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『近代文学の女たち』前田愛(岩波書店同時代ライブラリー) この筆者の作品は初めて読みました。 こういう名前の文芸評論家がいるということは、少し知っていました。このお名前で男性だというのも。 この度ちょっとグーグルで調べてみましたら、案の定というか、最初は別の女性が出てきました。 その女性の写真を、じーっとしばらく見ていて気が付きました。 「あ、この人、見たことある! ガメラ3の女の子だ!」 ということで、そーか、この筆者はガメラに出ていた人かー。(違う違う。) ……えーっと、この筆者のことで以前少し知っていた事柄ですが、なんでも「テクスト論」とかが出てきたところで見たように記憶します。 でも、これがよくわからないんですよねー、「テクスト論」。 新しい文学理論にほとんどついていけてません。 ただ先日、何の拍子か間違いか「構造主義」に関する入門書を読んでいたもので、そのついでに少しだけ「テクスト論」を理解しました。 なんでも、作品から作者をどんどん消してしまうという読み方であるようですね。 そもそも作者には、自らの作品を正しく説明などできないと考えるんですね。作品の意味なんか作者に聞いたところで仕方がない、と。それどころか、作品に正しい唯一の意味などないとも考えるそうです。 まー、そのように言われると、なんとなくそういうものなんでしょうかねぇ、くらいは思うのですが、でもそこいらに納得し切れないいろいろなものが残るような気もします。 ともあれ、作品理解から作者知識や作者周辺をすっかり取り去ってしまって、じゃ何を手掛かりに作品を読んでいくのかというと、それこそ「テクスト」そのものです。 書かれた内容を忠実に、書かれた時代背景の中に再現して、そして作品の意味を理解していくという、考えれば文学研究というよりは歴史研究に近いと感じる読み方ですね。 という風に「テクスト論」を取りあえず理解(曲解)して読んでいったのですが、でもこれはこれで新しい発見があって、とても面白いものでした。 実はこういった作品の読み方は、以前、関川夏央の文芸評論を読んだ時にはっと感心しながら教わったことがありました。 今も覚えている簡単な例を挙げますと、夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公は左利きである、と。本文にこうあります。 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せて居たら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指位此の通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸いナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いて居る。然し傷痕は死ぬ迄消えぬ。 なるほど、「右の手の親指の甲」に切り込む利き手は左手でなくてはなりません。 しかしこういう読みって、当たり前のことで、『坊ちゃん』を読んだ多くの人は気付いていたのでしょうかね。不注意な読みしかできていなかった私だけが、教えられてはっとしたのでしょうか。 実際の文芸評論としては、さらに「左利きの坊ちゃん」が、作品世界にどんな新しい佇まいを見せるかというところまで分析していかねばならないのでしょうが、今のところ私にはわかりません。でも、なんとなくハッとするような「リアリティ」を感じるばかりです。 さて、そんな「手品」を見せてくれるかもしれない文芸評論家の作品ということで本書を読んでみました。 本書にはサブタイトルが付いていまして、「『にごりえ』から『武蔵野夫人』まで」とあります。実際に取り上げられている近代文学の女たちは、以下の6作品の女たちです。 樋口一葉『にごりえ』・尾崎紅葉『金色夜叉』・森鴎外『雁』 有島武郎『或る女』・谷崎潤一郎『痴人の愛』・大岡昇平『武蔵野夫人』 上記に触れた「左利きの坊ちゃん」的興味でいいますと、その舞台の時代から遠く離れるほどに、特に小説に描かれるような社会風俗は分かりにくくなりますから、古い作品の批評のほうがおもしろいだろうとあたりをつけますと、まさにその通りでした。 前3作の評論文に私が知らなかった風俗めいたことが一杯書いてありました。 挙げていくとキリがないのですが、例えば『にごりえ』の主人公の女性は「銘酒屋」の女給(私娼)ですが、この「銘酒屋」の現れるのが日清戦争前後のことで、いわば時代の風俗の一番新しいところを一葉は取り上げていると指摘します。そしてそれができたことについて、さらにこんな補足があります。 (一葉一家は)明治二十七年の五月一日に本郷の丸山福山町に移ります。(略)ここは本郷台地の崖下にあたるところで、その近所には銘酒屋と呼ばれる私娼街が連なっているところだったのです。そして一葉は銘酒屋に働く女性たちの身の上相談を引き受けたり、銘酒屋の看板を書いたり、あるいはまた手紙の代筆をしたりして重宝がられるわけです。 上記に、作品から作者の姿をできるだけ抜き取ると書きましたが、やはり作者の姿が見えると作品のリアリティが俄然浮かんでくる箇所であります。 そんな「発見」が一杯、例えば『金色夜叉』の冒頭に出てくる百人一首のかるた会は、時代の最先端の遊びであったとか、『雁』のお玉の家の格子窓に万年青の鉢が置いてあるが、あれはその時代広く行われていた「囲われている女性」の家の印だったとか、そんなことが書かれています。 なるほどねぇ。 本当に正しく本文=テクストを読むとは、つまりはこういうことだったのかと、思わず唸らせられる本書でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.06.27
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『巨船ベラス・レトラス』筒井康隆(文芸春秋) 先日、作家の小川洋子さんの講演会に行ってきました。(厳密に言いますと講演会ではなく、「小川洋子さんと語る会」で、小川さんがまとまった時間一人で聴衆に語りかける会ではありませんでしたが。) その会で、小川さんの出版したいろんな分野の科学者との対談の本が話題に取り上げられ、小川さんは、対談の時間中私はとても楽しかった、とっても素晴らしい時間を持てたと述べられました。 そしてその理由について、一流の科学者のみなさんが同様にお持ちである自然や真理に対する敬虔さについて強く指摘なさっていました。 なるほど、うろ覚えの記憶で申し訳ないのですが、万有引力の法則をはじめ自然科学界で様々な業績を残したあのアイザック・ニュートンでさえ、「私は自然界の真理を解き明かしたりなどしてはいない。自然界という広い渚の波打ち際で、波と戯れていただけである」みたいなことを、確か……、えーっと、確か、言っていませんでしたかねぇ。 ……毎度出所不明な文章ばかり書いてすみません。 しかし、そんな「敬虔」なんて言葉を、落ち着いたしっとりとした感じの小川洋子さんが口に出されますと、なんかはっと心撃たれるものがあって、以来わたくしの心に「敬虔」というキーワードは、暖かい温もりを放ちながら残っております。 ところで、上記に私は小川氏のことを「落ち着いたしっとりとした」と書きましたが、実際のところ小川氏の人となりが本当にしっとりと落ち着いた感じの方かどうか、わたくしは全く存じ上げません。しかし、まー、普通小説のひとつも書こうという方は、外見の印象はともかく、そんなにしっとりしたり落ち着いていたりはなかなかしていらっしゃらないんじゃないかと、こっそり推測するばかりなんですがー。……。 さてここに、冒頭に挙げた筒井康隆氏の「文壇小説」(といっていいのかよくわかりませんが)があります。登場人物はことごとく上記に挙げたエピソードの「敬虔」の対極に位置する人物ばかりです。それはもちろん、作者がそう書いているからであります。 一時期、わりと丁寧に筒井作品を追いかけて読んだことがありましたが、最近はほぼ新作を読んでいませんので、この作品が、今に至って続いている作者の長い執筆活動期間の中で、どんな位置づけなのかまったくわかりませんが、なんといいますか、なんでこんなの書くのかなというのが、正直なところ初読感想でありました。 ただ、そんな感想と共に、筆者がひたすら追求しているものの存在と、その存在=目的のためにのみすべての表現活動は捧げられるというような、思いがけない筆者の(いおうと思えばそうもいえそうな)「敬虔」さも、この度は、同時に感じるのでありました。 ではその対象とは何かと考えますと、それは「小説の全き自由と永遠の可能性」というテーマではないか、と。 実は多くの小説家(ほとんどの小説家)は、小説を執筆しながら小説以外のものをテーマとしています。そのテーマは、例えば人間であったり、生きるということであったり、また、社会や、人類、国家、神、など様々なものです。 一方読む側の我々にしても、感動したっ! と強く思うその感動は、その小説が人生なり人間を描いているからという理由がほとんどで、「この小説の存在そのものに感動した!」というのは、まー、ないとは言いませんが、極めてレアなケースでしょう。 それは小説だけでなく、純粋に音楽がテーマの音楽とか、絵画がテーマの絵画だとかは(そんなものがあるとして)、たとえそこに優れた結実があっても、人はなかなか感動までには至らないというのが実際ではないでしょうか。(テクニックとか実験とかにはそんな側面が確かにあります。) ところが、ここにある筒井康隆氏の小説であります。 実は私はこの冒頭の小説の前にも、筒井氏の『邪眼鳥』という小説を読んだのですが(こちらの方が私はできがいいと思ったのですが)、またしても何とも感想の述べにくい小説で、2冊連続して筒井作品を読んだ私は迷い悩んだあげく、畢竟これは小説自身がテーマの小説だなというところに落ち着いたのであります。 だから登場人物の男性がことごとく女と金と権力にしか関心のない下品な人格であっても、女性が絶世の美女ばかりであっても、それはそれでよく、小説世界の新たな可能性の広がりがそこにもたらされたら、その小説は完成(成功)である、と。 ……また話題は少々飛ぶんですがー、……少し前にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊教授が、受賞時のインタビューで、先生の業績は何の役に立つのですかというはなはだ「下品」な質問に対して、「すぐに何かの役に立つということはない、ただ人類の知の地平を広げただけだ」とお答えになりました。 それをテレビで見ていたわたくしは大いに納得したのですが、それと同様の理解ができるものか見当のつかない所も少しありながら、筒井氏のこれらの小説群とはまさに、小説の可能性の地平を広げるためなら作品の感動など屁とも思わないという、世の中にまれに見る「純粋小説」ではありませんか。 冒頭わたくしは、小説家に「敬虔」は似合わないとばかりの暴論を展開しましたが、なんのなんの、ここに実に敬虔な「小説教ファンダメンタリスト」(すべてを小説の可能性のために奉仕する主義)の筒井康隆氏を、思わず発見したのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.06.15
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