比嘉周作    トーク&タップダンス

比嘉周作  トーク&タップダンス

9年後  作品 構成作家 安里


 出会いは小学生の時。その女の子とは中学校も同じで、三年間に、二度も同じクラスになった。
 それなのに、僕は自分の想いを告げる事も、仲良くなろうともしなかった。それどころか、普通の会話すらできなかった。言葉を交わした総数なんて、もしかすると一桁だろう。
 あがり性だという自覚はなかったのだが、彼女の前では、口は開かず思考は止まった。顔全体が熱くなって、無意味に汗が吹き出て、「おはよう」という短い会話ですら、全速力でユーラシア大陸を横断したような脱力感に包まれた。横断した事はないけれど。
 接点がないのだから、僕とその子の仲が深まるはずもなく、三年間は素早く過ぎ去り、卒業を目前にしてクラスでは進路決定が行われた。
僕とその子の進路は、別れた。
彼女は進学校へ進む事になったが、僕は商業高校を選んだ。寂しかったけど、僕たちは家が近所だったので、もう二度と会えなくなるとは思わなかった。
 何度か散歩するふりをして、彼女の家の前を通ったりした。偶然に会って「あ、久しぶり」なんていう会話をするコンタンだったのだ。
とにかく家が近所なのだ。近くのスーパーでばったり会えるかもしれないし、僕にもう少し勇気が出てきたら、積極的にコンタクトを取れるようになるかもしれない。
だから、卒業して、別々の高校に通う事になったとしても、僕には絶望感はなかった。楽観主義という僕の信条は、このときから発動していたのだろう。結局は、散歩の最中に彼女と偶然会う事はなかったし、スーパーで顔を合わせることもなかった。

 自分なりに努力をして高校に合格し、新しい生活が始まった。
 高校生になったばかりの頃は、不必要に背伸びをして、まるで自分の未熟さをアピールしているみたいだった。
けれど、新しい友達ができたし、新しい視点も身につけた。生徒の三分の二が女性なので、多少肩身の狭い思いをしたが(こちらが勝手に肩身を狭くしていただけだが)、それにも慣れてきて、そのうち学園生活が楽しいと思えるようにはなってきた。
高校生活の三年間、ずっと同じクラスだった女の子がいた。その子は、少し太っていて、そのことにコンプレックスを持っているみたいだった。僕から見れば、彼女は肌が白くて、話を聞くのが上手で、魅力的な女の子だと思っていた。好きな女の子と話もできない僕が、その子とだけは仲良くなれたくらい、気さくだし、話していて気持ちが良い人柄だった。
 ある日(どんな話の展開からだろうか)、彼女は、自分はブスだといった。そのうえデブだから、男の子に絶対もてない、とか言っていた。聞いていて、僕はなんだか腹が立った。
 いつも前向きで、失敗を前進のための一歩だと気持ちを切り替える事ができる人なのだ。何度も、僕は彼女の優しさと明るさに救われた。暗く、自滅的な傾向のある僕の精神が、高校生活の間健全に働いていたのは、他ならぬ彼女の影響だ。
 その彼女が、自分の外見に悲観している。この光景を、僕は見たくなかった。
彼女がそんな事で悩んでいる姿を見たくなかった。
もちろん、そんなのは僕のわがままだ。人にはその人だけの悩みの尺度がある。僕が手前勝手な感情で、それを否定することなんてできるはずがない。
それでも、僕は見たくなかった。だから、言った。
「ブスだって言うけどさ、ブスの定義は何さ」
「……美人じゃない事」
 数秒、僕の目をじっと覗き込んでから、やがて彼女は顔を伏せて、僕を上目で見ながら、恥かしそうにそう言った。その口調と表情から、僕の中の身勝手な感情を、彼女が読み取ったのを僕は知った。
何故だろう。理由はわからない。だけどこのときの彼女は確かに、僕が勝手に彼女の悩みに腹を立てたことを悟ったのだ。彼女が恥かしそうにしたのは、自分の容姿を自分で評価するような返答をしたためではなく、僕を不愉快にさせるような話題をしてしまった、自分に対する自責の念からだった。彼女は、そういう人なのだ。
「……じゃあ、美人の定義は?」改めて僕は尋ねる。
「ブスじゃないこと」すぐに彼女は答えた。
 僕たちは顔を見合わせ、同時に笑い出した。僕の「定義」で言うなら、彼女は「とびっきりの美人」だと思った。僕にとって、外見なんて、相手を覚えるための記号でしかない。
 無意味だ、とは言わない。外見を磨く努力など必要ない、とも言わない。それはそれで必要だし、そこにも意味はある。ただ、僕にはどうでも良い事なのだ。
 その後、くだらない話をした。くだらない話をできる相手がいるという事。見落としがちだが、それがどれだけ素晴らしい事なのか。
 帰り際、「ありがとう」と彼女が言った気がした。小さな声だったし、聞き返すのもなんだか照れくさかったので、僕は「うん」と曖昧に答えて、別れた。
 本当は、その言葉は僕が言うべきだった。
 狭い僕の心を救ってくれたのは、彼女の方なのだから。

 別段ドラマチックなイベントもなく、僕は高校を卒業した。
 卒業式の後、僕は男友達と遊びに行く事になった。仲の良かった五人組で遊ぼうという企画だったのだが、待ち合わせ場所のカラオケ屋に行くと、そこには何人かの女子がいた。
 遅かったじゃないか、と笑いかけた友達がいて、ああ、こいつが女子を誘ったのだな、とすぐにわかった。両隣を女子に挟まれる席を、既にそいつは確保していたから。そして何より、学校では見ることのできない眩しいほど輝く笑顔を撒き散らして、うっとうしかったから。
 僕は、好きな女の子がいて、それなのにその子へ告白する事も、その子の事をあきらめることもできない男だ。気持ちが中途半端にくすぶっていた僕は、正直、女子と話すのが苦手だった。
 でも、その中に、例の「とびっきりの美人」がいたので、僕は少し気が楽になった。彼女になら、変に気兼ねせずに話せる。その子の隣に座り、僕たちはいろいろ話をした。
 初めてお酒を飲み(法律違反だが…)、僕はずいぶん浮ついた。酔っ払うのが早いほうなのだ。
 酔っ払うとなんだか些細なことでも面白くて、いつも以上にその子との会話が弾んだ気がした。もう卒業して、いつものようには会えない、という寂しさも当然あった。
いつもの教室で、いつものような日常を送る日々はもう終わり、すべての事に責任を持ち、打たれながら前へ進んでいく。嫌な事も「仕事のうち」と言い聞かせながら生きていく日々が待っている。
時間を重ねるごとに、耐えがたいほど膨らんでいく喪失感から逃れるように、僕たちは騒ぎ、笑い、話した。場所を移し店を変えて、さらに盛り上がった。
堂々と日付更新の時間をオーバーし、そして、ついに、僕たちは別れた。僕は「とびっきりの美人」の運転する車で家へ送ってもらった。もちろん僕だけではなく、他の、酔っ払った同級生(もうこの言葉も使えない)達もいる。そういえば彼女はお酒を飲まなかったな、ということに、助手席に乗ったとき気がついた。
「さようなら」
車から降りる時、車の中にいる「仲間」達にそう告げた時、本当に卒業したのだと思った。学校にではない。共有した空間と時間が終わった。そういう意味の卒業だ。
遠ざかっていくテールランプと、やけに冷たい空気が、より一層、僕の胸の中を寂しくさせた。
あれから、7年の歳月が流れた。
僕は高校生から見れば「おじさん」と呼ばれる人種になった。
ふらふら生きているが、時々、一人では支えきれない精神の重い荷物を背負ったりして毎日を過ごしている。
好きな女の子と僕との進展はない。僕の気持ちを知る友人が、「まだ彼女は独身で、今は恋人もいないみたいだ」と近況を教えてくれた。おせっかいな奴だなあ、と苦笑する余裕ができたのは、僕が「大人」になったからなのだろうか。「大人の定義は?」と高校生の時の口癖が浮かんで、また一人で苦笑する。
そんなある日、久しぶりに高校時代の同級生に出会った。卒業式の夜、一緒に騒いだ友達の一人だ。男だけで盛り上がろうぜ、と企画を立てたくせに、自分でそれを裏切ってクラスの女子を連れてきたお調子者だ。プロゴルファーになりたい、と言っていたが、その後どうなったのだろう。ネクタイ姿の彼にそのことを訊く事はしなかった。やはり、僕は大人になったのだろう。
立ち話だったので、あまり長く話すことはできなかったが、昔の楽しい思い出を話すのは、やっぱり楽しいものだ。あっという間に時間が過ぎた。
別れ際、旧友が言った。
「とびっきりの美人」、あの子が、僕のことを好きだったという事を。

「ほら、卒業式の後、俺たち集まっただろう?あの日、あの子たちを呼んだのは、彼女が告白するタイミングを狙ってみたいだから、気を利かせてあげたんだ」
「うん……」
「けど、何もなかったみたいだな」
「うん」

 その場はそれで別れ、僕は仕事に戻った。
 いつものように疲れ果て、家に帰り、シャワーを浴びて、
 僕は泣いた。
 思い出したのだ。
 僕はあの日、したたか酔っていた。初めて飲んだお酒のせいで、浮かれていた。今日で別れる事になる友人達との別離の悲しさを振り払うように、騒いだ。
 僕は「とびっきりの美人」の隣に座った。そこで何を言ったのか。
 あろうことか、僕は、自分には好きな女の子がいて、告白もできずに曖昧な想いを抱えている、と彼女に相談してしまったのだ。
 彼女はにこにこして僕の話を聞いてくれた。真剣に僕のことを励ましてくれた。
 いつものように、優しくしてくれた。
 どんな気持ちだったのだろう、と考えると、止められないほど涙が出てきた。
僕はこんなに弱い人間なのだ。だから普段は平然とした人格を形成し、だけど、人が己の弱点を露呈するような場面になると、人格が防御の体勢に入り、思考が固まる。
 自分は太っているし、ブスだから……。彼女がそう弱音をもらした時、その光景に耐えられなかったのは、封印している弱気な自分が、彼女の悲しみにつられて起きてきそうだったからだ。彼女はそのとき、僕の身勝手な心の動きを読み取り、僕を気遣ってくれた。それなのに、僕は再び彼女に僕の身勝手さを押し付け、彼女の言葉を封じた。告白しようとする彼女に、彼女以外の女性への恋心を打ち明け、彼女の心を傷つけた。踏みにじった。
 彼女の気持ちを粉砕した。
 それなのに彼女は僕を励ましてくれた。
 優しく肩を叩いてくれた。
 自分の言葉は、飲み込んで。
 ノズルを捻り、シャワーの水圧を上げて、僕は泣きつづけた。
 僕の口から、自分以外の女性の話を聞かされた彼女は、どんな気持ちで話を聞いてくれたのだろう。何故、僕に優しくしてくれたのだろう。
 好きだから?なら、彼女のその気持ちが、さらに彼女を傷つけることになっただろう。
 家に帰って、彼女は泣いたかもしれない。今の僕みたいに。

 卒業の夜から7年の歳月が流れた。この時間は、彼女の胸の痛みを和らげてくれただろうか。
 これからこの痛みを抱えて生きていく僕は、その道のりの長さを思ってぞっとした。

僕は、「とびっきりの美人」を見失ってしまった。

 また2年の歳月が流れた。僕は、独りで生きている。彼女を想う時に走る胸の痛みは、まだまだ無くなりはしない。
それが無くなったとき、「あの子」に告白できるのだろうか。
それを無くす為に、「あの子」に告白するのだろうか。
答えてくれる人を無くしたまま、今日も独りで生きている。



© Rakuten Group, Inc.
X

Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: