全29件 (29件中 1-29件目)
1
明治22年、『七草集』を起稿した子規は、この文章を友人たちに回覧して批評を頼みました。8月の下旬頃、この原稿は真之の手に渡ったようで、真之は「江田島守」として短評を記しています。 七草の御風評 ふじばかまは申分無く色香めでたし のらばへの萩原は花少なの葉沢山 なまめけども此女郎花は生花にならず まねくほどに見処なきははなすすき 浅顔の垣根を今少し手入たれば眺めことなるべし 葛は花なき丈に色気なけれどもあれ丈にはみつかず 御主人の骨折は葉色に見へたり 古種で新しき花をさかした撫子は新だねをまいたが矢張ましだろーよ 江田島守 『七草集』は、秋の七草から題を取り、当初は漢文の「蘭(ふじばかま)之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさがおのまき」、「かる萱の巻」で構成されていました。後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足し、「かる萱の巻」をはずして七編としたのです。 真之の批評は、漢文の「蘭之巻」は「色香めでたし」と褒め、漢詩の「萩之巻」は「野良生えで花く葉ばかり」、和歌の「女郎花の巻」はなまめくも生彩を欠き、俳句の「芒の巻」は見所がなく、謡曲の「蕣の巻」は書き改めたら風情がある。地誌の「葛之巻」は華はないものの努力を認める。小説「瞿麦の巻」はめく小品で、古臭いので新鮮な素材を見つけた方がいいというものでした。 22年12月、子規は帰省して、「七変人の離散」を書きました。明治19年に大学予備門生らで結成した七変人も、四年後には清水は亡くなり、秋山は海軍兵学校、関、井林は学校を離れ、菊池、神谷、子規のみ変わりませんでしたが、人間の運命や離合は分かり兼ねると記しました。 四年ほど前に、余ら『同学生七変人評論』なるものをこしらえたり。その人は関、菊池、井林、神谷、秋山、清水の六氏と余となり。しかして関氏学校をやめてどこかに隠れ、井林氏また校を出でて我々と疎くなりたり。秋山氏も海軍兵学校に移り、清水氏は間もなく鬼籍に上りたり。同学生七人の中にて今にひとところにある者、菊池氏と神谷氏と余と三人のみ。人間の離合実に計るべからざるなり。(『筆まかせ』「七変人の離散」)
2022.01.31
コメント(0)
約3カ月、子規と同居した秋山真之でしたが、海軍兵学校へ進むことを決め、子規の下宿を後にします。兄の好古に学費を頼っていた真之は、自立の道を選択したのです。 『友人子規』には真之が「毎年大学予備門に入る者がこう多数ではついに学士の氾濫を見るに至るであろう」「秋山は学資が続かずして官費の兵学校に転じたのだ」と子規に語り、海軍兵学校へ転じたと記しています。 明治19年6月、帰省する真之に子規は「秋山大人の国に帰るを送る時見のはなむけせんとて戯れに二首よみて贈り侍る。いずれをよろしと思わんや」と書き、和歌二首を贈りました。 海神も恐るる君が船路には灘の波風しずかなるらん いくさをもいとはぬ君が船路には風ふかばふけ波たたばたて 明治19年6月23日、芝の二兄・岡正矣宅にいた真之は子規に宛てたハガキを送りました。 御詠句ふたつながら感服、棒は菊池に托せり 送りにし君がこころを身につけて波しずかなる守りとやせん こころせよきみはなれにし武蔵野もなほ是よりはあつさまされば 右二首を御返事に替へ申候。御一笑被下度候。 こののち、真之は帰郷して7月27日には上京し、旧藩主子の子供である久松定靖のお伴をして、日光御幸町神山方で日光周辺の景勝を楽しみました。 そして、10月30日に海軍兵学校の生徒となります。兄の好古が陸軍に進んだのに対して、真之がなぜ海軍を選んだのかというと、伯母の岡しん子は、兄好古が「自分は陸軍だし、海軍は比較的志望者も少なかったので、弟は海軍の軍人にした方がよい」とすすめられ、兄に学資の迷惑をかけたくないとの思いから、海軍兵学校を志願したようです。 翌年4月10日、真之は第一高等中学校寄宿舎に入寮していた子規を訪問し、清水則遠の追善会や墓石建立のことなどを相談しました。しかし、真之は金欠だったらしく、13日には手紙で金欠のため、「若干の友人から借用できるよう努力したのでが、終に失敗に終った」ために借用の願いを届けています。 真之は英語が得意だったようで、これらの手紙は英文で書かれています。 郷土の上京志望者の間で真之の海軍兵学校入学が話題となったようで、子規のところにそうした問合せがあいつぎました。 真之は、10月28日に英文の手紙を送っていますので、その内容をご紹介しましょう。 Naval Collage Oct 28th My dear In this afternoon I received your letter and now I hasten to reply it. At leisure I inquired all my school mates about the best preparation school for our collage, and the opinions isseveral. One of them said, the Kondo-zuku is improving its regularty of instruction lately, & it will be a best preparationschool for Naval Collage. Some one say, but that zuku is not good for the English study. And one of them says, Eiwa-gacko is very good for English. But now I say, it is not best preparation-school to he successful in the entrance examination of our collage, but only the study. The mathematics is most difficult among the all, therefore one who wish to enter this college must take a heavy study of Arithmetic & Algebra. The English is the next. Our new caddets came from several parts. Some of them came from Kondo, some came from Kyoritsu-gacko or Seiritsu-gacko, and some from Awoyama Eiwa-gacko. Every school is much enough for preparation of the Naval Collage, and need not to chose best school. If you have not yet promised to join your friends elsewhere, I shall be delighted to have you with me in comingSunday's after-noon, and will tell you many that the lettercan not tell. Your sincerely S. Akiyama 〔訳文〕 拝復。本日午後貴翰落掌急ぎ返書認め候。吾校への最上の予備学校につきては、諸友に折々暇に任せて相尋ね候。其に就き諸論相分れ候。一人の曰く、近藤塾は最近教授法を改良致したり、されば海軍兵学校への最上の予備学校ならんかと。されど一人は彼の塾は英学には良からずとの反論もあり。また、一人は、英和学校こそ英語に良からめというあり。されど、余がいわんには、吾校に入らんとする入学試験に成功せんとするには、そは必ずしも相応しからず、唯学習あるのみと。 なかんずく、数学は至難のものにして、吾校に入らんと欲せば、幾何学・代数学に重きをおきたる学習を為さざる可からず。英語は次なりと。新入兵学校生徒は、所々方々より来れり。近藤塾、共立学校あるいは成立学校並びに青山英和学校それなり。何処の学校たりとも、海軍兵学校に入る用意としては充分なり。最良の学校を選ぶ要は全く無きものに候。 貴兄にして友人に未だ何なりと約束せざりとせば、来る日曜日の午後拝眉賜はらば嬉しく存じ候。書状に尽くさざる所、その節委細可申上候。 恐々謹言。 十月廿八日 秋山真之 正岡常規様
2022.01.29
コメント(0)
父は正月になると、きっとこの屏風を薄暗い蔵の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀の角な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからというので、客間の床には必ず虎の双幅を懸けた。これは岸駒じゃない岸岱だと父が宗助にいって聞かせたことがあるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑んでいる鼻柱が少し汚されたのを、父は苛く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗ったことを覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞといって、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。(門 4)○音楽会へ行こうかと思って本郷へ行って切符を買おうかと思ったが、みまつに切符を売る様子がないので聞く気にもならず、また電車で上野まで行って山の手線に乗り換えた。日暮里、田端、巣鴨などを通って新宿まで来て、また甲武線へ〔乗〕換えて大久保で下りた。抜弁天の坂の途中の古道具屋に虎の二幅対があって、その画が気に入ったので、越前守岸駒とあるのが本当か偽かは論ぜず、価を聞いて見る気になったからである。音楽会へ行く時妻に金をくれといったら「はい」といって十円渡したので、またひやかす気が起ったのが、本で音楽会の方を已めてわざわざ山の手線へ乗り換えたようなものである。所が停車場を降りてそこへ来て見ると岸駒の画はもうなかった。(明治44年5月二28日 日記) 岸駒は、江戸時代中期から後期にかけての絵師で、応挙の影響を受けています。岸駒は迫力のある虎の絵を得意とし、骨格の動きを参考にリアルに虎の絵を描き、評判をとりました。岸岱は岸駒の長男で、腕は父親譲りとはいきませんでした。
2022.01.28
コメント(0)
明治19年4月14日、子規と同居していた清水則遠が脚気で他界しました。友の死は自分の責任であると考えた子規は憔悴し、それをねぎらうため、真之が子規の下宿に住むようになります。 極堂著『友人子規』には、子規と真之が徹夜を競争し、真之は約束しながらも先に寝込んでしまった子規の寝姿の輪郭を壁に書いたことが記されています。二人の仲の良さが示されるエピソードは、枚挙にいとまがありません。 清水は急死し井林はどこか他の下宿に転て居なくなったが、そのあとへ秋山が来て子規と同宿することになった。室を替えて二階八畳の間に秋山は西の端、子規は東の端に分れて南向きに机を据えていた。ある朝日曜でもあったろうか、予は子規をたずねしに、折しも朝食の際にて女中相手に冗談言いつつ食事をしていたが、子規は味噌汁の替りを女中に請求した。下宿屋の味噌汁は一椀に限っています、お替りは出ませんと女中が拒絶する。マアそう言わないで持って来い、僕はも少し貰わねば飯が食えない、イヤなりません。お主婦さんが承知する筈がありませんからと、しばらくいい合っていたが、そこはお客の権威とでもいうべきか、女中の方が少し弱わりかけた時、但し唯は貰わぬ、お礼に僕が英語を毎朝一つ宛数えてやると子規はいう。女中は汁椀を取ってお主婦さんが承知してくれますかしらといいつつ階段を降りて行った。汁の中へ素湯をぶちこんで持って来るにきまっているよと秋山は笑っていたが、子規は真面目に女中を待っていた。例の大食家の胃嚢は素湯沢山の味噌汁でも甘んじて喰わねばすませ得なかったのであろう。その時女中に教えた英語というのはグッド・モーニング何とかいうのであった。 ふと子規の机の据えられし側の壁を見ると、机によったまま眠り倒れているらしい人の影を鉛筆で綸郭を取ったと思わるるものが描かれているので、あれは何かねと訊くと秋山が「正岡の寝像だ、僕が昨夜輪郭を取っておいたのだ、正岡が如何に強情でもこうしておけばグウの音も出ないだろうと思ってやっておいたのだ」という。それはまた如何なる訳かと問えば、昨晩寄席から帰ると今夜は徹夜で勉強しようと二人が相談し、もし落伍して先きに眠った者は翌日その罰として何か奢ることに約束せしに、正岡は終に机上に眠り伏してしまったから、約束履行を追る時の証拠に影の輪郭を取っておいたのだと秋山は説明して呵々大笑した。秋山は常時宵の内は友人等と盛に遊び、他の寝静まる頃から夜を徹して勉強する習慣あり、その旺盛なる精力は実に驚くべく、負けじ魂の子規はこれに対抗せんと種々努めしが、到底追從を許さなかったということである。(柳原極堂 友人子規) 幼い頃から寄席好きの子規は、友人たちと連れ立って寄席に出かけました。木戸銭の捻出に借金や質屋を利用したこともあります。神田連雀町には「白梅亭」、日本橋通石町に「立花亭」があり、猿楽町の下宿からも近かて所にありました。 当時は「娘義太夫」がブームとなっていて、書生たちは「堂摺連」を結成して、奇声を発しました。名前の通り、サワリの部分で「どうするどうする」と囃したて、拍手喝采するのだが、子規らもそれに倣っています。 南方熊楠は、大学予備門で同級だった子規や秋山真之が大流行していた奥州仙台節を習っていると記しています。奥州仙台節は、談洲楼燕枝の弟子・柳家つばめが流行させた音曲です。 岡本綺堂著『風俗明治東京物語』によれば、百軒以上の寄席があり、通常は午後6時頃からの開演となります。電灯が一般に普及する前だから場内は薄暗かったため、騒いでもお咎めが少なかったのかもしれません。 明治十八年、余東京大学予備門にあった時、柳屋つばめという人、諸処の寄席で奥州仙台節を唄い、余と同級生だった秋山真之氏や故正岡子規など、夢中になって稽古しおった。(南方熊楠『磐城荒浜町の万町歩節』) 秋山(真之)と居士と私と三人は、よく本郷や神田の落語講談の寄席漁りをしたもので、気に喰わぬ芸人が高座に出ると、下足札をガチガチ鳴らして盛んに妨害を試み、それが奏効すると大声をあげて喜ぶのは秋山だった。居士も少しばかりは妨害につきあっていた。(柳原極堂 子規の青年時代)
2022.01.27
コメント(0)
このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅を見、無上の宝璐を知る。俗にこれを名なづけて美化という。その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。ただ一翳眼に在って空花乱墜するが故に、俗累の覊絏牢として絶ちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼まること、念々切せつなるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。(草枕 3) 卓上の談話は重(おも)に平凡な世間話であった。始のうちは、それさえ余り興味が乗らないように見えた。父はこういう場合には、よく自分の好きな書画骨董の話を持ち出すのを常としていた。そうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前に陳べたものである。父の御蔭で、代助は多少この道に好悪を有てるようになっていた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得ていた。ただし、この方は掛物の前に立って、はあ仇英だね、はあ応挙だねというだけであった。面白い顔もしないから、面白いようにも見えなかった。それから真偽の鑑定のために、虫眼鏡などを振り舞わさない所は、誠吾も代助も同じことであった。父のように、こんな波は昔の人は描かないものだから、法にかなっていないなどという批評は、双方ともに、いまだかつて如何なる画に対しても加えたことはなかった。(それから 12) 二人は二階の広間へ入った。するとそこに応挙の絵がずらりと十幅ばかりかけてあった。それが不思議にも続きもので、右の端の巌の上に立っている三羽の鶴と、左の隅に翼をひろげて飛んでいる一羽のほかは、距離にしたら約二三間の間ことごとく波で埋っていた。「唐紙に貼ってあったのを、剥して懸物にしたのだね」 一幅ごとに残っている開閉の手摺の痕と、引手の取れた部分の白い型を、父は自分に指し示した。自分は広間の真中に立ってこの雄大な画を描いた昔の日本人を尊敬することを、父の御蔭でようやく知った。(行人 塵労 8) 漱石は、応挙の絵を一つの物差しとして使っています。『草枕』では、独自の画法に対して「ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである」と記します。『それから』では、父が親しんでいる書画骨董の類が、応挙であってもその画法に言及しないことを書きます。つまり、代助の父は投機の対象としての書画骨董であることを示しています。『行人』は、長野二郎が父親に誘われて上野の表慶館を訪ねるシーンに登場します。父は利休の手紙や、御物の王義之の書などを見ていき、やがて、応挙の作品の前に行きます。十幅ばかり、波のなかに数羽の鶴が描かれており、唐紙に貼ってあったものを掛軸に直したのだろうという記述から、この作品が『波濤図』であることがわかります。
2022.01.26
コメント(0)
明治18年9月、東京大学予備門へと進んだ秋山真之は、落第した子規と同級になりました。 翌年1月30日、子規は予備門の友人たちと「七変人評論」を行います。「七変人」とは子規、真之に加え、清水則遠、関甲子郎、菊池謙二郎、井林博政、神谷豊太郎の七人でした。子規は、わがままで小心、内弁慶な性格を指摘されました。真之は自信過剰で論争好き、騒ぎ過ぎるところに釘をさされています。 勇気、才力、色欲、勉強、負吝みの面で子規と真之を比較すると、子規は才力に優れ、勉強嫌いで、負吝みはしない。真之は才力に優れているものの子規より劣り、勉強はそこそこ、負吝みの強い人物と採点されています。互いに忌憚のない意見が交わされ、遠慮のない人物評が出されたのは、青春の特権というものかもしれません。 子規の評価 あるいは曰く、満腔詩文の才想を懐き、日課役々の中に洒々落々たるは、余輩正岡君においてこれを見る。これ才智あり。かつ大胆なる者にあらざれば能わざるなり。さて君の性質に至っては別に非難すべきなく、かつこれあるもここに詳論するの限りにあらざるなり。ただ君は才子をもって自らを許すものの如し。君の才子たることは同友中等しく許すところなれども、才子才をもって身を誤るの鄙諺もあれば、左様に才子気取りはかえって君のために悪しからんと余輩の老婆心。 あるいは曰く、その胆の小なる、俗にいわゆる家の前の弁慶を働くをもって見るべし。何をもって子を目して家の前の弁慶、即ち影弁慶なりやというに、元来子に付着する一種の病あり。この病は俗にいわゆる我儘なるものなり。而して、子のこの我儘なる病を発してあるいは威張り、あるいは人を侮るは、全く郷友もしくは親友数名の間に行うものにして、校中多数の友人あるいは教師に対して発することなく、あたかも猫前の鼠の如し。これ、余の子を指して小胆となすゆえんなり。しかれども子は才子なり。己を知らざるものに対して論ずるも威張るも無益無効の親玉と思意してしかるかしかり。而して、子はまた篤実人を喜ばしむるところあり。而して、その才たるや文字上の才にして究理の才にあらざるなり。後世、あるいは文墨をもって名を挙ぐるも、真説をもって名を挙ぐるは難きことかと思うなり。なお、君のために取るべからざる一事あり。そはまたなんぞや。曰く、小成に安んずるの気。 あるいは曰く、子は詩作者にして歌詠家と化し、歌詠家にして俳諧者に変じ、文章家にして小説家を擬し、人に対して間の合わざるなく、その博識多才子が自ら誇り、我儕がまた信じて疑わざるところなり。而して、子が属する所の詩文中に奇語絶句を含むといえども、未だこれをもって高等に達する能わざるは何ぞや。曰く、子が胆小にして詩文自らその勢力を失うをもってなり。子が小なるもの、独り胆のみならんや。気もまた小なり。今これを比せんに、余は子を守門の犬の如しと言わん。常に家にありては能く人を評して、能く人を賤む。而して、聚衆のところにおいてはすなわち尾を垂れ耳を俯し、あえて一言のいうなく学校生徒をして、子を婦女子の如しといわしむるに至る。子が性、淡白なり。然れども子がなすところ多く、淡白に過ぐゆえに損することしばしばあり。 真之の評価 あるいは曰く、伊予松山に人ありやと問わば、君は自ら我なりと答えん。大学予備門に人ありやと問わば、君は自ら我なりと答えん。その気、感ずべし。その意、許すべからず。才子は才を守り、愚は愚を守る、少年才子愚に及ばずとは名言なり。とにかく自惚するは、他人よりこれを見れば自惚するほど惚れぬのみか、かえってこれを悪むものなり。 見るほどに見てくれもせぬ踊かな あるいは曰く、君は学問さほど博識を究めたりという能わずといえども、侃然事務にあたり、これを処理してその当を過たず、その職務を尽すことを得るは、同友中独り、君においてこれを見るならん。これ畢竟、君の俗才に長ぜるものにして、余輩の大いにこれを依頼するところのものなり。その気象は、真に人に信愛さるる風ありといえども、どうもすれば人と争論を開き、ために友誼を破るの恐れあり。これらの点に至りては、少しく軽躁に失するものの如し。その勉強の仕方に至りては、余輩は実に感服を表せざるを得ざるなり。 あるいは曰く、当今の書生、活発ならんことを欲して軽躁に陥るもの比々皆これ、子が如きも活発と言えば活発と言うべし。軽躁と言えば軽躁と言うべし。けだし、子は六の軽躁を有し、四の活発を有するものというべし。しかり、而して君の如く普通の才を有するは余の未だかつて見ざるところなり。しかれどもその才たるや、大才あるにあらず。俗の『器用』なるものに過ぎざるなり。その例を言えば浄瑠璃の真似をなし、都々逸を歌う類なり。子は終身一つの技手にして果てんのみ、大事をなすに足らざるなり。(高浜虚子『正岡子規と秋山参謀』より「七変人評論」)
2022.01.25
コメント(0)
漱石は、『一夜』『草枕』『硝子戸の中』で伊藤若冲を取り上げています。 初期の作品である『一夜』は、二人の男と一人の女が、一夜を通じて「美しき夢」をいかに描くかということを語り合う小説(?)です。夢のようなまどろんだ話は、まるで絵の中の人々が退屈しのぎに画論をしているようなのです。そこに登場するのが若冲の「蘆雁」で73羽の雁が登場するというところから「秋塘群雀図」なのかもしれません。この画には、紅一点ならぬ白一点の雁が画面の上に配置されています。 『草枕』では、画稿が泊まった宿の床にかかっている「気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗っかっている様子」に描かれた「鶴」は、若冲の「飄逸の趣き」に満ちており、一気呵成に描いた鶴の絵が難点か残されています。 『硝子戸の中』に登場するのは、門人の小宮豊隆との議論で登場する「鶏」の絵です。若冲は「鶏の画家」とも呼ばれていますから、その華麗な色彩に豊隆が魅入られても不思議はありません。豊隆は、大正4年2月発刊の「美術新報」に『若冲の絵』を掲載していますから、漱石に対抗するだけの知識を持っていたのでしょう。 しかし、漱石はそのような絢爛豪華な絵よりも、俳味溢れる画の方が好きだったということなのでしょう。 床柱に懸けたる払子の先には焚き残る香の煙りが染み込んで、軸は若冲の蘆雁と見える。雁の数は七十三羽、蘆はもとより数えがたい。籠ランプの灯を浅く受けて、深さ三尺の床とこなれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣きがある。「ここにも画が出来る」と柱によれる人が振り向きながら眺める。(一夜) 横を向く。床にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、すでに逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗っかっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸の趣きは、長い嘴のさきまで籠っている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。(草枕 3) その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲(じゃくちゅう)の御物(ぎょぶつ)を大変に嬉しがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。「いったい君に画(え)を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵倒(ばとう)した。するとこの一言が本になって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんでいうと、すべての芸術は同じ源から湧いて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他は自ずから解し得られる理窟だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。「じゃ小説を作れば、自然柔道も旨くなるかい」と私が笑談(じょうだん)半分にいった。「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。 芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観に入って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。 こういうのがその時の私の論旨であった。そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈を下してやる余地はいくらでもあったのである。 しかしその時座にいた一人が、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得たことはいわなかった。言葉遣いさえ少しへべれけであった。初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいにいい出した。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。 これは今年の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩については一口もいわない。(硝子戸の中 27)
2022.01.24
コメント(0)
子規より一年遅く、歩行町に生まれた秋山真之は、子規と同じ勝山学校、松山中学に進みました。柳原極堂著『友人子規』には真之は子規と「同郷の小学校時代からの親友」とあります。 高浜虚子は、『正岡子規と秋山参謀』で「始めて同君(=真之)を見たのは松山に同郷会というものの出来た年で、恐ろしい眼附きをした鼻の尖った運動の上手な人だと思った位のことであった。その後お囲い池の水練場で秋山君は真裸で「チン●が痒うていかん」といいながら砂を握って両手で揉まれたことを記憶している。君の父君と余の父とは旧藩の時分の御同役といったような関係から父君はよく宅へ来られた。やはり君と同じく鼻の尖った快活な大きな声をして談笑せらるる好きな面白いおじさんであった。そういう関係から「秋山の息子は皆ええ出来で八十九さんは仕合せじゃ」というような話を初め、君に附いての種々の噂は父や父の友逹の人々の口から聞いておって、なっかしく思っておった。しかし砂でチン●を揉むような男らしいことの出来ぬ自分は、とても順さん(真之君)には寄り附けんものとあきらめておった」とあります。 子規が東京へ向かった明治16年、真之は兄の好古を頼って上京し、子規と同じ共立学校に学びます。子規が下宿していた藤野家に真之はよく通いました。 藤野漸の妻・磯子は『はじめて上京した当時の子規』で「この時分、皆で麻布の久松家のお屋敷へよく出掛けたと覚えていますが、秋山さん—後の有名な海軍中将—がどうしたのか、自分で書いたとかいう猥褻な春画を帽子の中へはさんでいたのだそうですが、それが大風の日で帽子を吹き飛ばされるのと一緒に、その春画がその辺へちらかった。慌ててそれを拾うやら、閉口して逃げ出したなど升さんが帰っての話でした。秋山さんと升さんは、一番仲がよかったかして、よくお互いに誉めあっていました。升さんがアレはいずれ海軍大臣になりますよ、というと秋山さんはまた、正岡文部大臣の時が来るさ、と言ったりして、未来の大臣を夢見ていたようでした」と語っています。 明治18年の夏、帰郷した子規は真之の紹介で井手真棹の門を叩き、和歌の手ほどきを受けます。松山からの帰路、子規は同行した真之や梅木脩吉と連歌を楽しんでいます。帰京した子規は、好古と同居していた真之の下宿で二、三日起居しました。9月になると、真之は子規の下宿近くに独りで住むようになります。この頃、子規の下宿には、清水則遠が同居しています。 明治21年、鎌倉無銭旅行の体験談を極堂から聞いた子規、真之、清水則遠、小倉(梅木)脩吉らは、自分たちもそれに倣おうと、夜の10時に鎌倉へと出発したのもこの頃です。歩きつつ眠るという旅を続け、疲労困憊した彼らは途中で切り上げ、汽車で東京へと引き返しました。最初に音を上げたのは真之でした。道端に倒れこみ、動けなくなってしまいました。 九月頃のことなりけん。ある夜余が猿楽町の下宿を柳原秋山の両氏おとずれて話しつつある中に、柳原如水(極堂)が『先日四、五人連れにて十銭ばかりの金にて絵島鎌倉に行きたり』とて、難儀話と滑稽話とをまぜて話し、君らも金を持たずに行けとすすめけるに、秋山氏は跳りたちて今よりいかんといえば、余もさまですすめられて、あとへもえひかぬ男なれば半分は面白く半分は恐ろしく、五十銭を懐中し夜の十一時頃に家をいで、清水、秋山、小倉三氏を携えたか携えられたか、ようように品川まで来たりし時ははや大びけ頃にて妓楼の前を通ればはいれとすすむれど、はいるどころではなく。鞋をひきずりながらボタボタとあるいてる風、まさか日頃の色男とも見えぬ故、楼丁等はクスクスと笑うさえ心よからぬに二階を見ればあいにくと障子の上に男女さしむかひの影ありありと写りおり、一ッとして胸をわるくする種ならぬはなし。ようようにそこを通りぬけて海浜に出ずれば、月はなけれどあまのいさりする火も一ッニッは見えたり消えたりする処、如何にも塵の浮世とは思われず、通りすぎんはなめげに似たり。いざ一息みせんと道の傍に腰をつきしは実ははやこの時に足のだるく覚えし也。かくてはかなはじと鶴見までやっとのことで来た時は夜あけに近かりしが、ある小さき堂の中に入り縁へ腰うちかけしばしやすみぬ。余はねむくてたまらねば、いい心持に艪をおしつつあるに外の者ははや表にいでたり、苦しけれどせんかたもなくあるきはじめしが、あるきながら眠り、眠りながらあるき、あるくのか睡るのかさらに分からず、その内夜もあけければ目も自然にあきぬ。神奈川にて全く夜明けとなりしが道傍の小屋に餅のつきたてをならべいたり。昨夜已来の努れといい、腹もへりたれば覚えず鼻を二三度スコスコいわして通り過ぎぬ。この時、清水、秋山の二子は一町ばかり後れて来りしが二三町行きて待ち合せ、今の餅はどうだうまそうであったなといえば、秋山は「当り前よ、うまそうならばなぜ買わぬのだ」といと恨めしげにいえり。けだし余が大蔵大臣をつとめいる故也。余も始めて心づきもとより朝飯など食う身分ならねど、何かくわなくてはたまらぬ故、餅を買うてもよかりしなれど、かく行き過ぎてはせん方なしとて停車場の処へ来り、橋の上に立てば汽車は丁度下にて仕度最中なり。足だるければ見て行かんと楯上にたたずみいる中、汽笛一声車は進行を始め橋の下へはいると思うと、そのとたんに真黒な炭烟は橋上にある余等の鼻口などの穴からプットはいりたり。腹までも進入する気もちなるに、すき腹なれば何條たまるべき余はしきりにムカツキたり。余はこの時足ほとんど努れ秋山なども疲労の様なれば「もういつそここから帰ってはどうだ、行けば行く程内が遠くなるよ」といえば秋山は頭をふり「ここまで来て帰るやつがあるものか」という。そんなら行かんとふかしいもを買い歩みはじめしが元来疲労の上に睡眠さえかぎしことなれば、一町行きては休み二町行きては息い、木の蔭だといっては坐り石があるといっては腰かけたり。否休むという訳にならず、何だか自然に尻がすわってきて足が中々いうことを聞かず、腰を投げる様にかければスッカリ落ちつきて中々持ちあがらず、故にやすむといはずして「かしこまる」という名を用いたり。程ヶ谷を過ぎてはいよいよもってたまらず、道あるく人には追いこされ車屋には笑われ、くやしながらも「これぞ昨日の金殿玉楼なるべし」などと蝉丸気取りで半町もあゆめばもうたまらず、小倉のみは努れの様子もなく遥かさきの方をスタスタと行けど、清水、秋山は後の方よりヨボヨボと来る。待ち合わせて『オイどうだ、もうかしこまろうじゃないか』といえば、二人はものもいわず、うれし涙を流してやすむこと暫時、小倉氏の呼ぶに励まされてあるきしが、半町ばかり行く間に、秋山ははやよほど余らに遅れたり。今度は余らの待ち合わすをも待たず、後の方より手をあげて『オオイ、かしこまれかしこまれ』というゆえ、ふりかえり見れば秋山は、はや道傍にいくじなくも休みいたり。おかしさにたえねど、自分もやはり同じ思いゆえ、同意しける。かくてようように戸塚の手前に来りし時は十二時なれば、とある草の屋に入りて昼飯を食いしが、余は東京出てはじめての飯故うまくてたまらず、秋山はうまくなしとて飯はくわずそこに寝ころぴしが、はや鼾の声のみ高かりける。一時ばかり休みて秋山をもゆり起し「まだこれから三里已上あるが行くかどうするか、というとさすがの秋山ももはや強情もはりきれなくなり、帰ろうと承知するどころか嘆願する有様なれど、とてもこの足では東京まではおろか、神奈川までもむつかしという。汽車賃でもあればいいがと小倉氏に相談すると天、人を殺さず。小倉氏が意外に金を持ていて四人の深車賃の外に十錢余を余しければ、その残りで道々梨をくいながらかろうじて紳奈川までつきしが、神奈川につきし頃は紐の歩みもただならずという次第にて、後の足が前足の指のさきまではどうしてもひけず、後足のかかとがようよう前足の中頃に来る有様なれば、道通る人は皆あやしみてふりかえりける。小さき子供等の走りまわるもうらやましく、龍も魚となりては漁夫にとらるる習いと車夫の冷笑を尻目にかけて停車場に至り、汽車に乗りおうせては大いに安心し、昨夜以来苦しんで通りし街道をながめながら、一時の内に新橋へつきぬ。(『筆まかせ』「弥次喜多」)
2022.01.23
コメント(0)
漱石は、イギリス時代、ブレイクに関心を寄せていました。明治34年8月6日の日記には「Craigに至る。氏、我詩を評してBlakeに似たりといえり。しかしincoherentなりといえり」とあり、クレイグに自作の英詩を見せたところ、ブレイクに似ているといわれます。しかし、その詩は「incoherent(まとまりがない)ともいわれました。 漱石がグレイグに見せた詩は、「Life's Dialogue」という8連からなる詩でした。最初の章だけをご紹介します。(拙訳ですみません) First Spirit. Out of hope and despair, Man twists the rope of life, As beautiful and fair, As born of passion and strife. He twists and twists and twists. Forever twisting he dies, Then his eyes are glazed with mists, Then cold and naked he lies. 第一の霊 希望と絶望の彼方 人は人生の縄を編んで行く 美しく、きちんと・・・ 情熱と闘争を育みながら。 彼は縄を編む 縄を編む 縄を編む 永遠に 編みつづけて 彼は死んで行く、 そのとき 彼の目は霧でおおわれ光り輝く、 そのとき 裸の彼は冷たくなって横たわる。 ブレイクとは、イギリスの詩人、画家であるウィリアム・ブレイクのことです。ブレイクは、1757年11月28日、ロンドン、ソーホー地区で、靴下商人ジェイムス・ブレイクの家に生まれ、幼い頃から絵の才能があったため絵画学校に入り、1772年に彫刻家ジェイムス・バーシアに弟子入り。銅版画家、挿絵画家として生計を立てていました。 詩と絵の両方を同一画面に配置する「彩飾印刷」という手法を開発し、自らの挿画を散りばめた詩集を出版したのですが、それらの作品が評価されるのは死後のことになります。19世紀後半になって、ラファエル前派の画家たちにによりその詩と版画が注目されます。詩人スウィンバーンは、ブレイク評論の単行本を1868年に出版していますが、漱石のブレイクに関する知識の多くは、この本によっています。 およそ象徴法における記号は多くの場合において思索の関門を通じて始めて捉え得るを例とす。換言すれば、記号はその代表するところのものを直下に喚起して、水をくんで冷暖自知するが如くに興を誘い来ることすくなきが故、あたかも洒落を聴きて感じ得ず、その説明を待って始めてその意を悟ると異なるところなきに似たる点あり。紳秘の風致を具えたる詩人Blakeは象徴に特殊の興味を有したるが如く、遂にSwinburneをしてその作Cabietを評して左の言辞を用いしむるに至れり。「箪笥(Cabinet)とは情熱熾なるか、もしくは詩趣饒かなる、幻夢の謂なり。形而上の宝なり。ややともすれば変じて形而上の束縛たらんとするものなり。人はこの中に在って幽せらる。金鍵ありといえども遂に楚囚たるを免かれず。この牢獄を造るものは愛情に外ならず、また芸術に外ならず。この中に坐して遠く望めば美妙の景、和怡の楽、月の光、露の色、すべて清新なる天地ありてもって吾身を安んずるに足り、吾目を悦ばしむるに足る。しかれども遂に標緲として捕捉すべからず、影の如くにして追うべからず。一たびこの中に入れば吾人現世の悦楽と威力は忽ちにして倍また倍となる。ただ人求むること多きに過ぎ形而上のものを形而下に変ぜんとするとき、五指の把持に堪えざる深邃なる一物を炎の手に捕えんとするとき、永劫無窮を有為転変に訳せんとするとき、本元底を仮存底に訳せんとするとき、実在的を附在的に訳せんとするとき、吾人の生命と共に長かるべき結構は忽然と破滅して気なえ目眩して号泣やまざる赤子の如くに吾人を放下し去る。(文学論 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎) かくの如く、Blakeはこの詩において無暗と「七」なる数字を繰り返せど、この数字は知識を伝うる方面より見て全く価値なきものなること明らかなり。唯これによりてこの神秘不可思議の一篇に何処ともなく精確の心地を添うる役を果たすのみ。(文学論 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎) 彼等はこういう了見で筆を執り始めた。もとより世間を教育する積りでいた。応じないものは冷笑する気でいた。しかし真面目にはやらない気でいた。真面目は野暮で、喧嘩は野蛮であると思っていた。熱烈痛刻は未開時代の人民の性情で、enlightenedという言葉と矛盾するように考えていた。都会の流行を書けば文学者の能事は畢るものと信じていた。日常の礼儀作法に批評を下せば天晴な道徳家だと心得ていた。市井の瑣事を論ずれば文学者だと合点していた。彼等のあとに、バーンスが出た。クーパーが出た。ブレークが出た。オシアンの繹訳が出た。パーシーの古謡集が出た。彼等はこれらの詩人と詩集とを天地間に存在し得るものとは夢にも想像し得なかったろう。アヂソンの衒学者(ペダント)を論じた條(『スペクテーター』第百五号)にこうある。(文学評論 第三編 アヂソン及びスチールと常識文学) 漱石が『文学論』で紹介した詩は「MY Spectre around me night and day」で、「昼も夜も私を取り囲む精霊(あるいは幽霊)」とでも訳せばよいのでしょうか。 MY Spectre around me night and day Like a wild beast guards my way; My Emanation far within Weeps incessantly for my sin. ‘A fathomless and boundless deep, There we wander, there we weep; On the hungry craving wind My Spectre follows thee behind. ‘He scents thy footsteps in the snow Wheresoever thou dost go, Thro’ the wintry hail and rain. When wilt thou return again? ’Dost thou not in pride and scorn Fill with tempests all my morn, And with jealousies and fears Fill my pleasant nights with tears? ‘Seven of my sweet loves thy knife Has bereaved of their life. Their marble tombs I built with tears, And with cold and shuddering fears. ‘Seven more loves weep night and day Round the tombs where my loves lay, And seven more loves attend each night Around my couch with torches bright. ‘And seven more loves in my bed Crown with wine my mournful head, Pitying and forgiving all Thy transgressions great and small. (以下略) ブレイクといえば、レクター博士が初めて登場するトマス・ハリスの小説「レッドドラゴン」を思い出します。犯人のフランシス・ダラハイドは、ブルックリン美術館を訪れてブレイクの「巨大な赤い龍と太陽を着た女」の絵を食べてしまいます。また、ダラハイドは、自分の背中に赤い龍のタトゥーを入れています。 漱石は『文学論』で「無暗と「七」なる数字を繰り返せど、この数字は知識を伝うる方面より見て全く価値なきものなること明らかなり」と書いていますが、この「七」は、ヨハネの黙示録の「もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。(ヨハネの黙示録 12章3節)」という、赤い龍の数字です。 ブレイクは、近代的な合理主義によって隠されてしまった真理を、この「地獄の数字」を用いて明らかにしようとしたのです。ブレイクの作品では、「地獄」「悪魔」「サタン」といった言葉が用いられてはいるのですが、ブレイクは悪魔を礼賛していたわけではありません。「悪魔」という言葉の持つ神との対立や宗教観を、「彩飾印刷」の手法を用いて、詩的に表現しようとしたのでした。
2022.01.22
コメント(0)
明治36年1月22日、漱石は日本の地に戻ってきました。 その時の様子を高浜虚子が『漱石氏と私』に書いています。 漱石氏の帰朝した時にはもう子規居士は亡くなっていた。 漱石氏の留守中、細君は子供と共に牛込の中根氏ーー細君の里方であるーの邸内の一軒の家にいたように記憶している。私が氏を訪問して行ったのもその家であった。丁度私の訪問して行った時に中根氏が見えていて、痩せた長い身体を後ろ手に組んで軒近く縁端に立っていると、漱石氏もその傍に立って何か話をしていた光景が印象されて残っている。私も黙って漱石氏の傍に突っ立っていたのである。それから一人の若い男の人が快活に何か物を言いながら這入って来たのに対して、細君が、「いよいよ夏目が帰って来たから御馳走をしますよ……」と打ち晴れた顔をして笑いながらいった時の光景が眼に残っている。そうして、船が長崎であったか神戸でったかに着いた時に、蕎麦を何杯か食ったので腹を下したそうですというようなことを細君が私に話したことを記憶している。(高浜虚子 漱石氏と私) 漱石は、2月に子規の墓を詣でました。そして、追悼の文章を書きかけたのですが、途中で筆を止めました。 子規が生きていた頃に、この手紙を書いておけばよかったという後悔の念が深かったためなのかもしれません。 水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬものまた年を逐い、日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壊は尋ぬべからず。汝の心われを残して消えたる如く、吾の意識も世をすてて消る時来るべし。水の泡のそれの如き、死は独り汝の上のみにあらねば、消えざる汝が記臆のわが心に宿るも、泡粒の吾命ある間のみ。 淡き水の泡よ、消えて何物をか蔵(かくさ)む。汝はかつて三十六年の泡を有ちぬ。生けるその泡よ、愛ある泡なりき信ある泡なりき憎悪多き泡なりき〔一字不明〕しては皮肉なる泡なりき。わが泡若干(いくばく)歳ぞ、死ぬことを心掛けねば、いつ破るるということを知らず。ただ破れざる泡の中に汝が影ありて、前世の憂を夢に見るが如き心地す。時に一弁の香を燻じてこの影を昔しの形に返さんと思えば、烟りたなびきわたりて捕うるにものなく、敲くに響なきは頼みがたき曲者なり。罪業の風烈しく浮世を吹きまくりて愁人の夢を破るとき、随処に声ありて死々と叫ぶ。片月窓の隙より寒き光をもたらして曰く。罪業の影ちらつきて定かならず。死の影は静なれども土臭し。今汝の影定かならずまた土臭し。汝は罪業と死とを合せ得たるものなり。 霜白く空重き日なりき。我西士より帰りて始めて汝が墓門に入る。爾時汝か水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周ること三度、花をも捧げず水も手向けず、ただこの棒杭を周る事三度にして去れり。我はただ汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思いしのみ。 漱石は、処女作『吾輩は猫である』が単行本になった時の序文に、子規の思い出を書きました。 かつて小説家なろうとして果たせなかった子規の思いを、漱石が引き継いで小説を書いた漱石の思いが、序文から溢れてきます。 「猫」の稿を継ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱いて、上下二冊の単行本にしようと思っていた。所が何かの都合で頁が少し延びたので書肆は上中下にしたいと申出た。その辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もないことだから、それも善かろうと同意して、先ずこれだけを中篇として発行することにした。 そこで序をかくときに不図思い出したことがある。余が倫敦にいるとき、忘友子規の病を慰めるため、当時彼地の模様をかいて遙々と二三回長い消息をした。無聊に苦んでいた子規は余の書翰を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。この時子規は余程の重体で、手紙の文句もすこぶる悲酸であったから、情誼上何か認めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んでいる身分ではなし、そう面白い種をあさってあるくような閑日月もなかったから、ついそのままにしているうちに子規は死んで仕舞った。 筺底から出して見ると、その手紙にはこうある。 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。夫ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ) 画ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。 不折ハ今巴里ニ居テコーランノ処ヘ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ、モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。 虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。 錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。 僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。 明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス東京 子規 拝 倫敦ニテ 漱石 兄 この手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥かである。余はこの手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬことをしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えという余の返事には少々の遁辞が這入っている。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。 子規はにくい男である。かつて墨汁一滴か何かの中に、独乙では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采を博しているのに漱石は倫敦の片田舎の下宿に燻って、婆さんからいじめられているというようなことをかいた。こんなことをかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔などといわれると気の毒で堪らない。余は子規に対してこの気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。 子規がいきていたら「猫」を読んで何というか知らぬ。あるいは倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。しかし「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になったことが左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、この作を地下に寄するのがあるいは恰好かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたというから、余もまた「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。 子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけている。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に 長けれど何の糸瓜とさがりけり という句をふらふらと得たことがある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。 どつしりと尻を据えたる南瓜かな という句もその頃作ったようだ。同じく瓜という字のつく所をもって見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序ながらこの句も霊前に献上することにした。子規は今どこにどうしているか知らない。恐らくは据えるべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未だに尻を持っている。どうせ持っているものだから、先ずどっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積りである。しかし子規はまた例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余のことを心配するといけないから、亡友に安心をさせるため一言断って置く。 明治三十九年十月(夏目漱石 吾輩は猫である中篇自序)
2022.01.21
コメント(0)
「それから、この木と水の感じ(エフフェクト)がね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿」と歩きだしながら、左手の建物をさしてみせる。「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」と言いながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光が乏しい。 青い空の静まり返った、上皮に白い薄雲が刷毛先でかき払ったあとのように、筋かいに長く浮いている。「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」 三四郎は憮然として読まないと答えた。野々宮君はただ「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから、「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。(三四郎 2) 野々宮の「君ラスキンを読みましたか」というのは、ラスキンの『近代画家論』のジョン・ラスキンのことです。ラスキンは画家ではないのですが、芸術家のパトロンとなった美術評論家で、『近代画家論』の中で、雲の形についての詳細な研究を試みており、遠近感、透明感、風や光との関係に深く考察しています。 ラスキンは、19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家のウィリウム・モリスのアーツアンドクラフツ運動をバックアップし、「芸術と職人がいまだに未分化の状態で、創造と労働が同じ水準に置かれ、人々が日々の労働に喜びを感じていた時代」を実現するための精神的支柱となっています。
2022.01.19
コメント(0)
ロンドンの漱石は、留学の成果をどのような本にしようかと考え始めました。 漱石が菅虎雄に宛てた明治35年2月16日の手紙には「学問も根っからはかどらずすこぶる不景気なり。帰って教師なんかするのは厭でたまらない。いわんや熊本まで帰るにおいてをや。それを考えると英国に生涯いる方が気楽でよろしい。近頃は文学書などは読まない。心理学の本やら進化論の本やらやたらに読む。何か著書をやろうと思うが僕のことだから御流れになるかも知れません」、3月15日の義父・中根重一宛てには「私も当地着後(去年八九月頃より)より一著述を思い立ち、目下日夜読書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを商買に致候。同じ書を著わすなら西洋人の糟粕では詰らない。人に見せても一通はずかしからぬものを存じ励精致居候。しかし問題が如何にも大問題故、わるくすると流れるかと存候よし、首尾よく出来上り候とも二年や三年ではとても成就仕る間敷かと存候。出来上らぬ今日わが著書などことごとしく吹聴致候は、生れぬ赤子に名前をつけて騒ぐようなものに候えども、序故一応申上候。先ず小生の考にては『世界を如何に観るべきやという論より始め、それより人生を如何に解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的及びその活力の変化を論じ、次に開化の如何なるものなるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖し、その聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ず』る積りに候。かような大きなこと故、哲学にも歴史にも政治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候故、自分ながらその大胆なるにあきれ候事も有之候えども、思い立候こと故、行く処まで行く積に候」と、その決意をしたためています。 一方、子規は5月5日から『病牀六尺』の連載を始めます。しかし、この年の9月19日午前1時に永眠しました。 漱石が、この知らせを受け取ったのは11月下旬のこと。漱石は高浜虚子に、子規の死を教えてくれたことへの礼と追悼句を12月1日に送っています。 啓。子規病状は毎度御恵送の『ほととぎす』にて承知致候処、終焉の模様逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致すことは到底叶い申間敷と存候。これは双方とも同じような心持にて別れ候こと故、今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、あるいは本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰藉かたがたかき送り候。筆のすさび、取るに足らぬ冗言と御覧被下たく、その後も何かかき送りたしとは存候いしかど、御存じの通りの無精ものにて、その上時間がないとか勉強をせねばならぬなどと生意気なことばかり申し、ついついご無沙汰をしているうちに、故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄等に対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。 同人生前のことにつき何か書けとの仰せ承知は致し候えども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。 さて小生来五日いよいよ倫敦発にて帰国の途に上り候えば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕万事はその節まで御預りと願いたく、この手紙は米国を経て小生よりも四、五日さきに到着致すことと存候。子規追悼の句何かと案じ煩い候えども、かく筒袖姿にてビステキのみ食いおり候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりはむしろ無理やりに得さしめたる次第に候えば、ただ申訳のため御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。 文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にてしたため候えばくるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におえぬ代物と相成候。日本に帰り候えば随分の高襟(ハイカラ)党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。 倫敦にて子規の訃を聞きて 筒袖や秋の柩にしたがわず 手向くべき線香もなくて暮の秋 霧黄なる市に動くや影法師 きりぎりすの昔を忍び帰るべし 招かざる薄に帰り来る人ぞ 皆蕪雑、句をなさず。叱正。(十二月一日、倫敦、漱石拝)
2022.01.19
コメント(0)
余のいわゆる超自然的材料中には単に宗放的、信仰的材料を含むのみならず、すべての超自然的元素即ち自然の法則に反するもの、もしくは自然の法則にて解秤し能はざるものを含めばなり。例えば、……②Macbeth中の妖婆、RossettiのKing’s Tragedy中の妖婆(文学論 第一編 文学的内容の分類 第三章 文学的内容の分類及びその価値的等級) 詩人Rossettiはかつていう、太陽が地球を廻るも、地球が太陽を廻るも吾が関するところにあらずと。(文学論 第三編 文学的内容のその特性 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎) Oxford学生の熱心にこの書を迎えたる意気は実に驚くべきものありき。某聯隊の如きは一人としてこれを手にせざる士官なきに至れりという。Rossetti, Wm. Morris, Burne-Jonesの徒また争って書中の主人公を取って、わがモデルとせりと称せらる。(文学論 第六編 原則の応用(四)) 著者は「ヲッツ、ダントン」という男だ。別段有名な人でもない。一咋年出版になった「ファーカーソン、シャープ」の文学者字彙には、一八三二年生とあるから、もう善年齢である。今までは雑誌記者をしたり、批評家になったり、またある時は「アセニーアム」へ詩稿を寄送したりなどしておったようにみえる。かつて「ロゼッチ」が、この人の詩を買讚したという話もあるが、兎に角「エイルヰン」を出すまでは、左のみ有名ではなかった。(小説『エイルヰン』の批評) 次にはロセッテイーの『浄福の乙女』(The Blessed Damosel) の一節を引く。 "We two," she said, "will seek the groves Where the lady Mary is, With her five handmaids, whose names Are five sweet symphonies, Cicily, Gertrude, Magdalen, Margaret and Rosalys." 終わりの二行に列挙した五世紀六世紀の固有名詞が果たして作者自らのいう如く「五つの美しい楽の音」と聞こえるであろうか、これらの固有名詞の来歴をしって読んだなら、多少の感興を起こすに相違いない。(講義 英文学形式論) ロセッテイーの『五人の侍女』の場合も錯雑したる頭韻が使用されている。 Cicily, Gertrude, Magdalen, Margaret and Rosalys(講義 英文学形式論) ロセッティとはイギリスの画家・詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのことです。明治期の文壇では、画家よりも詩人として捉えられていて、漱石も『文学論』では詩「King’s Tragedy」をとりあげ、『英文学形式論』という講義では「浄福の乙女」「五人の侍女」について触れています。 しかし、ロセッティは、画家として知られています。王立美術院に入学したものの、古典偏重の教育に疑問を抱き、ウィリアム・ホルマン・ハントやジョン・エヴァレット・ミレーらの友人たちとともに、初期ルネサンス絵画への回帰を掲げるラファエル前派を1848年結成しているからです。 ラファエル前派の絵は、漱石作品に強い影響を与え、『三四郎』に登場するウォーターハウスの「人魚」や『草枕』の登場人物の那美に対するイメージとして、ミレーの「オフィーリア」などがあります。 明治34年4月7日の日記には、「Denmark HillによりPeckhamのGreenを経て帰途。South L. Art Galleryに至る。Ruskin, Rossettiの遺墨を見る。面白かりし」とあり、8月3日にはカーライル博物館の後にロセッティの家を眺めています。日記には「午後Cheyne Road 24に至り、Carlyleの故宅を見る。すこぶる粗末なり。Cheyne Walkに至り、Eliotの家とD. G. Rossettiの家を見る。前のGardenにD.G.R.が噴井の上に彫りつけてある」と書いています。 漱石の『夢十夜』の第一夜には、ロセッティの詩「祝福されし乙女」の影響が見えます。先に天国に逝った女性が、地上に残してきた恋人と再会する日を待つという内容の詩です。 こんな夢を見た。 腕組をして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますという。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔かな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきりいった。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、といいながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわといった。 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。 しばらくして、女がまたこういった。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」 自分は黙ってうなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていて下さい」と思い切った声でいった。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮かに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。 それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱き上あげて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女のいった通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女のいった通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。 しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。 自分はこういう風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂きに、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらとはなびらを開いた。真白な百合が鼻の先で骨にこたえるほど匂った。そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴たる、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。(夢十夜 第一夜)
2022.01.17
コメント(0)
明治34年11月6日、子規は倫敦の漱石へ宛て、手紙を出しました。 「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣しているような次第だ、それだから新聞雑誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙にかく」という前置きです。 そして、唐突に「倫敦の焼き芋の味はどんなか聞きたい」と質問を投げかけます。 続いて「僕はとても君に再会することはできぬと思う。万一できたとしてもその時は話もできなくなってるであろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。……書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ」と書かれていました。 子規は、親しい人であればあるほど、愚痴をこぼします。漱石宛ての手紙には、その場限りと注文をつけながらも愚痴がいっぱい溢れてくるのです。 この手紙を紹介した『吾輩は猫である 中篇自序』に、「憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである」とありますが、それは作家の嘘です。漱石は十二月十八日に手紙を返しています。当時の郵便事情では、日本とイギリスの間で三十日以上もかかったというので、すぐに返事の手紙を書いたと思われます。 僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣しておるような次第だ、それだから新聞雑誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙をかく。いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。近来僕を喜ばせたものの随一だ。 僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろー。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へ往ったような気になって愉快でたまらぬ。もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか(無理な注文だが)。画はがきもたしかに受け取った。倫敦の焼芋の味はどんなか聞きたい。 不折は今巴里にいてコーランのところへ通うておるそうじゃ。君に逢うたら鰹節一本贈るなどというていたが、もーそんなものは食うてしまってあるまい。 虚子は男子を挙げた。僕が年尾とつけてやった。 錬卿死に、非風死に、皆僕より先に死んでしまった。僕はとても君に再会することはできぬと思う。万一できたとしてもその時は話もできなくなってるであろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。僕の日記には『古白曰来』の四字が特書してあるところがある。 書きたいことは多いが苦しいから許してくれたまえ」(正岡子規 明治34年11月6日 漱石宛書簡) (前略)日曜日に「ハイド、パーク」などへ行くと盛に大道演説をやっている。こちらでは「イエス、キリスト」の神よ「アーメン」先生が跛枯声で口説いていると、五、六間離れて無神論者が怒鳴っている。「地獄? 地獄とは何だ。もし神を信ぜん者が地獄に落ちるなら、ヴォルテールも地獄にいるだろう、インガーソルも地獄にいるだろう、吾輩はくだらぬ人間の充満している極楽よりもかかる豪傑の集っている地獄の方が遥にましだと思う」。僕の理想的アマダレ演説よりもよほど気焔が高い。これを称して鼻息あらき演説というので、これも雄弁法などに見当らない形容詞のつく使いようだ。この無神論者の向側にHuman(i)tarianの旗を押立てて「コムト」の仮色を使っている奴がある。その隣ではしきりに「ハックスレー」の説を駁している。その筋向にシナビた先生がからだに似合ない太い声を出して「諸君予は前年日本に到り、かの地にて有名なるマーキス、アイトー(伊藤侯爵のこと)に面会して同氏が宗教に関する意見を親しく聴き得たのであります……」。どれもこれも善い加減な事ばかり述立てている。 先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。五十銭の席か売切れて這入れないから一円二十五銭奮発して入場仕ったが、それでも日本のつんぼ桟敷見たような処で向の正面でやって居る人間の顔などはとても分らん。五、六円出さないと顔のはっきり分る処までは行れない。すこぶる高いじゃないか、相撲だから我慢するが美人でも見に来たのなら壱円二十五銭返してもらって出て行く方がいいと思う。ソンナシミッタレタことは休題として肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が後れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代り瑞西(スイス)のチャンピヨンと英吉利のチャンビヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんてすこぶる間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも一、二と行司が勘定する間このビタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大にらちのあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテいる奴を後ろから抱いて倒そうとする、倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をしている。御蔭に十二時頃までかかった。ありがたき仕合である。翌日起きて新聞を見ると、夕十二時までかかった勝負がチャンとかいてあるには驚いた。こっちの新聞なんて物はエライ物だね。 僕はまた移ったよ。五乞閑地不得閑、三十五年七処移〔正たひ閑地を乞うて閑を得ず、三十五年七処に移る〕なんと三十五年に七度居を移す位なことでは自慢にゃならない。僕なんか英吉利へ来てからもう五返目だ。今度の処は御婆さんか二人、退職陸軍大佐という御爺さん一人まるで老人国へ島流しにやられたような仕合さ。この御婆さんが「ミルトン」や「シェクスピヤー」を読んでいておまけに仏蘭西語をペラペラ弁ずるのだからちょっと恐縮する。「夏目さんこの句の出処を御存知ですか」などと仰せられることがある。「あなたは大変英語が御上手ですがよほどおちいさい時分から御習いなすったんでしょう」などと持上けられたこともある。人あに自ら知らざらんや。冗談言っちゃいけないと申したくなる。こちらへ来てお世辞を真に受けていると大変なことになる。男はさほどでもないか、女なんかは、よく"Wonderful "などと愚にもつかないお世辞をいう。下手な方に"Wonderful"ですかと皮肉をいうこともある。(中略)今や濃霧窓に迫って書斎昼暗く時針一時を報ぜんとして撫腹食を欲することしきりなり。この美しき数句を千金の悼尾として筆を間く。十二月十八日。(夏目漱石 明治34年11月18日 子規宛書簡) これらの手紙は、二人が交わした最後の手紙になりました。
2022.01.16
コメント(0)
明治39年11月1日の『ホトトギス』に掲載された『文章一口話』は、印象派についての解説を松根東洋城に筆談してもらったものです。 11月6日の森田草平に宛てた手紙には、「文章一口談は例の東洋城が池上の山門で芸者を見ながら筆記したもの、何だか怪しいものだ。不折のイムプレッショニストの論は乱暴なものだ。大将曰く感興そのものをかくからイムプレッショニストだと。無学もここに至って極まる。本人画工じゃないか。しかして印象派なる名目の由来を知らないで馬鹿なことをいう」とあり、文章は、「印象派」という中村不折の談話のことです。 大正10年に刊行された『画堂一班』にも「印象派の仕事はその字の示すが如く、急速に起る感情を捕捉して画幀に上ばすというのであろう。しかしてその手段が実に不思議だ、白かるべき処へ青い絵具をなする、出来上りの後に見ると本統の白に見えるというやり方をする。日本の印象派と称するものように、何時でも紫の蔭ばかり使用する拙劣さ加減では、到底アンプレッションの名称を与えることは出来ないだろうと思う。印象派は十人よれば十人の別があるぺき筈だ、同じ一人としても場所と時とにより、色から意匠から皆違わなくてはなるまい」と書いていますから、印象派に関する不折の考え方が変わっていないのがわかります。 このことに関して、漱石は不折に不信感を抱いたのでした。 絵画に impressionistというのがある。これはTurnerが元祖である。Turner自身でこういう一派を創設主唱したのでもなければ、この時代の人からそう認められていたのでもない。ただずっと後世になって、かかる一派が事実上認められるようになり、遠くその系統をたどり、その根源にさかのぼってみると、この人に帰着するというのである。 伝統はとにかく、インプレッショニストの特色は、いかなる色を出すにも間色を用いぬということに帰着する。かれらの考うるところによれば、すべての色は主色の重なったもので、混じっ たものではない、という立脚地から出立する。したがって、近寄ってはなんだかわからぬが、立ち離れて一定の距離から見ると自然の色彩を感じうるようにかきこなす。その方法は、あらかしめパレットで顔料を混じて、その混じたものを画布に塗りつけるのではない。単純なる主色 (pure tones)を一色一色にじかに塗抹して、その集まったものを一定の距離から見ると、目の作用で、それがその写すベき実在の色彩に接したと同似の感を起こすようにするのである。色彩についての技術はこうだが、そのほか筆の用い方についても、たとえばここが一筆に勢いを示しえているとか、あるいは筆つきであたかも音楽のハーモニーのような趣を表わしているとかいうふうで、おもに技術のがわに心を用いる。したがって、それがこうじていくと、取材の選択とか、結構のくふうであるとかは、自然第二第三以下の問題となる。したがって、composition (結 構)から得る感じ、あるいは idea (思想)を表わすなどはどうでもよい。筆つきなどが巧みに運ばれておれば、絵画の能事は終わったように考えるほど極端になってくる。 文章についても同じことが言えると思う。すなわち、文章のうえにもまたインプレッショニストがある。文章も、ある見方では、余のことには目をつけずに、ちょうど絵画に関して画家がそ の仲間で絵をほめ合うごとく、技術そのもののみをほめるようなことがある。ある意味からいうと、そういうのは、現在の写生文家が互いにほめ合うているところである。すなわち、今の写生文家の立場からいうと、要するに何を書こうがかってだ、ただその叙し方さえ巧みなればよい。 極端にいえば、車夫馬丁のだじゃれでも、馬がへをひったことでも、犬が孳しているさまでも、その叙述が精緻であれば、すぐにうまいといい、おもしろいという。ただ巧みに書こうという弊は、その何を言うかの目的に多大の注意を払わぬようになる。描き出された部分は、それはきわ めて明白に巨細に写されて、間然するところがないほどな技巧を示しているかもしれぬ。しかし、読んだあとでなんだか物足らない。淡泊であきたらないのではない。なんだか不満足である。で、その原因を探るといろいろになるが、分類をするのはめんどうであるからまずわかりやすい例でいうと、あるいは中心がない、あるいは山がない、あるいは人をひきつける力がないという場合が、比較的に多いように見える。たらいの中の水に春風が渡って水面を刷くさざなみのちりめんじわ一つ一つのこまやかに明らかではあるが、しかし、その水全体にこもる力がないという場合もある。面なめらかな大洋の波のなんの曲もなきがおのずから心ゆくカーブをなすのとは おのずから異むっているので、なんだか物足らない。そこで、かれらにきいてみると写生だとい う。なるほど、うまく写生ができているかもしれない。リアルかもしれない。しかしリアルであ ればそれでしゅうぶんだという場合ばかりはなかろう。リアルでもそのもの自身がつまらんとき は、せっかくの技巧は牛刀をもって鶏を裂くと同じことであろう。余の考えでは、かかる場合に おいて、よしありのままをありのままに写しおおせても、attructive でなければ物足らぬ。 attructiveであれば、如上の意味においてリアルでなくてもかまわぬ。神はクリエート(創造)する。人もクリエートするがよい。一定の時の一定の事物をすみからすみまで 一毫一厘写さずとも、のみ ならず、進んで一葉一枝一山一水の削加増減をあえてするとも、あたかも一定時の一定事物に接 したかの感じを与えうればよい。さらに一歩を進めると、いつかどこかに、はたして存在し、または存在すべきことを要せぬ、ただただちにまったく実在すると感じられ、実在するであろうか せぬであろうかと遅疑する余裕のないものならば、それでたくさんだ。これまた一種の意味においてリアルである。この意味においてのリアルとは、一定の時に一定の場所に起こった事物の証拠力ではない、歴史的考証力でもない、身まさにその説述の裏に同化し、真偽のまぎわにたゆとうことなき境涯の状態を意味するのである。かくて事物の証拠力としては許されぬクリエーションは、如上の同化の境涯を真覚せしめるためには、許されうべきのみならず、また実に必要である。ある場合にあっては、多少のクリエーションを許すがゆえにじゅうぶんattructiveとなり、attructiveであってはじめて芸術的にリアルとなる。こうやったら事実にちがおうか、そうした らうそになろうか、と 戦々競々として、いたずらに材料たる事物の奴隷となるのは文学のこと ではない。感興のおもむくところ、クリエーションの思いきりがたいせつである。翼々として思いきれぬ写真術には、感興興趣の色彩はとれぬ。シェクスピアは、今の人ならばとてもそこまで は思いきって描くことができぬほどのあたりまで、興に任せ、筆を走らし、立ち入って描き出す。その思いきった点が、いつもその作を活躍せしめている。 およそ世の中のことは、発達するにしたがい単純から複雑になる。本来をいうと、文章もどこ までが思想で、どこまでが技術かわからぬほど単純なものである。ところが、漸々人が文章を縦 に見たり横に見たりしてこねまわしているうちに、おのずから実質と技術とが分かれるようにな ってきた。同じものが分かれる訳はないが、人間の目のつけどころが複雑になると、一つのもの をいろいろに差別してみることができるから、こういう現象が起こるのである。たとえば、形と 色との関係のようなものだ。一の物体についていうと、そのものから色を取ればその形はなくな る。その形をとればその色はなくなる。二相帰一、色は形で、形は色である。しかし、人の知識 が進むにしたがい、アナリシス(解剖)ができるようになるから、このわかつことのできない色 と形とをも、仮に分けて見ることができる。同一物体から色だけを抽象し、もしくは形だけをぬ いて見ることができる。それと同じことで、文章も実質と技巧とを分けて見ることができるよう になる。ある人は技巧のみをぬいて見るし、ある人は実質のみをぬいて見る。すなわち、前者後 者の区別から、 form (形)に重きを置く技巧派と、 matter (質)を主とする実質派とも名づくべ き二流派を生ずる。しこうして、前者は現今の画界におけるインプレッショニストと同傾向のものである。 Art of artは、文章もしくは絵画をかく分解してこれを技巧的にのみ観じうるほど、吾人の頭脳が発達したときにはじめて 勃興すべき現象であって、また必ず起こらねばならぬ一派である。それで、今のいわゆる写生文家には大いにこの傾向がある。この傾向のあるのは、時勢の発展上こういう一派が認められべき機運に到着したので、一方からいうと、むしろ社会がこれを産 出するまでに進んできたのである。歴史上漸次文章界も複雑になってきた結果、古くよりあった思想派のほかに近ごろ技巧派ができた、というのは開化の潮流がそこまで達したのであろう。ただ、この技巧派が極端に走るときには、まえに述べたような弊害に陥ることは自覚せねばならん。 前述のしだいだから、いわゆる写生文は現今の社会からはすこぶるけいべつされて、なんらの価値もないもののように言われているにもかかわらず、自分はそうは思わぬ。日本人の全体、今 のいわゆる小説家などの多分の思うごとく、写生文は短くて幼稚だというのは誤りで、幼稚どころか、かえって進歩発達したものというてもしかるべきことと考えている。否、むしろ発達しすぎてその弊に陥ったもの、一方の極端に走ったものと思う。すなわち、実質そのものはどんな平凡なことでも、写す技巧さえ確かであればかまわない。平たくいえば、事がらはおもしろくないが叙述はうまかろう、という傾向になっている。それだから、ある人は大いに感服すると同時に、大いに不満足なのだろうと思われる。 議論の原則としては、技巧で書いたものは技巧を見る。趣向が主なら趣向を見る。人情の機微を写したものなら人情の機微を見る。ただ極端に走り、余弊に陥った今の写生文家は、趣向、結 構(composition)、筋、しくみ(plot)を考えなければならぬ。 技巧派の弊がこのへんにあるに対して、実質派の堕落の一は、ただ筋を運ぶよりほかに何も知らぬことであろう。その筋もおもしろければだが、つまらぬ人情話を容赦もなく運んでいく。まるで地図を開いて見ているようだ。あるいは造船の設計をながめているようだ。 文章上について、こんなとっさの際に思ったことを述べるとよく尽くさぬことがあるので、しばしば人の誤解を招くことがある。この議論でももっと秩序をたてて長いものにして、はっきりと納得のいくようにしなければならんが、座談だから、そううまくはいかん。だいいち、考うべきことは、文章において考うべき条項は何と何であるか、それから詳しく考えて、そうして相互の関係を論じてみなければならん。しかるのち、小説でも戯曲でも完全な批評はできるのである。現今の批評というものは、毫も系統的でない。おのおのかってしだいに気のついたことをいいかげんに並べるばかりである。そのかわり、どれも機械的でない。そこがたのもしいところで、そうしてまた科学的でないところである。(文章一口話)
2022.01.15
コメント(0)
漱石が、ロンドンから翌年の年賀の挨拶を式に送ったのは、明治33年12月26日、クリスマスの様子を絵葉書で知らせています。漱石は、初めてクリスマスのご馳走であるアヒルのローストを食べたのですが、そのことを子規に知らせていません。 その後御病気如何。小生東京の深川の如き辺鄭に引き籠り勉学致おり候。買たきものは書籍なれどほしきものは大概三、四十円以上にて手がつけ兼候。 詳細なる手紙差上たくは候えども何分多忙故、時間惜き心地致し候故、端書にて御免蒙り候。 御地は年の暮やら新年やらにて、さぞかし賑かなことと存候。当地は昨日が「クリスマス」にて始めて英国の「クリスマス」に出喰わし申候。 柊を幸多かれと飾りけり(夏目漱石 明治33年12月26日 正岡子規宛書簡) 漱石は、明治34年1月22日の日記に「ほととぎす届く。子規尚生きてあり」と記しています。 子規からのハガキは現存していませんが、この年の4月に届きました。おそらく、ロンドンの様子を知らせてくれとの依頼だったのでしょう。漱石は、子規と高浜虚子に宛てて4月9日と20日、26日に手紙を送っていますが、それらは『倫敦消息』として「ホトトギス」に掲載されました。 子規は、連載していた『墨汁一滴』で、漱石のことを書きました。5月23日に掲載されています。 漱石が倫敦の場末の下宿屋にくすぶっていると、下宿屋の上さんが、お前トンネルという字を知ってるかだの、ストロー(藁)という字の意味を知ってるか、などと問われるのでさすがの文学士も返答に困るそうだ。この頃伯林の灌仏会に滔々として独逸語で演説した文学士なんかにくらべると倫敦の日本人はよほど不景気と見える。(墨汁一滴 明治34年5月23日) また、5月30日の『墨汁一滴』には、漱石が米が稲になることを知らなかったことを記しました。 東京に生れた女で四十にも成って浅草の観音様を知らんというのがある。嵐雪の句に 五十にて四谷を見たり花の春 というのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議そうにいうていた。この女は筍も竹も知っていたのだけれど二つのものが同じものであるということを知らなかったのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にこうであると思う人も多いであろうが決してさそういうわけではない。余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとずれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたっていない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃のことであつったろう、そこらの水田に植えられたばかりの苗がそよいでいるのは誠に善い心持であった。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰う所の米はこの苗の実であることを知らなかつたということである。都人士の菽麦を弁ぜざることは往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうというのはどうしても一度は鄙住居をせねばならぬ。(墨汁一滴 明治34年5月30日)
2022.01.14
コメント(0)
最後にウィルソンという景色画家のことについて一口御話をする。この男は英国風景画の元祖といわれた人で、伊太利(イタリヤ)及び仏蘭西(フランス)に遊んで、大陸諸家の感化を受けたのだそうである。もっともラスキンの評によると、この人の画はプーサンやサルヴァトルなどをもじった者に過ぎぬとある。御承知の如く天然と十八世紀というのはすこぶる興味のある問題で、十八世紀の詩を論ずる人は必らず十八世紀の詩人の天然に対する態度を批評するのが例である。余は一歩進んで詩中にあらわれた天然とこのウィルソンやゲーンズボローの画いた自然を比較して見たらば、やはり両方とも一様な臭味に支配せられていることはなかろうかと思う。しかしながら余の如き浅薄な絵画の智識では到底充分な御話は出来ないからこれ位にして已めて置く。それよりも他日もし機会があったら、かの有名なターナーの山水とこれらの諸家を対照して御覧になったら非常に興味のある発見をせらるる事ことと信ずる。(文学評論 第二編) ここに出てくるウィルソンは、イギリスの風景画家リチャード・ウィルソンです。元々は、トーマス・ライトという肖像画家の弟子として肖像画家でしたが、1750年から1757年頃までローマを中心にイタリアへ滞在したことで、絵の傾向が大きく変わります。 ローマでは同地の風景画家フランチェスコ・ズッカレッリやフランス人画家クロード=ジョセフ・ヴェルネと出会い、クロード・ロランやニコラ・プッサンなどの古典主義の画家らの作品に感銘を受け、肖像画を棄て風景画の制作に専念します。 1757年に帰国し、英国でも風景画家として確固たる地位を築きましたた。1768年、ジョシュア・レノルズらと共にロイヤル・アカデミーの創設に参加しました。しかし、風景画の衰退とともに顧客を失い、生活苦の中で酒に溺れて不幸な晩年を過ごしています。
2022.01.13
コメント(0)
明治33年5月12日、漱石は文部省第一回給費留学生として2年間のイギリス留学を命じられます。 熊本から東京に帰った漱石は、7月23日に子規庵を訪れ、夜9時まで話に花を咲かせました。漱石は、留学の準備に忙しく、子規もまた8月13日に多量の吐血があり、漱石が寺田寅彦とともに子規庵を訪れたのは8月26日のことでした。 寅彦の日記には「漱石師きたり、ともに子規庵を訪う、谷中の森にひぐらし鳴いて踏切の番人寝ぼけ顔なり」と書いています。これが漱石と子規が会う最後となりました。 寅彦は、その前後に何度か子規庵を訪れています。子規庵のことを書いているのは『子規の追憶』『子規自筆の根岸地図』ですが、ここには校舎を記しておきます。 子規の自筆を二つ持っている。その一つは端書はがきで「今朝は失敬、今日午後四時頃夏目来訪只今(九時)帰申候。寓所は牛込矢来町三番地字中ノ丸丙六〇号」とある。片仮名は三字だけである。「四時頃」の三字はあとから行の右側へ書き入れになっている。表面には「駒込西片町十番地いノ十六 寺田寅彦殿 上根岸八十二 正岡常規」とあり、消印は「武蔵東京下谷 卅三年七月二十四日イ便」となっている。これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らしてくれたものと思われる。その頃自分は大学二年生であったが、その少し前に郷里から妻を呼びよせて西片町に家をもっていたのである。「今日」とあるのは七月二十三日だろうと思われるのは消印が二十四日のイ便であるのに「只今(九時)帰申候」とあるからである。夏目先生が帰ってからすぐに筆をとってこの端書をかき、そうして、おそらくすぐに令妹律子さんに渡してポストに入れさせたのではないかとも想像される。それが最後の集便時刻を過ぎていたので消印が翌日の日附になったものであろう。 それはとにかく「四時」「九時」と時刻を克明に書いている所に何となく自分の頭にある子規という人が出ているような気がする。そうかと思うと日附は書いてないのも何となく面白い。 配達局の消印も明瞭で駒込局のロ便になっている。一体にその頃の消印ははっきりしていたが、近頃のは捺し方がぞんざいで不明なのが多いような気がする。こんな些末なところにも現代の慌だしさが出ているかもしれないと思われる。 もう一つの子規自筆の記念品は、子規の家から中村不折の家に行く道筋を自分に教えるために描いてくれた地図である。子規常用の唐紙に朱罫を劃した二十四字十八行詰の原稿紙いっぱいにかいたものである。紙の左上から右辺の中ほどまで二条の並行曲線が引いてあるのが上野の麓を通る鉄道線路を示している。その線路の右端の下方、すなわち紙の右下隅に鶯横町の彎曲した道があって、その片側にいびつな長方形のかいてあるのがすなわち子規庵の所在を示すらしい。紙の右半はそれだけであとは空白であるが、左半の方にはややゴタゴタ入り組んだ街路がかいてある。不折の家は二つ並んだ袋町の一方のいちばん奥にあって「上根岸四十番不折」としてある。隣の袋町に○印をして「浅井」とあるのは浅井忠氏の家であろう。この袋町への入口の両脇に「ユヤ」「床屋」としてある。この界隈かいわいの右方に鳥居をかいて「三島神社」とある。それから下の方へ下がった道脇に「正門」とあるのはたぶん前田邸の正門の意味かと思われる。 もちろん仰向けに寝ていて描いたのだと思うがなかなか威勢のいい地図で、また頭のいい地図である。その頃はもう寝たきりで動けなくなっていた子規が頭の中で根岸の町を歩いて画いてくれた図だと思うと特別に面白いような気がする。 表装でもしておくといいと思いながらそのままに、色々な古手紙と一しょに突込んであったのを、近頃見せたい人があって捜し出して書斎の机の抽斗に入れてある。せめて状袋にでも入れて「正岡子規自筆根岸地図」とでも誌しておかないと自分が死んだあとでは、紙屑になってしまうだろうと思う。 こんな事を書いていたら、急に三十年来行ったことのない鶯横町へ行ってみたくなった。日曜の午後に谷中へ行ってみると寛永寺坂に地下鉄の停車場が出来たりしてだいぶ昔と様子がちがっている。昔の御院殿坂を捜して墓地の中を歩いているうちに鉄道線路へ出たがどもう見覚えがない。陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里にっぽりとなっている。昨日の雨でぐじゃぐじゃになった新開街路を歩いているとラジオドラマの放送の声がついて来る。上根岸百何番とあるからこの辺かと思うが何一つ昔の見覚えのあるものはない。昔の根岸はもうとうに亡くなってしまっている。鶯横町も消えているのではないかという気がして心細くなって来た。とある横町を這入って行くと左側にシャボテンを売る店があった。もう少し行くと路地の角の塀に掛けた居住者姓名札の中に「寒川陽光」とあるのが突然眼についた。そのすぐ向う側に寒川氏の家があって、その隣が子規庵である。表札を見ると間違いはないのであるが、どういうものか三十年前の記憶とだいぶちがうような気がする。門も板塀も昔の方が今のより古くさびていたように思われ、それから門から玄関までの距離が昔はもっと遠かったような気がする。もちろん思い違いかもしれない。ただ向う側の割竹を並べた垣の上に鬱蒼と茂って路地の上に蔽いかぶさっている椎の木らしいものだけが昔のままのように見える。人間よりも家屋よりもこうした樹の方が年を取らぬものと思われる。とにかくこの樹の茂りを見てはじめて三十年前の鶯横町を取返したような気がした。 帰りにはやっぱり御院殿の坂が見付かった。どこか昔の姿が残っているが昔のこんもりした感じはもうない。 鶯横町の椎の茂りを見ただけで満足してそのまま帰って来てよかったような気がする。三十年前の錯覚だらけの記憶をそのまま大事にそっとしておくのも悪くはないと思うのである。 帰ってから現在の東京の地図を出して上根岸の部分を物色したが、図が不正確なせいか鶯横町も分らないし、子規自筆地図にある二つの袋町も見えない。ことによるとちょうどその辺を今電車が走っているのかもしれないのである。(寺田寅彦 子規自筆の根岸地図) 子規は、「漱石を送る」の詞書で 萩すすき来年あはむさりながら 秋の雨荷物ぬらすな風邪ひくな と送りました。 9月8日、漱石は日本を後にしました。漱石は、旅立つにあたり次の句を詠みました。 秋風の一人をふくや海の上 寅彦は、漱石が見送りに来なくてもいいという手紙を送ったにもかかわらず、横浜に赴きました。寅彦の日記には「先生が洋行するので、横浜へ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき、同行の芳賀さんと藤代さんは、揃って見送りの人々と景気の良い挨拶を送っているのに、先生だけは一人はなれた舷側にもたれて身動きもしないでじっと波止場を見下していた」とあります。
2022.01.12
コメント(0)
更に方面を変えて「絵は如何です」と聞けば、漱石氏は巻煙草を一本、長閑に燻らして、「好きですよ」と言下に応ずる、「お画きになるのですか」といえば「サア」と苦笑して「私が個人展覧会を開くという噂ですね、もちろん巫山戯た話でしょうが」と余程恐縮されたらしい。 それから岡本一平君の噂、錦絵の話、話題が次第に多方面になる、そういっては失礼だが、お室の様子から家居の具合など、何となく先生一流の絵心が窺われる、「色彩の趣味に富んでおられるようですが」といえば、「イヤ夏冬オッ通しの装飾で」と至極無造作だ。 日本人の西洋画のお話では、「日本人のが非常に劣ってるとはいえません、勿論西洋ので佳いのは非常に佳い、ガレリーには素ばらしい大作もありますが、ローヤル・アカデミーなどは案外なものですーー出品の条件は何んなことになっているか解りませんが、随分まずいのも麗々と並べてありますよ」と。 他に先生は謡をやられる、「これは謡うのではなく、怒鳴るんです……必要に迫られて」 と江戸ッ子らしい溌溂たる語気、「お身体はもう全然良いのでしょう、学校に出ていられる頃と、大した違はないように思われますが」といえば、「こう見えても、デリケートな時計のぜんまいのようなもので、すぐ狂います」と苦笑する。 続いて、先年修善寺におられる頃の話やら、先生と楯半子と共通な知人の噂、泰然自若と尻が据る、もう一つ「他にはとおせがみすると「矢張文芸ですねーー貴方はこっちに趣味をお持ちですか」といささか逆襲の形だ。 この頃の文芸界は、綱ッ引の急行列車だ、門外漢がこの流行を追ッ駆けて行くのは、並大抵の苦心ではないーーこんなことをお話すると、「しかしそれは無駄じゃありませんか、例えば私のような政治の門外漢が、内閣の更った後からそれを研究して行った処で、何の意味もないと同じことです、自分に確りした考があれば、強て流行をおう必要もありますまい」。「例えば絵にしても、近頃は立体派を行き過ぎた、一派の新らしいのがある位ですが、安井さんなんかにいわせると、ロダンがそもそも山師で、白樺の人達に騒がれる、ゴーガン、ゴッホなどはいうに足らんということです、そこへ行くと謙遜なセザンヌの方が何んなに宜いか解らないとーーいいますね」と。(猫の話絵の話) これは、大正4年8月25〜26日に報知新聞へ掲載された「猫の話絵の話」というインタビュー記事です。 この中には、安井曽太郎の話をひいて「ロダンがそもそも山師で、白樺の人達に騒がれる、ゴーガン、ゴッホなどはいうに足らんということです、そこへ行くと謙遜なセザンヌの方が何んなに宜いか解らない」と話しています。 では、安井曾太郎と漱石の間には、親交があったのでしょうか。芥川龍之介の『漱石山房の秋』には「西側の壁には安井曽太郎の油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の草花が、そうしてまた北側の壁には明月禅師の無絃琴という草書の横物が、いずれも額になってかかっている」とあり、漱石が宗太郎の絵を所有していたことが書かれています。 この絵は「麓の町」といい、大正4年10月に三越で開催された二科展の特別陳列として、滞欧作品44点が出品された中から、漱石が100円購入したものです。龍之介の親友で、洋画家・小穴隆一の『芥川龍之介の回想』「懷旧」には次のように書かれています。 瀧井君と僕は、芥川の案内で、一度、漱石死後の書斎を見たことがあった。書斎の次ぎの間は、仏間になっていたように思うが、そこの鴨居のうえにあった油彩、安井曽太郎の、十号程の風景画を見ながら、芥川は、「夏目先生は、自分には、丁度このくらいの細かさの画がいいといっていた」と、教えてくれた。 その画は、大正四年に、三越を会場とした二科第二回展に、特別陳列としてならべられた、四十四点の滞欧作のなかの一つで、終戰後、石井柏亭が書いていた「安井曽太郎」には、〔安井のこの時の陳列には四十五年西班牙(スペイン)旅行以後のものが多くを占め、四十二年フロモンヴィルの作であるところの「田舍の寺」などの、ミレかピサローかの感化を受けたようなものの僅かを交えたに過ぎなかった。そのミレ、ピサロー影響からセザンヌの感化を受けたものへの過渡期の諸作はすべてこれを省いてあった〕という一節があるが、僕はなんとなく、〔省いてあった〕というその部類にあてはまるもののように覚えている。(小穴隆一 芥川龍之介の回想 懷旧) 後期印象主義に傾倒していた安井曽太郎でしたが、後期印象派の人々でも理論に裏打ちされないゴーガンやゴッホ、彫刻界の印象派といわれるロダンも好きではなく、セザンヌが好みだったということのようです。 ロダンは有名なので、経歴などはカットしました。
2022.01.12
コメント(0)
明治33年6月20日、子規は夏目漱石に宛てて手紙を出しました。「夏橙壱函只今山川氏から受取ありがたく御礼申上候……風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(みなにあらず)」とあり、密閉に近い状態で送ったため、子規のもとに届いたときには夏橙がほとんど腐っていたというのです。 そのあとに「小生たとい五年十年生きのびたりとも霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候」とあり、自分の命があとわずかしかないことを子規は悟っていたようです。腐っていた夏橙に我身を重ねたのでしょうか。 子規は漱石の手紙に「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」という、イギリスに留学する漱石が子規と再び巡り会えるかどうかわからないという内容の短歌を添えました。 この年の夏、子規は「病牀に夏橙を分ちけり」という句を詠んでいます。詞書には、(梅沢)墨水が子規庵を訪れ、一緒に食べたとありますが、これは漱石が送ってきた夏橙かもしれません。 明治34年3月20日の「ホトトギス」に発表された子規の随筆『くだもの』には「その内でも酸味の多いものは最も厭きにくくて余計にくうが、これは熱のある故でもあろう。夏蜜柑などはあまり酸味が多いので普通の人は食わぬけれど、熱のある時には非常に旨く感じる」とあり、酸味の強い夏橙が火照った身体を求めてい流と記しています。 また、『松蘿玉液』には「夏橙、ザボンの類いには、俗っぽさがなく涼しい気分を与えてくれる。そんなに好きではないのだが、病気でご飯を食べたくない折には格別のものだと感じる」とあり、病床で夏橙を欲しがる気持ちが綴られています。 夏橙壱函只今山川氏より受取ありがたく御礼申上候。 御留学のこと新聞にて拝見。いずれ近日御上京のことと心待に待おり候。 先日中は時候の勢か、からだ尋常ならず独りもがきおり候処、昨日熱退きその代り昼夜疲労の体にてうつらうつらと為すこともなく臥りおり候。『ホトトギス」の方は二ヶ月余全く関係せず、気の毒に存候えども、この頃は昔日の勇気なく、とてもあれもこれもなど申すことは出来ず、歌よむ位か大勉強の処に御坐候。小生たとい五年十年生きのびたりとも、霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候。 年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん 風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(ミナニアラズ)よはめんごにゆずるふしつ 余譲而晤。不悉。 六月二十日 規 漱石兄 試験と上京と御多忙のことと存候。(明治33年6月20日 漱石宛書簡)
2022.01.10
コメント(0)
拝啓。御手紙をありがとう。小説はとうから取掛るべきでありますが、横着のためついつい延びまして、その結果、編輯上御心配をかけまことに申訳がありません。なるべく早く書いて御催促を受けないで済むようにします。テニエルの切抜もありがとう。読んで見ました。九十四まで生きた人はあんまりないようですね。一平さんの漫画はまだ出版になりませんか。一平さんの画は百穂君の挿画などより評判がいいようです。一平さんの赤ん坊が死ん〔だ〕ことは始めて承知しました。今度会ったらどうぞ忘れずに弔詞を述べて置いて下さい。私は一平さんに妻君があろうとも思いませんでした。実際わかい顔をしているではありませんか。右まで。拝。 四月十五日 夏目金之助(大正3年4月15日 鎌田敬四郎宛書簡) 隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。のぞいて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいていたのである。三四郎がのぞくやいなや隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。絵はうまくできているが、そばに久方の雲井の空の子規と書いてあるのは、なんのことだか判じかねた。(三四郎 3) 「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」 美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。(三四郎 6) 小林はのっそり立ちどまった。そうして裄の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。(明暗 88) テニエルは、ジョン・テニエルのこと。イギリスの画家で、「パンチ」に掲載されたユーモアと諷刺に富んだ絵で人気を博しました。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿画で知られています。「ポンチ」とは「パンチ」が訛った言葉で漫画のことをいいます。 このお礼は、テニエルの死んだことを報じた3月1日の「東京朝日新聞」紙面の「切抜」または外国の新聞や雑誌を送ってきたためのものだと思います。鎌田敬四郎は朝日新聞の記者で、大阪朝日整理部長でした。
2022.01.09
コメント(0)
明治33年3月3日、子規は夏目家の長女・筆子に雛人形を送りました。熊本は旧暦だから、この時期に届いても間に合うだろうと送ったのです。そして、その中には絵を書き出したことを伝えています。 拝啓。小包にて小雛さし上候。熊本の雛祭は陰暦に違いないと家人のはからい也。こんなもの陳腐なるやも存ぜず候えども………… 相変らず忙しいので閉口致おり候。余り忙しいためぼんやりとして仕事手につかず、この頃は何もせずに絵をかきおり候。それがまた非常に面白いのでいよいよ外のものがいやになり候。一枚見本さしあけんかとも存候えど大事の秘蔵の画を割愛してかえって笑われるのも引き合はずとそのまま秘蔵、ひとりながめて楽をおり候。呵々。 君の謡は何流なりや。金春か宝生か観世か。 三月三日夜 規 金之助様(明治33年3月3日 漱石宛書簡) この年の6月、子規はアズマギクの絵を送りました。そして、「これは萎みかけた処と思いたまえ。画がまずいのは病人だからと思いたまえ。嘘だと思わば肱ついてかいてみたまえ」と書き「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね」という歌を添えました。 晩年の子規は、絵に夢中になりました。 明治32年、中村不折が進呈した使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵が誉められたため、子規は次々に絵を描くようになります。明治33年の『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」とあり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。 最晩年の子規は写生を日課としました。5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。『病牀六尺』では、34年8月7日に「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記しています。 夏目漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くてかつ真面目」と記しています。続く「平凡な特色を出すのに、あの位時間と努力を費やさなければならなかった」の文は、子規への複雑な思いに満ちています。この評は、子規の辛さを思いやる漱石の逆説なのでした。 ○十年ほど前に僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃為山君と邦画洋画優劣論をやったが僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に為山君が日本画の丸い波は海の波でないということを説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけにこの実地論を聞いて半ば驚き半ば感心した。殊に日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙にかかわらぬという論でもってその驚きを打ち消してしもうた。その後不折君とともに『小日本』にいるようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めていた。この時も僕は日本画崇拝であったからいうことが皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。その内ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味が出来る、これ位のことは前から知っていたのであるけれどそれを画の上に推し及ぼすことが出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じことであるということが分って、始めて眼が明いたような心持であった。けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると何だか癪しにさわってならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時虚心平気に考えて見ると、始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知ることが出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。その後は西洋画を排斥する人に逢うと癇癪に障るので大に議論を始める。終には昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際 君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべっている。その気障加減には自分ながら驚く。 ○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄ぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙のべて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いてそれが秋海棠と見えるは写生のお蔭である。虎を画いて成らず狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛くしんであった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子はしきりに見ていたが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っているのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点した顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。 ○僕の国に坊主町という淋しい町があってそこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけにそこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知らずその内の人が外へ出ようとすると中庭に大男が大物を抱いている画があるので度々驚かされる。今日もまた例の画がかいてあったとその内の人が笑いながら話すのを僕が聞いたのも度々であった。その時の幼い滑稽絵師が今の為山君である。 ○僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(正岡子規 画) 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵をはたいて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟さんで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎しぼみ掛かけた所と思いたまえ。下手のは病気の所為だと思いたまえ。嘘だと思わば肱を突いて描いてみたまえ」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子(ガラス)の瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才をかして直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得えた試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(夏目漱石 子規の画)
2022.01.08
コメント(0)
スコットの浪漫趣味とモリスの浪漫趣味とは大分違うようです。モリスはチョーサーに似ているといいます。そのチョーサーは詩人ではあるが、写実派という方が適当であります。すると浪漫主義を中世主義と解釈せぬ以上はスコットとモリスとを同じ浪漫派に入れるのが妙になって来ます。今度はモリスとゴーチェを比較する。誰が見ても同じ範疇では律せられそうもない。それでも双方とも浪漫家で通用しています。(創作家の態度) その教授Walter Raleighがその著The English Novel (二七一頁)中において吾人に告ぐる事実なり。数年前物故せるMissYongeのSir Guy Morvilleを著わすや0xford学生の熱心にこの書を迎えたる意気は実に驚くべきものありき。某聯隊の如きは一人としてこれを手にせざる士官なきに至れりという。Rossetti, Wm. Morris, Burne-Jonesの徒また争って書中の主人公を取って、わがモデルとせりと称せらる。星移り物遷ること半世紀ならずして、また一人のYongeを説くものなく、Sir Guyの存在をすら忘れたるが如し。(文学論 第五編第六章) 輓近Wm. Morrisが自から古代の雰囲気を作って、好んでその内に住し、かねて読者をして杳邈たる過去の世界に逍遥せしめたるが如きもまたその好例なるを失はず。(ろ)の場合を名けて連結の復興という。(用字の生硬なるは難あるべきも)式において示せる如く、古代の類を異にせる二個以上の意識がーー二個以上の潮流というも可なりーー現在のそれと合して、彼是融釈せる場合をいう。(文学論 第五編第六章) HolbornにてSwinburne及Morrisを買う。(明治34年7月9日 日記) 「漱石山房」にあった蔵書は、門人の小宮豊隆が東北大学法文学部の教授をつとめていた関係で、東北大学の図書館に遺されています。その中にはイギリス時代に購入した「The Earthly Paradise」「Lectures on Art」「Art and Its Producers, and the Art and Crafts of Today」と、E.Mugnussonとともに訳した「Volsunga saga」があります。 ウィリアム・モリスは、19世紀イギリスの詩人・デザイナーとして活躍し、それぞれの分野で大きな足跡を残しています。漱石が購入した著作のうち、「The Earthly Paradise」はジョン・ラスキンの影響を受けた叙事詩「地上の楽園」です。モリスは、他にも架空の世界を舞台にした『世界のかなたの森』などの著作があり、モダン・ファンタジーの父とも言われているのです。 訳書は北ヨーロッパの伝説を集めたものですが、それ以外の2冊は美術書となっています。 僕はモリスをアール・ヌーヴォーのデザイナーとして捉えていて、詩作のあることは知りませんでした。 今回調べてみると、モリスは、機械作りの低品質の物が氾濫している近代社会の大量生産を嘆き、職人の手作業を重視するアーツアンドクラフツを提唱します。中世に憧れて、モリス商会を設立し、インテリア製品や美しい書籍を生み出します。モリスのデザインは植物の模様を取り入れ、優雅なデザインを作り出しました。 モリスの生活と芸術を一致させようとするデザイン思想とその実践は、アール・ヌーヴォーにとどまらず、世界的に大きな影響を与え、モダンデザインの源流になったともいわれています。
2022.01.07
コメント(0)
幼い頃、泣き虫で知られていた子規は、大きくなってからもその癖は治らなかったようです。 子規は漱石にも泣き言をいい続けました。 明治33(1900)年2月12日、子規は夏目漱石に長い手紙を出しました。熊本から送られた見事な大きさの金柑に対する礼状にかこつけ、気心の知れた漱石には怒りや愚痴、恨み言や泣き言を書き連ねた手紙を、子規は送ったのです。 今回の手紙は、「例の愚痴談だからひまな時に読んで呉れたまえ、人に見せては困る、二度読まれては困る」で始まります。このことで、本音に満ちた手紙であることが漱石はわかりました。 漱石へのお礼は、届いた金柑への驚きでした。内藤鳴雪は、金柑をひねりまわして見て「これはどうしても金柑以外のものじゃない」、叔父の藤野漸は「これは金柑じゃない」、子規は「この金柑を寒いところに植えると小さくなるのであろう」といったら皆が「まさか」といったなど、周りの人々の反応を記しています。 こうしたお礼が終わると、子規の不満が爆発しはじめます。 忙しくてたまらない。原稿を書こうとすると客が来る。昼間は来客のために仕事ができないので、夕方から書こうとすると、夕方から熱が出る。時候が良ければ徹夜してでも書くのだが、寒さで書くことができない。浣腸と繃帯取替をして頑張ろうとするが、風邪をひいて咳が出てきた。だから原稿が書けない。今回の手紙は腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄への手紙にこうした文句のあれこれをしたためることになった。 以下、こまごまとした近況報告が続くきますが、ようやく子規の本音が現れてきます。 『日本』は売れない、だが『ホトトギス』は売れている。『日本』新聞社長の陸羯南氏は、子規に新聞掲載記事の題材や体裁について時々いうけれど、僕に記事を書けとはいわない。『ホトトギス』を妬むこともない。子規が『ホトトギス』のために忙しくなっていることは十分知っているため………… と、子規は涙を流します。 子規は、「ホトトギス」の成功を喜びながらも、「日本」新聞の売上の悪さを心配しなければならないという立ち位置の微妙さを綴って、「何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐ涙が出る」と涙もろくなったことを嘆くのです。 しかし、子規は「この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困るよ」と強がります。癖になってしまった涙もろさに「君がこれを見て『フン』といってくれればそれで十分」なのだといいます。手紙は「金柑の御礼をいおうと思うてこんな事になった。決して人に見せてくれ玉うな。若もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから」で終ります。 子規は、漱石が送ってくれた金柑のほろ苦い甘さにつられ、自身の甘えを誰かに聞いてもらいたくなったのでしょう。しかし、その相手は、心を許した漱石にほぼ限られていたのでした。 例の愚痴談だからひまな時に読んでくれたまへ。人に見せては困る、二度読まれては困る。 御手紙はとくに拝見。金柑は五、六日前に相届候に付かたがたもって御礼かたがた御返書可差上存候いながら、それはそれはなさけなき身の上とても申すべき身の上、一通り御聞なされて下されたく候。病気激発の厄月は四、五、六月の際なれども勢力のもっとも少きは十二、一、二月に御座候。これはいうまでもなく寒気のために御座候。しかるに小生の職務上もっともいそがしきは十二月一月に御座候(コレハ『日本』がいそがしいのと地方の新聞雑誌などのたのまれ有之、『ホトトギス』は一番骨なれどもこれは毎号同じこと也。寒気と多忙のために十二月と一月始とに忙殺せられ候ところへ二月分の雑誌など書かざるべからずとくる。いざ書こうとすると客が来る。昼間は来客のために全く出来ず、これは毎日同じこと也。夕刻より熱が出る。時候がよければ熱いとて構うたことはない。徹夜してでも熱を押てでも書く。それがなさけないことにはこの頃の寒さではとても出来ぬ。現に只今もさしたる熱がないようだから原稿書こう、今夜は徹夜でもするぞと大奮発して先ず浣腸と繃帯取替とをする(このことが老妹の日々の大役だ)。平生ならば小生は浣腸後少し疲労するのみにて、むしろ安心するけれど体に申分あるとき、または痔疾に秘結とくると後ヘも先きへも行かぬことがある。陸の葬儀などのため四日目に今日は浣腸したけれど成績は中等であったが少し冷えて風引いたか咳が出てきた。折角の奮発の原稿はかけぬ。腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄ヘの手紙認めることに相成候。箇様な失敬な申条なれど情願御許被下たく候。 御旅行の由。 寅彦時々来る。 俣野来て不平を漏らし候故、小生も立腹暴言を放ち候処、俣野曰く私が先生を困らしに来たように夏目先生に思われては面目がございません。 金柑御送被下候由の御手紙に接し、何事かと少し怪み候処、大金柑に接し皆々驚き申候。鳴雪翁ひねりまわして見て曰く、どうしても金柑じゃ外のものじゃない。藤叔曰く、こりゃ金柑じゃない。小生曰く、この金柑を寒い処へ植ると小さくなるのであろう。皆々曰く、まさか。 東京も大寒気の由(小生には分らず)インフルエンザ流行、十人の内五人以上はやられ候。小家も皆やり申候。小生も人並にやり健全な母さえ二日半就褥致候。小生記臆已来始めての大病に御座候。皆々軽症なれども小生はそれがためとはなくて毎夜発熱、時によると夜十二時頃より突然発熱夜明に至りて熱さむために徹夜致候など腹の立つことに候。翌日も昼間は来客ありて眠る事出来不申候。その日の夜はタ刻より発熱夜の十二時過熱さめ候故、夕飯を夜半にしたためて(ちょっと御馳走を御披露申上候。粥二椀、叔父より貰いたての豚のらかん三きれほど)これから『ホトトギス」の原稿(まだ一つも出来おらず)に取掛ろうと思うと眠くなったから「寝ろ寝ろ」ということに変って夜半過より寝て今朝は昼飯まで睡眠、非常に愉快になり候。しかしタ方まで来客絶えずタ飯すみて浣腸、繃帯替(この二つが同時に行わねばならぬこと故下痢症に掛ったときは何とも致方なく非常の困難を窮め候。この時は浣腸は不用なれど「さぁ糞がしたい」というてから尻の繃帯を取りはずし、お尻を据得るまでに早くて五分、遅て十五分を要し候。その五分乃至十五分間糞をこらえる苦は昨年始めて経験致侯。屎をする際に時々貴兄が兄上の糞をとられたという話を思い出し候)。この浣腸繃帯替すみ、いざ原稿という処で咳、そこでこの手紙と、こういう都合で、この後で原稿が出来るか出来ぬかが問題なり。 小生の欲望というと二月の月一ヶ月だけは何もせずに(気が向いたら俳句分類位はする)休みたくてたまらんのだ。しかしそんなことを高浜などにいいたまうな、まじめに心配する男だから。『日本』は売れぬ、『ホトトギス』は売れる。陸氏は僕に新聞のことを時々いう(これはただ材料や体裁などのこと)けれども僕に書けとはいわぬ、『ホトトギス』を妬無というようなことは少しもない、僕が『ホトトギス』のために忙しいということは十分知っている故……………………(コノ間落涙)。 僕に『日本』へ書けとはいわぬ、そうしていつでも『ホトトギス』の繁昌する方法などをいう。それで正直いうと『日本』は今売高一万以下なのだからね(売高のことは人にいうてくれたまうな)僕からいえば『日本』は本妻で『ホトトギス』は権妻というわけであるのに、とかく権妻の方へ善く通うという次第だから『日本』へ対して面目がない。それで陸氏の言を思い出すと、いつも涙が出るのだ。徳の上からいうてこのような人は余り類がないと思う。(その陸が六人目に得た長男を失うて今日が葬式出会ったのだ、天公、是か非かなんていう処だね) それで陸の旧案を今取りて今年は和歌の募集などというて少しばかり骨を折った。それでも骨折の度はとても『ホトトギス』には及ばぬ。僕が歌論を書いたからとて新聞は一枚もふえるわけはない(田舎には歌の新派というものはまだ少しもないから)けれどもこんなことをしていると新聞に多少の景気がつくのだ。あたかも吉原のひやかし連が実際の景気に関係するように。『日本』へ少し書く。歌の方を少し研究すると歌にのり気が出来て俳句の方へ少し疎遠になる(貴兄の謡と俳句と両方ヘはといったような処でもあろう)。二月分ノ『ホトトギス』の原稿はまだ一枚も出来んのだ。察してくれたまえ、僕がこの無気力でこの後一週間位の間に『ホトトギス』を書いてしまわねばならぬと思うて前途を望んだ時の僕の胸中を。 高浜も寝入るそうだからとてもまだ原稿は出来まい。ついでにいうがこの前の『ホトトギス』は二千四百位売れたそうだ。 僕は「落涙」ということを書いたのを君は怪しむであろーがそれはねこういうわけだ。君と二人で須田へ往って僕も目を見てもろうたことがある。その時須田に「どんな病気か」と聞いたら須田は「涙の穴の塞がったのだ」というた。その時は何とも思わなかったが今思い出すとよほど面白い病気だ。その頃はそれがためでもあるまいが僕はあまり泣いたことはない。もちろん喀血後のことだが、一度、少し悲しいことがあったから「僕は昨日泣いた」と君に話すと、君は「鬼の目に涙だ」といって笑った。それが神戸病院に這入って後は時々くようになったが、近来の泣きようは実にはげしくなった。何も泣くほどのことがあって泣くのではない。何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐに涙が出る。僕が旅行中に病気する、それを知らぬ人が介抱してくれるということを妄想する、それがもー有難くてはや涙が出る。不折が素寒貧から稼いで立派な家を建てたと思うと感に堪えて涙が出る。僕が生きている間は『ホトトギス』を倒さぬと誓ったことがあると思うともー涙が出る。……………………(落涙)。日本新聞社で恩になり久松家で恩になったと思うても涙、叔父に受けた恩などを思えば無論涙、僕が死んで後に母が今日のような我儘が出来ないだろうと思うと涙、妹が癇癪持の冷淡なやつであるから僕の死後人にいやがられるだろうと思うと涙、死後の家族のことを思うて涙が出るなぞははずかしくもないが、僕のはそんなもっともな時にばかり出るのではない。家族のことなどはかえって思い出しても涙のないことが多い。それよりも今年の夏、君が上京して、僕の内へ来て顔を合せたら、などと考えたときに涙が出る。けれど僕が最早再び君に逢割れぬなどと思うているのではない。しかしながら君心配などするには及ばんよ。君と実際顔を合せたからとて僕は無論泣く気遣いはない。空想で考えた時になかなか泣くのだ。昼は泣かぬ。夜も仕事をしている間は泣かぬ。夜ひとりで、少し体が弱っているときに、仕事しないで考えてると種々の妄想が起って自分で小説的の趣向など作って泣いている。それだからちょっと涙ぐんだばかりですぐやむ。やむともー馬鹿げて感ぜられる。狐つきの狐がのいたようだ。それでもこんなことを高浜に話すとすぐに同情を表して実際よりも余計に感じる、そうすると『ホトトギス」が益々遅延するかも知れぬから言わずに置く。僕の愚痴を聞くだけまじめに聞て後で善い加減に笑ってくれるのは君であろうと思って君に向っていうのだから貧乏鬮引いたと思って笑ってくれたまえ。僕だって涙がなくなって考えると実におかしいよ。……………………しかし君、この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困流よ。それはね妙なもので、嘘から出た誠、というのは実際、しばしば感じることだが、女郎でもはじめはいい加減に表面にお世辞いっていた男についほれるようなもので、僕の空涙でも繰り返していると終に真物に近付いてくるかも知レぬから。実際君と向合うたとき君がストーヴこしらえてやろかというたとて僕は「ウン」といっている位のもので泣きもせぬ。けれど手紙でそーいうことをいわれると少し涙ぐむね。それも手紙を見てすぐ涙も何も出ようともせぬ。ただ夜ひとり寝ているときにふとそれを考え出すと泣くことがある。自分の体が弱っているときに泣くのだから老人が南無あみだあみだといって独り泣いているようなものだから、返事などは起こしてくれたもうな。君がこれを見て「フン」といってくれればそれで十分だ。 僕ガが愚痴っぽくなったのは去年の手紙中『ホトトギス』の文などで大方察してはいたろーがこれほどとは思話なかったろー、これほど僕を愚痴にしたのは病気だよ。もっとも僕は筆をとると物を仰山に書く方だから、喀血以前でも「病身である」だの「先ず無事でいる」だのと書いて菊池に笑われたことがある。この手紙などを見せたら菊池は腹の中で笑うであろう。それは笑われても仕方がない。僕もめめしいことでいいたくないのだ。けれどいわないでいるといつまでも不平が去らぬ。こう仰山にいってしまうとあとは忘れたようになって心が平かになる。…………これだけ書くと僕も夢のさめたようになったからもはややめる。そうなると君が馬鹿な目を見たと腹立てはしないかと思うようになってくる。ゆるしてくれたまえ。 新らしい愚痴が出来たらまたこぼすかも知れないが、これだけいうて非常にさっぱりしたから、君に対して書面上に愚痴をこぼすのはもうこれ限りとしたいと思うている。金柑の御礼をいおうと思うてこんなことになった。決して人に見せてくれたまうな。もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから。 明治三十三年二月十二日夜半過書す。 僕自らも二度と読み返すのはやだから読んで見ぬ、変な処が多いだろー。(明治33年2月12日 漱石宛書簡)
2022.01.06
コメント(0)
ミレーの晩祈の図(晩鐘=アンジェラスの鐘)は一種の幽遠な情をあらわしている。そこに目がつけば、それで沢山である。この画には意志の発動がないというのは、我慢して聞いてやっても好い。発動がないから画にならんというなら、発動の管から文芸の世界を見る蛙のようなものであります。(文芸の哲学的基礎) およそ文学者の重んずべきは文芸上の真にして科学上の真にあらず、かるが故に必要の場合に臨みて文学者が科学上の真に背馳するは年も怪しむに足らざるなり。しかして文芸上の真とは描写せられたる事物の感が真ならざるを得ざるが如く、直接に喚起さるる場合をいうふに過ぎず。一代の天才Milletの作品中に農夫が草を刈るの図あり。ある農夫これを見てこの腰付にては草刈る事覚束なしと評せりと聞く。成程事実よりいえば無理なる骨格なるやも知れず。されども無理なる骨格を描きながら、毫も不自然の痕迹なく草を刈りつつあるとより外に感じ得ぬ時に画家の技は芸術的真を描き得たりというべし。芸術的真を描き得たりとせば科学上の真を発揮し得たりや否やの問題は遂に観者を煩わすに足らざるべし。今世の画家しきりに人体の組織を研究して日もまた及ばざるが如し。彼らの作物をして一寸たりとも科学上の真に近づかしめんとするの点において誠に嘉すべき志を抱けるを疑わず。しかも一意にこの方面に馳せて遂に芸術上の真を学ぶことなくば、その作品は終に失敗たるを免れ能わざるべし。(文学論 第三編第二章) 仏の名流Milletもまた一生を落魄の裡に送りしもの、その始めて写実家としてあらわるるや、天下一人の彼を顧みるものなし。ここにおいてか彼は実際生活を究めんと欲して、去って田園のうちに隠れ、貧に處し、名を忘れ、ついに労働者の家に死せり。彼を解し得たるものは高尚なる二三の評家ありしのみ。彼の死して屍の未だ土中に安置せられざるに、運命は不遇の画家を翫弄して、順逆の境を一夜に変じ、有名なるThe Angelusに二十四万円の価格を附するに至れり。(文学論 第五編第六章) 芸術家でも時に容れられず世から顧みられないで自然本意を押し通す人は随分惨憺たる境遇に沈淪しているものが多いのです。……仏蘭西のミレーも生きている間は常に物質的の窮乏に苦しめられていました。(道楽と職業) これらに登場するミレーは、フランスの画家ジャン= フランソワ・ミレーのことです。ノルマンデイーの農民の子として生まれたミレーは、シェルブールに出て絵を学び、1837年に市の奨学金を得て、パリに移りドラロッシュに絵を学びます。様々な絵を描きましたが、1848年の二月革命の後で開かれた無審査サロン出品の「籾をふるう人」から、農民を描く画家となりました。 1849年からバルビゾン村に移ったミレーは、テオドール・ルソーやコローと親しくなり、ルソーの家の納屋に集まり、バルビゾン派を形成しました。 漱石の同時代人で、親交のあった浅井忠は、工部美術学校でバルビゾン派の影響を受けた画家フォンタネージに学んでいます。
2022.01.05
コメント(0)
子規に俳句を送り続けていた漱石に、「ホトトギス」への原稿依頼が届いたのは明治32年2月のことです。 松山で明治30年1月に発刊された「ほととぎす」は、明治31年10月に東京へ移り、高浜虚子のもとで「ホトトギス」として生まれ変わります。子規は、そのためにさまざまな内容の原稿が必要でした。 拝啓。大いに御無沙汰に打過候内に、はや大分暖く相成候。家庭の快楽多き者は音信稀なりという原則は、小生昔より自らこしらえてためし候処、大概はずれ不申。しかるに家庭の快楽なき小生がかく御無沙汰に過ぐるは寒気のためと『ほととぎす』のためとに有之候。年始以来は全く寒気に悩され、終日臥褥すること少からず、時には発熱などあり、全体に身体疲労致候ため、『ほととぎす』の原稿思うように書けず。もし四頁以上の原稿を書くとなるといつでも徹夜致し、そして後で閉口致すような次第に有之候。小生は前より夜なぺの方なれども、身体の衰弱するほどいよいよ昼は出来ず、夜も宵の口は余り面白からず十一、二時の頃よりようよう思想活発に相成候。徹夜の翌日は何も出来ず不愉快極り候。翌夜寝て、そのまたの日はまた原稿のために徹夜せざるぺからざるように相成、月末より月始にかけては実に必死の体に候。しかし最早大分暖く相成かつ近来は発熱一向に無之少々くつろぎ申候。二、三日前神田まで出かけ候。今年の初旅に候。生憎虚子留守にて(妻君小児をつれて芝居にでも行きしかと察す)瓢亭宅に到り蒲焼をくい申候。 その節、蒲焼の歴史を考え見るに、貴兄らと神田川にてぱくつきし以来のことと覚え候。うまさは御推察可被下候。 雑報 虚子の子は今日が初めての誕生日也。初雛の景況は『ほととぎす』にて御覧の通也。至って性の善き子にて一向泣き不申候。 碧梧桐は『大平新聞』第三面の主筆と聞え申候。 錬卿は近日富山房を出て高等女学校に這入由。『ほととぎす」はかなりに売れる由。 錬卿や矢一や寿人などは織田得能の法華経の講義を聞く由。 矢一は蕪村集輪講にも来るはず。 近日博士が一束ほど出来る由。松本文は如何。 極堂霽月は下火と相見え候。 近来拙宅俳句会の顔は全く新しく相成候。早稲田から来る人二人あり。欠席なし。 極堂は市会議員に相成候。 請願『ほととぎす』へ何でも一つお書き被下まじくや。この頃は紙数少しく増加せし故、六頁や七頁位はまとめて出せるようにいたすべく、何でも一つ御願い申候。材料はむつかしくてもやさしくても専門的でも普通的でも何でもよろしく候。 ○ 別紙玉稿遅蒔ながら御返し申候。近日の梅の御稿は面白く候。これは次便に譲り申候。 昨夜も夜ふかしにて今日は何も出来ず、かえって御無沙汰見舞の一書と成申候。 昨年の御作の詩は近日湖村の方へ廻すべく候。以上。 三月二十日 規 金様 漢字一つ二つ 全 愈 二字とも入冠なり。人冠にあらず。 内兩この二字も入也。人にあらず。(正岡子規 明治32年2月20日 夏目漱石宛書簡) 漱石が漱石の要望に答えたかどうかはわかりませんが、『ホトトギス』に式の容態が芳しくないと載っていたため、見舞いの文を送っています。また、そこには寺田寅吉の紹介を忘れませんでした。そして、漱石は俳句より監視の方に関心が向かっていると書いています。 拝啓。本月分『ほととぎす』に大兄の御持病とかくよろしからぬやに記載有之、御執筆もかなはぬ様相見候。さぞかし御苦痛のことと奉遥察候。目下如何に御坐候や。漸々暑気相催し候えば、随分御注意御療養専一と存候。 俳友諸兄の近況は『ほととぎす』紙上にて大概相分り候。いつも御盛のこと羨敷存候。小生は頓と振い不申。従って俳句の趣味日々消耗致すように覚申候。当地学生間に多少流行の気味有之候。寅彦というは理科生なれどすこぶる俊勝の才子にてなかなか悟り早き少年に候。本年卒業上京の上は定めて御高説を承りに貴庵にまかり出ることと存候。よろしく御指導可被下候。 近来『日本』の文苑欄は如何致候や。湖村先生病気に候や。俳句に遠ざかるとともに漢詩の方に少々興味相生じ候処、文苑なきためもの足らぬ心地致候。〔以下略〕(夏目漱石 明治32年5月19日 正岡子規宛書簡) 拝啓。永々の御無音如何御暮被成候や。小生もまずまず無事に相くらし申候。 煖炉のことありがたく候。先日ホトトギスにて燈炉というを買てもらい、かつ病室の南側をガラス障子に致しもらい候。これにて暖気は非常に違い申候。殊に昼間日光をあびるのが何よりの愉快に御坐候。こんな訳ならば二、三年も前にやったらよかったと存候。しかし何事も時機が来ねば出来ぬことと相見え候。『ホトトギス』に付て発行遅延の御注意ありがたく候。これは第一小生の病、第二虚子の無精という原因に基き候。もとより虚子は責任を重んせざるにては無之、自分にては精々働く心がけなれど、とかく思うように参らず、畢竟もとは身体の不健全より起ることと存候。御馳走と運動とを勧め候えども、それとても急に実行は出来ぬこと困り入候。小生の病は今更致し方なけれど、今少し荷を軽く致(募集俳句選抜、随問随答、俳句分類などを他人に譲り)たく、さすれば間にあう位には出来可申かと存候。しかし今の処、小生の荷を軽くするは種々の点において不得策と存候に付、喘ぎ喘ぎつとめ申候。『ホトトギス』の発行遅延も今は名物の如く相成、先月は二十五日出来上りにてニ千三百部印刷の処、即日売切。それがため新聞へ頼んで置いた広告を売切の広告にとりかうるという始末。全盛を極めをり候。 小生はこの全盛がこわいので他日衰退に傾くようでは、かえって『ホトトギス』のために憂慮すべきことと半喜び、半心配致おり候。虚子はとにかく大得意にて殊に青々を雇い入るなどのことありしため多少の嫉妬を受け申候。虚子もこの頃に至りて始めた世に立つの法を知り得たりなど申おり候。『日本』の方も余り景気よろしからず、ために景気づけんとの説度々起り候。かくの如き場合には小生が一番に腕をまくらねばならず、さりとて『ホトトギス』は抛ってもおけず、『ホトトギス』を書けばそれで手一ぱいという始末故、実に弱り果候。しかし本職という点からいうても、今までの恩になりたる点からいうても、新聞の方をおろそかにするは良心にすまぬことなれば、十分働くつもりに候えども、なかなかそうも参らず頭の中は多少煩悶の姿に有之候。小生の頭は一刻も平和ということなけれど、全く平和の境涯も永くは得処るまじく、やはり忙中に閑を求め、煩悶の中に平和を求むるが適当致おり候にや。随分困った人間に生れたるものに候。もとより平和の境涯がほしいからというても、今更そんな方に小生を容るるの余地は無之、田舎の中学で二十円の雇夫子たるに満足せぬ以上は、いくら苦しくとも一生懸命に筆と原稿紙にしがみついておらねば喰う道はなかるべく候。朝は寝る、昼は人が来る、夜は熱が出る、熱を侵して筆を取るかまたは熱さめて後夜半より朝まで筆取るか、いずれにしても体は横課、右を下、右の肱をついて、左の手に原稿紙を取りて、物書くには原稿紙の方より動かして行く、不都合なこと、苦しいこと、時間を要すること、意到って筆従わざるために幾度か磋鉄して勢のぬけること、弊害と困難は数えきれぬほどに候。その上に外出して材料を拾い出すことが出来ぬという大不便あり。仏様に聞たら小生の前身はよほどの悪人なりしことと存候。 思ひやるおのが前世や冬ごもり 何事もあきらめて居るふゆ籠 湯婆燈炉あたたかき部屋の読書哉 釈迦に問ふて見たき事あり冬籠 十二月十七日 規 金之助様 御学校にて文学士(国文学坂本四方太)一人御入用無之候哉。(正岡子規 明治32年12月17日 夏目漱石宛書簡)
2022.01.04
コメント(0)
そうこうしている内にホーガース(一六九七年〜一七六四年)が出現した。 このホーガースという人は疑もなく一種の天才である。天才ではあるがよほど片寄った方である。彼の絵を見ると色が非常に好いという訳でもない。また今の人のやかましくいうデッサンなども(余の如き素人の眼から見ても)調っておらん。しかしながら彼は当時の風俗画家として優に同時代の人を圧倒するのみならず、一種の意味からいえば、恐らく古今独歩の作家かも知れない。彼は他の画家の如代希朧の諸神や古代の勇者などを題目とすることをいさぎよしとしなかった。彼は気取った上品振った高尚がった画風を唾棄したのである。彼はジョージ時代の人間であってジョージ時代の人間を描いて満足しておった。しかも彼の見付る所は普通の画家の注意する画らしい処ではない、普通に詩的と認められたる処ではない。彼は特に汚苦しい貧乏町や、俗塵の充満している市街を択んだ。そうしてその内に活動している人間は、決して真面目な態度の人間ではない、必ず或る滑稽的の態度を見わしている、あるいは諷剌的意義を寓している。その大胆にして如何なることをも写して憫らぬことは、彼の画集の『前』”Before"と『後』"After " と名づけられたる二枚が発売禁止を命ぜられたのでも分かる。(たまたま坊間にこの二枚入りのままの画集が出るとすこぶる高価に売れる)しかのみならず彼は絵をもって、絵の本分以外なる事件の発展をさえ描こうと試みた。有名なる"Marriage a la Mode" などは六枚続きになっている。これはある富貴な費族が結婚をする始めから、結婚後の家庭の有様を通して、遂に不幸に終るまでの経歴を、彼一流の風俗画で示したものである。第一は結婚の約束の場。第二は朝飯の場て亭主は宿酔、女房は欠伸の体、両人とも冷淡で無頓老てどう見ても夫婦の情合らしいものが現われておらない所。第三は既に財産を蕩尽した亭主が健康を害し医者に見てもらってる図。第四は女房が自宅で大勢を漿めて放埒を尽して遊んでいる所。第五は女房の不義をしている処を見付けて、亭主が剣を抜いて飛び込むと、かえって姦夫のために剌されて無惨な最後を遂げる。第六即ち一番しまいの一枚には女房が毒を仰いで死ぬ処が描いてある。そこへ阿爺が来て娘の手から金剛石の指環をはずすというたような皮肉がある。この絵は今でもNational Galleryに懸っていると記憶する。この外にも"Rake's Progress"とか"Harlo[sProgress" とかいうのがある。プログレスとは経歴とか、一代記とか訳すべぎもので、前者は即ち放蕩児の生涯を、八枚続きに延ばしたもの、ーー財産を相続した、のらくら息子が、芸人幇間の類を呼び集めてむやみに散財をしたり、茶屋酒を浴びたり、賭場へ行ったり、借金で牢ヘ入ったり、最後に狂掘院へ送られて、市が栄えるまでを順々に描き分けたものである。後者は即ち名前の示す如く、売女の一生を前同様の筆路をたどって、容赦なく写し出したものである。 ホーガースの画は疑もなく卑猥であるある点に至れば殆んど残忍に近い感を起す。臆面もない割酌もない画である。のみならず、故意に、もしくは無理無体に、露骨を街い過ぎるから、一種の意味の理想画で、また一種の意味の写実画及び風俗画である。それでこれを写実画風俗画という方面から見ると当時の文学と密接の関係があるに相違ない。果せるかな。フィールヂングなどを読むと、その滑稽的なる点において、その無遠慮なる点において、その諷剌的なる点において、しかもその倫理的なる点においてよく類似している。フィールヂソグの書中にはホーガースの画きそうな題目がいくらもある。またホーガースの画にはフィールヂソグが解題しそうな所がいくらもある。(文学評論) ホーガースとは、イギリスのロココ美術・風刺画家・版画家のウィリアム・ホガースです。ホガースは独自の道徳的風俗画としての様式を確立し、写実的でありながら人間の内面的・表裏的性格を感じさせる風俗画で人気を博しました。 ホーガスは、1697年に教師の息子としてロンドンで生まれ、17歳の時に銀細工師エリス・ギャンブルの徒弟となります。1720年、両親の死をきっかけに独立し、銀皿の紋章、挿絵などの仕事で生計を立てつつ、セント・マーチンズ・レイン・アカデミーで本格的に絵画を学び始めました。翌年に風刺銅版画集『南海泡沫事件』を出版し、好評で迎えられました。 代表作となる1732年の銅版画集『娼婦の遍歴』を出版しホーガス流ともいわれる道徳的風俗画様式を確立し、大きな反響を得ます。その後『放蕩一代』や『当世風結婚』などの銅版画集を発表し、画家としての地位を不動のものとしました。 ホーガスは、王立アカデミーの初代校長で、イギリス近代絵画の創始者として知られており、漱石もロンドン留学中にホガースの作品を見て、作品の技術はさておき、その個性あふれる作風を「一種の天才である。恐らく古今独歩の作家であろう」と称賛しています。
2022.01.03
コメント(0)
熊本第五高等学校に来た漱石の家に、教え子の寺田寅吉が訪れたのは明治31年6月の頃です。 寅彦は『漱石俳句研究』で「明治三十年頃の先生の句は一体に脂がのっていて特にいわゆるレトリックに重きを置いて作られたもののように思う。丁度その頃私が初めて先生のお宅を尋ねた時に、色々俳句というものの説明を聞いた。その話の中に、俳句というものはレトリックの煎じ詰めたものだというような意味のことをいわれた。その時の話と思い合わせてなおさら私にはそう思われる」と記しています。 また、『夏目漱石先生の追憶』にも、俳句についての考え方が書かれています。「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある」という説明を聞いた寅彦は自分も俳句をするようになりました。 熊本第五高等学校在学中第二学年の学年試験の終わったころのことである。同県学生のうちで試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪していわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第するとそれきりその支給を断たれる恐れがあったのである。 初めて尋ねた先生の家は白川の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町であった。「点をもらいに」来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の陳述を黙って聞いてくれたが、もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたからである。その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、その夏休みに国へ帰ってから手当たり次第の材料をつかまえて二三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。東向きの、屋根のない門をはいって突き当たりの玄関の靴脱石は、横降りの雨にぬれるような状態であったような気がする。雨の日など泥まみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二室が共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣の向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書斎であったらしい。「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側にかかっていた。(寺田寅彦 夏目漱石先生の追憶) 漱石は生涯におよそ2600句を残していますが、松山と熊本時代に全俳句の7割を作っています。イギリス留学や子規の死のために句作は少なくなって行きます。江藤淳編『朝日小事典 夏目漱石』には「現在、漱石詩はすべてが注解されているが俳句はまだである。作品数が桁ちがいに多く、駄作もしたがって多いので、やむをえないことといわざるをえない。漱石句を注解し鑑貸批評した文章は多いが総体的なものでないというこの一点と、その当然の帰結として、個々の句への評価が人によりさまざまであるという点とは、他の作者の句に対してなされた場合以上に、評釈を利用するうえで注意を要することである」と書かれています。
2022.01.02
コメント(0)
絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。「人魚(マーメイド)」「人魚」 頭をすりつけた二人は同じことをささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、「なんだ、何を見ているんだ」といいながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。(三四郎 4) 『三四郎』のこの描写に影響を与えたのが、ウォーターハウスの「マーメイド」です。この作品は、漱石がロンドンに留学していた1901年にアカデミーに認められた作品ですが、1892年には同じ題材による油彩スケッチがあり、『三四郎』に記述される「背景は広い海である」という記述からこちらの方を見ていたのではないかといわれています。1901年作の背景は、海に切り立った岩の背景になっているからです。 ウォーターハウスは、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスといい、イギリスの画家です。 両親が画家であったため、ローマで生まれたのち、5歳のときにロンドンサウス・ケンジントンに移ります。1870年に英国王立美術院に入学するまでは、父・ウィリアムの元で学んでいました。 当初の画風はアカデミック様式でしたが、のちにラファエル前派の様式や主題を取り入れました。ウォーターハウスは、ギリシャ神話やアーサー王伝説などに登場する女性を描いた作品で知られ、「シャロットの女」3部作やハムレットの「オフィーリア」は、漱石作品にも影響を与えています。「シャロットの女」は、アーサー王物語の登場人物・騎士ランスロットの愛を得られぬことを知った悲しみのあまりに死を選びます。この題材は、1888年「シャロットの女」、1894年「ランスロットを見つめるシャロットの女」、1915年「影の世界にはもううんざり、とシャロットの女は言う」と、3つのバージョンで描かれています。これらの絵は、アルフレッド・テニスンの同名の詩から描かれましたが、「マーメイド」もやはりテニスンの詩「人魚」からインスパイアされています。 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中にただ一人住む。活る世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし。 春恋し、春恋しと囀る鳥の数々に、耳側て木の葉は隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮かに写る羽の色に日の色さえもそのままである。 シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩てまた鏡に向う。河のあなたに烟る柳の、果ては空とも野とも覚束なき間より洩れ出いづる悲しき調と思えばなるべし。 シャロットの路行く人もまたことごとくシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯の寛き衣を纏いて、長き杖の先に小さき瓢を括しつけながら行く巡礼姿も見える。またあるときは頭よりただ一枚と思わるる真白の上衣被りて、眼口も手足も確と分ちかねたるが、けたたましげに鉦打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩をやむ人の前世の業を自ずから世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。 旅商人の脊に負える包の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚、瑪瑙、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸には映ぜぬ。…… ぴちりと音がして皓々たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉微塵になって室の中に飛ぶ。七巻八巻織りかけたる布帛はふつふつと切れて風なきに鉄片とともに舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、ちぎれ、解け、もつれて土蜘蛛の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期の呪いを負うて北の方かたへ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分のわきを受けたる如く、五色の糸と氷を欺く砕片の乱るる中にどうとたおれる。(薤露行 2鏡)
2022.01.01
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1