全3件 (3件中 1-3件目)
1

『想像ラジオ』いとうせいこう(河出文庫) じっくりと重く深い本です。 わたくしは基本的に重く深い本にはあまり堪えられないところがありまして、今まで充分取り上げませんでした。いえ、もちろん内容の重く深い本を評価しないのではありません。それどころか、本書に私はかなり感動しました。こんなに感動したのは、遠藤周作の宗教がらみの重い小説を読んで以来です。 本書に感動した理由はもう一つあります。 本書の初出誌は「文藝」2013年春号ということで、単行本の初版発行年月日は「2013年3月11日」となっており、これはもちろん2年前同日の東日本大震災当日に合わせたわけですね。 つまり、東日本大震災が発生してはや2年がたち、この間この地震をテーマにした文学的な結実がどうであったかということを考えた時、私は本書の存在と、言い換えれば本書を書ききった筆者に感動と尊敬の念を持ったのであります。 さて、それが自然的なものであっても人為的なものであっても、現実に起こった大きな事象(歴史的事件)をテーマにしていわゆる「文学作品」を作り上げるのはなかなか難しいということを、私はかつて何かで読んだ(言われた)ような気がします。 しかしよく考えると、そして近代日本の歴史と近代日本文学だけで考えても、例えば「戦後派」(第二次世界大戦終戦直後に、戦争小説を書いた一連の作家達ですね)という存在は、必ずしも上記の主張に合っていない気がします。 わたくし思うのですが、文学作品に結実するのが難しいのは、自然界の大きな事象(いわゆる「天災」)をテーマにした作品なのではないでしょうか。 つまりそれは、人為的な「敵」の作れない「事象=歴史的事件」は文学作品になりにくい、ということでしょうか。 例えば大正13年の関東大震災で考えてみます。 といっても詳しい歴史的事実をほとんど知らないど素人のわたくしのアバウトな理解で申し訳ないのですが、関東大震災を正面からテーマとした文学作品(「純文学作品」)ってどれだけありますか。 私の知っているのは水上瀧太郎の『銀座復興』くらいであります。(しかし『銀座復興』も今となっては「古き良き時代の震災復興」話しという感じの小説です。) 確かに今回の東日本大震災は、正面から文学テーマとして語るには、今までの「天災」文学とは単純に比較できない要素がありそうです。 その第一は、言わずと知れた原発事故の問題です。この現実はまだまだリアルタイムの「事件」です。(ただし、というか、それも、というか、とにかくこの「事件」は「人工的」な事件でもありますね。) 第二に「震災復興」といっても、大正時代の関東大震災の時の復興と、現代の東日本大震災の復興とでは、「復興」という言葉が同じなだけで、具体的な物を挙げていくとほとんど異次元のものごとであるようにも思います。 しかし、にもかかわらず、わたくしにはなぜ日本の現役のプロの小説家(純文学作家)がたくさんこのテーマに正面から向き合わないのだという思いはなくなりません。 まだ、早い、のでしょうか。本当に、まだ、早いのでしょうか。 本文にこんな表現があります。「むしろ僕は彼もまた、死者の声を聴こうとして、そのことばっかり考えているんじゃないかと思った。で、聴こえないでいる。実際に聴こえてくるのは陽気さを装った言葉ばっかりだよ。テレビからもラジオからも新聞からも、街の中からも。死者を弔って遠ざけてそれを猛スピードで忘れようとしているし、そのやりかたが社会を前進させる唯一の道みたいになってる」「僕は向こう十年くらい、あちこちの家やビルの前に黒い旗が掲げられていてもいいと思っている。もちろん半旗になっていてもいいし、僕自身喪章を巻いて暮らしたっていい」(略)「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」 日本は世界の中でも飛び抜けて天災の多い国であり、その天災で亡くなった人々に対しても、申し訳ないながら定まった形での哀悼の意を表した後は、その先に進んでいかねばたぶんやっていけない国でありましょう。 だから上記に取り上げた作品内の表現が現実離れしているという指摘を受けたとしても、私はその通りだと思います。 しかし、私の考える文学(純文学)とは、そのように日々動いていく最先端の現実社会から荒唐無稽だと誹られたとしても(いえ、誹られるがゆえに)、その現実(歴史的事件)について、じっくりじっくりと繰り返し繰り返し、しつこいほどに愚直に立ち止まり見つめるところにこそ、その存在価値があると考えます。 仮にもプロの「純文学作家」がなぜ取りあげないのでしょうか。まだ早すぎて十分深まりのある作品が描けないのでしょうか。 でも私は思います。まず裾野を広げてほしいと。 とりあえず多くの作家がたくさんの作品を書いてほしいと。作品が多く存在すると、自ずとその質は上がって行くはずです。 ぜひ。 頑張っていただきたいと。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.08.28
コメント(0)

『みずから我が涙をぬぐいたまう日』大江健三郎(講談社文芸文庫) ……うーん、「みずから我が涙をぬぐいたまう」であります。そんなありがたい「日」であります。……しかし大概、思いっきり個性的なタイトルですなぁ。 下記に触れていますが、本作の一つ前の短編集のタイトルが『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』となっています。……うーん、これは、これで……。 しかしこんな風に並びますと、なんだか思ってしまいますね、大江健三郎はその意表性において、実はタイトルのつけ方がとっても上手なんじゃないかって。 さて本書は、1972年(昭和47年)に総題になっている作品と「月の男(ムーン・マン)」と題された(「ムーン・マン」はルビでの表記)2つの中編小説で出版されました。 この前後数年の間に大江健三郎が発表した小説はこんな感じになっています。 1964年(昭和39年) 『個人的な体験』 1967年(昭和42年) 『万延元年のフットボール』 1969年(昭和44年) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』 1972年(昭和47年) (本中編小説集) 1973年(昭和48年) 『洪水は我が魂に及び』 どうですか。「濃いー」ですよねー。 特に前の二作と最後の一作は名作として聞こえ高く(『万延元年のフットボール』はノーベル賞受賞の際、氏の代表作の扱いをされました)、いわばこの時期は大江氏の「傑作の森」(小説家のロマン・ロランが名付けた、ベートーヴェンが極めて充実した作品群を立て続けに発表した時期のこと)にあたる期間だと思います。 さらに詳しく見ていくと、本中編集とその前の短編集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』は、二つの大きな峰の間に挟まれた作品という見方もできて、なるほどそう考えると本中編小説集も、二作ありながら少なくとも文体が極端に異なっていることも含め(下記にあるように前者の文体が、全作品に及んで「難解な文体」といわれる筆者の作品の中でも際立って難解です)、次のテーマに向かう様々な実験の一つと考えることが可能なようです。 さて上記に私は「難解な文体」と書きましたが、例えばこんな感じです。 この真夜中の闖入者の出現が、かれのベッドの周囲に、かれにたいして能動的には影響をあたえられないまま、立ち合っている者たちのいうとおりに夢だとすれば、それはかれがアフリカのバンツー族さながら若くして肝臓をやられて、この「終の棲家」に入りこんで以来、はじめての、そしてかれの確固とした予想ではおそらく最後の、記憶にくっきり残った夢である。 実は私は本書は再読で、高校時代の終盤から大学時代の前半にかけて少しまとめて大江健三郎の作品を読んだことがありました。 その頃の私の読解力で大江作品が十分に理解できていたのか、今となってはかなり疑問なのですが(ただし今となって分かることの一つとして、若い頃というのは、無理して難しい本を読んでは分かったふりをするという心理があるということを、分かったふりに分かっておりますが)、少しは馬齢を重ねたもので、ちょっと振り返って考えてみました。 つまりこのねじれたような文体は、本当にうまいのかということですね。 ……んんんー、と考えてみたのですが、結論的なところを申しますと、このねじ曲がった文体は、それに見合うグロテスクさとユーモラスを核とする想像力の奔流を間違いなく裏付けているもので、そのストーリーを全面展開的に追いかけていくと、やはりパワフルとしか言いようがない、と。 そしてこのパワフルさは、少し時代が前後しますが、例えば中上健次の作品、笙野頼子の作品なんかにもつながっていく力のある表現だと感じられる、と。 つまり文体にそんな力があるということは、やはり優れているといいきれるはずだ、と。美しさとは、当然そういった概念をも含む価値基準であるはずだ、と。 というわけで、大江健三郎の文体は、このように「異様」にねじれていても美しいのではないかという結論に至りました。 現実的な話として、文体は単独に存在しているわけではなく、ストーリーの必然がそれを決定していくわけで(逆ももちろんありましょうが)、そのストーリーの源泉である大江氏の想像力は、他の作家を圧倒してこの時期の彼の小説作品を独創的にしていました。 またこの時期の筆者は小説以外でも、「想像力」こそが人類の未来へつながる唯一の道具であるという趣旨の発言をよくしていまたように覚えています。 なるほどこの度の読書で、大江氏の際立った才能である強烈な想像力を実感して、「普通の人はあなたほどはとてもとても」とは感じつつも、人類の未来への想像力の大切さを、大いに教えられたような気がしました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.08.15
コメント(0)

『漱石書簡集』夏目漱石(岩波文庫) 上記文庫本の読書報告の後半です。 前半は何が書いてあったかと言いますと、……うーん、何が書いてあったんでしょうねー。たぶん、書簡集と書簡体小説は当たり前ながら違うのだということを私は見落としていたと書いていたと思います。 そんなの当たり前じゃないかとお思いの貴兄、……えー、どうもすんません。 ご指摘いただきますと、全くその通りでございます。 ただ、その辺の微妙なニュアンスを今回、ぼちぼちと綴ろうと思っておるんですが……。 さて、書簡集の「華」といえば(またいきなり訳の分からないことを書き出したなとお思いの諸兄、……えー、重ねてどうもすみません)、やはり「恋文=ラブレター」ですよね。 海千山千の作家であっても、自らの恋文となると客観性もへったくれもない読んでいてこちらが恥ずかしくなってくるような書簡があったりします。有名どころで言えば、芥川龍之介が独身時代、後に結婚することになる(婚約中だったそうです)塚本文子さん(まだ18歳の女学生だったそうです)に送った恋文ですかね。 後年『侏儒の言葉』で、 恋愛――恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。 女人――女人は我々男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。 などとシニカル書いた(毒づいた)同じ人物のものとはとても思えず、手紙中で「文ちゃん」「文ちゃん」と何度も呼びかけたぐずぐずのずぶずぶのらぶらぶのラブレターであります。 で、この度の漱石の書簡集ですが、中に漱石の奥方「鏡夫人」に対する「ラブレター」がありました。これはなかなか珍しいと思うんですが、ちょっと載せてみますね。 (略)眼がまわって倒れるなどは危険だ。よく養生をしなくてはいけない。全体何病なのか。具合が少しよくなったら、よくなったと郵便で知らせてくれ。御前が病気だと不愉快でいけない。(略) あったかになると病院が急にいやになった。早く帰りたい。帰っても御前が病気じゃつまらない。早くよく御なり。御見舞いに行ってあげようか。 子供へ皆々へよろしく。 ……えー、お読みになってあれっとお感じと思いますが、この手紙は明治44年(1911年)、長与病院に入院中の漱石が、自宅の鏡夫人に当てて書いた手紙であります。 前年にいわゆる「修善寺の大患」があり、後期の漱石作品に決定的に影響を与えたと言われる「臨死体験」から約半年後の手紙ですが、……いやー、実にラブラブの手紙ではありませんか。 本書は明治22年(漱石22歳)の正岡子規宛の手紙から始まって、大正5年11月(臨終の約一ヶ月前)に書かれた手紙までが抄録されています。 はっきり言いまして、面白いのはやはりこの「修善寺の大患」以降の手紙です。 すべてがそうだとは言いませんが(同様に前半の手紙にも、興味深いのはいくつかありますが)、漱石の晩年の境地である「則天去私」を描いていると言われる随筆『思ひ出すことなど』や『硝子戸の中』と、直接地続きになっているような手紙が見受けられ、何と言いますか、私信とはいいながらその粘稠度の異様に高い表現に、私は読んでいて少し息苦しくも驚いてしまいました。下記は、大正5年8月に久米正雄・芥川龍之介宛に書かれた手紙の終わりの部分ですが…。 今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでしょう。 私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時までもつづいてどうしても日が暮れないという証拠に書くのです。そういう心持の中に入っている自分を君らに紹介するために書くのです。それからそういう心持でいる事を自分で味って見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋っています。以上。 どうでしょうか。こんな部分は、そのまま『こころ』の「先生の遺書」や、『行人』の終盤部「Hさんの手紙」に挿入しても全く違和感がないように思います。 前回の私の駄文に、この書簡集を書簡体小説と勘違いしたというようなことを書きましたが、書簡体小説と書簡集の違いは一言で言えば「扇の要」に当たる部分の有り無しの差かなとも思うのですが、ひょっとしたら晩年の漱石は長編小説の一部にそのままトレースできるような日々を送っていたのではないか、……いえ、厳密には漱石は「夭折」とはいえないでしょうが、「後しばらくの命をあげたかった近代日本文学作家ナンバー1」の漱石の相対的に短かった「実働期間」への、それは私たち読者の見果てぬ夢でありましょうか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.08.02
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()

![]()