第7官界彷徨

第7官界彷徨

なぎ子の枕草子


2010年水無月の頃
岩佐美代子さんの「宮廷の春秋」を読んで
1926年生まれの美代子さんは、4歳から、昭和天皇の長女、照宮さまにお仕えして、13年間も昭和の宮中での「女房」を務めたのです。

 この本では、宮中でのご自分の姿を思い起こし、それを清少納言や紫式部と、彼女たちが仕えた,定子、彰子中宮との心のふれあいを重ねて、枕草子や源氏物語を分析していくのです。

 国文学者の名門に生まれた美代子さんは、天皇家の子ども達とともに和歌をはじめとするいろいろな講義を受け、成長していきます。 

 2人とも結婚したのち、照宮さまが35歳という若さで亡くなられ、美代子さんは、そのショックから立ち直るために、夫君の勧めで、学校時代に進講を受けた久松潜一先生の門を叩きます。

 そこから、大学で学んだ人ではない国文学研究者の道を歩み始めます。
 出会ったのは、二つの皇統の南北朝の争いの中、いわゆる北朝、持明院統、京極派の歌人たち。
 伏見院の春宮時代の友人、早くしてなくなった源具顕、(美代子さんはともあきくんと呼ぶ)、長く波乱の一生を送った京極為兼、永福門院などの生き様と、奈良興福寺の「唯識無境」の考えを取り入れた京極派の歌の確立など、「京極派和歌の研究」をまとめあげて行きます。

 昭和時代のご自身の体験と平安時代の「古典」を合わせての中世王朝和歌の研究。南北朝の厳しい政局のなか、「ともあきくん」をはじめとして、生き生きと新しい良い歌を作ることの研究に没頭している人々がそこにいます。

なぎ子の枕草子
2013年9月1日
 秋の夜長、読書の秋も到来なので、なぎ子ちゃんの枕草子について、少しまとめて行きたいと思います。

 のちの清少納言なぎ子は、康保3年(966年)
 父、清原元輔(908~990)が60歳近いときの姫として生まれました。

 父元輔は、地方官を歴任した下級の貴族でしたが、万葉集の研究、後撰和歌集の編纂(梨壷の五人)などをした歌人でした。
 百人一首には
*契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは
 が。
 この「末の松山」とは、宮城県多賀城市の歌枕の場所で、2011年3月11日の大震災でも、津波がその手前で止まったそうです。

 同じ百人一首には、元輔よりも高名でいくつもの勅撰集に41首を残している曽祖父、清原深養父の
*夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいずこに月宿るらむ
 が。 

 元輔は遅く生まれたなぎ子を溺愛したらしく、天延2年(974年)周防守としての赴任に、8歳くらいのなぎ子を伴います。
 4年の任期中、都に憧れつつ周防で育ったなぎ子なのでした。

 周防の行き帰りは、船で瀬戸内海を行ったらしい。
 枕草子には、当時の女性としては珍しく、船のことが幾つか書かれています。

 二百九十段
「うちとくまじきもの」

わが乗りたるは、きよげに造り、妻戸あけ、格子上げなどして、さ水ひとしうをりげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。
異舟を見やるこそ、いみじけれ。
遠きはまことに笹の舟を作りて、うち散らしたるにこそよう似たれ

 自分の船は家の小さいののような感じだけれど、他の舟を見るとあまりに小さくて怖いみたいだ・・・。

 12歳位で帰京するのです。


天元4年(981年)、15歳くらいのなぎ子は橘則光と結婚、翌982年、長男則長を出産します。

 則光とは離婚しますが、ずっと仲のよい友人の2人でした。
 そののち、藤原実方と結婚。
 則光よりも上流の貴族で文化人で風流人の実方でしたが、間もなく離婚。
 しかし、離婚後も交流はあったようで、のちになぎ子が宮中に出仕のときにも、実方の家族の応援があったようです。

 実方はのちに陸奥の守に左遷され、任地で亡くなりました。

 長保2年(1000年)定子さま崩御ののち、彰子中宮にお仕えする女房も多いなか、宮中から下がったなぎ子は摂津守藤原棟世と結婚、のちに彰子に仕える上東門院小馬命婦を生みます。

 前夫橘則光が、競馬の勅使役として道長さまの御堂関白記に記載されている頃でしょうか。
 則長は折々に母を訪れ、小馬命婦は母の歌集を作るなど、なぎ子は幸せな母だったようです。

曽祖父の深養父、父元輔、なぎ子、3人の歌が百人一首に採られた歌の家で、大好きな父の名を汚したくないと、歌はあまり詠まなかったというなぎ子。

 では、百人一首のなぎ子の歌がどんなふうにできたのか、枕草子より引いてみましょう。

131段
 行成さまがおいでになって雑談をしているうちに夜が更けてしまいました。「明日は物忌みなので詰めなくてはならないので丑の刻になったら具合が悪いので」とお帰りになりました。

 翌朝、勤め先の用紙をつかって「夜を明かそうと思いましたのに、鶏の声にせきたてられてしまいました」という手紙がきました。その筆の見事なこと!

 お返事に
「朝早くに鳴いたというのは、あの孟嘗君のニセの鶏のこと?」と書いてやりました。
 するとお返事がきて
「孟嘗君の鶏は函谷関だけど、私の言うのは逢坂の関のことです」というので

*夜をこめて鶏の空音ははかるとも世に逢坂の関は許さじ  
    しっかりした関守がいますから。と申し上げるとすぐに
*逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにも開けて待つとか
   とお返事がありました。

 このお手紙を、初めのは定子さまの弟の僧都の君が大変なご懇望で、3拝9拝という騒動でご自分のものにされました。あとの二通は定子さまが手元に置かれました。」

 (行成は、書道の三碩の一人で、彼の書は当時から珍重されたのだそうです。)

 その後、行成様がおいでになって、「私の逢坂の関」の歌には、さすがのあなたも気圧されて返事ができなかったようですね。それにしても、あなたの手紙は殿上人がみんな見てしまったよ。」と言われるので

「本当に私に好意を持って下さっているのがよくわかりました。素敵な歌など、人の評判にならないのは甲斐もないことですもの。私の方は、あなたのみっともない手紙など、人目に触れるのもつらいものですから、ひた隠しにしてちらりとも見せません。」
 などとへらず口をたたきます。

 そののち、経房の中将がおいでになって、「行成さまはあなたのことをひどく褒めておられることを知っていますか。(私が)好意を持っている人が、人にほめられるのはひどく嬉しいことだ」
 と真面目に言われるので、
 「嬉しいことが2つになりました。行成さまがお褒めになっていらっしゃることと、私があなたさまの思う人の中に入っていましたなんて」と答えました。」

 経房は笙の笛の第一人者。
 定子中宮のサロンの賑やかさが伝わってくるようです。行成は清少納言の機智に富んだ手紙を殿上人たちに見せ、そして清少納言の評判を高めてくれたのですね。それはとりもなおさず定子中宮の評判にもつながるわけです。

 徒然草の238段に、ある額の作者を見る時に、兼好が行成の筆なら裏書きがあるはず、と言って,調べてみたら確かに裏書きがあったと、書いてあるそうです。人々が貴重なものとした行成の書なのでした。

『枕草子の成立』

清少納言なぎ子が、枕草子を書いたいきさつは、こんなようだったと推測されています。

 長徳2年6月、定子さまの二条宮が火災で焼け、定子さまは母方の実家の高階明信の邸に移ります。

 父を失い、同腹の兄伊周さまは不名誉な事件の疑いで遠くに流され、寂しい小二条宮で、定子さまはかつて伊周さまから贈られた香を焚き染めた上質の料紙のことを思い出します。

 ある日、定子さまは清少納言に「これに何を書いたらよいでしょう」と尋ねますと、清少納言は
「枕にいたすばかりでございます」
 と答えます。

 白楽天に
えんじゅ雨に潤う新秋の地
桐葉風に翻る 夜ならんと欲する天
儘日後庁一事無し
白頭の老監 書を枕にして眠る

 初秋の頃、年老いた白髪の秘書官が、何をすることもなく読みかけの書を枕にして眠る・・・

 という詩があり、年長の女房として寂しい定子さまにお仕えする我が身を、清少納言はその老監になぞらえてみたのです。

 定子さまはその詩からの引用とすぐに理解し、心を打たれ
「それならばこの紙をあなたにあげましょう」
 と下さったのです。当時、紙は本当に貴重なものでした。

 その頃、兄の死で権力の中央に躍り出た藤原道長の元には、人々が自然に集まってきていました。
 道長家からも才能を持った人たちに誘いの手を伸べていました。

 定子さまの周囲でも、清少納言が道長の左大臣家と内通しているという噂がたちます。
 確かに、なぎ子の男友達の多くが左大臣家と親しいのでした。
 定子皇后に心からお仕えしているなぎ子ですが、噂はなかなか静まりません。
 皇后さまをこんなに思っているのに、と、なぎ子は悲しみつつ、仕事があまりないのを理由にして自宅に帰ります。

 定子さまから早く帰って来るようにとの文ももらいますが、なかなか出仕できないある日、皇后さまから戴いた草子に思うことなど書きつけようと考えます。

 自分の好きなこと、季節、
 日、月、星、雲、行事など見たこと、経験したことを書いていくと、面白いほど筆が進みます。

 定子さまのことを偲びつつ、書き付けていくのでした。

 7月11日の夜、帝から定子さまへのお使いの帰り、源経房がなぎ子の家を訪れます。
 そして、家に引きこもっているなぎ子を連れ出してほしいと、女房たちに頼まれたといい、また定子皇后の様子を伝えます。

 皇后様が恋しくてたまらないなぎ子は思い切って、経房に皇后様に戴いた料紙に書き付けていることを話します。
 草子を読んだ経房は
「素晴らしい!ゆっくり読みたいので貸してほしい。」
 と、持って行ってしまいます。
 持ち帰った経房は、いそいでそれを書き写し、読んだ人たちは皆夢中になって書き写し、美意識あふれる清少納言のつぶやきは、みるみるうちに広まってしまったのでした。

 枕草子の三分の一くらいは、長徳2年6月10日頃から7月はじめの頃までに書かれたものと言われています。
(要するに、なぎ子の出社拒否の時間です)

 それから少しして、定子皇后様から季節はずれの一輪の山吹の花とともにお手紙が届きます。
 それをきっかけに、なぎ子は再び定子さまのおそばに上がったのでした。


『三つの時代を書き継いだ枕草子』

 清少納言なぎ子が枕草子を書いたのは、お仕えする定子さまから戴いた料紙に、出社拒否の宿下がりをしていたときに書いたのが最初で、それを宮中の女房たちの伝言を持ってきた源経房が宮中に持ち帰り、人々の目にさらされた、ということがありました。

 それから、定子皇后さまが亡くなり、失意のうちに宮中から下がったなぎ子は、摂津守の藤原棟世の妻となり、夫の任地の摂津に下ります。34,5歳のなぎ子の夫は70歳近くだったといわれています。
 そこで女の子を産んだなぎ子は、宮中の日々の思い出を書き留めてゆきます。枕草子の第二章といえるでしょう。
 一条帝と定子皇后をとりまく人々の、輝かしい素晴らしい日々。
 書き終えたなぎ子は、きちんと自分の手で清書をしそれを定子さまの忘れ形身、修子内親王に献上します。
 物心つかないうちに母を失った修子内親王にあの日々を伝えたい一心だったかもしれません。

 夫の棟世の死後、姫の「こま」を連れて都に帰ったなぎ子は、兄の家に身を寄せ、兄の死後、月の輪にあった父の元輔の別荘に住みます。
 時折、定子さまにお仕えしていた頃の女房たちが集まって、思い出話に花を咲かせることもありました。
 そんな日々のなかで、なぎ子は懐かしいさまざまな出来事を思い出し、書きとめて行きます。
 その草子は完成度の高いなぎ子の美意識の集大成ともいえるでしょう。

 枕草子第三章は、息子の橘則長や彰子中宮に仕えた娘の小馬(こま)命婦によって大切にされて次の世に伝えられたと思われます。

『中宮定子さまとの輝く日々』

 正暦元年(990年)父の元輔が83歳で任地で亡くなります。
 なぎ子は25歳くらい。

 同年、道長や道綱たちの父、摂政政治の基盤を築いた藤原兼家が亡くなります。
 跡を継ぎ関白になった道隆さまは長女の定子さまを一条帝の女御とし、中宮に。
 次女の原子さまを東宮妃にして、磐石の勢力を築いていきます。

 なぎ子は正暦4年(993年)春、17歳の定子中宮に出仕します。それには、二度目の夫、藤原実方さまの親族の後援があったといわれています。
 正暦5年8月、道隆さまの長男伊周さまは内大臣に。

 なぎ子は生涯のうちで最も輝いた数年間を送るのです。
 なぎ子にとって内大臣家の人々、特に定子中宮は、主従の域を超えた心からお仕えできる分かり合える心の友なのでした。

 初めての頃は、恥ずかしくて暗くなってからでないと定子さまの近くに行けないほどのなぎ子でしたが、一年後にはすっかりなじんで、定子さまのサロンに清少納言ありと、殿上人はもちろん、道隆さま、伊周さま、一条帝からも一目置かれるようになります。

 では、初出仕の頃のこと。
第179段

(993年の冬。この頃、清少納言28歳、定子17歳、定子の父道隆41歳、兄伊周20歳。995年12月に道隆が亡くなる前の、道隆さま一族が栄華を極めた頃のことでございます。)

 あまりに恥ずかしいので、私は泣きたいほどで、昼間のお勤めは避けて夜の当番にしていただき、それも、陰に隠れておりますと、馴れさせようと思われて定子さまが絵などを取り出されてお見せくださるのを、あまりの恥ずかしさに手を出すこともできません。宮は「それはそうなのですよ、こうなのですよ」と説明して下さるのですが、低い灯火のそばでは、昼間よりも明るく見えて、まぶしいほどの恥ずかしさです。
 とても冷たい季節なので、定子さまのみ手が、つややかなうす紅梅色をしていらっしゃって、初めて高貴な人を見た田舎者の心には、このような人が実際においでなのだと驚くばかりです。

 明るくなると恥ずかしいので、急いで帰ります。私は少しでも姿を見られまいと、体を伏したまま、御格子も閉ざしたままでいますと、女官たちが参りまして、「この掛けがねをどうぞお開けください」などと言うのを,宮がお聞きになって、「明けてはだめよ」とおっしゃいます。

 宮は「あなたは早く帰りたいのでしょう?それならば早く帰って、夜になったら早くまたいらっしゃい」と言われます。伏していざって隠れて帰ろうとしますと、宮のいらっしゃる「登花殿」の前には、雪がとても風情あるように降っているのでした。
 お昼になると、宮からお使いが来て「今日はお昼からいらっしゃい。雪で曇っているので姿はよく見えないと思います」と、たびたびお召しになるので、私のお部屋のお局さまが、「見苦しい!そんなに閉じこもっていていいものか。新参者なのに目をかけていただくのは有り難い事。」せかしますので、心苦しいままにもお前に参上いたしました。
 火を焚く小屋のすすけた屋根にも雪が降り積もっているのが、とても素敵だったのでした。

 宮のお前近くには,部屋を暖めるための炭櫃に火がおこされ、お前にはお世話をする女房達がいるのでした。その人達は、次の間にいる人も含めて、とてももの馴れているのが、新参者にはとてもうらやましく見えました。
 お文を取り次いだり、立ち居やおしゃべりして笑う姿など少しも恥ずかしがっていないので、いつになったら自分もあのようになれるのかしらと思うのさえ心もとないのです。

 少し過ぎて、お知らせの声があがり、女房達が「殿がおいでになります」と散らかったものを片付けますので、私はなんとか部屋に帰りたいと思うものの、思うように動けず、奥の方に隠れて隙間からのぞいておりました。

 おいでになったのは、道隆さまではなく、兄の伊周さまでした。装束の紫の色が、雪に映えてとても美しいのでした。柱のそばにお凭れになって「今日は物忌みで来れない日なのだが、雪を押してご訪問いたしました」とおっしゃり、宮が拾遺集の平兼盛のうた
*山里は雪降り積みて道もなし今日来む人をあはれとも見む
 を引いて
「道もなしとおもひつるに、いかで」とおっしゃり、伊周さまが
「あはれともやご覧ずるとて」
 などとお答えになる御ありさまなど、美しい中宮と兄上の、歌を用いてのやりとりの素晴らしさ!決して物語の中ではない、現実の様子に、夢見心地の私なのでした。
 伊周さまが何かおっしゃるのに、全然恥ずかしげもなく答え、笑ったり、あまつさえ反論したりする女房達の姿に
見ていて恥ずかしくなるうぶな私なのでした。

 そのうちに、隠れている私に気づいて、伊周さまが「そこにいるのは誰か」と言われ、女房たちにあおりたてられて伊周さまが近くにおいでになります。
 まだ、宮のお前に上がる前に、行幸の折りなどにお供をする伊周さまを遠くから拝見したのに、こんなに近くに来られては、と、緊張のあまり、身の程も知らずになぜ宮仕えなどしてしまったのだろうと、後悔で冷や汗が出る思いです。ドギマギして、お答えもできません。
 伊周さまは、私の扇を取って「この絵は誰が描かせたのか?」などおっしゃり、すぐに返して下さらない。気がつけば、うつぶした袖に白いものがついていて、きっと、白粉がはげてまだらな顔になっていることかと思えば、余計顔もあげられません。

 伊周さまが長い事私のそばにいらっしゃるので、そんな私をかわいそうに思われたのでしょう。定子さまが
「これを見て。どなたの筆跡でしょう」と伊周さまに話しかけられます。
「ここに来てご覧下さい」と言われるのに、伊周さまは
「そちらに行きたいのですが、私を放さない人がここにいるので」などふざけておっしゃるのも、今どきの若者ふうなのでした。
 そして、どなたかの草仮名を書いた草紙を手に取ってご覧になり
「どなたの筆か、清少納言にお見せなさい。あの者はあらゆる人の筆跡を知っているはずですから」などと、どうしても私に答えさせようと、とんでもないことばかりおっしゃるのでした。=

 すでにその才を認められていた清少納言が、定子さまの家庭教師的な役割として、宮中に上がったらしいのです。

 それにしても、昼は恥ずかしいので、夜しかお勤めに出ないなんていうのは、その後の明かるくはつらつな清少納言の言動を読んだあとには、信じられない光景です。


『定子皇后との深い信頼関係』
 お仕えした最初は、顔も上げられないくらいで、夜しか出仕できなかったり、暗い雨の日にほっとしたりするなぎ子ですが、新しい環境にあっという間に慣れ、定子さまにも失礼な態度を見せてしまったりします。

 物忌みで宮廷から下がっているなぎ子のところに、定子さまから歌が送られてきます。

*いかにしてすいにしかたをすぐしけん くらしわづらふきのふ今日かな
 (今までどのようにして過ごしてきたのでしょう。あなたがいない昨日今日は、寂しくて退屈でたまりません)

 家で退屈していたなぎ子はよろこんで歌を返します。

*雲の上もくらしかねける春の日を どこからともながめつるかな

 「(自分は)宮中でも退屈して寂しいのに、田舎に篭っているともっと退屈!」という歌に定子さま&周辺の女房たちは気分を害したらしい。
別の読みかたでは
「雲の上の人でも退屈して寂しいのですね」と、なぎ子が無作法なことを言ったというのもあるらしい。
 こっちが当たっているかな?

 また、12月10日頃、降り出した雪が大雪になったので、お庭に雪の山を作ったとき、
 何日くらい持つかとたわいないかけをしたのに、夢中になって10日くらいはもつかしら?という定子さまと張り合い、年があけるまであるでしょう、と言い張ったなぎ子が勝ちそうになってしまったとき、人を使って山を撤去させた定子さま。
 皇后とは、臣下に負けてはいけない。気象さえも司る立場であると、示してくださった定子さま。(昔の価値観ね!)

 二人の信頼関係は、ますます深まり、定子さま亡き後もなぎ子は定子サロンの素晴らしさを枕草子にまとめていったのですね。


『枕草子に描かれた宣孝!』

第115段
 「あはれなるもの」
 手厚く親の喪に服している人の子。
 身分の良い若い男が御嶽精進しているところ。

 などと書き始めていますが、清少納言が見聞きしたエピソードが続きます。

 金峰山の御嶽参りは、どんな身分の高い人でもこの上なく粗末な服装でお参りするのが習いなのに、右衛門の佐(うえもんのすけ)宣孝という人は、「それはつまらないことだ。物がなんであろうと清浄な着物を着て参詣すれば良いはずだ。まさか御嶽の蔵王権現は、粗末な身なりで参詣せよとおおせではあるまい」と言って、

 3月の末に、紫のとても濃い指貫に,白い狩衣、山吹色の大袈裟に派手な内着などを着て、主殿寮の次官の息子には青い狩衣,紅の内着、それに乱れ模様を染めたはかまというものを着せて、そんな格好で連れ立っておまいりしたのを見て、参詣の人たちは見慣れぬ風体だと目を見張り、一体全体この金峰山詣でにこんな恰好の人があった試しはないと驚きあきれたことだった。

 しかし,彼らは4月の朔日に京に帰って来て、それのみか、6月10日の頃に時の筑前守が辞任したその代わりにその席が転がり込んできたのは、成る程、その言葉の通りだったことよと,当時評判になったことだった。
 これは、この文の主題とする「あはれなること」ではないけれど、御嶽の話が出たついでに書き留める。

 先例を重んじ神仏の加護を受けることが重要な平安時代にあって、さばけたというか何と言うか、派手好みの太っ腹のような宣孝は、誰かと言えばそののち山城の守に出世して、紫式部の夫となった人です。
 すでにこの時大きな息子がいて、紫式部は何人目かの妻だったんですね。
 年齢差はあっても紫式部の結婚生活はけっこう楽しいものだったような気がします。


では、なぎ子の枕草子、最初の段から読んでみましょう。

「一」
 春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明かりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

 夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ、二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るもをかし。

 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。

 冬は、つとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持つてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃、火桶の火も白き灰がちになりて、わろし。

 有名な「春はあけぼの・・・・」
 思いっきりよく、単純化された言葉。今もし同じ情景を書くとしたら
=私は春のあけぼのが好き=
 というような書き方になってしまうでしょうか。
 エッセイも詩もなかった時代に、この思い切りの良さはどこから来たのか、と思ってしまいます。

 和歌からか、または漢詩の読み下しからなのか。
 ともかく自分が心地よいものを端的に挙げていく。

 夏は暑いほうが夏らしいように、冬は寒いほうが冬らしいので、一番気温が下がる「つとめて」が好ましく、「雪の降りたる」「霜のいとしろき」寒さの中で、赤く火をおこし、黒い炭を持ってわたる。
 昼になって気温が上がると空気も緩み、火桶の火も白くなって「わろし」なのですね。

 なぎ子は枕草子にどんな月を多く取り上げているのか見てみましょう。
 1月  4
 2月  7
 3月  1
 4月  1
 5月 10
 6月  2
 7月  3
 8月  2
 9月  4
10月  1
11月  0
12月  2
季節のみ記載してあるのは
 春   1
 夏   2
 秋   1
 冬   3

 5月が格別に好きだったようです。
 当時の人々は、桜と紅葉を特別に愛していたのに、なぎ子は散る桜、散りゆく紅葉を、無視してしまいます。
 定子さまの中関白家の「今」を重ねたくなかった意図かもしれません。


『をかしとあはれ』
「二」
 ころは、正月、三月、四月、五月、七,八,九月、十一,十二月、すべて、をりにつけつつ、一年ながらをかし。

 と、一年ながらをかし、と言いながら、二月、六月、十月は抜かして、七、八、九、十一、十二月は一括りという、筆の自在。

 そして続く説明が、正月が一日、七日、八日、十五日、と細かく記載してあるのに、あとは三月三日、四月の賀茂の祭り、でおしまい!と好きなものだけ書きまくる。
 二月は行事の多い正月の後だから?
 大好きな五月と同列にはできない六月?
 嫌いな紅葉の十月は、絶対入れない?  

 なぎ子の強い意志が千年の時空を超えて伝わってきます。


 では、正月のくだり。

 正月一日は、まいて空の景色もうらうらと、めづらしう霞みこめたるに、世にありとある人は皆、姿、かたち、心異につくろひ、君をも我をも祝ひなどしたる、様異(さまこと)に、をかし。

 七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの目近らぬところにもて騒ぎたるこそ、をかしけれ。

 から始まる「をかし」のオンパレード♪
 こののち、車を装い宮中に白馬見物に出かける女性たちが待賢門の所で車が揺れて頭をぶつけたり髪飾りが落ちて笑いあうのも「をかし」。
 建春門のあたりで殿上人たちがふざけているのも、奥の宣陽門の向こうに主殿司や女官などが行き来しているのも、見慣れぬ「をかし」。

 さて、枕草子では以下も「をかし」が多く使われ
 枕草子は「をかし」的文芸
 源氏物語は「あはれ」的文芸

 と特徴づけられそうです。
ちなみに「をかし」とは理性的に観察している結果の感想らしい。
「あはれ」は、事柄への感情的反応であり、自分の心が中心の感想らしい。

 なぎ子が連発した「をかし」だけれど、単に趣がある、だけではなく「しみじみとした趣がある」という場面も多いようです。












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