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ご存知のことわざ。意味は、読んで字の如く、何かをしようと決心したら、あれこれと考えずにすぐ実行するほうがよい、ということ。 先日、「青春の輝き」という日記で、「若さとは」ということでのことわざについて書いた。その日記に対するコメントで、「今日は、人生で一番若い日」というのをいただいた。 確かに。 「今日」という日は、「これからの人生」においては最初の日である。もうどんなに考えても、あるいはしてしまったことを悔いても、過去には戻れない。だから、同様な意味で、「これからの人生」において、今日は最も若い自分である。また、明日、来月、来年、というのもまた、本当にあるのかどうかは何の保証もない。あるのは、ただ「今日」、そして「今」だけ。だとしたら、何かやりたいことがあったら、あるいはやると決めたら、それを始めるのは「今」しかない。もしかしたら、「やらなかった」ことを後悔するかも知れない。よく言う、「やらずの後悔より、やって後悔」だろう。後悔するとしても・・・ さて、始めから飛ばすとすぐ息切れするから、少しずつ、ゆっくりと・・・
2011.08.27
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大分前に読み始めた「エレガントな宇宙」。次第に読む速度が落ちて、今はせいぜい一日10ページぐらい・・・・前書きによると、第4部から「多少」抽象的な説明が多くなり分かりにくくなるかもしれないが、と書いてあったが、その第4部に入る前から失速状態。 だいたい数学的にこうなることがわかる、というのを「分かりやすく」言葉で説明することの限界があるにしても、突然、「・・・・だと言える」と書かれてしまうと、え?と思って立ち止まってしまう事もしばしば・・・・ しかし、究極理論となりそうな理論としては最右翼にいると言われる「超ひも理論」の何が、どう、「究極」なのか、ということはおぼろげながらわかる。 たとえて言えば、今までの物理学は、カメラに例えて言えば、取り扱い説明書を書いてきたようなもの。全然カメラに触ったことがない人が、その目的は「写真」というものを撮ることだ、ということを教えられ、じゃあ、どうやったら写真が撮れるのかを何千年にもわたって研究してきた結果が20世紀までの物理学だ、とも言える。つまり、ここを押せばこうなって、あそこを引っ張るとこうなる、という使い方だ。でも、なんでそういう操作が必要なのか、とか、それでなぜ「写真」というものが撮れるのか、という原理については全然わかって居なかった。とすれば、この「超ひも理論」に代表される21世紀の物理学は、なぜ写真が撮れるのか、カメラの内部で、何がどう働いて、結果「写真」というものになるのか、というカメラの設計図に迫ることができる「かも」知れない、という。今までの素粒子論が、数々の「素粒子」の存在を確認し、それがどんな特性を持っているのか、を明らかにしてきたが、「なぜ」そんな素粒子がいくつもあるのか、ということは分からなかった。また重力とか電磁力とか、4つの力の存在は確認され、それが「どう」働くか、は分かってきたが、「なぜ」力が4つなのか、そして、「なぜ」それが働くのかは分からなかった。こういったことが段々と説明できるようになってきた、というだけでも興奮ものだが、今現在はまだ「本当にそうか」という疑問がたくさん有って、それらにイエスと言える段階ではないらしい。でも、21世紀、もしかすると、すごい「世紀」になるかもしれないな。
2011.08.13
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というようなTV番組が昔あったような・・・・。 TV番組でなくとも、「時間」に関するSFものはたくさんあるし、特に過去に行くのはいろいろ歴史上の人物に会ったりするストーリーが描けるので、よく映画にもなったりする。先日見終わった「仁」もそんな中の一つ。しかし、現実的に、科学的に、時間というのは相対的なものだ、ということが今でははっきりしているし、時間を遅くすることは誰にでも出来る。私にも出来るし、他の誰でも出来る。ただ、「出来ない」のは、それを実用的なレベルまで上げたり、それをどう使うか、という応用が出来ない。SFみたいに、過去に行ったり未来に行ったり、そんな簡単に出来ることではない。もっとも、時間は遅く出来るけれども、逆転させるのは今のところ出来ない。タイムトラベルは日常茶飯事で起きているようだが、それは人間の現実世界とはほとんど関係ない量子の世界の話で、だからと言ってそれを利用することはまだ出来ない。 ・・・・・・・というのが、現在の科学で到達した「時間」に対する見方かもしれないが、実は、それを超える体験をしている人はたくさん居る。残念ながら、今現在、これらの体験は「科学的に」証明されてはいないので、実際に過去に行ったり未来に行ったりしたことは単なる「個人的体験」に過ぎない。でも、行った本人にとっては、それは現実の世界と同様に「現実感」を伴う「経験」となり、それを疑う余地はないものとなっているようだ。 自分としては、証明できなくても、単なる「個人的体験」に過ぎない、と言われても、そんな現実感を伴う、時間旅行を経験できるものなら体験してみたいものだが。
2011.08.06
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古代から人間はこの世界、この宇宙とはなんで、そして私たち自身が何者か、ということについて多くの思索が行なわれてきた。時間と空間の理解から、この世の中の仕組みまで、ありとあらゆることを考えてきた人間の営みは、近代になって、ヨーロッパを中心とした「還元主義」に引っ張られてきた、と言っても過言ではないだろう。「還元主義」というのは、言ってみれば「物事の本質は、どんどん突き詰めていくと、その要素に分解され(還元され)、そこに見つかる基本的な法則(真理」が、すべての事象を統べている」という考え方だったと思う。(この辺は、ど素人なので、間違っているかもしれませんが)しかし、現代物理学が、あるいは数学を含めた「科学」が、この「還元主義」の限界を私たちに示し始めたのは20世紀初頭に始まった量子力学を走りとする一連の科学上の成果だった。そして1900年代の後半には、宇宙そのものに関する多くの新しい発見やそれにも増して新しい謎の出現が次々に立ち現れてきた。日記でも書いてきたが、残念ながら私たちの「常識」はこれらの科学の進展に全く付いていっていないので、未だに19世紀の物理学とそれによる宇宙観に留まっているし、その後の相対性理論の華々しい成功にも関わらず、それが「常識」の中に入るまでにも至っていないのが現実だろう。その上、その相対性理論とはまったく両立しない量子力学の発展は、実際に多くのテクノロジーを私たちに提供することにより、その「正しさ」を証明してきたにも関わらず、同じく「正しさ」を証明された相対性理論との矛盾は、未だにそのままに置かれている。20世紀後半から立ち上がった「ひも理論」その第一次革命とその後の第二の革命を経て、現在の21世紀の物理学は、この相対性理論と量子力学の矛盾を解決し、さらに、重力をも含めた「大統一理論」の構築に向けて日々前進している。そのことは、逆に言うと、私たちの「常識」は、この最先端の宇宙像からはどんどん置いていかれている、ということを意味している。2000年に発表されたブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙 -超ひも理論がすべてを解明する」は、その先端の超ひも理論の当代切っての現役物理学者によって書かれ、その平易な内容と思想的な厚みでずば抜けた評価を得、アメリカでもベストセラーになった本であり、上に書いた「常識」と「科学の先端」を埋めるための本としては、最高の本の一つとされている。先日からこの本を読んでいるが、「平易な内容」とは言え、それは数式や専門用語を出来るだけ使わずに書かれた、ということは意味しても、その内容を理解するのが平易だ、とはお世辞にも言えない。しかし、読むに従って、私たち人間とは何者か、私たちはどこから来たのか、そもそも宇宙とは何で、どうして出来たのか、ということについて考える上で非常に多くの示唆を与えてくれる。一方で、著者も言うように、「どのようにして」物質が、そして宇宙が誕生し、今日に至っているか、ということはどんどん解明されてきているが、だからと言って「なぜ」という疑問には一切答えられない、という科学の限界をも正直に提示している。その「なぜ」を巡っては、今の科学はほとんど無力であり、せいぜい「仮定」「思考実験」の域を出ない。ではあるけれども、ここに書かれていることは考えるだけでも壮大な気分にさせてくれるし、じゃあ、その中の自分って一体なにものだ?ということを考えさせてくれる。しかし、この本にしても、書かれたのはもう10年も前の話。 これ以降の10年、21世紀初頭の10年で、一体どれだけの知見が新たに得られたのだろうか・・・少なくとも、巷にあふれる「現代物理学が教える宇宙の姿」みたいな教養書は、この「エレガントな宇宙」の要約版か、その解説版みたいな趣で、内容的には一歩も出ていないように感じる。だれか、それ「以降」の発展を、私のような「素人」「一般人」を対象にした、いい本を紹介してもらえないだろうか。<追記>そんなもん、人に聞くな!と言う声が聞こえたので(笑)、ちょっとアマゾンで調べたら、同じグリーンの著書で、2009年、そして今年2011年に、その後の発展を踏まえた本が出されていますね。ただ、この「エレガントな宇宙」ほど包括的には書かれていないようですが、それでも「多宇宙」「並行宇宙」「時間と空間の関係」などについての、最先端からの報告を聞ける、というだけで意味があるんでしょう。今度日本に行ったら購入してこようと思います(英語は苦手なんで・・・笑)
2011.08.01
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世の中がいくら便利になったとは言え、人間の営みというのは基本的なところではそう変わるものではない。何百年、いや下手をすると数千年の昔から、人間の「悩み」「苦悩」ということに関しては、その対象こそ違え、内容的には変わっていないんだろう。温故知新 -古きをたずね、新しきを知る、という言葉。故き(ふるき)を温ね(たずね)て、新しいことに対処する、という言葉だが、温ね(たずね)て、を「あたためて」と読む人も居るらしいが、その名のとおり、じっくりと学ぶ、という意味だろう。今の人が抱えるほとんどの問題は、質的に、はるか昔にほとんど出尽くしていて、それらの問題に対して本当に多くの人が悩み、考え、対処方法を考えてきている。その代表がイエス・キリストや仏陀などの宗教の創始者だろうけれど、宗教に限らず、生きる哲学を考え抜いた人、人の苦しみや悲しみを正面から見つめた人は枚挙にいとまがない。そして、その多くが失われた、とは言え、現代の私たちは、こうした先人の悩んだ軌跡、解決に至る道程を書物を通してある程度知ることが出来る。「ある程度」ではあるけれど、その中には、今の人が抱える、ありとあらゆる種類の問題の根が含まれている、と言っても過言ではない。つまり、一人で悩んで袋小路に入ってしまった場合でも、ひとたび「古きをたずね」れば、それに対する答えはあらゆるところにある、ということだ。「質的に」同じ、と書いたが、もちろん、思想、経済、テクノロジーなどなど私たちを取り巻く環境は昔とはまったく違っている。 しかし、人間の営みの本質、という面では何も変わっていない。表面上の違いを理由に、「そんなことは今では通用しない」とか「このような状況は、今ではありえないから」と言って、先人の貴重な思索の賜物を捨て去るのは、本当にもったいない。パソコンで悩もうと、会社の仕事で悩もうと、悩みの本質は一緒、ということだ。答えは、どこにでも転がっている。 あとは、それを探すかどうか、だけにかかっている。
2011.07.26
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あ、本の紹介を期待している方にはすみません。特定の本を紹介するわけではありませんので^^;人にはそれぞれ「自分の人生を変えた出会い」というものがあるでしょう。私にもあります。同様に、「私の人生を変えたこの一冊!」みたいな本もあるのではないでしょうか?私にもあります。そんな一冊。ただ、ここでそれがなんの、どういう本か、という紹介をするつもりはありません。なぜか、と言うと、人にはそれぞれ「時」があると思うからです。もしかすると「時」だけではないかもしれませんが、とにかく、人によって感銘を受ける、感動する、衝撃を受ける、という類の本は、それぞれ異なる、と思うからです。人はそれぞれ、生まれも育ちも違い、生まれ付いての感性・才能も違い、そして出会う人も違えば経験することも皆違います。 この当たり前のことが、その時々の「その人」の中身や心の状態を決定するので、二人として同じ人は居ません。なので、ある人が感動したり、人生を変えるほどの衝撃を受けた本が、別の人にもそうであるとは限らないからです。実際に、自分が読んで感動したり、影響を受けた、と思っている本を、アマゾンなどのネット書店で見ると、そこにいろいろな方が読後感をつづり、評価をしています。それを見ると、自分が例えば5つ☆をつけて、こんな本があったんだ!と感激した本であっても、平均の星の数はたったの三つ、ということもあります。つまり人には、自分の状態が「準備された」時に、そういった本に出会う、ということで、そんな準備がないままに万一「出会った」としても、何気に通り過ぎてしまう、ということでしょう。その意味では、昔読んであまり感銘を受けなかった本を、今になって読み直してみたら、全く違った印象を持つ事もあります。よくなる場合もありますが、中には「なんでこんな本に感動したんだ?」と評価が下がる場合もあります。いずれにしても、人生の節目節目で、そういった本に出合える、ということは少なくとも幸福なことでしょう。これを読んでいなかったら、自分はこうはならなかったに違いない、という感謝ができる出会いです。人との出会いも同じように、あとから感謝できる類の出会いを重ねたいものです。
2011.07.21
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本当は、今日の教会の説教に内容について感じた事を書きたかったのですが、長くなりそうだし、考えもまとまっていないので、それは延期(笑)その代わり、その時に、ぜんぜん関連がなさそうなのに、ふと思った「本を読める」ということの幸せについて。 宗教の中でも、一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などは、旧約聖書を共通に持ちながら、トーラーや新約聖書やコーランなど、それぞれの「教典」がある。仏教に至っては、仏陀その人は何も書いたものを残さなかったが、その話をまとめた大勢の弟子達、そしてそれを発展させていった(と思われる)後代の経典が、何千巻とある。しかし、こういった本、あるいは教典、経典のたぐいを読める人は、その時代時代ではごく限られたエリートだけであった。日本では比較的早く民衆の間での識字率が高くなり、江戸時代にはいろいろな瓦版や草子の類が庶民の間で読まれたようだ。しかし、それにしても、例えば明治になっても、大正になっても、下手をすると昭和になっても、小説でベストセラーになった、といっても数千冊も印刷されれば大ヒットであったらしい。ヨーロッパでも、中世に印刷が中国から伝わり、本というのが作られたのは、ちょうどマルティンルターによる宗教改革の時期と重なる。つまり、彼の宗教改革は、それまで聖職者しか持たなかった、あるいは読めなかった「聖書」というものを、発明された印刷術で、大衆に広めた、その結果としておきた改革ということもできる。それでも、聖書以外では、小説や、哲学、思想、などなどの本は、なかなか識字率が上がらない中で、やはりごく一部の人のものであり続けた。つまり、有名な作家で、評判もよく、皆に読まれた、と言われる本であっても、その「皆」というのは、ごく限られた人たちであった、ということだ。その点、今のように、欲しい本、読みたい本が、いつでも、どこでも、お金を出せば買える、あるいは図書館で借りられる、そんな状況になったのは、本当に最近のことであり、人類の長い歴史の中でも初めてのことであろう。それも、自国の本だけではなく、英語であれ、フランス語であれ、ドイツ語であれ(ちょっと西洋に偏っているきらいがあるが・・・)、評判のよい本はすぐに翻訳され、我々が手にとることができる・・・・これは、考えてみればなんという幸福なのだろう、と思う。そして、今は、この情報の流通が、本にさえ頼らず、インターネットという媒体で世界中に瞬く間に広がる、そんな時代になっている。本を読める幸せ、イコール、多彩な情報に接することができる幸せ、とするなら、本は本で電子化され、本という体裁をとらない生の情報さえ、簡単に交換できるようになっている今の幸福を、あらためて感じている。
2011.07.18
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少し前は、宇宙と言うのはビッグバンで始まって、今なお膨張し続けているとか、中にはブラックホールというものがあって、重力によって光さえも出られない、というものがあるとか・・・。わかるわけではないが、なんとなく分かった気になるような「宇宙」でした。でも、それは単に「こうに違いない」という「宇宙」だったので、「そうではない」とか「それでは説明がつかない」ということがあると修正を余儀なくされます。そして「宇宙」にはまだ「説明がつかないこと」が一杯あります。最近の「宇宙論」は、この「従来の考え方では説明できないこと」を何とか説明しようという試みに他なりません。しかし・・・・。 上に書いたような、ちょっと前の宇宙論はなんとなくわかったような気になれるものでしたが、最近の宇宙論は、なんとなく、も分からない、難解なものになってきています。それを理解しようとすると、現代数学理論を理解しないと、本当には理解できないのではないか、という感じがします。う~ん、宇宙というものにロマンを感じてきた私にとっては、そのロマンを感じるところまで理解できなくなりつつというのが、なんとなくさびしい。10次元のひもの宇宙って、なんなんだ?
2011.06.01
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「複雑系」 いつだっただろう、この言葉を目にしたのは・・・大分昔だったような。今更ながら、日本に行ったときに見つけた「複雑系」の本を読んでいる。と言っても専門書ではなくて一般向けの、「複雑系」の学問としての発祥を物語風に書いてある本だ。それなのに、とにかく著者が博識だからだろうけれど、結構内容が濃い。というよりも、なかなか頭が付いていかない(泣)典型的な遅読なので、もうそろそろ一ヶ月になろうとしているのに、まだ三分の二ぐらいのところを読んでいる・・・。毎日数十ページぐらいずつ、少しずつ・・それも、もう20年前の話を、である。いったい、この学問の最先端は今日どうなってしまっているんだろう、と考えてしまった。数学とコンピューターシミュレーションに支えられたこの「複雑系」、コンピュータの飛躍的な進歩で、この20年、相当な進展を見せているに違いない。しかし、その端緒において活発に議論されていた「経済学」への複雑系の適用についてはそれほどうまく発展していないに違いない。なぜなら、生物の発生・進化と同様に「複雑系」のシステムの代表である「社会」そしてその中では伝統的に数学的な解析が進んでいた「経済」システムであったにしろ、今でも経済の市場予測というものの精度がそれほど上がっているとは思えないからだ。考えてみると、人間の活動に影響を及ぼす諸要素を全て包含して、そのシステムの自己組織化とか創発性というのを厳密に定義することすら、気が遠くなるほどの難しさだろう。なんとなれば、もし経済を正確に予測できるシステムが開発されたら、それを人間は知っているわけだから、その予測を出し抜こうとする人間は確実に居る。となると、「完全に予測できた未来」は、この「予測を裏切ろうとする人間」の行動によって、確実に現実にはならないから、「完全に予測できた未来」の予測は当たらない予測とならざるを得ない。これはパラドクスだ。それをも計算要素に含んだシステム、というのはいたちごっこで、実現しようがないのではないか、と思ってしまう。この「複雑系」、人間の恣意性を限定できる分野でしか生かされないのでは、と、この本を読んで漠然と考えてしまったのだが、今はいったいどうなっているのだろうか?しかし、この本、幾多の天才が、いろいろな分野で研究していたものが、「複雑系」というコンセプトの元にぞくぞくと集結してきて、一気に学問としての産声を上げる様は本当に圧巻だ。人間の、知性の可能性は無限ではないか、と思わされるほどに・・・・・。
2011.04.29
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私の主な読書の時間は、ベッドに入ってから寝るまでの小一時間。今回も日本に行って、いろいろ買い込んできた本を楽しみにベッドに持ち込んで、さあ、読むぞ、と思ったのですが・・・・なにせ、まだアメリカに戻って2日目。 寝るまでは大して眠くないので、普通なのだが、一旦ベッドに入って本を読み始めると、猛烈に眠くなってくる。時差ぼけはだいたい、午後に出てくるので、午後2時とか3時ぐらいは結構くる。しかし、それを過ぎると、大して眠くもなくなるのだが、なぜベッドに入ると急激に眠気が襲ってくるのかよくわからない。しかし、とにかく、買ってきた本を枕元に置いてあるのだが、この二日間で読めたのはたったの数十ページ(笑)今読んできるのは貴志祐介の「新世界より」。これって、上・中・下の三巻なので、こんな調子でいったら、読み終わるのに何ヶ月もかかってしまう・・・・まだ物語がぜんぜん動き出していないせいだろうか、佳境に入れば、ページをめくる手が止まらなくなり、あっと言う間に読んでしまうのかもしれないが、いかんせん、まだストーリーの「ス」の字も見えてきていない。さて、今夜あたりはどうだろうか?
2011.02.13
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読売新聞で人気のある「発言小町」のトピで人気があったものを選んで本にしたものが発売されたようだ。これ ⇒ 「他人の何気ない一言に助けられました」世の中、殺伐として、ニュースと言えば悪いことがニュースだ、と言わんばかりに、これでもか、と「悪い」事件のニュースにあふれています。しかし、この発言小町は、90%はしょうもない内容かもしれませんが、時々、非常にドラマチックであったり、為になったりするトピがあります。中には、本当にこんな話があるのか?と思うようなものもあり、事実は小説よりも奇なり、を実感することも多々あります。そのトピの中で、ある一言で人が救われた、助けられた、という逸話を集めたこの本。編集者自身が編集していて泣いてしまったそうで、こういった「悪いニュース」ばかりの世の中には、タイムリーな本だと思います。今週から日本。またBookOff詣でをすることになると思いますが、もしBookOffになくても、新刊でも購入して読んでみたいな、と思っている一冊です。
2011.01.25
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この手の本はもう打ち切りにしようと思いつつ、たまたま教会の本棚にあったので、借りてきて今読んでいる。数百ページもあり、読み応えがありそうな本。こんな本 ⇒ ナザレのイエスは神の子か?懐疑主義者で、どちらかと言うと、キリスト教なんて、と思っていた、ジャーナリストの著者が、妻の勧めで、聖書の真実性について約2年をかけて調査をし、その結果として集まった膨大な「証拠」を前に、ついにクリスチャンになった、という、面白そうな話。この著者、もともとはエリート大学のエールで法学を学び、法学博士でもあって、その後のジャーナリストとしての活動も、その緻密な調査と明快な論理で、数々の賞を獲得した、新進気鋭のジャーナリストである・・・・というのが、この本の「信憑性」を高めるために書かれた宣伝文句である。そして、かずかずの「推薦の言葉」が寄せられているが、その全てがキリスト教、あるいはキリスト神学の「まっとうな」研究者からのものだ、という点で、多少割り引いて考える必要がある、というのが、私自身のスタートライン。しかし、まだ読み終わっていないが、「証拠をもとに」聖書の真実性を証明し、その事実を元に、キリストが神の一人子であり、キリストは私たちの罪をその一身に背負って犠牲となることによって私たち衆上を救ってくださった、ということを信じるに至った・・・という話の展開には無理があるのでは?というのが私の感想。いくら「聖書の歴史的真実性」を追及しようと、また仮にそれが証明されたとしても、つまり聖書に書かれていることがなんの作為も編集も内容の変更も受けずに歴史的事実を記述していた、と証明できたとしても、それと、上記の「信じる」内容との間には画然としたGAPがある。さてさて、この高学歴で、知的で、鋭い感性を持ち、社会的にも圧倒的に評価を受けていると言う著者が、なぜ、それまでの懐疑論者、聖書否定論者の立場を捨てて、信仰を得るに至ったか、興味深々である。
2011.01.18
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「クムラン」という本を終了した。(全部読んだわけではない)こんな小説を読んでいるとき、たまたま昨夜観た映画はその名も「Angels and Demons」というもので、こちらは、古代から続くイルムナルティーという秘密結社と現キリスト教との話を映画化したもので、どうもこの手のものに意図せず集中しているきらいがあるなあ、などと思いながら・・・。 この本です。↓↓↓ 「クムラン」ここの解説にもあるように、1947年のクムランの洞窟で発見されたエッセネ派のものと思われる「死海文書」を題材にした、なんというか、サスペンス小説です。で、この「クムラン」、著者は、若干26歳の哲学科教授で、しかもすごい美人!って、関係ないですが、しかし、この小説、ものすごく読みにくい。理由は、その情景模写や心情記述がすごく詳細かつ綿密で、しかもユダヤ教やらキリスト教の言葉が随所に現れ、読んでいても意味不明な文章がえんえんと続く。たとえて言えば、原始仏教を題材にした小説で、その中に仏教用語がふんだんに現れるような感じ。それらの言葉を知らないとほとんど意味を成さない。下手をすると、どこかの風景を描くのに、そのためだけに数ページにわたって書かれていて、だんだん読むのが億劫になってきて、最後には、ざっと見て、その内容が本筋とはあまり関係がない、と判断すると、そこを読み飛ばす、という仕方で読んで、それでも一週間ほどかかった。しかし、この著者、この若さで、こんな小説、キリスト教とユダヤ教、そして、その大元にあったと思われるユダヤ教諸派や、エッセネ派やグノーシス派が入り乱れ、初期の原始キリスト教の立ち上がりにかけての紀元前数世紀から紀元後1世紀ぐらいまでの史実を織り交ぜながら展開していく、これほどの物語がよくかけるなあ、というのが最大の印象。浅学な私にはどこまでが「史実」で、どこからが著者の「フィクション」か、わからないぐらい、少なくとも私の知っている死海文書の発見から現在までの経緯にかかわるいろいろな「事件」を使用している。思うに、死海文書が発見されてから、国際チームなるものが組織されたにもかかわらず、数十年にわたってその内容が公表されないできた、という事実そのものが、こういった「あらぬ想像」をもたらし、その想像からこの小説が出来たのではないか、と思える。そこに展開される「主題」は、「イエスは存在したのか?」とか、「イエスはユダヤ教徒だったか?」「洗礼のヨハネ」との関係は? 「エッセネ派との関係は?」と、未だに多くの謎を秘めている原始キリスト教の「謎」に置かれ、この著者は、この死海文書の「失われた巻物」を通して、次第に驚愕の真実が暴かれてゆく、という筋立てにしている。この著者がユダヤ教徒なのかどうか知らないが、(少なくともキリスト教徒ではないだろう、と思う。なぜなら、小説とは言え、この内容は、キリスト教徒に言わせれば「冒涜的」と言う以上に、キリスト教そのものの根幹にかかわる「異説」だからだ)、ここまで小説として書くことのできる「筆力」に驚嘆する。この本はフランスでベストセラーになった、と本の帯には書かれているが、なんとなくうなずける。それだけの「衝撃性」を持った小説なのだから。
2011.01.14
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今年も終わろうとしていますね。今年も2度日本へ行き、いつになく大量に本を仕入れてきたのですが、はっきり言って読めていません^^;まだ読んでない本が50冊ぐらいありそう・・・・毎日何かしら読んでいるのですが、何を読んでいるか、というと過去に読んだ本をまたぞろ読み返したりしている。好きな本になると、3回も4回も読んでしまう。同じ本を読むと、同じ箇所にまたインスピレーションを感じる場合もあれば、以前には全然感じなかった場所に、すごく意味を見出せたりする。要は、一度読んでも頭にはよく入っていないので、何度読んでも新鮮だ、という非常に得な性格なのかもしれない。しかし、興味がある本はなんど読んでも面白い。こういう本がだんだん増えてきているので、その本たちの間を巡回していたりする。でも、そろそろ買いこんできた本にも手をつけなければ・・・・。ということで先々週と先週は、三田誠広の「ユダの謎・キリストの謎」というのと ヘラン・エラーブという人が書いた「キリスト教暗黒の裏面史」という本を読んだ。別にキリスト教のアラを探しているわけでもないし、キリスト教を非難する目的で読んでいるのでもない。単に、あることを考える時には、それに関する異なる見方をできるだけ踏まえた上で自分の中での理解を育みたい、と思っているだけ。特に科学・疑似科学に関してはこの姿勢は絶対に欠かせない。それをキリスト教にもあてはめているだけだ。残念ながら、この2冊、いろいろと面白いことが多く書かれているが、何回も読もう、という気になる本ではなかった。なので、これで「積読」の山が2冊減った。さて、次は何にしようか・・・
2010.12.16
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誰が言ったのだろう、読書の秋って。なぜ秋が読書に向いているのか、今の時点で考えてみてもあまり思い浮かばないが、もしかしたら、暑くもなく、寒くもない秋という季節は、集中して何かを読む、というのに適しているのかもしれない。あるいは、なぜかもの憂げな季節である「秋」は、読書を通して人生を考えるに、最適な季節なのかもしれない。そんなまじめな読書ではなく、ここのところ、久しぶりにSF(サイエンス・フィクション)を読んだ。昔、中学、高校生のころはよく読んだものだが、大人になってからはあまり読んでいない。今回読んだのは、「タイムライン」というのと「コンタクト」というもの。どちらも映画になっているので、ご覧になった方もいるかもしれないが、私も映画の方は観ていても原作は読んでいなかった。原作者として、タイムラインの原作者の方がSFや冒険もので有名で、他にもジュラシックパークや、ロストワールドなどを書いているマイクル・クライトンである。方や、コンタクトの方は、小説家ではなく物理学者である、かのカールセーガンが書いた小説である。読む前は、やはりクライトンの方が本来の小説家なので、この原作も面白いのだろう、と思ったが、読んでみて驚いたことに、カールセーガンの「コンタクト」の方が圧倒的に面白かった。しかも、小説、という域、あるいはSFという範疇を度外視しても、このコンタクト、カールセーガンが、世の中に対して出す啓蒙書的な趣もある。なんの啓蒙か、と、それは一言では言えないが、文化、文明、宗教、思想上の、カールセーガンの主張を、この登場人物に言わせているのではないか、と思える。とくに、神と「宗教」に対する彼の舌鋒はするどく、彼自身、不可知論者ではないか、と思えるが、それはともかく、登場人物同士の神や宗教に関する議論を読むだけでもなかなか読み応えがある。しかも、この原作、映画とは大分違う。映画では、この深みは全然現れていないように思う。この原作にして、はじめてこの深さがわかろう、という本である。こうやって、秋の夜長を、好きな小説を読みながら過ごす、というのはなんと贅沢なことだろう、と思わずにはいられない。
2010.11.27
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日本に来て気がついたのだが、この楽天ブログの日記記入時、高機能エディタと普通のエディタの切り替えタブが付いた書き込み画面が出る。もちろん、これはアメリカで記入するときも一緒なのだが、アメリカに居ると,この画面が出るまでに30秒から下手をすると1分ぐらい時間がかかる。こんな状態では記入する方もいやになってしまうだろうな、日本の利用者は文句を言わないんだろうか、と思っていたのだが、日本で記入するときはなんと数秒でこの画面が表示される。これだったら実用上なんら支障はない。なぜアメリカだと、あんなに時間がかかるのか、インターネットの世界は全世界同じだというのが基本認識だが、動画の再生にしても、「この動画の視聴は日本国内に限られています」という表示が出て見られない場合も多々あることからすると、日本国内と国外では、たとえインタネットの世界と言えども、差があることは確かなようだ。それはともかく、昨日、2回目のBookOff 詣で。今回の「お買い物」は、文庫・新書コーナーの105円均一コーナー(笑)なにせ、本が膨大なので、とても一日では全部見られないから、コーナーを限定して数日に分けて足を運んでいる。で、今回の「仕入れ」は、1.梅田望夫 「ウェブ進化論」とその続編の「ウェブ時代を行く」 この本は、少し古いがWeb2.0やGoogleの躍進、そしてコンピューティング・クラウドの世界の到来を予測し、その変化の本質を考察した本で、今の現状と比較して面白そうだ。2.藤岡和賀夫 「懐かしい日本の言葉」 外国に居ると、やはり日本のことに興味が出る。そして言葉は文化である。自分すらよく知らない日本語のいろいろな言葉や言い回しの中に、日本の文化が息づいている。3.守 誠 「英会話・やっぱり・単語」 とは言え、やはりアメリカに暮らすには英語。これだけアメリカに居ても覚える言葉はビジネスに偏っている。日常英語の範疇ではお寒い限りなので、少しは補強を、と。4.ジェラルド・ジャンポルスキー 「ゆるすということ」 国際的に有名な精神科医であり、ヒーリングを実践する著者の、人の生き方・幸せというものを「ゆるす」という行為を通して考察した本。キリスト教でもなんの宗教でも、やはり「ゆるし」というものの真髄は、生き方、そして生きる幸せに直結するという意見では私も同意見なので、興味を持った。5.森永 卓郎 「本当の幸福を得る『唯一の方法』」 はっきり言って、この著者を私はあまり好きではない。またまた彼特有の独善めいた本かな、と思いながら手に取ってみたら、内容は彼自身の言葉ではなく、古今の経済学者や実業かの、彼らの経験から裏打ちされた言葉の数々の紹介と解説であった。ちょっと読んだら、なかなか中身が濃い。で、一冊の本を読んで、一つでも得るところがあれば良しとする私の本の選択基準からすると、文句なくパス。6.飯田史彦 「人生の価値」(文庫版) この本は、単行本で持っているが、日本においてある。今回は文庫本なので、アメリカ用。(笑)7.宇野千代 「中村天風の生きる手本」 こんな人間が日本にもいたんだ、という代表みたいな中村天風師について、その直接の薫陶を受けた宇野氏が、彼女の経験を元に書いた中村天風の本。これも、いろいろ考えさせてくれる本だ。8.歴史の謎をさぐる会編 「日本の三大宗教」 副題は、常識として知っておきたい日本の三大宗教ー神道・儒教・仏教、というものだが、これが日本の三大宗教か、という議論は別にして、確かに日本人の中には、これらの三つの影響が混在していて、日本人自身にも、いったい日本人の、あるいは自分の「宗教」はなんなのだろうか、と言われて明確に答えられる人はいないだろう。逆に「無宗教」と言っている人であっても、この三つの影響から逃れている人もまた居ない。あらためて、「常識」としての三つの宗教のあり方と今の自分のあり方を照らし合わせてみても無駄ではないだろう。9.ヘレン・エラープ 「キリスト教の暗黒の裏面史」 キリスト教圏において、こういった本を出版すること自体がだいそれたことであり、これがイスラム圏でのイスラム教関連だったら間違いなく殺されているだろう内容。しかし、宗教はともするとその「良い面」だけが強調され信者の獲得、信仰の醸成を図るが、真に「宗教」の実態を把握するには、その「負の側面」にも目を背けず、それを直視する姿勢は欠かせない、というのが私の持論。それこそ「科学時代の宗教のあり方」だと思う。また、これに耐えられない宗教は、今日あるいは将来の「宗教」足りえないのではないだろうか。今の日本には、そういった負の側面をマスコミへの圧力まで動員して消し去ろう、とする「新宗教」もあり、日本人の宗教感覚を疑ってしまうケースが多い。10.三田誠広 「ユダの謎、キリストの謎」 先日の「お買い物」にあった、「イエス・キリスト 失われた物語」と、1600年ぶりに発見されたキリスト教外典にも属さない「ユダの福音書」と合わせて、「人間イエス」あるいは「イエスの本当の教えとは」というものに興味がある私にとっては、読んでみたい一冊。副題は、「こんなにも怖い、真実の『聖書』入門」とある。これも、9で書いたのと同じ理由での選択。とにかく、上にも書いたが、私の読書あるいは読む本の選択は、その本を読んで、ひとつでも考えさせられるところがあり、一つでも自分の生き方に対して得るものがあればいい、というものなので、一冊全部に期待しているわけではない。それを通して、また一つ、自分の「世界観」「人生観」の構築になにかしら付け足すことがあれば、それで105円の価値は十二分にあるだろう。いや、それが105円などという、コーヒー一杯の値段にもならないお金で買えること自体がなんという幸福な時代に生きているのだろう、と感謝せずには居られない。8.
2010.11.01
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今なぜアインシュタインか?って、誰もそんなことは言っていない・・・。ただ、私が「誰でもわかるアインシュタインの相対性理論」という本を読んでいる、ってだけです(笑)この本「誰でもわかる」と銘打ついるにもかかわらず、相対性理論の説明はほんのわずかしかない。その結果を伝えるだけ。だったら確かにわかるもわからないもなく、そんなもんか、ということになる。で、じゃあ、この本の大部分は何に当てられているか、というと、アインシュタインのすごいところはいったいなんだったのか?という点におかれている。以前タイム誌が、20世紀を代表する人を一人挙げるとしたら、という特集を組んだことがある。政治、経済、産業界、芸術、文学、科学いろいろな分野があるので、その中でただ一人を選ぶのは難しい。しかし、あえて選ぶとすれば、ということで一位になったのは、このアインシュタインであった。彼の偉大さは、たとえば日本人でも、ものごころ付けば誰でも名前をしっていることでもわかる。他の偉人・賢人で、世界中で、名前が知られている人でも、ここまで浸透している人の名前はないかもしれない。そして、ただ名前を知られているということにとどまらず、彼の業績は、単に理論物理学のみならず、それまでの世界観を大幅に変革した、という点において、哲学はもとより、文学や他の芸術にまで大きな影響を与えた。依然として、彼の時間と空間に関する新しい認識は人々の常識にまではなっていないし、依然としてニュートン的な世界観の域を出ていないかもしれないが、それでも、本当は、という前提で、絶対時間とか絶対空間というものはない、という真実はいろいろなところに影響を与えている。そして、この本を読んだ私の感想のひとつとして、このアインシュタインの性格が非常に自分に似ていること!(笑)まあ、頭の出来やら、発想のすばらしさは比べるのもおこがましいが、性格だったら似ているかどうか、という範疇だから許されるだろう。子供に、俺はアインシュタインと性格が似ている、と言ったらばかにされたが・・・・。
2010.09.15
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めずらしく本を定価で買ってしまった。こちらにはBookOffのような古本屋がないこともないが規模が小さい。仕方がなく、近くの本屋へ行って、この本↓ を買ってきました。 「A Course In Miracle」 この本のことは大分前から知っていたが、さすがに英語なのでためらっていた。スピリチュアル系の本としては古典に属する本だが、いまだに圧倒的な支持を集めている本で、今日読んでいた別の本でも、ところどころで、この本が引用されていた。そこで、思い切って買ってみよう、ということになったのだが、買ったら$35。この日本のアマゾンで見たら¥2663円。 為替が85円としても、日本で輸入した本を買ったほうが安い、というのは、どう考えても納得できないが、まあ、いいか。ところで、この本、実物を初めて見たのだが、なんと1300ページを超える!!当然、すべて英語なので、これを見たとたん、がくっと読む気が失せてしまったが、せっかく買ったんだから、少しずつでも読んでゆこう。と言っても、いまだに英語の本で最初から最後まで読み通したのは、不動産エージェントの資格を取った時のテキストだけ。これも700ページぐらいあったが、今度はその倍近い・・・・。さてどうなることか。
2010.08.22
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よく、これからは心の時代だ、と言われます。確かに、戦後、日本を始め世界中が物質的な繁栄を追い求めてきて、今ではそれが、先進国のみならず、すべての国々に伝播している様相を呈しています。反面、物質的繁栄を一度は達成した先進国の中で特に、この「心の時代」が叫ばれる昨今になりました。いわく、物質的繁栄を追い求めて手に入れたものは生活の豊かさだったかもしれないが、その一方で、失ったものも大きい、という言い方で、その失ったものの代表として、精神的な豊かさ、心の豊かさ、人間性と言ったものが挙げられているわけです。それでもなお、一度経済的に豊かになった国がそういった傾向があったとしても、まだまだ経済的に貧困層が大部分を占めるような国ではそういった先進国の「繁栄の代償」やら「物質的豊かさへの反省」といったものは、単に「先進国だから」「すでに自分達は経済的な豊かさを手に入れたから」言えることで、だからといって我々開発途上国まで、同じような論理を展開するのは身勝手だ、という意識があるようです。でも地球温暖化の回避や二酸化炭素排出量の規制など、全地球的な問題として取り組まなければならなくなっている現在、それを先進国の論理として片付けられてしまうことにはあまりにも深刻な問題です。そしてこれは、先進国 対 開発途上国 という対立軸ではなくとも、日本の中でさえ、富める人と貧しい人の間でも同じような反目があるかもしれません。仏教でよく説かれる「足るを知る」の心は、そのどちらにも必要なんでしょう。なぜならば、その執着が全ての苦を生み出す、という仏陀の論理は今でも確実に通用するものだからです。そんな時、ほとんど世間には知られていませんが、行きがかり上、こんな本を読みました。 「12の菩提心」Amazonにこの本の読者のレビューが載っていました。↓ ****************************素晴らしい《名著》です。, 2009/11 基本的に私は、宗教関係の方々が苦手である。でも、この本の著者である高橋佳子さんは、《宗教》関係というよりも、むしろ《スピリチュアル》関係の方であるということで読んでみた。ところが、実際に読んでみると、これが予想以上に素晴らしい本である。今、自分に何が欠けているかに気付かされ、大変、勉強になりました。***************************** 私自身もあまり期待はしていませんでしたが、行きがかり上読んでみて、なかなか良い本だなあ、という感想です。こんな本がもっともっと読まれると、「心の時代」として、人の心がもっと豊かになってゆくような気がします。
2010.08.13
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人間の絆(基盤編) 人間の絆 高橋佳子著先日、日記に書いた「人間釈迦」を著した高橋信次氏の娘さんである高橋佳子氏の著書。GLA内では、GLAを創設した高橋信次氏と、この現在GLAを統括する高橋佳子氏の間の差異をもって、GLAから分離したり、袂を分かって別のグループを立ち上げている方々もいるようですが、確かに表現方法は変わっていても、両氏の目指すところは共通なのでは、と感じています。「人間釈迦」や他の高橋信次氏の著作が真正面から「神理」とか「法」というものを追求する立場で書かれているのに対し、高橋佳子氏の著書は、それを噛み砕いて、一足飛びにそこへ到達するのではなく、日常の生活の中で、何をどう実践していったら、結果として、高橋信次氏の言われていることに近づけるのか、という観点で書かれているような気がする。恐らく、ごく普通の人にとっては、このような生活の中での実践を具体的に記述している高橋佳子氏の方が理解が得やすいだろうが、一方で、非常に回りくどい方法というか、一部には若干こじつけ気味の部分があるようにも感じる。一部の人にとっては、このささやかな一部分の差異が受け入れられないのか、それとも、そんなものではなく、基本的な差異を感じ取っているためなのか、その辺はよく分からない。いずれにしても、GLAや高橋信次氏の娘、という肩書きを抜きにこの本を読んでみれば、ごく普通の(普通、というと語弊があるかもしれないが)スピリチュアル系の本としてすんなり読める内容ではある。一部には、仏教やキリスト教のいいとこ取りをして、という言われ方をすることもあるが、そのどこがいけないのだろうか。既存の宗教が、その限界を露呈していることとは、その宗教そのものを全否定することではない。逆に、数千年の人間の歴史の中で、いくたの偉人・賢人をもその中に含みこんでいった深さは、やはり大宗教の大宗教たる所以でもあるし、そこに、さまざまな智慧を学ぶことができることは確かだろう。この本は3巻からなっており、まだ一巻目を読み始めたばかりだが、意外と(予想よりは)すんなりとした内容になっていると感じる。先日書いた「実験」とも関連しているので、ここはじっくりと読んでみたい。
2010.07.30
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「時間を哲学する」という本を読んでいて、面白いことが書いてあった。題名からして、この著者はいわゆる「哲学者」なのだが、その彼が、「哲学者がさももっともらしく『本当の』とか『真の』とか言うときは気をつけなければならない」「なにかを言うときに、『本当の』とか『本当は』とか、『真の』とかつけるだけで、さもその後に書くこと、言うことが高尚な内容に聞こえることがあるからである。」というのだ。考えてみると確かにそうだ。例えば、「俺に言わせれば『本当の』幸せってのは・・・・」とか「皆、xxを祈りだと思っているかもしれないが、『本当の祈り』とは云々・・・」「自分でわかったつもりになっている人が多いが、『真の』知識というものは・・・」などと言うと、まず世間一般で言われていることや、常識的に捉えられている解釈とは違って、より深く考えると、あるいは、一段高いレベルから考えてみると、ということで、さも大層な考えを説いているように聞こえる場合が多い。これはなんにでも言える。「本当の」宗教、「本当の」信仰、本当の「真実」、「真の」幸福、「真の」善、などなど、そんなものはないかもしれないのに、あるいは観点が違うだけかもしれないのに、言っている本人はそれが「本当の」とか「真の」とか思っているだけだ。しかし、こういう言い方は、その言っている本人が、本当にその「本当の」とか「真の」というものを知っている、という前提で話すから始末が悪い。聞くほうも聞くほうで、「ほお~、それが『本当の』〇〇というものか、」などと関心してはいけない。下手をすると「これは良いことを聞いた」と、聞きかじりのままに、他の人に向かって、またまた「本当の」〇〇ってのは、こうなんだよ、なんて知ったかぶりをする人が出てくる。人があることを「幸せ」と感じているとしたら、それに向かって、「でも『本当の』幸せってのはそんなもんじゃない。』と言ったって仕方がない。なぜなら、「幸せ」はその人の主観であるからだ。私など、よく本を読むと、非常に斬新な考え方をする人がよく見つかる。それを知っただけで、さも自分が得をしたような、ひとつ偉くなったような気になってしまう。自分も、そんなことを「本当の」何々ってのは・・・、なんて言っていないだろうか。よくよく気をつけなくては・・・・・。
2010.07.07
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一昨日書いた「人類は『宗教』に勝てるか、という本の前書きは、「皆さんは、人類の最大の敵はなんだと考えているでしょうか」といった内容で始まる。当然「戦争」だとか、「環境破壊」だとか、いやいやその大元の原因を作っている人間の欲望こそが最大の「敵」だとか、いろいろあるでしょうが、著者はそれを「宗教」だとしてこの本を書き始める。元僧侶なのにキリスト神学を学び、宗教的生活にどっぷりつかりながら、人間にとっての信仰の恩恵をも肯定する著者があえてこのように「宗教は人類最大の敵」とすることに驚きながらも、著者のいわんとすることを追ってゆくとその背景が理解できてくる。はしょってしまえば、この著者の対宗教観というものは、驚くほど私自身のそれに近く、読んでいて、元僧侶にして神学を大学で勉強し、比較宗教学を講じる大学教授で、これほど自分と同じような考え方を持っている人がいることを知って、ある意味うれしく思ったほどである。その端的な例が、たとえば、彼自身の子供たちに信仰あるいは宗教の持つ良い面を学んで欲しいと考え、彼らを教会に通わせていたが、ある日、その教会が「キリスト教以外の宗教は邪教だ」との考えを子供たちに教えていることをしり愕然とする。あるいは、日本の隠れキリシタンを題材に、大学でゼミをしていると、日系の女子学生が泣きながら、彼女の母がいくら話しても仏教を信仰し、毎朝仏壇を拝んでいる、このままでは彼女は地獄に落ちてしまうので、どうしたらよいか、と相談を受ける。根底には、全ての既存の宗教、特に「一神教」は、その成り立ちからして不可避的に「排他性」をもち、独善にはまることを避け得ない、ということをいろいろな例と資料を駆使して説明した上で、実際の「宗教」のそういった影の部分について、とことん突っ込んだ思索を進める。一方では、宗教の持つ、あるいは信仰がもたらす恩恵も、自らの体験を元に読者に訴えることも忘れない。ただ、「現在の」宗教のあり方がそのままであれば、その恩恵をも台無しにして有り余るほどのマイナス要素を持つ、というのが著者の立場であり、それは、私がいつもキリスト教に感じる「排他性」の問題と密接につながり、あえて著者はキリストの愛は常にサタンとか人間の罪と行った影の部分を前提とした二元的な愛である限り、限定的な愛にならざるを得ない、と断ずる。古くは、ユダヤ、イスラム、キリストの各宗教間の確執や、キリスト内部でのカソリックとプロテスタントの軋轢、またプロテスタンティズムの持つ、どうしようもない独善と排他性、たとえばルターの狂信的とも言えるユダヤ憎悪などを例に挙げながら、そのようなものを必然的に持たざるを得ない宗教がなぜに「愛」の宗教たりうるか、と疑問を呈し、同時に現在の世界の状況を、そういった宗教観あるいは宗教に根をもつイデオロギーの相克と見て分析してみせる。その分析のひとつひとつはいろいろと違った見方もあるだろうが、これを一つの見方ということで見てみると、そこにはそれなりの納得性も存在する。対比して、著者は、日本の古事記などに現れる自然崇拝系の考え方や、仏教の中で言われる人間と自然のかかわり方にも言及しながら、特に現在の世界の多数派を締める世界宗教の問題点を指摘しつつ、彼自身の立ち位置を、あるいは考えを書き綴っている。聞いたこともない著者であり、ふとタイトルに惹かれて読んだ本であったけれど、読んで良かったと思える本であった。早速、最近お近づきになったBook Off One Lineで、同著者の他の書籍、特に、この本が書かれた以降の最近の著作を探しにかかっている。
2010.06.07
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私の本棚を公開します。これです⇒ 「リンロンの本棚」 これは、沖縄の チタチタさん がご自分のブログで紹介していたものを早速使わせていただいています。(チタチタさん、ありがとう!!)まだ結構登録に時間がかかるので、登録したのはほんの一部ですが、頭に残っているものを思い出し思い出し入力するだけですでに150冊を超えてしまいました(笑)どうりで、本棚の棚が重さで壊れてしまったはずです(汗)小説の類はまだぜんぜん登録していませんし、経済の本、不動産の本もまだほんの一部だけです。でも、頭に残っているのを登録しているので、他の本はあまり記憶にない、ということですから、たいした内容ではなかったのかも知れません。ただ、この後、実際に本棚を見ると、いやいや、まだ登録しておきたい本がたくさんあります。おいおい追加して行こうと思います。ジャンル別、あるいはタグ別でも検索できたり、評価の高いものだけを引っ張り出すこともできて、なかなか便利です。評価の高いものからでも、コメントを徐々に追加してゆこうと思います。この本棚、左のフリーページに「私の本棚」として、リンクを張っておきます。
2010.05.09
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昨日にその(2)を書く、と言ったので書くつもりになっているのですが、すでに読後感が薄れつつあります。(汗)結局第一巻は昨夜読み終わりましたが、大きな印象では変わりはありません。昨日書かなかった印象というか、感想をいくつか書きます。その一つは、この本は、読む人によっては、非常にとっつきにくい本だと言うことです。読んでいると突然、「実在界」とかいう言葉が出てきて、これを「来世」とか「霊の世界」ということを知っている場合はそのまますんなり行くのですが、そうでなければ、ここで「なんだ?」ということになってしまいます。あと、高橋信次氏は、やはり小説家ではないので、どうしても普通の小説のようには読めない。ゴータマの考えを記述している中で、突然、氏の考え方のようなものが入ってきて、ここはゴータマがこのように考えた、として書いているのか、それとも、氏が個人的な意見として書いているのか判然としないところがある。どちらにしても、書いているのは氏なので、すべて彼の考え方からしか出てこないわけだから、この際、書いてあることは全てゴータマが考えている、という形にしたら良いのに、と思ったりする。つまり、ゴータマが知っているはずのない、イエスのことやモーゼのことが出てくるので、ここは当然、氏自身の考え方なのだろうけれど、ゴータマが考えていること、という受け取り方をしながら読んでいて、突然、(その時から見たら)未来のことや、我々が生きる現代のことが出てくると、あれっ、と戸惑ってしまい、流れが途切れてしまう。まあ、それは横に置いておいて、ひとつ気になる事がある。こういった人(おそらく高橋氏自身もそうだったと思う)が、自分の霊性を認識し、実在界の存在と現象界(この世)の関係などを、その超常体験を通して理解し、それを元に現象界での人間の本来の生き方を悟りかつ人々にも知らしめて行く、というのが宗教者の常なのだが、そこでの「体験」の真実性をどうやって確認するのか、という点である。この本にも書いている通り、人間がこのような超常体験をする場合に、その人それぞれの霊的レベルによって、その体験が変わってくることはまず間違いないだろうと思う。そして、場合によっては、「魔」と言われるものが憑いたり、動物霊や人間の浮遊霊が憑くこともあると思われる。問題は、その場合でも、決して「魔」が憑いたり「邪霊」が憑いたりしたと、その人には認識させないで、さも高級霊として、その人に認識させるのが普通だ、ということだ。この「魔」とか「邪霊」の正体も分かっているが、その人にとっては、自分の体験に基づくものだから、なおさら、これが「偽りのない至高体験だ」と思ってしまう危険が常につきまとう。だからこそ、仏教などでは、座禅や瞑想の結果としての超常体験を非常に注意深く扱っており、その体験を以って間違っても「舞い上がったり」しないように、きちんとした指導のもとに行わないと危険だ、と言われている。そんな指導もなく、いたずらにこういった体験をした人が舞い上がって「私は神に会った」だの、「高級霊の指導を受けた」だのと言って、早速ほかの人に「この世の真実」を説き始める人が後を絶たない。今の日本でも、〇〇の科学とか、XX会とか、△△協会とか、そんな人が立ちあげた「新」宗教、「新々」宗教がたくさんある。〇〇の科学など、その指導者がこういった「霊言」集をいくつも出しているし・・・それもこれも、それぞれの人が、自分が自ら実際に体験したことだから、というだけの理由で、それを唯一絶対の「真理」だ、と誤解することに起因する。ではこれらの人と、このゴータマの経験はどこが違うのだろうか?自分の超常体験の中に現れる存在、それは神かもしれないし、高級霊かもしれないし、菩薩、如来、イエス、モーゼ、なんでもいいのだが、その存在の真実性をどうやって確認できるのだろうか?たぶん、それを確認する手段はないに違いない、と私は思っていて、それでも、その中のいくつかは、本当の真実を表しているに違いない、とも、同時に思っている。その判断基準は・・・・・私なりには持っているつもりである。(ここでは書かない)でも、それを持っていないで、こういった超常体験をする人が何人も現れ、雨後の竹の子のように、様々な考え、様々な教えを説く、いわゆる「教祖」というのが現れてくるのだろう。その「霊」が言った事と、他の人が同じような体験から聞いた内容が違っていても、そんなことは意に介さない。なんとなれば、その人は、自分の体験こそ「唯一の真実」だと思っているから・・・。では、このゴータマの場合はどうか? いや、高橋信次氏の描く、高橋信次氏の経験、体験を反映した「人間釈迦」はどうか?その「判断基準」を以って、この人間釈迦の第2巻以降を読んで行きたい。
2010.05.06
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順番からすると、先に読んだ高橋佳子氏の「二千年の祈り(イエスの心を生きた8人)」の感想を先に書くべきなのだが、その後に読んでいる高橋信次氏の「人間釈迦」について先に、一言だけ書いて置きたい。 「二千年の祈り」高橋佳子 「人間釈迦」高橋信次この本は全4巻で、今一巻目。まだ先は長いので、この後時間が経ってしまうと感じたことを忘れそうだからです(笑)高橋佳子氏の「二千年の祈り」-イエスに会いたかった! については、またそのうちに書きたいと思います。で、この人間釈迦。これについてまともに書いたら、この本と同じくらいの分量になってしまいそうで、とてもじゃないけれど書けません。なので、いくつかのポイントのみ書こうと思います。まず、釈迦、あるいは仏陀として知られるゴータマ・シッダールタについては、イエスと同様、いろいろな本がある。漫画でも仏陀の一生みたいなものが出ている。イエスがたった数年しか歴史の表舞台には出てこないのに対し、ゴータマ(釈迦は釈迦族の名前だし、仏陀は「悟った人」という一般名詞なので、ここではゴータマとする)は、年代的にはイエスよりも数百年古いにもかかわらず、出生からその死まで、切れ切れとは言え記録が残っている。だから、その人生を書こうと思ったら「伝記」のような形で書けるとは思うのだが、この「人間釈迦」は伝記ではなく、どちらかと言うと吉川英二や司馬遼太郎が歴史上の人物を主人公に物語を書いているような形で、ゴータマを一人称で扱っている。イエスにしても、ゴータマにしても、こういった人を一人称で書く、というのは大それた、という以上に、考えてみるまでもなく、とんでもなく難しい。書物や伝聞として残っている以上に、その時々で実際に物事をどう捉え、どう感じ、どう考えたか、ということを、実際の私たちが感じ、考えるような形で書くのだから、仏教思想やキリスト教の神学を体系的に書くよりも、もっと難しい。下手をすると、こんなこと「あの」お釈迦様が言ったはずはない、感じたはずはない、こんな考え方をしたはずがない、というのが後から後から出てくること請け合いだから。そんな「大それた」ことを、この高橋信次氏はやられている。私が知っている限りでも、ゴータマの生き様、考え方を一人称で書いた本というのはこれだけではないか、と思う。(もし他に知っている方がおられたら教えてください)それも、この高橋信次氏は仏教者でもなく、キリスト教徒でもなく、電気工学を専攻し、コンピュータ関係の会社の経営者である!!しかし、世間一般には、その経営者としての顔よりも、GLAの創始者、宗教家としての方がよっぽど有名で、自分で予言したとおり、48歳で若くして亡くなった後も、その信望者の方は多いと聞いている。前置きが長くなってしまったが、これからが読書感になるわけだが、すでにブログとしては長くなってしまった。この日記をその(1)として、その(2)を続けて書こうと思うが、一点だけ、最大の印象を述べさせてもらえば、「よくここまで書けるな。ご自身が臨死体験やら体外離脱などの超常体験をされてことは聞いているが、その体験がここにかなり生きているはず。だとすると、そのご自身の体験というのは非常に、ここに出てくるゴータマの体験と相通じるものがあったはずだ」ということがひとつ。もうひとつは「しかし、ここで言われているゴータマの『悟り』にいたる修行と瞑想による神秘体験がいわんや事実だとしても、この程度の体験をした人は他に何人もいる。霊界の階層構造、魂の輪廻、縁起、因と果、カルマ、神の存在意義、人間の地球における役割・・・。こういったものは、私のもつ「世界観」とほとんど変わらず、新しいものはなにもなかった」「つまり、ゴータマの偉いところは、この「悟り」にいたる経験や思想ではなく、おそらく、それを『どう人々に対して広めて行ったか』という実践部分にあるのだろう」ということ。今、一巻をほぼ読み終わり、ゴータマが出家して悟りに至ったところまでは読んだ。この「悟り」の内容に関しては、知識としては私が今現在持っている世界観を一歩も出ていないが、おそらく、この後の2巻から4巻でのゴータマの布教活動(というか、人々を救う、という活動)にこそ、私が学ぶべきことがあるのだろう、と思う。
2010.05.04
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今日は、私の愛読書のご紹介。と言っても、いつもここに書いているような硬い本ではなく、ときどき息抜きに読むのに丁度よく、しかも、内容的には私の趣味にぴったり合っている、という本です。その本と言うのはこれ。↓ 「トンデモ本の世界」あるいは、こんな続編も↓ 「トンデモ本の逆襲」 もっとも、この本、初回から結構評判がよく、「トンデモ本」という言葉さえ定着したぐらいなので、その後も何冊も続編、続々編や姉妹編が出版され、その数は今現在10点を越えている。私が持っているのはそのうちの5冊ぐらいだが、とにかく面白く為になる本です。内容がすっとんでいる本を選りすぐって、その本のどこが「すっとんでいる」のか、というのを親切に解説してくれるのだが、何もそれらの本を批判する、という立場で書かれたものではない。この「トンデモ本」シリーズは「と学会」という私的グループが趣味的にやっているもので、もう10数年に渡って、この手の本を会員が手分けして(というより、それぞれの会員がその人それぞれの興味から勝手にいろいろ本を読んで)その書評を書くのだが、その視点は常に、「いかに笑えるか」という、ともすると正面からの「批判」よりも、たちが悪く、つっこみどころ満載の本を取り上げて、突っ込みながらも、それがどれだけ独創的な「すっとんでいる内容」か、ということを基準に、評価していくのである。その対象となる本の多くは、その主旨から言って、著者は大真面目で書いているものが多いが、時々は意図的に内容を捻じ曲げている本もある。この本を読むと、いかに世の中には、さも真実を語っているような体裁で、実際の内容はとんでもない、という、その名の通りの「トンデモ本」があふれているかがわかる、そのトンデモなさは、出発する事実の誤認、時には捏造から始まって、論理のすり替え、飛躍、そして結論ありき、の強引な話の展開などなど、まちがって気軽に読むと、どこからそんな話になって、あんな結論になったのかが分からないほど巧妙な本もあるほどである。世の中で話題になった本で、その槍玉にあがった本も多い。ベストセラーだからといって内容が確かである保証もなく、そういった本に対しても、必ず一歩引いて読む癖をつけるには絶好の頭の体操になること請け合いである。
2010.04.03
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先日の日記で、このところ読んでいる本に関して、>実際には私たちの頭は(いや、私自身の頭は、と言って方が正確かもしれない)、いまだに20世紀にも至らず、19世紀の古典力学、つまり私が30年以上も前に高校で習った物理の範囲を一歩も出ていない。と書いた。これはもしかすると今の高校で教えている事も大して違わないかもしれない。これだけ科学の最前線が進化し続けているにも関わらず、学校で教えている内容がそれに応じて変わっていかないのは少しおかしい。でも、おそらく(上の推測が正しいとしての話だが)その理由というのは、相対性理論以降の科学の進歩を教えられる教師がいないためではないだろうか。よく、相対性理論が発表された当時、これを理解できた人間はほとんどいなかった、と言われるし、量子論などは今現在でさえ、これを本当に理解している人間などどこにもいない、と物理学者自身が言うほど、それを理解する事は難しい。それは、古典力学の範疇では、その内容は数学が難しかろうがなんだろうが、少なくともその結果というものは私たちが日常経験する事象を説明し、それを理論づけてくれる類のものだったのに対し、相対性理論や量子論は、私たちの経験からくる物事の在り方とある意味、対立するものだからだろう。特殊相対性理論では、等速運動中の視点から、一般相対性理論では、これを加速度運動中の視点へと広げたが、その対象となるのは非常に大きな質量であったり、光の速度に限りなく近づいて初めて理論が現象と一致することが確かめられるが、そうで無い限り、それを感覚的に受け入れる事は非常な困難を伴う。誰でも、走る車からボールを前方に投げたら、そのボールは止まっている人から見たら車より速いということは知っている。あるいは、ある人が電車に乗ろうと、飛行機に乗ろうと、その人にとっての時間は、地球上にいる限り私たちと同じように流れる、ということを前提に生活している。これが成り立たない、つまり相対性理論の説明が実際に見えるような世界・・・そこでは距離や長さがその速度によって縮まり、流れる時間の速さが速くなったり遅くなったりする世界といったものを私たちは想像することすら難しい。しかし、これはまだ何とか光速度不変という前提を持ち続ければ、理解できるような気がするが、量子論の世界になると、この現実世界とのギャップがもっと大きくなる。光が粒子であると同時に波である、ということから出発し、電子も同様だとわかり、挙句の果ては、すべての物質は粒子と波動の両方の性質を併せ持つ、ということは、どう考えてもすんなり理解できないし、イメージすることはさらに難しい。もっと言えば、全ての粒子/物質は粒子であると同時に波動性をもつ、というよりも、全ては波動であり、それが粒子という形で現象として現れる、という風に考えたほうがより真実に近い、というに至っては、なにをかいわんやである。しかし、私たちの現実生活への影響、という観点でみると、相対性理論よりは、このよけい訳のわからない量子論の方が決定的に大きく、今や私たちの生活は、この量子論から生まれた成果に囲まれており、それなしでは生活できないレベルにまで広く行き渡っている。つまり、半導体であれ、それを使った機器であれ、パソコン、インターネット、こういったものは元をたどれば、この量子論の成果だからだ。そして、この量子論は不確定性原理とあいまって、私たちが見る現実・現象というものが「観測者」の視点・影響を抜きには語れない、ということまで明らかにし、そうなると、人間が観測した結果から理論を組み立ててきた科学の根本において、そこに限界があることを示されてしまった。また意識の介在、ということも科学的な探求の中で避けて通れなくなりつつある。「私たちに、何がわかっているのか」でも書いたように、今の時代は、今までの「常識」が徐々に崩れてきているその最中に私たちは生きており、これらのことを指して、新しい「意識」の時代、新しいパラダイムが生まれる時代、という考え方をし始めている人が多い。でも、これが、例えば高校の教科書で、その時代に生きる人間としての「常識」として教えられる日はいったい来るのだろうか。
2010.03.25
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今、この時代というものに生きて幸せだな、と思えることがたくさんある。日本人としてならば、これだけ長期間戦争もなく、いろいろ経済的な問題は次々起きるにしても平和が続いていること。世界を見渡せば、それこそいまだに戦争、もしくは戦争同等な状況にあるところが少なくないのであまりノー天気なことは言えないが、実際に自分としてみればいかなる戦争も経験していない。また、いろいろ本を読みながら思うに、これだけ自由に好きなことを書籍を通して知りうる、ということも、人類の歴史を考えてみれば驚異的な幸せだと思える。例えば、思想、信条、信仰などの自由にしたって、それが公に認められたのはほんの数十年前に過ぎないし、今でさえ世界を見渡せば、それさえも享受できないところも多くあることを思うと、いかにこれが恵まれたことであるか、がわかる。つい100年前を考えても、この手の自由度は格段の差だし、流通する情報の多さは驚異的に拡大しているし、それが自分の生き方や考え方に与えた影響を考えると昔ではとても考えられないレベルになっていると思う。先日日本に「出張」し、いつものごとくBook Offで本を大量に買い込んで帰ってきた。これらの本がたかだか105円で入手できるなんて、本当に信じられない幸運だ。買ってきた本たちは、「キリスト教のことがよくわかる本」「格差社会の結末」「どの宗教が役にたつか」「せっかくやろうとおもっていたのに・・・」「トランスパーソナル心理学入門」「カトリックとプロテスタント」「生きがいの探求」などなど。。。やっと数冊を読了。それぞれに感想を書けば切りがないのでやめるが、がっかりした本も中にはあるし、読んでよかった、という本ももちろんある。しかし、どちらにせよ、始めに書いたように、本屋にぶらっと寄れば、読みたい本があり、それをさくっと買ってくればそれが読める、というのは何と言う幸福だろう、としみじみ思う。
2008.03.21
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教会に有ったのでふと借りてきた本、灰谷健次郎著 「優しさという階段」↓を読む。あまりこの手の本は読んだことがなかったが、なかなか考えさせてくれる本であった。もっともかれこれ17,8年前の本なので、今の世の中の状況は、ここで書かれていることに関して言えば、もっと憂慮すべき方向に悪化しているのではないか、と思う。著者は林 竹二氏の言った「生命に対する畏敬だけが、教育を可能にする」という命題の追求が自分の生活になった、と語る。おりしも、ミャンマーで記者が銃殺された時の日本政府の対応の報道、はたまた、相撲部屋で親方が率先して指示したリンチによって17歳の若者が死んだという報道、はては、死刑判決を受けた死刑囚への死刑執行は自動化できないか、という新法相の言葉・・・・どれもこれも、生命の軽視以外の何者でもない、と感じるのは私だけだろうか。そして、教育!とか徳育!とか倫理!とか、叫び、「今の若者は!」とか言っている当の大人たちの中の寒気がするような生命軽視の風潮。私自身も、ややもすると、軽く流される報道に、軽く納得してしまう恐ろしさ・・・本来の教育とは何か。知識の詰め込みでもなく、社会への順応性の育成でもなく、またよく言われるような単なる「知恵」の醸成でもなく、その根幹に生命への畏敬がなければならない、とする著者の立場。子供を持ち、つい子供には「現代社会の要求に応える」人間づくり、すなわち知育偏向を強いてしまう親としては、本当に考えなければならないことはなにか、を考えさせられる。まずは考える必要があるのは、自分自身のそういった生命に対する考え方そのものだろう。このところの相次ぐ政府首脳陣の失言といったものも、もとを正せば、つい「本音」(と言って悪ければ、いつも考えていること)が出た、というだけに過ぎないのだろう。それだからこそ、問題の根は深いのだが・・・・
2007.10.01
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先日、「預言者と予言者」という日記で、三浦綾子氏のご主人が三浦朱門だ、というようなことを書いてしまい、まったく恥ずかしい話だが、これは単純に誤解でした。三浦綾子氏が、その本「旧約聖書入門」の中でも、なんども「主人の三浦が」と書かれていたし、その「三浦氏」がクリスチャンでもあることから勝手に混同してしまった。本当は、三浦綾子氏ではなく、曽野綾子氏のご主人が三浦朱門でした。日記は訂正しませんが、ここで訂正しておきます。しかし、それがきっかけで、今は曽野綾子氏の本を立て続けに読んでいる。まずは有名な本にも関わらず今まで読んだことがなかった「積み木の箱」、そして続いて、「不在の部屋」という本。どちらも大分昔の本だが、どちらにしても氏の本を読むのは初めてなので、そこはあまり気にしていない。「積み木の箱」の方は、初期の作品のためだろうか、テーマに対してかなり単刀直入に書かれている。分かりやすいが、その分、どちらかというと「作られている」小説、という感じがしないでもない。しかし、この「積み木の箱」はともかく、「不在の部屋」の方は、内容がなにかしら、今現在私が日々考えていることにかなり関係している。曽野綾子氏がクリスチャンで、その内体験を下に書いているのだろうか、ある修道女の心の軌跡を描いているのだが、なかなか考えさせてくれる。そして、今日の日曜日の教会での説教の内容もオーバーラップする。その内容は、直接的ではないにしろ、「幸せとは感謝の気持ちを持てること」ということに結びついている。それは、行為でもなく、目標でもなく、「あり方」そのものだからだ。
2007.07.23
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昔に買っていた本で、読んでいなかった、インドの思想・宗教関連の本を読み始めています。一つは、クリシュナ - パガヴァット・ギーターもう一つは、カルマ・ヨーガどちらも重いので、ちょっと読んでちょっと感想、というわけにはいかない。第一、特に始めのパガヴァット・ギーターの方は、ちょっと読んでもなかなか頭に入らないので、読み通せるのかさえ定かではない。しかし、書いている、堀田和成という人がクリスチャンで、キリスト教の神を唯一神と信じていながら、このインド古来の大叙事詩に、キリスト教の神との共通点を見出し、それを持って聖書の内容がより深く理解できるようになった、と書いてあるので、とにかく、そのような観点を持った人がどうこれを受け止めたのか、という点に興味がある。読んだ後に感想を書くかもしれないし、もしかしたら、このままかもしれない・・・
2007.06.20
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マザー・テレサに関しては、一般的に(そんなものがあるかどうかは疑わしいが)知られていることしか知らない。曰く、一生を信仰と奉仕にささげた人、ノーベル平和賞の受賞者・・云々。先日、キリスト教の立場から書かれた「世界情勢」の本で、あまりの独善性にいやけがさした手前、今回また借りてきたこのマザー・テレサの本を読むに当たって、ある種の「恐れ」があった。世界中で聖女として評価が確立し、あらゆる宗教の人がその葬儀に列した、この現代の奇跡とも言える人の語った内容に対して、自分がいかに反応するか、そこに一抹の不安があったのだ。読んだ本は、「マザー・テレサ 語る」 早川書房 ルシンダ・ヴァーディ編 ↓この本の中で、マザー・テレサが語っている内容で、私が普段キリスト教に抵抗を感じる部分と共通のものがあったら、自分がどう感じるか。もし抵抗を感じる部分があったとしたら、自分が「神」とか「信仰」とか「宗教」に関して感じていることが、ある意味偏った、あるいは狭い見方から来ているのではないか、という「不安」である。それはひとえに、このマザー・テレサに関して定着している世界中の人々の評価に相反することになるかもしれないからである。しかし、この「恐れ」も「不安」も杞憂に終わった。全然ないのである。彼女が語る、「信仰」「愛」「奉仕」「平和」・・・・・これらに対して、私の中には共感と感動こそあれ、反発するところも、抵抗を感じるところもまるでない。彼女の哲学(と言っていいのかわからないが)は、非常にシンプルである。「沈黙が祈りを呼び、祈りが信仰を呼び、信仰が愛を、愛が奉仕を、奉仕が平和を呼ぶ」これだけ。これ以外のことに、彼女はなんの制約も規律も、ましてや強制も持たせないし、考えもしない。そして、その実践に、その生涯を神に捧げ、神の愛に包まれて、喜びの中に天寿を全うした・・・あとがきに、彼女の手を握った人の話が出てくる。「なんと言っても印象的なのは彼女の手だ。農夫のように大きくて、ふくよかで温かかった。その温もりに言い知れぬ感動を覚えたものだ」すごく分かる気がする。もし、私が本当にこの人の手を握る機会があったとしたら、それだけで涙がこぼれてしまうのではないか、という気がする。しかし、今、彼女はすでにいない。人類はいまだに彼女の努力に関係なく、彼女が望んだ世界からかけ離れた方向へどんどん行っているような気がする。この本に書かれたいろいろな彼女の言葉が脳裏によみがえってくる。
2007.06.05
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教会から借りてきた、「これからの世界情勢と聖書の預言」という本を読んでいる。↓高木慶太・芦田拓也 共著 いのちのことば社この「いのちのことば」社というのは、この本に限らずキリスト教関連書籍を出している出版社のようだ。さて、「読んでいる」と書いたのだが、これを最後まで読めるかどうか、はなはだ自信がなくなってきた。たかだか260ページぐらいの本だし、内容が難しい、ということもなく、ごく平易な書き方がされている。なのに、なぜ自信がなくなってきたのか、というと、「読み続ける意志」がなえそうな気配があるからである。この本の最後のページにはこうある。「キリストは死なれた-それは歴史である。キリストは私のために死なれた-それが救いである。あなたも今、自分の理解の範囲内において、キリストを救い主として受け入れてはいかがだろうか。今その場でこのように短く祈られてはいかがだろうか」と書いてあるが、これからすると、この本はキリストをいまだに受け入れていない人をも対象にした信仰への勧誘書でもある。書いている著者も牧師であり、アメリカの神学校を卒業されている方々である。しかし・・・・表題にもあるように、世界の情勢(と言ってもイスラエルを中心にした中東情勢と言えなくもないが)と、それに関連する聖書の預言をとりあげて、キリスト教的世界観の中での最後の「御国」の実現を語っているのだが・・・反発を受けることを覚悟で言えば、この本を読んで愕然としたことは、聖書の預言が今まではことごとく成就された、という言説でもなく、聖書の記述と実際の歴史の整合性でもない。私が愕然としたのは、その説明のスケールの小ささと、その背景として語られる「聖書」あるいは「キリスト教」の理念の狭小さである。こんな狭い心で世界の、この世の中の「真理」ましてや「神の意志」が語られることに、いいようのないむなしさを感じてしまい、読むのが辛くなってきてしまうのである。そこに語られる「神の意志」は「分離」であり、「救い」と言う名の下の「特権」であり、排他性であり、罪とさばきである。この本が、キリスト教信仰を勧める書として書かれたのなら、その一部は完全に失敗に終わっていることはあきらかで、現に私などはキリスト教への反発を強めこそすれ、この本を読んでキリスト教への傾斜を強めることになった部分は皆無であった。なぜならば、これは「対立」を、「反感」を、「分離」を、「脅しと救い」をキリストの名の下にとくとくと「神の正義」として論じているからである。私の考える「神」がもしあるとしたら、それは「一体」であり、「全的な愛」であり、「統合」であり、「全知」であり、「神の計画」そのものも、もっともっと深遠なものとして、人間の「欲」や「勝手な都合」とは無縁のものである。「聖書」の語る「神の御国」が、中東のたんなる一部であり、それが「選ばれた民」としての「イスラエル人」と、「キリストを信じる」一部の人間「だけの」のものであるはずがない。キリストを信じないものは「不信人」なもの、と判定されるそうだ。この本によると、そういった「不信人」な人は神の裁きによって全て死に絶えるそうである。だから、キリストを信じたほうがいいですよ、と言う。この「特権」志向、「選民」志向、罪と罰の論理の行き着く先は見えているではないか。ある意味、これこそが過去数千年に渡って、人類を「分離」と「闘争」の歴史に巻き込んだ思想ではないか。人の中の「信仰」を否定するつもりはさらさらない。が、いったん、それが社会とのかかわり、地政学的な意味合いを帯びたとたんに生み出される結果については、我々は過去の過ちから学ぶということを徹底してやらなければならないと思う。<追記>結局読むことを断念しました。理由はああきらかです。「なんという独善!」これに尽きます。この本に書いてあることを簡潔にまとめると「聖書は真実の書である」⇒「キリストは最後に審判を下す」⇒「キリストを受け入れないものは、どんなに良い心を持ち、よい行いをしたとしても、その人は地獄へ落ちる」⇒「それがいやならキリストを信じなさい」というもの。私のキリスト教に対する「悪いイメージ」をそのまま極端に出したような本でした。ここまで私が書くのは「普通」ではありえません。それだけ強烈でした。逆に、こういった考えの人が牧師をし、人々をキリスト教への入信を進めている、という事実に暗澹とした気持ちになります。キリスト者の、この本を読んだ感想を聞いてみたいものです。
2007.05.30
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ガンとの闘いに敗れ、医者から転移・再発を宣告された末期ガン患者の中高年男性の面接調査を行ったところ、ある意味、意外な「共通項」が浮かび上がってきた。 大方の予想に反して、少なからぬ人々が語ったのは、恐怖心ではなく、ある種の安心感だった。「安堵の思い」とでも言ったら良いだろうか。ーーーーーーーこういう出だしで始まる、「男をやめる」という本を読んでいる。まだ読み終わってはいないので、全体の話は出来ないが、要点は、今の男性は、「男性はかくあるべし」という姿に自分を縛り付けていて、それに対する実際の自分の姿に落胆したり自信を失ったり、そしてそれがひどくなると精神的に追い詰められていったりする。新聞記事などで良く見る話では、借金苦や対人関係、あるいは将来への絶望といった様々な理由での自殺が多いが、それを「第三者」的に見ると、言っては悪いが、なんでそんな理由で死ななければならないの?と言う場合も少なくない。そして自殺とまでは行かなくとも、冒頭の書き出しにあるような、自分が死ぬことになって、なんで「安堵感」なんだろう、という疑問が普通なら出るところだ。これを読んで、「はは~ん」と思い当たる節がある方、あるいは「その気持ちはわかる」という方は、やはり「男はこうあるべき」という自分の中のイメージで自分を縛っている可能性がある、と思わなくてはならない。この話の場合、「経済的に、家族に不自由をさせない、それができないようなら男じゃない」みたいな思い込みがある人で、事業に失敗したり、突然収入の道を絶たれたりで、要は、その男としての最低限の義務が果たせなくなった場合に、それだったら、ここで死んで保険金が出て、それでもって家族が経済的に楽になる、そして自分も「死」によって、こういった重荷から開放される、ということがあっての「安堵感」に繋がるものらしい。冷静に考えてみれば、そんな考えはおかしいのは一目瞭然だ。しかし、当人にとっては、自分の「死」よりも家族の経済的な困窮を救うほうが優先し、それが自分の「死」によってある程度実現されることを以って、「安堵感」と表現している。これが、この本の表題、「男をやめる」の発端になっている。そんな自分ひとりの思い込みである「男」を止めませんか?もっと心を広く持って、客観的に「生きる」ということを考えてみませんか?という問いかけであると思う。残念なことに、いい加減な男より、なまじっか責任感が強い人の方がこういう考え方に陥りがちだし、それがために「ガン」などの病気になる傾向が強まることは統計的にはっきりと示されている。病は気から、なのである。なんともやるせない話だが、さて自分は、と振り返ってみれば、絶対大丈夫とも言えない所が怖い。親がなくとも子は育つ、とか、人はパンのみにて生きるにあらず、とか、いろいろな格言もあるが、現代に生きる我々は、どうしても経済的な面ばかりに目が行ってしまいがちで、昔だったら考えられないような「義務感」に捉えられていやしないだろうか。自分自身を見つめ直すいいきっかけになるかもしれない。もう少し、読み進んでみよう。「男をやめる」 宗像恒次 著 ワニブックス (H14年3月 初版)
2007.05.09
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またブックリストを再開します。今度のジャンルは「宗教」関連と言っても、いい加減な分類で、先日までの「スピリチュアル・精神世界」系とどう区分しているんだ、と言われても大した理由はありません。ただ宗教を正面から扱っているもの、あるいは宗教者の方が書いたものを中心に便宜上まとめたものです。このジャンルはあまり多くないので、今回一回で終わり。 「宗教」系(1)聖書 : これは解説なし。ただ私が使っているものは、いのちのことば社から出ているこれ↓ バイリンガル版です。(2)「ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教 『宗教衝突』の深層」 一条真也著 大和書房 :3月1日の日記「一神教の三姉妹」で書いたので、コメントは省略します。 (3)宗教がわかる事典 大島宏之著 日本実業出版社 :宗教を考えはじめた入門者向け。 (4)「仏教とキリスト教」 ひろ さちや著 新潮選書 :上記「事典」より、仏教とキリスト教にしぼった考え方・思想の違いを詳しく解説している (5)「新宗教の神々」 西島建男著 講談社現代新書 :こちらは伝統宗教に対して、「新宗教」の解説とその背景を解説した本 (6)「足るを知るこころ」 松原泰道著 プレジデント社 :般若心経と仏教の知恵を生活に生かす知恵 (7)「法華経を生きる」 石原慎太郎著 幻冬社 :石原慎太郎が、生き方・考え方の原点としての法華経を語る (8)「老師と少年」 南直哉著 新潮社 :禅宗の僧侶(老師)と少年の対話形式で、生きることの意味を問う (9)「密教の本」 学研 :密教とはなにか、を多面的に知るためのハンドブック <リンクなし> (10)「チベット 死者の書」 学研M文庫 :チベット仏教の死生観を語る、有名な本 (11)「タオ=道の思想」 林田慎之介 講談社現代新書 (12)「青年と宗教」 創価学会 :ひょんなことから手に入れた、創価学会の若者向け教学 30問30答
2007.04.19
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今日からは、次のジャンル、「宗教」関係に入ろうと思っていたのですが、書架を眺めていると、どのジャンルにも入りそうに無い本が何冊かあり、広義で考えるとこれも今までのジャンル「スピリチュアル・精神世界」系かな、ということで、もう一回延長することに。で、今日は、 「スピリチュアル・精神世界」系 第5回(41)西野皓浩三 「気の奥義」 「西野流呼吸法」 :年配の人なら知る人ぞ知る、西野バレー団の総帥が、50歳以降になって目覚めた合気道と「気」の道。それを著者みずからの実践の記録と共に紹介する。 (42)佐々木茂美 「気のつくり方、高め方」 :電通大の教授である佐々木氏が、「気」を科学した記録。 (43)久保田展弘 「森の癒し」 :宗教のジャンルに含めても良かったのですが、どちらかというと、日本古来の山岳宗教、そして実際に「山」や「森」から来る気づきを元に、仏教、あるいはクリシュナムルティーの瞑想など、いろいろなものの影響を受けた著者の「いのち」に対する思索の書。 (44)大田 篤 「何のためにあなたは生きているのですか」 :この著者のバックグランドはよくわからないが、環境問題、ひいては人類の未来に対してのさまざまな障害の中から、人間のあり方、というものを著者なりの考えで説明した本。「人は幸せになるために生きている」ということを根底に、ではどうするべきか?を問う。 (45)水田文雄 「脱宗教の無宗教」 :世の中には、無宗教、と言いながら、物事をただ真剣に考えたことがない、あるいは考えることすら面倒くさい、という態度から来る「無宗教」もあるが、この著者の「無宗教」は「反宗教」とも言える脱宗教による「無宗教」である。「宗教」のもつネガティブな側面をこれでもか、と繰り出し、「宗教」に依存しない生き方を説く。 このリンクは、どうも続編のようで、私の読んだ本は楽天ブックスには見あたらなかった。(46) 浅井ゆうじ 「神々のパラドックス」 :現代科学の進歩と、あの世、神との接点を題材にした「小説」。今となっては、もとにした「現代科学」がすでに陳腐化しているきらいはあるが・・・・ (47)日木流奈 「ひとが否定されないルール」 - 妹ソマに残したい世界 :これは驚異の本です。著者は12歳の重度脳障害児。自分ひとりでは生きることさえできない、外面的には「不幸」な子供です。ですが、そんな少年が書いたこの本は、その辺の大人が書こうとしても到底書き得ない人生の真実を描き出します。ある本によれば、人間は魂の成熟度が高いほどより困難な「生」を選んでこの世に出てくる、ということですが、それが本当に証明されているような実例かもしれません。「あるがままでの無限の幸福」「存在すること自体のすばらしさ」「私が私であることの幸せ」「他と比べるのではなく、昨日の自分より今日の自分の進歩を感謝する」こういった、半ば宗教者的な、悟りとまで言えるような境地に、ただの12歳の子供が到達しているのです。歩くことも、話すことも出来ない子供がここまで精神的な成長をする・・・・。人間の無限の可能性を考えさせてくれる本です。
2007.04.16
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とうとう最初のジャンルだけで4日目に突入です。 「スピリチュアル・精神世界」系 第4回(27)エリザベス・キューブラー・ロス 「死ぬ瞬間」 :もうこの本は解説の必要はないでしょう。死とその過程についての臨床体験にもとづくキューブラー女史の古典的名作。末期患者への精神療法など。 これは完全新約改訂版だが、旧版も持っていた(^^;(28)バーバラ・ハリス 「バーバラ・ハリスの臨死体験」 立花 隆 訳 :これも所謂「臨死体験」に関する古典。自分が経験した臨死体験をもとに医師と協力して、それまでまともに扱われなったこの分野の草分けとなる。 (29)立花 隆 「生、死、神秘体験」 「臨死体験」(上・下) :生、死、神秘体験などをめぐる立花 隆の対談集。それに「臨死体験」の調査研究書 (30)ベティー・イーディー 「死んで私が体験したこと」 :臨死体験の当事者が語る「死後の世界」 (31)佐古 曜一郎 「井深 大が見た夢」 :ソニーの創業者、井深が後半生、精神世界の可能性にのめりこんでいったことは有名な話。ソニーにはESPの研究室があり、そこの研究室長が語る、井深の夢。 <以下、文字制限10000字以内の関係で、リンクは載せません。署名のみ列記>(32)エドガー・ケーシー関連 「エドガー・ケーシーの大予言」 たま出版 「眠れる預言者 エドガー・ケーシー」 光田 秀(33)「すべてはうまくいっている」 佐田弘幸 総合法令(34)「黄金の宇宙卵」 サティア・サイババ サティア・サイ・オーガニゼーション(35)「英知の教育」 J・クリシュナムルティー 春秋社(36)「未来からのシグナル」 高塚 光 毎日新聞社(37)「神のゲーム」 北上 音緒 WAVE出版 (すでにフリーページに説明有り)(38)「超常現象の心理学」 菊池 聡 平凡社(39)「精神世界が見えてくる」 サンマーク出版(40)「精神世界マップ」 別冊宝島あと、何冊かありますが、割愛して、次回からは、次のジャンル、「宗教」関連に移ります。その後に「成功法」関連、そして「投資」関連、と続く予定。
2007.04.14
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またまた続きです。 「スピリチュアル・精神世界」系 (3)(19)フリッチュフ・カプラ 「タオ自然学」 :ニューサイエンスはこの本から始まった、とも言われる記念碑的なカプラの科学と精神世界の橋渡しを試みた本。 (ただし、このリンクは改訂版)(20)ローレイン・ウィヤール 「科学と精神世界の出会い」 ダライラマと先端科学者との対話他、科学と東洋的英知の統合を含む、ニューサイエンスの最前線(と言っても、かなり古い本だから、その当時の「最前線」) <リンクなし>(21)マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー 「聖なる意識の目覚め」 :前回の超越瞑想が「教科書」なら、この本はそれを平易に解説した入門書と言える。 (22)浅野 信 「アカシックメッセージ」 :ノーコメント。実はまだ読んでいない。アカシックリーディングって何?と思って昔買ったらしいが忘れていた。(笑) (23)竹内 信幸 「気づきの理(ことわり)」 :直感と気付きに対する考察から、自然界の仕組み、心、生きている意味などにせまる <リンクなし>(24)サティア・サイババ 「すべてはブラフマンなり」 :ご存知、インドの聖者といわれるサイババのブラフマン(絶対実在)に関する説話集。 <リンクなし>(25)ハンク・ウェスルマン 「スピリチュアル・ウォーカー」 :「空想科学小説」いわゆるSFとして読んでも面白い。人間の意識が時空を超越することを実際に体験した著者の「意識の旅行記」 (26)コートニー・ブラウン 「コスミック・ヴォエージ」 :私が住むアトランタにあるエモリー大学の教授である著者の、人間の意識拡大の可能性を「SRV」(Sientific Remote Viewing)により追求した驚異のレポート。TM瞑想のシダーであり、モンロー研でフォーカス25まで行った後の元軍事用訓練がいかに人間の意識の拡大に効果的に作用するか、それを実証した記録である。 というところで、出かける時間になってしまいました。とうとう、この「スピリチュアル・精神世界」系、次は4日目の突入です。
2007.04.13
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昨日の続きで、「スピリチュアル・精神世界」系 です。 スピリチュアル・精神世界」系 第2回(10)キャロル・アドリエンヌ 「人生の意味」 ;現在着々と進行している、と言われる人間の意識の変化、そしてシンクロニシティーの重要性を訴える。 (11)キャロライン・メイス 「7つのチャクラ」 :日本語訳の名前がなんとなく安っぽくていやだが、原著は「魂の解剖学」。直感医療の第一人者である著者による、人間の精神と魂、そして現代医療と魂の医療の相関を、自信の医療経験から多くの例を引いて見事に説明している。 ただし、このリンクは現在楽天ブックスにある「第8のチャクラ」です。私が読んだのは前著。(12)森田 健 「私は結果 - 原因の世界への旅」 「究極のいい運命へ - 神とつながれ」 「運命を変える未来からの情報」 :私財を惜しみなく世界の「不思議現象」の追求につぎ込み、自分自身をも実験台に、この世の「不思議」のしくみを研究し、その緻密な実証主義と共に多くのファンを持つ森田健(森田健作ではありません。笑)の「神の追求」の軌跡。ただ、この人の本を読む時は、あのときのあの考え方は間違っていた、ということも多いので、最新の著作を読んだほうがいいかも。 (13)リチャード・バック 「魂との対話」 :これも原著の「自然との対話」の方が内容を直接説明している。しかし、この「対話」は比ゆ的な言い方ではなく、実際に植物や川、水、岩などの自然とテレパシーによる会話を通して著者が得た、地球生命体の真実の声。有名なウィンドホーンの奇跡などにも説明が及ぶ。 (14)シルビア・ブラウン 「スピリチュアル・ノート」 :米国のサイキックである著者の、リーディングを基にした人間の生き方に対する知恵の数々。 (15)江原 啓之 「江原啓之への質問状」 「幸運を引き寄せるスピリチュアルブック」 「スピリチュアルな人生に目覚めるために」 :これはもう説明は不要でしょう。意外に、この3冊しか持っていませんが、あとは応用だけでしょう。 (16)マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー 「超越瞑想入門」 :あのTM瞑想の創始者マハリシの、瞑想入門。入門とは言いながら「存在の科学と生きる技術」という副題からわかるように、かなり重たい内容。私自身、まだよく分かっていない。 (17) 藤井 義彦 「できるビジネスマンは瞑想をする」 古川 千勝 「超越瞑想 TMパワー」 秋野 太作 「私、瞑想者です」 :TM瞑想が出てきたので、ついでに関連の本。一つ目は割りと有名。著者の実践の記録。二つ目は、日本におけるTMの導入に尽力した人の本、そして最後は、ご存知、俳優の秋野のTM実践記録。 (18)クリシュナ1~4 - 堀田 和成解説 「パガバット・ギーター」 :マハリシが出たところで、インドの古代の英知「ギーター」の解説。 これで二日目。三日目もまた「スピリチュアル・精神世界」系になりそうです。他のジャンルに行けるのは何時になるのでしょうか・・・・・
2007.04.12
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注)何冊か漏れがあったので追加しました。なお、文字数制限(半角で10000字まで)のため、全部のリンクは掲載できませんでした。悪しからず。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーということで、何回かに分けて私が今読んでいる本や読んだ本をリストアップしようと思います。まずは、そのジャンルをある程度分け、そのジャンル別に挙げて行こうと考えたのですが、いいジャンル名がない。一応、今回から何回かに渡っては「スピリチュアル・精神世界系」ということで挙げますが、この範疇に入らないものも多少出てきます。言ってみれば、「生きる」ということを考える、とでもつけた方がいいのかもしれませんが、そうすると、今度は逆に範囲が広すぎることにもなり、まずはこれで行きます。ということで、 「スピリチュアル・精神世界」系 第1回(1)ニール・D・ウォルシュ 「神との対話」 :今現在の、私のバイブル的な本 単行本 全3巻 文庫版 全6巻(実は両方持っています。文庫は携帯用) 「神との友情」 単行本(上・下) (2)ロバート・A・モンロー 「究極の旅」 : 人間意識の可能性、人間存在の非物質次元へのつながりを確信させてくる本。 「魂の体外旅行」 : 初期のモンロー氏の体験・彼の研究所の成果を垣間見る (3)飯田史彦 「生きがいの創造」「生きがいのマネージメント」「生きがいの本質」「生きがいの催眠療法」 「人生の価値」 「ブレークスルー思考」 他 :社会科学者らしい、真摯な「人間が生きる意味」の追求と、それを通した「生き方」を考える本 (4)ブライアン・L・ライス 「魂の療法」 「前世療法」 「前世療法2」 「前世からのメッセージ」 :前世療法を世の中に認知させた、アメリカの最先端医学者の「前世」シリーズ (5)シャーリー・マクレーン 「アウト・オン・ア・リム」「ゴーイング・ウィズイン」「ダンシング・イン・ザ・ライト」 :あまりにも有名な、シャーリーの魂の軌跡。 スピリチュアルな世界を世の中に認知させるのに多大な貢献をした、記念碑的な本。 (6)天外伺朗 「心の時代を読み解く」 「ここまで来た『あの世』の科学」、その(2)、 「イーグルに聞け」 「運命の法則」「幸福な人生の秘密」* 「超能力と気のなぞに挑む」* :ソニーのデジタルオーディオの開発を引っ張ってきた科学者の、この世の中の構造に挑む中で精神世界の非可分性を徐々に認識していく過程。 (7)ジェームズ・レッドフィールド 「聖なる予言」 「新しき流れの中へ」 :これもシャーリーの本と同様、スピリチュアルの世界を世の中に広めた記念碑的な本。 (8)島薗 進 「精神世界のゆくえ」 :スピリチュアルや精神世界を、その歴史や成り立ちを含めて俯瞰的に見つめ、その思想・潮流の理解を助けてくる、大変な労作。 (9)加島 祥造 「タオ」 :2500年前の老子を、非常に分かりやすい現代語による詩にしてくれ、その思想の真髄に触れさせてくれる本 今日はここまで。こんな紹介の仕方をしていたらきりが無いようです。ちょっと紹介の仕方を考えなければ・・・・次は 「スピリチュアル・精神世界」その(2)の予定。
2007.04.11
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この楽天ブログはそうでもないが、Mixiでは、ここアトランタに居住している人が結構メンバーになっている。そして、その中でも、アトランタ・GAコミュにティーというコミュに参加しいてる人数は1000人を超える。もちろん、現在アトランタに住んでいる人だけではなく、過去アトランタに住み、その後帰国してしまった人もかなりの人数居るようなので、この1000人がアトランタに今住んでいるわけではない。それにしても、メトロアトランタで6000人内外という日本人の人口を考えると驚異的に大きい数字ではある。そのMixiにもブログがあるのだが、私はこの楽天ブログにリンクしているのみで、Mixi独自では書いていない。したがって、このコミュのメンバーが私のMixiのページに来ると、この楽天ブログに来ることになる。そういったつながりから、最近立て続けに何人かの方から、ここの日記で書いている本を貸してほしい、という要望を受けた。やはり、私同様、日本語の本屋は一軒あるけれどもそれほどの在庫があるわけではないし、取り寄せるとばか高くなるという事情もあり、日本語の活字に飢えている人も結構多いようだ。もう一つは、私のこの日記、スピリチュアル系の本の紹介が多いのだが、どうも周囲の人の中でも、「投資」と「スピリチュアル」の両方に興味をもたれている方が多い、という印象だ。その流れで、是非、持っている本のリストを掲載して欲しい、できれば、その中から、読みたい本があったら貸して欲しい、という要望があり、これから何度かに分けて、蔵書(というほどのものではないが)リストを掲載してくれたら、という話になった。リストはテーマ別。そして、日記に書いた後は、フリーページのほうにそれをコピペしておきたいと思っている。そういえば、今のフリーページの「昔読んだ本」も、本当にこのブログを始めた当初の「昔」読んだ本のリストのまま、更新もしていなかったので、ここで更新を兼ねて行っておくのも悪くない、と考えた次第。次回から何回かにわたって、このリストを掲載しようと思います。
2007.04.08
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今読んでいる本。「新しき流れの中へ」 ジェームス・レッドフィールド著 角川書店 「聖書物語」 ノーマン・メーラー著 ハルキ文庫 前者は、スピリチュアルに興味がある人ならかなりの人が知っているであろう、同著者の「聖なる予言」と「第10の予言」の、特に後者を解説した本である。この本はかなり読み応えがある。分量が、という意味ではなく、人類のパラダイムシフトについて、スピリチュアルな観点から書いている本で、その元となった参考文献を見ても私が今まで読んできた本がかなり入っており、その意味でも現時点の私の世界観と共通している部分が多々ある。これについてはまた別途日記に書くつもり。で、後者は、ユダヤ人作家のメーラーが「人間としてのイエス」を書きたかった、と言っているように、神の子としてのイエス、というより、人間としてのイエスを、一人称で書いている小説である。こんな小説を、キリスト教国である米国で出版する、ということも勇気あることに違いない。なぜならば、かなり、聖書に書かれている福音とか聖書を通してのイエスのイメージに合わない「人間イエス」を描いているからだ。そのせいか、かなりの部分の記述は「新約聖書」ではなく「旧約聖書」の予言にのっとっている。もしかしたら、これはメーラー自身がユダヤ人だ、ということに関係があるのかもしれない。つまり、ユダヤ教というのは基本的に「旧約聖書」のみをその根本経典としているから、彼も「人間イエス」をその旧約で予言されたメシアとして忠実に描こうとしたのかもしれない。しかし、これは彼自身の宗教観、信仰によるのだろうけれど、最後に神に対する疑問を呈するイエスを描いている。その理由を読む限り、彼は「神」と「イエス」を人間としての価値基準で判断しよう、というところが見え隠れする。その見方は「神は全能ではない。ただ、彼は最善を尽くしているだけ。そうでなければ、この世に大災害や災厄があることの理由がなくなる」というものだ。少なくとも、最初にあげた「聖なる予言」的な人間のスピリチュアリティーの進化とかパラダイムのシフトとは同列には扱えない。その「シフト」は、イエスによる奇跡を肯定し、その奇跡による人間への影響、という形で現れているに過ぎない。彼ほどの書き手でも、こと「イエス」を描く、となると、こんなに皮相的になってしまうのか、という気がしなくもない。それだけ小説などの題材にするには難しい対象である、ということか。
2007.04.05
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生活上、これと言って書くことがないのと、勢いで3つのブログを書いていて、さすがに全てを毎日、というほどのネタもヒマもない(笑)ということで、この楽天ブログ、ややこのところ滞りがちです。一方、読書の方だけは、毎日なにかしら読んでいる、ということで、それについて書けば書くことはいくらでもあるのですが・・・今読んでいる本は、「7つのチャクラ - 本当の自分にたどりつくために」 キャロライン・メース著 サンマーク出版残念ながら楽天ブックスにリンクがありませんが、代わりに第8のチャクラという本がありました。この本は、直感医療の第一人者であるメイス女史による、人間の肉体と気の関係をその診療現場での経験を通して書かれた本です。読んでいて、ここまで医学と神学と東洋の「気」という概念を統合的に捉えて見ることが可能なのか、と驚かされます。読んでみる価値のある一冊。そして、その前に読んだのは、「魂との対話」 マイケル・J・ローズ著 徳間書店 ↓ これは、ふとしたことから大自然と会話ができるようになった著者マークの、その経緯をつづった本。上記の「7つの・・」にも、フィンドホーンの話が出てくるが、本当にそういうことがあるのだ、ということが、この本を読むと納得できるような気がする。「フィンドホーンの奇跡」と言われる有名な農園のことはよく聞くが、そこでの「奇跡」は、こういった自然と人間の意識の交流なくしては、現代科学では説明がつかないことばかりだ。そして、それが、「地球上での人間のあり方」、そして、個々の「人間の生き方」に直接関係してくる。誰の言葉だったろうか。確かシェイクスピアの本の中で誰かが言った言葉。「この世には、人には想像もつかないことがあるものだ。」
2007.03.31
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2月に日本に滞在している時に読み始め、その内容の濃さのために一時棚上げしてアメリカに持ってきた本が何冊かある。そのうちの一冊がこれ↓である。 「人間を幸福にしない日本というシステム」 カレル・ウォフレン著 (毎日新聞社)↓この本については2月の日記でもちょっと触れたが、今これを改めて読み始めている。あの時、どなたかがコメントをくれたのだが、「著者は、本当に外国人なのか、と思ってしまいますよね」というコメントだったと思うが、その時は、このコメントを間違って解釈してしまったような気がする。このコメントは疑問形ではなく、感嘆形の「なのか!?」だったんですね。今読んでいると、本当に、この方のコメントと同じく、外国人でありながらよくぞここまで日本のことを精緻に分析しているものだ、という驚きが沸いてくる。それほど、目からうろこ的な分析がされている。これは「外国人なのに」というより、「外国人だからこそ」なのかもしれない、とも思える。外国人だからこそ、訪れた日本で出会う日常的な疑問を追及していった結果、日本人のいろいろな階層の人と忌憚ない意見を交わせるジャーナリストという立場もあって、その「日本のかかえる問題」というのを、生まれ育ったヨーロッパやアメリカ、アジアなどの他の国と比べたときの日本の特異性という部分にまで突き詰めることができたのではないか、と思う。それにしても、今まで見たどの日本論よりもよほど衝撃的な内容である。一方的な非難や賞賛ではなく、事実を事実として見極めていった結果からの推論ではあるけれども、ここで指摘されている多くのことは、実際に日本人自身も気づいていない、日本というシステムの深層を捉えているように思う。内容をここで要約するなぞということはとても出来ないが、その全てがそのとおりとは肯定できないまでも、日本に今の状況、そして、ある種の閉塞感や日本人の幸福度の低さを考えるとき、非常に大きな示唆を与えてくれている。今の日本というシステムをコントロールするシステムが存在しない、という指摘は、確かにそう思わされるだけに、うすら寒くなるものがある。ある場面で、日本を漂流する国家に例えていた。この日本、どこへどう漂流してゆくのだろう。それをコントロールするシステムも、羅針盤も、そしてコントロールできていないという認識も乗組員がもたないままに・・・・
2007.03.16
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日本からアメリカへ戻る飛行機の中で、空港で買った文庫本をずっと読んでいました。読んでいた本は、「ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教 『宗教衝突』の深層」 一条真也著 大和書房 本の帯びには、「長女はユダヤ教。次女はキリスト教。そして三女はイスラム教である。同じ親、つまり同じ一神教の神を信仰し「旧約聖書」という同じ啓典を心の拠り所としながら、憎み合い、殺しあうようになった世にも奇妙な三人の姉妹。 本書は、三人の娘の生い立ちから、その精神世界まで広く探ってゆく。 三姉妹を知れば、世界が見えてくる!」とあり、興味を持ったために購入。今、キリスト教の教会に通い、聖書(とくに旧約聖書)の勉強会などに参加しているのだが、こういった、信者ではない人の、外から他の宗教と比較した形で「キリスト教」というものを捉えてみるのも面白い、という気がしたためだ。読んでみると意外に(?)面白い。ただ、著者が、学者というわけではなく、単に宗教に造詣が深い、という冠婚葬祭会社の社長を務める方なので、どこまで、この本で断定的に「キリスト教はこう、イスラム教はこう」とか書いてあることが本当か、という点についてはごくごく用心深く読まなくてはならない。それでも、どういう相違からこの三姉妹がいがみ合い、争うことになったのか、あるいは、その基本的な相違点はなんなのか、といったことを非常におおざっぱに知る上では手っ取り早い本ではある。聖書そのものを勉強する、という視点での捉え方と、こういった、ある意味客観的、第三者的な目でキリスト教というものを見る捉え方と、どちらも有意義な見方だ、とも思うし、私の勉強の目的からすると、こういった複眼的な見方は必須でもある。今、中東が注目を浴びる中、ともするとイスラム教ばかりが悪者にされがちな気がするが、実際は、キリスト教がその信徒を減らし続けている中、イスラム教はその信徒を急激に拡大しつつあるのだ。どうしてそうなのか?あるいは、過去、あるいは現在の世界にある民族間の闘争、あるいは宗教間の対立の根がいったいどこにあったのか?と言ったことを考える手助けをしてくれる。先の表紙の分が言う如く、こういったことを知ると知らないのとでは、現在起きつつある世界の出来事を理解する上で、多くの示唆を与えてくれると思う。
2007.03.01
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私は本を読むことが好きです。ただし、「遅読」ではあります。かの「知の巨人」である、立花 隆のI/Oは100以上だと聞いています。つまりインプット(読書量)とアウトプット(著作量)の比は100倍以上だということですが、彼は100冊以上著作があるので、当然1万冊以上の本を読んでいる、ということです。この数字は勿論、資料のために読んだ雑誌類を除いての数ですし、また、その内容を反論、賛同、応用、縦横無尽に駆使しているからには、その読みの深さも半端ではありません。なおかつ、これらの本のかなりの部分は、数十ページ読むと頭が痛くなるような類の本であることを考えると、この数字は驚異的です。一日に一冊読んだとしても、一年にせいぜい350冊。3年で1000冊、一万冊だと30年はかかろう、という数字です。彼は当然、40年以上読み続けての数字ではありますが、一方で、百冊以上の本を書きながら、つまりその時間を捻出しながら、読書のこの数字はほとんど不可能に近い数字には違いありません。私も読書は好きですが、「並」以下で、「遅読」も重なって、年間40~50冊も読めたらいいほうです。しかも、もの忘れがひどくなっているので、同じ本を何回も読んだりしているので、ますます「量」の面では少なくなります。今50台ですが、これからの人生でどれだけの本が読めるだろうか、と考えると、暇つぶしのような本はほとんど読めなくなりました。今日も、日本に来ると必ず寄るBOOK OFFに立ち寄り、小一時間、至福の時間を過ごしました。見れば見るほど読みたい本が出てきます。今回の帰日では、持ち帰りの荷物が相当あるので、本の購入を控えなければならない、とは思いつつも、ついつい15冊ほど買ってきてしまいました。本屋さんや、このBOOK OFFなどの本の海の中に居ると、本当にどれもこれも読んでみたくなります。しかし、現実的には読める本は多分1000冊以下でしょうし、それがために購入は慎重にならざるを得ません。しかし・・・・・本を読む、ということはなんと楽しいことか・・・・
2007.02.15
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一昨日の「江原啓之さんのこと」とは180度(?)変わって、昨日、今日は橘 玲の著書「黄金の羽根」を手に入れる 自由と奴隷の人生設計↓を読んでいました。個人的には、この橘 玲という人というか、彼の考え方はあまり好きではありませんが、好き嫌いと、評価するかしないか、というのは若干別問題で、私のようなものにとっては、いろいろな気づきを与えてくれる人であり本です。どういうことか、というと、この人、ゴミ投資家シリーズと名うって何冊かの本を出しており、「海外投資を楽しむ会」という組織に属していて、その関係のいわゆる「投資」関連の本も出しています。その切り口と言うか、語り口が、悪く言えば考え方がややせこい、という部分であまり好きではないのですが、私は結構ずぼらで大雑把な性格であるのに対して、この方は結構まめにいろいろと調べ、それらの細かいことをある程度理路整然と整理してくれるので、知らなかったり、気づかなかったりしていたことを教えてもらえるわけです。本人に言わせると、この本の前書きにもありましたが、「個人的なことを言うならば、本書(この本の元になった「ゴミ投資家のための人生設計入門」)の製作に携わったことが、サラリーマンとしての生活に区切りをつけるきっかけとなった。」として、サラリーマンとしての彼が、この世界を「経済生活」「経済的独立」という観点でいろいろ調べて見たときに、その矛盾と不公平性を感じて、それがためにサラリーマンをやめた、その考え方の軌跡を本、ということもできるかも知れません。そういう意味では、非常に現実的で、「せこい」と書いた表現も、現実的には、恐らく多くの日本人が実際に行っているだろうことを羅列しているだけなのでしょう。で、「こんな不公平な世の中で、こうやって上手くやっている人もいるんだから、自分も搾取されるだけのサラリーマンは止めて、うまく立ち回る人間になった方が得だ!」と、サラリーマンを辞めたのでしょう。とにかく、法律や制度、そしてその「実態」に照らして、「いかにうまく立ち回るか」という観点で考えに考え、そのうまく立ち回れるかどうかが、人間の経済面にどれだけの影響を及ぼすかをことこまかに検証し、「あなたはどちらの側の人間でしょうか」と言っている本です。同じ「どちらの側の人間か」という書き方をしていても、ロバートキヨサキのESBIの考え方とは、まるで違いますね。ただ、私がここで、ある意味、皮肉っぽく、あるいはちょっと批判的に書いたりしていますが、考え方はともかく、この世の中の実態を明らかにする、という意味では、いろいろ考えさせられる情報が結構あり、正直に言うと、私も退職を決意する半年ほど前にこの本を読み、ある程度の影響を受けたことを告白しなければなりません。この人の考え方の大きな部分が、本書のPART1「人生設計編」の最後にこう書かれて居ます。「結局、ここで言いたいのは、お金は単なる道具であり、それ自体が幸福をもたらしてくれるわけではないという当たり前の事実です。しかし、その一方で、資本主義社会に生きる私たちは、幸福はお金の量に比例するという冷酷な現実もまた、受け入れざるを得ません。お金は幸福を約束してはくれませんが、『お金持ちが幸福になれる可能性は、貧乏人が幸福になれる可能性よりもずっと高い』ことは誰でも知っているからです。しかし、日本ではなぜか、こうした『事実』をあからさまに口にしたりすると、みんな鼻じらむことになっています。」結局、この橘 玲のいうところの経済的独立とかお金持ちとかを考える時に、彼のこの基本的な考え方に賛同するかどうか、という点が大きく関わってくる気がします。ただし、一方で彼はまた、「このように、資産形成や運用の前提には常に『あなたにとって、人生をよく生きるとはどういうことか?』という問いが控えています。」とも書いています。彼の書いていること、言っていることを鵜呑みにする前に、この根本的な質問を自分に向けてから、その回答を持ちながら、彼のこういった著作を読むのも、人それぞれの人生を有意義にすごすための本の読み方としては重要な点かもしれません。
2006.08.05
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日記が書けません。今読んでいる本、松原泰道「足るを知るこころ」↓石原慎太郎「法華経を生きる」↓松井幹彦「金持ちAさんになる エクセルの賢い使い方」↓長谷川 高 「不動産業界の動向とカラクリがよ~くわかる本」↓「FP入門」(資産運用・土地活用・相続・事業承継)↓そしてモンロー氏の「魂の体外旅行」↓う~ん、自分で言うのもなんだが、なんて無節操な・・・・・いや支離滅裂と言うべきか・・・しかし、読んでいると次から次へと書き留めておきたいことが出てくる・・・日記に書こうか、と思ったところをマーカーで色をつけたら殆どのページに色がついてしまう・・・ちょっと大事だな、と思って、あとで見返そうとページの角を折ったら、どんどん折りが多くなって本が厚くなってしまう・・・書きたいこと、自分のためにもその印象を書き留めておきたい、と思っても、そのたびに読書を中断するわけにはいかない・・・書きたいことが多すぎて、日記が書けない・・・・
2006.06.28
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昨日の契約書に関して、相手のエージェントから連絡がない。不動産屋に電話したが、電話に出たのは、そこのブローカの受付けの人。聞くと、今日・明日は研修で居ない、という。たぶん、契約書をテナント側に渡し、来週にでも最終化するつもりだろうが・・最近のアトランタはきちんとした雨が一ヶ月以上も降っておらず、連日の猛暑。30度を超える日が続き、もちろん芝刈りなんてとんでもない、という暑さだ。幸いなことに、あまりの暑さに芝そのものも成長が止まっており、もう2週間以上芝刈りをしていなくとも、あまり手入れを必要とするほど伸びても居ない。その上、雨の少なさから、とうとう散水制限まで出てしまったので、毎日水をまくこともできないので、当分の間、芝の成長は鈍化したままだろう。そんなわけで、今日も読書の日になってしまった。今日読んだ本は、今までほとんど読んだことが無い類の本。一冊目は、飯島愛の「プラトニック・セックス」↓大分前の本だけれど、いつ買ったのか忘れてしまったが、今まで読まないまま積んであった本。そして、もう一冊が、内田春菊の「ファザー・ファッカー」。↓読んでいて、ある意味憂鬱になってしまった。左記の「プラトニック・・」は、飯島愛の自伝である。そしてあとの「ファザー・・」も、小説ではあるけれども、内田春菊の自伝的要素が入っているらしい。これらは、著者のテーマがどこにあるのかは知らないが、すべての子供を持つ親にとって重要な、ひとつの共通のテーマをも含んでいる。それは「子供から見た親」という視点である。飯島愛は、御存知のようにAV女優として有名になったけれども、とにかく「不登校」「万引き」「恐喝」「不純異性交遊」「援助交際」「風俗」「AV」「TVタレント」 といった全ての経験をたんたんとつづっていく。そこには10代の女の子にとって、「世の中」というもの、「親」というものがどう映るのか、がなまなましく描かれている。時はバブル絶頂期、20歳にもならない女の子が、身の回りを一つで数百万円もする腕時計や毛皮などの「物」で埋め尽くし、AVに出演することで、3ヶ月で1000万円、次の3ヶ月で2000万円の契約金を手にし、そういったお金を湯水のように使ってゆく・・・しかし、なによりも考えさせられるのは、先日の「鏡の法則」ではないけれど、この飯島愛とその親との係わり合いである。---------------------------朝起こすといつになく「ハーイ、起きてるよ」と返事をする。正直に登校し、下校も順調、塾にも行く。帰って来て家で漢字の練習をしている娘を見て、今日一日とてもうれしかった。ここ一年、こんなに気持ちのいい日は一日とてなかった。娘が中学生らしいとこんなに家の中が明るく楽しいものか、と涙がでるほどだった。---------------------------と母親は日記に書く。しかし、その現実の根本的なところを理解はしていない。そして、--------------「てめえ、どけって言ってるのがわからねえのかよ!ぶっころすぞ!!」と机の上に足を乗せてゆするようにする。殺されることなど何も怖くない私は「殺したかったら殺しなさい」と答える。本当にこの子が自分の育てた子だと思うと、残念。そうとう悪になっていてもう手がとどかない。やはり来るべき時が来た様に思う。--------------というところまでゆく。この時点で、自分の何が娘(飯島愛)をここまで追い詰めてしまったのか、それがまったく自覚されていない。それが、--------------「ごめんなさい。謝るのはお母さんの方よね。ごめんなさい。私が間違っていた・・・」 これまで「私の育て方は間違っていない」としか言わなかった母がまちがった」---そう言っている。(中略)「ごめんね、ごめんね」 母の消え入りそうな声が、嗚咽の中にまじっている。私は、母にずっと愛されていた、24年たって、私は初めてそのことに気づいた。---------------------------というところまで行く。この本の最後のページは「パパ、ママ、こんな娘でごめんね。」という言葉がポツっと書いてある。この本にしろ、内田春菊の「ファザー・・・」にしろ、私が感じたのは、「この世の中に『親の資格』をもっている人はどれだけいるのだろう?」ということだった。もちろん、それは自分自身を含めての話だ。世間では、名ばかりの「少子化対策」が議論される一方で、最近の若者の相次ぐ凶悪事件にいろいろな「分析」とやらがなされている。「何が彼らをそうさせたのか」そんなこと聞くまでもないだろう。親が、世間が、社会が、そういった人間を作り出しているのだ。そんな気になる本であった。子供、特に娘さんを持つ親には、一度読んでみることを勧めたくなる本でもある。
2006.06.23
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好きなことは?と聞かれると、いろいろ答えはあるけれども、「読書」というのもその答えの一つとしてある。でも「読書」と言うと、次に、いったいどんな本が好きなのか、ということになる。つまり、「好きなこと」の次は「好きなもの」というわけだ。このブログでも読んだ本を時々紹介しているが、基本的に自分が好きなジャンルというのは子供のころの読書の影響か、いまだにある意味「不思議」と「冒険」を組み合わせた内容が好きだ。勢い、中学・高校のころはSFにはまっていたのだが、最近はほとんど読んでいない。にも関わらず、最近でも、よく読む本のどこが面白いのだろう、と考えてみると、意外とこの「不思議」と「冒険」が絡んでいることが多い。SFといってもいろいろな種類があるが、私の好きだったものは「時間」「空間」「次元」「純(また超)知性体」に関係するものが多かった。それも、自分では想像もしなかったような斬新な切り口、アイデア、状況、ストーリー展開などがあるとたまらなく面白く、どっぷりはまり込んでしまう。そしてその傾向は今も変わっていないようだ。今読んでいて、面白い、と思う本は、投資や成功や、ましてや「お金」の本などのハウツー物、実用書、といった本ではない。これらの本も読むことは好きだが、「面白い」という表現とはちょっと違う。「面白い」という本は、昔から何度も読み返したくなり、読むたびに「面白い」と感じる。昔、SFだったものが、今はSFでなく、何になったのか、というと、どうも「人間の意識」というものに関係するようだ。考えてみると、「人間の意識」というものを突き詰めると、SFの好きだったジャンル「時間」「空間」「次元」「超知性体(神)」といったものに必然的にぶつかる。そして、それがScience でありながらFiction ではないので、SFとは言わないが、最近のScienceは、一時代前の常識からしたらそれこそ「作り話」「誇大妄想」と言われかねない領域にまで達している。そこには、昔SFの中だけに見出していた「想像もしなかったような斬新な切り口、アイデア、状況、ストーリー展開など」がこれでもか、というほど出てくるのである。普通言う科学とは実証主義に基づいた、再現性や客観性を重視して万人に認められるまでの厳密性を要求されるが、ここに来て、その科学自体が「主観」を抜きにして語れない領域まで達していることはその一つである。つまり、実験する側の状況によって、本来実験をしている主体者とはなんの関係もない事象の結果が異なるのだ。そして、ますます科学は「あい矛盾する二つの事象が同時に存在する」という神の2文法の存在を認めざるを得ないところまで来ている。私はけっして科学に詳しくないし、たぶん私の科学知識は19世紀のレベルで止まっているのだろうけれど、いやそれだからこそ、最新の科学の知見が導き出す結論や推論を見るにつけ、昔から好きだった「不思議」と「冒険」に結びついてくる。「人間の意識」。21世紀は心の時代になると言われて久しいが、その切り口は、この「人間の意識」そのものの探求とは切っても切り離せないのではないか、と感じている。「好きなこと」と聞かれたとき・・・、あるいは「好きなもの」と聞かれたとき、今の自分なら何と答えるだろうか・・・
2006.05.31
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