旅の途中

旅の途中

私という人間




昔は養子縁組とか、里子に出すなんて簡単に行われていた時代があった。

その末期あたりに生まれたせいか、2歳で養女に出された。記憶には無い。

新しい両親は、そこそこの金持ちで 私に日本舞踊やピアノ、バレーなど等

色々な習い事をさせてくれたし、行儀作法も厳しかった。

中学に入るとき戸籍が必要で、他からバレるのを恐れた母は、自分で私に

告白してくれた。「あなたは、本当はママの子じゃないのよ。」と。

信じてて、何も疑わなかった私にとって、まるでドラマの一部であるようにしか

思えなかった。というより、実感が沸かなかったのだ。



そして中学に入り、思春期になると、世間に色々と興味を示すものだ。

母は、自分が告白した事の為に、グレたと思い込み、辛い日々が始まった。

「ママは、そんな風に育てた訳じゃない!あんたの血筋が悪いんだ。」と。

そんな事、言われたって私には どうするスベもない。



ある日、母の友人(叔母ちゃん)が、「○○ちゃん、本当のお母さんと会って

みたい?」と聞いた。私は自分のお母さんが、どんな顔をしてるのだろう?

ってな軽い気持ちで「うん。会ってみたい。」と答えると、叱られた。

「ここまで育てて貰って、何ていう事を言うんだ!」と。

矛盾を感じた。自分から、会ってみたいか?と質問したくせに・・・。


私にとって、”母”とは育ての親しか、ピンと来ない。

何かにつけて、育ててやってるのに!とか、学校も行かせてやってるのに!

という意見に反発し、だったら夜間に変えてくれと頼んだが、聞きはしない。

それで家出に踏み切ったのである。当時17歳。



17歳で、東京にアパートを借り、彼氏も出来た。(女子高だったからね)

仕事を探すには、当時17歳で働ける場所は ほとんど無かった。

友達に「ご飯が食べれない。お米も無いの。」と電話する10円玉も無かった日もあった。

でも、当時はそれなりに自由を手に入れて、楽しかった気がする。


18歳の時、ひとつ年下の彼氏との同棲が始まった。

母は それを見つけ出し、同居しているのなら結婚しなさい!とお膳立て。

お相手のおうちは、決して裕福と言えない家庭だった。

なんせ布団のシーツを、手拭タオルで縫い合わせて使っているほどのお宅だったから。

そんな事を知らない母は、親族の手前、結婚式をあげると言う。

私達は、結婚は後2年くらい先でいいねって話し合っていたのに・・・。

結局、戸籍という紙切れ1枚の重要さに 重みを感じ、彼の暴力にも耐えられず

離婚したのである。

離婚したら二度と、家の敷居をまたがせない!という母。

またまた ひとり暮らしが始まった。朝からOLをやり、夜も水商売で稼いだ。

水商売は「銀座デビュー」というのが まずかったらしい。

時給6000円も貰えた私は、ナンパする男に言う。

「私と話したければ、1時間6000円よ!」と・・・。



ある日、息子達の父親に出会った。素朴で大人しい人だった。

24歳の時、出来ちゃった結婚をする。26歳で次男誕生。

この長男の命をさずかった時、私はとても強く願った事がある。

「神様、いつも苦しい時や困った時に お願いしていますが、今この幸せを

 ずーーーっと続けて行けますように願うのは、やっぱり神様で宜しいのでしょうか?」と。



最初の離婚後、離れて行った母が、”孫”という存在のお陰で、またコンタクトが取れたのだけれど・・・・・。



その結婚も、また離婚となった。離婚2年後に判った事なのだが、主人は

女を作って、再婚した。この奥様、恐ろしく怖い。言葉の使い方が

ただの喧嘩ごしではなくて、やくざもんみたい。

離婚当初、息子たちは離れ離れになった。長男は初孫という事で主人に。

次男は私が引き取った。ひとりでやっていける自信がついた頃、ちょうど

主人のお母さんから電話があった。

「どうにも大変なので、引き取ってくれないか?」との電話に

私は 即返事でOKし、2人を引き取って 母子家庭が始まった。




ある日、肛門に激痛が走る。病院へいくと、腫瘍が出来ているとのこと。

良性か悪性かを調べる為に、3日間の入院を宣告された。

別れた主人に、息子たちの面倒をお願いした。これは他人に頼んでも良かったのだけど

息子たちに「お父さん」という存在を 残してやりたかったのだ。

彼は私に2つの選択を 言い渡した。

1:面倒を見てやるが、一生息子には逢わせない。

2:一生、ひとりで面倒をみろ!

母とも親戚とも疎遠になっていた私は、3ヶ月悩み苦しんだ。

もしも私に何かあったら、この子達の行方は???

それよりも継母とはいえ、両親揃っていて、兄弟も一緒でお祖父ちゃん

お祖母ちゃん、親族の居るところで育てた方が 息子達の為になるのでは?と。

そして、別れた主人に2人とも手放したのである。

後で判ったことなのだが、これは彼等の誤算だったようだ。

自分が生んだ子を、手放す筈がないと・・・・・。





洋服もおもちゃも 何もいらない!と、身ひとつで行ってしまった息子達。

部屋には玩具がころがり、洋服や何から何まで 息子の思い出ばかりの家に

1ヶ月は帰る事が出来なかった。写真を見れるようになったのも、1年後であった。




ある日、あちらから電話があった。次男があまりにも言う事を聞かないので

引き取って欲しいと。もちろん、ためらう事などなく次男を引き取ったのは

小学2年生の時であった。が!身体中に酷い傷だらけ。今で言うセッカンだ。

私の両手にスッポリと入ってしまうほど小さなお尻に、私の指より太いアザがあった。

長さにして10cm×2・・・・・。それに身体中に、タバコのヤケドの後。唖然とする。

どうしたのか?と尋ねると、線香の束で焼かれたと言う。

その時の私の心の痛み。そしてゾッとした奴らの行為。

息子はすっかり子供らしさを無くし、大人不信になっていたのである。




話は飛ぶが1度目の離婚後、母から縁を切られ、産みの父へと戸籍を移動。

この時、父は再婚をし 新しい家族がある為、また父の養子となる。

が、紙切れ1枚の事であって、その父とも疎遠である。

私は今まで付き合ってきた親戚というものと、どう接すれば良いのか解らず

自分から連絡を取らなくなってしまったのと、誰も気にかけてくれないのも

理由のひとつであった。

養母は 若くして亡くなった養父の遺産を、私に渡すのを拒んだ様子。

養父が亡くなった当時、私は高校2年生。

遺産だの法律関係は、全く解らない年齢だ。そのとき養母は言った。

「パパには借金があるの。ママが死んだら貴女に背負わせる事になるから

 ここに一筆書きなさい。」と。

それは財産を放棄するという内容だったのである。

何も知らない私は、養母の言うまま 書類にサインし捺印を押した。

のちに家を売却し、私に1億という財産が入ったのだけれど、それでまた

養母を失った。親戚大人たちは、私に何も話してくれない。

以降、天涯孤独を覚悟した。




話はそれて、またもや違う話になるが・・・・・。

この遺産相続で、お金と引き換えに大切なものを失った。

当時、養母が住んでいた家が1億5千万円で売れたのだ。

養母は言った。「お金の事は大事だから、ちゃんと半分自分で持ってなさい。」と。

何も疑わず、信じていた養母に「ママが持ってていいよ。今は自分で充分

稼いで食べていけるし、これから息子達が高校や大学に行く頃、お金が

必要になるだろうから、それまで持ってていいよ?」と。

すると、母はそれを否定した。なんだか会うたびに、話がこじれていく。

私は弁護士を入れた。調べて貰ったところ、当時母の取り分は三分の一。

私の分が三分の二だったのである。

母は、最期まで「ちゃんと半分、持ってなさい。」と言い通したのだ。

まるで裏切られた感じの私。弁護士に任せたものの、弁護士に言われる。

「お金というものは、家族や親戚まで巻き込むから・・・・。」と。

これが養母の離れていった理由である。

引越し代として、300万円要求されたが、むなしくて そんなものくれてやった。

お金の怖さを知ったのである。





さて話は元に戻るが、私の手元に戻ってきた息子。

大人を信じる事が出来ないようだった。目の輝きもない。

小学校から家には戻らず、ランドセルをほっぽらかし、フラフラと出かけてしまう。

それが毎日のように続いた。当時、私は水商売で稼いでいたのだ。

仕事に支障が出る。仕事はクビになり、家賃も支払えなくなった。

注:この時、買ったマンションが友人に騙され、競売にかけられていた。

警察へ捜索願いを出す。まだ小さかったので、事故が心配だった。

台風の中、大雨・雷のなか帰らない日もあった。

児童相談所に相談に行く日が続く。

警察に「こんな事で年中、呼ばれても困るんですよ。もっと大きな事件もあるし」と

施設を進められたのである。




どんなに頑張っても、言う事を聞いてくれない息子。

怒鳴っても、優しく説得しても、うんともすんともだ。

結果、施設に入る事となった。出来る限り、面会に行き出来る限りの愛情を

そそいだつもりだ。そして小学校6年の半ばで、施設から出した。

施設では、まだ早すぎると言われたが、かなり強引に引き取ったのだ。

それが良かったのか悪かったのか・・・?

答えは両方だと思う。なんせ中学の時の悪さ。警察に何度、御世話になった事やら。

良かったと思うのは、今になって心を開いてくれたこと。




さて施設から私の手元に戻った息子。

最初は「うん」と「ううん」しか言わない。どうしたら言葉を話すのだろうと四苦八苦。

「何食べたい?」と聞くと「何でもいい」と言う。

「何処へ行きたい?」と聞くと「どこでもいい」と言う。

全く自分の意思がないのだ。これでは困る。

とにかく気長に、愛情表現を続けていった。

しばらくすると、段々心を開いてきたのか、自分から進んで手伝いをする。

「ママ、お買い物行ってこようか?」とか「お風呂、掃除しといたよ」

「お茶碗、洗っておいたよ」等など。「良い子」としか言いようのない子だった。

私に捨てられまいとして取った行動なのだろう。後にわかった事だが、

当時は妙に良い子だな・・・と感じた。




中学入学と同時に、引越しをしたのだが・・・・・。

2年に入ってから、特に問題の多い子に戻ってしまった。

ある意味、「自分」というものを見つけられたのだと思うが、丁度反抗期にも

入った時期だった。これまでの息子とうって変わる。

毎月、毎週の様に警察と共に戻される日々。

ちょうど少年法が改正される時期で、警察も何も出来ない。

親が身元保証人になるだけで、何度捕まっても懲りない息子。

結果として、次々と事件を起こした息子に 少年行きの判決がくだる。

この時も、怒鳴ったり優しく説明したりしたが、今度は世間を舐めてる様子の結果だったのである。





1年の刑期を終えて 戻ってきた息子。

朝6時から自分の布団をたたみ、シャキっとした様子にはビックリしたが

それもつかの間だった。けれども、アルバイトを見つけ、一生懸命に

働いていたのだけれど、夜間高校で知り合った友達たちと遊び歩くようになる。

そして彼女が出来た。彼にとって初めての女性であり、初恋であった。

彼女と一緒に旅行やらゲームセンターで遊びたい為に、息子の生活はどんどんと崩れていった。

私の病状も悪化し始め、身の丈に合わぬ大きな家を借りるのを止めた。

そして小さなアパートへ戻るが、息子はほとんど帰って来なかった。

このアパートは、息子が中学時代を過ごした場所である。

悪友たちは、まだ皆そこに住んでいた。息子はまたシンナーに手を出した。

そして逮捕。2度目の少年院である。

現在は、少年院で悟りを開いたような手紙が来るが、今後もどうなっていくのだろう?




今も時々、昔の写真を引っ張り出し、息子たちの写真を見る。

施設に入っていた時は、こまめに写真を撮ってくださり、一冊のアルバムとして頂いた。

この頃の息子の写真、施設に入っているにも関わらず、とても輝いた顔をしてる。

フッと、中学時代の警察に捕まった顔を思い出す。どよ~んとした目だったな。

これからも先、息子達を見守っていく しっかりした自分を創らなければいけないなぁ。








そろそろ人生の折り返し地点かな。

次男はすっかりと優しい男になってきた。

「やはり育て方に間違いはなかった」と?

息子には苦労をかけたが、その分人の痛みを解る子に育ってくれた。

長男はまだ、それに気付かない。

最近の次男。。。「まぁ、なんと言われたって◎◎さんの息子さんですから。」と。笑

こうして笑って話せる家族が居るって、素晴らしいね。

ありがとうございます。です。











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