ねこねここねこ

六月は橋です

   六月は橋です

なぜ、橋は六月ですか
きかれても
わたしは黙って笑うだけだ
チェシャー猫みたいに
のこされたいっぽんの盲の枝で

おもえば、野嵐らしのテーブルマナー
いまだってスベリヒユのつるが
耳垂れみたいにたれさがって
杭が、飢えでパッと燃えあがる夢にハッとする

かりに、パスカルを読もうと読むまいと
これも、逃亡法の亜種かもしれないけれど
昏くなる日々の内部の眺望に
六月の熱い橋だけは現存しています

おわりも始まりもない
円環の食卓、ひつじの刻
あしたも明け方の尿を
シゲシゲと、わたしはみるだろうな
逃げろ、といわれて
橋のうえで焼死した
ハリガネムシのような小学生もいたのだと

謎のような「六月は橋です」。
作者は、何故、橋が六月なのかと質問されても、黙って笑うだけと書く。

・野嵐らしのテーブルマナー
・杭が、飢えでパッと燃えあがる夢にハッとする
・逃げろ、といわれて 橋のうえで焼死した ハリガネムシのような小学生もいた

戦争中、6月に空襲を受けた記憶なのではないか、と考えてみる。
満足に食べるものがなく、敵機来襲に逃げ惑う日々。
橋の上で焼死した 痩せ細って頭ばかり大きく見える小学生。

「人間は考える葦である」という言葉を残したパスカル。
理数関係でも名を残した人ではあるけれど、ここでは、
哲学者、思想家としてのパスカルを考えてよいだろうと思う。
著書の『パンセ』を読もうと読むまいと…
戦争の極限状態を考えれば、思索・哲学は、逃避、逃亡法のひとつかも。

昏く(くらく)なる日々の…は、人生の黄昏時を迎えつつある心の中に
その記憶が厳然としてあることを言っているのではないか。

漫然と繰り返される日々の生活(円環の食卓)。
はっきりとした表現ではないけれど、作者が少年時代だった戦争時の記憶を
書いている、氏らしい表現法で、と私は思うのです。
明け方、ちょろちょろと放尿して、その流れをしげしげと自分で眺める。
中年男性の、哀切を感じる姿でもありますね。


・のこされたいっぽんの盲の枝で

残された一本の盲の枝とは?
他の選択肢を否定され、唯一残された選択肢を進むことを指すのでしょうか。
書き過ぎると、思想上、また国と国のあり方について、過激とも
取られかねない発言になってしまうので、やめておきます。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: