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ただいま四国から戻ってきました。 飛行機で大阪に行き、バスで高松に行ったまではよかったものの、徳島に移動してから西日本はかなりの雨でした。 東京に戻ってきたら雲りながら晴れているので買った傘を持って帰るのも一苦労です。 明日も朝から会議(最近やけに仕事しちゃっている・・・)なので、気を抜かず行きたいと思っています。
2010年01月31日
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ニュースでも取り上げていましたが、有楽町西武百貨店、河原町阪急百貨店が閉鎖されることになりました。 時代が変わってきたと感じる方も多いのではないでしょうか? 確かに今までの「百貨店」の形態でこのご時世を生き抜くのは大変なものです。 それと反比例して「ユニクロ」や「しまむら」などが増益しています。これらの店舗には百貨店特有の「しがらみ」がありません。百貨店は同じお店が入り続けることが多いですが、結果の出ている専門店街は入れ替わりが激しいものです。存続するには当然努力が要ります。 しかし、現在結果の出ている企業は「必ず」落ちる時がきます。なぜなら百貨店や衣料品店は「女性相手が中心だから」です。 結論から言いますと、大多数の女性、と一部の男性に「ブーム」として受けることは「いつかはそのブームが必ず去る」ことを意味します。 マスコミやドラマで取り上げられたもの、ネットで噂になったものに多くの消費者は「一時的に、盲目的に」飛びつきますが、だいたい後が続きません。なんも考えないでかっているから。 企業にとって大事なことは「存続すること」。 今、不況で苦しんでいる企業は多いですが、ここがまさに「企業のチャンス」だと思います。上述した「今をときめく企業」は必ずいつか落ちる時が来ます。
2010年01月30日
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本日から出張にでます。 今日は3時起きで準備しています。 6時(もうすぐ)家を出て、8時代には飛行機、9時には大阪に入ります。 1か月ぶりの大阪訪問、仕事しながらも楽しみです!!
2010年01月29日
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せっかく広島に来たんで、新たにできた新広島市民球場にも行ってみました。 旧球場が広島市の中心部にあるのに対し、新球場は広島駅まで路面電車で出てから歩いて10分くらいのところにあります。 広島駅の東側は今でも町市場みたいな商店がならんでいて風情があるんですが、それが途切れていきなり新球場が現れます。 広島という地方都市にしてはガランとした所であることが写真からもわかります。 当日(1月6日)はもちろん何も行われてなく閑散としていました。千葉マリンみたい。 来年は中身も見てみたいと思います。
2010年01月28日
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先日広島に行った折、広島市民球場を観てきました。 今では新球場となり、「旧広島市民球場」の看板が掲げられていますが、当時のまま残っています。記帳をすればだれでも入れるようです。 入ってみると高校生が野球の練習に使っていました。レストランや球団事務所はがらんどうになってて、原爆の鶴が飾ってありましたが、トイレに入ると「広島東洋カープから」と書いた注意書きの看板が残っているなど、せまるものがありました。 スタンドへ出てみるとグランド以外に自分一人しかいません。焼きそば屋のあった所も閉鎖されていて入れませんでした。 正面玄関にはセリーグの監督方のサインと一言色紙が飾られているんですが、みんな「今までありがとう!」という差しさわりない文章になっていますが、やはりこの人は違う。中日の落合監督の一言。 「これからのぜひ人工芝で!」 でした。やはりタダものでない監督は一言も人と違う。
2010年01月28日
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今週からいく出張日程が決まりました。 最初、四国入りだったのですが、途中大阪によってから四国の高松、徳島に行くことになりました。聞くところによるとあちらも寒いとか・・・・・ したがって、旅行の準備、監査資料の準備と読み込みなど、かなりハードに動いています。 監査は過去の問題点の改善点を経営陣に報告するのも大事な仕事ですから、過去数年分の支店資料を頭にいれなければいけません。 今回は、歴史所もみれなそうです・・・・
2010年01月27日
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長岡京の跡は住宅地に点在しているわけですが、ここもその一つです。ずはり「築地跡」 「つきじ」ではありません「ついじ」。要は長岡京と長岡宮の間を隔ててた壁の跡です。 当時の宮を囲んでいた壁ですから、5メートル以上の高さ、2メートル近い厚さがあったと思われます。木の板で囲いを造ってから土を何層にも固めていったもので、保存復元されているのは、その基礎部分ということにまります。 これだけみると、住宅地になんなの???と思われると思いますが、長岡京跡の数少ない露出した史跡として貴重です。
2010年01月27日
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長岡京の跡は地名で残っていますが、京都と大阪の中継地で交通の要所となっていることから、住宅が密集していて史跡の保存はとても難航してます。 でも、ところどころを発掘して保存できるところを保存していますので、まるで「小公園」みたいに残っています。これは滋賀県の大津京跡でもみられます。 その長岡京の中心、皇居のあった長岡宮跡が特定されていて一部が公園として保存されています。 その公園になにやら不思議な棒が建ってます。これは「宝幡」というものの跡で下の部分が復元されているものです。 なにか儀式がある時、宮の中心にある大極殿の前に7本の柱を立てていたのですが、これが掘立でたてるものなので発掘するとどこにたっていたかわかるんですね。 そこでわかる所が復元されているのです。もちろん当時はこの柱が高くて旗が建っていました。これだけみると「何???」という感じですが、日本で復元されているのは平城宮とここのみです。 とっても貴重なものですね。
2010年01月27日
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かつて、都は複数あった・・・: 前のブログでちょっと触れたのですが、これには興味深い発掘記録があります。 奈良時代、もちろん平城京が都だったのですが、聖武天皇時代、コロコロ都を変えていました。恭仁、難波、信楽という具合です。あまりにも短時間の都だったため、また平城京に戻ってしまったので奈良時代と総称しているわけですが、確かに都が変わっていました。 その中でも特に難波京だけは平城京と併行して存続していたといわれています。 難波京は大阪城の南あたり、上町台地の上にあった都で、瀬戸内海の入り口でもあり要所でした。 なぜ併用したのかわかっていませんが、当時の大唐帝国が長安、と洛陽という2つの都をもっていたのを真似たかもしれません。 しかし、長岡京の跡からは、難波京と平城京の瓦が2種類出てきていることから、ここで都を一つにまとめてしまったのかもしれません。 でも、平安京に遷都したとき、都は1個しかないけど中国の真似をしたいとばかりに、平安京の左を洛陽、右を長安と名づけていたようです。 後に平安京は左側(東側)が栄え、右側が衰えていきます。すなわち洛陽側が発展しました。 いつしか京都のことを洛陽の「洛」というようになりました。上洛とか洛中なんて言葉は今でも使いますね。 この話は昔ブログで書いた記憶がありますが、そういうことです。
2010年01月26日
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皆さんの中にはご存じの方が多いと思います。かつて「長岡京」という都があったということを。 この長岡京、だんだんと中身がわかってきていて最近は推定ですが復元図や復元模型まで作られています。 長岡京は桓武天皇山部が奈良の平城京から移転させ10年間都だったところ。たった10年ですが日本の首都でした。 今までは10年しか機能しなかったこと、遺跡があまり出てこないこと(住宅が多く発掘しにくい)から、中途半端で移転させたと思われていましたが、発掘も一部進んできてかなりちゃんとした都であることがわかってきました。だから推定図もできるんですね。 上は北側かわ見た推定復元図です。 今の阪急、JRが走る交通の要所で手前が今の京都市内、奥の山が天王山と男山ですね。山の向こうは大阪です。 この都の特徴は川が近くにあり交通至便であることと、北から南へ傾斜しているので水の流れがよかったこと。また、今まで奈良と難波みたいに複数の都があったのをひとつにまとめたこともあります。実際瓦は奈良と難波から転用されているといわれています。 もしかしたらずっと都だったかもしれません。 次回は、かすかに残った都の跡を観てみたいと思います。
2010年01月26日
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昔、このブログで福島県の慧日寺のことを書いたころがあります。 この慧日寺、会津地方にあるのですが、このたび金堂が推定復元されついに公開されました。 このお寺は平安時代初期、徳一というお坊さんによって創建されたもので、当時流行った山岳寺院の一つです。まだ、東北が未開の地だったころの東北では「洗練された文化」を発していたことは間違いありません。 このお寺の面白いところは、屋根が瓦葺でなこと。このような建物はなかなかと関東以南ではお目にかかれません。おそらく発掘で瓦の出土がないことからの想像だと思いますが、この地方で瓦を焼く窯の技術がなかったのか、経費的なものか定かでありません。 現在、さらに金堂北部の講堂などの基壇修復、門の復元工事などが行われていますが、まわりはうっそうと茂った森で小川が流れていたりするので、その景色の中にこの朱塗りの金堂が建っている景観は心がなごみます。 会津へ行ったら、鶴ヶ城だけでなく、ぜひお立ち寄りください。
2010年01月25日
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最近、内部統制関連の本を読む機会が増えました。 内部統制については、アメリカで発展したものですから、今までの書物も殆どアメリカナイズされたものばかりでした。 日本人お得意の「猿まね」ってやつですね。バイブルは全て英文の翻訳本というありさま。 しかし、最近はそれに疑問を持ち始めている監査人も入る様子です。 やはり日本人の企業には見合わないものも出てきているのでしょう。国際会計基準が導入されるとはいえ、経営に打撃が出ては問題です。 今後、独自発展することを期待しています。
2010年01月25日
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井口俊英の書いた「告白」を読みました。古書店で見つからなくてネットで買いました。 ご存じな方も多いと思いますが、かつて「大和銀行ニューヨーク事件」という事件を起こした人物が赤裸々に当時の状況を描いたものです。 簡単にいうと、日本のバブル絶頂前後にニューヨークで簿外取引を行って莫大な損害を出してしまったことを日本の頭取に報告したところ、大和銀行の経営陣が大蔵省に報告しておきながら、米連邦への報告を2カ月も怠り、ついにはアメリカから追放されたというお粗末な話なんですが、当時の日本企業の現実を見れるような気がします。 銀行、一般企業がかじ取りを誤り、バブルを自己企業の成長と勘違いしたお粗末な連中の哀歌がただよっています。 不正自体いけないことなのですが、この事件は経営陣が株主代表訴訟までおこされていますから哀れとしかいいようがないですね。 ちなみに私が勤める会社も創業社長がかじ取りを誤り、バブルで借金経営をした企業でした、その創業者が病気で死んでくれたので、なんとか経営再建できましたが、「人間の奢り」はだれもが持っているもの。不正していなくてもいつ自分が不正をしてもおかしくない。 そんな気持ちを持って日々の業務にあたりたいものです。
2010年01月24日
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私は奈良県に行った折、東大寺をはじめとする観光地から車で山を越えて、奈良盆地の裏側の丘陵に行きました。 そこは一面茶畑になっているのですが、その茶畑の急な階段を上った所にそれはありました。「太安萬呂(おおのやすまろ)」のお墓です。 必ず一度は歴史で勉強した人物したはず。そうです古事記の作者「というか書き写した人」として教科書に登場してくる人物です。 実は、この安萬呂、どんな人物だったかわりませんでした。架空の人物説もあったのですが、昭和50年代、たまたまここから墓碑が発見されたことから新聞にも載る騒ぎとなりましした。 墓碑には安萬呂が実在したことはもちろん、平城京の何処に住んでいたまで書いてありました。今では堂々と「実際存在した人物」として教科書に載っている次第です。 当時のお墓は何箇所かわかっていますが、ここは復元保存してあります。 すでに古墳を造る時代は終わり、このような盛り土に火葬した骨壺を埋葬するタイプだったようです。 奈良は遷都1300年とかで盛り上がっていますが、ありきたりの観光地のみならず、こんなところも触れてみてほしいものです。
2010年01月24日
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今月末なんですが、四国に出張に行くことになりました。場所は高松と徳島です。 高松も徳島も一度行っているんですが、再度の訪問となります。前回は和歌山からフェリーで徳島に入って高松から飛行機で帰りました。 航空券を購入しようとしたところ、高松はANA便があるんですが、徳島はJALしか飛んでないんですね。というわけでJALで行くことになりました。 やっぱり僻地はJALだった・・・・・徳島の観光地、すご~く少ないです!!
2010年01月23日
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因幡国庁は発掘が進んでおり、模型まで再現されています。 史跡の近くに万葉歴史館みたいのがあってそこに展示されています。国府(県庁所在地)の国庁(県庁)としては、このタイプが典型的なものであったと思われます。 中央に正殿、横に脇殿という建物が配置されています。 諸国におかれていた国庁ですが、政治的なものだけに、のちの残存状況はとても悪く、史跡として残ってるのは数か所しかありません。あとは「場所はわかっているけど遺跡が出てこない」というパターンが多いですね。 因幡国は珍しく残ったケースです。ちなみに隣の伯耆国(鳥取西部)も遺跡が出てきていてただいま発掘中です。 今後、各地で見つかるといいですね。
2010年01月23日
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鳥取県にやってきました。 鳥取市から車で数十分の畑が広がる綺麗な盆地があります。まわりは山に囲まれ、まさに「風光明媚」な感じ。 この平地の中央あたりになにやら赤い柱が並んでいる地区が突然みえてきます。 なんじゃこりゃ??? これ、実は立派な「国指定史跡」である因幡国庁跡なんです。 律令時代、日本中に今の県庁にあたり国府がおかれ、その中に国庁が置かれていたんですが、鳥取県の東である因幡国の県庁がまさにここなんです。 律令期は4年に一度、国司という県知事(当時は受領といった)が赴任してきて、任期が終わると都に帰りました。 赤い柱は発掘調査から、当時の建物の柱のある位置を示しています。 ここの国司には大友家持が赴任したことでも有名です。奈良時代の後期、家持は因幡や越中(富山)、上総(千葉)の国司も歴任しました。
2010年01月23日
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オリックスのタフィーローズ選手が来期チームでプレーしないことが決まったそうです。 私は大粒の涙を流しながらニュースを観ました。 ローズ選手・・・・こんなすばらしい選手はなかなかいません。 外国人でありながら退場記録の樹立、暴行はもちろん、日本語も話せるので暴言での退場も多いという素晴らしい選手でありました。 上のお句はたまたまネットで拾ったものです。あまりにすばらしいお句なので転載させていただきました。 「退場の 理由は 顔が侮辱的」 う~ん、すばらしい! 何のことかわからない方はこちらの動画をご覧ください。 言葉だけでなく「顔」で退場になった選手がいるでしょうか?日本プロ野球史上誰もいないのではないでしょうか? ローズ選手は暴言のみならず、日本人お得意の「言葉で伝えない以心伝心」をも心得ているのです。アメリカ出身ながらワビ、サビを理解したローズ選手の素晴らしさは多くの(日本に数パーセントもいないであろう)オリックスファンの心に刻み込まれました。 がんばれローズ選手!!!できれば他球団で退場記録を更新してほしい!! 奄太郎たっての願いです。
2010年01月22日
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岐阜城の今後の目玉はやはり山下の信長が住んでいた館の状況です。 現在、発掘調査中で一部が復元されています。おそらく館ですから、わかれば庭園やどのような生活をしていたのかがわかるので興味深深です。 上の写真は信長居館跡で復元されたカギ型に曲がった当時の道路、この奥、写真でみると写真を撮っているところより上に居館があったといわれています。 発掘でいろいろなものが出てくるでしょう。 信長の生活の様子も分かる日の近いと思います。
2010年01月22日
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岐阜城は山の上にありますので、歩いて登ることもできますが観光客はロープーウェイで登ります。 山下から数分で金華山を登って、そこからさらに徒歩で山の尾根を歩いてやっと天守にたどり着きます。 はじめに「なんちゃって天守」と書きましたが、信長時代の天守はもちろんこんな形ではありませんでした。というよりどんなものだったか推定はされていますが確証はありません。 ちなみに天守には復元と復興があります。 復元とは当時の資料から忠実に再現したもの。白石城、白河城、掛川城、大洲城などですね。もちろん木造で復元しています。 それに対して復興とは「お城っぽい建物」で当時の資料を度外視しているもの。この岐阜城や浜松城(浜松は天守すらなかった!)横手城、墨俣城なんかですね。見る価値ないです。 また、復興でも、外観は当時の再現なんですが、中が全く違うものもあります。会津若松城や名古屋城、岡山城、広島城、熊本城なんかがそうですね。 話を戻しまして、上の岐阜城の写真は私が撮ったものです。天気のいい日で復興天守にしても、いかにも時代を感じるように撮れたな~と感じました。ボロいデジカメなんですが・・・ 信長ファンや道三ファンの人は多いのでしょうか、たとえ復興とはいえ趣のある天守と感じるでしょうね。 このような完全な山城て天守が当時のまま残っているのは岡山県の備中松山城くらいではないでしょうか?その松山城も行ってみたのでこんどアップしたいと思っています。 次回は、山下の信長の住んでいた跡を観てみたいと思います。
2010年01月21日
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岐阜城は中世にお城が造られてからも要所として機能していましたが、やはり有名なのは斉藤道三の居城になってからです。当時は「稲葉山城」と呼んでいましたね。 しかし、道三ののち孫の代になって織田信長に攻略され、信長が「岐阜」と命名、居城としてました。岐阜が栄えたのはまさにこの時期です。 当時の資料は絵図が残されているのみで、具体的な城郭の様子はわかりませんが、面白いのは天守が山の上と山の下に置かれていたことでしょう。このようなケースはほかに聞いたことがありません。 写真は当時の想像図ですが、山下に居館が見えます。ここに天守があったわけですね。 山城では、いちいち山の上で生活するのは不便なので、このように居館を下に設けることが多くあり(根小屋という)ました。 日本に来ていたフロイスは当時の岐阜を「楽園」と呼んでいますが、それほど繁栄していたのでしょう。
2010年01月21日
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岐阜城は金華山全体がお城になっていて、頂上部分にコンクリートで複製した「なんちゃって天守」が建っています。 岐阜の山を見下ろすその場所からの景色はとても絶景です。 岐阜の街とはるかかなたにぼんやりと見える名古屋の街、北は山がぽこぽこ建っていて、その奥に高い山脈が連なっています。 写真は西側を観たところ。 下には長良川、奥には山脈が見えますが、その山脈の途切れているあたりが関ヶ原です。 関ヶ原は古戦場として有名ですが、名前からわかるとうり、古代は「不破関」という関所がおかれていて、都のある畿内とその東をわけていました。関所の東だからこの場所は「関東」といいます。 というころは岐阜も中部地方も「関東」だったわけです。当時の古文を読むと都の人は関ヶ原や鈴鹿の関所の東を「関東」と呼んでいます。今じゃ「関東地方」のことになってしまいました。 鎌倉幕府が出来たころ、都では「鎌倉幕府」なんて呼び方はなく、幕府のことを「関東」とか「鎌倉」と呼んでいました。要は「何やってるかわかんないけど関所の向こうの連中」という感じでしょうか?そこから転化して関東地方のことになったんでしょうかね? 今も関ヶ原は新幹線も高速も通る要所であるわけですが、そのすぐ真正面にあるのがこの金華山、岐阜城なわけです。 だから中世の初めはらこの山はお城が造られていたようです。
2010年01月20日
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去年は、岐阜にも行ってみました。もちろん出かけたのは岐阜城のある金華山。 織田信長でおなじみのお城ですね。 岐阜は江戸時代は岐阜城のある金華山が廃城となり、岐阜駅南側に加納城という平城を造ってそこが岐阜の中心でした。 ただ、石垣のみ残っているので、岐阜観光に行くとやはり岐阜城に行く人が多いのではないでしょうか? 写真はマップル観光のWEBから転載したものです。今回はちょっとその話をしてみたいと思います。
2010年01月20日
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JALが会社更生法を申請しました。 実は、私の勤務先の日航関係者の方がいます。どんな心境でしょうか? 会社の中でもJALの話題と株価の動向に経営陣と目をみはっていました。 私、個人的には日航に乗らない主義でして、国内はJAS(JALと合併しちゃいましたが)かANAを使っています。個人的にはANAのマイレージを持っていてANAしか乗りません。 中国行くときには中国の航空会社やノースウエストを使っていました。 こんな私ですが、仕事で出張する折に、どうしてもJALに乗らなければいけない時がありんですね。それはJALしか飛んでいない場所に行く場合、たとえば青森とか帯広なんかに行く時乗りました。どちらも空席だらけでした。 社内的な問題もあると思いますが、赤字路線に無理やり就航させている事実がある以上、JALだけの責任じゃないと思いますね。 ただでさえ、神戸空港や、静岡富士山空港(って富士山遠いやん!)、茨城空港などのふざけた空港が乱立したのも要因ではないでしょうか? だいいち茨城空港なんて何処行きが飛ぶんだ?静岡空港のあるとこなんか都市じゃなくて町だぞ! あくまで全国の利便性を考えるなら特殊法人に戻したほうがいいのではないかと思います。
2010年01月19日
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今日は、会社で監査会という会議があります。 私は企業の監査人として全国を回っているわけですが、その結果を経営者に報告するというものです。 会社の経営者は内部統制上、会社の内情を知る必要があるので、この会議で全国の支店の問題点を把握するというわけです。 監査人はどのこ企業でもこのテの会議があるのですが、この直前が一番神経が高ぶるものです。調査忘れはないか?調査方向が間違っていないか?自問自答をして本番を迎えます。 テストの前みたいなもので、もう4時前に起きてしまいました。 これから提出文書の推敲をして発表に備えます。
2010年01月19日
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昨日、小林繁日本ハムコーチが亡くなってしまいました。驚いたどころじゃなかったです。 江川事件が起こったころ、私はまだ6歳。野球観戦もしたことがなかったです。大人になった今ではわかりますが、当時は全くわからなかったです。 私の家は父親が「野球には興味がないけど一応巨人ファン」という典型的なタイプで、母親側の祖父が富山出身であり(富山は巨人軍を創った正力松太郎の出身地で巨人ファンが多い)バカがつくほどの巨人ファンでした。 私が小学校に入り野球を始めてから、ヤクルトやパリーグに興味を示したことから大人たちには「変わった子供」と思われていました。友人の母親など「巨人ファンじゃないのはおかしい」と平気で抜かすヤツがいたほどです。 心配した私の両親は、巨人阪神のチケットを手に入れて父親が私を後楽園に連れていきました。小林投手を観たのはそれが初めてでした。 思い出に残っているのは、満員のスタンドと隣の酔っ払った隣のおじさんに千円もらったこと、そして阪神ファンでもない死んだ父親が小林投手が三振を取ると大喜びしていたことです。「俺はあの小林は好きなんだ」といってたな。当時はなんでだかわからなかった。それに親の期待と裏腹にますますパリーグにはまってしまった。 ただ、友人には小林投手のファンは多かったですね。必ず投げるマネするヤツがいました。 江川事件も理解して再び小林投手を観たのは近鉄のコーチとしてでした。梨田監督と真弓コーチと「男前三人衆」とよばれ、男前とはいえない選手ばかりの近鉄の看板になっていたころでした。 優勝したとはいえ、投手陣がすごいチーム防御率をはじき出し、何度もバフィのウインドブレーカーを着てマウンドに向かう小林コーチを観ました。「体型が変わらないな」というのが印象。 あの年は優勝してるのに投手陣の成績が悪くて辞任したんでしたね。 今年はどっかで再び観れると思っていたので残念でなりません。
2010年01月18日
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この間、たま~にムショウに食べたくなる有楽町のジャポネのパスタを食べに行きました。 あの必ず行列ができている店です。しかもオッサンばかりのお店。 私は昼間行くと混むので夕方や昼過ぎに行くことにしています。 必ず食べるのは「バジリコのレギュラー」。みなさん大盛りとか、その上のサイズを食べていますが、私はこれで十分。太ってしまいますしね。 混んでいる店は好きではないんですが、この店はすいていれば好きです。
2010年01月18日
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そういえば、今日は地震の日でしたね。 神戸の地震から15年ですか・・・・早いのか遅いのか・・・・ あの年の前年、神戸に行って数カ月後に、この間観た場所があんなに変わってしまって驚いたどころではなかったですね。 もちろん野球を観に行ったんですが、ビールをおごってくれたおじさんはどうしたのかな?とか、世間話に花が咲いたおばちゃんは生きているかな?とか、神戸で親切にしてもらった名前も知らない人々のことを考えました。 今年も神戸は4回も行きましたが、震災があったとは思えないくらいの街になっています。 近いうちにまた淡路方面に行く予定がありますが、震災を思い出すと思いますね。
2010年01月17日
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仙台図屏風を参照してください。広瀬川に大きな橋がかかっていますね。 仙台城は崖と川という自然なディフェンスを活用していますが、その川が広瀬川でして、大橋という橋が一本かかっていて城下町との連絡橋となっていました。 現在でも大橋はありますが、江戸時代は今の橋の少し北側にあり、川に直接橋桁をいれているというものでした。 上の写真をご覧ください。川の底に均等に丸い穴があいているのがわかるでしょうか?これが江戸時代の大橋の跡だといわれています。初めてみると何の穴かわかりません。自分もはじめてこれを観た時、東京に帰ってきて知ったのを覚えています。 ただ、当然深く打ち込んだわけでもなく、広瀬川自体が蛇行していて氾濫しやすい川なので、何度も流されその都度かけなおされたそうです。 当時の人は相当苦労したでしょう。その痕跡が川に空いた穴なんですね。
2010年01月17日
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仙台城は、下の屏風でもわかるように、天然の地形をフルに利用したもので、あまり人工的な部分は多くないのですが、本丸正面と、門の周りには石垣が使われています。 上の石垣は、本丸正面の石垣を下から眺めたもの。近年修復されたものです。ここは下が車道になってるので、その安全への配慮もあったのではないでしょうか? 築城当初はこの石垣の手前と奥の角の部分に三階建ての櫓が建っていました。地元では、この櫓を復元する話があるらしく、石垣整備の折に発掘調査も行われて、複数回修復されたことなどがわかったようです。 仙台城は場所こそ変わりませんが内部が最初と終わりで相当変わったお城の一つなんですが、この場合、どの時期の建物を復元するのでしょうか?おそらく政宗築城時のものなんだと思います。復元は資料の少ない上代のころは別として、資料がある近世のものはいかに正確に時期を特定して復元するべきだと思います。 たまたま乗ったタクシーのおじさんと話しました。 「石垣がずいぶんきれいになったね」 「この上に櫓復元する話がありましたからな~」 「でもいつ建つの?」 「いや~、無理でしょうね、財政的に。観光目的で騒いでるだけですよ。」 「でも最近なにやら歴史ブームとかでお客来てんじゃないの?」 「それはNHKの大河ドラマで伊達政宗やってたころだけですよ。それに比べりゃ少ないで す。あの時は驚くくらい仙台城行く人が多かったな~マスコミのすごさを知りましたよ」 やっぱり大河ドラマというのはすごいらしい。視聴者は右へ倣へだし、観客は特定場所に殺到する。田舎からみればいい収入源だし。ホントにあったことと錯覚してしまうんでしょう。 大河ドラマもそうですが、歴女とか、歴史に詳しい人が増えましたが決まって戦国だの幕末だの坂の上の雲みたいにチャンバラやってる時ばかりがクローズアップされてる気がします。人あっての商売だからしょうがないですがね。 政宗で食ってるような仙台の町なのでこれ以上いいませんが、政宗だらけの仙台来ると考えてしまいます。
2010年01月17日
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仙台城は、江戸時代以前からお城はあったのですが、伊達政宗によって拡大されました。当時は「千代」と書いていたようです。 政宗の時代は、まだ城郭機能がひつようだったことから、青葉山と広瀬川にはさまれた崖の上に造られました。 しかし、その子忠宗の時代になると、わざわざ上までいくのも面倒なので崖の下に大きく敷地をとって二の丸を増設。そこを住居兼役所とし、それ以降、仙台城の機能は二の丸が中心になります。 本丸はもしもの時のために存在はしましたが、火災などが発生しても復興できなかったものも多く、しだいに廃れていきました。城郭機能が役所機能に変貌する典型的な「江戸時代の城郭」です。 ですから、仙台観光した人が仙台城といっている「仙台城本丸跡」は政宗以外のお殿様のいる場所ではなかったことになります。 上の絵は「仙台城図屏風」という有名な仙台城を描いた絵です。後の時代の推定も入っていますがとても綺麗な絵だなと感動した中学時代を思い出します。 この屏風の左の崖上が本丸、右側の平らな部分が二の丸です。ちょうど中心部に大手門と復元された隅櫓があり、手前に広瀬川が流れています。 こうみると完全に本丸と二の丸が「分離」しているのがわかりますね。
2010年01月16日
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去年は仙台城へも行ってみました。 仙台城に行ったのはもう何回目だろう・・・と思いながら出かけましたが、石垣がきれいに整理されているのには驚きました。前に行った時はもっと草ボーボーだったけど、切り込みのレンガみたいな石垣になっちまって・・・・ 仙台城はご承知、「伊達政宗の城」として有名で、「あの政宗が造るわけだから、さぞかし名城なんだろう」と思う方も多いと思いますが、当時(江戸初期)新たに築城されたお城に多くみられるように、以外にチンケなお城だったりします。 特に仙台城は時代の変遷とともに大きく衣替えしたお城ですので、個人的には大好きなんです。今回はそのあたりについて触れてみたいと思います。 上は仙台城のシンボルの隅櫓、もちろん復元。隣に大手門があり、ここが仙台城の正門にあたりました。
2010年01月16日
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今日、私は所用で病院にいっていたのですが、生憎読みかけの本や音楽も何も持たずに来てしまいました。待合室の時間は一時間以上・・・・どうするか?? 近くの古本屋に駆け込んで手に取ったのが、本ではなく漫画の「監査役野崎修平」。 なにげなくページをめくってたら面白くなり7冊もかってしまいました。 自分が監査人をやっているので監査役の仕事は知っていますし、企業が問題を起こす過程(本書の場合は銀行)がわかりやすくて面白く読みました。 かなり前に出版された本ですが、バブル前の「監査役ったら会社来てお茶飲んで将棋打ってる人」というふざけた日本企業から、真の監査役機能が問われだした時代の監査役がよくわかります。 私の会社もそうですが、監査役がのんびりしてませんからね。今日も日本中歩いています。 そういう意味では、バブル前の日本は相当「おかしな」企業が多かったんでしょうね。
2010年01月15日
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今期、まじめにBクラス入りを目指すオリックスのファンを関東で拡大するためにオリックス子供クラブ、通称「牛っ子クラブ」を勝手に結成しました。 このクラブは、子供たちに真面目に成長してもらうため、オリックスを応援することで 「どんなに野球が上手くなっても間違ってもこんなチームに入ってはいけない」ということや、「弱いものでも大事にしよう」「少数意見を大事にしよう」ということを教えていくことが目的です。 まずは、私の友人T氏の愛息「やまとちゃん」と入部させようとし、自ら教育係をかってでたところいきなり父親に殴られたので、女友達Mの息子を勧誘したところ「変なこと教えないで!」と一蹴。 しかたがないので、甥の「ゆうま」(写真 4歳)を強制的に入団させました。 東京ドームに連れて行ったらオリックス外人コンビの連打で肝心な時に1点取れないくせに一挙に7点も取ってしまい「弱いチームほど勝つ時は大勝」という典型的な試合を見せてしまいました。 牛っ子クラブ1号だったゆうまは今では野球に目もくれずサッカーボールをおっかけています。したがって現在会員0人!! 今後どうなるのか??
2010年01月15日
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大内氏が活躍した山口では、当時の大内氏の館跡が区画ではっきり残っています。 現在は龍福寺というお寺の境内になっていますが、ここが大内氏の館、「大内氏館」です。 私が初めて訪れた時は普通のお寺で館跡の看板くらいしかありませんでしたが、その後発掘調査でさまざまなことがわかってきました。 その中でも庭園が最低三か所あることがわかり、そのうち2つの復元が試みられひとつが公開されています。 これが上の枯山水庭園。 写真上の滝つぼから水が蛇行して流れるさまを表しています。当時はこの枯山水に面して写真左側に建物が建っていたことがわかっていて縁側の下を流れてました。また、実際はもっと幅が広いこともわかっています。 建物がどんなものだったかはわかっていませんが、庭園のある場所から奥庭にあたる可能性があります。 ちょうど全盛期の大内義隆のころ作成されて、直後に破壊されていることから大内文化を今に伝える貴重な遺産になっています。 館跡では他にも大きな池の発掘と復元が行われており、これが完成すれば、また山口の名所が増えることになります。私も当然見に行く予定です!!
2010年01月14日
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大内弘世ののち、大内義弘の代になって巨大になった大内家は、京都の足利家から目をつけられるようになり、足利義満に乗っかる形で応永の乱という反乱を起こし失敗、義弘は死去します。 のちに山口で地盤を整えた大内氏は、京都の足利氏が弱体化するのと反比例して発展を続けていきます。 京都が応仁の乱で混乱状態に陥ると、京都から多くの知識人が疎開、まさに西の京都となります。そして、上の写真の大内義隆の代についに全盛期を迎え、大内文化が開花します。 大内氏は山口一帯のみならず九州まで領地を拡大、おもに日明貿易を独占的に行い潤沢な財政から様々な文化が生まれました。ザビエルやフロイスといった宣教師も当時の山口を訪れ文化の高さを実感しています。雪舟が活躍の場にしたことも有名ですね。 しかし、繁栄は崩壊の始まり。義隆の許では隣接する戦国大名との敗戦や武断派と文治派の対立が激化し、ついに武断派陶隆房は反乱をおこし、義隆は山口を脱出、北へ向かうものの長門の大寧寺というお寺で自殺します。 辞世の句が有名で 「討つ者も討たるる者も諸ともに如露亦如電 応作如是観」といわれています。 義隆死後、陶隆房の許、養子を立てて再興をはかるも、往時の勢いはなく西から勢力を拡大した毛利元就により完全に崩壊、滅亡しました。 のちに山口は毛利家の支配下となり、豊臣時代には毛利輝元に安堵され、広島城を本拠地にしていました。 しかし、関ヶ原以降、毛利家の領地は山口県だけとなり、輝元は本拠地を防府、長府、もしくは山口を考えていたようですが、江戸幕府に配慮したのか、なんか言われたかわかりませんが山陰の萩のような僻地を本拠にしました。 山口は幕末に再び脚光を浴びますが、今でも大きな建物が少なく「小京都」の面影を残しています。
2010年01月14日
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日本中世に中国地方に一大勢力となった大内氏は、もともと在庁官人という身分でした。 在庁官人とは、当時、各国に置いていた役所(国府)に勤める人で、都から来る県知事(国司)に従っているのですが、国司はだんだん律令制が崩れると任命されても来なくなっちゃうんですね。 そこで、現地の実務は現地の役人にまかせっきりになっちゃう。これで上司を差し置いて各国で「在庁官人」が力をつけてきました。その典型が大内氏でした。 この大内氏が台頭したのが大内弘世という人のころです。 当時、京都では室町幕府が成立していましたが、内部抗争が絶えず世の中混乱状態でした。 そんな中、中央に対しても意見が言えるようになった大内氏は介入すると同時に一目置かれていきます。 弘世は本拠地に山口を選定し、京都に似せた街を作り始めました。中世都市山口のはじまりでした。
2010年01月13日
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先日、私は山口県に行ってきましたので、山口の話をしたいと思います。 山口は今では、県庁所在地とは思えないくらい小さな町になっていますが、戦国期は日本を代表する都市でした。 とりわけ室町期から戦国期、日本が混乱していた時期に発展した都市でした。当時の主は「大内氏」。 大内氏の許で「大内文化」なんていう文化が開花しました。 上は、発展する山口の街の想像図。中心に大内氏の館があり、京都を意識して区画割りされていました。これは今でも地図を見るとよくわかります。京都みたいに。 そんな文化の一片をみてみましょう。
2010年01月13日
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私の勤務先は2月の決算です。 ですから通常企業のように3月から新年がはじまります。 今の時期は新春ですが、会社的には大みそかの追い込み時期になります。 帳簿のまとめや、実査状況の調査などやることがえらいたまっていますが、この気温、、、、あまりに寒くて辛い状況です。 昨年は法改正だらけで、どこの企業もテンテコマイでした。 あと2月弱、大変だけど頑張るつもりです。
2010年01月12日
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各地に出かける身なんですが、私はあまり「駅弁」は買いません。 どうも保存料の味がして好きでないのです。もちろんすべてではないでしょうが。 ただ、先日、群馬に行った折に、群馬名物の登利平の「とりめし」を食べてみました。 タレがついていますが、濃い味が好きでないのでかけずに食べてみました。なかなかおいしかったです。 写真は高崎から東京への帰途、新幹線内にて。下りは湯沢のスキー場へ行く人たちでえらい混雑していました。 山の手前の群馬は雪こそ降りませんが、赤城おろしがモロに吹いてくるので、寒いどころじゃないです。 寒々しい碓氷(軽井沢)や三国峠を眺めながら暖かい東京へ帰りました。
2010年01月12日
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わざわざここて落としたいために書いてきたブログ。最後はやはり最下位のオリックスの本拠地、京セラドーム大阪です。 今年は何度か行きましたが、これはソフトバンク戦。バッターは我らがローズ!! 平日とはいえこの観衆の少なさ。まさに「芸術作品」といえるのではないでしょうか? 「利益主導」が叫ばれる世の中、このような「利益度外視」しているオリックス野球クラブ、並びにオリックス本体に敬意を表さずにはいられません。 旧厚生省施設の問題以来、「現代の政商」と揶揄されているオリックスグループですが、このような社会貢献(ごく少数の変人のため)をしてくれているのを忘れてはいけません。 往年のパリーグらしい球場が大阪には残っています。地域密着が全くできていないからいつでも気が向いたら観戦できる!! 大阪にお越しの際はぜひ甲子園など行かずに大阪ドームに行きましょう。
2010年01月11日
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最近、地域密着が図られてりる千葉ロッテ、数年前の優勝も手伝って大幅に観客動員が伸びました。 今年は5回くらい観戦したでしょうか?土井元オリックス監督が他界されたニュースを聴いたのもこの千葉でした。(パリーグのユニフォームの土井さんを観たのもここでした) 写真はいつのかわかりませんが、オリックス戦ですね。土日のデーゲームだけに2万5千くらいは入っていたんではないでしょうか? さあ、次回は待ってました!!あの球団です!!
2010年01月11日
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続きましてやってきました所沢、埼玉西武ライオンズ戦です。 観戦に行ったのは交流戦の阪神戦、初夏のころでした。 投げているのは下柳、バッターは石井。 ドーム球場となって久しい所沢ですが、かつての緑の森が懐かしいです。 当日は阪神戦ということもあり、相当混んでいました。まさに交流戦サマサマですね。 ここでは今年から3塁側がホームと昨年までと逆になりました。 この日、阪神タイガースは惜敗し、低迷を続けています。東スポの記者がファンにアナウンスしてまして翌日の新聞を見ていると「アラフォーに頼りすぎや!!」との声が・・・ ついこの間まで「アニキ~」なんていっていたのに・・・・・・
2010年01月10日
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お次は福岡ソフトバンクの福岡ドームに来てみました。 訪れたのは4月のペナントが始まって間もないころ、埼玉西武戦、写真は石井一対小久保さんの一戦。 ここはできて間もないころ(すなわちダイエーのころ)出かけてみて、あまりのでかさに驚きました。ドームは海岸線にあるのですが、当時は周りには何もなく千葉マリンみだいでした。 今はショッピングセンターやスポーツジムが近くに出来、かなり街らしくなっていました。 福岡移転してもう20年以上経ち、完全に地域密着に成功したホークス。平日でしたが、人の入りも7割方ありました。 先日難波にいったときには大阪球場の面影はもうありませんでした。
2010年01月10日
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楽天イーグルスの本拠地の宮城球場。大幅な改修を経てプロ対応型になりました。 訪れたのは9月初旬の埼玉西武戦でした。 ここの球場もパリーグの球場らしく周りになにもないため、仙台人のいい娯楽施設になっていました。仙台駅からはタクシーが便利です。 写真は2回の表くらいのもので、この後、三塁側はほぼ満席になりました。楽天もいい集客していますね。特別料金が安いわけではないのに。ちなみにこの球場は外野に芝生席があってそこでも観戦できるのが特徴です。 ちなみに投げてるのは岩隈、打者はGG佐藤です。 この試合に楽天はサヨナラ勝ちしてプレーオフ進出へと進んで行きました。
2010年01月09日
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今年、私はパリーグの全球場で観戦する経験をしました。 今日から、これらの球場の様子をご報告したいと思います。 まずは優勝した北海道日本ハムの札幌ドーム。観戦したのはペナント最終戦の10月の楽天戦。 札幌郊外にある球場は見たことはあるのですが、中に入ってあまりの大きさにびっくり! 友人がチケットをとってくれたので、最前列での観戦になりました。 写真は武田勝対鉄平。 スタンドには祝日の優勝チームとあり、そうとう入っていますね。平日でも以前に比べると観客は増えたそうで、地域密着が図られているようです。 今まで娯楽の少なかった北海道の人は嬉しいでしょうね。
2010年01月09日
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奄太郎、山口から帰ってきてからつかの間、明日は群馬へ行ってきます。 行くのは群馬前橋、高崎ですが、相当寒いということは聞いていますががんばってきます。 新幹線の券を取りに行ったのですが、相当混んでるようです。 おそらくほとんどビジネス客なんでしょう。正月明けの初出張の方も多いのでは?
2010年01月08日
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私はこのブログを「歴史ブログ」としながらも途中に野球のネタ、特に大好きなオリックスのネタを入れてしまうのですが、今日はこのブログの意味を端的にお伝えします。 私の世代、「スクールウォーズ」といういかにも臭すぎる番組がはやりました。その番組の歌で流れたナレーションを変えてみました。お忘れになっている方は動画を参考にしてください。 このブログはある弱小球団を小馬鹿にした甲斐性なしの中年のブログである。 日本プロ野球界において、まったくひ弱な合併チームが 助っ人外国人のなかから不健全な精神を培い わずか数年でたまたま2位になったまぐれを通じて その原動力となった「暴力」と「理不尽」を あますところなくお笑いにしたものである。 オリックスは今年もお笑いだらけ。 話題をさらおうと、ある選手が頭にT字を入れる。 スローガンは「トラ年だけどウシなのだ」とする。 専属チアガールの募集に人が集まらないらしく募集延長する。募集資格には「バファローズを心から愛する人」とあるが、そんな奴いるのか?その条件さえなくせば人が集まると思うが。 今年も目指せBクラス。阪神の2軍といわれる日もそう遠くないだろう。
2010年01月08日
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奄太郎、ただいま山口県より帰りました。 今回は、飛行機で広島へ、市内で仕事した後、徳山に移動し一泊。海がすぐそこなんですね。広島では雪が降っていました。東京より南ながら気温は低かったですね。 それから徳山で仕事して小郡(新山口)から山口へ、市内を散策。 そこから反対に広島空港まで戻り帰ってきました。 仕事もちゃんとしながら?観光もちゃんとする奄太郎のポリシーを貫いてきましたが、会社の決算期が近づいているため電話がよくかかり辟易としました。 明日より詳しくアップしたと思います。
2010年01月07日
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美しい景色のラストを飾るのは、やはり京都。園徳院庭園。 園徳院は豊臣秀吉の正妻である北政所の住んでいた場所がお寺になったもの。高台寺とならんで北政所ゆかりの地として多くの人が訪れます。 ここの庭園は室町期から桃山期にかけてはやった巨石をふんだんに配置した豪快な庭園です。 個人的にはこの時期の庭園が好きでよく思い出に残ります。 訪問したのはやはり平日。人もまばらで絶好のシャッターチャンスでした。 美しい景色はこれからも随時ご報告したいと思います。 奄太郎はこれから広島に出かけてきます。明日山口から帰る予定ですが、がんばって仕事してくるつもりです。
2010年01月06日
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