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『鴎外随筆集』森鴎外(岩波文庫) 久しぶりに古本屋さんを覗いたら本書が目に入りまして、思わず、あれっ? 鴎外って随筆書いてるんや、という、まー、その後すぐ自分でも愚かしい思い違いと分かるような感想を持ちました。 我が家には、今を去ること40年くらい前に岩波書店から出た新書版サイズの「漱石全集」と「鴎外選集」があります。どちらも我が家の本棚の肥やしです。 で、それによりますと、「漱石全集」は少し薄い目の巻数で4巻、「鴎外選集」は分厚い目の巻数で3巻、随筆らしい巻があります。(それぞれを重ねて並べて背比べしたら、ほぼフラットでした。) 漱石の方は、「小品」なんてタイトルのついているのが主に随筆関係(2巻)で、有名な「思ひ出す事など」や「硝子戸の中」とか、おや、「夢十夜」「永日小品」なんかも入っていて、これは随筆とは言えないんじゃないですかね。 一方「鴎外選集」の方は、「評論・随筆一~三」となっていて、なるほど、評論と一緒にしたらそれは多いだろうな、と、納得。だって鴎外といえば、一時期「ケンカ屋林ちゃん」(鴎外森林太郎ですね)として、主に文芸評論世界でブイブイ言わせていた方ではありませんか。 しかし、本当のところ、私が鴎外って随筆書くんだと、愚かしい思い違いをした理由は、なんとなくわかっています。 いろんな鴎外関係の本を読んでいると、鴎外って、なにか絶えず戦っているって感じがするんですよねー。(山崎正和『鴎外・戦う家長』なんてその典型ですよね。芥川も、鴎外は胡坐をかかないなんて言ってますし、上述の「ケンカ屋林ちゃん」もそうかな。) だからついそう思っちゃったんですね。 戦士は戦場で随筆を書くか? と。 と、本書を読み始める前からやたらとゴタクが多いのですが、読みだしてしばらくしてまた驚いたことが一つ。(違いますね、読みだす寸前に気づいたことですかね。) 本書は総ページ数、解説と最後の初出一覧まで入れて246ページであります。 ところが本編の随筆は155ページで終わっています。 この差、実は注釈(語注)が75ページもあるんですねー。 収録随筆は18編です。平均値を出すことには何の意味もありませんが、偏在はありながらも、1ページにかなりの語注がついています。 これは結構煩わしいですよー。でも、語注を読まないと訳が分からないページも多いです。ちょっとだけ、引用してみますね。(かなり古ーい難しーい漢字が使われているところは、すみませんが、引用者が勝手に略字に変えてます。) 余す所の問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具を授けているかというにある。ここにその玩具を検して見ようか。わたくしは書を読んでいる。それが支那の古書であるのは、今西洋の書が獲がたくてして、その偶獲べきものが皆戦争(※)を言うが故である。これはレセプチイフ(※)の一面である。他のプロドュクチイフ(※)の一面においては、彼文士としての生涯の惰力が、僅に抒情詩と歴史との部分に遺残してヰタ、ミニマ(※)を営んでいる。 (※)の語に語注がついていますが、最初の「戦争」以外は、私がもの知らずなせいか、注がなければ全く何を言っているのかわかりません。 というか、4つ以外にも、本当はもっとわからない表現だらけであります。 というわけで、適当に飛ばしつつも、しかし読まねば前後がわからない注釈をしこしことページを繰りながら読み終えました。 でも、少し読み始めると慣れてきて、さほど煩瑣ではなくなるんですね。 それは、思うに、やはり鴎外の明晰な文体によるものではないでしょうか。 難しい言葉はいっぱいあるのですが、非常に端正に書かれた文章は、どんどん読んでいくと「優しい」感じがしてくるんですね。(「易しい」ではありません。) 解説に「鴎外随筆を代表する」とある「サフラン」「空車」などの随筆も、読者に優しく語りかけてくれるような、何と言いますか、一種「気品」の様なものがあります。さすが鴎外ですよねー。 と、そんな読書の楽しみを味わせてくれる部分は確かにありながら、でも私としては、読み終えてしばらくするとやはり何か気になるんですね。 例えば、鴎外の小説「じいさんばあさん」などでは読後感がとても心地よいのに、例えば「最後の一句」とか「杯」なんかは、端正に美しく描かれていながら、どこか狭苦しい感じが残るんですね。 この後者の読後感と同じ感覚のものが、どうしてもこれらの随筆には残ってしまいます、わたくしとしては。 その正体らしいものは、例えば上記の三つの短編を読み比べれば、たぶん誰でも納得がいくと思います。 また、本書の解説にもこのように書かれたところがあります。(解説は千葉俊二) また鴎外にいわゆる随筆風の文章が少ないのには、小説や戯曲ならばフィクションという仮面をかぶることで自由にものをいうことができるが、随筆ではあまりに自己があらわに表現され過ぎることを嫌ったからかも知れない。 (やっぱり鴎外、戦ってますねー。戦士ですねー。) かつて小林秀雄は、『徒然草』の作者吉田兼好のことを「見えすぎる眼」と評しました。 私が大学で習った先生は、そんな小林こそ「見えすぎる眼」を持っていたと教えてくれました。 鴎外が、少なくとも小林秀雄より劣って見える眼を持っていたとはとても思えません。 その「見えすぎる眼」で書かれた文章に、より「自己があらわに表現される」随筆に、(そして戦場の戦士に、)どこかシニカルなものが漂い、そしてそれが読後感を少し狭苦しく感じさせるのは、やむなしとは思うものではありますが……。 そういえば、見えすぎる眼の不幸は、小林秀雄もすでに語っていたと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.07.29
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『渦――妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真寿美(文春文庫) 確か数年前に、この筆者がヴィヴァルディについて書いていた小説を読みました。詳しい内容は忘れてしまったのですが、きちーんとしっかり描いていたような印象が残っています。 で、この度は、近松半二のお話ですか。守備範囲がとても広いですねー。 近松半二という名前は、わたくしたぶん日本文学史の本で読んだような気がします。江戸時代の歌舞伎作家か何かじゃなかったかしらん。(浄瑠璃作家だと、本書を読んで知りました。) と、その程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、代表作がタイトルにもあります『妹背山婦女庭訓』、これも名前だけは知っていました、ただし名前だけ。 この度の読書で、これらのことはそれなりに詳しく知ることができたのですが、今回かなり納得したのが、歌舞伎と浄瑠璃はまるで違うということで、もちろん芸能興行形態が、一方は人間により他方は人形によるので違うのは当たり前ですが、私が特に知ったのは、歌舞伎と浄瑠璃における原作者(それぞれ「立作者」というそうですが、集団制作も多かったそうです)の芸能集団内での立ち位置の違いみたいなのでした。 文中にも「歌舞伎は所詮、役者のもんや」とありますが、なるほどまあそういうことですね。 で、近松半二は、浄瑠璃の作者であります。 それと関係してもう一つ、なるほどと改めて納得したのは、ざっくり言うと「著作権」という考え方がほぼなかった時代の創作者の人生上の困難、という事でしょうか。 著作権がほぼないのですから、これは、考えるだにきつい人生であります。 だから、(「だから」なのか「にもかかわらず」なのか、いえ、多分「だから」)芸事には無頼の人生が生まれるのでありましょう。 少し前に又吉直樹の「火花」という小説を読んだ時、私は、ああ、現代はこんなところに無頼派作家がいるのかという感想を持ちましたが、思い返してみれば、それ以前にも藤本義一という作家が「鬼の詩」という小説で、芸事に取りつかれた生き方の恐怖、狂気そして陶酔を描いていました。 その裏には、芸能や芸事に生きる者が、明日の衣食住がままならないぎりぎりの生き方と並走している状況が確かにあったのだと思います。 にもかかわらず、芸術芸能に取りつかれた表現者の陶酔は、このように描かれるととても魅力的であります。 実は本作は、それだけが書かれていると言い切ってもいいのですが、つまりどこを切り取ってもそこにつながるのですが、以下に、作品の初めの頃の、「病」が相対的にまだ「軽い」主人公の心理描写を挙げてみます。 「病」はまだ「軽い」ですが、狂気と陶酔の感じがとてもよくわかる描写です。(尾羽打ち枯らした主人公が久々に家に帰ってきた部分です。「以貫」というのは「半二」の父親。) 浄瑠璃か。 浄瑠璃な。 以貫が湯から出て、詞章をうなっている。よく聞き取れないが、なにやら気持ち良さそうに頭を揺すっている。 浄瑠璃か。浄瑠璃な。 半二はざぶりと湯をかぶりながら、道頓堀の賑わいを思い出していた。 幟がはためき、人々がさんざめき、うまそうな匂いが漂い、木戸番が声をかける。 半二が笑う。そうか、浄瑠璃な。 浄瑠璃という、その言葉を口にのぼらせただけで、心がはずみ、途端に気が急いてくるのは、どうしたわけだろう。 浄瑠璃か。 浄瑠璃なら道頓堀よな。 半二がくつくつと笑う。 あー、阿呆やな。わし、阿呆や。 大坂へ戻ってきたんなら、まずはあそこやないか。真っ先にあそこへ行かな、あかんやないか。 道頓堀や、道頓堀。 髭を剃り、髪を整え、絹が用意した新しい着物に袖を通すと、半二はそのままふいと道頓堀へと繰り出した。そうして、それきり、戻らなかった。 いかがですか。「浄瑠璃か。浄瑠璃な。」の繰り返しがとてもいいですよね。 さて、そのようにして半二が芸事=病に取りつかれていき、どんどん取りつかれていき、そして、終盤の間近、そもそもその芸事の創作とは何なのか、筆者はそこに一つの言葉を用意します。 いわく、「虚無」。 そして、一つの描写を行います。 若い時から切磋琢磨し合ってきた狂言作家の「正三」(並木昭三ですね)との会話の場面であります。「ときたま、会うたりするんや」 正三がいう。「だれにや」 半二がきく。「その男にや。つまり、もうひとりのわしやな」「んな阿呆な。なにいうてんのや」「いや、ほんまや。こないだもな、わし、法善寺の角、ひょいと曲がっていきよる、あいつの後ろ姿をみたんや」 おい、正三、からこうてんのか、といいかけて、半二は、正三がひどく真面目な顔をしているのに気づいた。いつもの明るさが消え、どことなく影が濃くなっているようにみえる。ああ、と半二は思う。こいつも、虚に食われだしとる。「あかんで、正三」「なにがや」「そいつをおっかけたらあかん」 半二がいうと、正三が、はっとしたように、目を大きく開いた。「ようわかったな、半二。お前、なんでわかった。そうや、わし、たまにそいつをおっかけとうてたまらんよう、なるんや。おいっ、お前はなに書いとんのや、みしてみ、いうて、ひっ捕まえて、たしかめとうてたまらんようなる」「あかん、あかん。それしたらあかん。そいつのことは、ほっとき。決して相手したらあかんで」「そうか」「そうや」 ここにはいわゆる「ドッペルゲンゲル」が描かれていますが、ものを作ることをとことん突き詰めていった先のうすら寒い「虚」の姿を、上手にさし出していると思います。 さて、そんな一種の精神の「地獄」に陥りながら、しかしなぜ創作者はその世界をさらにさらに追及しようとするのか。 本書が最後に触れようとするるのは、そこです。 これも引用したいところなのですが、しかしここは各自で読んでいただこうと思います。 かつて私は宮沢賢治を扱った小説を読んだ時、こういった実在の文学者を扱った小説というのは、基本的にハッピーエンドなのだな(少なくとも私のような文学好きの読者にとっては)、と思いましたが、やはり本書もそのように思います。 なぜならば、あるいは言うまでもないことかもしれませんが、21世紀の今に至って、近松半二の作った作品は、演じられ、読まれている(読まれては、あまりないかもしれません)からであります。 もって瞑すべし、ハッピーエンドでしょう。…… よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.07.16
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『あひる』今村夏子(角川文庫) わたくし、本書を古本屋さんで見つけました。 文庫本に帯がついていまして、そこに、「芥川賞候補作&河合隼雄物語賞」とありました。 芥川賞はともかく、河合隼雄さんってのは、心理学の人だったか日本猿の人だったか、その辺がよくわからないまま買って読み始めたら、若い女性と主に子供たちの話が始まったんですね。 で、なんかわたくし、変に錯覚したんですね、これは児童文学なんだな、と。 本書には三つのお話が収録されていて、最初の「あひる」を読み終えました。 ところが読み終えた時、なんか、いきなりどこかに放り出されたような、少し嫌な感じがしたんですね。 で、なんか、愛想のない児童文学だなーと思って、改めて、文庫の帯の「芥川賞&河合隼雄物語賞」という文字をじーと眺めていたら、今更ながらあれっと気が付きました。 芥川賞は、児童文学にまでそのテリトリーを多分広げていないんじゃないか、で、やはり河合隼雄物語賞って、どんな賞? で、少しウィキってみました。ウィキペディアにはこう書いてありました。 河合隼雄物語賞は「人のこころを支えるような物語をつくり出した優れた文芸作品に与えられる。河合隼雄が深く関わっていた児童文学もその対象とする」とされ、(略) ……うーん、そんなところにあまりこだわる必要もないのでしょうが、「人のこころを支えるような物語をつくり出した優れた文芸作品」って、何? そうじゃない文芸作品って、あるの? なんか、丸い卵って言い方とあまり変わらない気がします。 ただ、「児童文学」について触れていますね。なるほど、やはり児童文学が掠っている作品なのか、と。 そして私は、2作目と3作目の小説を読みました。 で、わかりました。この薄い短編集は、芥川賞受賞作の単行本によく見られるタイプの、メインのお話一つと、ちょっと「落ちる」かもしれませんが、筆者がその前後に書いた小説を合わせて一冊にしたものです、と。(えー、ちょっと失礼な書き方になっているかしら。そうならば、申し訳ないのですが。) いえ、2作目と3作目もそれなりに面白く、かつ、「あひる」とも大いに関係のあるお話であります。 連作といってもいいのかなと思いますし、私がかつて読んだ本でいいますと、黒井千次の名作『群棲』が似たニュアンスの短編集(連作)だったように思いました。 で、とにかくメインは「あひる」だな、と。 そして、このお話は、不気味な話だな、と。 で、さかのぼって改めて気が付くのが「芥川賞候補作」という帯の言葉でした。 なるほど、芥川賞には本作と似たテイストの受賞作が結構あると私は思い出しました。アバウトな類似点になって少し申し訳ないのですが、少し前なら多和田葉子の『犬婿入り』とか、ちょっと近い所では小山田浩子の『穴』とか……。 日常生活の中に、なんか変なものが出てくるんですね。 いえ、元は別に変なものでもないんですね。本書でもそうですが、動物やお年寄りなんかです。(この並べ方って、「差別」っぽいですかね。すみません。でも、よーするに、ちょっと自分と異存在のもの、ですかねぇ。) で、それらを巡って出来事や登場人物の言動が、少しずつ変、つまり常識的なものから、なんか皮膚感覚的に気持ちの悪いものにずれていくんですね。 こういった感覚は、いわゆる存在の不安なんでしょうか。 気がつかなければ気はつかないのですが、一度気がついてしまうと、もー神経症的にどうしようもないもの。 これは実は、かなり文学の普遍的なテーマでもあります。 私は上記に多和田葉子以降を挙げてみましたが、このテーマは多分もっとさかのぼれるでしょう。(ざっと思い出すと、「内向の世代」あたりの芥川賞受賞作もいくつかはそんなようだった気がします。) ただ本書についていえば、私が最初に感じていた児童文学的な構造、それは私の読みそこないだったのかもしれませんが、それをどう考えたらいいのか、という引っかかりを持ちました。 というのは、もちろん児童文学などとラベルを張る必要のない(張るべきではない)すぐれた作品もありましょうが、私は少なくない児童文学について、児童を主な読書対象とするゆえの「人間性の簡略化」を感じます。(まー、相変わらずのわたくしの「偏見」なんでしょーねー。) 本作にも私はちょっとそんな感じを持ちました。 申し訳ないながら、少し物足りない思いを持ちました。 さて冒頭で、私は古本屋で見つけたという話を書きましたが、実は筆者について私は全く何も知らなかったわけではありません。 あ、芥川賞作家が、受賞前に書いたお話だな、と思って、まー、買ったんですね。 上記に私は、批判的なことばかり書いているように思われるかもしれませんが、この存在の不安という文学の本道に近い所にあるテーマは、決して私は嫌いなものではありません。 つまり、次にはぜひ、読んでいなかったこの筆者の芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』を読みたいものだと思った次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.07.02
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