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http://zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/# 今週はアルバイト先のボスが日本不在のため、ノンビリと半休やお休みを取ったりして、普段なかなかとれない自分のための時間を持つようにしてきた。そして、昨日は一日お休みを取り、九段下での朝練後、台風上陸間近の物々しい風と湿気と雨の中、(元)地元の神保町を徘徊してて、ふと目に留まった岩波ホールの「ヒロシマ・ナガサキ」を鑑賞することにした。 日系3世のスティーブン・オカザキが25年を費やし、ヒロシマ・ナガサキの原爆被爆者のインタビューをベースに作成した地味―なドキュメンタリー。それがなんで私のアンテナにひっかかったのかというと、「音楽がモグワイだってよー、やるなー」と聞いていたからだった。真面目に「唯一の被爆国として、ヒロシマ、ナガサキの悲劇を忘れるな」という、ジャパーニーズ優等生的動機は、これっぽっちもなかったのは確かである。 ところで、太平洋戦争に対する私のスタンスは、非常にニュートラルな位置にあるのだ。これは、愛国心ある家庭で育ったこと、イギリス人配偶者を持つことで「極東→西洋」視点の転換の機会があったこと、そして相反する双方の解釈は常に国家によるプロパガンダ教育の賜物であると理解しながら、個人レベルでの人として、一国の国民として、互いの国の歴史と文化の差による大きな溝に橋をかけ続ける、結構地道な努力をしてきた結果なんである、エヘン。 日本的な被虐的歴史観も、それと反するネオナショナリズムも理解する。連合軍大国の尊大な選民意識とパワー合戦の愚かさも理解する。その上であえて、こだわりや囚われ、狭い範囲内においてのみ有効な常識という洗脳、そういったものから自由であることを選択したのが、私の「こだわり」であったりするわけです(笑) さておき、かつては隠蔽されたヒロシマ・ナガサキの惨劇を目の当たりにして、「かわいそう」と安っぽい涙を流しカタルシスを得ることだけは、恥ずかしいからしたくないよなー、と斜に構えて鑑賞すると、意外とトーンのフラットな、静かなドキュメンタリー作品だと気づく。「どうだー、こんな悲惨だったんだよー、あーだー、こーだー」と、御印籠のように「ヒガイシャー」を振り回し、ヒステリカルに煽動するような作品だったらヤダナー、なんていうのは杞憂に終わった。 被爆し、生き残り、辛苦を舐め、生き地獄の60年を「生かされて」きた証言者たちのインタビュー。原爆の開発に関わった者、エノラゲイの航空士、リトルボーイ・ファットマンに関わった科学者たちのインタビュー。原爆投下後の廃墟、目を覆う被爆者、復興してゆく町、生活を営み始める人々、進駐軍とパンパン、といった映像。連合軍サイドのプロパガンダと人種差別がバシバシの、当時のアメリカTV番組。現在の日本の平和と繁栄を象徴する、渋谷・原宿を闊歩する若者たちの映像・・・入れ替わり立ち代り、これらの映像が淡々と流れてゆく。変なジャッジメントはなしだ。FACTS・事実・・・、「絶対的な真実」ではなく、当事者たちの事実が、ただそこにあるだけ。 たしかに、そこに、惨劇はあった。 原爆の加害者がいた、被害者がいた・・・大きな全体像を捕らえれば加害者も被害者であった、被害者は「加害者」というレッテルを貼られた国家の国民であった。生き残った被爆者の敵は敵対国ではなく、自国の同じ日本人による差別であり、命を捧げよと教わったニッポン国家による無視であった。敵国アメリカではむしろ、無償で被爆者への援助を惜しまないチャリティ精神が普及する土壌が、そういう文化があった。 誰が悪で、誰が善なのか、そんな白黒ハッキリつけられる事柄じゃない。これは、どんな物事にも言えることだけど、簡単に善悪を分け隔つ線引きなど、本当はどこにもない。面白いことに、この映画の原題は奇しくも「White light/Brack rain」だったりする。それは単純に、ピカドンのピカがwhite light(真っ白な閃光)で、その後に降ったBlack rain(黒い雨)ってことなんだけど、なんか私は「白・黒」という深読みをしてしまう。 これまでの、いわゆる原爆に関するドキュメンタリーは、「被害者の日本サイドvs勝てば官軍サイド」の両極がほとんどだったと思う。つまり、白黒ハッキリした世界観。でも、このステーブン・オカザキの「ヒロシマ・ナガサキ」は、先述したとおり、限りなく淡々とニュートラルだ。これは彼の日系3世というポジションを思えば、ごくあたりまえなんだろう。だからこそ、ものすごい説得力がある。 原爆投下の数日後に撮影された白黒の映像がゆっくりと流れる。ガレキ、廃墟、この世の終焉、塵芥、死体、虚無・・・そこにモグワイの脳髄に突き刺さるようなメロディが、変なセンチメンタリズムを払拭するかのように、私たちのアタマを覚醒する。悲しくて、美しい、すごい印象的な場面に圧倒されて、涙があふれてきた。 私たち日本人はなんやかやと、ヒロシマ・ナガサキの惨劇は学んできている。この映画の冒頭に出てくる原宿の青少年が口を揃えて「ヒロシマ・ナガサキなんて知らない」というのは嘘っぱちだ。(よ、ね?)瞬時に十何万人が死んだこと、そして後遺症として何十万の死があったこと、生き延びた被爆者が差別の対象として生きてゆかねばならなかったこと・・・「はだしのゲン」をはじめ、いろんな映画や文学、音楽、ドキュメンタリーなどで、日本人だったら誰もが「大前提として身に刻まれてる知識」なはずだ。だから、このドキュメンタリーを見て、「知らなかった!」と衝撃を受ける日本人って、あまりいないんじゃないかな。「それは知識として知っていたけど、これほどまでとは・・・絶句・・・」くらいがMAXで。それよりも、「恨み節」で終わらない、すがすがしさに反対に感動すると思う。 一方、日本以外の国の人達には、知らされていない事実を知るドキュメンタリーとしての価値があると思う。この作品は今年8月にアメリカでTV放映されたと聞いたけど、どんな反響だったのかな?多分、それどころじゃないよ、ヒロシマ・ナガサキなんて過去の話でしょ?今ここにある危機の方がもっと大事なんだからー、で終わっちゃうんだろうな。 でも、見に行ってよかった。知ってるつもりで知らなかった事実に触れられた。なによりもこの日は上映後、作品内でインタビューを受けていた被爆者のひとり吉田勝二さんのトークがあった。確かに後遺症として身体的不具合があるけれど、すごくポジティブなエネルギーを発散されていて、疲れきってる私たち現代人よりもっともっとパワー溢れてる。だからこそ、彼は被爆しながらも「生かされ」て、こうやって「伝える者」として選ばれたのだと思う。最後に握手させてもらった彼の手は、柔らかく暖かだった。 ただ、いただけないのは、トークの後の質疑応答時に、いかにも!の市民グループっぽい方の、「平和」「第九条」について、サクラ的ご意見があったこと。せっかくの、この作品のニュートラルなポジションが理解されず、一部のファナティックな団体のツールになっちゃうのは、やだなぁ。
2007.09.07
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「チェド」などで有名なアフリカ映画の父、ウスマン・センベーヌ監督による2004年作品。女子割礼(「男子割礼」と同一視されるのを避けるため意図的に「女性器切除=Female Genital Mutilation(略してFGM)」と呼ばれる)をテーマに、大らかに「愛と勇気」を示す、後味の良い、ちょっとした感動作。女子割礼という未だ残る習慣そのものが衝撃的すぎるため、映画自体の良さが半減してしまう向きもあるが、全体を貫くのはあくまでも大らかな愛であり、その強さと勇気だ。割礼儀式から逃げ出した4人の少女達をかくまう女性と、その家族、コミュニティとの軋轢というのがストーリ展開。詳細はこちら。 http://www.alcine-terran.com/main/moolaade.htm#introこの映画を見て、「えー、野蛮!信じられなーい」と眉をひそめ、異文化を軽視するのは簡単だ。私たちは皆、程度の差こそあれ文化的背景に「洗脳」されているのだから。当事者でありながら異を唱える強さ、当事者であるがゆえの苦悩と葛藤、そこをちゃんと見据えないと、トンチンカンな方向へ(イスラム=女性蔑視・野蛮!)向かってしまうからね。日本人である私が人道的見解から「FGM反対!それは100%悪である!」とヒステリカルに叫んだところで、白々しい驕りがそこにはある。当事者たちの戦いの手助けはできるし、素晴らしいことにそれを行う選択肢を私たちは与えられている。でも、その前に狂信的にならないよう、メディアに翻弄されないよう、物事には「なぜそうなのか」がちゃんとあるという当たり前のことをおざなりにしないよう気をつけたい。FMGの現状については、ソマリア出身のオランダ議員アヤーン・ヒルシ・アリ女史のインタヴューで知った。イスラム女性解放運動家でもある彼女は、自身も実際に割礼を受けている。テオ・ヴァン・ゴッホと共同作成した映画「サブミッション」において、イスラムへの(特に女性の扱いについて)強い批判を表明した。これはイスラム原理主義者によるテオ監督殺害などの報復劇としての側面がクローズアップされたので、記憶に残っている方もいらっしゃるでしょう。(最近では国籍剥奪などでメディアを賑わしてますが)FMGの実態は、こちらを参照ください。これまで「女子割礼」の字面だけで想像していた自分が恥ずかしくなります。BBCレポート WAAFのページ 以下抜粋です女性性器切除(Female Genital Mutilation=FGM)とは女性の外性器を全部もしくは部分的に取り去るものです。主にアフリカ地域で古くから行なわれてきた女児の通過儀礼・慣習です。歴史的な記録が何も残されていないので、その起源は明らかではありませんが、おおよそ2000年以上も前にエジプトからアフリカ大陸に広まった慣習であるという説もあります。FGMのタイプ1)タイプ1:クリトリス包皮への切り込み、あるいはクリトリスの一 部もしくは全部分の切除。(スンナ式とも呼ばれる)2)タイプ2:クリトリス全部と小陰唇の一部あるいは全部の切除。(クリトリデクトミーもしくは切除方式)3)タイプ3:クリトリス、小陰唇を切除し、大陰唇を切り開き、尿と月経のための小さな穴一つを残して縫い合わせる。子どもの両足をしっかりしばって数週間、傷が治るまで固定する。地域によっては、自然に閉じてしまうよう縫合はしない。(外性器縫合)4)タイプ4・未分類:ヤンケ・ギシリ切除(長時間分娩の場合伝統的に行われてきた恥骨結合切開術)、あるいはアンギュリャ切除(赤ん坊の処女膜の環を切り取る)、クリトリスや陰唇を突き刺す、あるいは穴を開けるなど。国連機関の報告によれば、タイプ1が行われることは少なく(全体の5%)、タイプ2が最も多く行われている(全体の80%)ということです。一番深刻なタイプ3(外性器縫合)はFGM全体の15%で、ジブチ、ソマリア、スーダン北部など行われているFGMは主にこのタイプです。
2006.07.11
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"Sweet sixteen" Ken Loach 2002イギリスを代表する映画監督といえばマイク・リーとケン・ローチだと信じて疑わない私ですが、まさか休日の夜7時というホゲホゲタイムにケン・ローチの最新作をスカパーで見るとは思っていませんでした。やるなスカパー、それもシネフィル・イマジカじゃなくてムービープラスというあたり。なんといってもタイトル「Sweet Sixteen(スウィート・シックスティーン)」で、なおかつスカパーの7時台なわけで、こりゃ「胸キュン思春期のホルモン映画」を普通期待するもんです。何も考えずスカスカのハリウッドエンターティメントを堪能することで、来たる激務ウィークに備えるというのが週末の習慣である私とダンナは、共に事前知識ナシでアルコール少量摂取済みという万全の体勢でリビングルームの陣地を守り固め挑んだ、スウィート・シックスティーン、夢見る16歳。しかしながら映画が始まり、微妙に「こ、これは英語か?」と20分の1くらい聞き取れる英単語モドキと特徴あるアクセントがぶっきらぼうに抑揚無くポツリポツリと流れる画面はこれまた灰色の小汚い気落ちするような日常の絵にならない光景、あちゃースコッティッシュのワーキングクラス映画かい、こりゃ字幕必須よねなんてごちていた矢先に画面に表示される監督ケン・ローチの文字。無言ながらも私とダンナの脳裏には「覚悟」という意思がみなぎったのは言うまでもない。ドラッグディーラーとしてリスキーなロウライフを送る典型的ルーザーの父親と祖父と共に住み、母親は刑務所で服役中、学校も9ヶ月前から行くことを辞め、ヤク中の父親に育てられた同じように落ちこぼれの親友と日々煙草を売り歩き小銭をかせぐ毎日、そんな普通の15歳の少年がこの映画の主人公だ。人は皆生れ落ちた環境でまずサバイバルを強いられる、これは万国共通。しかし豊かな先進国の貧困ほど正義道徳良識善意の表層に隠蔽され、かつ資本主義の魔力に支配されているが故に救いがたいと思うのは私だけか?生殺し状態、出口なし。服役中の妻にさえ刑務所内でのドラック販売を平然と強要するような父親&祖父を嫌悪し母親への恋慕を募らせる少年は、しかしサバイバルの手段として、「ここ」から抜け出すために、愛しい母親を父から救うために、金がなきゃ始まらないという資本主義社会の一員として、いともたやすく麻薬販売に手を染めるのであった。ただ単にヤク中がディーラーを始めるというのではなくて、むしろ「できることならリセットしたい」劣悪環境の根源としてのドラッグを嫌悪する本人が「それ」を金稼ぎのツールとして選択してしまうのがもう既に相当に絶望的だ。当然のように地元ヤクザとの関わりを持ち始め、現金回収ビジネスゆえの分厚い札束の権威に己を見失い(ああ、典型的なヌーボーリッチ成り上がりメンタリティ)、挙句の果てに手に負えない唯一の親友を裏切り、手にした「アチラ側の生活」とやらは果たして彼の本来の目的であった母親と姉と彼女の子供と平和に暮らすという、根源としての彼の純真さとはあまりにかけ離れていないか?答えは簡単にあっけなくこの映画のクライマックスで展開される。ラストシーンでの少年atちっとも美しくないビーチ。携帯電話の向こうから聞こえる姉の声は響くI love youと。しかし少年は声に出して答えることができない。そこでやり直すことなど不可能な現実の重みと怒りと悲しみと家族への変わらぬ慈しみを抱え迎える16歳の誕生日。現実は残酷だ、けれど逃げ出すことはできない。理性や教義や道徳や良識がひとつでも救いとなりえたのだろうか?答えは明らにそこにある。マイク・リーの作品やアラン・パーカーの「コミットメント」なんかだと、厳しい現実はちっとも変わんないけど、ささやかな希望は確かにそこにある(あった)よね、という痛みを伴うポジティブさ、といった泣き笑いしたくなるような爽快さがあるのだけど、ケン・ローチはそこんとこ超現実派というか殆んどハードコアです、挑戦的。笑いも怒りも悲しみもナシ。ただただやりきれない出口ナシの絶望感だけが目の前に広がるのを途方に暮れて見つめるのみ。
2005.01.10
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先日フィリピンのパラワン北部に行っていたとき読んでいた本がこれだ。1回目に読んだときはナナメ読みだったので、なにもしない時間があまりある旅行中に再度改めて今度は熟読しようと思いバックパックに詰めた。ところで「速読」ならぬ「ナナメ読み」の習性が私にはあり、昔はそれを自慢していた時期が確かにあった、バカです。記事を読む、仕事上の書類&メイルを読む、何かを検索する、リーディングテストといた場面では時間短縮の観点から有効かつとっても便利だけど、文学の場合は読んだ気には充分なってるくせに内容的には漠然とした全体像-主旨とかポイントが把握できる程度-しか残らない。そして何と行っても文章を堪能するという愉しみを放棄してしまうという本末転倒さ。しかしこの悪癖は東京などにいると顕著であり、旅行先では発揮されないのが不思議だ。ところで訓練された「速読」の場合はどうなんでしょう?内容は熟読したのと同じくらい鮮明に脳裏に残るのだろうか?47歳のイギリス女性イザベラ・バードが1878年に日光から東北地方そして蝦夷までを辿った奥地旅行記である。当然車や電車ましてや舗装道路などのない馬と徒歩による「奥の細道」的珍道中はかなりエキサイティングで愉快だ。文明開化の明治維新からまだまだ10年足らず、人々の意識や生活が怒涛の変化を経験してるとはいえ限られた地域・人種の中だけのハナシで、ひとたび山村へ入れば相も変わらぬ貧しい生活とメンタリティが健在するという時期が背景。外国人、ましてや女性が、こともあろうに東北の山村をゆく!現地の人々の異なる生活文化に触れるにつけ、こと細かに記述がされているが、彼女の基本的スタンスは、生活・衛生・マナリズム・外見の基準は「我々が絶対」であり、また「正しい先進者としての義務」を抱えた植民地主義精神丸出し、つまり「我々の価値観から見下ろした貧しい国の愚民を観察する」に終始しているあたり笑えます。小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいた…。日本人は西洋の服装をするととても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。「日本食」というのは、ぞっとするような魚と野菜の料理で、少数の人だけがこれを飲み込んで消化できるのである。家はみすぼらしく貧弱で、ごみごみしていて汚いものが多かった。悪臭が漂い、人々は醜く、汚らしく貧しい姿であったが、何かみな仕事にはげんでいた。 【平凡社「日本奥地旅行」イザベラ・バード著 高梨健吉訳】知り合いにこの本を読んだ人がいて、その人曰く「大変腹が立った」そうだ。私は正直その感覚が理解できなかったが適当に相槌をうっておいた。確かに「貧しい・汚い・醜い」という否定的な表現で日本人が語られていて、差別的だと錯覚する人もいるかもしれない。でも差別と区別は別なのだ。差別は区別をした上で、差異を理由に不公平な待遇をすること。特に日本人は「異なる視点」に対してナイーブ(愚鈍で幼稚の意)なので、こと「我々」がこちら側の事情も理解されず一方的に糾弾されるという事実に、平気で怒ったり傷付いたりできる幸せモンでもある。思想はそこ止まりなんすね、きっと。じゃ反対に私達はどうなのよ、と言えば。例えば異国を旅したときに、底辺で暮らす人々を目の当たりにしたとき、どう感じるか?汚ったねー、臭い、こいつ手足ボロボロに溶けててキモーい、ウンコしたら手洗えよー、などなどオノレの価値判断基準を元にジャッジして区別するのが普通ではないだろうか。しないとしたら確固たる自分が出来上がってないというだけのことですが。その上で良識あるワタクシ達がどう発言するかというと、「人々は貧しいが笑顔がステキだった」とか「彼らは怠け者ではなくただ自然のリズム共に暮らしているのだ」などの陳腐炸裂いったい何様?的センテンスに陥ってしまうという悲劇。自分の中での区別判断を「これは差別的かな?」なんていう自主規制のもと隠蔽してしまう。「ま、彼等には彼等なりの事情がありますからね、我々がとやかく言える筋合いではないでしょう」「ここは外国、彼らの国、彼らの常識を尊重しましょう。私は旅行者でマイノリティ」というのが大抵の折り合いの付け方といったところか。彼女の判断基準は揺るがない。そして記述は決して感情的ではない。「なんでもブラボー」でもなければ「全てがクソ!」でもないが、どちらも在り得るというバランス。何よりも彼女の行動そのものは驚愕にあたるし、120年も前にこんな旅をした女性がおり、その時の記述が残され、この国に住む私達がそれを読むことで当時の生活を知るというのは幸運であるというほかないんじゃないか?追記:また彼女は日本のみならず世界各地を訪れている旅行家探検家であり他にも多数著書がある。「英国女性の見たアメリカ」「ハワイ諸島の六ヶ月間」「一婦人のロッキー山中生活(ロッキー山脈踏破行」「日本奥地紀行(日本の未踏の土地」「マレー半島紀行」「ペルシャ・クルジスタン旅行記」「朝鮮とその隣国」「揚子江とその奥地」
2004.06.05
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Mulholland Drive 2001 USAデヴィット・リンチ監督デヴィット・リンチ製作総指揮出演:ナオミ・ワッツ ローラ・ハリング恥ずかしいのですが私「イレイザー・ヘッド」「ツイン・ピークス」系のデヴィット・リンチ作品大好きなんです、軽率ですみません。これにより何が証明されるかというと、「マルホランド・ドライブ」あちゃー大変楽しく激しく堪能してしまいましたのだー。昨夜スカパーで観て、ダンナは激昂・わたしゃニンマリ、果てには馬鹿馬鹿しい口ケンカまでしてしまうほどの意見の相違、ははは。リンチさん私の家庭を壊さないでください・・・いや壊れた家庭の人間関係とそれぞれの心のエグイ深層というのもオツなものかもしれませんが・・・いかんいかんリンチワールドに思考が傾倒しかけてます、ワクワク・ゾクゾク。ストーリーは陳腐なまでに単純な恋愛モノ。ただしご注意めされよ、全編これ「ワナ」と「キー」の大放出ゆえ、迷子ちゃんや溺死体にならぬようココロして見るべし。なんか居心地が悪くなるような、血管がゾワゾワするような、微妙な不快感、早まる動悸、恐怖心、好奇心、怖いもの観たさ、ワタシの平常心を返せ!というお決まりの「構図・色彩・サブリミナル効果・残像・音楽・効果音・台詞・俳優・展開」が大全開。でも結局Loveなのよーという陳腐さが愛おしい。「イレイザー・ヘッド」のセントラルヒーターの隙間から展開するミニ舞台でオタフク少女が切々と歌いあげる曲(In heaven everything is fine)と光景は、半分夢心地で過ごした中学時代の教室での幻覚とオーバーラップ。「ツイン・ピークス」の赤いカーテンの部屋のやんちゃな秘密結社サロンへの入り口はいつでもすぐそこにあるのだという、現実に適応できなかったプー太郎時代の確信。私的体験とのリンクがうれしいリンチ作品。ま少なくとも「ツイン・ピークス」好きは気に入ること間違いないです。観ている間はストーリーを追うな!観終わった後に組み立てよう。事前に解釈モノを読むのは厳禁。解釈は見た人の数だけあるのだ。そして映画とは娯楽であり学問ではなーい。全ては大した意味を持たずしかし知らずと関係性を結びそして全てのものには必ず意味がある。
2004.05.01
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Donnie Darko 2001 USAリチャード・ケリー監督ドリュー・バリモア製作総指揮ジェイク・ギレンホールドリュー・バリモアパトリック・スウェイジ「すんごく中途半端で訳のわからんB級映画だけど絶対キミは好きだと思うよー」とダンナに言われてシブシブ見たのがこれ「ドニー・ダーコ」んでどうだったのか?というとこれが良かった!のでありました(単純)主人公は境界人格障害でちょっとやばめ側寄り。イマジナリー友達の黒ウサギは日々出現するし、日常の空間を平気で幻覚が交錯するし、でも可愛い転校生と恋に落ちたり、クラスメートにいたぶられたり、友達とタバコを吸いながら空き缶シューティングに興じるどこにでもいるようなちょっとヘンだけどフツーの高校生。子供時代から大人に差し掛かる直前というのは理想と現実のギャップを目の当たりにするコトの連続で、向こう側のオトナは皆キレイゴトだけの偽善者にしか見えない時期だ。ましてやちょっとだけ人格障害なんているハンディキャップを持ち合わせている彼には、日常がキツイことこの上ない。毎週セラピーには通わなければならないし、両親はガミガミ、TVではインチキ宗教カリスマがFearに打ち勝とう!と勧誘しているし、道徳の授業ではまっとうな意見すなわち反逆・異端と判断されてしまうし、ちょっと理解ある英語の先生はクビになるし、あーあやってられないっすよ、といったところか。僕は何をしているんだろう、僕は僕自身でいてはいけないみたいだ、僕はどこへいくのだろう、僕はどこからきたのだろう、僕はこのまま黒ウサギに支配されちゃうのかな?そんなある日の夜、彼の家に飛行機のエンジンがどーんと降りてくる。ドッカングシャグシャバリバリと家の屋根を突き破り、彼の部屋を直撃。しかし彼はその夜夢遊病者のように近くのゴルフ場で寝ていたため助かる。エンジンが落下したけれど肝心の飛行機本体が見つからず!という不可思議な事件は一時町じゅうの格好のニュースとなるが、主人公にとっての日常は変わらない。しかしこの日を堺に彼はひとつの結末「そこ」へと向かって進むのであった。タネ明かしはしませんが、ラストであーそういうことねーという解釈が見た人の数だけあるような結末です。つまり「これよ!」というはっきりくっきりした正確な回答も親切な説明もはナシ。見た人の解釈により駄作にもなるし傑作にもなるという作品です。ついでにBGMがなつかしの80Sというあたりでちょっとポイント高かったです。いきなり幕開けでガツーンとEcho& the Bunnymenの"Killing Moon"これは反則です。他にもJoy Divisionや初期Tears for Fears等印象的かつ意味深。すべてはこの日に帰るために。
2004.04.12
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Chicago cab 1999 USAマリー・シブルスキ監督ジョン・キューザック製作総指揮ポール・ディロンジュリアン・ムーアジョン・キューザック舞台はシカゴで時は現代クリスマスのとある日。しがないチープでチンケなタクシードライバーの「弱者」として都市に生きるひとりの白人男性の1日をコミカルにそして絶望的なまでの閉塞感と悲哀を背景に描いた秀作。タクシーという密室、それが3分であれ1時間であれドライバーと客はまったくの他者、まったく別の価値観ワールドに存在する他人同士として時を共有する。出産間際の妻とハゲシくケンカ中の黒人夫婦、ラリラリの白人ドラッグディラー、鼻持ちならない黒人女性弁護士、ニューヨークから来た典型的な酔っ払いヤッピー、精神異常?の恐怖感を漂わせた挙動不振の白人男性、もういかにも不倫中です!ホテルに行くまで待てません!の爛々カップル、成り上がりのインスタント金持ちの低俗な欲望と犠牲寸前の純朴な受付嬢、キレっぱなしの八つ当たり白人中年女性・・・もうとにかく神経磨り減る客ばかりを乗せ、無教養で低所得ゆえに都市の底辺で生きるしかない主人公は、クリスマスの明るくハッピーな街の雰囲気の中どんどん荒んでいく。それは怒りなのか諦念なのか?彼はアタマの回転も悪いし明るい性格でもない、けれど擦り切れた服装やゴミ溜めのような車内とは別の次元で、彼の精神は子供のように純真で美しいのだ。この映画基本的に性善説。人は皆純真でうつくしい心をもってこの世に誕生するのだ。だけど残念なことに環境が人を作り上げるコトになっているので、結果として残酷な現実が今私達の目前にあるし、私たちは「それ」を前提として生きていかなきゃなんない、ということだ。映画のクライマックスで主人公は善意からオノレの信ずる正義を遂行するが、それは人を傷つける結果となる。そして後半で客として登場する女性はいましがたレイプされた犠牲者であった。主人公には何もできない。彼は彼女を救えない。自分は何だ?一体何様なのだ?本来気高くあるべき純真さは自分の中にあり腐った環境の中で窒息寸前なのに、何故自分はあるべきものであれないのか?I am very sorryと繰り返し言うこと、それが彼のできる全てだ。奈落のような自己嫌悪の最中、ひろった客は裕福なしかし良識ある黒人建築家であった。夜中まで残業中のため夜食を取りにいくためにタクシーを拾ういかにも知識層然としたこの客はつい最近母親を癌で亡くしたばかりであると告げる。主人公はついいましがたレイプされた女性を乗せたと告げる。主人公と彼の間にひとつの空気が流れる、there is nothing I can doということはいつでもどこでもあるのだという連帯感?彼が降りるときドル紙幣を主人公に渡し「釣りはとっておいて」と言う。主人公の表情からしてそれが相当額のドル紙幣であることは明らかだ。主人公は「それはできない」と彼に告げる、が、しかし結局彼に説得されるようにそれを受け取る。主人公は施しを受けたのだ、主人公はそれを受け入れた。受け入れることで主人公は自分が絶対的な弱者であることを認める。なんたる現実、そして幕が下りる。しかしながらこの映画の素晴らしいところは悲壮感よりもコメディとしての乗りが一環しているところ。単なるお涙頂戴モノとは一線を画している。ナイト・オン・ザ・プラネットを彷彿させる部分もありますが、私達の世界の悲哀と馬鹿馬鹿しさを上手く表現しているなぁ、と脱帽であります。ところで余談として。映画は学校サボって蒲田や飯田橋の名画座へ足しげく通っていた高校生のときから私の人生には欠かせない。オンガクとはまた別次元で思い入れはかなりある。けれどあまり映画は語ろう、と思ったことがなかった。私の心の中で充実してしまうだけで満足、といったところか。昔は映画館で映画を観たものです、それがレンタルビデオに変わり、今ではそれすらも億劫でスカパーでひと時代遅れの作品を見るのみ。それでもたまにココロに残る映画に出会うと堪らなくうれしい。なのでたまにはそんな映画のことも書き留めておこうかな、と思った次第。
2004.04.09
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読書記録2004/MAR「日本奥地紀行」イザベラ・バート「石・紙・鋏」アンリ・トロワイヤ「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」岡崎京子「痛いほどきみが好きなのに」イーサン・ホーク「Borderliners」Peter Hoegあんまり下世話な読書をしたくなかった月。1月2月の反動か?過去の記録逃避思考丸出し。ああ、こうして私たちはゆるやかに倦怠してゆくのだなぁ。
2004.03.27
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先日出張の際に、新幹線で読む本を駅構内の本屋で買った。イーサンホークの「痛いほど君が好きなのに」文庫本。そんなことって普通にあるんだよね、的な共感を呼ぶ静かで熱い恋愛小説であった。しかしながらこの邦題はないでしょ?「痛いほど君が好きなのに」だってぇ?おいおいおい。"The Hottest State"小説内で主人公が小学生のころ書いた作文のタイトル「あついまち」というのが本題。悲しみと憎しみと絶望と慈しみが過酷なまでに渦巻く環境にさらされた繊細なガキの心の内実の混沌を抱えながら、あえてこの抑えたしかし多くを意図するタイトルの幼稚な切実な作文というのが、つまりこの小説全編を貫くスタイルであって、「それ」をあえてベタな言葉にしてしまうのはちょっと卑怯でないか?キミィ行間を読めよ!というか行間を読めない読者は読むな、ってことです。その昔Peter Cameronの "Family Dancing"やEthan Caninの"Emperor of the air"を愛読していた頃のせつないドキドキ感を思いおこさせる良作。ちょっと荒いけど、ま、俳優の書いた小説ってことでそこはご愛嬌。
2004.03.20
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一度でも肉体改造を試み「ターザン」を読みつくした方ならご存知だろうが、トレーニングとは筋肉にストレスを与え組織を破壊させ、その後充分な休息を取ることによって破壊された筋肉組織の超回復(以前よりも太く逞しくなっている)によって達成される。つまりストレスの負荷を高め、それに耐えうる強さを「ストレスによるダメージ後の充分な休息」によって得ようというものだ。これをメンタル面で考えてみましょうという本を読んだ。その名も「メンタルストレス」ジム・レーヤー著(重川元志訳)だ。もう最初の章に目を通しただけでも「あ、この先こうくるんだろーなー」というのがミエミエの何とも判りやすい、というか本の帯を読めば充分ないわゆる「買損」の典型。つまりはこうなの→精神的ストレスは過剰になると筋トレと一緒で重大なダメージが伴う。一方まったく精神的ストレスのない生活をしていると筋力と同様に耐性レベルが低下してしまう。適度な精神ストレスと充分な気分転換、そして精神ストレスのレベルを上げていくことによって「貴方のストレスに対する耐性が高くなる!そうすることで貴方は精神的ストレスを自身の意思でコントロールできるはず!」という、なんというか、まったく。そんなことは言われなくとも常識として誰もが判っているのに改めてそうもポジティブに断言されちゃうと、ちょっとねぇ、とついついひるむ私だ。筋トレなら自分の意思で行動を選択できるけど、精神ストレスを「おーし、最近ストレストレーニング怠けてたから今日は”飼い犬が死んじゃったショック”トレーニング×10レプスでもやるかね」とはいかんでしょ。低精神ストレスレベルの生活を送る例として専業主婦をあげているが、いきなり専業主婦歴30年の人が「よーし明日からバリバリのジャーナリストとして世界中を周る超ストレスライフに挑戦よ」てのも無理でしょ。いやいやいやいやジムさん、とりあえずは本能として私達は「ストレスと弛緩」を絶えず行っているのだからして、ま、shut your mouthでお願いしたいもんだ。こんなん読むんだったら東海林さだお氏の「なんたってショージ君」読んだ方がよっぽど人生を豊かにできる。(ほとほと日本人)
2003.11.26
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感情的でもセンチメンタルでもシリアスでもゴーマンでも大げさでも嫌味でも卑屈でもコミカルでもない所が小気味よくて、大変気持ち良くサクサク読んだ。要は旅先でこんな「ひええ!」な目にあったんだけどさ、って話集。何がいいって売春とかドラッグとか大抵の人達が暗黙の了解で触れずにいる「当然」の部分をフツーの話題にしている所だ。大抵の「旅本」ではこういった話題に関して、清廉潔白で無視を決め込むか、マニアックに鬼畜ぶりを披露するかの両極端が常だっったけれど、ようやくフツーに「それ以上でもそれ以下でもない」あたりまえのモノとして語れるスタンスの軽さを持つキョービの若者登場って感じ。で、己の過去の「ひええ!」な体験を思い起こしてみた。酔ったイキオイで通りすがりのタイのオカマに侮蔑的な言葉を発してしまい、怒り心頭の直情的な彼(彼女?)にビールビンでアタマをカチ割られた。救助してくれたローカルは病院までトラックの荷台に乗せて運んでくれたが最終的に500バーツ!と請求されて又ケンカした。フィリピンのジャンキーに宿敵と勘違いされて「手当たりしだい何でも投げつける狂乱状態の的」になった。ヴィエトナムのメコン河でボートマンにナイフを突きつけられて「1万円orコロすぞテメー」脅迫を受けた。でもちゃんと説得したら納得したヘナチョコなボートマンであった。フィリピンで自分の部屋をを狙っている泥棒を発見したが、それをダンナと間違えてなれなれしくへらへら近寄ってしまい、1mほどの至近距離でようやく気づき、慌ててキチガイの振りをして「@#&!!**~っ!」と奇声をあげつつ逃げた。結構海外に足を運んではいるが、これくらいしか思い出せないのだ。でもこういうハプニングがあるから旅は面白しろいんだけど、最近はタヒチとかニューカレとか軟弱な旅行ばっかりなので「なーんにも起こらない!」ねぇねぇ、これが良識ある大人になるっていうコト?
2003.10.02
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芥川龍之介大全集。10年くらい前にペーパーバックのような粗悪な紙で出版された「ザ龍之介」を引っ張り出してランダムに言葉を堪能しながら読み返している。高校生の時にかなり傾倒したが、その時とはまた違った印象や解釈ができて楽しい。なんと哀れな傲慢さ!己の醜悪を痛々しく断罪するロマンチスト。ヒーローは色褪せない。The indispensable CALVIN AND HOBBES現代のWinnie the poohと私は感じる。純粋でせつなく残酷でコミカル。大人になるって、こういう気持ちを捨てることができるってこと?Hail to the theifこんな程度なの?いや~こんなもんじゃないハズでしょ?確かに聴きやすく良曲多くて万人受け、でも正直言ってこれはReadioheadである必要があるの?無くないか?Magnet "on yourside"もう最近はこれだ。ノルウェー出身のロマンチックなカウボーイ。夢見ごこちの浮遊感、目覚めたくない、だって現実はいつだってあんなに過酷なんだもん、あと5分あと5分。。。。という感じ。今夜もベッドで聞きながら眠ろう。
2003.06.25
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「ビーチ」という映画が嫌いだ。レオナルド ディカプリオのせいだけではない。(しかし多分にある)あまりにも表面的でイージー。勿論そんな映画は腐るほどあって、驚くほどのもんじゃないがこの「ビーチ」は舞台がタイのバックパッカールートなだけに私のカオサンロードに対するモロモロの感情とオーバーラップしてしまう。カオサンロードはバンコクにある、世界からのバックパッカー御用達小路。安宿・ガイジン向レストラン&バー・格安旅行会社・みやげ物屋で埋めつくされた500メートルもないストリート。貧乏旅行者には全てがそろっていて、便利なことこの上なし!なので当然私も何度か利用させてもらったが、しかし、ここは妙に「違和感」「居心地の悪さ」を感じさせる。添乗員付きのパッケージツアーとどこが違うの?と思うくらい、現実から隔離された空間がカオサンロードだ。その温室のように守られた空間の中で、自由を享受する旅行者。当然「旅に出る」というコトは、その人の日常からの一時的逃避だから自由を満喫するのはあたりまえのことなんだけど。でもカメラ片手の「おのぼりさん」観光客との違いなんて見た目が「いかにも」の刺青長髪ヒッピールックであとは「お金がない」ってだけなんじゃない?もちろん、このカオサンロードを出発して各地を巡る旅に出ればそれぞれがインデペンデント・トラベラーになるんだけど。カオサンロードに埋もれている限りは、ただの水槽の中の金魚だ。なんてコトをぼんやり考えているのは来週コタオ(タオ島・タイランド)へ行くにあたりバンコク到着が夜10時過ぎのため、一泊しなきゃなんないね~、とダンナと話してて「でもカオサンには泊まりたくないよな!」と意見が一致したからなのであった。「でもチケットとか取るのに便利なんだよね、あそこ」「全てが揃ってるしね」「バックパッカーのコンビニだからね」「安いしね。。。」そして、きっと私達は悪態をつきながらもカオサン近くに泊まると思う。コンビニの弁当って最低!と言いながら時間がなくてオニギリ買って食べてる時の気分で。で、尻切れトンボになってしまった「ビーチ」の話要は「僕達の温室・僕達のパラダイス」的なカオサンムードを終始感じてしまって、嫌、それだけ。それがタイランドである必要性がないじゃん、って感じ。でも、もし主人公がレオナルド・ディカプリオではなくユアン・マクレガーだったら私のこの映画に対する印象も違っていただろうな、と彼の主演の"Rogue Trader"(日本語タイトル「マネートレーダー銀行崩壊」!)を観たアトにふとそう思った。
2002.12.14
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