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背番号26(その3)
背番号26の第3回目をはじめるよ
今回はちょっと異質で 皆さんもあまりなじみのない選手ばかりが出てくるとおもう 渡辺さんが14年間つけたあとだけに 背番号「26」がかすんでしまった時代と言えそうね
久野剛司(ひさのたかし) 投手
久野は大阪府八尾市出身。府立八尾高校1年の時にエースとして夏の甲子園に出場しベスト4まで勝ち進んでいるが、その後の2年生以降は卒業まで甲子園の土は踏めなかった。
高校卒業後は同志社大へ進み、ここでもエースとして活躍している。大学通算成績は70試合に登板して33勝16敗、188奪三振で防御率は1 . 52という堂々たるものだ。
1965(昭和40)年のドラフト会議でタイガースが4位指名し、内定していた河合楽器に断りを入れてプロの道を選んだ。背番号は引退した渡辺省三の「26」を受け継ぐ。
ルーキーイヤーの1966(昭和41)年には、いきなり38試合の登板機会があった。しかもそのうち14試合は先発に起用されている。しかしシーズン成績は1勝6敗。これは当時のタイガース打線があまり援護できていないことも影響しており、防御率は2 . 81と悪くはなかった。1勝は8月の広島戦での完封勝ち。2年目以降への期待感はあったようだ。
ところが1967(昭和42)年は一軍での登板は無く、1968(昭和43)年が11試合1勝2敗、1969(昭和44)年も12試合1勝0敗と満足に投げていない。
当時どういう評価だったのか記録や証言が残っていないのでわからないが、大学時代の数字から見れば完全に期待外れになっている。
1970(昭和45)年、シーズン途中で西鉄ライオンズへ移籍していったが1971(昭和46)年に現役引退する。
プロ通算成績は80試合3勝8敗162回1 /
3を投げ71奪三振、自責点67、防御率3 .
72だった。プロ入り後に大成できなかった理由はよくわからない。
山本重政 投手
兵庫県加東郡社 (やしろ) 町出身。県立社高校に進み2年生の夏の地区予選で毎回奪三振を奪うパーフェクトゲームを達成し一躍注目の投手となる。翌年の夏の予選でもノーヒット・ノーランを記録しており、鳴り物入りで立命館大へ進学している。
1962(昭和37)年、大学1年の春季から登板し3勝を挙げる活躍にほれ込んだのが近鉄バファローズ監督の別当薫で、シーズン中に説得に赴いたことで、山本は同年で大学を中退して近鉄へ入団する。
近鉄では1963(昭和38)年から8年間プレーしたが、当時はパ・リーグのお荷物球団と呼ばれる弱小チームであったため、山本は一度もシーズンで勝ち越していない。1966(昭和41)年は防御率2 . 72にも関わらず、8勝19敗と惨憺たる成績に終わっている。
1967(昭和42)年から3年間は勝ち星がなく、1969(昭和44)年オフに戦力外、自由契約選手となった。
地元兵庫出身ということもあってタイガースが手を差し伸べ、1970(昭和45)年に途中入団、背番号は西鉄へ移籍した久野から「26」を引き継いでいる。
タイガースでは、2種類のカーブを主体にする技巧派に転じ、中継ぎとして貴重な仕事をしており、7年間の在籍中に防御率2点台の年が4回ある。1973(昭和48)年には背番号を「35」に変更している。
1976(昭和51)年はわずか2試合しか登板は無く、現役最後のシーズンになった1977(昭和52)年は背番号も「63」となって、現役でありながらほぼ1年間バッティング投手として過ごし引退している。
通算成績は424試合40勝67敗4セーブ、1117回2 / 3を投げ奪三振782、自責点420防御率3 . 38だった。
引退後はそのままタイガースに残り、24年間スコアラーを務めたのちフロント入りし、2007(平成19)年に退社した。スコアラーとしての手腕は高く評価されている。
森山正義 外野手
長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)の出身。高校は東京の佼成学園へ進み3年時の選抜大会で甲子園を経験したが初戦で敗退している。
明治学院大に進むとスラッガーとして開花し、首都大学リーグだけでなく日本の全大学野球リーグにおいても最多となる通算26本塁打を放った。これは2024年現在でも最多記録になっている。
大学通算成績も100試合367打数110安打80打点、打率は . 300を記録しベストナインにも4度選ばれている。文句のつけようがない成績だ。
1972(昭和47)年のドラフト会議ではタイガースが2位指名で獲得に成功し入団が決まる。大学のホームラン数26本にちなんで、山本重政から背番号「26」を譲られている。
これほどの素材だったが、森山は1973(昭和48)年から2年間在籍しただけで1度も一軍の試合に出ることもなくトレードに出されてしまう。
入団前から肩痛と腱鞘炎に悩まされていたためで、ファームの試合では4試合連続ホームランなども記録してはいるが、一軍で使えるというめどが立たなかったからだと言われている。
1974(昭和49)年オフに阪神5人に対しロッテ2人の交換トレードで放出され、1975(昭和50)年から1979(昭和54)年まで5年間をオリオンズでプレーして引退する。
タイガースでは試合に出ていないためロッテでの成績が生涯成績になる。通算の数字は25試合18打数0安打0打点0本塁打3盗塁1四球6三振で打率0割・・・これはほぼ代走要員の数字だろう。大学時代の華々しい活躍に程遠い結末だった。
1997(平成9)年から母校である明治学院大のコーチに就任、2005(平成17)には野球部監督を務めた。
まとめ
今回の3名は大きな貢献ができなかった選手たちね 山本さんだけは毎年20~30試合を投げてくれて中継ぎ役や敗戦処理など地味ながら貢献はしてくれたようだけどね
久野さんと森山さんは大学時代の記録を見ると驚くんだよなあ この数字でプロ入りしたなら常識ではピッチャーは100勝以上、打者では1500安打くらいは軽くクリアできそうにおもうんだけどプロは厳しいのね このお二人は2代目が探した限りでは残念ながら画像は発見できませんでした
26の4につづく
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