全2件 (2件中 1-2件目)
1

『文章の話』里見とん(岩波文庫) えー、毎度の事ながら名前がひらがなになってしまうのがとっても悲しい「里見とん」ですが、タイトルが「文章の話」と、なかなかストレートな岩波文庫です。 ところが、内容は全くストレートじゃないんですね。少なくともこの本は文章作法の本かなと思って読み始めると。 ところで、わたくし、少し以前より何となく(本当に「なんとなーく」)明治維新以後の「言文一致運動」について興味があったんですね。 その直接のきっかけは、本ブログでも何度か触れたのですが、数冊出版されている三遊亭圓朝の岩波文庫であります。私は3冊読んだのですがどれをとってもそうなのですが、実に完璧と思えるような言文一致の文章になっています。 つまり、いわゆる文学史教科書に記載されている「言文一致運動」の作家達(二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉など)の取り組みに先んじて、すでにここまで発達しているにもかかわらず、なぜ彼ら(二葉亭など)は言文一致運動にそんなに苦闘したのか、というのがよく分からなかったんですね。 (その後、なんとなくあれこれ読んでいて、特に中村光夫の本から大きなお教えをいただき、一定の理解はできたつもりではありますが。) さて本書にこんなエピソードが書かれていました。 筆者が中学1.2年の頃(ウィキペディアに、筆者は「1900年(明治33年)に旧制学習院中等科」へ進学とあります)、学校の作文に言文一致文体で書いたところ、わざわざ職員室に呼び出されてこんな注意を受けた、と。 「ああいう文体も、絶対にいけないとは思わないが、学校の方針として、作文は文章体、ということになっているから、以後、なるべく書かないように」 また、「言文一致運動」についての一般的理解として、こんな感じであったとも書かれてあります。 (略)日常のもの言いそのままを、――例えば、実際しゃべっている言葉どおり、そばから速記したものでも、「文章」として認めなければならない、いや、「文章」を、そういう形に改めてしまわなければいけない、という考えが起こって来たのです。 ……なるほどねぇ。いえ、実はこの指摘は上記にも少し触れた中村光夫の指摘とほぼ同じなんですが、要するに圓朝の高座の速記録など「文章」ではない、という一般的理解ですね。 改めて読みますと、一国の文章を変えていくというのはなかなか大変なことであるというのがよく分かります。 さて、そんなエピソードがあったりして、私は結構楽しく本書を読んだのですが、本書の中心は、あまりそんなところにはありません。 そもそも本書は1935年(昭和11年)から2年間にわたって順次出版された『日本小国民文庫』全16巻中の13巻目として出版された書籍でありました。つまり、児童向けの啓蒙書なんですね。 そのことについては、筆者自身が「前書き」に児童向けではあるが、幾つになっても読めるように工夫して書いたつもりだと書いてあります。 実際の所その通りであるかどうかは異論のあるところでしょうが、筆者が行った工夫の一つは、簡単に指摘しますと「文は人なり」という根本理念の元、よい文章を書く技術に先んじて、書き手の人間性をいかに高めるかに本文の七割くらいを費やしているところであります。 その結果、文章作法についてはほんの少ししか触れられていないという、何と言いますか、ユニークといえば誠にユニークな「文章の話」になっています。 例えば「品位」という一章があって、こんな書き出しになっています。 文章にかぎらず、芸術品にかぎらず、手工であろうと、なんであろうと、一流のものには、必ず品位が備わっています。 と、ここから始まりまして、えんえん、というほどではありませんが、「品位」の具体例や筆者の主張や思想が描かれるわけですね。で、最後は、「品位」とは「優雅な心」である、と。 なるほど、「品位」とは「優雅な心」のことなのだ。 というふうにお教えを受けますと、こんな感覚や思想はそれなりに興味深くはありますが、詰まるところ白樺派的人道主義と理想主義で、それは気持ちのよい見晴らしのよさを確かに感じさせる一方、上流階級子弟集団のお気楽さもやはり、ふと感じたりします。 かつて長与善郎(この方も白樺派ですね)の『竹沢先生という人』という作品を読んだときに感じた、作中人物中の「人格者」に啓蒙される喜びを可とすると、とっても楽しくかつ有意義な一冊になると思いました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.09.26
コメント(0)

『闊歩する漱石』丸谷才一(講談社文庫) この夏、わたくし、ちょっといろいろ文化的な日々を送りました。 といっても、いえ、なに、所詮、人様に大声で申し上げるようなレベルのものではありませんが、ちょっと紹介させていただきますと、例えば2回音楽会に行ってきました。バッハのオルガン曲と、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いてきました。 絵画は、浮世絵と藤田嗣治とサルバドール・ダリと、後、現在も活躍なさっている女性画家(この方についてはご本人のご講演もお聞きしました)の各展覧会に行ってきました。 そのほかにも映画を2回見に行ったり、小さい旅行にも2回、ジムのプールは15回ほど、そして講演会も2回行きました。 で、その講演会の話なんですが、人から勧められて行きましたのが大学の文学部の先生の講演で、テーマは「明治初年近代文明黎明期における漢文脈」といったものでありました。 もう少し具体的に書きますと、「言文一致運動」の初期に、特に国家が用いた文体(要するに「お触れ」なんかで用いる文体ですね、例えば「五箇条の御誓文」とか)として「漢文脈=漢文訓読体」が広く流布されていたというお話で、なかなか興味深かったです。 (という風に書きますと、私がその講演内容をしっかり理解したかのごとく聞こえるのですが、どうしてどうして、実は難しい部分がいっぱいありまして、よくわかんないところは知らん顔をしてまとめているのであります。) で、どんなところが特に興味深かったかといいますと、江戸時代最もポピュラリティのあった文体は「候文」という「和文脈」の一種(時代劇に出てくる手紙なんかの文体ですね)であったにもかかわらず、なぜ「漢文脈」になってしまったかというところです。 講演ではその理由の具体的説明がいくつかなされたのですが、要するに、やはり明治の日本文化は、江戸期までの日本文化との断絶の上に新たに展開されようとしていた(もちろんそうじゃないものもありますが)、ということであります。 この度冒頭の「文芸評論」を読んでいて、例えばこんな箇所に出会いました。 しかし文学者が自国の古典文学に対して関心を持つのは当たり前である。むしろ無関心なほうが異常ではありませんか。イギリスの現代作家でシェイクスピアに親しんでゐなかつたり、ダンを知らなかつたりしたら奇怪なことでせう。ところが、戦前の日本文学では、自国の古典を読む小説家なんてまつたく例外的な存在だつた。変り者もいいところだつた。国文学史と近代文学史と二本立てで行つてゐることでもわかるやうに、明治維新以前の文学は作家にも詩人にも劇作家にも無縁のものだつたのです。たとへば谷崎潤一郎訳の『源氏物語』にしても、文学の現場にはかかはりのないものでした。(『忘れられない小説のために』) 実はここでをかしな条件が一つ加はる。漱石の場合が典型的だが、普通の知識人にとつて東方の文化とは「漢文唐詩」のことで、『伊勢』『源氏』『古今』『新古今』などは眼中になかつた。江戸の人々にとつて王朝和歌とは正月の歌がるたのこと、光源氏は『一代男』と『田舎源氏』の彼方におぼろげにある何かにすぎない。王朝の文学は知識人にとつても、大衆にとつてと同じやうに、遊戯と分かちがたい状態にあるもので、下位文化に属していた。(中略)いはゆる国文学は差当り好事の対象にしかならない。漱石も鴎外も『伊勢』『源氏』に冷淡だつたのはよく知られる通りである。かういふ自国の古典のあやふやな位置は、一国の精神の混迷をいつそう強めた。(『あの有名な名前のない猫』) ……えー、どうでしょうか。例えば上記の二つ目の引用文の最後の一文なんて、いかにも「丸谷的殺し文句」のようですね。 丸谷才一の文芸評論には、いつもながらこのような切れ味鋭いアフォリズムが方々に散らばっています。 さて、本書はタイトルにもありますように夏目漱石作品についての文芸評論ですが、3つの文章から成り立っており、それぞれ『坊ちゃん』『三四郎』『吾輩は猫である』を論じています。 私としては2つ目の『三四郎』を論じた文章が、比較的わかりやすく書かれていて(後の2つの評論は、筆者の本来の専門である英文学との比較文学的批評になっておりまして、えー、わたくし、英文学についてはほとんど無知でありますゆえ、よくわかりませんでした。無知の悲しみですね。) でもわからないなりにまとめてみますと(こういうのを「暴挙」というのかもしれませんが)、初期の漱石作品には、モダニズム的特徴が広くみられるというものでしょうか。 筆者が説くには、そもそも漱石が英国留学した20世紀初頭(1900年~1902年留学)は、まさに英国のジョイスやフランスのプルーストなど、「モダニズム文学」の揺籃期であった、と。そして漱石も、19世紀のリアリズム文学の反動としてのモダニズム文学の台頭を必ずや現地で肌で感じていたはずだ、と。 えー、たぶんそんな漱石作品についての文芸評論が、すっごく面白い話題を一杯散りばめながら書かれています。(私は英文学がらみのところはよくわかりませんでしたが。) 「知の世界」を満喫するのに、まさにとてもふさわしく、有り難い本であります。 最後に。 タイトルの「闊歩する」とは、なるほど、イギリスの大通りを闊歩する(モダニズム文学の誕生を肌で感じている)漱石のことなんですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.09.11
コメント(2)
全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()
