比嘉周作    トーク&タップダンス

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クリスマスの夜のミッチー 


                          著者 安里重信

 寒い季節の中、一匹の小さな犬が、とぼとぼと歩いています。
 その子犬は、捨て犬でした。まだ生まれて間もない頃に、捨てられました。
 飼い主に捨てられたその犬は、捨てられた、という事情もわからず、ただ生きるために、街から街へ、歩きつづけました。
 行くあてもなく、行きたい場所もなく、ただ寂しさだけを抱えて、その子犬は歩きつづけました。
 どれくらいさまよいつづけたのか、もう、覚えていません。生まれてから今日まで、満足に食事もしていません。
 冬になりました。子犬にとって、つらく孤独な寒い夜がつづきます。

 ある日子犬がいつものように、あてもなく歩いていると、どこからか、彼を呼ぶ声がしました。
 子犬は一瞬、「びくっ!」と身体をこわばらせてしまいました。
 もしかしたら、前に石を投げ、彼をいじめた子供たちのことを、あの時受けた痛みを思い出したのです。
 恐る恐るその方向を見ると、そこには、子供たちの姿はありませんでした。
 代わりに、一人のおじさんの姿がありました。
 そのおじさんは子犬をしばらく見つめていて、それから、
「おーい」
 と呼びかけました。
 ただそれだけでしたが、おじさんの声には、表情には、今まで子犬が受けたことのない優しさがありました。
 子犬はとても喜びました。
 捨てられてからずっと、優しくしてくれる人などいませんでした。いつも汚れ、おびえていた子犬に手を差し伸べてくれる人など、一人もいなかったのです。だから、初めての優しい言葉に、小犬は嬉しくなってそのおじさんの足元へ、全速力で駆けて行きました。

 その出会いがきっかけとなって、小犬はそのおじさんの家で住むことになりました。
 やさしい家族は、小犬をあたたかく迎え入れてくれました。
 家族は最初に、その子犬に名前を付けてあげました。
 名前は、「ミッチー」。
 家族のみんなは、この小さな新しい家族を「ミッチー」と呼びました。
 そのうち子犬は、自分の名前が「ミッチー」だと理解し、それを受け入れるようになりました。こうして、ミッチーは家族の一員となったのです。

 ミッチーはいつまでたっても、身体が大きくなりませんでした。小型犬だったのです。
 けれど、気分は大型犬のつもりなのか、相手が誰でも、ちっとも恐れません。
 そんなミッチーを家族は、とてもとても愛して、大事にしてくれました。その愛情に包まれて、これまでの寂しさを忘れてしまうほど、ミッチーは幸せでした。
 家族はよくドライブに出かけましたが、ミッチーも当然のように一緒についていきます。
 助手席で大人しくしていますが、みんなと一緒にいられるだけで、ミッチーはとても嬉しかったのです。

 ある日、ミッチーは「お手」をおぼえました。今では「お父さん」になったおじさんが、教えてくれました。
 ミッチーの「お手」を見て家族が喜んでいるのを知り、ミッチーはなんだか嬉しくて、次は「おすわり」をおぼえました。それが、ミッチーの得意技になりました。
 得意技といえば、ミッチーは、知らない人が家にくると、小さい身体で一生懸命、訪問者に吠えました。相手が誰でも、ワンワン、吠えました。
 そのミッチーを家族は、頼もしいと、喜んでくれました。だから、ミッチーは、ずっとその役を続けました。
 たまに、訪問者が知っている人でも、いつものように吠えて、お父さんに怒られたりもしましたが、ミッチーはこれが自分の仕事だとばかりに、一生懸命吠えていました。

 ミッチーにとって、とても幸せな毎日が続き、時が流れ、いつのまにかミッチーはおじいちゃんになっていました。
 お父さんに出会ってから、もう十年の歳月が流れていたのです。
 ミッチーは、歳をとりました。
 前よりも周りの風景がよく見えなくなっていました。視力が急激に下がってきたのです。そして、歩くこともつらくなってきていました。
 でも、お家に誰かが来たら、前と同じように、小さい身体全身を使って、一生懸命吠えていました。
 若い頃のように力強く吠えることは出来ませんが、それでもミッチーは自分の仕事を全うしようとしました。

 ある日のことです。家族でドライブに行くことになりました。
 もちろん、ミッチーも家族の一員ですから、当然のように一緒に行くつもりでしたが、数日前から体調を崩していたミッチーは、その日も具合が悪く、大事を取って、お家でお留守番をすることになりました。
 ミッチーは大人しくお家で待っていましたが、その日の夜になっても家族は帰ってきませんでした。
 暗い部屋で、静かなお家で、ミッチーはずっと待っていました。

 一瞬の出来事。
 交通事故は、たった一瞬で、ミッチーから家族を奪ってしまいました。

 家族の事故を知らないミッチーは、十年間一緒に暮らしてきたやさしい家族をなくしたことを知らないまま、ずっと待っていました。
 家族が帰ってくるのを、ずっとずっと待っていました。
 どんなに待っても、どんなに探しても、もう家族はいないのだということを、どうしてもミッチーは受け入れることが出来ませんでした。

 そしてミッチーは、また、とぼとぼと歩き出しました。

 よぼよぼで、毛も抜け落ち、歩くこともままならないミッチーを、誰もかまってくれませんでした。
 寒い季節。あてもなく歩いていた子犬の頃と同じ孤独。
 どんなにつらくても、寂しくても、ミッチーは誰かに拾ってもらおうとは思っていません。
 なぜなら、ミッチーの家族は、もうすでにいるのですから。

 ミッチーは歩きつづけました。
 ミッチーは探しつづけました。
 そして、ミッチーは待ちつづけました。

 ミッチーは、滅多に弱音を吐きません。
 くうーん、と泣いたことは、家族の前では一度もありませんでした。とても強い心をもっていたのです。
 ですが、突然家族を失い、日が経つにつれ、ミッチーは、自分の身体が急速に衰弱しているのを感じていました。
 もう若くはないその身体は、以前のように走ることが出来ず、歩くだけで足腰が悲鳴をあげ、わずかに残っていた視力でさえも、理不尽に奪われようとしていました。
 一人ぼっちの旅をつづけるうちに、ミッチーはついにその場で動けなくなりました。
 暗く湿った路地裏で、誰にも気づかれることなく、介抱されるわけでもなく、誰にもかまってもらえずに、一人ぼっちでうずくまってしまいました。
 もし誰かが今のミッチーを見つけても、汚れ、くたびれ、弱り果てた老犬を、かまってくれたでしょうか……。
 おなかがすいて、身体が震えています。
 ついに、意識も薄れてきました。
 意志の強いミッチーが、今も、失った家族に会えることを信じ、探しているミッチーが、弱りきった身体と、どうしようもない孤独に包まれ、もうほとんど何も見えなくなった目をわずかに動かし、鼻で家族のにおいを探しました。
 すがるように。

 くうーん……。

 忍び寄る死の恐怖と寂しさのあまり、ついにミッチーは泣き声を上げてしまいました。あれほど意志の強かったミッチーが、ついに、助けを求めるように、泣いてしまいました。
 子犬の頃。
 孤独と疲労と空腹に傷ついていたあの頃。
 あの時は、お父さんがミッチーを助けてくれました。
 今は、誰もいません。
 くうーん……。
 最後のひとなき。
 ミッチーの脳裏に、家族との楽しかった思い出が、次々とよぎり、消えていきます。動けないミッチーは、見えない何かに触れようとして、かろうじて前肢を動かしました。
 その時、夜空から一条の光が差してきました。
 光はゆっくりとミッチーの身体を包み込みました。
 目を閉じかけたミッチーは、その柔らかいあたたかさに気づき、頭をかすかにもたげました。
 光の向こうに、何かが見えます。
 ずっと長い間、馴染んできたにおい、そして、あまりにも優しくミッチーを呼ぶ声。
 間違えるはずがありません。
 ミッチーは嬉しくて跳ね起きました。
 不思議なことに、動けないはずの身体に、あふれるほどの力がみなぎっていました。
 ミッチーは、その、夜空から差してくる光の道を駆け上りました。
 ミッチーは迷いもなく、一直線に夜空を走ります。
 ミッチーのそのひたむきな眼差しは、光の向こうに、ミッチーを待ってくれている存在だけを見ています。
 家族を失って以来です。ミッチーの顔が、とても安らいでいます。
 まぶしい光の向こうで、今、やっと、ミッチーは家族のもとへ帰り着きました。
 ミッチーが帰るべき場所。
 愛する家族に抱きしめられて……。

 その日が、世界でなんと呼ばれているか、ミッチーにはわかりません。
 たとえミッチーが知らなくても、
 その特別な夜は、
 誰にもかまってもらえず、誰にも知られず、
 暗く湿った路地裏で、衰弱し、静かにその小さな命を失ったミッチーにも、
 幸せをプレゼントしてくれたのです。

 メリークリスマス、ミッチー。
 安らかに……。


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