でした。一方で、小柄でガッシリという、ミクロネシア系(?)っぽい体格も多く、祖母なんかがそうでした。そのようなことが、鹿児島ならではの独特のおおらかさの土壌でもあるのかもしれません。それにしても、五十年というと、長いようで短いもんだな、と四十を超えた私などは想うこと暫しだったり・・・というよりも、まだまだ学びたい事、研究したい事、やりたい事は山積みなので「マジですか??短っ!!(@@;」という感じです。時間が足りなぃですら・・・(^^;が、その五十年にも大きく満たない中で日本を背負い、動かしてきた多くの人達がいらっしゃったわけでもあり、その偉大さには頭が下がります。もっとも江戸時代に遡ると、寿命自体は比較的長かったらしいという説もあります。戦国時代以前の戦乱時代には、やはり寿命は短かったようですので、やはり人の命を縮めてしまう大きな要因の一つは、戦争に他ならぬようです。長寿であってもなくても、戦禍で命を落とすというのは悲しい事で、やはり避けねばなりません。そう言えば、武術や武道というのは当然ながら世界中のどこにでもあるわけですが、日本の武士が禅を嗜むなどして真正面から生死に向かい合い、一種の哲学と言えるほどまでにした様な例と言うのは比較的珍しいようです。そこには、勇猛果敢である一方、元来は平和主義者という相反する側面を持ち苦悩した日本人の姿を見る気がします。話変わって、恒例の「山笠ビール会」では、「六つの魂の話」が出たようですね。「三種の神器」のお話から少し離れますが、伺うと「なるほどな~!」と、これまた非常に面白いお話です。機会に恵まれた方は、よびりんさんに御伺いすることをお薦めします(^^)目が点になる方もいらっしゃるかもしれませんが、その時はその時なのです(爆)。
2010.07.14
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今日のよびりんさんの記事は、ニュージーランド民(神)話から。「マウイ」と聞けばハワイのマウイですが、この場合は神話に近いので、スピリチュアルっぽくなりますが、我々に馴染み深い言い方(?)ではムー大陸あるいはムー大陸に住んでいた人々ということになります。より厳密には「人」という形を取る前の「魂としての人(集団)」でしょうか?いずれにしても、神と人との境が、まだあやふやだった頃の世界のお話です。マウイは、地上の人間が永遠の命を持てたら良いな、という、素朴ながら現世の摂理に反する願いまで抱いてしまったために、この世にいれなくなってしまいましたが、その想いは優しく尊いものと言えましょう。その姿は、全ての人を愛しむ聖人の姿に重なるかのように語られているかもしれません。あるいは視点を変えて、自然界で人として暮らすための知恵を得ていく物語と見ても良いかも。神話のマウイは一人でしかありませんが、その場合はマウイという一人に仮した、様々な能力を獲得した歴々の先祖達、ということになりましょう。それら先祖達も、やはり永遠の命を求めつつも、この世を去らねばならぬ時が来ることは拒めないのです。さて、このマウイ神話でもそうですが、往々にして神話や、あるいは現代文明と言われるものに毒されていない世界では、我々から見れば残酷、あるいは非人道的と想われてしまうような習慣があったりするものです。NHKの秀逸な作品にアマゾンのヤノマミ(族)を長期取材したものがあります。ヤノマミでは、人は産まれて後、人か精霊かを母の選択により決められます。胎児の間は(森の)精霊なのですが、産まれ落ちて後、人となるか精霊のまま森に還されるか・・・両親や社会を保持するための体のいい言訳的なお話(習慣)だ、と言う意見が強いことは想像に難くありませんが、それがヤノマミにとって“自然と共に生きる”ということなのであって、他文明や文化の視点で語って良いものか・・・?そこには、大宗教や現代文明すら伺う事が難しい、自然の只中に生きる、一生物としての人間の在り方を受け入れている姿を見て取れはしないでしょうか。人間が“自然の異物”とならないための戒めとは見れないでしょうか。愛や慈悲というものにも、感情であるものと、感情でないものがあります。感情ではない愛や慈悲は、時に人にとっては苛烈にしか想えないものです。しかし、その苛烈な愛の中でこそ、本当の愛というものが光り輝くのかもしれません。
2010.07.13
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きょうのよびりんさんの記事は、長野・塩尻の桔梗ヶ原に住む玄蕃丞狐(げんばのじょうぎつね)のお話から。この玄蕃丞狐、地元では大変に愛されている人気者だそうです(笑)。御祭まであるとは驚きです(爆)。上に御紹介したのは「よさこい」になっていますが、元は武田家由来で土佐との関連もあるとか(武田勝頼土佐の会)。大変に古い時代から大集落があったようですから、狐に化かされたお話も身近なのかもしれませんね。とは言え、玄蕃丞狐の場合は化かしたと言っても邪気のない悪戯の範囲で、ちょっと手を焼くヤンチャ坊主という感じ。化かされた当人はともかく、お話を聞かされても想わず笑ってしまいます。罪のない嘘戯れと言ったところでしょうか?大変に意外だったのですが、人が、その成長過程で「嘘をつくことが出来るという能力」を身に付けること自体は大切なことだそうです。なんでも、その「嘘をつく能力」というのは、現実と観念世界を区別したり、人の感情や心を察するなどといった重要な能力の現れなんだとか(@@;私が知ったのは娘達が嘘をつけるようになる前だったので、子供達が嘘をつけるようになった時には「それは、本当は・・・だね~(笑)?でも、凄いね~!嘘を付けるくらい大きくなったんだね!!でも、せっかくだから、その頭は良いことに使おうね~。」などと呑気なことを女房といっておりました(爆)。しかして不思議なもので、二人とも、相変わらず可愛い嘘や優しい嘘はつきますが、人を傷付けるような嘘を言うところは、見掛けた記憶がありません。基本的に嘘はイカンことに変わりないのですが、それも時により場合により。優しく人を気遣う嘘もあれば、玄蕃丞狐のように皆で面白おかしく、という嘘もあります。よびりんさんの仰る様に、勝&龍馬の大ボラ・コンビみたいな例も決して少なくはありませんし(笑)。そうそう!そう言えば私、始めて書きますが・・・実はよびりんさんの歳離れの弟なんですよ(大爆)!!
2010.07.12
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今日のよびりんさんの記事は田植えを手伝ってくれた地蔵尊のお話。そういえば最近は、お地蔵様を見掛ける機会が減ってしまったような気が・・・というより、昔は普通にあった謂れも知らぬ祠や仏像といったものを見掛けること自体が減って来たのか・・・?「お参り」というと、どうしてもお願い事、それも都合の良いお願い事に走ってしまいがちなものですが、御礼に行くものなんだよ、と教えられたことがあります。典型的には墓参りなどでしょうか「ちゃんと御挨拶した?いつもの御礼をした?」と、よく言われたものです。元より御照覧の上、守護して下さっている神仏・御先祖様ですから、まず御礼が先だ、ということだとか。お願いするにしても、この老夫婦のお二人のように「お役に立てますように(=元気で、働けます様に)」とお願いするもんだ、と。大した努力もせんで都合の良い頼みごとばっかするもんじゃない!とは、当然と言えば当然のことではありますな・・・(^^;考えてみれば「参る」と言って「誰が参る」のかと言えば、我々が参るのであって、仏様が参ってきてくれるわけではないのですよね(笑)。少し厳しいようですが、礼法上は、目下の者が呼ばれもせずに自ら目上の人に声掛けしたり、呼ばれて先に言を発するのは失礼にあたるとか。それは煩わせないということが一つの理由であるようですが、神仏だと言って煩わせてばかりいて良いのか?とも・・・(汗)まあ、神仏は「いつでもいらっしゃい」でしょうが、いきなり勝手に参上して「後は頼みまする~!!」ではなぁ(笑)。話変わり、このお話ではお地蔵さまが坊主頭の子供と化して登場したことになっていますが、お地蔵さまと分かるまでの遣り取りでは、みんなで助け合って過ごしていた、昔の日本の姿も見てとれます。今でも農村や漁村と言ったところでは変わっていないところも多いようですが、元々、村や集落というのは、その中で互助的な生活を営むのが当たり前で、たとえば「苗作りは○○ベエに」というような、一種の分業に近い助け合いまでもあったようです。また若手は力仕事、高齢の方は知恵袋、といった具合に、各々の長所・力を合わせて事に当たっていたことも。そういうことは今でも変わりはないはずなのですが、昔に比べると大量生産型にシフトしてしまったような“仕事”を典型に、どうしても画一的な能力のみが求められがちになっている傾向はあるようです。その分、そういう枠組みにない長所を持っていても埋もれがちに、ということがあることは、一考を要することのような気がします。人は誰しも異なる長所短所を持っているものですから・・・そして地蔵尊ですが、立像が多い事(ほとんど?)には理由があると聞いたことがあります。立像は地蔵尊に限られてはいませんが、その姿には「今、直ぐにでも助けに行きますよ」という菩薩の願いを現したものなんだとか。座して広く徳を及ぼすのと少し異なり、(より具体的に)手を差し伸べましょう、と。このお話や笠地蔵に見られる地蔵尊のお姿は、高貴な菩薩でありながらも一切衆生を救わんと自ら六道輪廻の世界に身を投じたと伝えられる、その願いと行動力そのものを物語るようにも想えます。立ったまま、多言せずして慈悲深く微笑む姿は、そのまま御手本そのものと言えるのかもしれません。駆け足ではありますが、このお話には我々が忘れてしまった、あるいは置いてきてしまった大切なものが、たくさん含まれているようです。
2010.07.11
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今日のよびりんさんの記事は「とびじいさん」という大男が登場する話、スウェーデンの昔話だそうです。咄嗟に頭に浮かぶのがヴァイキングだったりしますが、ノーベル賞の国でもあり、また、様々な社会施策に積極的に取り組んでいる国でもありますね。スウェーデンこの大男の「とびじいさん」の姿は、ヴァイキングに重なる面もあるようです。このような嫌味で意地悪な金持ち像というのは、色々な国に伝わっているようですが、万国共通なのでしょうか(苦笑)?それにしても、仲良く共同利用していればいいものを、独り占めしたい、というのも極端ですね(^^;それでも30人も調達されてしまうわけですから金の力は恐ろしい・・・この金持ちじいさん、何が楽しみなんでしょう???逆に意気消沈していた貧乏じいさん、追いつめられて、「ガオオーーーーーーーーッ!ガオオーーーーーーーーッ!!」と吼えてから大変身、一気に底力を発揮したようです。残念ながら、真面目に働きさえすれば、お金に不自由することはない、はは必ずしもいかないようで、逆に、その真面目さが仇になることがあることは、よびりんさんも注意されています。「お人よしを卒業する」ことは、普通の心掛けとして、やはり必要なことでしょう。極、稀に仙台四郎さんのような方も現れますが、それを倣いとするのは非常に危険な一面もあります。逆に、そのような方々のために、仙台四郎さんみたいな方が身を呈して現れてくれるのかもしれませんね。話が全然、飛んでおりますが(爆)、やはり仙台四郎さん、スゴイですねぇ・・・女房に見せたら、やはり東北出身だけあってか、店先に写真が貼られていたりするのを拝見したことがあるそうです。厳しい北国では、時に、そういう神と見紛う人が現れるようで、そう言えば座敷ワラシも東北(出身?)ですね。決して贅沢ではない、ささやかな幸せへの人々の想いがヒシと伝わってきます。まあ独り占めを喜ぶような意地悪なお金持ちには・・・少し反省して頂きましょう。往々にして、金持ちでなくても自戒は必要だったりするものですが(苦笑)。
2010.07.10
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今日のよびりんさんの記事では「生まれ変わり」について触れられています。特に現代の科学教育を受け育った我々ですので、たとえ事実として疑うのが難しい事例が報告されていても、それをマルッと信じることは難しいかも知れません。いや、基本的には信じない方向で生活するのが現代社会においては正しい姿勢だと想います。ので、この記事は「それでも気になるなぁ~」という非常に(笑)奇特な方向けとお考え下さい。さて早速、例として、ここでは、よびりんさんの記事を取り上げますが、文中に、『平等院鳳凰堂の、国宝「雲中供養菩薩像」は、高き修行を積んだ漁師の生まれ変わりである、尊い仏師によって「心眼」で彫られたと伝えられます。』とあります。では、その漁師は、ただ一人、その仏師に“のみ”生まれ変わったのでしょうか?逆に言えば、その仏師は、ただ一人、その漁師“のみ”の生まれ変わりなのでしょうか?「生まれ変わり」でも「転生」でもいいのですが、そこに「唯個我論」とでも言うような「先ず、区分けされた個(体)が存在するのだ!」と見れば、上の答えは「Yes」です。では、魂の世界というのは「ここからここまでが私の魂です、ここからそっちが貴方の魂です」というようなものなのでしょうか(笑)?そして、そのような「ここからこっちが・・・」というようなものでは“ない”とすれば、上の答えは「No」です。ここからは、自らに問うて頂くべきことですが・・・私の考えを理屈で分かり易く言うとするなら、私達は色んな影響を受けて産まれ育ってきています。あるいは良い事、あるいは悪い事を耳にもし、眼にもし、経験もし、それらは全て心に、魂に、というと抵抗があるなら(抵抗があるのが普通ではありますが 爆)脳味噌に、一度はストックされます。我々が言葉を話せるにしても何にしても、その「ストックの集積」がある故ということは、大凡、正しいでしょう。では、そんな、いわば「寄せ集めの私」の、どこからどこが「私」で、どこからどこが「私ではない」のでしょうか?目前に愛しい人がいます(いない人も、取り敢えずいるとします 笑)。たった今、目前のケツの穴が開き、そこから臭~くてベチャベチャの、「これは・・・!!」という汚い糞が出て参りました。そして、その糞は、残念ながら、その愛しい人ではありません“今となっては”(爆)。一瞬前までは、その愛しい人の体内に間違いなくあって、その愛しい人の一部であったにも関わらず、です。かかるように「現実的な私」ですら「どっからどこまでが私」なんてものは無いに等しいわけです。(であるからして、その辺をスッとクリアーして糞掃除してくれる(た)母親というのは、既に悟りの境地を経た人なわけですが)ましてや、魂の世界に「こっからここまでが私です~!」なんて話があるわけがありましょうや???そのような世界の在り方の一つは、神道等の「分霊」という言葉に見ることも出来ましょう。仏教では「諸法実相」と言いますが、その時の「相」というのは姿あって姿なきものです。まさしく禅問答のようですが、「そう」としか言いようがないのですからショウがない(いや、ダジャレであってダジャレじゃなく)。だって、どこからどこまでも何もないんですから、区別してどうこうなんて、しようがない。さらにさらに「いつからいつまでが私」というのもありません(爆)。時には仏様もかくや、という魂の持主にしか見えず、時には鬼畜生そのものだな、という魂の持主にしか見えず・・・とまで極端でなくても、その人の心、ましてや魂などというものが「確固定されたモノ」であるはずがないのです。そんなに強固なものであるなら、フワフワとそこらに浮いているはずがないんであります(大爆)。であるので「ああ、この人は私に似てるな・・・」とか、「ああ、あの時の自分だ・・・」というようなことを過去の人のエピソードに見るときは、それが一つの生まれ変わりである可能性が非常に高いわけです。もちろん、全く見当違いである可能性も高いですが(爆)。いずれにしても、そんな目で見やるならば、現世のアレコレとも深く因縁で結ばれている私がソコにいることが分かるのでして、至らずとも尊い私であるとの自覚も芽生え、どんな私も徒にしてはイカン、という気持ちくらいは生じて慈悲の心も起きようというものです。まあ、それが一瞬で霧散してしまうことが多いのが凡夫の悲しさですが、霧散してしまったことを悔いても仕方ないので、そん時は次に行くのであります。ということで「おいらの魂は、どんだけ低級なんだ・・・orz」と嘆く必要もなく、「おらの魂は、こんなに高級ずら( ̄▽ ̄)」と有頂天になる必要もないのでありんす。・・・というのが、まっく・響流なのでし。てなことで、モヤモヤッとしている方がいらっしゃったら、そのモヤモヤが少しでも解消されれば幸いです(^^)
2010.07.09
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今日のよびりんさんの記事は「濡れ衣」の由来になったお話、よびりんさんの当地、博多の昔話だそうです。継母による子供苛めの話は多いですが、この継母の場合は佐野近世の性格を見越しての一芝居のようです。このお話では釣り衣が取り上げられていますが、近世にとっては「娘が盗みを働いた」ということが、咄嗟に許せなかったのでしょう。後に近世の枕元に立った春姫は、「濡衣の 袖よりつたう 涙こそ 永き世までの 無き名なりけり」と歌ったとも伝えられているそうです。自分の子供の不始末に、親としては、とかく厳しくなりがちなもの。確かに悪い事は悪いと叱らなくてはなりませんが、近世の脳裏には、私達と同じく世間体がよぎったやもしれません。見栄体裁は、かくも恐ろしいものでもありますれば。無実の罪で親に斬り殺された春姫の涙や歌は、それでも親を想う心が伝わってくるようで切ない限りです・・・よびりんさんが後記されているようなお話がなければ遣り切れません。掲載されている雲中供養菩薩像、持物 北25号像と称される像だそうですが、その佇まいが持物とも相俟って一際、心を打ちます。蓮華は泥中より出でる美しく花咲くことから、あるいは凡夫の仏性を意味するとも言われていますが、この菩薩像からは、「今こそ、その美しさを引き出しましょう」という溢れんばかりの慈悲が感じられます。祖母の「なまんだぶ」を聞き育ったからでもありましょうか・・・手前勝手を避け得ない人間が、阿弥陀様を心に「なまんだぶ、なまんだぶ・・・」と唱え続ける気持ちは、痛いほど分かる気がします。
2010.07.09
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今日のよびりんさんの記事は気前のいい男の話、ロシアの昔話だそうです。このお話、ジャータカに由来する月の兎を想い出させますね。*本生譚としては、コチラが元のようですロシアと仏教が結び付かなかったのですが、むしろ比較的メジャーなんですね。よく考えてみれば当たり前ですが・・・(^^;仏教国まであるとは驚きました。この物語の主人公も「アツムタイ」ですので関連がありそうです。さて、大乗仏典である法華経にも薬王菩薩のお話がありますが、その姿は人のために身を尽くす(燃えてしまう)象徴だとも言われます。また、貴乃花で有名になった(?)「不惜身命」という道元禅師の御言葉も、それに連なるものとして読むと、少しは分かったような気も・・・?(^^;*不惜身命・但惜身命このロシアの昔話でも、王さまの命を受けた旅の男や王さままでが心打たれる様を描いて、単なる自己満足では終わらせない仏教思想が反映されていることが伺われます。さて、この王さま、「気前がいい男」という人の評判など忘れて暮らしても十分に満足出来る、地位・財宝に囲まれていることでしょう。それなのに、何がそんなに悔しいのか?周囲の人の評価の重さを読み取ることも出来ますし、単なる負けず嫌いとも読み取れます(笑)。ロシアでは「男というのは、かくあるべし!」という考えが強いと聞いたこともありますので、男として負けたくなかったのかもしれません。いずれにしても、人の心に住まう見栄・体裁と言ったものは深いものだ、ということは言えましょう。最後の傑僧とも言われる澤木興道禅師、口が悪いことでも有名でしたが・・・(笑)さておき、禅師の御言葉に興味深いものがあります。「七十になるまで、衲は人によく思われたいというところがあった。 でも今ではもう全く人にどう思われようと、そんなこときにしなくなった」(「沢木興道聞き書き」P.4~酒井得元著)まだまだ捨てるものは山ほどありますです・・・(滝汗)
2010.07.08
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今日のよびりんさんの記事は七夕様のお話です。今日がまさしく(新暦の)七夕の日ですね。それはさておき、古今東西を問わず、恋する二人は盲目なのですね(笑)。・・・と笑いつつも自戒して聞ければいいのですが、最近は「恋がした~い!」という台詞を聞くこともしばしば。恋というものが「したい、したい」と想ってする(出来る)ものなのかは疑問ですが(苦笑)。仕事を忘れてしまうのも考えものながら、恋するお年頃に想う人がいないというのは、もっと考えものかもしれません。笹の葉に想いを乗せて七夕の夜空を眺める、などということも忘れて世知辛いばかりでは(^^;まあ、私の娘達も“嵐”に首ったけの間は・・・ということなのでしょうかねぇ(==;
2010.07.07
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今日のよびりんさんの記事はスサノオのオロチ退治のお話。オロチ退治は川の氾濫との関連でも解釈されていますが、この辺りまで遡った話は、恐らくは今後も判明することはないでしょう(色んな意味で・・・ ^^;)。ただ、よびりんさんが仰っているように、先祖を遡って明らかにすることは良い供養になるのだそうです。私も、分かる範囲で家系図作りをしたことがありますが、母が非常に喜んでくれました(まあ、いかに複雑かも想い知りましたが 爆)。私の場合は、父方の家系には「平家の落人説」が伝えられてはいますが、恐らくは土蜘蛛やサンカ、それに南洋系やらが色々と混じっている、訳の分からない一族であることは間違いないだろう、と(笑)。元々、薩摩というのは、よほどの名家(別格では島津・東郷家とかですね)以外は、そんな土地柄らしく、況や知覧なんぞはドエライ山中ですので色んな流人や落人の吹き溜まりであっても不思議ではないどころか、適所なのですな(^^;とは言え「折田」という姓の由来が分からず“折れた田”なんていうのから来たのかな???などと想っていたのですが、腰折田という地名があることや隼人が大和朝廷で武警に当たっていたことなんかを考えると、野見宿禰か当麻蹴速の身近に住んでたかして「(腰)折田」と名乗るようになりぃの地元に帰りぃの、と考えるのが自然かもしれん。折田という地名はダイレクトに群馬にもあるんですが、その由来も腰折田に遡るらしいし。でもって、そう考えれば折田姓の分布と言うのが鹿児島(知覧)、京都・奈良辺り、新潟となるっぽいと言うのも整合的に説明し易い。もっとも「腰折田説(^^;」に遡っても課題は残るのだが・・・ただ、血族なんかを見渡す限り納得はいくのである(爆)。農耕民なのに反骨精神旺盛だったり、意味不明に放浪癖があるとか、気性が荒いだとか、猪突猛進な反面、変化自在とかですねぇ・・・とにかくイレギュラーでバラエティーに富むのである。うぅ~ん・・・他人事だと面白いのだが、濃厚に私の性格にも反映されてる気配アリであるのが複雑な気分ですら。orzそう言えば、知覧にはコレという武道の道場すらなかったらしいのだが、置いてもらえなかったんじゃないの?とも想われるんですが、それって・・・(大爆)祖父に至っては戦時中に痛い目を見たせいで、親父には「電機科に行くべし!」と、その理由が「これからは電子戦だ!」というのだから、なんと言って良いのやら・・・(^^;(しかも三年後には「これからは平和の時代だ!」ということで印刷会社に勤めることに。素直に従った親父は偉い!)ついでに「政治に手を出すな」というのは曽祖父だかの代に当時の知覧村の政治資金を調達して没落したことに由来するらしく、知覧町時代の役場には曽祖父だかと思しき像が立ってた(る?)そうな。なんで自分で牛耳ろうとしなかったんかね(笑)?追記)銅像を見た記憶があったので検索した折田兼至像。曽祖父自身ではなく血縁だったんで出資したらしい、とかいう話だったかな???肝心の親父が、その手の話が好きでないので聞き難いですが、機会を見て聞いてみましょう。聞いた私も忘れるんだろうけど・・・(^^;ちなみに従弟によると折田先生との直接的な血縁は確認出来ないらしい。折田先生は市内の折田家出身で、どっかで繋がってるにしても遠くて分からんわな、だとか。特攻館長の折田盛彦さんは「知覧の折田は血縁くらいしかいないから、どっかで繋がってるだろうが良くは知らん」とは父の言だった気が。確かに田舎に帰ると、あの狭い知覧の中に、挨拶回りだけで大変な数の折田がおるからしてキリがない(苦笑)。ともあれ、さらに母方となると不明さは増し、祖母は新潟豪族が元らしいが、上方っぽい顔立ちだから弥生系か?というところまでしか分からんようになってしまっている。祖父は板橋辺りをし切っていた侠客の子供(落し子?)てな具合で、事情に詳しい伯母に聞いて整理するようにお袋に言われてるんだが・・・なんか、調べるの怖いんですけど(^^;爺ちゃん自身は真面目な職人で、私には優しかったが、気が強いことに掛けては親父に劣らずというところ。いずれにしても、幕末から明治に掛けての板橋で侠客を張っていた時点で、そこから先は、まず分かるまい。上州に落ち延びてた某かの子孫が再上してきたんだ、みたいな話でも不思議ではない、って位か(大爆)?てな具合に調べても分からんことが多いのだが、それでもこうして子孫を繋いでくれたことは確かなんだからして、それで充分に有難い。たとえ親御さんすら分からないとしても、永きに亘って命を繋いでくれたことに変わりはないのである。むしろ家系が分からないということは、とんでもない高貴な御方の末裔である可能性があるではないか!いや、多分、そうである。物騒な時代には影武者に始まって、あらゆる手立てを使っても生き残るのが先決というのが常套だったのだからして、今に至っては真偽なんぞは永遠に闇の中なのだ。実際、近代の偉人の御落胤だが・・・という知人もおるし(必然的に生活は厳しいらしいが・・・ ^^;)。ということで、なんにしても苦難の時を超えて今の自分を在らしめて下さった御先祖様達には、取り敢えずでも感謝して悪うはずはないのである。
2010.07.06
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今日のよびりんさんの記事は彦一話、空威張りの居直り強盗を鮮やかな智慧で諌めたお話です。話中では“浪人”ということになっていますが、それでは真っ当な浪人に失礼と言うものですので“居直り強盗”とさせて頂きましょう(笑)。当然ながら、石上の紙を斬る等と言う芸当が出来ようはずもありません。伝承の範囲ながら、昔の達人には、こういう事を難なくし遂げたという方も珍しくなかったというから逆に驚嘆してしまいますが(^^;いずれにしても、このような“弱い者イジメ”というのは不愉快なものですが、いつの時代になっても変わるものでもないことも確かなようで・・・現代では、この居直り強盗のような実力行使型(?)を見掛けることは少なくなったかもしれませんが、代わりに社会的地位、権威・権力やお金等の力にモノ言わせて、ということは決して珍しくありません。不当なクレーマーなども同じようなものですし、飲食店で従業員に対して横柄な態度を取る人もいます。見方によっては寂しく惨めな人達に過ぎないのですが、本人に自覚がないことが多いですからね(^^;また、知恵廻りの良さも、使い方によっては悪用出来る“刀”みたいなものです。中々に巧妙になってきていたりもして、彦一のように上手くあしらう事も難しいことが多いものですが、少しでも善い方向に向けられるようになりたいものですね(^^;この居直り強盗の場合は、その身なりから貧しいままに苦労もしてはいるんでしょう。元は位の高い武士だったかもしれません。しかし「貧すれば鈍す」の言葉通りになってしまったことが残念です。武士は食わねど高楊枝、とも言います。貧するほどに高潔になる!・・・というのはヒジョーに難しいですが、たとえ見栄体裁に拘ってのヤセ我慢であっても、せめて人様を泣かすようなことはしたくはないものです。武士は食わねど高楊枝
2010.07.05
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今日のよびりんさんの記事は杭を握らされてしまったお話、福井県の民話だそうです。呼び名が違いますが同県の“むかさ”かもしれません。向笠城というのもあるんですね。いずれにしても古い土地柄であることは間違いないようです。この酔っ払いの伊太郎さん、狐に騙されずに賢かったのか、バカ真面目に杭を握り続けてアホなのか・・・(^^;「私だけは騙されない!」と言う人ほど騙されるものだ、という現代の話を想い出してしまいます。昔話には、こういう他愛のない狐や狸に化かされた話も多く、貧しくとも心豊かだったことが偲ばれるようで、ホノボノさせられます。もっとも、このお話、元より狐だったのかは怪しいですが(笑)。少なくとも、狐だったとしても、そんなに悪さをする積りはなかったんでしょう。何で聞いたのか忘れましたが、狐などは「その人の願っているもの」に姿を化かすのだとか。伊太郎さん、私と同じく美しい娘さんに弱かったのかもしれません(爆)。こういう民話は、そのままホノボノ楽しむのが一番かも。世知辛い世情ですが、心安らがせてもらいました(^^)・・・にしても伊太郎さん、狐を捕まえて、どうしようと想っていたんでしょう(笑)???
2010.07.04
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今日のよびりんさんの記事は桃太郎のその後、「かくれ蓑」のお話です。少し調べたら、関東以南には隠れ蓑という植物があるんですね、笑ってしまいました。実物はこんなだそうで、見た事ありそうです。このお話、「天網恢恢疎にして漏らさず」の変形(?)と聞くのがオーソドックスだと想いますが、ふと、別の意味があるように想われました。桃太郎が鬼が島から持ち帰った、ということに意味があるんだと想うのですが・・・この話は、人が亡くなる時の様を戒めているのではないか?と。「天知る、地知る、我知る」と言われますが、そうは言っても生前に、それを想い知ることは凡夫には難しいもの。往々にして「自分は違う」と想っているものでして、私も当然、例に漏れません(爆)。しかし、この世を去る時はどうでしょう?生前、いかに欲・煩悩を秘しているつもりでも、その全てを明らかに見せつけられてしまいます。元は己から発しているので当たり前なのですが(^^;それは心奥深くまで、やがては全て丸裸にされてしまうわけですが、世で貪ってきたアレコレは、どう言っても・・・生前、それを隠す様は、灰になった隠れ蓑を糊に塗れてまで隠そうとする、この泥棒の姿に重なって見えます。「上手くやった」とクスリとした瞬間、その全てが明らかになるというのも非常に象徴的です。「油断するな」とは御釈迦様が繰り返し説かれる教えの一つですが、人の欲・煩悩の深さを知り尽くしての暖かい想いやりが心に沁みます。この泥棒、恐らくは桃太郎その人なんでしょう。人間は、産まれてより末期まで悪に、善に染まり続けているわけには、中々いかないものです。若い頃に悪さをして悔い改める人がいる一方、逆もあるのが常。あの頃の桃太郎とは違う桃太郎が隠れ蓑を「盗んだ」とも読めそうです。常に気を付けておれ御釈迦様が繰り返される、このたった一言の真意は非常に重いです。重過ぎます(百万石饅頭 違)・・・ので、せめて縁ある皆さんと一緒に笑える生活を送りたいものだと想いました(^^;
2010.07.03
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今日のよびりんさんの記事はうりこひめとあまのじゃく。引用されているのは山口県バージョンのようですが、全国的にある話なんですね、知りませんでした。ついでに天邪鬼。「知ってるつもり!?」状態ですが(爆)、悪神「天探女(あまのさぐめ)」に由来する転訛&仏教では煩悩の象徴となるんですね。「人の心の内を探る」能力が高いということ自体は素晴らしいわけですが・・・(^^;さて昔話に戻って、先ず始めに想ったのが「こやつ、そもそも何がしたかったんだ?」と(苦笑)。少し遡って読み直すと、あまのじゃくは、どうも「うり姫を頂きたい」という“お殿さま”の心中を探って先回りして来たようですね。うり姫としてはとんだ災難ですが。カラスに言われて始めて真実を知る件は、よく見掛ける表現です。目に映るもの耳に聞こえるものには、どうしても人間は惑わされ易いもの。外見の美しさに囚われているばかりでは、中身までは観えない、ということでしょうか?若いピチピチ・ギャルの外見ばかりに目を奪われていてはいけないのです!!という戒めですね(大違?)。またウリ姫に巧みに言い寄るところ、有名なフット・イン・ザ・ドアの手法ですが、いまでも詐欺の常套手段の一つでもあります。詐欺まで行かずとも、不要なものまで買わされてしまった・・・などというケースでは、大抵が、このテクニックを用いられていますね。残酷なようですが、こういう時には差し込んできた手を「ピシャリ!」と挟んでやるしかないようです。嫌な奴だと想われたくない、とか、体裁が悪いなどと考えていると、そこを突かれてしまいますから。変形で、人間関係絡みで「ピシャリ!」と単純に出来ない場合に私が用いるのはフット・イン・ザ・ドア・カウンター(爆)です。相手の差し出すものに対して、こちらも相応の条件を付ける、という簡単なものなのですが、前回の条件を必ず実行させる、という点がポイントになります。それが実行されない限りは、次の話は受けられませんよ、という流れですね。これは比較的、穏やかに話が進められますので「断れない症候群(?)」の方にはお薦めです。最後に、一番に厄介なのは、よびりんさんの言葉にある通り、心中の天邪鬼ですね・・・(涙)「ああ言えば、こう言う」の典型のような私などは、心当たりがあり過ぎで御座います(爆)。まあ、誰にでもあると、よびりんさんの仰って下さってますので、取り敢えずは、あまり溜め込まないように心掛けましょう(^^;そう言えば、子供の頃に言われました。「気持ち良く素直に、はい!と返事が出来ると幸せになれるんだよ。」と。なるほど、そういうことだったのか・・・(大爆)
2010.07.02
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今日のよびりんさんの記事は「仙台四郎さん」の話。御尊影があるように実在の方だそうです。少し大きめの写真はコチラに。*ダメブロさんよりしかし・・・笑っちゃうほど凄い写真ですね、これは(大爆)。中々に、これだけの写真は拝見出来るものではありません。話変わって、今でも同じようですが、私の時代でも小学校までは普通学級とも出来るだけ交流しつつ、知的障害児も通学していたものでした。私のクラスにはMちゃんが交流児童(?)として参加してくれており、やはり菩薩様そのものといった風情だったことを想い出します。下校路の関係で一緒させてもらうことも多かったのですが、いつもニコニコと穏やかに笑っていたことが今でも強く記憶に残っています。なんとか楽しんでもらえないものだろうか?と話すにも工夫したものですが、なんとも無力で傍にいる位しか出来ない自分の愚かさにはガッカリしたものです(^^;多少のことが出来るとしたら、やはり子供ですから意地悪を仕掛ける輩もおりますので、そやつらを払いのけるくらい。これだから、ガサツな人間はイカンのですな。orzまあ、それが私の御役と言えば御役だったのでしょう!・・・と慰めましょう、自分でね( ̄▽ ̄;後年、卒業来、20年近く経った頃でしょうか?街で遇うと覚えていてくれたようで、昔と同じように「ニコニコ」笑い掛けてくれたのには驚きました。お母様も御一緒で、やはり御苦労も多かったのでしょう、少しやつれられた印象でしたが、それでも元気そうな姿には安堵させて頂いたものでした。残念ながら、知的障害があっても人の子ではありますので、色々なこともあります。それでも、普通、言われる「知」を持っているはずの人と比べれば、果たして、どちらに本当の「知」があると言えるのか・・・ということは、やはり圧倒的に多いもの。仏教では、智慧とは慈悲と同義に使われることがあります。せっかくの知が痴にならないように心せねば、です・・・(滝汗)もしや、四郎さんの写真を拝んでいれば、多少はマシになるのかしらん?(^^;
2010.07.01
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今日のよびりんさんの記事は吉四六さんの話。当時、握飯などは、中々、食べられるものではなかったと想いますが、吉四六さんは実在していたと言われていて、比較的裕福ではあったとか。それでも、暖かい吉四六夫婦の風景、目に浮かぶようです。このような話を伺うと、私などは母方の祖母を想い出します。母によると、貧乏なくせに、とにかく何でも人に上げてしまう人で、特に飯となると幼い母が「飯がなくなる・・・」と想うほどだったとか。確かに、私も祖(父)母の家に行くと、「これ食え、これも食え、もっと食え!」と後から後から食い物を出されるのに閉口して、腹を空かせて行くようにしたほどではありました。未だに「まだ食えるだろ?」という祖母の声が耳にこびりついておりまする(そんなに食えませんがな・・・ 爆)。祖母は新潟出身なのですが、縁ある限りを見渡しても、新潟の方は情に厚い方が多いような気がします。元は、それなりに大きな酒蔵に産まれたらしいものの、祖母の父が大酒喰らいで蔵を潰して奉公に出ることになったという、小説の様な話がありまして・・・その苦労の反動で、飯を振る舞うのが最高のもてなしと想うようになったのかな?とは母の話ですが、まるで昔話そのもののようで御座います(大爆)。晩年も決して楽な生活ではなかった祖父母、自分達は質素な食事をしていたのに、今想えば、なんとも贅沢な愛情を頂戴していたことか。私なんぞでも、子供達が美味しそうにご飯を食べている姿を見るのは幸せな一時ですが、少しは爺婆も喜んでくれてるでしょうか・・・そんな光景が世界中で見られる時には、きっと戦争も起きないのでしょう。一歩、一歩、です(^^)
2010.06.30
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今日のよびりんさんの記事はグリム童話から。私も、印刷業界に勤めていた父からもらった童話集を、幼い頃からよく読んでいたので懐かしいです。この話は不思議な雰囲気に包まれていて、短いながらもグリム童話の面白さが、よく分かる話の一つだと想います。ところで、このお話、上手く逃げられたはずの炭の一言に全てがあるような気が・・・「ところで、おれたちはこれから、どうしたらいいだろう?」これに応じて、豆が応えるに、「あたしたちは運良く死なずにすんだのですから、みんなで仲良しのお友だちになりましょうよ。 そしてここでもう二度とあんなひどい目に会わないように、一緒に外へ出て、どこかよその国へでも行きましょう」三人とも、死からは運良く逃げだせたわけですが、「では何をする?」ということに関しては全くの見当がありません。話は飛びますが、女房・娘達と話している時に、「どんな仕事も、それぞれ尊いのだからいいけれど、職業・旅人だけは勘弁してくれ」「私だってイヤだよ(爆)!」と笑い話になったことがあります。旅をすること自体は素晴らしいことですが、何の夢も目的もないままに放浪するだけでは・・・(^^;引用されているポセイドニオス の、「運命が武器に守られると考えるなかれ。 己れ自身の武器にて闘え、運命はけっして武器を与えず。」との言葉が光ります。「己れ自身の武器」とはなんでしょうか?それは、その人の夢であり信念なのではないか、と。「夢」などというものは、とかく他人から見れば、つまらなかったり、意味がなかったり、荒唐無稽だったりするものです。しかし、その夢なくんば、ということは決して少なくないのではないでしょうか?人の目なんか、気にするな!少しは気にしてもいい気がしてきました・・・( ̄▽ ̄;
2010.06.29
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今日のよびりんさんの記事はセルビア(旧・ユーゴスラビア)の昔話だそうです。短い中に織り込まれた細かい描写も印象的な物語ですね。一介の羊飼いにしか過ぎなかった時から不思議な力を得、さらにお金持ちになり、さて世を去るかという時までも、一貫して恬淡で素直なままに変わらない主人公の(心の)姿が素晴らしい。己の主人となれ、とは良く聞く言葉ですが、このような人こそ、この世の主とでも言いましょうか。遠く果てない境地ですな・・・(==;それでもヘビ王子が首に巻きついてきたときには青くなってしまったというのが面白いですね。この物語、ヘビは不思議な役割を果たしていますが、古来、ヘビは聖俗二つの極に位置づけられることが多いようです。この物語では知恵の象徴でしょうか?この話、最後のオチが又、面白い。「そうか、そうか」と棺桶に入ってしまって後、カラスのアドバイスにハタと想い直すあたり、絶妙です(笑)。こんな風に様々な生物と交感出来たら、さぞかし楽しいでしょうね。動物の側は、人間の事を、どんな風に想っているのだろう?と想うと、少し気が重い気がしなくもありませんが(爆)。気前よく宝物を与えた元の主人といい「こんな世界であったなら・・・」という昔の人の息遣いが聞こえてきそうな物語でした。
2010.06.28
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今日のよびりんさんの記事は、惚れ薬のお話。宮城県の民話だそうです。当時の話、それも東北地方ですから、お米=お金と現代に置き換えて読んで差し支えないでしょう。遊んでいてもお金持ち、という人はいるもので、それはそれで仕方ないことですね(^^;まあ、魔法に頼る気持ちも分からなくはない(爆)。しかし、この田吾作、あろうことか、その魔法を人様に掛けようとします。そんな田吾作には人の心を慮る気持ちが感じられません。ホリエモンは決して怠け者ではありませんが、「人の心も金で動く!」などと過激に書いてしまう辺り、少し配慮しながら活躍を続けて欲しかったです。彼の様にクレバーなビジネス&マネー・センスの持主は、これから日本が諸外国と伍していくためにも絶対に必要な存在ですから。ともあれ、果たして田吾作の当初の目論見は失敗し、米屋の娘さんの心をゲットすることは出来なかったのでした(笑)。田吾作も、同じ怠け者ならブッシュマンの境地を目指せば良かったのに・・・(爆)(ブッシュマンが怠け者かどうかは微妙ですけど・・・ ^^;)しかし、そもそもの目的であった米=金には、追い掛けられるほど惚れられてしまい、それはそれで本望というところか(爆)?この話の落ちには「望み通りに米だらけ」みたいなのもあるそうです。怠け者でも金持ちにはなることがあるが、人の心は動くものではない、というところでしょうか?米俵に追い掛けられる田吾作、周囲の人は羨むどころか笑っています。金に追い掛けられるほどであっても、人心を軽視した金の亡者でしかない怠け者の姿は、野良仕事に精を出す人々からは笑いのタネでしかなかったようです。そう言えば先日、興味深い記事がありました。<調査>日中韓の8割超が「お金は大事」、金融危機で痛感―英メディアこれに対し、中国メディアが分析を加えています。69%が「お金は成功の証」、中国人はなぜここまで拝金主義なのか?―中国メディア果たして日本人は、この結果をどう分析し、受け止めたら良いのでしょう?関連して、少し考えさせられた記事でした。
2010.06.27
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今日のよびりんさんの記事は吉四六さん話。吉四六さん、潜入捜査官になる!の巻、という感じでしょうか(笑)?古来、兵法では正奇二法があって、この二つを基本に自在無形を最上としますが、吉四六さんは皆の衆の正攻法に乗じての奇襲仕掛け。自在無形の戦法と言って良いかもしれません。「策士、策に溺れる」とは言いますが、策士というのは、そうそう簡単には溺れてもくれないものです。大悪は衆目の前にあって見えず、というのは良くあること。まともに商売した方が儲かるんじゃないの?というような、つまらない詐欺(師)は意外と簡単に捕まるもんですが(^^;そう言えば、FBIの潜入捜査というのはドラマを凌ぐ物凄いものだそうです。マフィアに潜入する際には目標犯罪の確証が掴めるまでは完全に組織の一員となって犯罪行為にも加担することもあるとかで・・・もちろん、それは一種の超法規で許される範囲ではあるんですが、中にはマフィアの倣いに染まってしまって・・・というケースも少なからずあるほどの凄まじいものなんだとか(汗)。狡猾なマフィアを出し抜くには、その奥底に強い良心を秘めたまま、決してそれを見せることは出来ないのですね。まるでデビル・マン(爆)。吉四六さんは狡猾な泥棒の心理を上手く利用しましたが、相手の心理を読み臨むことが大切なことも多いもの。人を知るということに限りはないんでしょう。そして何より強い意志。未だに、とかく下らない見栄に拘ってしまう私としては、仲間の冷笑すらモノともしない姿勢に学ぶことは多いですね(^^;
2010.06.26
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本日のよびりんさんの記事は嵯峨天皇と小野篁のお話、宇治拾遺物語に収められているそうです。この二人のやり取り、上司と部下との間では、よく見られるものと言って良いかも(^^;篁も、もう少し優しく「あく(悪)なくばよい」と読んでも良かったのでは?とも想いますが、札の言葉に、国を想い憂う率直な気持ちを直情的に重ねてしまったのかもしれません。この帝のように、鷹揚に振る舞っているように見えても、その内実は、やはり人の子、ということは往々にしてあることです。学問に励むのは自分のためばかりではなく、国のためであるのに、「学問をつんだばかりに、いわれのない罪をかぶろうとは、世も末だ」というのも、篁の率直な本音だったことでしょう。これに応じて、さすがの帝も篁を見極めに掛かり、その学問の本物であることを認めて褒美を与える事と相成りましたが、帝が易々と篁のような反乱分子を認めても良かったものかどうか?は一考を要するでしょう。組織の、特に上部層においては、専断的であることは非常に難しいことは歴史の通り。かと言って、徒に反抗心ばかりが旺盛な人物が紛れ込んでしまうのも考えものです。それが学問であれなんであれ、まずは相応の力量、そして私心なきものでなければ困ります。それは「子子子子子子子子子子子子」の問いを通じて、見事に応えられました。一つには「ネコの、子の、子ネコ」と答えて学問の力量を示し、そして二つには「獅子の、子の、子獅子」と、それとなく帝を立てる読み方を更に示しました。ここに至ってこそ、帝と篁という、いわば上司部下の信頼関係も(更に)強固になることが出来たと言えましょう。当時の帝は、今とは比較にならないほど神に近いとみなされていたわけですから、篁も天晴れですが、それを見極めて認めた帝も、共に天晴れ。もちろん、この話自体は一話完結の昔話ではありますが、今でも上司部下の間なんかでは見られがちな光景ですね。上司・部下という関係であっても、相互に研鑽し合って行きたいところですが・・・往々にして、この話のようなハッピー・エンドには、必ずしもならないのが残念なことではあります(^^;人を見て法を説く心掛けも必要、ということでしょうか。若かりし頃に(今でもか 爆)、そんな智慧があればなあ・・・と頭を掻くばかりなのでした(苦笑)。
2010.06.25
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今日のよびりんさんの記事は「ピーター・パン」。色々と難しい解釈もされていますが、大人のために作ったと言われるディズニー・ランドこそ、その象徴的な存在かもしれません。あれだけ多くの人に愛されているテーマ・パークもないですよね。私はDLは苦手なんで、連れて行かれても寝てますけど(爆)。子供の世界では、子供ならではの色々な事件も起きるものです。単純に子供の世界は純真無垢、というわけにもいかないわけで(^^;一方で、大人からすれば何が面白いのか分からなくなってしまったような毎日の発見や驚き、喜びに満ち満ちてもいます。自分の過去を振り返り、また子供達の話を聞くだけでも、それは変わることがないんだな、と想うこと頻り。そんな子供達を見ていて凄いな、勉強になるな、と想うことも多々あります。仰天してしまうような夢を抱いたり、何かに興味を持っては驚異的な吸収力を見せたり、次のことを考えずに今に生き切る、などなど。数え上げたらきりがない程です。大人になると、どうしても衰えてしまいがちな子供の力。それを想い出すには、私の場合だと山川海といった自然の中で遊ぶこと、ですね。私の父は「うさぎ追いし~♪」と風呂の中で高唱するので母が苦笑いしていましたが、きっと子供の頃の田舎が心離れることはなかったんでしょう。今でも、私の勉強のため、また半分は孝行を兼ねて両親や年長の方々の子供の頃の話を聞かせてもらうのは楽しみの一つです。そう考えると、私の場合は両親達=ピーター・パンなのかな~(爆)?
2010.06.24
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今日のよびりんさんの記事は彦一話。殿さまと彦一の知恵較べ?が微笑ましい。意地悪を仕掛ける殿さまも大人げないですが、彦一の知恵者ぶりが見たくて仕方ないんでしょうね(笑)。好きな子に、つい意地悪をしてしまう男の子のようです。でも「上に重なったりしては駄目だ」って、下から4-3-1みたいなスクラムを組むことでも考えてたんでしょうか(爆)?そして彦一は・・・車座の真ん中にチョコン(笑)。でも、普段ならともかく殿さまのおん前で見方を切り替えられたのは、さすが彦一!知恵廻りもそうですが、度胸があるから委縮せずに「!」と来たのかも。よびりんさんが付記されていますが、車座と言うのは昔はよく使われていたようですが、最近は見掛けないかもしれないです。せっかくの円陣でも、真ん中にテーブルがあっては上手くないですし。三人寄れば文殊の智慧と言いますから、人の輪の中にこそ智慧が生まれるということは昔から知られていたのかも。今はサッカーの円陣を、よく目にしますね。みんなと同じ円の中というのも又、心強く、楽しいものです。
2010.06.23
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今日のよびりんさんの記事はカチカチ山。誰でも知っている昔話ですが、よびりんさんが付記されているように、大人になって改めて読むと、なんとも色々な含蓄がありますね。私は自分の好きな仏教の視点から読ませて頂いてみました。この物語には四人の登場人物がいますが、まず、これを一人の中に住まっていると捉えることから。おじいさんとおばあさん、これは普段、私たちが意識している心の両面を表しています。真面目にコツコツと畑仕事をするおじいさんは正業に励む心、しかし、時に不思議な力に魅かれてしまう、おばあさんのような心も誰にでもあるもの。タヌキは、ソコを付いて襲ってきます。原始仏典の御釈迦様は占いや呪法が禁じられていますが、不思議な力に想い馳せるような心は目に見えないこと、真理を求める心だとも言えます。しかし、おばあさんが亡くなってしまうというショッキングな形で、その危険性が見事に描かれています。そのままタヌキを放置しておくわけにはいかない!ということで、優しく勇気あるウサギの登場です。カチカチ山は心中の決闘場というところでしょうか?言葉巧みにウサギがタヌキを誘い込み、貪瞋癡の三毒を以て懲らしめに掛かります。始めにタヌキに住まう敵は、瞋=怒り。続いて良薬に気付けない癡=愚かさ。最後に、人の人生を沈没させる貪=貪欲。では、最後の貪欲とともに沈んで行ったタヌキは???これは「感じる働き」だと言って良いかも知れません。仏教では感じることから、快楽や、それを貪る貪欲が生じて行くと考えられています。まあ「何も感じない」なんて人(生物)はおりませんので、御釈迦様も、本当に悟りの境地に向う事が出来たのは死の間際だとされています。それまでは生きてますので、悟っても、いつ転落するか分からないのですね(^^;八正道の最後が「正定」で終わっているのは、心を正しく定め続けることの大事を説いているのかも知れませんね。御釈迦様の教えを短く言えば「慈悲の心を持って、何事にもとらわれるな」ということかと想います。その実際も非常に融和的かつ温和に励む(中道)のみといってよい程のもので、ダイバダッタの離反に繋がってしまう一因だった(そのような在り方に物足りなくなってしまった)とも言われている程。普段、我々が抱く峻烈だったり、荒行をしたりする仏教からは想像し難いほどのものだったようです。最後に、それを伺わせるかのような、初期の仏教の教えに最も近いと言われるスッタニパータ、中村元先生の「ブッダのことば」の引用を(同書P55より)。「魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみれることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための公卿も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を越えていなければ、その人を清めることができない。」
2010.06.22
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今日のよびりんさんの記事は不思議なニワトリのお話。文中出てくる「土手町」は青森県でしょうか?今日の記事を読んでて、なんとも胸がジ~ンと。なんでかな?と想ったのですが、どうも心の奥で父方の祖父を想い出していたようです。私の両親も(笑)二人で正反対のことが多く、信仰深い母に比して父は、ちょっと見掛けない程の無宗教。当然、父方の祖父も推して知るべしなわけですが(爆)、私の記憶が曖昧な程の昔、家が火事で燃えた時に真っ先に運び出したのが、なんと仏壇(^^;元々、大柄で力持ちの父祖でしたが、後で運ぶのにはドエライ大変だったとか。一言で言えば火事場の馬鹿力、ということになるんでしょうが、それが仏壇・・・実は無宗教の父、盆彼岸の墓参りは先頭を切って張り切りモードです(爆)。父曰く「墓参りは田舎の習慣なのだ!」なんだとか。永年、息子をさせて頂いておりますが、いまだに分からない方であります(^^;いずれにしても、そんなこんなの御蔭で、我が家には古い位牌も無事、安置されているのです。御先祖様を大事にしなさい、というのは良く聞かれる言葉で、「今の自分がある御蔭様なんだから」というように言われます。さらに遡ると、その超先祖はアメーバだとかなのかもしれませんが、最終的には宇宙そのもの、言いかえれば神仏に辿り着くわけです。御先祖様に対する姿勢と言うのは、即、神仏に対する姿勢なのですね。そして更に、引用されているニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節が何とも。触れあう人を大切にする、それもまた、御先祖様に対するのと同じく、それは神仏そのもの、つまりは真理を大切にすることに他なりません。てなことが無意識に浮かんで胸にジ~ン・・・だったようです。それを知らせてくれたのが飼っていたニワトリというのもなんとも。つまるところは卵かニワトリそのものを食べるために飼っていたわけですが、それにも関らず、神仏もかくやという献身。以前にも少し触れましたが、今、口蹄疫のために多くの命を犠牲にせざるをえない悲劇に見舞われています。もちろん、今後の収入や生活も不安で仕方ないでしょうが、その地域に住む知人によると、「可愛がってた牛を殺さなくちゃならないんで、みんな泣いてるよ。 傍で見てても本当に気の毒よ。 まあ、そうは言っても食べちゃうんだけどね。」と。従軍看護婦を務め上げた程の豪の方なので、しめっぽいだけでは終わらせないのですが、情の厚い根から出る嘆息が、なんともやるせなく。確かに食べるためとは言え、それはそれで仕方のないこと。育てる愛情がないだとか不要だとかということにはならないんですよね。このニワトリも、そんな貞蔵の愛情を感じてたのかもしれないな、などと想っておりました。
2010.06.21
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よびりんさんの秘儀、三種の神器中の剣についてですが、ハッピー☆ラッキーさんの記事を拝読して「そりゃそうだ!」と・・・(滝汗)剣は勿論のこと(戦闘用に特化した)武器が身近にある、なんていう人は少ないだろうし、むしろ嫌悪感とともに避ける方が普通ですね(^^;剣は、その原型になる石器に見られるように、人間が手にした「道具」の中でも原始的で初期のものだろうと言われており、各地で「聖剣伝説」が見られるように神聖なものの象徴、神聖なものそのものとされています。その一つに魔や邪気を払うということが挙げられますが、そもそも魔や邪気が払われるのは何故でしょう?強い武器だからでしょうか??であれば「強大な武器であればある程、良い」ということになります。この辺り、出来るだけ簡略に私なりの考えを書いてみたいと想います。さて、ここで立ち戻って魔や邪気と言うのは自分の隙に入り込んでくる、というのが一つのパターンです。その隙の一つは欲であり、特に「(相手を傷付けてでも)生き残りたい」というのは誰もが有する自然なものですが、それ一本になってしまっては「自分こそ魔や邪気そのもの」となってしまいかねず、それでは本末転倒・・・(汗)そして次のパターンはエネルギー不足に入り込む、というものです。「御祓い」の見解の一つに非常に興味深い故・葉室宮司(春日大社)のものがあり、本来の意味はエネルギー補給だというような指摘をされています。このような見方は気功などでも見られますが、(良い)エネルギーを充満させてしまえば、そこには魔も邪気も(入れ)ない、ということですね(^^)他のパターンもありますが、この二パターンに限れば、武器を向けるべき先は、実は自分自身だというのが本来となります。自分自身にある邪欲を断ち、(良い)エネルギーを送り込むのが“剣”の役割ということですね。よく言われるように「普段の生活でも他人を変えることは難しいから自分を変えましょう」ということと同じです。よびりんさんは「本物のナイフや銃器は、自らの心を傷つけるので逆効果です」と教えて下さっていますが、これは相手に向けた武器は、そのまま自分に跳ね返ってくる可能性を意味してます。相手が魔だとか邪だとかに関係なく武器を向けられれば反抗するもので、その反撃の基本の一つは「相手の武器を奪い使う」ことなのです。要は、肝心のコチラが弱ければ、武器なんて簡単に奪われて逆襲されるだけ、ということです。そうならないようにするためには、結局、自分が正しくあることしか手立てはないのです・・・元も子もないようですが(^^;ただ、“剣”を手にする時には、自分に対する戒めと想って持って頂ければ、まず間違いないです。そして、その時には(こそ)先端からエネルギーが充電されるということ!それでも剣や武器に抵抗感がある方は、御箸やフォークなどの食器も、実は強力な武器です(爆)。分かり難ければ、傘等も挙げられます。変わった所では農具の鋤鍬、園芸用シャベル・・・果ては鉛筆・ボールペンと、身の回りに武器がない人は、実は、まずいません。要は用いる人次第なんですね(^^;ただ、どうしても抵抗がある方は、よびりんさんのアドバイスのように御数珠やリング♪これらは強力な武器であるとともに甲冑にもなります(^^)剣や武器が苦手な方は、いっそのこと強力な防具を身に付けちゃいましょう。名付けて・・・亀亀大作戦(大爆)!非戦は、至極の戦法の一つですからね(^^)
2010.06.20
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今日のよびりんさんの記事はアンデルセン童話のポットの話です。その超ポジティブ・シンキングたるや、これが凄い!一見、鼻持ちならないかのようにスタートするポット女王の話。よくよく読むと、一流職人に丹念に作られたプライドが基礎となり、また人の役に立つことを誇っています。その役に立つ喜びに気付くのは、老い(壊れ)て後、球根(花)と言う“子供”を持ってからですが・・・まぁ、言い方が癇に障るとしても御愛嬌でしょう(^^;最後の「誰にも壊せない想い出がある」と強く言い放つ所なんぞ、見習いたいものですな~。どんな人、物に対しても世間というのは、とかく移り気なもの。一種の変人(爆)でもあるポット女王、そんな世情に流されることなく、自分の人生を全うするところが凄いですね。そして、一流職人という親に大事に産み育てられたプライドこそが、このポッドを支えているんだと想うと、子を持つ責任感がズシリ・・・(汗)。逆に、こんな風に全ての人を見、接することが出来るようになれたらなぁ・・・(^^;そう言えば、童話って本当に難しいですね。女房に「書くことが好きなんだから童話を書いてみたら?」と言われたことがありましたが、童話ほど難しい書き物もないですね。確かに細かい知識を勉強する必要はないという点では簡単かもしれませんし、他の書き物も難しい事は同じですが、童話には、その人がマンマ顕れますから。でも、だからこそチャレンジしてみる甲斐があるのかも(笑)。
2010.06.20
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今日のよびりんさんの記事は彦一が盗人になってしまう(?)という話。彦一の頓智が光ってます。この小銭分割戦法(?)、日本ではともかく、海外では必ずしなくてはいけないことの一つでもありますね。人も動物も「取られたくない~~~!」と想うと、どうしてもゴソッと隠してしまうものです。ところが、そういう人の物ほど見つかってしまうもの。動物、犬なんかが一生懸命に隠し物をしているのを見て微笑ましく想った経験の持主も少なくないはず(笑)。ところが、彦一話と同じで、利口な犬は「分割」して傍目を眩ますんですから魂消ます(爆)。この話では「こんなもんか」と海賊が想う程のお金だけは渡すところがミソですよね。しかし・・・彦一、一人の服の中に分割して入るくらいですから、元々、本当に貧乏人ばかりだったのかも(大爆)!それと、この話、幸運を呼び込む方法の話でもあります。運というのは不思議なもので、(生まれつきの)天運の持主は別格として、普通は「自分だけが、つきまくってればいい!」というような気持ちの時は中々、巡ってきません。むしろ「あの人この人に運が向きますように!そのおこぼれ程度が頂戴出来れば、なお嬉しい!」というくらいの方が、本当に運が向いてくるものです。他人様に振り向けると、自分にも戻ってくるんですね。だからと言って、想ってもいないのに無理に想おうとしても「疎にして漏らさず」の通り、中々に上手くはいきません(爆)。ですので、寄付なんかも一円からでもいいので、気持ち良く出せる範囲で役立ててもらいましょう。金額の多寡などではなく、この「気持ち良く」が、実は重要です。海賊の良し悪しは置いといて・・・という話も読み取れそうです。
2010.06.19
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今日、公式公開された(爆)よびりんさんの秘儀(というか、よびりん流かな?)、実践(?)するには、いくつかコツがあります。それは・・・1.真面目にテキトーにすることです(爆)たとえば「己の良心に恥じぬよう!」とか言われてバカ真面目に考えてしまうと、煩悩まみれで欲深いオイラなんかは人生&生活全てが恥じだらけであります。orz逆に大金に興味を持てないオイラからすれば、大抵の金持ちは罪人に近い所業をしていることになりますです(大爆)。よびりんさんのお話に魅かれる方は真面目な方が多いですから、経験上、半分の法則に半分の法則を用いた1/4位を目標にすれば半分位になります。おいらのようなタイプは二倍の法則を適用しなくてはなりませんが(涙)。2.欲や悪心(?)を公開して笑いのネタにするこれも同じですが、よびりんさんが「愛の心」と言っているから・・・と堅苦しくなる必要はありません。そんな堅苦しく窮屈な心に愛は芽生えません。H大好きです、お金大好きです、怠けるの大好きです、とかプライド高いんです、意地悪大好きなんです、喧嘩早いんです、とかそれが、その時の自分なら公開してしまいましょう。別にブログで全国公開する必要はありません(少なくとも、おいらはしたくありません 爆)。飲み会なんかで「いや~、私、○○なんですよ~」と宣言して(引っ込み思案なら小声でもいいですから)、そんなおバカさを皆と一緒に笑うネタにしちゃいましょう。そんな風に皆さんに、一緒に自分のおバカさを笑って頂くと、そんな自分を客観視出来て、その内、そんな自分が可愛くすら想えてきます。そんなときにこそ、自然に人も愛しく想えて「ああ、これが愛の心なのかな~」なんて気には(笑)なります。欲や悪心を自分の中に押し込めたままだと、後生大事に抱え育ててるのと一緒です(爆)。3.自分の感じたままを大切にする「本当かよ~?」とか想ってるのに納得している振りをしたり、「こうじゃないかな?」とか想ってるのに「そうなんですか!」と通そうとしたりしてると、我というのは恐ろしい程、強大ですので、いつか破裂してしまいます。だからこその「半分の法則」ですし、目の前で聞いているなら「よく分からないなぁ」とか「こう想うんだけど」と、普通に、よびりんさんに聞いてみて下さい。特に秘儀の世界の話は、人によって観え方というか・・・この世での形や言葉を以て表現しようとするとなんですが、どうしても違っちゃうことがあります。無理矢理に鋳型に押し込むように考えるくらいなら、率直に「分からないけど害にもならないなら」と言って無心にグッズを身に付けたりする方が、どれだけ良いことか!それに・・・考えても分からないようなことだからこそ「秘儀」なわけです(爆)。と、大体、この三点くらいのコツを身に付けて頂ければ、秘儀の威力激増です!!・・・が、あくまで「多分」ですので、気になる方がいたら、よびりんさんに聞いて下さい。真面目に書きはしましたが、例によりテキトーではありますので(爆)。テキトー、ホンポー、あっほーーーーーーーー!が、おぅ~~~~~~~~!!・・・ットットィッ?!みたいな感じで、どうぞ(笑)。
2010.06.18
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数年前までは限られた人のみに秘匿されていたという、よびりんさんの幻の秘儀が炸裂中です(爆)!!御紹介して下さっているのはハッピー☆ラッキーさん、志さんの愛しい方です。素晴らしい解説なので、是非、始めの方の記事から御覧になってみて下さい。一応、勝手にタイトル付けさせて頂きながら、順に紹介させて頂くと・・・「あっほ~~~~~~~~!」の真の意味とは?正位・従位と雲三種の神器という感じでしょうか?抵抗感がある方は、アレンジ&アレンジです(^^)ポイントを外さなければノー・プロブレムですから。ただ、今回の「三種の神器」の「鏡」だけは、嘘だと想ったままでいいので、実行される事を強くお勧めします。この後、玉→剣という順番になり、それぞれ重要なのですが、それらのスタートに位置しますので、そこが違ってくると、他の二つが活きません(多分ですが 笑)。迷ったら志さんかYukai810さんに相談してみましょう。最後に登場する剣も文字通り両刃の剣で・・・なのですが、最近になって、ようやく剣の一端が見えてきた気がする程度ですので、暴走まっくとは言え、それは機会がありましたら、ということで(汗)。剣(先)を向けるのはドコで、それは何故なのか?ということが実感出来れば、まず間違いないんですけどね・・・(^^;冗談ではなく、過去には、あのよびりんさんすら声を潜めて伝えられたというほどのことです。縁ある方なら、それは美しい天音が心に響き渡ること間違いなしですよん!!あと、あなたがオヤジなら、若くてピチピチの天女ガールズも見える・・・かも(爆)!女性に何が見えるのかは分かりませんというか知りたくありません(笑)。
2010.06.18
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今日のよびりんさんの記事は「眠れる森の美女」ですね。ペロー童話でも有名な話ですが、心理学の先生なんかも色んな分析をしている面白い作品です。斜め読みしかしてないんですが、性の目覚めと結び付けてどうこうという話だったような・・・少し昔なら、十五だとお嫁さんに行っても不思議ではない歳ですからね。もとい、改めて読むと他にも面白いことがありました。魔女の数なんてのも、十二人+一人なんですね。人間の指と言うのは昔は六本の人種があったんじゃないか?と言われる程、何故か十二進法は世界各地で使われている不思議な数の一つだそうです。確かに一年が十二カ月に始まって、十二因縁だとか十二神将だとか、十二にちなむものは多いですよね、不思議だ。そこからすると、十二番目の最後の山を越え、という話にも読めそうです。私は、さらに「百年間、イバラに守られて時が止まっていた」というとことや、「王子様のキスで目覚めた」ということ、それを十二番目の魔女が予言していた、ということが興味深いです。なんとなれば・・・すごく不思議なトンデモ話に飛んじゃうからですが(爆)!これは、所謂「あの世」から観た再生の話なのです。なんて言ったら訳の分からない話になりますので(汗)、それは置いといて(^^;なんとなく「パンドラの箱」を想い出しますね。最後に残ったのが「希望」だったのかは諸説ありますが、人が救われるものがあるとしたら、それは「希望」でしょう。「夕べには感謝して床に就き、朝は夢と希望に目覚める」と、日々の心掛けを教えて頂いたことがあります。生身の人間にとっては、希望というのは、生きる糧と言って良いもの。では「希望」というのは何処に生じるのか?それは仲間の存在、特に家族の存在ではないでしょうか。「家族の幸せ」では、あまりに小さいと言われることもありますが、幸せな家族生活が得られれば、人と言うのは相当に幸福でいられるものです。私なんぞは、娘達や両親もそうですが、元(今もか 笑)他人の女房がいてくれないと、てんでダメです。そもそも、女房がいないことを想像すると、生きてる必要すら感じない(苦笑)。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、それくらい、二人の生活と言うか時間と言うか・・・は大切な希望そのものと言って良いくらいです。このお姫様は、王子様のキスにより目覚めますが、それは新しい愛すべき家族の誕生そのものです。何も結婚ばかりが家族作りではありませんので、心から信頼出来る仲間を家族として生きる人もいるでしょう。そういう家族作りには、何よりも自分が愛されていた経験-この話では魔法ですが-が欠かせません。愛された経験だけが、人を愛することを教える、と言っても過言ではないでしょう。そういう意味では両親にも感謝!です。今、人の親になって痛感するのは、出来ることといってもタカが知れているということ。出来ることは、せめて祈ることくらいだな、と。もしかすると、それこそ「最後の魔法」なのかもしれません。
2010.06.18
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今日のよびりんさんの記事は雷さまとクワの木ですね。ストーリーは違うんですが、日本版・ジャックと豆の木、といったところでしょうか?よびりんさんのコメントやおぎゃりんさんのコメントでも「(きんと)雲」の話が出ていますが、話を聞いたことがない方には分かり難いかもしれませんね(^^;非常に面白くて為になる話なので、是非、よびりんさんんと話す機会があったら伺ってみて下さい。以下は、おいらの勝手な解釈で話を進めます(爆)。そうは言っても、雲ってなんなの?ということにはなりますので、とりあえず、馴染み易い言葉では心の状態のこと、不思議系が好きな人向けには(笑)、己の“分”魂です。己というのは、要するに我みたいなものですので、御釈迦様みたいな方にはありません・・・というか必要ありません。もっとも、多分ですので、違うってとこは笑って許しましょう(爆)。さて、仏教(厳密にはインド思想)で分かり易く説かれておりますように、人は六道を輪廻するものでして、その最上位には「神の位」が待っております!!まあ神と言ったって紙も髪もあるじゃないかという話なんですが、せっかく神の位まで到達しても、これは六道輪廻の中におります(だから雲に乗ってるわけですが)ので、いつでも雲が薄れたりして落ちてきます。相当の高位にある神様とは言え、天人五衰と言われるが如く、そのままでは、いつかは落ちてしまう位です。それを恨むから“堕天使”なんてのが出来てしまうわけですが・・・大凡、そんなわけで、少し人間界から雲に乗れた程度だと、有頂天になってしまうのです。神様ですら落ちてくるくらいですから、人間なんて、あっと言う間です、はい(爆)。この男の子は、村人の迷惑を顧みるどころか、徒に困らせて喜び水撒きなんぞしたわけですので、雲を自分で消したようなもんです(というか、雲なんてのは、そもそも自分が生じさせたり消しちゃったりするもんですが)。ちなみに、そんな話が実際になったのが、あのバブル景気です。バブルに乗っても、もっと実のあることをしていれば良かったんですが、しなかったのではじけちゃったわけですね。おいらの泡なんて、いつもはじけ続けてますが(爆)。・・・てなことが想い浮かびはしましたが、かなり軽く書いたつもながら、中身は相当に勝手に書いておりますので(爆)、もし気になる人がいたら、よびりんさんに御伺いすることをお薦めします。「気になる」というのが、意外とチャンスかもしれませんよ(^^)
2010.06.17
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今日のよびりんさんの記事は彦一話ですね。この彦一、架空の人物らしいですが、いわゆるトンチ・モノに頻出するキャラクターだそうです。地方により名前が変わるようだ、というのも面白いですね。さて今回の「生き傘」の話も面白い。彦一が噂を流したのか、流れるようにしたのかはともかく、傘が高価だった時代とは言え、相当の低コストで大金をせしめたのは間違いないでしょう(笑)。現代なら霊感商法の詐欺で訴えられそうだ(爆)。もっとも「生きている傘がある!」と聞いて飛びつく殿も殿で御座る。万物、生物ならざるとも生きていると言えば生きてはいるが・・・(^^;人間は“霊長”類と言われてますが、これは「御霊が長じている」ということでしょう。その名に相応しい暖かい愛のある眼で観れば、全てが生きているということは、素晴らしいことではありますが、不思議なことではありません。「単なる物質に命は宿らない」というなら、故人の遺骨や、極端には御尊体だって「単なる物質」です。それを大事にする理由もない、ということになりかねません。人間は、種の、相当の初期から仲間の死を悼む習慣があったということが、ほぼ明らかになってきているそうです。それどころか、ある種の猿などでは、弔いとしか捉えようのない行動も観察されているとか。よくよく考えてみれば、我々の愛する家族だって、物質と考えれば、そこらの水が7,8割だか入ってるだけ。色々な分野の学者が困っていることに、「生きているというのは、どういうことなのか?」とか「個の存在というのは、どう規定出来るのか?」とかいうのがあるらしいです。学者さんは学問としての体裁が必要ですが、我々は、普通にダイナミックな営みを感じ取れば良いんじゃないでしょうかね?という理屈はともかく「生きている傘」という不思議や珍しさに魅かれただけの殿さまにとっては、傘が生きてても生きてなくても、面白いか面白くないか、の違い程度のことなのかもしれません。私なんぞでも、こうして相手してくれてるパソコンなんて、まさしく生きているとしか想えないような挙動を示すものなんですけどね。パソコンに愛情の薄い女房が弄ると、すぐに調子悪くなったりとかするし(爆)。もの言わぬものこそあはれの果てならん読み人、まっく(笑)。
2010.06.16
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今日の昔話は百姓じいさんとテングですね。このパターンの昔話も多いですね(他に類を見ない昔話の方が珍しいか ^^;)。古来、“術に溺れる”人が如何に多かったか、ということでしょうか?そのテング、カシラだったそうですが、アタマは悪かったようですな。一方で、おじいさんの「喰われてもよかですよ」という肝と、相手の術を逆用する智慧廻りの良さ。腹に入れただけでは巨大化されないか?という疑問はありますが、やっぱり噛むんでしょうね(爆)。甲陽軍鑑には、武芸や戦術のことですが、秘術を使いこなすかのような話があっても恐るるに足らず、そんなもんは実際に会えば、まず嘘八百である、というような記述があります。一方で、いくら大ボラを吹いてもいいんだ、みたいなことも(笑)。孔明もかくや、というような術を見せられても、戦場では役に立たん、とバッサリだったりで、いかに実用ということについてシビアだったかが伺われます。ただ、このテングもそうですが、昔から「言葉争い」という習慣があったことも併せ考えると、一つの雅かな?と。「言葉争い」のことは、別に触れたいと想っていますが、要は、いきなり実力行使の戦闘状態になる、というのではなく、先ず以て言葉で戦うという作法が、既に室町時代には確認されているらしいんですね。この言葉争いというのは一種の口喧嘩なわけですが、往々にして、この口喧嘩に負ける=戦に負ける、という程の重さがあったそうです。もちろん、口喧嘩で勝負が付かない場合は実力行使と相成るわけですが、双方に自らに理があり、相手に非があることを言いたて、言い負かす、と。紛争に際しては一種の専門職的な人も生じたようで、結構、重く見られていたとか。これは普段の生活にも当然、反映されてたでしょうから、成程、実は裏では女房の尻に敷かれる関白亭主の図の裏にはコンナ風習の影が!みたいな?(^^;この昔話でも、テングが問答無用の輩だったらどうすんねん!というところですが、そういう雅とでも言うべき風習を前提に考えれば、むしろ自然な流れなんでしょうね。ただ、現代では(?)色んな形で問答無用の暴力も横行しているのが実際ですから、そこは工夫すべきところでしょう。“逆ギレ”という言葉が生じる背景を忘れては、せっかくの胆力も匹夫の勇に変わりなし、ということになりかねませんから(汗)。勇気というのは、智慧や優しさと言った多くのものと不可分なのだろうと想います。
2010.06.14
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今日のよびりんさんの昔話、日本の花咲爺さんみたいですね。*ワニVer.はフィリピンの昔話らしいですこういう話は、二番手の意地の悪さが目立ちますが、二番煎じの難しさ、とも見れるな~、などと想ってました。ワニの昔話なら「仲良く元気になる歌」でも歌えば違ったんでしょうけれど、マルッと同じ歌を、それも寝てる子を叩き起こしてまで、というのはねぇ・・・(^^;まぁ、他人事ではなくて、こういうことは、日常生活でも結構ありがちかも(苦笑)。少しパターンを変えてみると「あの人にはカクカクで喜んでもらえたんだから、この人にもカクカクで喜んでもらえるはずだ!」みたいな想い込みで、押し売りをする、なんてのは珍しくないですからね。この場合は一人目と二人目が同じだと言う違いはありますが(笑)。ほとんどの人間は365日、24時間善人とか悪人というわけではなく、両者を行ったり来たりしてますから、そういうパターンの方が多いかもしれませんな( ̄▽ ̄;まぁ、どちらにしても「二番煎じ」というのは見方を変えれば一番手より難しい面があるわけで。自分の身の丈に合わせて、と心掛けるしかないような気がします。
2010.06.13
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若い頃に出来た事が徐々に出来なくなっていくことは生死の理で仕方ない事だ。それでも、老いは智慧や徳といった威力の原動力でも、またあり得る。その人その人の気力や良さを失わせたり、隠してしまうものは「老い」だけではないが、我々は、意外と自分の長所が隠れてしまっていることに気付き難いものでもある。よびりんさんの記事を読んで、そんなことを考えていた。もちろん、心に眼鏡を掛けられれば良いのだが、急転、曇った心を晴れ晴れとさせることは難しく感じられがちだ。しかし、意外と心持ちの転換くらいであれば出来るものでもある。変われない心持ちの時というのは、大抵は「何かを守って」いるものである。もちろん、誰が何を言おうと守るべきと想ったのなら守れば良いのだが、自分でも「これは要らんよな・・・」と想うようなものまでも抱え込んでしまうのが人間の性だろう。人にバカにされて腹が立つ、というのは多くの人の普通の反応だが、バカで何か都合が悪いのか?と考えてみれば、そうでもないことが多い(もちろん、都合の悪いときもある 笑)。都合が悪くもないのに腹を立てる必要はなかろうが、バカでいては悪いかのように躾けられてきていると、反射的に腹が立つのかもしれない。「短気は損気」の言葉通り、せっかくに良いところが山ほどあっても、短期が故に、そんな良いところがマイナスに帳消しになってしまっていることというのも少なくない。人それぞれ、長所も短所も異なるものだが、特に子供に接する時は、やはり短所をドウコウしようとするよりも、長所を伸ばすことに重点を置くと、意外と短所も直ってしまうものだったりする。そういう意味では、自分の短所についても、くよくよする暇があったら長所を知って伸ばすことに努めた方が精神衛生上もいいのかもしれない。
2010.06.12
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おいらは賢しく、欲深の怠け者という出来の悪さに呆れるほどであるが、女房の出来は素晴らしい。つまり、陰陽の法則によりプラス・マイナス=ゼロの夫婦である(爆)。女房の偉いところは、二人の娘を産み、まだまだ先はあるとは言え育てているにも関わらず、おいらの両親に対しても可愛い嫁であり、実家に戻れば可愛い娘、可愛い妹に変化するところであろう。これは、出来るようで中々に出来ないことだ。人間、誰しもそこそこに育てば「私だって!」と想ってしまうもんだ。その遺伝子は確実な程に娘達に受け継がれ、その甘え上手なこと、この上なし(笑)。下の娘も、良い歳になったので易々とは両親の布団にも潜り込めないのだが、たまの夜中に、おいらの布団に忍び込んでくる。して、抱き枕大好きな寝ぼけたおいらは、そのまま抱き込んでしまうのである。しかし、下の娘が目を覚まして抜け出すのはほとんど気付かない。何かでフと起きたときに見ていると、おいらを起こさないようにソ~ッと抜け出し、掛け布団を丁寧に掛けて出て行っている。その様子は、観音様かと想う程、あまりにも優しい。三毛猫というのは、意外なところにいるもんなんだろう。上の娘はいい加減に中学生なので、ふてぶてしさも一人前なのだが、お袋が驚いて報告するに、「母の日に何が欲しいかって聞いてきて花をプレゼントしてくれたんだよ! で、下の娘も負けじと、二人でプレゼントを買ってきてくれたんだよ。 (あんたの出来は悪いが)あの二人は孝行者だね~!」と、おいらのことは言わんで良いから・・・(涙)ビンボーだと言えばビンボーではあるが、三毛猫は立派に育っているということか(笑)?いつか巣立っていく二人ではあるが、どうか長者の家に招いて欲しいものである(爆)。それよりも何よりも、二匹の幸せのためにこそ、おいらも女房も、親父もお袋もいたのであって、どうぞ楽しい人生を謳歌してもらいたいものである。それが多少なりとも世のためになれば、おいらのようなモンでも、生まれてきた甲斐もあろうというものである。
2010.06.11
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よびりんさんの昔話シリーズ(?)が面白い。昨日の八郎潟の話などは、まるでアニメの「日本昔話」のようだ。よく言われるように事実と真実は違う。昔話や神話も、事実というよりも何かしらの真実を伝えていることが多い。その内容は勧善懲悪的な簡単な図式のものばかりではない。この八郎潟の話も又、不思議な物語だ。仲間達を忘れてイワナを丸ごと喰ってしまい、その果てに喉の渇きに耐えられなくなる八郎は、やがて大蛇に化身してしまうことに相成る。人目を憚る姿となっても故郷の近くに住みたいと想うも、先の主に追い出され異郷へと逃れる。さらに傷癒えて後、もっと大きな住みかが欲しいと、自ら大湖を作る事を沼の持主である長者に持ち掛ける。そして、喰われては大変と逃げ出した長者も、無事、大湖の主となった八郎も結果的には幸せに暮らす事が出来るようになりました、と。普通に考えれば、この八郎は欲の塊みたいなものだ(笑)。だからか、欲の象徴の蛇、それも大蛇になったんでないか?というのはともかく、それが故に自らも、そして終の棲家を差しだす形になった長者も不幸にではなく、幸せに暮らすことになったところが面白い。日本人の感性と言うのは、昔から、必ずしも欲=悪という図式のみに縛られてはいない。むしろ、セックスに関しても何に付けても、比較的大らかな感性を根っこに持つのが日本人だと言って良いと想う。もっと前向きに言えば「欲以て皆が幸せになる」というような、見方によっては途轍もなくポジティブというか、楽観的な、そんな感性がある。欲の好循環とでも言おうか?この欲、自然なものであることが大切だというのがポイントだろう。人為かつ利己的な賢しさに対しては、花咲爺さんに見られるように厳しい断罪がなされることが多い。そういう話では、ホリエモンのことを想い出してしまう。好き嫌いで言えば嫌いなのだが、おいらはホリエモンは気の毒だったな、と今でも想う。彼のライバル(苦笑)と比すれば、あまりに無邪気に過ぎたと想う。もちろん、法的に芳しくないことはしてはならないが、彼のエネルギシュな活動に後押しされた人々も多かっただろうし、今でも多いはずだ。欲というのは、そのあり方によっては人を幸せにするものでもあるのだ。
2010.06.11
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おいらの最も尊敬する人の一人にさかなクンがいる。御存じの姿で現れるさかなクン、実は帽子が本体で、その下にいるのはオプションだという話まで出るほどである(笑)。御尊父と並ぶと、やはり帽子の下が本体なのではないか?とは想うが(爆)。*さかなクン、マメwiki(?)今日のよびりんさんの記事を読んでいて、さかなクンの姿が目に浮かんだ。位階も、位階を示す冠も大切なものだが、確かに家に帰っても冠を被りっ放しという人の話も少なからず耳にする。また、社会的地位が高かった人が仕事を離れても、その習いから脱却出来ずにフツーの生活に復帰出来ない例も多い。悪い意味で冠に乗っ取られてしまったようなもので、それでは「大切に身にまとう」ことにもなりはしない。昔話では冠・着物ごと位階を返すことで我に帰れた、ということになっているが、それは寂しい事だ。そうしなければ我に帰れないということは、その人の存在というのは、たかだか冠や着物、位階如きにすら敵わないということなのだから。さかなクンの帽子が如何に目立とうとも、天皇陛下の御前ですら着帽してたとしても(爆)、その本体は、やはり帽子の下にいる、さかなクン自身である。さかなクンが被ればこそ、あの帽子は「さかなクンの帽子」であることが出来るのだ。と言っても、こんな話を聞いてしまうと、やはり、さかなクンは異次元の人だ。なんだか、御釈迦様の話でも聞いてるかのような気がする。・・・というか、御釈迦様も案外、こんな方だったのかもしれない(爆)。
2010.06.08
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こんな感じで紹介してたら、ソッコー、削除されてしまった(のは、おいらのせいか ^^;)orzということで、コッチからも行けますが、マキちゃんだけはっ!!みたいな使命感に萌え(違)。今日は、なんと三回目なんですよ、この記事を書くの。書く度にページ・バック・キーを押してしまいまして。今回、駄目だったら諦めますね、おいらでも(笑)。Sam Cookeから始まってRobert Johnsonまで探索してたのが災いしたか・・・(CrossRoadに嵌ったとかね・・・)。で、土曜の良い時間になってきたことだし、良い訳が見つかったので、コチラを、どぞ!。*本日は別Windowで開く仕様にてお届けしておりますそういえば、久しぶりによびりんさんの日記を拝見したら、いきなり貧乏神の話です(爆)。それにしても、この貧乏神、夜逃げに着いてくる人懐こさに、草履編みに精を出す働き者!その上、その草履を御近所に配ってしまうと言う気前の良さ(大爆)!!まあ、ウチにも二匹ほどいますが、貧乏神なんてのは、そんなもんですな(^^;面白いことに、日本の神様というのは対(セット)になっていたり、グループになっていたりするもんですが、貧乏神には、そういうのが見当たらないんですよね。富神様なんて、あまり聞いた事ありませんものね。お稲荷様だって商売の神様で富の神様ではないっすからの。金持ちになるかは定かではないわけですの(・_・)ノと、その話は置いといて、いつ頃から週休二日制になったんだったけかなぁ?最近は、すっかり金曜には週末気分ですが、やはり土曜の夜ですよね、なんとなく。お・と・な・の・じ・か・ん若い頃、アチコチの飲み屋にバイトやらで世話になりながら、こんな感じで憩いの場を楽しんでもらう側にいた時の幸福感は、今でも忘れられないです・・・なんてシミジミしてたら貧乏神が、もう一人、慌ただしく帰ってきましたとさ(大爆)!!では皆さんに楽しい週末が訪れますよ~にっ!(^^)
2010.06.05
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よびりんさんの日記を拝見してて、そんなものかもしれ~ん、と(コレとコレ)。よく聞く言葉に”一点豪華主義”というのがあって、これはこれで庶民の知恵だと想うのだが、逆に”一点貧乏主義”というのもあっていいんではなかろうか?たとえば電話。ウチの場合だと堂々と未だに電話・FAX兼用番号で表に出ているけれど、それでいいや、と想う。受電中に掛けなくちゃ、とかもあるので一応は二本体制ではあるのだけど、そんなのは内々の事情なんで、対外的に二本ないと困るかと言うと見栄を張るんでも無ければ困りはしない。大体が二本も三本も電話回線が必要なほどとなると、業態にもよるが、事業者がメイン顧客だと結構な規模である。そもそもが三本の電話回線が鳴りっ放しな程になるとクレームの方が多いんじゃないか(爆)?と、それは冗談としても、ココというところを一点でも貧乏状態に保って、常に意識せざるをえないようにしておくと、イザという時にレベルを下げる抵抗感は、かなり減る。それが見栄に関わるものであればなおのことで、今の日本では、大体が人間が生きていくのに必要なものは驚くほど少ない。大抵は見栄だとかに縛られているのが実際で、それを意識しているだけでも落ち込んだ時のメンタル・ダメージは減少するに違いないと想う。居所も広いに越したことはないのかもしれないが、起きて半畳寝て一畳というのは、おいらのようなコンパクト体型だと、まさしく文字通りだったりするし(笑)。むしろ事務所が無駄に好立地で広い会社なんかに行くと、おいらなどは取引するのを躊躇っちゃう位で、相手が中小零細であればなおのこと、パッと見、ゴッタ煮状態であっても最低限のスペース内で整理されていると、まず間違いない会社とジャッジしたりする。一時点での状態がどう見えるかは相手次第なので一概には言えないけれど、狭かったのが広くなるならともかく、広かったのが狭くなるのは、印象も良くはない。そんな風に考えて、貧乏状態を日頃から意識出来る環境を作っておくのも大事なリスク管理なのかもしれないと想う。アッカ~~~~~~~~ン!!と言ってられる内は、大抵はなんとかなる。なんともならんときは、アカ、アカ、アカ、アアアアア・・・というようなときだと、昨日見た番組で芸人さんが言っていた。
2009.04.27
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昨日は、慌しく、エイヤッとばかりに開催させて頂いた東京よびりん会ですが、主賓のよびりんさん、そして御参席頂いた皆さん、有難う御座いました!!あの準備で10名も集って頂けるとは、なんとも感謝しようがありません。事前に注意していたにも関わらず、やはり牛飲してしまった私ですが、よびりんさん、キューピーさん、AKB(笑)さんとサウナ行きとなってしまいました。今、自宅に戻って少しづつアルコールが抜けてきていると想います(^^;少し心配だった体調の方は、なんとか無事のようです。ご心配下さった方々、本当に有難う御座います。つくづくに周囲の方々の優しい心に助けられていることを痛感致しました。そして、せっかくご連絡頂いた亞さんには、すいませんでした!!Aクラスの盛り上がりに巻き込まれてしまい・・・いえ、反省しております、ごめんなさい(涙このような形で恐縮ですが、皆さん、改めて有難う御座いました!!
2009.04.18
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