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新聞にほつくの熱さを見る日哉(明治26) 朝々の新聞も見ず冬籠(明治26) 新聞は停止せられぬ冬籠(明治30) 新聞を門で受け取る初日哉(明治31) 納豆賣新聞賣と話しけり(明治34) 子規は、明治25(1892)年11月17日に母・八重、妹・律を東京に呼び寄せて同居を始めます。翌日、隣に住んでいる陸羯南に呼ばれて、子規の「日本」新聞社への正式入社が決定しました。毎日の出社は必要ない代わり、月給は15円。明治25年11月18日、叔父の大原恒徳に宛てた手紙には「右手紙書き畢らぬところへ陸より呼びに来たり参り候ところ、いよいよ毎日出社のことに相決まり候。しかし別にこれというほどの職業も御坐なく候ゆえ、いやな時は出勤致さずともよろしくと申し候。そのかわり月俸十五円に御坐候。これは陸一人よりいえば大いに気の毒がるところなれども、社の経済上予算相定まりおり候ゆえ、本年中は致し方これなく、来年になれば五円か十円のところはともかくも相なり申すべくと申しおり候。それまでのところ足らねば、自分が引き受け申すべくよし、懇に申しくれ候。……もっとも我が社の俸給にて不足ならば、他の国会とか朝日新聞とかの社へ世話致し候わば三十円ないし五十円くらいの月俸は得らるべきにつき、その志あらば云々と申し候えども、私はまず幾百円くれても右様の社へは入らぬつもりにござ候」とあり、この給料で不足なら他の新聞社に紹介するという羯南に対して、いくら給料を貰っても他の会社には入らないつもりだと、子規は断ったといいます。 国民主義を貫いていた「日本」新聞では、俳句入りの文章によって国体を鼓舞しようと考えたようです。子規の入社は、国民主義高揚と新聞政策の面からスムーズに決まったようですが、発行部数の少ない「日本」新聞では、少ない給料に甘んじなければなりませんでした。 妹の律は、『家庭より観たる子規』で「日本新聞の入社が二十五年の十一月でしたから、東京へ御家族移転当時は、まだ月給も取っていられませんでしたのに……入社当時の月給は二十円くらいでしたか」と尋ねる碧梧桐に「月給は十八円でした。ですから毎月の払いが、いつも家賃だけ不足していました。……社に出るようになって、毎日出勤しましたが、帰宅が遅くなるということも、そう度々ではありませんでした。宅におれば、大抵書き物をする以外、俳句分類を昼でも夜でもやっていました。夜遅くなる時は、お前らはもう寝えよ、と言って一人で起きているようなことも度々でした」と語っています。 12月1日、子規は日本新聞社に初めて出社します。子規は、それまでに「かけはしの記」や「獺祭書屋俳話」を連載していましたが、堀江沖に軍艦千鳥が沈没し死者七十四人を出した事件に題をとり「ものゝふの河豚にくはるゝ悲しさよ」の句を詠み、その句は翌日の紙面を飾りました。 「日本」編集長の古島一雄は、「日本」が9月1日、発刊停止となった時の子規が詠んだ句「君が代も二百十日は荒れにけり」を入社後の句だと勘違いしています。これは、子規が「日本」社内の人々と充分馴染んでいた証拠なのでしょう。 正岡子規なる一学生が社会に名乗を上げたのは二十五年五月二十七日螺子の名を以て『かけはしの記』なる一篇の紀行文を日本新間に寄せたのがそもそもの始めである、もっともこれより以前、羯南君の宅へはしばしば行ったことがあったそうで羯南君はほぼその文学上の所論を認識しておったから入社せしめてその材能を揮わしてみたいとのことであった、僕は兎に角何かその作品が見たいものだといったが間もなくかけはしの記なる投書を寄せて来た、しかし正直なことをいえば、僕は当時この一文に左程の注意を払わなかった、なぜといえば文学上のことは僕は一切門外漢である。ことに俳句などと来たらその善悪その新古ほとんどこれを撰別するの能力がない、従ってこれを読んで何の感じも起る筈もないが、ただ俳句入りの紀〈行〉文という、一寸その頃には珍らしかったから、新間の材料には面白かろうと思うた位のことであった。 程なく君の入社となったが、その当時日本新聞は欧化主義に反対して起こりたる余勢をもって、その主義を鼓吹する上から国文を振興しようという考えで、しきりに小中村、落合二君などの和歌入りの紀行文を載せておった。従って俳句入りの文章もしくは俳文体のものなども幾らかその助けになるのみならず目先が変わってよかろうという、主義発揚の上やら、ないしは新聞政略の上から君の入社に賛成した。 が僕は正岡その人にはまだ重きを置かなかった。というものは僕はその当時すべて大学の卒業生などいうものは多くは新聞その物を作る上には左程役に立たぬという概念を以ておったからだ。成程、何々学士とかいうと一科専門の事柄に対しては相当の調査も出来るが、それは時間のないゆっくりとした時のことで、日常の出来事に対しての批評もしくは報道におては、どうも間に合はぬが多い。新聞の事業は巧遜よりも拙速を貴ぶのである。如何なる名文章でも如何なる名議論でも、日数を経ては十日の菊である、一時一分を争う新聞事業の上に官吏の自宅調べというような調子で参考書と首っ引のノンキな遣口ではとても間に合わぬ、ことに文学者などと来たら大抵は人間界とかけ離れた空想家が多くて従って常識が欠けておって世態人情には迂濶である。そうして新間の方はどうかというとたかが四千万人より読者のない文字である、だから第一国として売口が日本国内に限られておる。売口が少なくて読者が少なくて、そうして新間紙の数は割合に多いから新聞その物は営業としてはなかなか困難である。従って各種専門の人材を網羅して分業的にその各方面に当らしむるというような完全なる組織は新聞経済の上から許されぬ。さればこそ目下新聞社界が要求する記者の材能はその深奥なる一科専門の学者よりは、むしろ八百屋的に勧工場的に奥行よりは間口の広い融通のきく人間を欲しがるのである。大学生かの如く新聞社かくの如しとすれば、僕が子規君に重きを置かなかった所以も分るであろう。もっとも君は羯南君の忠告をも用いず、試験のために学問をするのはいやだといって大学を止めたと聞ておったから多少俗流とはその趣を異にしておるのみか、きっと覇気のある男だとは思うておったが、兎に角前にいいしような観念があったのと、今ーつは純文学は人事と関係のない以上は、新聞紙の上には不調和のものであるという考を以ておったのもその一因であった。 ところが君が入社して先ず筆を執ったのが例の有名なる獺祭書屋俳話の一篇で、君が俳句上の所論を公けにした、いわば俳句界革新の暁鐘であった。僕は成程一寸変った議論だとは思ったが、なにたかが十七字のチョンノマ文学だ、善いも悪いもあったものかと高をくくっておった。 すると間もなく岐蘇三十首なる漢特が出て来た。漢詩の方は多少の趣味を以ておったからその善悪位は分る、分るだけにこれには痛くその腕前に驚いた。しかし君は純粋なる文学者であって新聞記者としては成功するや否やはなお疑問を存しておった。それだからある日のことであった。新聞社の帰り路に僕は君を引張って、とある鳥屋に這入込んだ、そして僕は先輩然として俳句を新聞の上に応用することについての工夫やら新聞文学なるものは一種の技倆を有することなどを説いた。君はそんなことはいわずとも知っておるというような顔付で聞いておったが、別に何にもいわなかった、僕はその時の君の顔が何となく癪に障ってコイツ生意気な奴だと思うておった。それから一月も立ってちょうどその年の二百十日であった。日本新間は発行停止を命ぜられた。僕は多少試級の気味で、君何か一句ないかといったら言下筆を把つて 君が代も二百十日は荒れにけりとやった、こいつはなかなか喰へぬ代物だ。よくもコンナに十七字の中にこなしつけることの出来るものだと只だもう訳もなく矢鱈無性に感服してしまった。君は大方腹の中でこいつも矢張り話せない月並連中だと笑っておったろう。(古島一雄『日本新聞に於ける正岡子規君』)
2019.01.31
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芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし(明治31) 芭蕉忌や吾に派もなく傳もなし(明治31) 無落款の芭蕉の像を祭りけり(明治31) 牡丹散つて芭蕉の像そ残りける(明治32) 芭蕉忌や我俳諧の奈良茶飯(明治33) 俳句と短歌を批評する子規の方法は、よく似ています。まずはその道の代表者と呼べる人物を批判し、新しい人物や作品集を新しく旗頭に構えるのです。 俳句では、松尾芭蕉をやり玉にあげました。正式にいうと、芭蕉を中心とする俳匠ヒエラルキーを批判しました。そして、与謝野蕪村を坂しだして、新しい俳諧の道は「写生」にあると説きました。 明治24(1891)年頃から、子規は「俳句分類」に本格的に着手します。これは、古今の俳句を季題別に分類するという壮大な仕事で、日本における俳諧の将来を見据え、このままでは俳句がなくなってしまうと子規は考えたのでした。子規は、この仕事に没頭した。翌年に「日本」に連載された『獺祭書屋俳話』で、子規は俳論を系統的に展開します。翌々年の『芭蕉雑談』では、芭蕉の業績を全否定したわけではありませんが、芭蕉の句が詩としての純粋性に欠けていることを指摘し、様式的で類型的な元禄時代以後の俳句を「月並俳句」と断じています。 明治28(1895)年の『俳諧大要』には、「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。ゆえに美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も、皆同一の標準をもって論評し得べし……一般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし。漢詩を作る者は漢詩をもって最上の文学となし、和歌を作る者は和歌をもって最上の文学となし、戯曲小説を好む者は戯曲小説をもって最上の文学となす。しかれども、これ一家言のみ。俳句をもって最上の文学となす者は同じく一家言なりといえども、俳句もまた文学の一部を占めてあえて他の文学に劣るなし。これ概括的標準に照らして自ずから然るを覚ゆ」と記し、俳句は豪商たちや粋人の手慰みなどではなく、芸術だと訴えます。 明治30(1897)年の『俳人蕪村』では、「結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること、あたかも実際の客観が人を動かすが如くならしむ。これ後世の文学が面目を新たにしたるゆえんなり。要するに主観的美は客観を描き尽くさずして観るものの想像に任すにあり」と、蕪村の俳句が技法的に洗練されている点を評価し、蕪村の再評価を図りました。 子規の提唱する俳句は、短文で簡素なものを最良とするスペンサーの文体論や、「小日本」の画家・中村不折らの画による写生の重要さに影響を受けています。『俳句の初歩』には「写実的自然は俳句の大部分にして、即ち俳句の生命なり。この趣味を解せずして俳句に入らんとするは、水を汲まずして月を取らんとするに同じ。いよいよ取らんとしていよいよ度を失す。月影紛々ついに完円を見ず」とあり、想像やことば遊びに留まらず、一瞬の感動を見たままに伝えることを重視する子規の俳句運動は、「新派」「日本派」「根岸派」と呼ばれ、のちに活動の舞台を「ホトトギス」に移します。子規の俳句革新は、論争とともに、俳句界に活気を取り戻すことに成功しました。 俳句革新運動に成功した子規は、次に和歌革新に取り組みます。明治26(1893)年の『文学八つあたり』、明治28(1895)年の『棒三昧』などで、和歌の衰退ぶりや万葉集の素晴らしさを語っていた子規は、明治31(1898)年2月12日から「日本」に『歌よみに与ふる書』を連載しました。 子規は、『歌よみに与ふる書』と『再び歌よみに与ふる書』で『古今和歌集』と紀貫之を批判しました。「仰せの如く、近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば、万葉以来、実朝以来一向に振い申さず候。実朝という人は三十にも足らで、いざこれからというところにてあえなき最期を遂げられ、誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かしておいたなら、どんなに名歌をたくさん残したかも知れ申さず候。……『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかからず候えども、箇様な長歌は古今集時代にも後世にもあまり流行らざりしこそ、もっけの幸いと存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に万葉を師とする者多く、従ってかなりの作を見受け申し候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば、多少手際よくでき申し候(歌よみに与ふる書)」「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にこれあり候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候いしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合いは能く存じ申し候。崇拝している間は、誠に歌というものは優美にて『古今集』はことにその粋を抜きたる者とのみ存じ候いしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされておったことかと、くやしくも腹立たしく相なり候……それでも強いて『古今集』をほめて言わば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したるところは取得にて、いかなる者にても初めての者は珍しく覚え申し候(再び歌よみに与ふる書)」と、『万葉集』を高く評価しました。俳句革新で芭蕉批判を展開した事例に倣い、歌人の聖典である『古今和歌集』と歌聖・紀貫之を全否定し、新しい価値観を提唱したのです。 子規の和歌確信論に対する反発は俳句の比ではありませんでした。「日本」社内でも、子規の論にやりすぎだと反対の声が上がり、掲載の中止も考えられています。また、短歌革新を掲げた与謝野鉄幹たち「明星派」からも子規は攻撃されました。 非難が落ち着いた子規のもとに、香取秀真、岡麓、森田義郎、長塚節、伊藤左千夫、蕨真らの若者たちが訪ねてきます。彼らは、子規の人柄と具体的な指導に魅かれ、子規庵で開かれる「根岸短歌会」に参加して、短歌革新運動を盛り上げていきました。 子規の存命中には大成しなかった和歌の革新は「アララギ」に引き継がれ、近代短歌を発展させていきました。 ただ、子規の批判は、どちらかというとレトリックに近いものです。というのも、子規は松尾芭蕉の句を標榜していて、芭蕉の後を巡る旅をしています。また、『古今集』批判にしても、これが殊更に注目されたために、引っ込みがつかなくなったようにも思われます。子規のジャーナリスティクな姿勢が、俳句と短歌の背景にはつきまとっています。
2019.01.30
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垢つきし赤き手絡や春惜しむ(明治41) 黍遠し河原の風呂へ渡る人(明治43) 春風に吹かれ心地や温泉の戻り(大正3) 漱石の長女・筆子の回想録『夏目漱石の「猫」の娘』によると、初めて自宅に風呂がとりつけられたのは、家中で大騒ぎだったといいます。 筆子の娘婿である半藤一利は『漱石先生ぞな、もし』で「漱石邸に内風呂が入ったのは? となると、残念ながらさだかではないが、明治末年、少なくとも大正元年に『彼岸過迄』が書かれる直前ぐらいのことではないかと二ランでいる。おそらく明治四十三年の修善寺大患後であろう。千駄木町の家に湯殿のあったことを示す図解があるが、風呂桶は据えられていなかったのである」とあります。長女の筆子が生まれたのは明治32年ですから、20歳前後の頃だったのでしょう。 初めて、私の家にお風呂がとりつけられた時にも、家中で大騒ぎをした記憶がございます。家中はしゃぎ回って、私達は勿論のこと、父まで、何度も何度も書斎から出て来ては、お風呂に手を突込んで熱さ加減をみながら、右往左往して居りました。 ところが、誰一人として、お湯を下の方から掻きまわさなければならないことを知らないのです。お手伝いさんの一人が、手を入れてもう良さそうだと、「旦那様、お湯がわきました」と書斎の父に報らせに参りますと、「うん、よし、よし」と待ちに待っていた父が、張り切って出て参りました。 ジャブンと飛び込んだ途端に、「ひやっ、冷たい」とびっくり仰天した父は、素裸で部屋へ飛んで戻って参りました。下の方はまるで水だったのです。一時は大あわてをしましたが、少し経ってから私達は、紫裸で、飛びはねている父を見て、それはそれはおかしくて大笑いを致しました。さすがの父も、怒るのも忘れて、一緒になってお腹をかかえておりました。 お風呂は出来ても、依然として洗面所はなかったので、私達は洗顔をお風呂場でするのが常でした。そのわきで、父は、比較的健康が優れている時の話ですが、冬でも頭から冷水をかぶって居りました。水道からの水を直接かぶるのですから、さぞかし冷たかったろうと思うのですが、ふーふーはーはー、冷たい冷たいと、大げさに騒いでいるのを、私達は横目で、何ておかしなことをしているのかと眺めていたものでした。(松岡筆子 夏目漱石の『猫』の娘) 早稲田の漱石山房で初めて内風呂ができたのですから、千駄木に住んでいた頃に風呂はありませんでした。もっぱら、銭湯に通っています。近所に二葉亭四迷が住んでいました。他にも、団子坂に森鷗外、不忍池の近くに橋本貢、追分町には皆川正禧、台町に野村伝四、丸山福山町に森田草平らが住んでいました。銭湯は草津湯といって『吾輩は猫である』に登場します。※漱石の『猫」が見た銭湯の風景はこちら この銭湯で、漱石は二葉亭四迷とバッタリ出くわしました。四迷が千駄木の近くに住んでいることを知っていた漱石ですが、挨拶が面倒で無視を決めこんていました。四迷と漱石は、朝日新聞の社員であることも共通でしたが、付き合いは漱石の朝日新聞入社後1年ほどで、四迷に初めてあった時の印象を『長谷川君と余』に書いています。 余は新人の社員として、その時始めてわが社の重なる人と食卓をともにした。そのうちに長谷川君(=二葉亭四迷)もいたのである。これが長谷川君でと紹介された時には、かねて想像していたところと、あまりに隔っていたので、心のうちでは驚きながら挨拶をした。始め長谷川君の這入って来た姿を見たときは――また長谷川君が他の昵懇な社友とやあという言葉を交換する調子を聞いた時は――全く長谷川君だとは気がつかなかった。ただ重な社員の一人なんだろうと思った。余は若い時からいろいろ愚なことを想像する癖があるが、未知の人の容貌態度などはあまり脳中に描かない。ことに中年からは、この方面にかけると全く散文的になってしまっている。だから長谷川君についても別段に鮮明な予想は持っていなかったのであるけれども、冥々のうちに、漠然とわが脳中に、長谷川君として迎えるあるものが存在していたと見えて、長谷川君という名を聞くや否やおやと思った。もっともその驚き方を解剖して見るとみんな消極的である。第一あんなに背の高い人とは思わなかった。あんなに頑丈な骨骼を持った人とは思わなかった。あんなに無粋な肩幅のある人とは思わなかった。あんなに角張った顎の所有者とは思わなかった。君の風貌はどこからどこまで四角である。頭まで四角に感じられたから今考えるとおかしい。その当時「その面影」は読んでいなかったけれども、あんな艶っぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、とても受取れなかった。魁偉というと少し大袈裟で悪いが、いずれかというと、それに近い方で、とうてい細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもないから実は驚いたのである。しかしその上にも余を驚かしたのは君の音調である。白状すれば、もう少しは浮いてるだろうと思った。ところが非常な呂音で大変落ちついて、ゆったりした、少しも逼るところのない話し方をする。しかも余に紹介された時、君はただ一二語しかいわなかった。(もっとも余も同じ分量ぐらいしか挨拶に費やさなかったのは事実である。)その言葉は今全く忘れているが、普通にありふれた空虚な辞令でなかったのはたしかである。むしろ双方で無愛想に頭を下げたのだったろうが、自分のことは分らないから、相手の容子だけに驚くのである。文学者だから御世辞を使うとすると、ほかの諸君にすまないけれども、実をいえば長谷川君と余の挨拶が、ああ単簡至極に片づこうとは思わなかった。これらは皆予想外である。 この席上で余は長谷川君と話す機会を得なかった。ただ黙って君の話しを聞いていた。その時余の受けた感じは、品位のある紳士らしい男――文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない、あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士から受くる社交的の快味であった。(長谷川君と余) 漱石は、四迷に抱いていた先入観がその風貌といちじるしく乖離していたこととともに、好感を抱いたことを綴っています。そして、再び出会ったのが銭湯でした。 ところがある日の午後湯に行った。着物を脱いで、流しへ這入ろうとして、ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である。余は長谷川さんと声をかけた。それまではまるで気がつかなかった君は、顔を上げて、やあといった。湯の中ではそれぎりしか口を利かなかった。何でも暑い時分のことと覚えている。余が身体を拭いて、茣蓙の敷いてある縁先で、団扇を使って涼んでいると、やがて長谷川君が上がって来た。まず眼鏡をかけて、余を見つけ出して、向うから話しを始めた。双方とも真赤裸のように記憶している。しかし長谷川君の話し方は初対面の折露西亜の政党を論じた時と毫も異なるところなく、呂音(りょおん)で落ちついて、ゆっくりしているものだから、全く赤裸と釣り合わない。君は少しも顧慮する気色も見えず醇々として頭の悪いことを説かれた。何でも去年とか一度卒倒して、しばらく田端辺で休養していたので、今じゃ少しは好いようだとかいう話しであった。「それじゃ、まだ来客謝絶だろう」と冗談半分に聞いて見たら、「まあ……」とか何とかいう返事であった。「それじゃ、行くのはまあ見合せよう」といって分かれた。(長谷川君と余) しかし、四迷は明治41年6月に特派員としてロシアに渡りますが、肺結核にかかり、翌年、貴国の途中になくなってしまいます。漱石は日記に「二葉亭印度洋上にて死去。気の毒なり。遺族はどうするだろうと思う」とあり、『長谷川君と余』には「最後に逢ったのは、出立の数日前、暇乞に来られた時である。長谷川君が余の家へ足を入れたのはこれが最初であってまた最終である。座敷へ通って、室内を見渡して、何だか伽藍のようだねといった。暇乞のためだから別段の話しも出なかったが、ただ門弟としての物集もずめの御嬢さんと今一人北国の人のことを繰り返して頼んで行った。一日越えて、余が答礼に行った時は、不在で逢えなかった。見送りにはつい行かなかった。長谷川君とは、それきり逢えないことになってしまった。露都在留中ただ一枚の端書をくれたことがある。それには、弱い話だがこっちの寒さには敵わないとあった。余はその端書を見て気の毒のうちにも一種のおかしみを覚えた。まさか死ぬほど寒いとは思わなかったからである。しかし死ぬほど寒かったものと見える。長谷川君はとうとう死んでしまった。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んでしまった」と書いています。
2019.01.29
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蓬莱や襖を開く病の間(明治33) 病人の息たえたえに秋の蚊帳(明治34) 手袋の編みさしてある病かな(明治34) 我病んで花の句も無き句帖かな(明治35) 病む人が老いての戀や秋茄子(明治35) 明治29(1896)年3月、子規は専門医から腰の痛みがリウマチではないと診断されます。子規はこの宣告に驚きました。 歩行ができなかった子規も、3月末に手術を受けて、少しは歩けるようになりますが、病魔はそれだけでは許してくれませんでした。結核菌は、子規の骨髄を冒し、背中と腰に穴を空けました。徐々に拡がった穴から膿を吐きだすため、寝返りは打てず、咳をしても体中に痛みがひびきます。 包帯を毎日取り替えるのは妹の律の役目です。痛み止めのモルヒネを打った朝に、膿でじゅくじゅくになった綿をはがし、油薬を塗った新しい綿をかぶせていきます。律の聞き書き『家庭より観たる子規』には「穴は背中と腰の方に、初め二つであったのが一つになった、まア大きいのが二カ所で、フチが爛れて真赤になって、見るから痛そう、というより無残なほどにギザギザになっていました。そこへちょっとでも触れようものなら、飛び上がることもできないほどであったらしいので、できるだけソーッと古いのを剥がすのですが、いつでも膿汁でずくずくになっていましたから新しいのには、棉フランネルのような柔らかい切れに、一面油薬をぬって、それで穴を塞いで、その上へ脱脂棉を一重、その上へ普通の棉をかなりな厚みにのせて包帯をかけ、ピンでとめておくのでした」と語っています。 子規の主治医だった宮本仲は『私の観た子規』の中で「病気は今でいう肺尖カタルで、その後子規がカリエスになったのは自然自然に起こったもので、脊髄の第五腰椎という腰の骨がカリエスを起こし、それから挫骨神経の痛みを起こして、始終痛い痛いと苦しむようになった」と語っています。 明治29年3月17日、子規は叔父の大原恒徳宛書簡で「当地も大分あたたかに相なり、私病気もいくらかよろしく候。しかし相変わらず歩行叶わず候。はじめより医師病名を判然と申さず候ゆえ、自分もいくらか推察致しおり候ところ、今日他の医師(リウマチ専門とか)来たりて普通のリウマチに非ざることはほぼ承知致し候。今まではただ、歩行でき得る時機のみ待ちこがれおり候いしかども、リウマチにてもなければ歩行でき得るや否やも分からず」と報告。3月17日の虚子への手紙で、「今日の夕暮ゆくりなくも、初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり、この病はリウマチスにあらずと。歩行し得ざることここに五旬、体温高き時は三十九度に上り、低き時は三十五度七分に下がる。たちまち寒くして粟肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡おす」と報告し、「詩を作り俳句を作るには誠に誂え向きの病気なりとて自ら喜びぬ」と強がりをいいましたが、病気が進行するにつれ、そうした言葉は聞かれなくなりました。 河東碧梧桐は、3月27日の子規の手術に立ち会いました。その時の記録が『子規の回想』に残されています。 その三月二十七日、佐藤三吉博士の手術があるというので、立会人に私が立たせられた。成程脊髄の中央部に腫物でもなければ、筋肉の膨張でもないエタイの知れない大きな隆起がある。大山が出来たというのも、患者の感覚ばかりでもない、驚くべき贅瘤なのだ。当時、天下無二の国手の手術というのが、鋭く長い漏斗状をした銀色の管を、力に任せて贅瘤の肉へ突き刺す、無造作なものであった。局部麻酔など進歩した方法もなかったのか、患者は身を震わして痛みに耐えていた。突き刺した管をそのまま、さぐりを入れて、中の膿をさそい出すのであるが、剌し込み場所がよくないとかで、二度び管を刺し替えた。 佐藤国手が帰ってから、随分乱暴なことをするんだな、と慰め顔に私の見た通りの話をすると、最初のはひどく痛かったが、二度目のはそうでもなかった、しかしこれで安臥出来れば結構さ、と暗に明日からの幸福を夢見ているようだった。 が、子規の漱石への手紙に書いているように、医者の保障を裏切って、背中の楽な心持ちは、一週間とつづかなかった。それに、管を突っ込んだ穴の―つの方は、いつまでも癒着しないで、絶えず膿汁を拭き取らねばならない、別な事変を生じた。私が北国行脚から帰った後、思い出したように、「矢張り痛いというのには、どこか無理があるのじゃな、痛くなかったのが綺麗に塞がって、痛かった方が、どうしても直らない……佐藤ほどの国手でも、ちょっとした手具合があるもんと見えるな。 と、長いこと穴の開閉について考えていたかのような述懐をした。それから一、二年も経ったずっと後のことであるが、背中の穴はもう塞がったかな、と不用意な問いに対して、背中の穴どころか、この頃はお前、臀の方が蜂の巣のような穴だらけさ、といつになく荒々しい語気で言った。「脊髄カリエスは段々下方に移動して、尾骶骨骨辺に及び、自然に膿汁のハケ口を臀部に求めて、手術もしない膿穴が、皮肉を浸触しているものらしかった。もうそうなっては、膏薬だとか、消毒だとか、内用も外用も、手あての方法はない、腰一面綿をあてがつて、ソーツと維帯でもして置くだけのことさ、まアなんじゃな、ところどころ柘榴(ざくろ)のような口が裂けていて、そこから二六時、膿がじびじび出てくる、臀なんか大概爛れて腐っているさ。 子規はなお、語りつづけるのである。「そうじゃな、お前に立会ってもらって、佐藤国手が背中へ穴をあけたのは、もう一昨昨年のことになるかな、あの時、随分痛くてひどいことをする、と思ったが、それどころか、佐藤国手以上に自然手術の穴が三つも四つ。捨てて置いたら今に蜂の巣になるだろうさ。背中の穴の―つが、どうしても塞がらないので、こんなことでは、もう生命は一分刻みに縮まるものと、あの年一杯くらいの覚悟はしたものだが、臀の方へこんな穴が出来たので、もういよいよいかん、加速度に生命は蝕む、と、とっくに今日か明日かと待っているのだが、なんの業か、まだ一寸死ねそうにもない、こうなると妙なもので、よし容易に死なない、出来るだけ頑張って生きてやる、そんな気にもなってな、ただ困るのは、寝返り―つ出来ない、この生きながらの苦しみよ、もっと緩めて貰うことは出来ないのかな、何とか身体を宙に釣って、どう寝返ろうと、痛みも何も感じないと言った具合にさ、毎朝の維帯のとりかえ、それが大事件で、泣き叫ぶ、真に阿鼻叫喚の修羅場なんだ。歩けなくとも、立てなくとも、坐れなくても、と段々望みが縮小されて、今ではどうか寝返りがしたい、というように、人間も虐待されればされる程、亀の子のように、追々ちぢかまって行く、弱いと言えば弱いし、強いと言えば強いもんじゃな。イヤお前らのような健康な達者な人には、どう話しても、このアシの心持はわからんよ、どう苦しくて、やるせがなくて、滅入りそうで、それでいて息のある間は、何でも出来るだけしておきたい……。 子規は独語のように言いつづけていたが、パッタリ黙ってしまった。かすかに啜り泣くかと思われるような声を忍んでいた。 病気がどこまで進んでいるかを、私はこの時始めて知ったのだ。脊髄カリエスの手術から、病勢は進攻を一日一時も緩めず、一、二年の間にジリジリここまで押し詰めた、その猛威ぶりを、久しく御無沙汰していたもののように、やっと気付いたのだ。七日目か十日目にはきっと顔を合わしていたものが、それまでさほどとも思っていなかった自分の怠慢を痛感したのだ。その癖、われわれは「ほととぎす」一巻時代から、「高田屋客」「淡路町人」などの仮名で、子規の病状を一般に通知することを忘れていたのではなかったのだ。何という自己矛盾なのだ、私も暗然として、言葉の接ぎ穂を見出すことが出来なかった。 モヒ剤を飲んで、一時病苦を忘れる、最後の手段を見付けたのも、その時分であった。劇薬は習慣性になる、そんな常識的なことを言っている場合ではなかった。子規が、なぜもっと早くこれを飲むことを教えてくれなかったか、と、その効果の顕著な話をして欣然としていたのも、実は涙を包む淋しい笑いであった。(河東碧梧桐 子規の回想 四、カリエス手術) この痛みに耐えて、子規は、俳句と和歌の革新という偉業を成し遂げていくのです。
2019.01.28
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春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪 漱石 春雨や爪革濡るる湯屋迄 漱石 たたむ傘に雪の重みや湯屋の門 漱石 漱石は銭湯が好きでした。夏目家に風呂ができたのは、早稲田の漱石山房に移ってからで、それまでは銭湯に通っていました。漱石の次男・伸六は『父・漱石とその周辺』で「私は、小さい時分、父が、よく、日向水の様に生ぬるい湯に、長いこと顎までつかっていたのを思い出すが、江戸っ子には不似合いなぬる湯好きの癖に、私には、どう見ても、その様子から、風呂好きの父を聯想せずにはおられないのである。もっとも、当時は、随分と一般家庭の生活もじみなもので、私の家でも、薪を少しでも節約する意味からか、風呂は一日おきにしか沸かさなかった。それで父も、風呂の立たぬ日には、よく石鹸をぶらさげて、家の前のだらだら坂を左へおりた近くの銭湯へ出かけて行った。一体、あの辺は、早稲田南町と弁天町が、妙に入り組んだところで、たしかこの風呂屋も弁天湯とかいうのではなかったかと覚えている。が、その頃は、都心を外れたこんな土地でも、まだまだ、火傷するように熱い湯に入らなければ、それこそ風呂に入る資格が無いと、無理に意気がる年寄連も多勢いたので、もともとぬる湯好きの父とすれば、むしろ、これは苦手だったと思うのだけれど、それでも隔日に銭湯通いをしていたところを見ると、たしかに湯好きだったのには違いない」と書いています。 『吾輩は猫である』の7章にも千駄木の風呂屋が出てきます。「うちの主人は時々手拭いと石鹸(シャボン)飄然といずれへか出ていくことがある。三四十分して帰ったところを見ると、彼の朦朧たる顔色が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦しい男にこのくらいな影響を与えるならば吾輩にはもう少し利目があるに相違ない」と思い立った猫は銭湯に出かけ、その様子を描写します。「横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立して先から薄い煙を吐いている。これすなわち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯とか未練とかいうが、あれは表からでなくては訪問することが出来ぬものが嫉妬半分に囃し立てる繰言である。昔から利口な人は裏口から不意を襲うことにきまっている。紳士養成方の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だから、このくらいの教育はある。あんまり軽蔑してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴を食ったり、獣を食ったりいろいろの悪もの食いをしつくしたあげく、ついに石炭まで食うように堕落したのは不憫である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子(ガラス)窓があって、そのそとに丸い小桶が三角形即すなわちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒とした。小桶の南側は四五尺の間、板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂の上等である。よろしいといいながらひらりと身を躍らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いといって、未だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分ないし四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂というものを見たことがないなら、早く見るがいい。親の死目に逢あわなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観はまたとあるまい」。 その奇観とは、「硝子(ガラス)窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の生蕃である。二十世紀のアダムである」ことで、猫は衣服についてのうんちくを語り、風呂の様子を語ります。「しかるに今吾輩が眼下に見下した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織もないし袴もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視のうちに露出して平々然と談笑をほしいままにしている。吾輩が先刻さっき一大奇観といったのはこのことである。吾輩は文明の諸君子のためにここに謹つつしんでその一般を紹介するの栄を有する」と、裸の猫が入浴するために裸になった人間を笑っています。 猫が奇観たる銭湯を眺めて帰ると、苦沙弥先生は家に帰っていました。「帰って見ると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐を食っている。吾輩が椽側から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうといった。膳の上を見ると、銭のない癖に二三品御菜をならべている。そのうちに肴の焼いたのが一疋ある」。 猫は魚を狙って虎視眈々としていたのですが、唐突に苦沙弥が細君に「おい、その猫の頭をちょっと撲ぶって見ろ」といいます。猫は「痛くも何ともない」ので黙っていると、苦沙弥は「おい、ちょっと鳴くようにぶって見ろ」といいます。 猫は、しょうがなく「しかる後にゃーと注文通り鳴いてやった」のでした。 苦沙弥先生、湯に浸かって、頭がのぼせていたのでしょうか……。
2019.01.27
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東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがね 晩年の子規は、絵に夢中になりました。 明治32(1899)年、子規は中村不折にもらった使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵がみんなから誉められたため、子規は気分を良くして次々に絵を描くようになります。翌年3月10日「ホトトギス」に掲載された『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」ととまであり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。 ○十年ほど前に、僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃、為山(=下村)君と邦画洋画優劣論をやったが、僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に、為山君が日本画の丸い波は海の波でないということを説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけに、この実地論を聞いて半ば驚き、半ば感心した。ことに日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて、非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘かかわらぬという論でもって、その驚きを打ち消してしもうた。その後、不折君とともに『小日本』におるようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めていた。この時も僕は日本画崇拝であったから、いうことが皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。そのうち、ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど、松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味が出来る、これ位のことは前から知っていたのであるけれど、それを画の上に推おし及ぼすことが出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じことであるということが分って、始めて眼が明いたような心持であった。けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると、何だか癪に障ってならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時、虚心平気に考えて見ると、始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知ることが出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。その後は西洋画を排斥する人に逢うと、癇癪に障るので大に議論を始める。ついには昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際、君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべっておる。その気加減には自分ながら驚く。○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄うすらぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で、僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いて、それが秋海棠と見えるは写生のお蔭である。虎を画いて成らず、狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば、何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛であった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子はしきりに見ていたが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っておるのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点した顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。○僕の国に坊主町という淋しい町があって、そこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけに、そこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知らずそのうちの人が外へ出ようとすると、中庭に大男が大物を抱いておる画があるので、度々驚かされる。今日もまた例の画がかいてあったと、そのうちの人が笑いながら話すのを僕が聞いたのも度々であった。その時の幼い滑稽絵師が、今の為山君である。○僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(正岡子規 画) 最晩年の子規は写生を日課としました。明治35年5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。 この年の8月7日の『病牀六尺』には、「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記されています。 子規は、明治32年10月頃に描いた東菊の画を漱石に贈りました。漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くてかつ真面目」と記します。「余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた」で始まる漱石の文は、子規への複雑な思いに満ちています。スラスラと頭から出てくる俳句とは異なり、不自由な体で、病人としては嫌になるほどの時間をかけてあまり上手くない絵を描く子規を、漱石は愛おしく思っているのです。ただ、その絵が拙であるほど、病人で子規の苦労がしのばれるのに、愚直に絵を描く子規。 厳しいとも思われる漱石の評は、子規の辛さを思いやる逆説に満ちています。 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵を払いて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎み掛かけた所と思い玉え。下手いのは病気のせいだと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は、当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(夏目漱石 子規の画)
2019.01.26
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白金に黄金に枢寒からず 漱石 凩の下にゐろとも吹かぬなり 漱石 凩や吹き静まって喪の車 漱石 熊の皮の頭巾ゆゆしき警護かな 漱石 明治34年1月23日、81歳のヴィクトリア女王が死去しました。漱石の日記には、英語でそのことが記してあります。「咋夜六時半女皇死去す。at Osborne. Flags are hoisted at half-mast. All the town is in mourning.I, a foreign subject, also wear a black-necktie to show my respectful sympathy. "The new century has opened rather inauspiciously,” said the shopman of whom I bought a pair of black gloves this morning.(オズボーンには弔旗が掲げられている。町の全てはみな喪に服している。異邦人である私も、弔意と敬意をあらわそうと黒いネククイをつけた。「新しい世紀はひどく不吉な始まりをした」と、今日の朝に黒い手袋を買った店の店員がいった)」。漱石は、ヴィクトリア女王の死を悼んで黒いネクタイをつけたのでした。 2月2日にはヴィクトリア女王の大葬が行われます。前日、ヴィクトリア女王の棺は、ワイト島からボーツマス港駅に着き、列車に載せられてポーツマスを出発しました。この特別列車は11時にヴィクトリア駅に到着し、十二時にピカデリー•サーカスからハイド・パークを通り、1時からパディントン駅から、大葬のおこなわれるウィンザーに向かうことになっていました。漱石は、下宿屋の主人ブレットとともに、大葬を見ようと、地下鉄に乗ってハイド・バークの辺りにいました。公園の近くはヴィクトリウ女王の葬列を送ろうとする人たちでごった返していました。 漱石の身長は、160cmに満たないほどでした(157cm・159cmという説あり)。写真で見る漱石は大きく見えますが、式の身長よりも低く、それが洋行中の漱石のコンプレックスともなっていました。ブレットは、大きな子供ほどしかない漱石を肩に乗せ、大葬の列を見せてくれました。 漱石は「柩は白に赤を以て掩われたり」とまるで赤と白の幕がかけられているように日記に書いていますが、これはユニオンジャックでした。混雑のために、イギリス国旗の青が確認できなかったのでした。 Queenの葬儀を見んとて、朝九時Mr. Brettとともに出ず。 Ovalより地下電気にてBankに至り、それよりTwo pence Tubeに乗り換う。Marble Archにて降れば、甚だ人ゴミあらん故、next stationにて下らんと宿の主人いう。その言の如くしてHyde Parkに入る。さすがの大公園も人間にて波を打地つつあり。園内の樹木、皆人の実を結ぶ。漸くして通路に至流に、到底見るべからず。宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。漸くにして行列の胸以上を見る、柩は白に赤を以て掩われたり。King, German Emperorなど隋う。(日記 明治34年2月2日) 漱石はこの日のことを狩野亮吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎といった友だち4人に宛てた手紙に「先達ての女皇の葬式は見た。「ハイドバーク」という処で見たが、人浪を打って到底行列に接することが出来ない。その公園の樹木に猿の様に上ってた奴が枝が折れて落る。しかも鉄柵で尻を突く。警護の騎兵の馬で蹴られる。大変な雑沓だ。僕は仕方がないから、下宿屋の御爺の肩車で見た。西洋人の肩車はこれが始ての終りだろうと思う。行列はただ金モールから手足を出した連中が続がって通った許りさ」と書いています。 高浜虚子に宛てた2月23日のハガキにも、この時の大葬を詠んだ俳句が綴られています。 女皇の葬式は「ハイド」公園にて見物致候。立派なものに候。 白金に黄金に枢寒からず屋根の上などに見物人が沢山居候。妙ですな。 凩の下にゐろとも吹かぬなり棺の来る時は流石に静粛なり。 凩や吹き静まって喪の車熊の皮の帽を載くは何という兵隊にや。 熊の皮の頭巾ゆゆしき警護かなもう英国も厭になり候。 吾妹子を夢みる春の夜となりぬ当地の芝居は中々立派に候。 満堂の閤浮檀金(えんぶだごん)や宵の春ある詩人の作を読で非常に嬉しかりし時。 見付たる董の花や夕明り(高浜虚子宛てハガキ 明治34年2月23日)
2019.01.25
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迷ひ子の昼顔でふく涙かな(明治25) 梅が香にむせて泣き出す涙かな(明治26) 傾城の涙煮えけり玉子酒(明治26) 五月雨は人の涙と思ふべし(明治29) 鷄頭の花に涙を濺ぎけり(明治33) 幼い頃、子規は、泣き虫で知られていました。母野の八重は『母堂の談話』で「小さい時分にはよっぽどへぼでへぼで弱味噌でございました。……近所の子供とでも喧嘩をするようなことはちっともございませんので、組の者などにいじめられても逃げて戻りますので、妹の方があなた、石を投げたりして兄の敵打ちをするようで、それはヘボでございます。……物言いばかりか、手もえっぽど鈍で、紙鳶もええあげず、独楽もええまわしませんでございました」『子規居士幼時』で「なりは他家の児たちほどはありませんでした。ずっと小さくて、それに丸く肥っていましたから、ころころしてました。……小児の時からおとなしくて他家の児のように、竹や木を持って遊びませんでした。今考えますとそれは強い身体でなかったからでしょうかと思います」と思い出を語り、妹の律は『家庭より観たる子規』に「泣き虫であった兄は、また弱虫で、あの時分の遊び、凧をあげたこともなし、独楽を廻すでもなければ、縄飛び、鬼ごっこなどはまして仲間にはいったこともありますまい。どうかして表へ出ると、泣かされて帰る、といった風でした。自然稚い時には、別に友達というものもありませんので、まあ佐伯にでも行くのが、とっておきの楽しみでもあったでしょう」と語っています。 子規は大きくなってからも涙を流しました。 子規は、明治33(1900)年2月12日付の手紙で、漱石に泣き言を連ねました。「例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉え」ではじまる長文の手紙では「神戸病院に這入って後は時々泣くようになったが、近来の泣きようは実にはげしくなった。何も泣くほどのことがあって泣くのではない。何か分からんことに一寸感じたと思うとすぐ涙が出る」と語っています。 この手紙で「君に対して書面上に愚痴をこぼすのはもうこれ限りとしたいと思うている」と書いた子規でしたが、明治34年11月6日にロンドンの漱石へ宛てた手紙では「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣しておるような次第だ、それだから新聞雑誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙をかく。いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。近来僕を喜ばせたものの随一だ。僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろー。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へ往ったような気になって愉快でたまらぬ。もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか(無理な注文だが)。画はがきもたしかに受け取った。倫敦の焼芋の味はどんなか聞きたい。不折は今巴里にいてコーランのところへ通うておるそうじゃ。君に逢うたら鰹節一本贈るなどというていたが、もーそんなものは食うてしまってあるまい。虚子は男子を挙げた。僕が年尾とつけてやった。錬卿死に、非風死に、皆僕より先に死んでしまった。僕はとても君に再会することはできぬと思う。万一できたとしてもその時は話もできなくなってるであろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。僕の日記には『古白曰来』の四字が特書してあるところがある。書きたいことは多いが苦しいから許してくれたまえ」と書かれていました。 漱石はこの手紙への返事を出しませんでしたが、『吾輩は猫である』中編序で「余は子規に対してこの気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった」と記しています。子規の泣き虫が漱石に伝染ったようです。 ただ、子規はこの泣き虫であることに、いささかの自負も感じていました。明治34年4月8日の『墨汁一滴』には「僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて、小学校に往っても度々泣かされていた。たとえば僕が壁にもたれていると右の方に並んでいた友だちがからかい半分に僕を押してくる、左へよけようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいう機会を得て直に泣き出すのである。そんな機会はなくても二、三度押されたらもう泣きだす。それを面白さに時々僕をいじめる奴があった。しかし灸を据える時は、僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいじめるような強い奴には、灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かった。これはどっちがえらいのであろう」と記しています。
2019.01.24
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大弓やひらりひらりと梅の花 漱石 弦音にほたりと落る椿かな 漱石 弦音の只聞ゆなり梅の中 漱石 高浜虚子の『漱石氏と私』の中に松山中学時代の漱石を描写したものがあります。虚子は、松山を出てから京都に遊学し、仙台、東京と住所を替え、明治28年に松山に帰省したのです。虚子は、もちろん子規との関係もあって、漱石と懇意でした。虚子は、子規から漱石を訪問することを勧められていたのです。「氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓の少し高みのところであった。その頃そこはある古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をしておったのであった。そこはもと菅という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかりも這入って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった」とあります。 虚子は、漱石のことを尋ねました。「多分古道具屋の上かみさんが、『夏目さんは裏にいらっしゃるから、裏の方に行って御覧なさい』とでもいったものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであった。今いった蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射垜(あずち)があって、そこに漱石氏は立っていた。それは夏であったのであろう、漱石氏の着ている衣物は白地の単衣であったように思う。その単衣の片肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、『ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから』とか何とかいって、その右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢(はっし)と放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。それから漱石氏はあまり厭味いやみのない気取った態度で駈足かけあしをしてその的のほとりに落ち散っている矢を拾いに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、「失敬しました」といって私をその居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には残っておらぬ。ただ艶々しく丸髷を結った年増の上さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶している(高浜虚子 漱石氏と私)」と書かれています。 漱石はこのことを思いだしたのか、明治40年7月16日の虚子宛の手紙で「松山へお帰りのことは新聞で見ました。一昨日、東洋城からも聞きました。私が弓を引いた垜(あずち)がまだあるのを聞いて今昔の感に堪えん。なんだかもういっぺん行きたい気がする。道後の温泉へも這入りたい。あなたと一所に松山で遊んでいたらさぞ呑気なことと思います」と記しています。 さて、『漱石氏と私』では、なかなかの腕前のような気がしますが、果たして弓の腕はどうだったのでしょうか。
2019.01.23
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明治23(1890)年8月18日、子規は藤野古白、大原尚恒、歌原蒼苔ら親戚の年少者を引き連れて久万に向かいました。 麻生の里を過ぎ、深い山道や谷を抜けて久万に着く途中で、民家を訪ねて水を乞い、お礼にパンを進呈しています。一行は、中田渡(現内子町小田)の橋のたもとにある橋本屋に泊まりました。 遍路道は、小田の突合で下坂場峠越えと真弓峠越えの道に分かれていますが、中田渡から臼杵を経由して下坂場峠越えで久万に向かいます。この中田渡には「冨岡屋」「橋本屋」など3軒の宿がありましたが、今はどの宿も廃業しています。 この「橋本屋」は、かつて竹村黄塔や太田正躬らと泊まった遍路宿でした。 明治14(1881)年7月31日、8月1日の2日間、松山中学に通っていた子規は、久万の岩屋を目指して初めての旅をしました。岩屋は、法華仙人が修行したという伝説が残る霊山で、仙人になルコとを夢想していた彼らにとって、奇岩がそそり立つ岩屋は、恰好の場所だったのでした。しかし、松山までの帰路で歩けなくなった子規は、森松付近から人力車に乗って自宅まで帰ったという苦い思い出がありました。 親戚の三並良は『子規の少年時代』で「山水画を書いていた我々は、いつもこんな幽静な地に住まいたいものだなど話し合い、それを理想にしていた。だがそれよりとまずどこかそんな景色のいい山の中へ遊びに行こうではないかということになり、それでは巌谷(岩屋)がよかろうと決議した。巌谷というのは、松山の南方約七里の地点、久万町の郊外で、四国八十八ケ所の一霊場のある地である。……これは我々の初旅であった。何故にここへ来たか。それには理由があった。景色のいいことはもちろんであるが、梅木という近く我々の仲間に加わった少年が、この地の出であって、案内をしてくれたからである。……一夜を久万の旅宿に過ごした我々は、みんなで作詩に耽ったようだった。翌日は松山へ帰るのであった。この道はなかばは宜しとしてなんでもないが、三坂峠を経なければならんので、ここが難所となっている。約三里がこの峠である。ここからは道後平野を眼下に望み、景色はいい。この時は子規が十五歳で、我々は二歳の年長者であった。我々はそう苦労ではなかったが、年少者ではあり、そう頑健でもなかった子規は中途から、非常につかれてしまった。我々は交る交る子規を中にして、子規の手を肩にかけ、助けて歩いた。森松辺りに来て、松山城が見える頃には、日も暮れかかったが、子規はもはや歩けなくなった。村の人に教えられて、人力車夫を営業とする百姓の家へ行ってやっとのことで頼みを聴いてもらって、子規を車に乗せることができて、我々は安心したのだった」とこの時のことを記しています。 8月19日、一行は久万町を出て、菅生山大宝寺を訪ねますが、焼失しています。山路を上って古岩屋を眺め、子規は10年ほど前のことを思いました。 この旅は、明治十四(一八八一)年に体験した岩屋への旅の再現である。。竹谷の宿は、建物の下をさらさらと川が流れていきます。山と山の間に岩屋寺が見え、三日月が岩屋寺の上にありました。岩屋寺は、半井梧庵著『愛媛面影』に「二十一級の階子を升りて白山権現社に至る。この所は危険し。ここより東を望めば阿波・讃岐の海見ゆ、また西を望めば宇和島・九国の境まで見渡さる。岩窟の不動は松明を点して詣べく、仙人堂は階子を升りて至るべし。……この国第一の奇観というべきなり」とあります。 20日、岩屋の海岸寺に参詣すると、幼い法師がおいしい水をくれました。白山権現の御堂に登って下界を見ると、遥か向こうに山路が見えます。石を落とすと、かすかな音が聞こえました。再び久万町に戻り、橋本屋に泊まりました。夕食は鶏を割いて、酒盛りをしました。かつて、鶏は来客へのもてなしのために捌かれることがよくありました。祝いごとや人が集まると、飼っている鶏を絞めて料理にするのです。 21日、久万町を発ち、旧道に沿って三坂峠を下ります。北に松山城を見て、西瓜を齧りながら松山を目指しました。家に帰ると、家族から日に焼けて真っ黒になった姿を驚かれた子規でした。
2019.01.22
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内君の病を看護して 枕辺や星別れんとする晨 病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋 妻を遺して独り肥後に下る 月に行く漱石妻を忘れたり 漱石は、4年3ヶ月にわたる熊本で生活で、光琳寺町、合羽町、大江村、井川淵、内坪井町、北千反畑と6回も住まいを変えています。 明治31年3月から住んだのが4軒目の井川淵の家でした。この家は藤崎八幡宮の近くにあり、白川の川べりで、すぐ近くに明午橋が見えていました。『漱石の思い出』には、「井川淵というところに小さい家をみつけまして、一時凌ぎにそこへ移りました。そこは川べりでして、すぐ近くに明午(めいご)橋が見えます。なんでも部屋数の少ない家でして、間に合わせの転居ではしたが、不便たらありません」というような家でした。 当時、漱石の妻・鏡子はつわりに苦しんだのちに流産したこともあり、精神的に参っていたようです。『漱石の思い出』には、「この秋、私は妊娠しておりまして、猛烈な悪阻になやまされ続けました。それは九月から始まって十一月まで続き、いちばんひどかった時などには、食い物や薬はおろか水さえ咽喉に通らなかったくらいで、衰弱は日ましに加わりますし、かといっていまさら手術もできず、運を天にまかせてといったぐあいに、ようやく滋養涜腸ぐらいで命をつないでいたわけでした。『病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋 漱石』などと、このころ私の病気をみとってくれてよんだ句が少しあるようでありました」と書いています。 鏡子のつわりは、とても激しいものでした。歯を喰いしばって、仰むきに反っくり返って倒れるのだそうです。流産したあと、実家から鎌倉に滞在していたのも、ヒステリーのような症状が現われたためだといいます。 当時の鏡子は、往年とは異なり、胸の奥底に繊細さを秘めていたようです。馴れない田舎暮らしに加え、「俺は学者で勉強せねばいかんから、おまえなどにはかまっていられない。それは承知しておいてもらいたい」とまで宣告され、自分の方を顧みようとしない夫、そして新婚でありながらも二人きりではなく、書生たちとの同居生活。そんな生活環境も鏡子の精神を不安定にしたのかもしれません。 身投げした鏡子は、幸いにも投網漁の船に助けられ、一命をとりとめました。それ以来、漱石は毎晩、自分と妻の手首を紐で結んで寝ていたといいます。 明治31年9月3日、漱石は東京の菅虎雄に宛てた手紙には、「小生終日閑座。貴重の米粒を浪費致候。俣野生、過日東上中根岸辺に寓居のよし、手紙を以て報じこし候。参上の節は随分御訓示願上候。浅井氏には時々面会御噂致居候……近頃はとんと俳句もつくり不申、暑中は少々奮発打坐を試み候処、いささかの入処も無之。そのうち運動不足のため下痢を催おし、それより昨今に至りては始業間近く相成候ため、それなりに放却致候。御憫笑可被下候。法語々録の類数種、披見致し候が少しの得に御座候えども、画餅不充饑依然たる噇酒糟の漢なるには閉口致候」と書いてありますので、これ以前に鏡子の入水事件があったようです。 鏡子はこのことで深く心に傷を負っていましたが、漱石が陽光生活で精神を病んで帰ってきたとき、鏡子や子供たちに対して頻繁に家庭内暴力を振るうようになりました。鏡子は周囲から離婚を勧められますが、それを頑として受け入れませんでした。『漱石の思い出』には「病気なら病気ときまってみれば、その覚悟で安心して行ける。(中略)どんなことがあっても決して動くまいという決心をして参りました」という鏡子の覚悟が記されています。
2019.01.20
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漱石は、身の回りをきちんとしなければ気が済まなかったようです。 いわゆるハイカラーをした漱石は、他の身だしなみも気にかけていました。靴も、イギリスから持って帰った木型を入れて型崩れしないようにしています。 洋服のみならず和服もなかなかにうるさかったようです。重ねた上着と下着がきちんとしていなければ気が済まず、着付けにもうるさかったようです。小宮豊隆は『漱石・寅吉・三重吉』で、その辺りのことを記しています。豊隆の観察によると、漱石は服装にうるさく、それは自分のおしゃれのためだと言及しています。 しかし、妻の鏡子は、そうした漱石のおしゃれ心を気にもかいさず、前掛けを着させていました。そして、そうした前掛けを不平なからも、着てしまうのが漱石なのでした。 靴の恰好をキチンと保って置くために、穿かない時に靴に嵌めて置く、木の型がある。これはその後日本でもよく見かけ、その形もいろんなのが出来ているようであるが、先生はこの木型を西洋から持って帰って、学校から帰ると、靴に必ずこの木型を嵌めさせて、靴の恰好が崩れるのを防いでいた。靴に嵌めるそういう木型があるということを、私が初めて知ったのは、先生が千駄木から西片町ヘ越して行く、手伝に行った時のことである。その時私は、先生も随分おしゃれだなあと、つくづく感心した。もっともこれは私が田舎者だったために、日本にも疾にそういう木型が広まっていることを知らなかったせいかも知れない。しかし、先生と相前後して、私の親類の者もロンドンから帰って来たが、これは靴は幾足も持って帰ったが、そんな木型のことなぞ、噂にさえ上ぼせたことはなかった。これも田舎者だから、同じロンドンにいても、そんなものには、気がつかなかったのだと言われれば、それまでである。 なんでもキチンとしていることの好きな先生は、だから、洋服の場合とは限らず、和服の場合でもなかなかやかましかった。柄を自分で見立てる場合は無輸の事、例えば綿入の重ね着をする場合、上着と下着とがうまく重ならないで、下着がペロッと舌を出したり、袵先がチャンと揃わなかったりすると、先生はいつでも厭な顔をして、奥さんに幾度も縫い直しをさせた。それがあんまりうるさいので、奥さんは到頭上着と下着との棲を揃えて、縫いつけてしまったという話が、たしか『漱石の思い出』に出ていたと記憶する。こうされれば、いくら先生だってどうしようもなく、不愉快でもなんでも、それをそのまま着ていなければならなかった。どうも僕の妻は乱暴な女でね、寸法が合っているんだから、うまく重ならない法はないなんて言い張りながら、仕舞には上下縫附けてしまうんだからねと、奥さんの前で先生が私に言ったことがある。 明治四十四年二月四日、胃腸病院に入院中、奥さんに宛てて先生は、「着物届き候。大島の衣物と下着とはよく考えると実は不用に候。然しこの方へ取って置き候。/大島の下に着る下着の胴の色あれでは羽織の裏の如く甲斐絹と同様にて見悪く候。白茶か、あらい模様宜しと申したる積に候。元の大島の羽織を不断に着る程わるくなり候や。それよりも、只今着ている鉄色の方わるくならずや。また不断着ならば支那のケンドンの重い方が結構かと存候。いづれ帰って見た上に致すべく候。/羽織の方チョイチョイ着なればあの裏にては駄目に候。あれは下等な風呂敷の模様に候。いつか取り換たく候。織屋から買った糸織とかの不断の羽織とかはどうなり候や。それへあの裏をつけたらと存候」と書いている。明治四十二年五月一日の日記には、「晩に紅緑が来る。縮緬の絡子縞の袷に同じ茶の羽織を着てその上に失張縮緬らしい道行を着たのみならず羽二重の長襦袢を着けたり。中々凝ったものである。そうして車夫を待たして置いてこれに乗じて帰る。紅緑はこれが道楽と見える。自分もやって見たい気もある」とある。明治四十四年六月十三日の日記には、「○昨夕、鈴木が酔ぱらってくる。白縮緬の半襟に薩摩絣、茶の千筋の袴へ透綾の羽織をきて丸で傘屋の主人が町内の葬式に立って、懐に強飯でも入れていそうである。これはこの間泥棒に洋服をすっかり取られたためである」と書いてある。これは『明暗』の中に利用されているが、要するに先生は、自身着物に深い興味を持っていただけに、普かれ悪かれ、他人の着ている物にもよく気がついたのである。 先生の日記だの手紙だのを読んでいると、今日はシルクハットをかぶって往来があるいてみたいとか、今日は新調のフロック・コートを着て演説がして見たくなったとか、今日は大島の袷を着て外を散歩したとか、今日はセルの車衣を着て欣欣然としているとか、着物に関する先生の無邪気な歓びを表現した文章が、よく眼につく。先生には、自分の気に入った服装をして見ることが、何かとても楽しいことのように思われていたらしい。寺田寅彦は、僕は好い着物をきてキチンとしていることは好きだが、汚しはしないだろうか、破きはしないだろうかなどと考えて、気になってたまらない、それがいやだから僕はこんな服畿をしているのだと言ったことがある。その点では先生は、寅彦と少し違っていたようである。大正五年、先生の亡くなる年の春の日記の中で、先生は「○あの人はあんな凝った服装をしているがちっとも厭味でない」/「そりゃ地味なものを着るからさ」/「着物の柄からばかりじゃありません。あの様子がそうなんです。だから不思議に思うのです」/「そりゃ自分の着物のことを忘れているからさ」/「だって自分が好きで拵えたものじゃありませんか」/「選択や好悪はあるさ。けれどもそれを始終持って廻っていないんだ」「選択や好悪があってどうしてそれを忘れることが出来ます」/「それさ。選択や好悪は着物にあるんで着る人に存するのじゃない。だから人の顔を見て自分の着物とその人の着物とを比較しないのさ。即ち彼対我の優劣を眼中に置いていないのさ。人を離れた着物ということになるからな」という一節を書き止めている。『野分』の白井道也の言葉を借りれば、服装に於いて先生がこれほど「解除」した、大自在の境地に到達していたかどうかは、私にははっきり分からないが、然し先生が服装のことにやかましかったのは、他人のためではなく、純粋に自分のためであったことだけは確かなようである。のみならず先生が、それほど自分で「好悪・選択」して置きながら、自分が着ている着物を忘れていたに違いないことは、早稲田の家に移ってから、先生が奥さんから、前掛を掛けさせられていたのからでも、およそ想像することが出来る。着物の膝が汚れてしょうがないから、前掛を掛けてくれという奥さんの申し出しに従って、先生は大島の着物の上に、両傍に短かい乳をつけて、それを帯に挿むようにしたセルの前掛を掛け始めるのである。ーーこれがいつごろまで続いたものか、私ははっきり覚えていない。然し大正二三年のころは、先生はまだ前掛を掛けていたようにも思う。(小宮豊隆 漱石・寅吉・三重吉 休息している漱石)
2019.01.19
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明治31(1898)年7月13日、子規は友人の河東可全に宛てた手紙の中で墓誌銘を送っています。「正岡常規 又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」というもので、子規の数多い雅号と家系、日本新聞社員であることと給料の額が記されています。手紙には、「あしゃ自分が死んでも石碑などはいらん主義で、石碑立てても字なんか彫らん主義で、字は彫っても長たらしいことなど書くのは大嫌いで、寧ろこんな石ころをころがして置きたいのじゃけれど、万一やむを得んこつで字を彫るなら、別紙の如きもので尽しとると思うて書いてみた。これより上一字増しても余計じゃ。但しこれは人に見せられん」とあり、この銘より一字増やしても余計だと付け加えられていました。 明治32年10月の「ホトトギス」に掲載された『墓』には「僕が死んだら道端か原の真中に葬って土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てるのはいやだが、やむなくば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。もしそれもできなければ円形か四角か六角かにきっぱり切った石を建ててもらいたい。彼の自然石という薄っぺらな石に字のたくさん彫ってあるのは大々嫌いだ。石を建てても碑文だの碑銘だのいうは全く御免蒙りたい。句や歌を彫ることは七里ケッパイいやだ。もし名前でも彫るならなるべく字数を少なくして悉く篆字にしてもらいたい。楷書いや。仮名は猶更」とあります。 子規の墓は、明治38(1905)年、東京田端の大龍寺に建てられました。可全宛の手紙にあった石ころをころがしたような丸い形ではなく、四角い墓には、陸羯南が揮毫した「子規居士之墓」の六文字が彫られています。 子規の墓が建立される前年の9月19日、松山末広町にある正宗寺に子規居士埋髪塔が建立されました。 松風会に属した正宗寺の住職・釈一宿は、幼い頃からの子規の友人でした。そのため、明治35年10月28日に子規の遺髪を埋葬する儀式と追悼会を挙行しました。子規三回忌の折に埋髪塔建立が実現できたのも、生前の子規との縁によるものです。埋髪塔の図案は、隣にある内藤鳴雪の髯塔とともに下村為山の手によります。 正宗寺には、中ノ川にあった旧正岡邸の三畳の書斎がありました。これは、大正15(1926)年に旧家の部屋を移したものです。そのため、正宗寺は「子規堂」としても知られています。しかし、せっかく移設された書斎は、2度の火災で焼失してしまいました。現在の建物は旧邸の間取りを模したものだといいます。 子規は『墓』という文章で、我が身が骨になったところを描いていますが、落語好きの子規らしく「野ざらし」をパロったものでしょうか。 ○こう生きていたからとて、面白いこともないから、ちょっと死んで来られるなら一年間くらい地獄漫遊と出かけて、一周忌の祭の真中へヒョコと帰ってきて地獄土産の演説などは、はなはだしゃれてる訳だが、しかし死にっきりの引導渡されっきりでは余り有難くないね。けれど有難くないの何のと贅沢をいつて見たところで、諸行無常老少不定というので、鬼が火の車引いて迎えに来りゃ、今夜にもぜひとも死ななければならないヨ。明日の晩、実は柳橋で御馳走になる約束があるのだが、一日だけ日延してはくれまいかと願って見みたとて、鬼のことだからまさか承知しまいナ。もっとも地獄の沙汰も金次第というから、犢鼻褌のカクシへおひねりを一つ投げこめば、鬼の角も折れないことはあるまいが、生憎今は十銭の銀貨も無いヤ。無いとして見りょうかとはしていられない。ぜひ死ぬとなりゃ遺言もしたいし、辞世の一つも残さなけりゃ外聞が悪いし……ヤア何だか次の間に大勢よって騒いでおるナ。「ビョウキキトク」なんていう電報を掛けるとか何とかいつているのだろう。ナニ耳のそばで誰やら話しかけるようだ。何かいうことないか、いうこと無いでも無い、借金のことどうかお頼み申すヨ。それきりか、僕は饅頭が好きだから、死んだらなるべく沢山盛って供えてもらいたい。それは承知したが辞世は無いか、それサ辞世の歌一首詠もうと思ったが間に合はないから、十七字に変えて見たが、矢張まだ五字出来ないのだが、五文字出来なけりゃ十二字でも善いじゃないか、言って見たまえ、そんなら言ってみよか「屁をひって尻をすぼめず」というのだ、何か下五文字つけてくれ、笑ってちゃいけないヨ、それぢゃネ、萩の花と置いてはどうだ、それゃどういう訳だ、どういう訳も無いけれど外に置きようは無しサ、今、萩がさかりだから萩の花サ、そんな訳の分らぬのは困るヨ、じゃ君、屁ひり虫というのはどうだ、屁ひり虫は秋の季になってるから、屁をひって尻をすぼめず屁ひり虫か、そいつは余りつまらないじゃないか、つまらないたって困ったナ、それじゃこれではどうだ、屁をひってすぼめぬ穴の芒かなサ、少しは善いようだナ、少し善ければそれで我慢して置いて安楽に往生するサ、迷わずに往ってくれたまえ、迷ったら帰って来るヨ……イヤに静かになった。誰やらシクシク泣いてるようだ。抹香の匂いがしやアガラ。この匂いは生きてるうちから余り好きでも無かったが、死んで後も矢張善く無いヨ、何だか胸につまるようで。胸につまるといえばからだが窮屈だね。こリヤ樒の葉でおれのからだを詰めたに違いない。棺を詰めるのは花にしてくれといって置くのを忘れたから今更仕方が無い。オヤ動き出したぞ。墓地へ行くのだナ。人の足音や車の軋る音で察するに、会葬者は約百人、新聞流でいえば無慮三百人はあるだろう。まずおれの葬式として不足も言えまい。……アアようよう死に心地になった。さっき柩を舁ぎ出されたまでは覚えていたが、その後は道々棺で揺られたのと、寺で鐘太鼓ではやされたので全く逆上してしまって、惜い哉、木蓮屁茶居士などというものはかすかに聞えたが、その後は人事不省だった。少し今、ガタという音で始めて気がついたが、いよいよこりゃ三尺地の下に埋められたと見えるテ。静かだって淋しいって丸で娑婆でいう寂寞だの蕭森だのとは違つてるよ。地獄の空気は確かに死んでるに違い無い。ヤ音がする。ゴーというのは汽車のようだが、これが十万億土を横貫したという汽車かも知れない。それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしするもおつだが、しかし方角が分らないテ、滅多に闇の中を歩行いて血の池なんかに落ちようものなら百年目だ、こんなことなら円遊に細しく聞いて来るのだった。オヤ梟が鳴く。何でも気味の善い鳥とは思はなかったが、道理で地獄で鳴いてる鳥じゃもの。今日は弔われのくたびれで眠くなって来た……もう朝になったか知ら、少し薄あかるくなったようだ。誰かはや来ておるよ。ハア植木屋がかなめを植えに来たと見える。しかしゆうべ待てあった花はどうしたろう、生花も造花も何んにも一つも無いよ。何やら盛物もあったがそれも見えない。きっと乞食が取ったか、この近辺の子が持って往たのだろう。これだから日本は困るというのだ。社会の公徳というものが少しも行われておらぬ。西洋の話を聞くと公園の真中に草花がつくってある、それには垣も囲いも何んにも無い。多くの人はその傍を散歩しておる。それでもその花一つ取る者は仮にも無い。どんな子供でも決して取るなんていうことは無いそうだ。それが日本ではどうだ。白壁があったら楽書するものときまっている。道端や公園の花は折り取るものにきまっている。もし巡査がいなければ公園に花の咲く木は絶えてしまうだろう。殊に死人の墓にまで来て花や盛物を盗む。盗んでも彼等は不徳義とも思やせぬ。寧ろ正当の様に思ってる。如何に無教育の下等社会だって――しかし貧民の身になって考えて見ると、この窃盗罪の内に多少の正理が包まれていないことも無い。墓場の鴉の腹を肥す程の物があるなら、墓場の近辺の貧民を賑わしてやるが善いじゃないか。貧民いかに正直なりとも、おのれが飢える飢えぬの境に至って墓場の鴉に忠義だてするにも及ぶまい。花はとにかく供え物を取るのは決して無理では無い。西洋の公園でも花だから誰も取らずに置くが、もしパンを落して置いたらどうであろう。きっとまたたく間に無くなってしまうに違いない。して見れば西洋の公徳というのも有形的であつて精神的では無い――ヤ、大勢来やがった。誰かと思えば矢張きのうの連中だ。アア深切なものだ。皆くたびれているだろうけれど、それにも構わず墓の検分に来てくれたのだ。実に有り難い。諸君。諸君には見えないだろうが、僕は草葉の陰から諸君の厚誼を謝しているよ。去る者は日々に疎しといつてなかなか死者に対する礼はつくされないものだ。僕も生前に経験がある。死んだ友達の墓へ一度参ったきりで、その後参ろうろうと思っていながらとうとう出来ないでしまった。僕は地下から諸君の万歳を祈っている。……今日は誰も来ないと思ったらイヤ素的な奴が来た。蘭麝の薫りただならぬという代物、オヤ小つまか。小つまが来ようとは思わなかった。成程娑婆にいる時に爪弾の三下りか何かで心意気の一つも聞かしたこともある、聞かされたこともある。忘れもしないが自分の誕生日の夜だった。もう秋の末で薄寒い頃に、袷に襦袢で震えているのに、どうしたか、いくら口をかけてもお前は来てくれず、夜はしみじみと更ける、寒さは増す。独りグイ飲みのやけ酒という気味で、もう帰ろうと思ってるとお前が丁度やって来たから狸寝入でそこにころがっていると、お前がいろいろにしておれを揺り起したけれど、おれは強情に起きないでいた。すると後にはお前の方で腹立って出て往こうとするから、今度はこっちから呼びとめたが帰って来ない。とうとうおかみの仲裁でやっとお前が出て来てくれた時、おれがあやまったら、お前が気の毒がって、あんたほんとうにあやまるのですか、それでは私がすみません、私の方からあやまります、というので、じっと手を握られた時は少しポッとしたよ。地獄ではノロケが禁じてあるから深くはいわないが、あの時はほんとうにもう命もいらないとまで思ったね。したがお前の心を探って見ると、一旦は軽はずみに許したが、男のいうことは一度位ではあてにならぬと少し引きしめたように見えたので、こちらも意地になり、女の旱はせぬといったような顔して、疎遠になるとなく疎遠になっていたのだが、今考えりやおれが悪かった。お前が線香たててくれるとは実に思いがけなかった。オヤまた女が来た。小つまの連かと思つたら白眼みあいにすれ違った。ヤヤヤみいちゃんじゃ無いか。今日はまアどうしたのだろう。みいちやんに逢っては実に合す顔が無い。みいちゃんも言いたいことがあるであろう。こちらも話したいことは山々あるが、もう話しすることの出来ない身の上となってしまった。よし話が出来たところが今更いってみても、みんな愚痴に堕ちてしまう。いわばいうだけ涙の種だから何んにもいわぬ。只ここからお詫びをする迄だ。みいちゃんの一生を誤ったのは僕だ。まだ肩あげがあって桃われが善く似あうと人がいった位の無垢清浄玉の如きみいちゃんを邪道に引き入れた悪魔は僕だ。悪魔、悪魔には違いないが、しかしその時自分を悪魔とも思わないし、またみいちゃんを魔道に引き入れるとも思わなかった。この間の消息を知ってる者は神様と我々二人ばかりだ。人間世界にありうちの卑しい考は少しもなかったのだから罪は無いようなものであるが、そこはいろいろの事情があって、一枚の肖像画から一篇の小説になる程の葛藤が起ったのである。その秘密はまだ話されない。恐らくはいつ待てたっても話さるることはあるまい。かようの秘密がいくつと無くこの墓地の中に葬られているであろうと思うと、それを聞きたくもあるし、自分のも話したいが、話して後にもし生き還ると義理が悪いから、矢張秘密にしておくも善かろう。とにかく今日は艶福の多い日だった。……日の立つのも早いものでもう自分が死んでから一周忌も過ぎた。友達が醵金して拵えてくれた石塔も立派に出来た。四角な台石の上に大理石の丸いのとは少としゃれ過ぎたが、なかなか骨は折れている。彼等が死者に対して厚いのは、実に感ずべきものだ。が、先日ここで落ちあった二人の話で見ると、石塔は建てたが遺稿は出来ないということだ。本屋へ話したが引き受けるというものは無し、友達から醵金するといっても、今、石塔がやっと出来たばかりでまた金出してくれともいえず、来年の年忌にでもなったら、また工夫もつくであろうということであった。何だか心細い話ではあるが、しかし遺稿を一年早く出したからって、別に名誉という訳でも無いから来年でも出来さえすりや結構だ。しかし先日も鬼が笑っていたから気にならないでもないが、どうせ死んでから自由は利かないサ、ただあきらめているばかりだ。時に近頃隣の方が大分騒がしいが、何でも華族か何かがやって来たようだ。華族といや大そうなようだが、引導一つ渡されりゃ華族様も平民様もありゃアしない。妻子珍宝及王位、臨命終時不随者というので御釈迦様はすましたものだけれど、なかなかそうは覚悟してもいないから凡夫の御台様や御姫様はさぞ泣きどおしでいられるであろう。可愛想に、華族様だけは長いきさせても善いのだが、死に神は賄賂も何も取らないから仕方がない。華族様なんぞは平生苦労を知らない代りに、死に際なんて来たらうろたえたことであろう。可愛想だが取り返しもつかないサ。正三位勲二等などと大きな墓表を建てたって、土の下三尺下りや何のききめもあるものでない。地獄では我々が古参だから、頭下げて来るなら地獄の案内教えてやらないものでも無いが、生意気に広い墓地を占領して、死んで後までも華族風を吹かすのは気にくわないヨ。元来墓地には制限を置かねばならぬというのが我輩の持論だが、今日のように人口が繁殖して来る際に、墓地の如き不生産的地所が殖えるというのは厄介極まる話だ。何も墓地を広くしないからって死者に対する礼を欠くという訳は無い。華族が一人死ぬると長屋の十軒も建つ程の地面を塞げて、甚だけしからん、といって独り議論したって始まらないや。ドレ一寐入しようか。……アア淋しい淋しい。この頃は忌日が来ようが盂蘭盆が来ようが、誰一人来る者も無い。最もここへ来てから足かけ五年だからナ。遺稿はどうしたか知らん、大方出来ないのは極ってる。誰も墓参りにも来ない者が遺稿のことなど世話してくれる筈は無い。お隣の華族様ももう大分地獄馴れて、蚯蚓の小便の味も覚えられたであろう。淋しいのは少しも苦にならないけれど、人が来ないので世上の様子がさっぱり分らないには困る。友だちは何としているか知らっ。小つまは勤めているならもう善いかげんの婆さんになったろう。みいちやんは婚礼したかどうか知らっ。市区改正はどれだけ捗取ったか、市街鉄道は架空蓄電式になったか、それとも空気圧搾式になったか知らっ。中央鉄道は聯絡したか知らっ。支那問題はどうなったろう。藩閥はもう破れたか知らっ。元老も大分死んでしまったろう。自分が死ぬる時は星の全盛時代であったが、今は誰の時代か知らっ。オー寒い寒い、何だかいやに寒くなってきた。どこやらから娑婆の寒い風を吹きつけて来る。先日の雨にここの地盤が崩れたと見えて、こほろぎの声が近く聞えるのだが、誰も修理に来る者などはありゃしない。オヤ誰か来やがった。夜になってから詩を吟じながらやって来るのは書生に違い無いが、オヤ、おれの墓の前に立って月明りに字を読んでいやがるな。気障な墓だなんて独り言いっていやがらア。オヤ恐ろしい音をさせアがった。石塔の石を突きころがしたナ。失敬千万ナ。こんな奴がいるから幽霊に出たくなるのだ。一寸幽霊に出てあいつをおどかしてやろうか。しかし近頃は慾の深い奴が多いから、幽霊がいるなら一つふんじばって浅草公園第六区に出してやろうなんていうので、幽霊捕縛に歩行いているのかも知れないから、うっかり出られないが、失敬ナ、悠々と詩を吟じながら往ってしまやがった。この頃、ここへ来る奴にろくな奴は無いよ。きのうも珍しく色の青い眼鏡かけた書生が来て、何か頻りに石塔を眺めていたと思ったら、今度ある雑誌に墓という題が出たので、その材料を捜しに来たのであった。何でも今の奴はただは来ないよ。たまにただ来た奴があると、石塔をころがしたりしやアがる。始末にいけない。オー寒いぞ寒いぞ。寒いってもう粟粒の出来る皮も無しサ。身の毛のよだつという身の毛も無いのだが、いわゆる骨にしみるというやつだネ。馬鹿に寒い。オヤオヤ馬鹿に寒いと思ったら、あばら骨に月がさしていらア。○僕が死んだら道端か原の真中に葬つて土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てるのはいやだが已む無くば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。もしそれも出来なければ、円形か四角か六角かにきっぱり切つた石を建ててもらいたい。彼自然石という薄っぺらな石に字の沢山彫つてあるのは大々嫌いだ。石を建てても碑文だの碑銘だのいうは全く御免蒙りたい。句や歌を彫ることは七里ケッパイいやだ。もし名前でも彫るなら、なるべく字数を少くして悉く篆字にしてもらいたい。楷書いや。仮名は猶更。(墓)
2019.01.18
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春王の正月蟹の軍さ哉 漱石 正月の男といはれ拙に処す 漱石 駆け上る松の小山や初日の出 漱石 色々の雲の中より初日出 漱石 初日の出しだいに見ゆる雲静か 漱石 漱石門下の面々が、漱石の家での正月がどうであったかを記しています。 まずは漱石仁神社の神主・小宮豊隆で『知られざる漱石』の「木曜会」には「元日に先生の所へ年賀に行くと、昼でも夜でも、必ずお膳が出てお酒が出た。お膳には野間真綱君が持ってきたり送ってよこしたりする、鹿児島の猪のお雜煮のつくのが吉例だった。先生は酒は殆んど飮まなかったし、猪口で一二杯飮んでもすぐ真赤になる方だったが、しかし人が酒を飮むことを別に嫌う風ではなかった。勿論先生は、酒を飮むのはいいが、飮んで酔っ払って人間が変る奴は嫌いだとはいっていた。しかし弟子が来て酒を飮んだり雜煮を喰ったりしながら、勝手な熱を吹くのを、先生はきちんと坐ってにこにこしながら聴いていて、少しもあきることがなかった。それが朝のうちからやってきて、昼の膳につくのみならず、一旦外へ出てよその廻礼をすませてから夕方また帰ってきて夕方の膳につき、それからまた勝手な熱を吹き出して夜の十二時ごろまでも続くのを、先生は不相変じっと坐って相手になっているのだから、驚くべき根のよさだった」「その元日の光景の一端を描いたものに、明治四十二年(一九〇九)の『永日小品』の一番初めに出ている『元日』というのがある。また大正四年(一九一五)の『硝子戸の中』の第二十七がある。その時分は世の中がよかったから、どの小品にものんびりした雰囲気が漂っている。しかしこの雰囲気は単に世の中がよかったせいであるとのみはいえない。それはなんといっても、先生の愛の力である。先生によって指揮され、先生によって反省させられ、先生によって包み込まれるから、全体の雰囲気がのんびりもするし、暖かにもなるし、潤滑にもなるし、実直ででもあれば芸術的なものにもなるのである。そうしてよくあるサロンの雰囲気のような、輕佻で浮薄で、上部だけは愛想よく滑らかに進行しているくせに、気持は少しも暖まることがないというような、そういう気配は少しも動き出すことがなかった」とあります。 松浦一は『文学論の頃』で「私どもより後の卒業生の某氏なぞは、寄宿にて正月雑煮が食えぬといって、先生に御馳走してもったという話もあった。正月の年始の時は、ちょっと行った学生にも吸物膳で屠蘇を馳走するといった風の、ごく親しみ深い人であった。後には訪問答が多くて困るとこぽされた先生も、大学へ這入られて未だ初めの頃、未だ「猫』をようやく書き出された時分は、寂しそうであった。その頃私が訪問して辞し去ろうとしたら、『まだいいいじゃないか。誰れも来ゃあしない。もっと話して行き給え』と引止められたことがあった。木曜日を面会日と定められたのはそれより暫らくして先生の名が隆々として揚り、訪問客の多くなった後のことであった。『猫』の評判が高くなって、私がある浅草の寺の門番に非常に愛読してる者があるそうだとある時いうと、先生は微笑を湛えて『猫』の愛読者を歴訪して見ようかなぞといわれたことも当時の思出である」とあり、二人の話を総合すると、漱石は正月に人が集まるのを楽しんでいて、酒と雑煮を振る舞うのが常だったようです。 そうした気風の漱石を、松浦一は「前にもこの語は出たが、英文科会即ち常に英文会と呼んでいた英文科の出身者及び同科の在学生の懇親会へは、いつも悦んで出席された。けれどもそういう処で組織立った演説めいたものをするのは絶対に好まれなかった。ある時幹事の一人が、食卓の先生にたって何かお話しをお願したら、『そんな必要はない』と怒気を含んで断乎として刎ねつけられたこともある。愉快に集って肩の張らぬ話でもあっさりとして、愉快にあっさりと解散するのがそういう会での先生の嗜好であるらしく思えた。(「文学論」の頃)」とあり、正月くらいは、門下たちとのんびりと雑談を楽しみたかったようです。
2019.01.17
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夏痩や牛乳に飽て粥薄し(明治30) 朝顏の戸に掛けて去る牛の乳(明治30) この連休に広島に行ったら県立美術館でサヴィニャック展をやっていました。サヴィニャックは、フランスのポスター画家で、としまえんの「7つのプール冷えてます」というポスターは、僕たちをアッといわせたものでした。 サヴィニャックの牛乳石鹸の愛らしさを眺めていたら、子規の門人・伊藤左千夫のことを思い出しました。 左千夫は、元治元(一八六四)年八月に、上総国武射郡(現千葉県山武市)で生まれました。子規の3歳年上で、18歳の春に勉学のために上京し、明治法律学校(現明治大学)に籍を置きますが、目の病気で退学しました。22歳の時、近眼のため兵役免除となったのを機に再度上京し、東京の牧場で働き、明治22(1889)年に、茅場町で牛乳搾取業を始めます。牛乳は、新興産業のため利益が多く、しかも左千夫は勤勉でもあったため、経済的余裕もできました。そうしたなかで、短歌や茶道に興味を持ったのでした。 明治31年の2月から3月にかけて「日本」紙上に連載された『歌よみに与ふる書』は大きな反響を世の中に与えました。古今和歌集のような技法だけの空っぽな歌ではなく、万葉集のプリミティブな歌を取り戻そうとする試みは、議論好きで投書魔だった伊藤左千夫の心を揺さぶり、子規への反論を書いて「日本」に送ります。 俳句は短歌の下にあるとする左千夫に、文学に階級はないと子規はたしなめます。「調」を重視する左千夫に対して、子規は「想い」を主張しました。素直に想いを詠み込むことこそが歌の本質であると論じたのでした。 明治33年1月2日、左千夫の短歌が「日本」紙上の「竹の里人選歌」に選ばれたのをきっかけに、左千夫は子規庵を訪問しました。左千夫は、子規の知識と人柄に触れて門人になります。「天質において偉人たりし子規子は人格においても偉人なり、そは子規子生涯を通じて一貫せる態度の絶対的になりしにあり」と『絶対的人格(※回想の子規)』で書き、左千夫は終生、子規を師と仰ぎました。 書生気分の抜けない者が多い子規門の中で、生活に根ざした左千夫は異風を放ちます。自らを牛飼と称し、傍若無人な物言いは問題となったが、次第に歌会で認められるようになりました。 代表作「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」の歌通り、左千夫は48歳で亡くなるまで搾乳業を続けました。 牛乳が飲まれるようになるのは、西洋文化を積極的に取り入れた明治時代になってからのことです。はじめは、政府高官や外国公使館員などの飲用でしたが、まもなく、牛肉以上に栄養のある万病の薬として多くの人々が飲むようになり、牛乳搾取業は繁昌しました。 話は元に戻りますが、サヴィニャックの牛は、どことなく左千夫の顔によく似ています。屈託のない、それでいて堂々とした佇まいを、サヴィニャックのポスターの中に見たのでした。
2019.01.16
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漱石は、小説『坊っちゃん』で、松山らしき都市を描写しています。松山という地名はでてきませんが、主人公は「四国辺のある中学校で数学の教師」となって赴任しています。その地の第一印象は、「野蛮な所」で「気のきかぬ田舎者」のいる土地で、「古い前世紀の建築」の県庁、「神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅」の大通りと描写しています。「二十五万石の城下だって高の知れたもの」「こんな所に住んで御城下だなどといばっている人間はかわいそうなものだ」「一時間歩くと見物する町もないような狭い都に住んで、ほかになんにも芸がない(中略)憐れなやつらだ」「植木鉢の楓みたような小人ができるんだ。無邪気ならいっしょに笑ってもいいが(中略)子供のくせにおつに毒気を持っている」「おれと山嵐はこの不浄な土地を離れた」と罵詈雑言が続きます。 褒めているのは、「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことにきめている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけはりっぱなものだ」というものだけです。「あまり早くてわからんけれ、もちっと、ゆるゆるやって、おくれんかな、もし」「バッタた何ぞな」「そりゃ、イナゴぞな、もし」「なもしと菜飯とはちがうぞな、もし」「だれも入れやせんがな」「イナゴは温い所が好きじゃけれ、おおかた一人でおはいりたのじゃろ」「言えてて、入れんものを説明しようがないがな」と伊予弁が登場することから、地名がでてなくても松山だと想像できる仕掛けとなっています。 『漱石研究』第七号の鼎談では、井上ひさしが松山についての指摘をしています。「当時の松山藩は、日本の幕末維新三百藩の中で一番ダサイ、馬鹿な藩なんです。『第二次長州征伐』という事件がありましたね。(中略)他藩が天下の形勢を胸算用して最後まで一兵も出さなかったのに、松山藩だけは馬鹿正直に攻め込んで、猛反撃をくらって退却、負けてしまった。勿論、ここまではいいのです。それどころか、むしろ、幕府一筋ということでほめられてもいい。ところがしばらくして、十五代藩主の松平定昭が老中職についた。大政奉還をすぐ後に控えた、もっともむずかしい時期に幕政をみることになったんですね。ところが藩の重臣たちがやめろやめろと騒ぎ出した。殿様にも定見がない。そこで一カ月足らずで老中職を降りてしまった。それも大政奉還の直後、正確には四日後ですから、将軍や親藩からも信用をなくしてしまったわけです。つまり第二次長州征伐のときの頑張りはべつに将軍家へ忠誠をつくしたわけではなく、重臣たちに天下の状勢を見る目がなかっただけ、老中職へ就職するときに多額の運動費を使い、就任して『こりゃ大変』となると、時機を弁えずに逃げてしまう。てんでなってない藩だと、天下に恥をさらしてしまった。一カ月足らずでやめちゃったわけです。それで『鳥羽伏見』の時は、大阪の梅田あたり、一番後ろの方に回される。敵の官軍からはもとより、味方の幕府軍からも馬鹿にされていたわけです。だから、漱石が松山らしき城下町のことをケチョンケチョンに言いますが、あれが当時の人には、受けたんじゃないかと思うんです」また、「ひょっとしたら漱石は子規の妹の『律』と結婚したかったんじゃないかと思うんです」とも井上ひさしは語っていますが、これはちょっと想像力が働き過ぎたように思われます。 文学者の松井利彦は『坊っちゃん』を「極端な四国軽視の立場を取ることで、子規に対して抱いていた主体性の無さ、精神的な負い目から脱却した」と評しています。漱石は子規の影響から抜け出すためにこの作品を書き上げ、子規の故郷・松山をめちゃくちゃに批判する必要があったのでしょう。 しかし、『坊っちゃん』に書かれた悪口を気にかけず、それどころか商売のネタにしてしまう愛媛人は、県外からみると不思議に思われているようです。これを「鷹揚」とみるか「商売上手」とみるかは人それぞれですが……。 松山には『坊っちゃん』が冠せられたものがたくさんあります。飲食店、喫茶店、居酒屋はいうにおよばず、公共施設や行事にも『坊っちゃん』の名がつけられています。松山市が主宰する「坊っちゃん文学賞」は平成元年(1989)の市制百周年を機に創設されました。特に、第4回大賞を受賞した敷村良子著「がんばっていきまっしょい」は田中麗奈主演で映画化され、「坊っちゃん文学賞」の名を全国に広めています。 平成12年(2000)にオープンした松山市中央公園野球場は愛称を公募したところ、全国から1528の応募があり、そのうち107件が「坊っちゃんスタジアム」でした。「オレンジスタジアム」や「子規スタジアム」と、これもお馴染みのネーミングが並んだなか、「坊っちゃんスタジアム」と決定されたのは、全国に松山らしさをアピールするためというのが理由です。 ただ、愛媛人や松山人は、県外で出身地の話になると『坊っちゃん』の話題を必ず振られるため、飽き飽きしています。『坊っちゃん』のついたネーミングをみると「またか」と思うのも事実ですが、心やさしい愛媛人や松山人は、道後温泉で坊っちゃんやマドンナのコスチュームを着た観光ガイドを眺めながら「観光につながるから、まあ、いいか」などと呟くのでありました。
2019.01.15
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繭玉や東風に吹かるゝ店の先(明治28) 繭玉や仰向にねて一人見る(明治35) 15日は小正月の日です。 全国各地でドンドが行なわれます。トンドは室町時代に始まったと考えられていて、貴族や将軍家、民間に至るまで広く一般に行われていました。 子規の生まれた松山地方では、正月に用いられた松飾り、おかざりやしめ縄の類を石手川の河原などで燃やします。その燃える火に体をあぶったり、餅を焼いたり、蜜柑を食べたりして、一年中の災難を払う呪いとするのです。 子供たちは何人かが党をなして、各戸を廻り歩き、「おばさん、お飾り、おくれえナア、馬に積むほどおくれえナア」と口々に呼ばわりながら、正月飾りをもらうために各戸を廻ります。 今は廃れてしまいましたが、その前日、14日の宵から深夜にかけて、「もぐら打ち」と称する子供行事がありました。大勢の子供が一組となり、手んでに藁の束を符ち、大地を叩いて地中に沼んでいるもぐらを追い払うという呪いです。その時、子供の他の一群は、鉦や太鼓、またはその代用品としての金たらいや石油の空缶を乱打して「テンか、イクチか、おごろもちや、お見舞いじゃ、海鼠さんのお見舞いじゃ」と唄い、ドンチャカ、ドンチャカ、ドングワラリンと大声で囃し立てます。 これはもともと農村行事で、田畑を荒らす『もぐら退治』の習俗が伝わったものでしょう。「もぐら」は「海鼠」を毛嫌いするといわれていたので、本物のナマコに紐をつけて引き回す代りに、その代用としてナマコに型どったワラジを引きずり廻すこともあったといいます。モグラや田鼠は、農作の害獣なので、その害を除くための気持ちがこめられていました。引きずりまわされた草履や藁束は、海とか小川または溝なぞに流し棄てられて、厄が払い落されます。 この日は、餅.団子や木片などで稲・粟・稗などの穀物や繭・棉花・野菜類の形をこしらえ、それを大小の木の技にたくさんさして神棚などに飾った「繭玉」も飾られます。神棚のみならず、屋敷神の祠、蔵・井戸などにも飾られ、神様の供物とされます。「繭玉」という名称から、養蚕に関係したものでしたが、しだいに農業に関するさまざまな飾り物をつけるようになり、華やかになっていきました。また、藁に餅や団子をつけて穀物の穂をかたどる地方もあり、一年の初めにあたってその一年の豊作を願ったものでもあったようです。
2019.01.14
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初日呑むと夢みて發句榮ゆべく(明治29) 初夢や申の年には山の幸(明治29) 初夢の何も見ずして明けにけり(明治30) 雜煮くふてよき初夢を忘れけり(明治31) 初夢に尾のある者を見たりけり(明治33) 明治34年1月31日発刊の「ホトトギス」に、子規は『初夢』という文を書きました。 この文章には、まず食べ物が登場します。 雑煮は、地域によってその形態が異なります。丸もちか、角もちか、すましか、味噌かなど、様々なバリエーションがあります。子規は、ふるさと松山の白味噌仕立ての雑煮を登場させます。 池山一男・一色保子・鈴木玲子の共著『伊予の郷土料理』には「昔は正月三カ日だけは、すや餅といってあんこの入らない白い餅を使ったらしいが、一昔前、甘いものが少なかったころは、特別のごちそうとして元且からあん餅を使う家もあった。餅は個人の好みに応じて雑煮に入れるが、白餅、おふく(もち米とうるち米をまぜてついた餅)、キビ餅、粟餅、ヨモギ餅などの砂糖あん、塩あんがあり、バラエティーに富んでおり、大勢家族ではそれは大変だったらしい。イリコやカツオ節のだしにサトイモ、ダイコン、二ンジン、ゴボウなどを入れ、しょうゆで味をととのえ、あん餅を人れる。京風に白味噌仕立にする家もあり、また昔は皮鯨を使っていた家もあるとか。煮すぎて中のあんこが出ないように注意し、椀に取り分けてから、箸で餅をちぎると中からあんが出て薄い汁粉のようになる。甘いほどよいという人もあれば、塩あんでなければという人もあり、好みはまちまちである。典型的な田舎の雑煮で、隣県香川県でもあんもち雑煮を作るが、ほかの県にはあまり見られない珍しいたべ方である」と書いています。 確かに、香川のあんもち雑煮は、焼かないあんもちを入れる白味噌仕立てですし、共通点はあるのですが、残された文章からは、子規があん餅入りの雑煮を食べたとは記されていません。 子規が年始に出かけるのは、真砂町、金助町、猿楽町、そして新橋に出かけます。子規は本所にも行きたいと思っていました。 真砂町は常盤会寄宿舎の内藤鳴雪、金助町は岡麓、猿楽町は高浜虚子を訪ねたということでしょう。新橋ステーションは明治5年の新橋から品川の鉄道開通で、ここには洋食屋も営業しており、子規はスープを飲みます。尾崎紅葉の『金色夜叉(明治32年)』には「新橋停車楊の大時計は四時を過ること二分余、東海道行の列車は既に客車の扉を鎖して、機関場に烟を噴かせつつ、三十余輌をつらねて焔々と横わりたるが、真承の秋の日影に夕栄して、窓々の硝子は燃えんとすばかりに輝けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚くを余所に、大踏歩の寛々たる老欧羅巴人は麦酒樽をぬすみたるように……」と書かれているように、当時でもハイカラな場所でした。 本所には、茅場町に伊藤左千夫、緑町に香取秀真が住んでいました。子規は汽車に乗り込んでいて、興津を通ると、弁当の鮎の鮓が食べたくなりました。 それから一転直下、俥はいつのまにか松山を走っています。長町の新町=港(湊)町四丁目は叔父の大原恒徳の家がありました。そして、中の川にあった子規の旧居を訪ね、桜の老木がなくなり新しい桜が育っているところを眺め、庭の様子をもっと知りたくなった子規なのでした。 次に向かったのは道後の三階でした。これは道後温泉本館のことで、子規は道後あたりに隠居家を建てて、陶器を売って暮らしたいと考えていたのです。 松山城のある城山に登ろうとすると、そこは富士山に変わりました。五合目まできて、汁粉を食べるというのです。足を踏み外して目をさますと、そこは子規庵の布団の中で、ガラス戸から半年の光が漏れています。まさに初夢を書き付けたという文章です。 (座敷の真中に高脚の雑煮膳が三つ四つ据えてある。自分は袴羽織で上座の膳に着く)「こんなに揃って雑煮を食うのは何年振りですかなア、突に愉快だ、ハハー松山流白味噌汁の雑煮ですな。旨い、実に旨い、雑煮がこんなに旨かったことは今までない。も一つ食いましょう」「羽織の紋がちっと大き過ぎたようじゃなァ」「何に大きいことはない。五つ紋の羽織なんか始めて着たのだ。紋の大きいのは結構だ。(自分は嬉しいので袖の紋を見る)千代平の袴も始めてサ。こんなにキュウキュウ鳴ると恥かしいようだ」「お雑煮をも一つ上げよか」「もうよございます。屠蘇をも一杯飲もうか。おいおい硯と紙とを持て来い。何と書てやろうか。俳句にしようか。出来た出来た。大三十日愚なり元日なお愚なりサ。うまいだろう。かつて僕が腹立紛れに乱暴な字を書いたところが、或人が竜飛鰐立と讃めてくれた事がある。今日のも釘立ち蚯蚓飛ぶ位の勢は慥かにあるョ。これで、書初めもすんで、サア廻礼だ」「おい杖を持て来い」「どの杖をナ」「どの杖てて、まさかもう撞木杖なんかはつきやしないョ。どれでもいいステッキサ。暫く振りで薩摩下駄を穿くんだが、非常に穿き心地がいい。足の裏の冷や冷やする心持は、なまぬるい湯婆へ冷たい足の裏をおっつけて寒がっていた時とは大違いだ。殊に麻裏草履をまず車へ持ていてもらって、あとから車夫におぶさって乗るなんどは昔の夢になったョ。愉快だ。たまらない」(急いで出ようとして敷居に蹶ずく)「あぶないぞナ」「なに大丈夫サ、大丈夫天下の志サ。おい車屋、真砂町まで行くのだ」「お目出とう御座います。先生は御出掛けになりましたか」「ハイ唯今山た所で、まア御上りなさいまし」「イヤ今日は急いでいるから上りません」「あなたもうそんなにお宜しいので御座いますか。この前お目にかかった時と御形容なんどがたいした違いで御座います」「病気ですか、病気なんかもう厭き厭きしましたから、去年の暮にすっかり暇をやりましたヨ。今朝起きて見たら手や足が急に肥えて何でも十五貫位はありましょうよ」「そうですか、それはで御座います。まアお上りなすって、屠献を一っさし上げましょう」「いや改めてゆっくり参りましょう。サヨナラ。おい車屋、金助町だ」「ヤアこれは驚いた。先生もうそんなにお宜しいのですか。もうお出になっても宜しいのですか。マアどうぞ、サアこちらへ。(座敷へ通る。)お目出とう御座います。旧年中はいろいろ、相変りませず」「お目出とう御座います」「今朝もお噂さを致して居りましたところです。こんなによくおなりになろうとは突に思い懸けがなかったのです。まだそれでもお足がすこしよろよろしているようですが」「足ですか、足は大丈夫ですョ。すこし屠蘇に酔っているんでしょう。時にきょうの飾りはひどく洒落ていますな。この朝日は探幽ですか。炭取りに枯枝を生けたのですか。いずれまた参りましょう。おい車屋、今度は猿楽町だ」「や、お目出とう御座います。留守ですか。そうですか。なるほどこういう内ですか。」「まアあんさんちょっとお上りやす。」「いいえ急いでいますから……私の書生の頃この隣の下宿屋にいたのですが、もう十四、五年も前のことですから、この辺の様子はすっかり違っていますヨ。サヨナラ」「おやお珍らしゅう、もうそんなにすっかりお宜しゅう御座いますので、まァお上がりなさいませ。(座敷に巡る)お目出とう御座います。旧年中は……相変りませず」「お留守ですか」「ハイ唯今河東さんがお出になって一絡に出て行きました」「マーチャンお目出とう」「マーチャンお辞儀おしなさい。このおじさん知っていますか。オホンオホン、じいちゃんがネー御病気がすっかりよくおなりなすっていらしったのだからお辞儀をしなくちゃいけません。」「マーチャンはことし四つになったんでしょう、そうしてあかチャンの姉チャンになっておとなしくなったからこれをあげるヨ」「おやいいものを戴いて、この中には何が這入ってるだろう、あけて御覧んなさい。おやいいもんだネー。オヤもうお帰りでございますか」「おい君暫く逢わなかったネー」「やあ珍らしい。まアお目出とう」「君はいつから足が立つようになったのだ。僕は全く立たんと聞いていたが」「なに今朝から立ったのだョ。今朝立て見たら君、痛みなんどはちっともないのだもの」「そうか、そりゃ善かった。大変心配していたんだヨ。もうとてもいけないだろうッて、誰れか言った位であったから」「しかし君は何処へ行くんだ」「僕は新橋まで行くのだ」「そうか、それじゃ僕も一緒に行こう」「もう午じゃが君飯食わないか」「それじゃ一絡に食おう」「これか、新橋ステーションの洋食というのは。とにかく日本も開らけたものだネー。爰処へこんな三階作りが出来て洋食を食わせるなんていうのは。ヤア品川湾がすっかり見えるネー、なるほどあれが築港の工事をやっているのか。突に勇ましいョ。どしどし遣らなくっちゃいかんヨ」「君はどの汽車に乗るのだ」「僕は二時半の東海道線だが、尤も本所へも寄って行きたいのだが、本所はずれまで人力で往復しては日が暮れてしまうからネ」「本所へ行くなら高架鉄道に乗ればよい」「そうか。高架鉄道があるのだネ。そりゃ一番乗って見よう。君この油画はどうだ非常にまずいじゃないか。こんな書き方つてないものだ。へーこれは牡丹の花だ。これがいわゆる室咲だな。この頃は役者が西洋へ留学して、農学士が植木屋になるのだからネ」「オイオイ君ソップがさめるヨ」「なるほどこれは旨い。病室で飲むソップとは大違いだ」(ジャランジャランジャラン)「寐台附の車というのはこれだな。こんな風に寐たり起きたりしておれば汽車の旅も楽なもんだ。この辺の両側の眺望はちっとも昔と変らないョ。こんな煉瓦もあったヨ。こんな庭もあったョ。松が四、五本よろよろとして一面に木賊が唱えてある、爰処だ爰処だ、イヤ主人がお茶をたてているヨ、お目出とう、(と大きな声をする。)聞こゃしないや。ここは山北だ。おいおい鮎の鮓はないか。そうか。鮎の鮓は冬はないわけだナ。この辺を通るのは、どうもいい心持だ。ここが興津か。この家か、去年の秋移ろうかといったのは。なるほどこれなら眺望がいいだろう」(大阪の連中が四、五人汽車の窓の外に立っている)「先生お目出とう御座います」「ヤアお目出とう御座います。諸君お揃いで」「今東京から電報が来たもんですからお出迎えに来たのです」「そうですか、それは有難う御座いますが、ちょっと国へ帰って来ようと思いますから、帰りによりましょう。そうですか。サヨナラ」「おい車屋、長町の新町まで行くのだ。ナニ長町の新町といってはもう通じないようになったのか。それならば港町四丁目だ。相変らず狭い町で低い家だナア」「アラ誰だと思うたらのぼさんかな。サアお上り、お労れつろ、もう病気はそのいにようおなりたのか」(座敷へ通る。)「アラおまいお戻りたか」「マアお目出とう。おばアさん相変らず御元気じゃナア」「いいエおばあアはもうぼれてしもてなんの益にもたたんのョ」「おいさんはお留守かな」「おいさんは親類だけ廻るというて出たのじゃけれ、もうもんて来るじゃあろ」「それじゃァあたしも親類だけ廻って来よう。道後が奇麗になったそうなナア」「そうヨ、去年は皇太子殿下がおいでになるというてここも道後も騒いだのじゃけれど、またそれが止みになったということで、皆精を落してしもうたが、ことしはお出になるのじゃというて待っておるのじゃそうな」「それじゃちょっと出て来よう。」「マアお待ちやお燗酒だけしようわい。おなかがすいたらお鮓でも食べといき」「いいエもうええ。」「そんならすぐもんておいでや。こよいはうちへお泊りるのじゃあろうナア」「こよいかな。こよいは是非東京へ帰って活動写真を見に行く約束があるから、泊るわけには行かんが」「そのいにお急ぎるのか」「そうヨ、今度はちょっと出て来たのだから……とにかくうちの古い家を見て来よう」「オヤオヤ桜の形勢がすっかり途ってしまった。親桜の方は消えてしまって、子桜の方がこんなに大きくなった。これでこの子桜の年が二十二、三位になるはずだ。ヤア松の梢が見える。あの松は自分が土手から引て来て爰処へ植えたのだから、これも二十二、三年位になるだろう。あの松の下に蘭があって、その横にサフランがあって、その後ろに石があって、その横に白丁があって、すこし置いて椿があって、その横に大きな木犀があって、その横に祠があって、祠の後ろにゴサン竹という竹があって、その竹はいつもおばアさんの杖になるので、その筍は筍のうちでも旨い筍だということであった。そのゴサン竹の傍に菖(ショウブ)も咲けば著莪(シャガ)も咲く、その辺はなんだかしめっぽい処で薄暗いような感じがしている処であったが、そのしめっぽい処に菖や著我がぐちゃぐちゃと咲いているということが、今に頭の中に深く刻み込まれておるのはどういうわけかわからん。とにかく自分が二つの歳から十六の歳まで毎日毎日見たり歩いたりしていたこの庭が、今はどんなになっているであろうか、ちょっと見たいと思うけれど、今は他人の家になっておるのだから仕方がない。垣から覗いて見ようと思うにも、川の隔てがあるからそれも出来ん」「ヤアお目出とう。お前いつお帰りたか」「今帰ったばかりサ。道後の三階というのはこれかナ。あしゃアこの辺に隠居処を建てようと思うのじゃが、何処かええ処はあるまいか」「爰処はどうかナ」「これではちっと地面が狭いョ。あしゃア実は爰処で陶器をやるつもりなんだが」「陶器とはなんぞな」「道後に名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としようというのヨ。お前らも道後案内という本でも拵らえて、ちと他国の存をひく工面をしてはどうかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀の着く処へ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん」「なるほどこりゃ御城山へ登る新道だナ。男も女も馬鹿に沢山上って行くがありゃどういうわけぞナ」「あれは皆新年官民懇親会に行くのヨ」「それじゃあしも行って見よう。」(向うの家の中に人が大勢立って混雑している。その中から誰れやら一人出て来た)「おい君も上るのか。上るなら羽織袴なんどじゃだめだヨ。この内で着物を借りて金剛杖を買って来たまえ」「そうか。それじゃ君待ってくれたまえ。(白衣に着更え、金剛杖をつく。)サア若行こう。富士山の路は非常に険だと聞いたが、こんなものなら訳はないヨ。オヤ君は爰に写生していたのか。もう四、五枚出来てる? それはえらいネー。もう五合目に来たのか。とにかくあしこの茶屋で休もうじゃないか。ヤア日本茶店と書てある。何がある。しる粉がある? それならしる粉くれ。頻りに皆立って行くじゃないか。なんだ。日の出か。なるほど奇麗だ。赤いもんがキラキラしていらァ。君もう下りるか。それじゃ僕も一緒に下りよう。なるほど砂をすべって下りるとわけはないョ。マア君待ちたまえ、馬鹿に早いナア。(急いで下りるつもりで砂をふみ外して真逆織に落ちたと思うと夢が覚めた) 目を明いて見ると朝日はガラス戸越しに少しくさし込んで、ストーブは既に焚きつけてある。腰の痛み、脊の痛み、足の痛み、この頃の痛みというものは身動きもならぬ始末であるが、去年の暮の非常に烈しい痛が少し薄らいだために新年はいくらか愉快に感ずるのである。アアきょうもエー天気だ。(初夢)
2019.01.13
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明治44年5月からの漱石の日記は饒舌です。この時期、漱石は昨年の修善寺の大患で、ゆっくりと休養をとったためか、文章を書きたくてうずうずしていたようです。5月9日の日記は、妻京子の妹婿・鈴木禎次の妹である鈴木幸世と高原真五郎の結婚披露宴があり、漱石は縞の着物で出かけました。 禎次の弟・穆(しずか)夫婦も来ていて、漱石は満韓旅行の際、朝鮮で宿泊させてもらっていたのです。その時のよしみか、穆の子供が座っている漱石の頭を撫でていきました。 この婚礼の料理は、上野の割烹料理屋「伊予紋」の仕切りでした。「伊予紋」は、『明治18(1885)年刊行の『酒客必携割烹店通誌』には「伊予紋 下谷同朋町にあり。当時調煎の甘くして廉なるをもって大いに客踵を招けり」、「『東京百事便』には「上野広小路青石横町にあり料理の味わいは下谷にて二と下らず。殊に口取りは昔より有名のものなり」とあり、江戸時代から続く、名代の会席料理店でした。漱石もこの結婚式以前から利用したことがあり、明治38年12月21日には、文学者や詩人などが集まる「伊予紋会」に出席しています。 料理の内容は「椀をあけたら鯛の切九身が入っていた」「次には台の上に口取を盛って、傍に刺身をつけた膳を運んだ。猪口もついている。それに鯛の味噌汁が出た。副膳には一尺余の焼鯛とうま煮(ふき)と、酢のもの(鰹か)」というものでした。 料理の後は、鈴木禎次のお父さんと書画についての話で盛り上がりました。 その後「新らしい膳がまた出た。この度のも副膳がついている。本膳には汁、御つぼ、それから御平、御酢あえ、御椀(汁)等である。これで膳が五度出て、汁が五つ出た訳になる」「朱塗の御椀で飯を食って、御代りに茶をかけてくれといったら御湯ですかと下女が聞き返した。婚礼では茶を用いぬものだそうだ。湯は蕎麦屋の湯を入れるような器に入れてあった。矢張朱塗である」という料理です。 お土産は「料理と、青い籃の中に鰹節が七本と藤村の菓〔子〕が添えてあった。菓子は羊羹の中に松が染め抜いてあるのが一つ、白い蛤の形をした上に鶴の首がちょんぼり付いている〔の〕が一つ、真赤な亀の子が一つあった」というものでした。 〇〇さんの婚礼披露。五時の約束で五時過ぎに西片町へ着いたら門前にもう五六台の車が見えた。床を前にして婿さんの親類が五人程並んでいる。何れも黒羽二重の紋付であるが、一寸田舎風にも見える。〇禎次さんだけが縞の着物を着ていたが、これは自分が縞の着物でも好いかと念を押したので、御交際の為とも見られた。〇しばらくして〇〇(=緒方正規)医学博士夫婦が来た。これも媳方の親類で余もその方であるからまず主人側である。博士は絹帽にフロックであった。大学に二十五年以上教授をしているといった。学生のときは大学東校とかいって、自分の妻の父などと同じ仲間であったといった。〇またしばらくして〇〇男爵夫婦が来た。この妻君は旧幕の遺臣某伯爵の娘である。男爵は大変く官海にいただけで古くから名前を聞いていたが会って見ると若い顔をしている。頭も黒い。○御媳さんが出て挨拶をした。穆(しずか=鏡子の義弟)さんの奥さんも御辞儀をした。鈴木の御父さんが御前は〇〇さんには始めてだろうといったらすず子さんはとぼけて、始めましてと自分に挨拶をしたから自分も始めましてと頭を下げた。それだけでは物足らなかったから、いつも御達者で……と付け加えておいた。実際、朝鮮ではすず子さんのうちに二週間も世話になっていたのである。○つい御近所におりますが、……と男爵が博士に挨拶をした。○すず子さんの朝鮮からつれて来た二人の男の子が、後ろから来て自分の頭を撫でて行った。「おい覚えているか」といったら「知らないや」と答えた。○やがて宴席へ招待される。〇〇組の重役の〇〇学士が仲人で、その人と余が英国にいた時、一面の識があるので余をその隣へやった。すると余は老博士の上に坐ることになったので、席をかえて、鈴木の御父さんの上に坐ることにした。余〔の〕上座には白髪の御老人がいる。御父さんの紹介によるとこの老人は始終地方〔に〕居て親戚ながらいつも東京にいたことがない、近頃やっと裁判官をやめて東京へ来たのだといった。御爺さんは正四位勲四等……と名刺を一々配ってあるいていた。〇やがて御膳が出た。これは儀式的のもので、赤塗の盃に椀が付いているだけである。丸髷にいった紋付の女が一々客の前へ銚子を持って来て、一々御辞儀をして盃へ酒へ三度に注いでまた御辞儀をして隣へ行く。みんな伊豫紋の下女だそうである。盃をもらいに歩く時そこに坐っていた女に酌を頼もうと思って、おいと呼びかけて横を向いたらあに計らんやすず子さんであったので驚ろいた位である。椀をあけたら鯛の切九身が入っていた。それを一口くって箸を置いた。酒は一口も飲まなかった。程なくこの膳は撤回された。〇次には台の上に口取を盛って、傍に刺身をつけた膳を運んだ。猪口もついている。それに鯛の味噌汁が出た。副膳には一尺余の焼鯛とうま煮(ふき)と、酢のもの(鰹か)、〇みんな主人側が廻ってあるく、仲人の学士がまず先を越してくる。次に博士もくる。次に正四位の老人が来る。これでは無精な余も如何ともする能はなくなって、まず御婿さんの処へ行って御盃を頂戴した。どうか宜しくといって挨拶した。あちらへ御出の節は是非御電報を願います、ええ浜寺から電車で通っています、私は英国だの仰蘭西だの露西亜だのに八年おりました。〇御嫁さんからも盃をもらう。次に仲人の奥さんの番になった。これは英国で牛鍋を御馳走になった、人だが、今見ても思い出せない。金鎖を襟からかけて金縁の眼鏡をかけている。「英国の方が好いでしょう」と聞いたら「ええ九年もおりましたから向うの方が大変宣う御座います」という。「もう然し東京に御慣れでしょう」というと、「漸くなれました。近頃では御友達も出来ましたし」「今度は漫遊に入らしったら好いでしょう」「ええ何時でも参りたう御座います」「あの時分より大分肥られた、御前は気が付かないかも知れないが」と旦那の方がいった。旦那は朝九時から日暮まで殆んど坐らないで立ちつづけに忙がしいことを述べた。英国の方が規則正しい生活が出来て可い、彼地では夜人が来ることなどは滅多にない、晩めしもまあ宅でたべるのが例であるが、日本では宅で食うのが稀な位です、どうもあなた方の生活が羨ましいです……」「傍から見ると誰の職業でも好く見えるものですよ、ーそれじゃもっと英国に入らっしったら可かったんですね」「私も帰りたくはなかったのですが、子供の教育が困るので御処置をつけに来たので、それから実はまた向うへ渡る積りの借地を、此方へ引き取られまして、それに那の方で品目枇が大分損をしまして、その片付方に南清の方へ旅行をするやら何やらで、とうとう此方へ引きとめられて仕舞いました」。〇博士の前へ出ると「あなたの御病気は何で御座いましたか」「へえ潰瘍、たしか額田が修善寺へ参りはしませんか」「成程宮本叔が」「ええ私は熊本で、八代で御座います、池辺君や徳富君とは知り合で御座います」「池辺君などの方があなたより後輩でしょう」「ええ後輩になります」〇それから正四位の老人からも盃を貰って、御婿さんの親類は略して席へ返った。博士の奥さんの前で、すず子さんが今日は大変勤めるのですねといった。〇自分の席へ帰ってから鈴木の御父さんと書画の話をした(あるいは席を離れぬ前)「あれはりょうらいです、鵬斎よりも字は旨いです、私は大雅堂のものを四十点持っています。いえ集めた訳じゃない、道具屋の方で上方へ買出しに行ってこれはどうでしょうと見せにくる。それを御前いくらで買ったかと聞くと、いくらいくらと答える。それで私がじゃいくらで買ってやろうというと宜しゅう御座いますといって置いて行く。あの屏風などは十三円で買ったのを二十円で買う約束をしたら月末に十八円とかいて来ました。あの金だけでも焼くと二円五十銭位出ます」「私は大雅堂の松島の全長をかいた絵巻物を持っています。これは大雅堂が二十七のとき金沢に行っていて書いたものです。終りに紅芙芙蓉の印があります。紅芙蓉は旨いです」「大雅堂の廿のときの瀧を持っています。が北宗の筆と狩野の筆をまぜたようなものです。大雅堂は柳沢に行ってから南画の風を覚えたのです」「私はもと金剛寺坂に居ました。隣が福地源一郎の宅でした。福地の妻君が癪を起して……した事がありました。昔は崖の下は崖の上から斜に尺をとって、その間は誰の所有でもなかったのです、だから苦情が起りません。町の名でも昔は往来へ付けたものです。だから片方で名の違っているようなことはありません、それで徳川家の所有の地面などは無税でした。越後の高田なともそうです。江戸も無論そうです。所が市ヶ谷に本村町という所があって、あすこだけが税を取られました。何んでかというと書き損ったのであります、昔は一度書き損うとそれなりになったのです」「私は観世黒雲の書いた謡本を百冊持っています。珍らしい黒い雲のようだというので賜った名です、秀忠公の時代でした。それを見ると今の謡でわからない所がよく分ります。羽衣に……色人はというのがありますが、色人では分りません、黒雲の本を調べて見ると宮人です」「この畳は麻に渋をかけたものです、昔は御城の畳はみな紅色の縁を取ったものです、黒い縁は台所に限りました。また縁なしは牢屋の畳です、御目見え以下は板の間、御目見え以上は縁なしです。白麻に十文字をかいてその中に丸をかいたのを本願寺では用いていました。これを本願寺縁と称えます。極いいのは絹の縁です、丁度御雛さまのと同様です」「この太刀は慶長頃のです。この具足はもっと新しゅう御座います」 男爵は鎧に興味があると見えて鎧の噺をした。こういうものは無くなるのは惜しい。独乙でもカプトや胴アテは昔の具足の真似をしたのを用いる。……」「今鎧を造るものがたった二人残っています……。二重橋の前の楠公の像は不都合です、あああぶみを前へ出し反り却っては落ちます、そうして手綱の先がああ手の先へあまっては邪魔で仕方がない。手綱の先は下押し込んで小指と薬〔指〕の間に挟むものです。それからあの太刀が間違って胃る。あれでは一里位かけると鞍へぶつかって、鞘がワレテ仕舞ます。騎馬ては尻鞘にかぎったものです。熊の皮でも、虎の皮でも、また鬼丸などという作りになると皮の上を漆で塗ったものです」○禎次さんが謡をうたいますといって着座した。高砂をやろうと思うが節のついた本がない。が夏目さんは文句を知っちゃいないだろ〔う〕……」「私は御目出度い謡は知らない」というと御父さんが笑いながら、「鞍馬天狗から蝉丸俊寛……」 順次さんの謡はしっかりしているが声がメタリックで蓄音機に似た処がある。〇やがて膳を引いて新らしい膳がまた出た。この度のも副膳がついている。本膳には汁、御つぼ、それから御平、御酢あえ、御椀(汁)等である。 これで膳が五度出て、汁が五つ出た訳になる。〇朱塗の御椀で飯を食って御代りに茶をかけてくれといったら御湯ですかと下女が聞き返した。婚礼では茶を用いぬものだそうだ。湯は蕎姿屋の湯を入れるような器に入れであった。矢張朱塗である。〇人々がたちかけた。縁側でそれはエスコートよという女の声がした。多分九年間英国にいた夫人の語だろうと思った。〇遠く照らされた庭のつづらの前に庭下駄を穿いた納戸色の紋付を着た女が二人立って話をしていた。前は崖である。「帝国劇場も見えます。九段の花火を見えます、何でも見えます」と御父さんがいった。〇車の蹴込に入れた御土産は重かった。料理と、青い籃の中に鰹節が七本と藤村の菓〔子〕が添えてあった。菓子は羊奨の中に松が染め抜いてあるのが一つ、白い蛤の形をした上に鶴の首がちょんぼり付いている〔の〕が一つ、真赤な亀の子が一つあった。(漱石日記 明治44年5月9日) 長い日記ですが、この内容は『彼岸過迄』や『行人』に活かされました。
2019.01.12
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七くさを見るや千くさの人心(明治21) 花を折る程には酔はす秋の草(明治21) 七草は七ツ異なる風情かな(明治22) 七草に入らぬあはれや男郎花(明治25) 花賣や七草盡きて梅もとき(明治30) 入口に七草植ゑぬ花屋敷(明治32) 子規は七草の句を詠んでいますが、ほとんどが秋の七草の句です。春の七草は「七草は七ツ異なる風情かな」のみ。明治34年1月17日の『墨汁一滴』には、門人の岡麓が、春の七草の鉢植えを届けたことを記しています。春の七草は「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これや七草」と歌われています。「ごぎょう」は母子草、「はこべら」はハコベ、「ほとけのざ」はタビラコ、「すずな」は蕪、「すずしろ」は大根のことです。 麓は、ほとけのざは延期が悪いと「亀野座」という札を立てました。他にも七草の名前を記した札を立てています。子規は、その心遣いに感謝して「あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため」という歌を詠んでいます。 一月七日の会に麓のもて来しつとこそ、いとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠の小く浅きに、木の葉にやあらん敷きなして土を盛り、七草をいささかばかりづつぞ植えたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座という札あるは菫の如き草なり。こは仏の座とあるべきを縁喜物なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行とあるは、厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植えたるには田平子の札あり。はこべらのことか。真後に芹と薺(なずな)とあり。薺は二寸ばかりも伸びて、はや蕾のふふみたるもゆかし。右側に植えて鈴菜とあるは、丈三寸ばかり小松菜のたぐいならん。真中に鈴白の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪にて、紅の根を半ば土の上にあらはしたるさま、殊にきはだちて目もさめなん心地する。『源語』『枕草子』などにもあるべき趣なりかし。 あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため(墨汁一滴 1月17日) 子規は、明治21年の夏、第一高等中学校寄宿舎を離れ、三並良、藤野古白とともに向島にある長命寺境内の桜餅屋に寄宿しました。規制の多い第一高等中学校寄宿舎に嫌気がさしていた子規は、帰郷や旅行にかけるだけの金もないことから、静かな向島の桜餅屋「月香楼」を選んだのでした。 子規はここで『七艸(草)集』を書き上げました。春ならぬ、秋の七草から題を取り、漢文の「蘭之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさかほのまき」、「かる萱の巻」で構成しました。後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足して、「かる萱の巻」をはずします。この『七草集』は友人たちの間で回覧されて評判となり、夏目漱石が漢詩紀行文『木屑録』を書くきっかけをつくりました。 この期間、子規は「月香楼」の看板娘、おろくとの恋の噂を流されました。3人のうちで子規が一番親しかったため、話に花を咲かせていたといいますが、恋心を抱いていたかどうかは定かではありません。子規はこの噂を打ち消そうと『七草集』に専心したともいわれています。 三並良著『子規を偲ぶ』には「向島の長命寺境内月香楼に夏期休暇中下宿していたというのは、我々従弟三人であった。これも実は郷里には帰らず、旅行に出かけるだけの金はなし、しかしどこか静かな土地へというので向島を選んだのである。月香楼というと立派だが、あれは俗に『桜餅』というしるこ屋だったのである。もちろん、あの頃の向島は幽邃の趣きが多量にあって風景はよかった。子規は毎日勉強をしたり、長命寺境内もしくは近傍の古蹟を尋ね、碑文などを読んだりしていた」とあり、学友の大谷是空は『正岡子規君』で「向島の長命寺内の桜餅屋の二階に下宿せられた。ところが誰がいい出したか、その家の娘と関係でもあるように浮き名が立った。君は正直だけにこのことを非常に気にして、「七草集」と題する五、六十枚もある小説的のものを書いて雪冤を試みられた」と書いています。 子規はひと夏の思い出に満ちた「月香楼」を9月25日に引き払い、前に住んだことのある故郷の学友が集まった常盤会寄宿舎に再び帰っています。 漱石は、この『七草集』に誘発され、千葉への旅を和漢詩文集『木屑録』として書きました。子規は、これを読むと、「甚だまずい」漢文で「頼みもしないのに跋」を書いてよこしたと、漱石は『正岡子規』の中で語っています。夏目金之助は、この文集の評で初めて「漱石」の号を用いました。これは子規がかつて名乗っていた雅号でした。
2019.01.11
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温泉が恋しい季節になって来ました。 子規と対照的に漱石は風呂好きです。松山で英語教師をした際にも、他のことは何も褒めなかったのですが、友人の狩野亨吉への手紙に「道後温泉はよほど立派なる建物にて、三階に上り茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば、頭待て石鹸で洗ってくれるというような始末。ずいぶん結構に御座候(明治28年5月10日)」と喜んでいます。こののち、子規が漱石の愚陀仏庵へ転がり込み、52日の共同生活か始まるのですが、東京に帰った子規へ「この頃愛媛県には少々愛想が尽き申し候故、どこかへ巣を替えんと存候。今まではずいぶんぎりと思い辛抱致し候えども、ただいまで白痴さえあればすぐ動くつもりに御座候。貴君の生まれ故郷ながら、あまり人気のよき処では御座なく候」と送っています。 実は道後温泉は、漱石が赴任する1年前に見事な三層楼の建物が築かれました。漱石は、学校を終えると道後温泉に向かい、木の香の残る温泉に浸かって、ストレスを紛らわせたのでしょう。この思い出は『坊っちゃん』の中にも、道後温泉は「住田」と名前を変えて登場します。「この住田という所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、あるいて三十分で行かれる。料理屋も温泉宿も、公園もあるうえに遊廓がある。……今度は赤手拭というのが評判になった。何のことだと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したのでちょっと見ると紅色に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれのことを赤手拭赤手拭というんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢だといい出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は十三四人漬かってるがたまには誰も居ないことがある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済みすましては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した」とあります。 そのストレスの一端が、教頭の横地石太郎に送った手紙に現れています。 御書拝見仕候。心経弘治版一葉御寄贈被下ありがたく拝受仕候。また書籍の件拝承仕り候。小生借用書籍はすべて十巻前後と存候。右は全部とも中村氏に托し候。山口氏が四冊は中村より受取り、残巻三巻は受取らずと申すこと、もっとも不審に存候。右は中村氏より返納せざりしか、または山口氏が手控を消すことを忘却せるかにては無之候や。小生第壱回の談判を山口氏に始めたる時、蔵庫中を捜索し、もし見当らずば中村へ今一度照会致し呉れとの主意に御座候処、その後二月許り何の返事も無之、貴書に先つこと一日始めて同氏より一書を受取候処、書籍の有無及び書名も判然不致、かつ中村より受取りたりとあるのみにて、何巻だけ受取何々の残巻が不明なるや分らず、雑誌とか何とか有之候えども、如何なる種類の雑誌なるや。小生勝間田寄附の書籍は、正に借用致候。これは「スコット」の小説三四部と記臆致候えども、右はたしかに他の教科書用の書籍とともに中村に托し候に相違なく候。雑誌の如き勝間田にせよ何にせよ、借用したる覚無之候。何卒今一応書籍の名を分明に致し、書庫中を捜索し、もしなければ中村へ今一応御照会被下候様、山口氏へ御命じ被下度候。もしそれでも相分り不申候わば、小生甘んじて弁償の責に任ずべくと存候。 兎に角山口氏が所轄の書籍に対し、小生転任後数月の後までその儘に致し置き、始めて突然書生などに対し小生が未だ書籍を返納致し居らぬ由、口外致し候のみならず、小生より照会致し候も二三月間何等の返事も致さざること、第一学校へ対しては不親切なるのみならず、小生へ対しても至当の処置と存じ不申候。右御参考まで申上候。 先は用事まで。早々頓首。(明治30年1月12日 横地石太郎当て書簡) 漱石は松山にいた時、格好の書庫から本を借りて、中村という教師にそれを返してくれるように頼みました。ところが、山口という図書担当が一部しか受け取っておらず、全てを返して欲しいと漱石に連絡を入れました。漱石は身に覚えかなく、中村へ紹介してくれと頼みますが、二ヶ月ほどは梨の礫。ようやく届いたところが、何の書籍化も書いていませんでした。それに起こった漱石が、横地教頭に山口への怒りをぶつけたのでした。 これは、のんびりした田舎の気風が反映したもので、漱石はそうしたところが嫌になったのでしょう。 明治41年9月8日、松根東洋城が松山に帰省した折、村上霽月や下村為山と道後温泉の鮒屋に宿泊しました。その時、為山の描いた絵をハガキにしたものに3人の俳句が寄せ書きされたものが上記の写真です。漱石の通った道後温泉本館の霊の湯を思い出させるための配慮です。 伊予道後温泉鮒屋にて 豊 九月八日 きのう高浜に上り霽月子とここに来る。温泉は不相変心地よし。夜花叟来雑談、月明を踏んで公園に月を観る折柄この地滞在の為山画伯とも語らう。公園丘上平地の月は水を打ちたる如く白く、全丘松虫の声に埋もる。月下松山東野北郊の家の灯を見る。 霽月 新涼に底まで澄める朝湯かな 為山 連れ立つや宿の浴衣を借着して 霽月子と唯二人鮒屋に泊る 新涼に寝れば広しや十五畳 城(明治41年9月8日 松根東洋城・村上霽月・下村為山 漱石宛ハガキ)
2019.01.10
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大三十日愚なり元日猶愚なり(明治34) うつせみの我足痛みつもごりを上手いは寝ずて年明けにけり(明治34) 明治34年の正月、子規の体調は思わしくありません。句も歌も元気がありません。 この年の1月16日から日本新聞で始まる『墨汁一滴』の原稿を書きました。子規は、病牀の枕元にある地球儀を眺めて、世界に想いを馳せるのでした。 病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林黒竜江などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱なり。枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも(墨汁一滴 1月16日) そして、日本新聞の元旦号には『書中の新年』が掲載されています。この『書中の新年』は、枕元に並べた書籍のうちから新年の記述を抜き書きしたもので、その文章の初めに、子規は「明年はなお病牀に在り得るや否や」と来年のことを思います。そして「病牀には病牀の楽事あり、病人には病人の趣向あり。余は家人に命じて手に触るる所の書籍何にても持ち来らしめ、漸次にこれを閲してその中より新年に関する字句を抜抄し、題して書中の新年という」と続く文章を解説しています。 明治卅四年は来りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病牀に在りて屠蘇を飲み、雑煮を祝い、蜜柑を喰い、而して新年の原稿を草せり。今年もまた病牀に在りて屠蘇を飲み、雑煮を祝い、蜜柑を喰い、而して新年の原稿を草せんとす。知らず明年はなお病牀に在り得るや否や。 屠蘇を飲み得るや否や。雑煮を祝い得るや否や。蜜柑を喰い得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。発熱を犯して筆を取り、病苦に堪えて原稿を草す。人は将に余の自ら好んで苦むを笑わんとす。余は切にこの苦の永く続かんことを望むなり。明年一月余はなおこの苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を取りて、復諸君に紙上に見ゆることを得るは実に幸なり。昨年一月一日の余はあに能く今日あるを期せんや。 病牀には病牀の楽事あり、病人には病人の趣向あり。余は家人に命じて手に触るる所の書籍何にても持ち来らしめ、漸次にこれを閲してその中より新年に関する字句を抜抄し、題して書中の新年という。順序無く統一無く、和漢古今紛然雑然たる処、却て御正月的なるものあらんか。……(書中の新年)
2019.01.09
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春王の正月蟹の軍さ哉 漱石 正月の男といはれ拙に処す 漱石 元日の富士に逢ひけり馬の上 漱石 ぬかづいて曰く正月二日なり 漱石 漱石の小説では、『門』にも正月が登場します。『門』は、まるで『それから』の代助と三千代が所帯を持ったような宗助とお米が主人公なのですが、大家の坂井と親しくしていて、主人公たちと坂井の生活ぶりの違いが描かれています。宗助は、友人の安井と同棲していたお米を奪ったため、二人は肉親も友人も捨てなければならなくなりました。たまたま、同級生の好意で東京に職を得て、二人はひっそりと暮らしているのです。 そこに、坂井がやってきます。坂井は正月の些事に疲れ、寝込んでいたところで目をさますと、妻は子供を連れて外出していました。坂井は、そうした静かな家で入ると急に退屈になり、小括だからと気を使わなくて済む宗助とお米の家を訪れたのでした。 宗助も厚い綿の上で、一種の静かさを感じた。瓦斯の燃える音が微かにしてしだいに背中からほかほか煖まって来た。「ここにいると、もうどことも交渉はない。全く気楽です。ゆっくりしていらっしゃい。実際正月というものは予想外に煩瑣(うるさ)いものですね。私も昨日まででほとんどへとへとに降参させられました。新年が停滞れているのは実に苦しいですよ。それで今日の午から、とうとう塵世を遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。今しがた眼を覚して、湯に入って、それから飯を食って、煙草を呑んで、気がついて見ると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間も随分わがままなものですよ。しかしいくら退屈だって、この上おめでたいものを、見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし、また御正月らしいものを呑んだり食ったりするのも恐れますから、それで、御正月らしくない、というと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、といってもまだ失敬かも知れないが、つまり一口にいうと、超然派の一人と話しがして見たくなったんで、それでわざわざ使を上げたような訳なんです」と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものであった。宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れることがあった。そうして時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物になりはしなかったろうかと考えた。(門 16) 坂井は、宗助とお米と異なり、苦労知らずの楽天家で、その分、二人にとっては自分の過去を忘れられる存在でもありました。坂井の屈託のない性格が、二人の過去の苦しみを忘れ去れてくれるのでした。こうした二つの立場の違いは、漱石の処女作『吾輩は猫である』にも登場します。吾輩と、江戸っ子気質の黒という猫です。吾輩は、皮肉屋ではありますが、坂井のように屈託のない性格です。「知」の世界を振りかざすことはありますが、そんなものは世の中にとって何の役にも立たないこともわかっています。 リアリストである黒は、吾輩を「吹い子の向うづら」「正月野郎」といってバカにします。「吹き子の向うづら」とは火に空気を送るフイゴの向こう側のことで、役にも立たないのにただぶつぶつとつぶやいている様子のことです。「正月野郎」とは、おめでたい奴という意味です。 近頃は黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。黒の性質としてひとがおのれを軽侮したと認むるや否や決して黙っていない。「おい、名なしの権兵衛、近頃じゃおつう高く留ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな面あするねえ。人つけ面白くもねえ」黒は吾輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。説明してやりたいが到底分る奴ではないから、まず一応の挨拶をして出来得る限り早く御免蒙るに若しくはないと決心した。「いや黒君おめでとう。あいかわらず元気がいいね」と尻尾を立てて左へくるりと廻わす。黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ年が年中おめでてえ方だろう。気をつけろい、この吹い子の向う面め」吹い子の向うづらという句は罵詈ばりの言語であるようだが、吾輩には了解が出来なかった。「ちょっと伺うが吹い子の向うづらというのはどういう意味かね」「へん、手めえが悪体をつかれてる癖に、その訳を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だってことよ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。(吾輩は猫である 2) 明治43年の正月に、「朝日新聞」は漱石の『元日』という文を掲載しました。その中では、元日に文章を掲載するため、12月23日に文を書いたのですが、いくら正月のような気分になったところで、めでたい気分になるわけがないとぼやいています。 元日を御目出たいものと極めたのは、一体何処の誰か知らないが、世間が夫れに雷同しているうちは新聞社が困るだけである。雑録でも短篇でも小説でも乃至は俳句漢詩和歌でも、苟くも元日の紙上にあらわれる以上は、いくら元日らしい顔をしたって、元日の作でないに極まっている。もっとも師走に想像を逞ましくしてはならぬと申し渡された次第でないから、節季に正月らしい振をして何か書いて置けば、年内に餅を搗いといて、一夜明けるや否や雑煮として頬張る位のものには違ないが、御目出たい実景の乏しい今日、御目出たい想像などは容易に新聞社の頭に宿るものではない。それを無理に御目出たがろうとすると、いわゆる太倉の粟陳々相依るというすこぶる目出度くない現象に腐化して仕舞しまう。 諸君子はやむを得ず年にちなんで、鶏のことを書いたり、犬のことを書いたりするが、これはむしろ駄洒落を引き延ばしたくらいのもので、要するに元日及び新年の実質とは痛痒相冒す所なき閑事業である。いくら初刷だって、そんな無駄話で十頁も二十頁も埋られた日には、元日の新聞は単に重量において各社ともに競争する訳になるんだから、その出来不出来に対する具眼の審判者は、読者のうちでただ屑屋だけだろうと云われたって仕方がない。 さればといって、既に何十頁とことが極まってる上に、頭数を揃える方が便利だという訳であって見れば、たとい具眼者が屑屋だろうが経師屋だろうが相手を択んで筆を執るなんて贅沢のいわれた家業じゃない。去年は「元旦」と見出を置いてちょっと考えた。何も浮かんで来なかったので、一昨年の元日のことを書いた。一昨年の元日に虚子が年始に来たから、東北という謡をうたったところ、虚子が鼓を打ち出したので、余の謡が大崩れになったという一段を編輯へ廻した。実は本当の元日なら、余の謡はもっと上手になってる訳だから、その上手になった所を有ありのままに告白したかったのだが、いかんせん、筆を執ってる時は、元日にまだ間があったし、かつ虚子が年始に見えるとも見えないとも極まっていなかった上に、謡をうたうことも全然未定だったので、営業上やむを得ず一年前の極めて告白し難い所を告白したのである。この順で行くとこの年はまた去年の元日を読者に御覧に入れなければならん訳であるが、そうそう過去のまずい所ばかり吹聴するのは、いかにも現在の己に対して侮辱を加えるようで済まない気がするから故意と略した。それで猶のこと塞えた。 元日新聞へ載せるものには、どうもこういう困難が附帯して弱る。現に今原稿紙に向っているのは、実をいうと十二月二十三日である。家では餅もまだ搗かない。町内で松飾りを立てたものは一軒もない。机の前に坐りながら何を書こうかと考えると、書くことの困難以外に何だか自分一人御先走ってるような気がする。それにも拘わらず、書いてることがどことなく屠蘇の香を帯びているのは、正月を迎える想像力が豊富なためではない。何でも接ぎ合わせて物にしなければならない義務を心得た文学者だからである。もし世間が元日に対する僻見を撤回して、吉凶禍福ともにこもごも起り得べき、平凡かつ乱雑なる一日と見做してくれるようになったら、余もまた余所行(よそゆき)の色気を抜いて平常の心に立ち返ることが出来るから、たとい書くことに酔払いの調子が失せないにしても、もっと楽に片付けられるだろうと思う。もっともそうなれば、初刷の頁も平常に復する訳だから、とくに元日に限って書かねばならぬ必要も消滅するかも知れない。それも物淋しいようだが、昨今の如き元日に対して調子を合せた文章を書こうとするのは、ちょうど文部大臣が新しい材料のないのに拘らず、あらゆる卒業式に臨んで祝詞を読むと一般である。(元日)
2019.01.08
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長病の今年も参る雑煮哉(明治33) 病牀を囲む礼者や五六人(明治33) 新年の白紙綴じたる句帖哉(明治33) 水入りの水をやりけり福寿草(明治33) 梅いけて礼者ことわる病かな(明治33) 明治33年、子規はやや健康を取り戻しました。そのためか、この年の1月10日に発刊の「ホトトギス」に掲載された『新年雑記』は、明るい雰囲気に満ちています。「この嬉しさの底には『来年の正月に逢えるか逢えぬか』という大問題が首を出しているということは誰も知るまい。なに今年も大丈夫だ、と自分で手軽くやってのけた。が『なに今年も』といった去年は、そう手軽くは行かなかった。少しは苦しめられもし、騒がしもして、余り平和な年でもなかったが、それもようようおさまって、また新年を迎えた。うれしい。うれしい」という様子でした。 そして子規は縁起を担ぎ、台湾にいる子規の門人・渡辺香墨からもらった赤い紙に縁起の良い言葉を連ねました。「立春大吉」「辮財天女」「歳徳神」「福如東海」「鶴亀松竹」「寿如南山」、右の鴨居に「卯歳男」「大願成就」「錢殞如雨」「百事如意」「吉祥天」「南無三宝」と書いて、東側の押入れの側にそれらを貼りました。日本の家屋には、この赤い紙が調和せす、ことさら目立ちます。禍いの神を追い払おうという算段でした。 そして、福寿草を写生しようと思います。そして、俳句を添えようと思ったのでしたが、門人の鬼史が先に俳句を詠んでしまいました。昨年、病室の南をガラス戸にとたため、外の様子がよく見えます。歓喜を防ぎ、外を眺めることを目的にしたのですが、もう一つの効果がありました。「それは日光を浴びることである。真昼近き冬の日は、六畳の室の奥までさしこむので、その中に寝ているのが暖いばかりで無く、非常に愉快になって終には起きて坐って見るようになる。この時は病気という感じが全く消えてしまう」のでした。枕もとを見ると寒暖計は華氏90度(摂氏32度)近くまで上って、福寿草の蕾は黄色を見せて膨らんできました。 そして、子規は次の新年を夢想します。もし翌年も生きていたら「底にばねのある寝床を求め、その側に暖炉を据えつけ、きれいな窓掛を掛け、天井から丸いガラスの釣花をぶら下げてそれに下ヘ垂れて咲く花を活けて置きたい」と思います。そのまた次の次の年まで生きていたら、「自分の門の前までレールを敷いて特別汽車を仕立てて、日本中何処へでも行けるようにしよう」、また次の次の次の年まで生きのびたら、「今度は天人を一人呼び下して……」と考えていたら、押込の方で笑い声が聞えました。先日、中村不折が大津画の鬼が自転車に乗っている姿の絵を押入れにしまっていたのでした。きっと、あの鬼が笑ったのたと、子規は考えました。 ○また新年を迎えた。うれしい。紙鳶をあげて喜ぶ男の子、善き衣着て羽子板かかえて喜ぶ女の子、年玉の貰いをあてにする女髪結、雑煮が好きで、福引が好きで、カルタが好きで、カルタよりもカルタの時に貰うお鮓や蜜柑が好きだというお鍋お三、これ等の人を外にして新年が嬉しいというのは大方自分のような病人ばかりだろう。自分はおととしの新年を迎えた時に非常に愉快でたまらなかった、それは前年の大患を斬り抜けて、とにかく次の年を迎えたということが愉快でたまらなかったのである。しかし、それと同時に未来を考えた、それは来年の正月を迎られるかどうかということなので、これは自分に取っては容易ならぬ問題である。なにまだ死なないよ、今年一ぱいは大丈夫だ、などと自分勝手な判断をしていたが、首尾善く去年の正月も迎えた。発会式はあしたに迫った、福引の品を揃えねばならぬ、烏帽子と島田のかつらがぜひほしい、根岸になければ浅草へ往たらある、などと身は病牀にありながら、独りいそがしがって居るのが、心では嬉しくてたまらん。固よりかの会式も嬉しい、福引も嬉しい。けれどもそれよりも今年の発会式や福引に逢うことが出来たという、その事が一番嬉しいのだ。しかし、この嬉しさの底には「来年の正月に逢えるか逢えぬか」という大問題が首を出しているということは誰も知るまい。なに今年も大丈夫だ、と自分で手軽くやってのけた。が「なに今年も」といった去年は、そう手軽くは行かなかった。少しは苦しめられもし、騒がしもして、余り平和な年でもなかったが、それもようようおさまって、また新年を迎えた。うれしい。うれしい。その「うれしい」がまだ尽きぬうちに、はや次の大問題は首を拳げて来る、「来年の正月は」。さてこの大問題に逢著したところで「なに今年も」とやってのける勇気は最早なくなった。「初暦五月の中に死ぬ日あり」とも詠んだ。しかし、それは嘘だ。まだ五月なんかに終る気遣は無い。とにかく来年の正月までは生きる積りだ。といってはみたが「とにかく」「までは」「積りだ」という言葉を省くことは出来なかった。○役に立たぬつまらぬことを考えて延喜(=縁起)でも無いから、みそぎをして汚れをはろうてしまおうと思うていると、箱の底から、前年台湾土産に貰うた赤い紙が一束ね出て来た。紙は幅三寸竪六寸位で支那人の名刺にするのだそうだが、それを見ると、ふと支那の家に貼ってある赤紙のことを思い出して、その紙へ、めでたい縁喜の善い慾ばったような言葉を選んで書きつけた。それを何処へ貼ろうかと仰いで室内をながめたが、西側には、伊逹政宗が羅馬(ローマ)法王にやった手紙の写真版が額になって掛っている。北側には、柱の短冊掛の上に支那の団扇が掛けてあって、その横に、趙陶齋の書、安倍仲丸の歌と仲丸の秘書監になったことを書いた幅が掛っている。西側が羅馬で北側が支那であったのは偶然であった。南側には彫刻師が鶏を彫っている絵が小い額になっている。東側の押込のある方には真中の柱に蓑と笠が掛けてあるばかりだから、ここヘ貼ることにきめた。先ず菅笠の上へ「立春大吉」というのを貼って、あとは勝手に貼らせたら、左の鴨居に「辮財天女」「歳徳神」「福如東海」「鶴亀松竹」「寿如南山」、右の鴨居に「卯歳男」「大願成就」「錢殞如雨」「百事如意」「吉祥天」「南無三宝」という順に貼られた。日本風の薄っペらな家にはこの真赤な紙が調和せんので目立ってことさらに見える。この位目立ったら禍の神にも見えぬことはあるまい。これで禍が来ぬなら福の神が悪いのだ。○それでもまだ福が来そうに無いので、更に福寿草を買った。蕾が三つばかり横平たい鉢に植えてあるが、まだ咲き初めもせぬ。これが一輪咲いたら例の写生をやろうと思うて、その咲くのを待っていた。 絵の具は不折がくれた泥絵の具があるからその使い初めもしたいと考えたのだ。しかし福寿草だけでは興味が無いから、何か善き配合物はあるまいかと部屋中見廻したが、どうも思いつきが無くて困っていた。然るにある朝、眼を覚まして見ると福寿草の側に寒暖計が置いてあったので、この偶然の配合が非常に面白く感じた。この寒暖計は室内の下の方の空気の温度を測るためにことさらに低く畳の上に置くようにしてあるのだ。この配合を得たから、花の咲くのを待って写生しようと思うて、楽んでいると、ある日、鬼史が来て「病室の寒暖計や福寿草」と先ず俳句にしてしもうた。○去年の正月と今年の正月と自分に格別違うたことも無いが、少し違うたのは、からだの余計に弱ったと思うことと、元日の蜜柑の喰いようが少かったことと、年賀のはがきが意外に澤山来たことと、病室の南側をガラス障子にしたことと、位である。ガラス障子にしたのは寒気を防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果してあたたかい。果して見える。見えるも、見えるも、庭の松の木も見える、杉垣も見える。物干竿も見える。物干竿に足袋のぶらさげてあるのも見える、その下の枯菊、水仙、小松菜の二葉に霜の遣いているのも見える、庭に出してある鳥籠も見える、籠の烏が餌を喰うのも見える、そうして一寸尻をあげて糞するのも見える、雀が松の木をあちこちするのも見える、鶸(ひわ)が四五羽つれだって枯木へ来たと思うと、直にまたはらはらと飛んでしまうのも見える、鶯が一羽黙って垣根をあさりながらふいふいと飛びまわるのも見える、裏戸あけて水汲みに行くのも見える、向いの屋根も見える、上野の森も見える、凍ったような雲も見える、鳶の舞うているのも見える、四角な紙鳶と奴紙鳶と二つ揚っているのも見える、四角な紙鳶がめんくらって屋根の上に落ちたのも見える、それを下から引張るので紙鳶が鬼瓦に掛ってうなづいているのも見える。ことに雪の景色は今年つくづくと見た。山吹の枝に雪の積んだのが面白いということも今年知った。しかし、これらはガラス障子につきて畧予想したことであったが、その外に予想しない第三の利益があった。それは日光を浴びることである。真昼近き冬の日は、六畳の室の奥までさしこむので、その中に寝ているのが暖いばかりで無く、非常に愉快になって終には起きて坐って見るようになる。この時は病気という感じが全く消えてしまう。枕もとを見ると寒暖計は九十度近くまで上って福寿草の蕾は一点の黄をあらわして来た。○外出するのに、人力車に乗っては腰が痛いばかりで無く、冬は寒くて困るから、何か善い乗物はあるまいかと考えた。駕籠では外が見えないし、馬車や牛車では田甫の小道を行くことが出来ぬ。いっそ膝行(いざり)車をこしらえてはどうだという人もあったが、こいつは箱根権現の霊験でもあって初花という美人が曳いてくれるのなら別だが、三尺の棒を櫂にして自ら漕いで行くのは余り面白くも無いから、先ず願いさげとして、一つ善い物を工夫した。それは板でも網代でも七島でも何でも善いからそれで駕籠のようなものをこしらえて、そしてぐるりにガラス窓をつけて置く、もっとも中の広さは足を伸べられる位、まさかの時は横に寝られる位にする、肱もたせもこしらえる、勿論手爐や燈爐などは入れられる、鉄瓶はたぎっている、側に茶や菓子や菓物が備えてある、というような具合になっている。これなら腰も痛くなし、冬でも寒くもなし、田甫の小路でも何でも行けるし、咽喉が渇いたからとて茶店を尋ねる必要もないし、何処でも景色の善い処で駕籠を下して休むことも出来るし、花見月見雪見何でも出来るという誠に重宝な物であろう。これで根岸の郊外へ出たら人は日暮里の焼場へ行くのかと思うだろうが、そう思われるのはむしろ幸だ。もし来年まで無事でいたら、こういう駕籠を一つこしらえて見たい。もし、またその次の年までながらえていたら、底にばねのある寝床を求め、その側に暖炉を据えつけ、奇麗奇麗窓掛を掛け、天井から丸いガラスの釣花をぶら下げてそれに下ヘ垂れて咲く花を活けて置きたいと思う。もし、また次の次の年まで生きていたら、自分の門の前までレールを敷いて特別汽車を仕立てて、日本中何処へでも行けるようにしよう。もし、また次の次の次の年まで生きのびたら、今度は天人を一人呼び下して……。ここまで書いて来ると、押込の中で角のある笑い声が聞えた。はてなと思うて考えて見ると、先日不折が、大津画の鬼が奉加帳腰にさげて自転車に乗っている処を画いてくれたのがある。きっと、あの鬼が笑ったのであろう。(新年雑記)
2019.01.07
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『吾輩は猫である』の2章は、苦沙弥先生の家の正月風景が描かれています。 夏目家の元旦は雑煮と決まっていて、内田百閒は『漱石山房の元旦』で「そのうちに屠蘇が出て、女中がお膳を持ってくる。お雑煮は毎年決まった鴨の這入った汁であった。大変うまい。しかしお雑煮というものにそういう味をつけて、うまくしてあるのは下品なような気がしたが、こちらの習わしであろうと考えて、いつも美味しく頂戴した」と描かれています。なぜ下品だと思ったかというと、百閒の実家では「私の家は昔からのしきたりで元日味噌汁、二日は汁粉、三日になって初めてすましということになっている」からでした。 『吾輩は猫である』には、「主人はだまって雑煮を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切れか七切れ食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸を置いた」とあり、そのあとで苦沙弥先生は細君と「タカジアスターゼ」を巡ってひと悶着あります。 寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切れか七切れ食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸を置いた。他人がそんな我儘をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦げ爛れた餅の死骸を見て平気ですましている。妻君が袋戸の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固に出る。「あなたはほんとに厭っぽい」と細君が独言のようにいう。「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句のような返事をする。「そんなに飲んだり止めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣いはありません、もう少し辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三を顧みる。「それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹を切らせようとする。主人は何にもいわず立って書斎へ這入る。細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。こんなときに後からくっ付いて行って膝の上へ乗ると、大変な目に逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上って障子の隙から覗いて見ると、主人はエピクテタスとかいう人の本を披いて見ておった。もしそれが平常いつもの通りわかるならちょっとえらいところがある。五六分するとその本を叩き付けるように机の上へ抛り出す。大方そんなことだろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下のようなことを書きつけた。 寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。 何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない。人間はこう自惚れているから困る。(吾輩は猫である 2)『吾輩は猫である』は、明治38(1905)年1月1日に『ホトトギス』へ掲載され、話題となりました。 この年の1月3日の夏目家では、野間真綱からもらった猪肉の雑煮が門人たちにふるまわれています。妻の鏡子の『漱石の思い出』には、「お正月の三日に私が台所へ出てみると、猫が子供の喰ベ残しのお雑煮の餅をたベて、しきりに前足でもがきながら踊りをおどっております。女中たちとそれを見て、あんまりいやしん坊をするからと笑っておりますと、ちゃんとそれをきいていて『猫』の中に書いてしまいました」とあります。 今雑煮が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、主人の食い剰した雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。……台所へ廻って見る。 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着している。白状するが餅というものは今まで一辺ぺんも口に入れたことがない。見るとうまそうにもあるし、また少しは気味がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を掻き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅いで見ると釜の底の飯を御櫃へ移す時のような香いがする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。御三は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこの刹那に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざることをも敢てせしむ」吾輩は実をいうとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否、椀底の様子を熟視すればするほど気味が悪くなって、食うのが厭になったのである。この時もし御三でも勝手口を開けたなら、奥の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜気もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮のことは来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら蹰躇(ちゅうちょ)していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩は椀の中を覗のぞき込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を一寸ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一辺ぺん噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳づいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦慮あせるたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつけることが出来ない。美学者迷亭先生がかつて吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。この餅も主人と同じようにどうしても割り切れない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく尽未来際方のつく期はあるまいと思われた。この煩悶の際吾輩は覚えず第二の真理に逢着した。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので毫も愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと御三が来る。小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ馳け出して来るに相違ない。煩悶の極、尻尾をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。ようやくのこと、これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲を撫で廻す。撫でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度は左の方を伸して口を中心として急劇に円を劃して見る。そんな呪いで魔は落ちない。辛防が肝心だと思って左右交る交るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議なことにこの時だけは後足二本で立つことが出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻かき廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起っていられたものだと思う。第三の真理が驀地に現前する。「危きに臨めば平常なし能ざるところのものを為し能う。これを天祐という」幸いに天祐を享けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような気合である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが御三である。羽根も羽子板も打ち遣って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。細君は縮緬の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いというのは小供ばかりである。そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので狂瀾を既倒に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も大分見聞したが、この時ほど恨めしく感じたことはなかった。ついに天祐もどっかへ消え失うせて、在来の通り四つ這いになって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧りみる。御三は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。寒月君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情け容赦もなく引張るのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」という第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ這入ってしまっておった。(吾輩は猫である 2)
2019.01.06
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一枝は薬の瓶に梅の花(明治26) 夜を眠る薬つれなし子規(ほととぎす)(明治26) 夏菊に薬の露もなかりけり(明治29) 丸薬に清水をむすぶ道のほとり(明治30) 春寒く痰の薬をもらひけり(明治33) 蚕飼する村過行や薬売(明治35) 明治31年の正月1日、子規は叔父の大原恒徳に宛てて手紙を書きました。大原には幾度か金の無心をしているのですが、今回はそうではありません。 子規は明治30年の蕪村忌に撮った写真を送りました。体か衰弱していて、自分でもびっくりするほどの出来です。太陽が眩しくて、顔をしかめています。 次は家計についての報告です。叔父の加藤拓川が薬代をたてかえ、ついでに畳まで張り替えてくれました。最近使っている薬は、飲薬では水薬、散薬(興奮剤)、クレオソート(肺ノ薬)、繃帯用では炭酸水、石炭散、脱脂綿、油紙、コナ薬(これは背中のただれ候故臨時用うるもの)、体を拭くために用いるアルコール、これで毎月10円ほどかかります。 腰は少し腫れ、膿は少しずつ漏れています。足は相変らず立たないので、写真を撮る時も、縁側へはい出て撮影しました。先月は背中がただれて、皮が剥け、時々針でさすような痛みを感じて、大きな声をありましたが、たいぶ治ってきました。昼から夜11時頃まで、毎日机にもたれています。 ただ、近頃は物価高騰のため、値段が4〜5年前の倍になっています。 こう手紙を綴ったついでに、松山名物の緋の蕪をねだった子規でした。※緋の蕪(2017.4.11)についてはこちら 新年之御慶目出度申収候。先以皆々様御変なく、御越年被成御座奉祝賀候。下而弊家一同先ずこと無く加馬齢候。乍憚御放念被下度候。 加藤叔父様御帰省被成、御面会被成候事と奉遥察候。出し抜けに元日のお礼に行くと被仰候が、如何ありしや。さぞ御驚喜之事ならんと御噂仕居候。しかし一日の御逗留と承り候えば、御混雑の内に相暮可申、せめて二三日は御滞在あるよう御祖母様などより御勧め被成候など見るように覚え候。何にもせよ、賑やかなお正月を御迎え被成候御事に御座候。 別封写真一葉、御一笑に供え申候。病中衰弱の相は自分ながら驚申候。何やら他人のような心持致候。かつ種板の小きものなかりしより、大きなものとなり、殊にあらがよく分り候。障子の皺、腰板の隙に紙の詰めてある処、障子の紙の処々古びたる処、一々正岡家を現し居候。撮影しつつある処へ、友人が鴨を持ち来り縁側に置き候故、それをも写し申候。 この日は発句会にて二十人ばかり集り候。兼ての申合にて写真を取申候。その序故、私も一枚位牌をこしらえ置かんと存、金融逼迫中に撮影仕候。余り衰弱がひどいので、自分は嘘のように思えどこれが真相なら仕方も無之候。太陽に真向に坐りし故、眼をしかめ居候。 今年は金融逼迫とか申すこと、何処までもひびいたと見え、友人なども今年程困ったことは無いと申弱り居候処に、小家は加藤のお陰で薬価(この頃の薬価は一ヶ月十円位)を払尽したるのみならず、坐敷の畳がえまで致し候。畳はこの家建ててより直さぬものなれば、表よごれ、へり切れ、母様常に気になされ候えども、畳など更えては申訳なしとこらえ居候内、先日忠叔父様御出被下候節、畳をかえよとの仰あり、早速かえ申候。母様も律も大喜びに御座候。 恒子近来小説などに熱心にて、学校へは通われぬ様子、小使も相当には使われるよう相見え候。しかしこれは知らぬ風して干渉なされぬよう被致候方、宜敷かと存候と申すは、眼つき段々悪く相成申候。くだきよみし話など致し候節は、別に変りしことなく、只時々感情迫ることあるように見受る位に御座候。潔子の程には立到らずこの儘で別に故障さえ起らねば無難に済むべきか、可成故障起らぬ様祈居候。小説はどれ程掛けるか見しことはなければ、時々懸賞に中り候など開き申候。発句は先ず善き方に御座候。右は歌原大叔父様に申上ること如何やと存候まま、いまだ申上げず候御考にてよろしく願上候。 高浜子、妻を迎え私方より二町ばかりの処に寓居致居候。妻と申すは同人が前にいた下宿屋(前橋藩士族)の娘にて、遠からず分娩もあるべきはずに御座候。これらの他めにや、春さんの下宿屋を開くに付ても、その下宿屋より親切に世話致候。 緋蕪御送被下候由難有存候。 節季は馬鹿にいそがしく、四日ばかり徹夜執筆仕候(もっとも昼眠り申候)格別影響もなかりしように御座候。三十日晩、珍らしく熱発七度九分に上り候えども、翌日は何のことも無御座候。 この頃用い候薬は、水薬、散薬(興奮剤)、クレオソート(肺ノ薬)以上飲薬 棚散水、石炭散、脱脂綿、油紙、コナ薬(これは背中のただれ候故臨時用うるもの)以上繃帯用 アルコホル、右体を拭くために用う 繍帯は毎日取りかうることもあり、一日置に取かうることもあり。 かくの如き仕合故、薬価は騰貴せねど毎月十円内外の多額に上り候。 先日内よりやっと散薬だけやめてくれ候。腰は少し腫れ、膿は少しずつ漏れ申候。足は相変らず立たねば写真と申しても、縁端へ匍い出で候次第に御座候。先月中は背中ただれて皮剥け候まま、時々針でさすような痛を感じ、狂声を発することもありしが、それも大分愈えかかり候。牛乳は毎日三合ずつ飲み申候。近来は熱少しもなく候故、昼から夜十一時頃までは毎日机にもたれおり候。朝から昼までは目はさめていても寒き故、寐て新聞など見る位に御座候。 来客はいつも絶え不申候。この頃のように寒くても、二日つづいて人の来ぬという日は先ず無御座候。多いときは五人も六人も来て朝から晩までつづけざまに相成事も有之候。胃と脳とは先々月位より常に損じおり候。肺は先ず善き方、痰も不多候。 母様不相変御元気、律も近来は寐るということ少く相成候。 当地物価高きこと驚くべく候。湯代二銭、豆腐一挺一銭二厘、殆んど四五年前の倍位に相成候。米は御地なども余程高きやに承候。改年之期に際し諸事とりまぜ御報申上候。恐惶謹言。(明治31年1月1日 大原恒徳宛書簡)
2019.01.05
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漱石がロンドンから帰ってきた翌年の明治37年、漱石は門人の野間真綱に「恭賀新年」との賀状を送っています。1月3日には橋本貢に「人の上春を写すや絵そら言」という俳句とともに自筆の絵葉書を送りました。 明治38年には、野間真綱に2通の賀状を送り、一つには「今日はなぜ上らずに帰った。伝四がきて雑煮を食わせろというから一緒に晩餐を食った。君も雑煮を食いにきたまえ。なるべく晩食の方が落ち着いてよい」と、雑煮の誘いを送りました。翌日は、寺田寅彦にも雑煮を誘っています。2日には、田口俊一と橋本貢に自筆の絵葉書を送っています。 明治40年には、野間真綱、野村伝四、高浜虚子、寺田寅彦に、3日に行われる夕食の誘いを送っています。このご馳走を周旋したのは松根東洋城でした。 明治42年の馬場胡蝶宛のハガキには「小生怠けてどこへも年頭に参らず、賀状も返事を出すだけに留めおり候」と書いています。 明治43年の賀状には「恭賀新年」。 明治44年の賀状は印刷で「恭賀新年 昨年来度々御見舞に預り難有御礼申上候。尚目下引続き入院中につき万事欠礼仕候」と送りました。 明治45年の賀状は「恭賀新年」と名前、住所のみ。大正3年、4年、5年も同一のフォーマットです。 これらのハガキを見ると、漱石か年次の挨拶を面倒に思っていたことがわかります。
2019.01.04
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痰吐けば血のまじりたる暑哉(明治26) 痰はきに痰のたまるや冬籠(明治29) 春寒く痰の薬をもらひけり(明治33) 肺病を養ふ春の海辺かな(明治33) 肺を病んで讀書に耽る冬籠(明治33) 故郷に肺を養ふ冬こもり(明治33) 明治33年1月10日の「ホトトギス」に掲載された子規の『消息』(明治32年12月から明治33年12月まで連載)には、新年の挨拶とともに、結核患者としての子規が周りの人たちへどのように配慮しているかが記されています。 清少納言の『枕草子』に「病は、胸、物のけ、あしのけ、はては、ただそこはかとなくて、物くはれぬ心地」、紫式部の『源氏物語』には紫の上が肺病を患っていることが書かれているように、平安時代以前から「胸(=結核)」は病の代表的なものでした。結核は感染力が強く、病気の原因が菌のためと考えられていなかった当時は家庭内感染が多く、親子、兄弟に伝染して亡くなっていくので「伝屍」ともいい、遺伝病とされたこともありました。 結核菌がコッホによって発見されたのは1882年で、日本でも明治23年になってから長与専斎(漱石が通った長与胃腸病院院長・長与弥吉の父)が肺病から肺結核と改めたのでした。この時点では、結核の感染についての知識は十分ではありませんでしたが、明治30年になって結核の予防法が叫ばれるようになりました。 子規の文章は、結核への予防知識を読者に啓蒙する目的もあったようです。 子規は、子規庵の消毒に腐心しました。食器や膳、布巾などは子規専用にと家族・来客のものを分け、子規の食器は煮沸消毒します。食べ残しは捨て、書物や原稿をめくる時にも唾をつけないようにしました。 また、結核の病毒が子規庵に充満しているので、近づかないようにとも警告しています。門人の家で食事をする際には、使った食器を消毒することや、箸などは使い捨てにするよう注意しています。また、子規庵での食事は、外から弁当を取るようにつとめました。 また、結核に罹っても、空気のよいところに住み、栄養を摂ることを勧めています。「滋養物だに沢山詰め込み候えば、初期の病は全く癒え可申、末期の病者は命を長め可申候。今日の処ではお医者の薬は甚だ無覚束者に候」と、自らの経験を交えて啓蒙しています。 弊廬を訪わるる諸君の中には、肺病の伝染ということを毫も念頭に留めず「肺病も俳病も同じことだ」などと洒落ながら、病人の側で菓子でも飯でも喰わるる人も有之候えども、また何一つ飲みも喰いもせぬ人も沢山有之候。もっとも後者のうちにはただ遠慮して控え目に慎みおられ候人が八九分を占めおることと存候えども、病毒を恐れらるる人も一、二分は必ず可有候。既に伝染病と定まりたる以上は、病毒を恐れらるる諸君のためにも、また恐れられざる諸君のためにも、弊廬の消毒の模様などを御報知致し置こと必要と存候。先ず第一に咯痰を石炭酸などにて消毒するのほか、患者即ち私の食器を別に致し置くは勿論(これは来客に出す器具と別にするのみにあらず、他の家人の器具とも別にするなり。以下皆同じ)食器に附屈するものは一切別に致し置き候。食器に附属する器具とは食器を載する膳または盆、食器を洗う桶、食器を拭う布片の類にして、これら皆、患者専用の者有之候。ことに茶碗皿の類は、時々煮沸して消毒致候。患者餐余の食物は必ず打捨候。衣類寝具も別に致居候。些細なことを申せば、書物または原稿紙などを明ける時に指頭に唾をつけることも禁じおり候。書簡袋の封蝋を嘗めることも禁じ候。書簡の封は必ず他人に致させ候。切手や印紙を貼ることは猶更禁じおり候。筆の穂を噛むことも禁じおり候。客に出した菓子に手を触るることも禁じおり候。もっとも盆の端にこぼれおる一枚の煎餅を他に触れぬようにそろっと抓み取るようなことは、度々やり候えども、これは病毒伝播の如何に拘らず、如何にもきたなく感ぜられ候こと故、この頃は謹みおり候。もし喰いたき時は、客の手を借りることに致候。 弊廬の予防と消毒との有様は大略右の如くに候。さてもかくの如く予防消毒致候上は、何の気遣いも無きかと申すに、固よりこれにて消毒予防の全く出来し訳にもあらねば、これがために幾許かの危険を減じたと申位にて、決して伝染の恐無しとは申されず候。否々幾許かの危険を減じたということだけも保証は出来不申候。肺病も初期の程は徽菌少けれども、私などの如き古株は余程多き由に御坐候。前年須磨にて痰を検査してもらいしに「七」という程度にある由申候。これは余程分量の多きと申ことに候えども、それは四五年前のことなれば今は十にも十五にも成りおらんと存候。それ程の徽菌なれば、私病室の空気中にも飛散しおるべく、器具を別にしたりと申しても直接に間接に病毒の附着する機会はいくらも有之候故、弊廬の内外は病毒貯蓄所とも見るべく候。ことに諸君に来訪せられて談話興に入り候節は、口角沫を飛ばして満腹の氣焔を漏らすことも有之、その時口角より飛ぶ沫の中には幾百千万の徽菌あるかも知れ不申候えば、いわば諸君の顔に向って幾百千万の徽菌を吹きつくるような次第に相成可申、若もしその時の有様を顕微鏡にて見られ候はば、孫悟空が身の毛を抜いて口中より無数の小猿を吹き出し候ように、病毒は諸君の鼻へも口へもたかりおる様も見え可申候。あな恐ろし、肺患者の家へは近づかぬが宜しく候。 然らば肺患者は社会と交際を絶ちて、孤鳥の流人の如く独りポッチにて暮らさざるべからざるか、庭の枯菊を見て檐の鳥籠を見て物干竿の古足袋を見て、一生を黙って送らざるべからざるか、これは疑問に候。縦し世人は疑問とせざるも肺患者には大疑問に有之候。試に一歩を譲って諸君の来訪ありとするも、ともに物を喰いながら快談するの一事無くば病人の楽は過半を殺がれ可申候。然らば如何可致か。こは患者の側より決すべき問題にあらねば、ただ諸君の決断に任するより外は無く候。この後も私よりは諸君御来訪の節は、あるに任せて菓子にても出し可申、また飯時には飯も出し可申候えども、私よりは決して御勧め申さぬことに致すべく候。喰おうと思わるる諸君は、遠慮なく菓子でも飯でも御喰べ被下度、喰うまじと思はわるる諸君は如何に家人どもが勧め候とも、菓子飯はおろか茶一杯も御飲み成されぬよう致し度候。何も喰わぬは失敬なりとて茶だけ飲み候などは、無用の辞宜に候。もし中位の諸君ありて菓物と菓子だけは善かろと思召候わば、菓子と菓物だけ御喰可被下候。 私この頃諸君の邸宅に参りて食器を汚すこと有之、こは甚だ不本意のことなれども、さりとて乞食の如く袋に椀を入れて持参する訳にも参らず、手品師の如く袂から茶椀を出すの術も無く候えば、不得止諸君の食器を汚し候。その節はいやしくも病人の口に触れし器は、後にて消毒なされ被下様願い候。これは病人のうちの物を喰うよりも、遥に危険の度多く候故、是非とも願い度候。消毒はその器を煮るか蒸すかが宜しく候えども、それ出来ねば沸湯をかけて灰にて磨き候ても宜しかるべく候。もし箸の如く捨てても善きものあらば、へし折り打ち砕きて御捨可被下候。 弊廬の歌会句会などは、弁当屋の弁当を取り候により、危険少かるべく候。なお世の肺を患うる諸君に御注意申候。もし出来るならば、海辺の、空気の善き、暖かな、気候の変動少き、御馳走の喰える処へ転地して御馳走御喰べ可被成、もしさる栄燿の出来ぬ人ならば、御馳走だけにて宜しく候につき、どしどしと出来るだけの御馳走御たべ可被成候。滋養物だに沢山詰め込み候えば、初期の病は全く癒え可申、末期の病者は命を長め可申候。今日の処ではお医者の薬は甚だ無覚束者に候。 最後に申し添え候。新年の賀状被下候諸君ヘ。一々御答礼も不申、失礼の段御海容被下度奉願候。賀を申せば初の程は御答礼致居候処、四日の日に至り賀詞印刷のはがき全く尽きはて申候。然るに四日以後いよいよ多忙に赴き候ため、はがきの裏も表も自ら書き候程の暇は無之、不得已御答證不致事に定め候。右の次第につき、一は御答礼を致し、一は御礼を致さざるように相成候えども、親疎厚薄のある訳には無之、悪しからず御諒察被下度候。(明治33年1月10日「ホトトギス」掲載 消息)
2019.01.03
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昭和44年、漱石は正月を長与胃腸病院のベットで迎えました。 明治43年8月24日に、胃潰瘍の療養のために宿泊していた伊豆修善寺の菊や旅館で大量の吐血をして、生死の狭間をさまよっていた漱石は、なんとか意識を取り戻します。旅館で体の回復を待ち、10月11日には釣台に乗せられて汽車で新橋に向かい、麹町区内幸町の長与胃腸病院に再入院します。 長与胃腸病院は、ドイツのミュンヘン大学医学部に留学していた長与称吉が明治29年に開業した日本初の胃腸病院で、病室も畳敷きの病室を備えた木造2階建ての和式の建物でした。2年後、称吉は胃腸病研究会を設立し、日本の胃腸病治療の進歩に尽力しました。 ただ、病状が回復するにつれて、病院暮らしを退屈に感じるようになってきました。10月31日に妻・鏡子に宛てた手紙には、「きのう御前から御医者の礼の事に関し不得要領の事を聞かされ他ので、今朝迄不愉快だった。御前も忙がしい、坂元も忙がしい、池辺も忙がしい、渋川は病気だから寝ているおれの考通り着々進行する事はむずかしいが、病人の方からいう〔と〕、あんな事は万事知らずにいるか、そうでなければ一日も早く、医者にも病人にもその他の関係者にも、満足の行く様にはやくてきぱきと片付く方が心持ちがよろしい。どうか今度その話をする時は、もっと要領を得る様に願いたい。今のおれに一番薬になるのはからだの安静、心の安静である。必ずしも薬を飲んでいる許や寝ている許が養生じゃない。いやな事を聞かされたり、思う様にことが運ばなかったり、不愉快な自に逢わせられたりするのは、薬の時聞を間違えたり菓子を一つぬすんで食うよりも悪いかも知れない。昨夕もいう通り、今のおれは今待ての費用のかたがはっきり就いて、病室の出入がざわざわしないで、朝から晩迄閑静に暮す事が出来て、(自分の随意に一人で時間を使う事)そうして日々身体が回復して食慾が増しさえすれば、目前はまあ幸福なのである。病人だから勝手な事をいうが、実際そうだよ」と書き、「世の中は煩わしい事ばかりである。一寸首を出してもすぐまた首をちぢめたくなる。おれは金がないから、病気が癒りさえすれば厭でも応でも煩はしい中にこせついて、神経を傷めたり胃を傷めたりしなければならない。しばらく休息の出来るのは病気中である。その病気中にいらいらする程いやな事はない。おれに取って難有い大切な病気だ。どうか楽にさせてくれ。穴賢」と、つまらないことで煩わさせてくれるなという手紙を送っています。 では、病室での正月はどうだったのでしょうか。 漱石の日記には「1月1日(日) 島村、子供、野上」としか書かれていませんが、『思い出す事など』には、この時の正月の献立も書かれています。正月に漱石は、一椀の雑煮を食べたのでした。「余はこの一椀の雑煮に、自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片きれを平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった」と、その味気なさをしたためています。『思い出す事など』は、病院のベットで書かれた随筆で、明治43年10月29日から明治44年2月20日にかけて「東京朝日新聞」に連載され、正月の食事が書かれた33は、4月13日に掲載されています。漱石が退院したのは、2月26日のことでした。 正月を病院でした経験は生涯にたった一遍しかない。 松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にその考えが単に頭だけに働らいて、毫も心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。 余は白い寝床(ベッド)の上に寝ては、自分と病院と来きたるべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔興さ加減を懇ろに商量した。けれども起き直って机に向ったり、膳に着いたりする折は、もうここが我家だという気分に心を任して少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は逼っても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。 いよいよ大晦日が来た時、余は小さい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために釘を打ち込んで美くしい柱に創(きず)をつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうというから買って貰うことにした。 この看護婦は、修善寺以来余が病院を出るまで半年の間始終余の傍に附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで、町井石子嬢、町井石子嬢といっていた。時々は間違えて苗字と名前を顛倒(てんどう)して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾げながらそう改めた方が好いようでございますねといった。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬(いたち)という渾名をつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよといったら、どうせ碌なものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですと絶叫して以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。 鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝提げて帰って来た。白い方を蔵沢の竹の画の前に挿して、紅い方は太い竹筒の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日はきっと御雑煮が祝えるに違ないといって余を慰めた。 除夜の夢は、例年の通り枕の上に落ちた。こういう大患に罹ったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーという羅馬(ローマ)字が明らかに綴られて見える。それにもかかわらず、感に堪たえぬ趣は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自から南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り、形ばかりとはいいながら、小さい一切の餅が元日らしく病人の眸(ひとみ)に映じた。余はこの一椀の雑煮に、自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片きれを平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。 二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許を得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の一角を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡なくなった人は少なくない。ある北国の患者は入院以後病勢がしだいに募るので、附添の息子が心配して、大晦日の夜になって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、諦てしまえば死ぬということは何でもないものだといって、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの外はずれにいた潰瘍患者の高い咳嗽(せき)が日ごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、癌で見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って尻を捲るというのがあった。附添の女房を蹴たり打たりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見兼みかねて慰めていましたと町井さんが話したことも覚えている。ある食道狭窄(しょくどうきょうさく)の患者は、病院には這入っているようなものの迷いに迷い抜いて、灸点師を連れて来て灸を据えたり、海草を採って来て煎じて飲んだりして、ひたすら不治の癌症を癒なおそうとしていた。…… 余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月余の今日になって、過去を一攫みにして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に拈出される。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両つのものが互に纏綿して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮も、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。(思い出す事など 33) 漱石の正月のエピソードについては、昨年にまとめて書いています。※新婚当時の漱石の正月(2018/1/4)はこちら※猫と雑煮(2018/1/5)はこちら※正月は謡の稽古(2018/1/6)はこちら※カルタとおなら(2018/1/8)はこちら※岡山の雑煮と東京の雑煮(2018/1/18)はこちら
2019.01.02
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正月の支度にいそぐ師走哉(明治25) 正月の物あはれなり傀儡師(明治26) 正月は浮世に出たり猿まはし(明治26) うれしさの過ぎぬ正月四日なり(明治28) 一年は正月に一生は今に在り(明治30) 正月や餅ならべたる佛の間(明治33) 『新年二十九度』は、子規が生まれてから明治29年までの正月の思い出を綴ったものです。その中には、当時の風俗や風習が出てきます。 天地渾沌として未だ判れざる時、腹中に物あり。恍たり惚たり、形海鼠の如し。海鼠手を生じ足を生じ両眼を微かに開きたる時化して子規と為る。なお鶯のかい子のうちにあり。余が初めて浮世の正月に逢いたるは慶応四年なれば、明治の新時代は将に旧時代の胎内を出んとする時なりき。その時の余は余を知らず。況して四囲の光景は露知らざりしも、思えばきわどき年を重ね初めたるものかな。 その後の新年も大方は夢の中に過ぎぬ。廃藩置県といい、太陽暦採用といい、世人が胸騒がしき正月を迎えたらん頃はまだ知らぬ仏なりき。六、七歳の頃より後は、節季と正月をただ面白きものとのみ覚えたり。これ余が世の中に対して利害の念を起こしたる初めなり。節季は餅搗、煤払より門松を樹(たて)て輪飾に𣜿葉(ゆずりは)、田作、橙、炭などを縛りつくるまでいずれか面白からぬはなく、婆殿の側にて余念なくこれを見いりたり。この時ただ恐ろしきものは節分の日の赤鬼なりき。門の外につつ立ちて竹のささらを突き嗚らし「鬼にもくれねば這入ろうか、這入ろうか」とおらびたる時は膽魂も一時に消ゆる心地して、もし這入り来らば如何にしてましと独り胸騒ぐ時お多福は鬼を制して「鬼は外におれ、福が一処にもろてやろ」と自ら玄関まで来り「御繁昌様へは福は内、鬼は外、福々福入り入り福入り」という。この時遅しと待ち構え、切餅数個を持ち出でて、お多福に与うれば鬼もお多福もかたみに打ちささやぎつつ往ぬめり。あとには恐ろしき者もなければ、おのが年の数を豆に数えて紙に包みなどす。婆殿の豆の七十にも余りたることの羨ましく、おのれの年の十にも足らぬは本意なき心地せり。その夜厄払いを呼びてその豆を与えなどせしは十一二歳の頃までにて、その後は厄払いというものも来ずなりにけり。 まして正月は嬉し。元日は北風の寒さもなかなかにめでたき心地して、短き袴着け尺ばかりの大小をさしたるも我ながらいみじ。三が日も過ぐれば十ばかりの子供つれだちて門々の飾りの橙を取ることこの頃の流行なり。余も人の後につきて行けば、中には小さき鎌もて橙を伐り落としなどする者あり。たくみに偸むこともいと羨ましく覚えぬ。かくて盗み取りたる橙は、橙投げとて道中に立ちて両方より投げつ止めつするほどに五つ六つの橙皆つぶれてまた偸みにと出で立つ。またある時は家々の飾りをもらい集めて二、三十ばかりを抱え、野外れへ持ち出るでてこれを焼く。この時おのおの切餅二、三個を袂にし行き、これをどんどの中に入れおけば真黒になりて焼けたるを灰の中より掘り出でて喰う。凧揚げて遊ぶ者多かれど余はあまりこれを好まざりき。全て戸外の遊戯はつたなき方なりければ、内に籠り居て独り歌がるたを拾い、こよなき楽みとせり。この時代は何事もただ興あるごとく覚えし時代なりき。(新年二十九度) 鬼が家々を訪れるというのは、「門付け」の一種です。「門付け」は、ほとんどが賎民によって行われ、異形の神が家々を訪れて福を運ぶという一種の「まれびと」信仰に負ったものでした。「祝言人(ほかいびと)」が、戸口に立って祝い事を述べて、いくばくかのお金を乞いました。神社で雑役を行っていた下級の神人たちが、神社のお札を配って歩いたのが原型だと思われますが、のちに芸能化して「万歳」や「人形(でこ)回し」「傀儡」「猿回し」「鳥追」「大黒舞」「春駒」などが家々を訪ね歩きました。 山本冨次郎さんの『ふるさと歳時記』に、このお多福のことが載っていました。 わが郷土松山の風俗として、正月の祝人(ほかいびと)、初春をことほぐ色々な門付、いわゆる物貰い芸人が、この新旧正月の前後から節分にかけて頻りにやってきよったものだ。例えば、夷子廻し、猿引き、獅子舞、大黒舞、万才等々、なかんずく俗称『お福』という一団こそ最も珍奇なものの一つであったといえる。これらは明治時代の松山正月ーいま思い出しても嬉しく愉しい風習のあれこれーー。 この『お福』は、正月には女の二人連れ、節分には男女二人連れ、女は大抵伊予絣の着衣に手甲脚絆で、からげた裾の端からはチラチラ赤水色の腰巻なぞのぞかせて、白たびに草鞋または藁草履ばきのいでたちーー。おなじみのお多福面を前頭部に頂くように豆しぼりの手拭で頬かむりをしている、お面の下から本物の鼻が見え隠れして見える。 男の場合、顔一面を赤く塗るとか、または鬼の面を手拭で大きくかむり、片手には六尺の長さの竹のササラを大地に突き立て、縄の鉢巻の両端を二本の角になぞらえて、玄関の入り口脇に大き<立ちはたかっているという、いでたちである。 先ずお福が玄関をぬっとはいって来ると、日の丸の扇子なんかをパッと開いていきなり節面白く謡い始め、踊り始めるのである。「(コトバ)アアラめでたや、めでたや、西の宮からお福が舞い込んだ。ーーおめでとう様にはお庭ならしに一トはやし……。(唄)めでーた、めでーたの若松さまよ、枝も栄える、葉もしげーる、アラリャン、リャン、コリャ、リャンリャン(コトバ)この家の旦那はお大黒、奥様お夷子、五穀豊穣、お家繁昌万々歳……」 とかなんとか手拍子おかしく踊りを繰りひろげ、ご祝儀づくめの唄の文句で舞い納めるのであるが、サテ今度は急に言葉の調子を改めて曰く、「おカチン(お餅ー松山方言)はいがんでも(形が曲っていてもー方言)大けいの(大きな方)がよろしゅう……」とソコで一旦声をひそめておいて、続けて"ホホ……“と口を挿えてはずかしそうなそぶりで扇子を拡げて差し出す。そこで家人はお餅やお米または小銭などを施してやると、予てから背中に斜かいにぶら下げていた袋にこれを納めるのだが、サテこれからが面白い。この時まで、門外にたち家内の様子を窺っていた赤鬼が突然大声でおらび(叫ぶコト)出すのだ。「鬼にもくれんと這入ろうか、這入ろうか」 と二、三度大声で叫び出す、すると例のお福が驚いた様子で手にした扇子で鬼をなだめる仕草をして曰く「おお、おお、鬼は外で待っとれ、待っとれ、お福が代りに貰うてやるけんの……」 と呼ばわりながら、お福は再び扇子を拡げて取って返し、鬼への配分たる餅や米銭を改めて家人に促がし求めんとするのである。かくて御祝儀の施し物を再びセシメルのであった。 予め"お福と鬼"とは共同謀議作戦であったのだから、施主の方はたまったものじゃない。かくてシコ夕マ施し物を貰った二人は、おのおの大きな袋をさも重たげに次の家から家へと、戸毎に定紋入りの帳幕をくぐって廻ってゆくのであった。 子供たちがお飾りのダイダイを盗むことは、三が日が過ぎてからの遊びです。子規の句に「正月や橙投げる屋敷町(明治29)」というのがありますが、その詞書に「われおさなくて郷里松山にある頃、友二、三人ずつ両方に分れ、橙を投げあそびて、そわある限りのうちにとどめ得ざりし方を負けとする遊びあり、橙投げとぞいえる正月の一つの遊びなりけるを、今は去ることも絶えにけん」とあります。 妹の律から見た幼い日の子規は「泣き虫であった兄は、また弱虫で、あの時分の遊び、凧をあげた事もなし、独楽を廻すでもなければ、縄飛び、鬼ごっこなどは、まして仲間にはいったこともありますまい。どうかして表へ出ると、泣かされて帰る(家庭より観たる子規 正岡律子)」といった有様で、外に出るよりも、カルタを好んだようです。※子規と新年二十九度のもう少し年齢を重ねた頃(2018/1/3)はこちら
2019.01.01
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