月の旅人

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迷わずトレドへ!

迷わずトレドへ!




アトーチャ駅トレドへは行かない人たちとレストラン前で別れてようやく出発し、バスに揺られて数分後、ガイドのIさんが前方に『アトーチャ駅』が見えると教えてくれた。
3月11日に爆破テロの起こった駅である。不幸中の幸いとでもいうのか、アトーチャ駅に列車が到着する直前に爆発したらしく、駅に到着してから爆発していたらもっと被害は大きかっただろうと言われている。テロが起こったのは午前7時半で、郊外の住宅地からの通勤客で混雑している時間だった。それを狙ってのことなのだろうが……。
ほぼ満員だった車輌の1つが爆発で大破。折れ曲がって脱線し、線路上に犠牲者が転がり約200人の死者を出した。このテロ直後、レスキュー隊だけでなく市民たちが自ら乗用車やタクシー、バスを使って怪我人を病院へ運んだという。さらに病院には献血のための長い行列ができたほどだとか。(*T-T*)じ~ん…
しかも翌日12日の夜にはスペイン政府の呼びかけでテロに抗議する集会やデモが行われ、デモ参加者のために夕方以降はマドリードの地下鉄が無料にされ、デモの先頭には王家の人が立ち230万人もの人が参加した。スペイン国内全体では800万人にものぼったと発表され、その中にはサッカー選手などの姿もあった。それに、人々はテロに対する抗議だけで誰も復讐や報復を訴える者がなかったとか。どこかの国にも見習ってほしいものだ。


40分ほど走って、土産物店でバスが停まった。トイレ休憩を兼ねているためしっかりと借りておく。
店内には雑貨から置物、フラメンコの衣装まで所狭しと置かれていて、再奥の一段高くなっている一角には剣や盾、鎧など武具関連の商品が置いてあった。私はいち早くそれを見つけてみきちゃんとNさんを誘い、さっそくあれこれ持ってポーズをつけては写真を撮り合う。こういうお店なら暇を持て余すことはない。(笑)
様々な装飾の柄がある剣はとても綺麗で、人の命を奪いさえしなければ装飾品として充分に通用する代物である。なぜか日本刀もあったっけ。
そこには拳銃もいろんなデザインのものが置かれていたが、もちろんおもちゃだろう。リアルだからちょっと怖いけど。(;^-^A


その土産物店から10分くらいで『トレド』に入り、旧市街を左の車窓にみながら丘を登っていく。
ビサグラ門その手前に、『ビサグラ門』があった。もともとはイスラム時代のもので、1550年に花崗岩で改築されたビサグラ門は2つの円塔を持ち、中央に中庭のようなスペースも持っている。頂にはトレドの守護聖人が剣を高々と掲げ、真ん中には大きくトレドの紋章が刻まれている。双頭の鷲はハプスブルグ家の紋章だとガイドのIさんが教えてくれたが、写真を撮る間もなく通過してしまったため、この写真は帰りにNさんが撮影したもの。
トレドの紋章は双頭の鷲とスペイン帝国の紋章を組み合わせて作られたもので、カルロス5世が特権としてトレドに与えたものだそうだ。


「スペインに1日しかいられないなら迷わずトレドへ行け」という言葉がある。
トレドはそれほどの魅力を持つ、マドリードからバスで約1時間、約70km南下した位置にある歴史と文化の街である。
ポルトガルでは読みをテージョ川と変えるタホ川に三方囲まれた自然の要塞であるトレドに町が起こったのは、紀元前190年頃のローマ帝国の時代。ローマ人が『トレトゥム』と名づけたのが街の名の由来となっている。
1世紀頃にはキリスト教が根づき、西ローマ帝国滅亡後の6世紀になってゲルマン系民族の西ゴート王国が首都としローマ正教が信仰されたが、王が改宗してカトリックに国教が変えられた589年からスペイン・カトリックの大司教座が置かれることになった。8世紀にはイスラム教徒が制服して街が『トライトラ』と呼ばれて後、その支配は374年間続く。また、以前からこの地に住んでいたユダヤ教徒とキリスト教徒、イスラム教徒の共存する街となった。文化の中心都市として繁栄を誇り、最先端の学問を学ぼうと多くの知識人が集まった。1085年5月25日、難攻不落といわれた要塞都市トレドを7年がかりで陥落させたカスティーリャ王アルフォンソ6世が入城した後も、イスラム教徒は寛大な王のもとこの地に残ることを選び、1492年にレコンキスタが完了してスペインが統一されユダヤ教徒が追放されるまで3つの文化の共存が続いた。シナゴーグ(ユダヤ教会)も2つだが市街に残されている。
トレドでは独自の文化が花開き、世界最高水準だったイスラム文化の学術書がアラビア語からラテン語へ、またユダヤ人によってヘブライ語に直されたあとラテン語へ翻訳したトレド翻訳派と呼ばれる人たちが活躍し、これらの翻訳書によってヨーロッパの知的水準が格段に向上した。1519年には強大なスペイン帝国の首都として世界で最も重要な街となったが、1561年にフェリペ2世がマドリードへ遷都し、政治の中枢としての役目を終えた。だが宗教、芸術、文化の面ではその後も中心的存在であり続け、トレドの司教座は現在もスペイン・カトリックの中心地となっている。


トレド旧市街全景5分ほどで、タホ川を挟んで対岸にある丘に到着した。ここは旧市街が一望できる絶好の展望台となっている。
トレドはエル・グレコが愛した街としても知られ、ここからの眺望は16世紀にグレコが描いた『トレド景観』とほぼ変わりがない。街は美観を維持するため建築制限に高さ指定や外観の色指定までされ、中世の街がそのままの姿で保存されているのだ。あらゆる時代の文化や宗教が融合した建造物が混在するこの旧市街は、1986年に世界遺産に登録されている。
エル・グレコ美術館にある彼の描いたトレドの絵を見たことはないが、全景の写真はパンフレットやガイド本などで何度も見たし、テレビでも見たことがある。それでも、現実に目の前にしたら思わず「おぉ~っ、すごいなぁ~♪」と洩らし何度もシャッターを切ることになった。何百年もの間変わらず守られてきた風景がそこにあるというのは、ただそれだけでも感動する。中世の人々が息づいて存在する街が時を越えて現代に現れたような、そんな錯覚さえ抱きそうになる。
個人で写したあとはドライバーのJさんやIさん夫妻と撮ったり、ベンチらしき石造りの台の上に乗って見下ろしてみたりした。ちょっと高い台だったため、飛び降りたときにバランスを崩して前の崖に落ちたらどうしよう、などと考えていったん座ってから降りようと戸惑っていると、傍にいたJさんが手を貸して降ろしてくれた。優しい♪(*^o^*)
対岸の丘そのあと私が戸惑っていた理由を察知したらしく、タホ川にダイブするようなジェスチャーをしたJさん。Jさんが見本を見せて、と思いっきり日本語で言ってみたら通じたのか、崖に向かって助走してみせる。Σ( ̄□ ̄;)こわっ 役目を果たしているのか疑わしいほど低い防護柵を足で蹴ってこちらに着地したJさんだったが、怖がりな私はそれでも充分ドキッとした。密かに心臓がバクバクしているのを隠して、冗談に満足しているJさんやみんなと笑い合った。(笑)
この展望台よりさらに高い場所にパラドールが建っている。その名も『パラドール・デ・トレド』といい、部屋には世界遺産のトレド旧市街を見渡せるテラスもあるためかなり人気のあるパラドールだ。マドリードを訪れた国賓がよくヘリコプターで直接訪れるという。( ̄- ̄;)世界が違うな…
Iさん夫妻はこのパラドールに宿泊したこともあるそうでトレドのオプショナルツアーの参加は迷ったらしいが、私たち3人も参加すると聞いて再訪することにしたと仰っていた。(*´▽`)ゞいやぁ…


バスで丘を下り、旧市街の散策が始まる。が、どこから入ってどこから歩き始めたのか、全く記憶にない。とにかく迷路のように石畳の狭い小路が入り組んでいて、方向音痴の私にはとても覚えていられなかった。デパートでもくるくると店内を回っていると、どちらが正面だったかわからなくなるくらいなので……。(;一一)ゞ
ガイドのIさんも、しっかりついて来ないと迷子になったら探すのも大変だから放っていく、と言っていたくらいの入り組み様である。もちろん、放っていくのは冗談だと訂正していたけど。( ̄▽ ̄;)
大通り少し広い通りに出ると、頭上にアーケードのように幕が張られていた。大陸性気候で夏に照りつける太陽の凄さは相当なものであるらしいため、日除けとして設けられているのだろうか。
しばらくそのアーケードの坂を上ると、ガイドのIさんが右側の建物の入口で立ち止まった。
混んでいるのかしばらく待ってから入ったそこは、『カテドラル(トレド大聖堂)』だった。


カテドラル(トレド大聖堂)はモスクの跡地に1226年から建築が始まったが、竣工したのは1493年のこと。その後も様々な増改築が繰り返されてきた。基本的にはゴシック様式だが、幾人もの建築家により様々な様式が混在している。
主席大司教座が置かれているスペイン・カトリックの最も権威あるカテドラルであり、建物自体が宗教芸術の宝庫といわれ、世界的に見ても重要な建物とされている。5~8世紀にかけてはこのカテドラルで18回もの宗教会議が開かれた。5つの身廊と22の礼拝堂がある回廊を持ち、ファサードにはゴシック様式の90mある尖塔とゴシック・ルネッサンス様式の丸屋根塔の2本の塔がある。
聖堂内は15~16世紀の750枚に及ぶステンドグラスが陽光に映え、中央礼拝堂の後期ゴシック祭壇のレターブル(装飾衝立)はヨーロッパ各地の芸術家27人の共同制作で木彫りに金箔を貼って彩色され、キリストの生涯20場面が彫り込まれている。字の読めない人でも見ればわかるようになっているのだ。祭壇装飾や宗教画などは、字が読めない人の多かった中世には聖書に代わる役目を果たしていた。また、この裏側には1732年に完成した“透明”を意味する『トランスパレンテ』と呼ばれている装飾がある。16世紀に作られたレターブルによって祭壇前に置かれた聖櫃が闇の中に埋もれる格好になっていまい、レターブルに穴を開けて光を取り込むことになったのだが、その際にただ穴を開けるだけでなく天使が飛翔する場面や最後の晩餐の場面などバロック調の彫刻で裏面が飾られた。この彫刻装飾がトランスパレンテと称されている。さらに外光を取り込むための穴が外壁にも開けられ、トランスパレンテを通って洩れる一条の光が祭壇前の聖櫃を神々しく照らし出している。


……が、私たちが訪れたときは内部のほとんどが修復中のため幕が張られ、世界で4番目に大きいとさえいわれている大聖堂なのにも関わらず「狭っ( ̄- ̄;)」という印象を抱き、床にも敷かれたシートの折れ目につまづいて転びそうにもなった。(^。^;)
しかも聖堂内は撮影禁止であるため、写真の1枚もない。そのせいもあり、印象が薄いことこの上ない。確か信者席に座って説明を受けながら何かを見たはずだが、それすらも全く覚えていない始末だ。(;一一)ゞ
覚えているのは、『聖具室』と『宝物室』。
現在は美術館となっている聖具室に入ると、正面に真っ赤なキリストの衣が目に映えるエル・グレコの『聖衣剥奪』が飾られていて、ガイドのIさんがその前に置いてある立派なテーブルの所に私たちを導き、早くそれを囲んで集まるよう指示をした。理由は後ほど明らかになる。その前に少し、エル・グレコと『聖衣剥奪』について。

ギリシャのクレタ島からローマを経てトレドへやってきたグレコは、すぐにカテドラルの聖具室の祭壇を飾る絵を依頼され、聖具室が聖職者たちが法衣などを保管し着替える場所であったことからそれにふさわしい題材として『聖衣剥奪』を選び、1577年に制作を開始した。『聖衣剥奪』とは、キリストが十字架にかけられる直前の衣服を剥がれようとしている姿を表現したものである。本来なら粗末な外套である聖衣をグレコは輝かんばかりの鮮やかな赤で描き、直後に磔の刑が待っているキリストを囲む男たちの緊迫感のある混乱した様子や、キリストの足元で役人が十字架の準備をしているのを3人のマリアが強張った表情で見つめている様子を描いた。3人のマリアとは、当然ながら聖母マリアとマグダラのマリア、そしてもう1人は聖小ヤコブの母マリア。マグダラのマリアは娼婦だったが、そんな自分を悔いてキリストに許しを請い、とり憑かれていた7つの悪霊を追い出してもらって献身的に仕え、後にキリストが愛したといわれている女性である。
カテドラル(トレド大聖堂)1579年に『聖衣剥奪』を完成させたグレコだったが、聖堂側は絵の報酬を払えないと言ってきた。キリストよりも群衆の頭が上にあるためキリストに対する冒涜であるということが1つ、そしてもう1つは聖書には3人のマリアが登場していないため、このような飾れない絵に報酬は支払えないというのが理由だった。グレコは憤って裁判を起こしたが、聖堂側に異端審問にかけると迫られ苦渋の末に折れて調停案を受け入れ、要求していた約3分の1の値段で『聖衣剥奪』を売ることになった。が、今ではスペイン宗教絵画の傑作とまでいわれているエル・グレコの『聖衣剥奪』。皮肉なものだ……。(ーー;)

さて、次に天井画を見上げるようガイドのIさんが指示する。そう、このときのためにテーブルの周りに集まったのだ。テーブルを支えにすれば安定して見上げることができるから。自分の気配りに胸を張っていたIさん。(笑)
天井は、ルカ・ジョルダーノによる天国を描いたフレスコ画で埋められている。その一角に赤い腰布をまとった天使がいて、騙し絵の手法が取られているため足がこちらに突き出ているような錯覚を抱く。じっと見ていたら、自分たちもその絵の中の一部分になって天国へ行けるような錯覚にまで陥るのかもしれない。私たちはそんな境地になる前に天井画から目を放し、聖具室を後にした。
聖具室には、他のグレコ作品の以外にもベラスケスやゴヤ、ルーベンス、ラファエロ、ティツィアーノなどの絵画が展示されている。


続いて、足場の悪い聖堂内を移動して『宝物室』へ。ちょっとした行列ができていて、いくらか待ってから入室する。
宝物室は尖塔の中にあり、けっこう狭い。が、宝物の凄さは半端ではなかった。必見とされているドイツ人のエンリケ・デ・アルフェ作の『聖体顕示台』は高さ約3m、重さ200kg以上もあり、銀に金箔を貼って作られている。この金は、コロンブスが新大陸から持ち帰ったものが使われているそうだ。それだけでもキラキラしているのに、この聖体顕示台にはさらにエメラルドやサファイア、ルビー、アメジスト、真珠、ダイヤなど3500個もの宝石で飾られている。値段のつけようもないそうだが、そりゃそうだろう……。しかも5000個以上もの部品を10000を超えるネジで止めて組み立てられているというのだから、その装飾の細かさもかなりのものである。写真に撮れないのが残念な限りだ。
が、この聖体顕示台を写真に撮るチャンスもある。それは年に1度、聖体祭の日に宝物室から出され、行列のシンボルとなってトレドの街を練り歩くその日。……待てない。(笑) それなら今1枚だけでもっという感じだが、禁止は禁止なので仕方がない。┐( ̄▽ ̄;)┌
他に、イサベル女王が戴冠式や正式な行事などのときに使用したという豪華な王冠もここに収められている。
とにかくこの部屋の中は、まさに宝物といった感じの煌々しさだった。太陽の沈まない国だったスペインの栄華の跡だ。


カテドラルを出て、アユンタミエント(市庁舎)広場でガイド本やポストカードを売っている出店のおじさんの元へ。
なんとこのおじさんは司馬遼太郎に会ったことがあり、日本語版のガイド本を売ったという。司馬遼太郎著作の『街道をゆく』にもガイド本を買ったことがちゃんと記されているそうだ。лヾ( ̄- ̄*)へぇ~
それを聞いて何人かそのガイド本を購入している人がいたが、この後寄った象嵌細工工房で安く販売していた……。もしや、おじさんの有名税で高いの?(笑)


アユンタミエント広場を抜けて市庁舎横の通りを進む直前、カテドラルを撮ってみる。とても全体を収め切れない。それでもツアーの一行がどんどん先へ進んでいくため、撮れるポジションを探すわけにもいかず、最後は建物の壁と壁の間から覗く尖塔だけをバックに無理やり撮った。(;^_^A
ちなみに、市庁舎はエル・グレコの息子ホルヘ・マヌエル・テオトコプロリによって完成された。


サン・トトメ教会の入口5分ほど歩いて路地を抜けると『サント・トメ教会』のある広場に出た。サント・トメ教会は12世紀の部分も残っているが、塔を含む大部分は14世紀のムデハル様式。入口部分には西ゴート王国時代のデザインが残っている。この教会にはエル・グレコの最高傑作と名高い『オルガス伯の埋葬』がある。というより、『オルガス伯の埋葬』があるからこそ知られている教会である。
右の写真はその入口の案内板。描かれているのは、『オルガス伯の埋葬』に登場している人物の1人である。モデルはグレコの息子ホルヘ・マヌエルだ。
教会に入るにはすでに多くの観光客が詰めかけていたため順番を待たなければならなかった。小さな教会の入口の外にまで人が溢れている。
中に入るとすぐ右側にその名画はあったが、絵の前に辿り着くにもさらに時間がかかる。各国のガイドさんが説明をしているため、なかなか前進しないのだ。しかも、いざ『オルガス伯の埋葬』の前に辿り着いたと思ったら、他のガイドさんの説明の声も聞こえるため、肝心のIさんの説明が所々しか聞き取れなかった。小さい教会なのに、違う意味でマイクかメガホンが必要である……。そしてまたしても、写真撮影は禁止だった。┐( ̄- ̄;)┌

『オルガス伯の埋葬』は4.8m×3.6mの大きな絵画で、上下の2部構成で描かれている。14世紀に私財を投じてサント・トメ教会を修復したオルガスの領主ゴンザロ・ルイス・デ・トレドの埋葬場面が題材となっており、1323年に亡くなったオルガス伯の死から約260年後、サント・トメ教会の司祭アンドレス・ヌニェス・デ・マドリードがグレコに依頼したのだ。グレコがトレドを訪れてから10年近く経った1586年頃のことである。
オルガス伯がサント・トメ教会に埋葬されるときに聖アウグスティンと聖エステバンという2人の聖人が現れ、手ずから遺体をお墓に入れたという伝説があり、『オルガス伯の埋葬』はまさにそれの場面を描いたもので、グレコは2年をかけて絵を完成させた。
『オルガス伯の埋葬』の上半分には天上界が、下半分には地上界が表されている。天上界のキリストや聖人たちは体を少し引き伸ばしたようなグレコ独特のマニエリズムという画風が用いられているが、地上界の人々にはそれがない。今まさに埋葬されようとしている甲冑姿のオルガス伯の遺体を抱え上げている2人の聖職者は天国から遣わされたトレドの守護聖人の2人、聖アウスグティンと聖エステバンで、その様子をレース襟の黒衣の騎士たちが見守っている。この騎士たちは、絵が描かれた当時の実在の人物がモデルとなっていて、フェリペ2世の姿もある。そして聖書を手に祈りを捧げている司祭は、グレコに絵を依頼したサント・トメの司祭アンドレス・ヌニェス・デ・マドリード。
天上界と地上界の境にはオルガス伯の魂である赤子を抱いている天使の姿があり、雲間から手を差し伸べている聖母マリアへ手渡そうとしている。
聖エステバンの背後には、絵の中でただ1人こちらを見ている人物がいて、それがグレコ自身であるという。その前には、プラド美術館に所蔵されている『胸に手を置く騎士』の人物が軽く手を広げ、聖エステバンを見ている姿もある。そして聖エステバンの右手前、画面の左側の位置にグレコの息子がモデルである松明を持った黒衣の少年が立っている。その黒衣のポケットから覗いている白い布に、グレコの本名のサインと息子が生まれた年である1578という数字が記されている。
この『オルガス伯の埋葬』は、世界三大名画の1つとされている。ベラスケスの『ラス・メニーナス』に続き、一日のうちに世界三大名画のうちの2つを見たことになるのだ。Σ( ̄▽ ̄*)すごっ 確かに、どちらもただならぬ何かを感じさせられ人々を惹きつける大作である。
風情のある石畳の小路世界三大名画の残る1つは、アムステルダム国立美術館に所蔵されているレンブラントの『夜警』がそうだ。でも、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』やボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』など他にもたくさんの名画があるのに、いったい誰がこの3作を三大名画に選んだんだろう?


サント・トメ教会は『オルガス伯の埋葬』を見ただけで外に出、また小路を歩き出す。
小路はまさに中世の趣がたっぷりで風情があることこのうえないが、石畳というものはとても歩きにくいものだったりする。小路を抜けてタホ川が見えた頃には足元が怪しくなり、手を借りて支えてもらいながら幅広の階段状になっている道を下った。
トレド観光はもう終わりのようで、タホ川にかかる『サン・マルティン橋』の向こうにバスが待っていた。スペインで最も必見の地だといわれているわりに、ずいぶんあっさりした観光だったものだ……。(ー_ー;) 『アルカサール』と『グレコの家』くらいは観るだろうと思っていたのに、傍で見ることすらなかった。でもこのときの時刻はすでに17時40分を過ぎていたため、そんな余裕はどこにもない。
『サン・マルティン橋』は13世紀に建造されたゴシック様式の橋で、当時の防御塔が今も残っている。
トレド旧市街へ出入りするには、ローマ時代から現在に至るまで、この西のサン・マルティン橋か東側にある『アルカンタラ橋』を渡るしかない。どちらの橋も、要塞の要なのだ。
サン・マルティン橋トレドの紋章水量の豊富なタホ川の増水によりサン・マルティン橋は何度か破損したらしく、特に中央アーチの部分はカスティーリャ王国の王位継承戦争の際に破壊されたこともあり、14世紀に修復された。
この橋の塔にもトレドの紋章が刻まれている。両腕を広げて軽く4人は並べるに違いない幅のある、立派な橋だ。


そのサン・マルティン橋からバスに乗って5分経ったか経たないかのうちに、またもや停車した。すっかりもうこのままマドリードへ戻るものだと思っていたが、まだ予定があったようだ。
立ち寄ったのはトレドの伝統工芸の1つ、象嵌細工の工房である。
トレドで作られている象嵌細工は『ダマスキナード』と呼ばれている。象嵌細工(ダマスキナート)とは鋼板素材に線彫をし、そこに金糸や銀糸を埋め込んでデザインを描き出していく技法のこと。世界4大文明の地の1つチグリス・ユーフラテス川流域のダマスカス(現在のシリア)でイスラム文化最高の装飾工芸が生まれ、それを『ダマス物』と呼び継がれてきたのが名称の由来である。これが東は中国、西はスペインへと広まり、トレドで技術が磨かれて貴重な装飾工芸品となった。
象嵌細工イスラム文化の影響が色濃いトレドでは、アクセサリーはもちろん家具や額絵、皿、甲冑、剣の柄、ペーパーナイフなどにも象嵌細工が施され、室内の壁面だけでなく城門の装飾にも優れた技術が活かされ、脈々と工芸家たちに伝承されてきた。だが現在も創作を続けている象嵌工芸家はわずか十数名で、海外で講演や実演、出展をしているのはその中でもさらにひと握りしかいない。是非、これからも絶えることなく引き継いでいってほしいものだ。

この工房には土産物店も併設されていて、象嵌細工品はもちろんリヤドロや刀剣などいろいろ販売されていた。その中にカエルの置物を見つけ、スペイン旅行中に何度もカエルに遭遇するため何かあるのかと思いガイドのIさんに訊ねてみた。残念ながらIさんにもわからないらしいが、あとでサラマンカ大学のファサードのカエルが関係しているのかもしれないなぁとふと思った。まったく違うかもしれないけど。f^_^;)
そしてここで、添乗員さんからガイドのIさんが私たちと一緒に闘牛場へ行ってくれることになったと聞き、「よろしくお願いします」と心強い案内人に挨拶をした。
実はIさん、マドリードの『ラス・ベンタス闘牛場』に年間指定席を持っているほどの闘牛好きで、さらに闘牛場を訪れたら毎度テレビに映る有名人でもある。闘牛のある日に違う場所にいると「今日は行かないのか?」と訊かれ、チケットを譲ってくれと言われることもしょっちゅうあるのだとか。лヾ( ̄o ̄*)へぇ~

工房を後にして、今度こそマドリードへとバスが走る。
最初は快調に走り、ガイドのIさんがマドリードや闘牛についてあれこれと話してくれることを「へぇ~лヾ( ̄▽ ̄*)」と何度もみきちゃんと身振りを加えて言いながら楽しんでいたが、そのうち渋滞に捉まってしまった。
渋滞…まだか……まだか……と思っているうちに、この時期の闘牛の開始時刻である19時を過ぎてしまい、「いやぁ~っどうなってんの~っ」と前方を見据えながらぼやき、イライラすることになった。闘牛好きのIさんも、人気の闘牛士が出場するから尚更なのか渋滞に文句を言う。サンデードライバーが事故でもしたんじゃないかと言っていたが、渋滞の原因は本当に事故だった。
その現場の横を通過するとき「やっぱりか!」とIさん。玉突き事故で、そのうちの1台が真ん中の車線に乗り出して止まっていたために車の流れを止めていたのだ。
その現場を車内からデジカメで激写して通過し、すぐにスムーズに走り出した。いや、スムーズというより結構なスピードを出して疾走するJさん。
私たちが闘牛を観に行くことを知っているからか、それともガイドのIさんに急かされたのか、とにかく観光バスなのに他の車を抜かしていくほどのスピードで走っていた。そのおかげでトレドから1時間20分弱でホテルに到着し、バスが停まった途端に私たちを先に降ろしてくれた。
なんと明日の空港への送迎は違うドライバーさんらしく、Jさんとはこれでお別れ。楽しい思い出をくれたJさんとこんなに忙しくお別れするのは実に忍びなかったが、ガイドのIさんに「早く!」と急かされ「グラシアス!」とお礼だけはちゃんと言って降りた。私のあとに続いたみきちゃんとNさんはJさんにキスの挨拶をしてもらっていてちょっと羨ましかったが、戻るわけにもいかない。f^_^;)
とにかくもう闘牛は始まっているのだ。
大急ぎで部屋にチケットを取りに戻り、ガイドのIさんが停めてくれていたタクシーに乗り込んで闘牛場へと向かった。
やっぱり、ゆっくりし過ぎたツケがここに回ってきたんじゃないの……?(ー_ー;)



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