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第7官界彷徨
佐藤勝明先生のおくのほそ道その2
さて、今週のNHKラジオ「古典講読の時間」のおくのほそ道は、「あさか沼」と「しのぶの里」でした。
まずは芭蕉の生涯。
1672年東下して宗房改め桃青となった芭蕉さん。
延宝5,6年(1677~78年)頃、35歳くらいで念願の俳諧宗匠になります。宗匠になるにはお披露目をするのが普通で、芭蕉は延宝5年に万句興行(100人の連句を100巻)行って宗匠となり立机、延宝6年「歳旦帳」を作っているそうです。
万句興行は多くの人の協力がないと不可能で、芭蕉は人々から認められる存在になっていたと考えられる。
延宝7年、1679年の歳旦句には
*発句なり松尾桃青やどの春 (わが世の春のイメージで意気揚々)
延宝8年、1680年の歳旦句には
*於春春大哉春と云々(ああ春、春、大いなるかな春とうんぬん)漢詩文調で楽天的桃青くんです!
江戸に出て6年ほど、人々に認められ経済面でも大商人の息子の杉風、町名主の息子の卜石などが支えます。
また延宝5~8年ごろ、小沢太郎兵衛のもとで、神田川の工事にかかわります。それに応える実務能力もあったことがわかります。早稲田に「関口の芭蕉庵」というのがあり、それはこの工事の際に住んでいた家の跡らしい。
では本文「あさか沼」
=等旧躬が宅を出て、五里ばかり、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。=
*みちのくの浅香の沼の花かつみかつみる人に恋ひやわたらむ(古今集)
の「かつ見る」かりそめに見た人に恋してしまったのか・・・の歌への興味よりも、予はそれには関心を示さず、「花かつみ」に興味津々!人々に尋ねてまわるが、だれも知らない。強い執着心。しかし日が暮れようとしたのであきらめて先に進み、二本松あたりで右にそれて、謡曲「安達ヶ原」で有名な黒塚の岩屋を見て福島に泊る。
黒塚の岩屋にはあえて触れずに、「花かつみ」にこだわり続ける予。「かつみ」とは当時もよくわからなかったらしい。しかし本文に「かつみ刈る頃も近い」と言っているのは、一条天皇に「陸奥に行って花かつみを見て来い」と左遷された藤原実方(清少納言の恋人)が、「端午の節句に屋根に花かつみを葺いた」書いているので、「まこも?」分からないのに探さずにはいられない、予の旅なのです。
なお、曾良の日記ではほとんどが田んぼになっていると書いてあるが、本文では「沼」になっているそうです。意図的改変♪
「しのぶの里」
=あくればしのぶもじ摺の石を尋て忍のさとに行。遥山陰の小里に、石半土に埋れてあり。里の童部の来りて教ける。「昔はこの上に侍を、往来の人々の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落とせば、石の面下ざまにふしたり。」と云。さもあるべき事にや。
*早苗とる手もとや昔しのぶ摺=
翌朝、しのぶもじ摺の石を尋ねる。源融の
*陸奥のしのぶもじ摺たれゆゑに乱れむと思ふわれならなくに(乱れようと思う私ではないのに)
の歌枕の地。山陰の小さな里で、その石は半分ほど土に埋もれていた。里の少年が「山の上にあったのだが、往来する人が伝承として麦の穂をこすりつけると面影が浮かぶという伝承を真似て、麦を抜いて石を試すので、迷惑だと石を谷底に突き落としたところ、面が下になってしまった」と説明してくれた。予は、風雅と経済生活のどちらが大切か複雑な気持ちになって「さもあるべきことにや」という感想を書く。
先生が言われるには、実は芭蕉はこういう話が好きだった・・・らしい。
曾良の書き留めには、石は萱の下に埋もれて風流のむかしにおとろふる事本意なくて
*五月乙女にしかた望んしのぶ摺 翁 (早乙女にせめて昔のしのぶ摺の所作を頼もう)
現在、「花かつみ」は姫シャガ?ということで、あさか沼の周辺に植えられ、しのぶもぢ摺の石のある神社では、もぢ摺り体験などができるようになって、人々が大切に守っているそうです。私は、現代にそういうことをするのは、付け焼刃的で価値の無い物、と勝手に思い込んでいましたが、分からないものを探していく芭蕉の、歌枕への思いこそ「風雅」なのだと気づきました♪
2014年7月20日
今週のNHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は「佐藤庄司の旧跡」でした。
まずは、芭蕉さんの生涯。
延宝5年頃から、京都の俳人が江戸に来ることが多くなり、ともに俳句を詠んで冊子にするという東西交流が盛んになります。中でも信徳は芭蕉の終生の友となります。彼らは北村季吟のネットワークの仲間たちで、彼らは(季吟は嫌いだった?)檀林俳諧を謳歌します。
延宝5年(1677年)百韻三巻を「江戸三吟」として出版。
=
*あらなんともなやきのうは過ぎて鰒と汁 桃青(芭蕉)
*寒さし去って足の先まで (信章)
*居合い抜きあられの玉や乱すらん (信徳)
=
*三笠の山をひっかぶりつつ (信徳)
*万代の古着買はうとよばふなり (桃青)
*質の流れの天の羽衣 (信章)
=延宝6年秋、春澄が江戸に来て「江戸十歌仙」 この年、千春という人も江戸に。
*空誓文に霜枯れし中 (似春)
*薬物右近が歌を煎じても (桃青)=忘らるる身をばおもひて誓ひてし=右近
*古河の辺に豚を見ましや (春澄)=源氏物語・夕顔の侍女=古河)
延宝期後半、芭蕉は東西の俳人たちとの交流の中心となって活躍。また門人たちも集まり、
延宝8年1680年、「桃青門弟独吟二十歌仙」を発行。
同じ年には門人の杉風と基角がそれぞれ発句合せを作り、判者は桃青。
延宝8年冬、桃青は深川に移り住みます。 今週はここまで。以下は本文。
「佐藤庄司の旧跡」
=月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半ばかりに有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、ここに義経の太刀弁慶が笈をとどめて什物とす。
*笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月朔日の事也。=
月の輪の渡しを越えて=川を越える=別の段への連続と切断の役割をしているらしい。
佐藤庄司は、奥州藤原家の荘園の管理をする佐藤基信という人で、庄司という役職。彼には二人の息子があった。義経挙兵の折、その供をして平家討伐に向かいます。
以下ネット引用
『継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。 弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。』
彼ら佐藤庄司一族の旧跡が飯塚のあたり鯖野にあると聞いて尋ねたずねして行きます。大手門の跡あたりなど教えてくれる人がいて、予は感涙の涙を流します。その後、予は近くの寺で佐藤一家の石碑を見ます。中でも、二人の兄弟の嫁の「しるし」がより哀れなのでした。息子2人が死んで落胆した母をなぐさめようと、その甲冑を身につけていさましく凱旋の姿を見せたという話です。
予は、堕涙の石碑=秦にある皆が後を慕って落涙する碑=を見たようだ、わざわざ遠国まで求めなくてもここにあったのだ、と感慨。
予は寺に入って茶をいただき、義経の太刀や弁慶の笈などの什物を見せていだたき一句。
*笈も太刀も五月にかざれ紙幟 五月一日のことでした。
ここが、義経の名とその形跡の書かれた最初の段なのだそうです。曾良日記によれば、お寺には入れず、お茶も出されず、什物も拝見できなかったのが事実らしい。
岩波の「おくのほそ道」では五月一日ではなく二日のことで、芭蕉の記憶違いであろう、と説明してあるが、松尾先生の授業の時のメモに「ではなくて、文学作品としてあるため」と書いてありました♪
2014年7月27日
今週のNHKラジオ第2、古典講読の時間、佐藤勝明先生のおくのほそ道は「飯塚」飯坂温泉のところでした。まずは芭蕉の生涯。
当時大坂には井原西鶴がいて、檀林俳諧そのものの句を沢山作って一斉風靡していたらしい。西鶴の句。(間違えてメモしたかもしれないので、後で訂正するかも)
・薬もござらぬしし(小便)のあわ雪
・釈迦すでに人にすぐれてこえ(肥え)られて
・嵯峨野の籠かきまし(増し)やとるらん
嵯峨野の清涼寺は釈迦堂ともいうことをかけてあるがナンセンス俳諧らしい。上方の西鶴、江戸の芭蕉、というふうになっていくのかな?
延宝期、順風満帆の桃青は、1680年延宝8年、江戸の中心地日本橋から、さびしい深川に移り住みます。このことについては諸説あるけど、現存する資料からは「謎」であるらしい。
・幇間的俳諧宗匠をやめたかった。
・新しい模索のため。
・日本橋の火事で避難。
・姉の子で一緒に住んでいた甥の桃印の駆け落ちをごまかすため。
など言われるが、1つ言えることは、深川に移ったことで芭蕉の俳諧は大きく変わったこと、だそうです。
延宝8年の句 *櫓声波を打つてはらわた氷る夜や涙 (寒々としている)(武蔵曲)
延宝9年の句 *芭蕉野分してたらいに雨を聞く夜かな
これまでの貞門、檀林にない特徴があるそうです。その説明は次回。では本文「飯塚」
=其夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿をかるに、土座に筵を敷てあやしき貧家也。灯もなければゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴雨しきりに降て臥る上よりもり、蚤蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消入るばかりになん(侍る)。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。=
曾良日記によれば、雨は降ったが宿が悪いことは書いてない。芭蕉はその前の旅の「笈の小文」で旅について記していて、「自分の旅はどこに泊るのもいつ出立するのもない、気ままなもの。ただ願うことはただ2つ
・今宵の宿が良い宿であること。
・わらじが自分の足に合うものであること。
と書いているそうです。
疲労が重なり、雨に打たれ、虫に喰われ、ついには持病も出てまんじりともしない夜が明けて・・・これから遥かな旅が待っているのに・・・と、予の苦境に読者も不安です。本文
=猶夜の余波心すすまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥かなる行末をかかへて、斯る病覚束なしといへど、騎旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと気力いささかとり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。=
馬を借りての出立をし、この時予の脳裏を駆け巡ったのは、和漢混交文での漢文的言葉たち。重々しい対句の響き、風雅の道に捨て身のはずの自分、第一、この世界全体が無常だったのだ、の再確認。論語から=道路に死んでも、是こそ天命ではないか、と観念したら、気力が戻って、路を存分に踏みしめて力強い足取りで、伊達の大木戸を越えれば、これは2度目の越境になるのでした♪
伊達の大木戸は、1189年源頼朝軍を迎えうつために奥州藤原方が設けた関で、国境なのでした。
最悪の体調の中での関越えは、ストーリー上の演出の可能性も。わたし達は、おくのほそ道という物語の中の予と旅をしているのです。楽しませてもらえますね~!
2014年8月3日
今週のNHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の古典講読の時間、おくのほそ道は「笠嶋」でした。まずは芭蕉の生涯から。
延宝8年、1680年日本橋から深川へ転居した芭蕉。その理由は定かではないが、これを機に芭蕉の俳諧が大きく変化してゆきます。
延宝9年は、天和元年になります。天和2年(1682年)の「むさしぶり」に、初めて「芭蕉」の名が出ます。
・芭蕉庵桃青 ・芭蕉翁桃青 桃青の名は使い続けます。翁には早いけど38歳の芭蕉。この年12月28日、駒込から火事が起き、深川にも飛び火、芭蕉も命からがら避難します。この体験も人生観や俳諧に影響を与えた可能性が。
芭蕉は甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山伝右衛門(俳号麋塒=びじ)に招かれ、逗留生活を送ったりします。
門人たちの力で芭蕉庵が再建されたのは、天和3年(1683年)冬のことでした。
天和3年、門人の其角が「うましぶり」刊行。
天和4年(1684年)2月21日、貞享と改元されます。 この、延宝8年から天和4年までの間に芭蕉の周囲でいろいろなことが起きました。鹿島から寺領裁判のために深川に来ていた仏頂和尚と知り合い、禅を知ります。
延宝末~天和期こそ、日本の俳諧史上大きな転換期だったといえるらしい。芭蕉はそこで完成したわけではなくて、この天和期を基点に求め続け変わり続けていったらしい。
延宝8年の句*櫓の声波をうつてはらわた凍る夜や涙
延宝9年の句*芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
どちらも上句の字余りが漢詩的であり、助詞「て」のあとに音を聞いている自分の姿が浮かび上がってくる。今までの俳諧にはなかったこと。
漢詩から学んだ二重構造は、おくのほそ道における「自分」と「予」の原型になっている。漢詩、五言句、七言句の2段構造は、2つのものが切れながら結びつく、効果的な用法・・・なんですって。(この部分、私が理解していないので読んでもわからないかも)
本文の前回、飯塚での惨憺たる夜、眠ることもままならない一夜。だからいっそうその後の覚悟が決まる。「無常の観念」「道路にしなん」この2語は、仏教、儒教の考えが入っていて、「三行一致思想?」と関連があるらしい。
では本文「笠嶋」
=鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥か右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簔輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
*笠嶋はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る。=
道行文の体裁で始まります。人物の移動にあわせて羅列。
藤中将実方は、995年 陸奥の守となって赴任。998年その地で没。逸話として、行成と宮中で口論。一条帝に「歌枕見てまいれ」と左遷させられた。赴任地没は、馬を下りるべき道祖神の前を、馬に乗ったまま通ったので神の怒りをかって殺された。というものがあるらしい。
歌まくらの地は、ほとんどの貴族が都で歌ったものだが、実方は実際に陸奥の地におもむき、歌を詠んだ人。西行も実方の墓を訪れ歌を詠んだのです。
*朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 かたみにぞ見る
芭蕉が土地の人にそのありかを聞けば、片身の薄もまだあると、教えてくれたのです。その場に行きたいのは山々なれど、「予」は断念します。五月雨で道が悪く、体も疲れていたのでよそながら眺めて過ぎたのでした。
しかし、この地名、箕輪、笠嶋は、五月雨に似合っているなあと「予」は思ったのでした。予定通りにいかない状況でも、興じて楽しむ芭蕉の姿がここにあります♪そして、この思い通りにいかなかった笠嶋の体験を、いろいろな文章で大事に書き残しているんですって!
2014年8月10日
さて、芭蕉さんの生涯です。
深川に移った芭蕉さんですが、俳諧宗匠として武士や商人の句を誉めたり煽てたりの営業?ならば日本橋の方がメリット抜群だったのですが、深川に移ったことで門弟もふるいにかけられ、本当に芭蕉と時を共有したい人のみが残り、コアな門弟のみが芭蕉を囲み、実験的新しい俳諧を目指すことができた、らしい。
この時期の芭蕉の意思表示が、延宝9年5月15日の、甲斐国の高山伝右衛門あての手紙に書かれているそうです。
=京、大坂、江戸、そこで行われている俳諧は古い。宗匠たちも、3,4年前=東西交流の頃と同じことばかりで、大方は古めいている。と書かれ、句作の5か条を。
1・連句のつけかた
1・俗語の使い方と風流
1・ わざとらしい拵えごと不要
1・古人の名と作品を使い、「何々の白雪」など古い
1・3,4字、5,7字などの字余りも句の響きがよければOK
具体的にはどのように、と、書簡につけた6句のうちの1つ
『*山里いやよ 逃るるとても 町庵
鯛売る声に 酒の詩を賦す』
貞門、檀林とは違う考えを、理解し同調しようとする弟子が深川に集まり、蕉風俳諧が出来上がってくる。
では本文「武隈」
前の段に「岩沼に宿る」とあるのは、芭蕉は「岩沼宿」と書いた。中尾本のこの部分には張り紙がしてあり、
*笠嶋はいづこさ月のぬかり道
が、書かれてあって、そのあとに狂歌を詠んで曾良に戯れた、とあるらしい。「旧(ふる)跡は・・・実方ゆかりの旧跡に雨がどんなに降ったことか、そのため地名が箕輪、笠嶋になったのか」というような歌。しかし、それは悪ふざけとして割愛されたか、または本文と重複するので抜かれたらしい。
「武隈」
=武隈の待つにこそ目覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思い出。往昔むつのかみにて下りし人、此の木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此たび跡もなしとは詠たり。代々あるは伐り、あるは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちととのほひて、めでたき松の景色なん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」 と挙白 といふものの餞別したりければ、
*桜より松は二木を三月越 =
根元から2本に分かれたこの松は、現在文久2年、1862年に植えられた木があり芭蕉の句碑など立っているそうです。
予は、この松を見て目が覚める心地になりました。橘成季の
*武隈の松は二木を都人いかにととはば三木(見た)と答へん それに応じて
*武隈の松は二木を三木といはばよく詠める(四める)にはあらぬなるべし
などの歌。曾良は出発前にこの歌を調べてあったが、予が真っ先に思い浮かべたのは、能因法師が再訪したときに松がなくなってたのを知って詠んだ
*武隈の松はこのたび跡もなし先年を経てや我は木つらむ(松の寿命は千年というが、その千年後に私は来たのだろうか)
その昔、陸奥守の藤原元義によって名取川の橋桁にされたという言い伝えもあり、代々、あるは伐られあるは植え継がれ、今もまた、千年前を彷彿とさせるように立派な姿を見せている。
この松のことは、江戸出立の折に「挙白」の餞別句でも、知っている。
*武隈の松見せ申せ遅桜 (ぜひ先生に武隈の松もお見せしてほしい)
この挙白の句に、予は応えて
*桜より松は二木を三月越 (江戸で桜が咲いてから三月、ようやく武隈の松に対面することができた)
という句を作ります。芭蕉は早速江戸へ便りを送ったらしく、早速挙白は俳句の本「四季千句」を刊行して、前書きと後書きに武隈の松について載せているらしい。
・武蔵野をさくらのうちに浮かれ出て 白川の関は早苗に越え 武隈の松はあやめふくころ・・・・芭蕉は、手控えに書いておいたことを、のちに訪ねたところで門人たちに書き与えていた。
このあたりの地理を知る人は、笠嶋~岩沼~武隈の松・・・という行程に疑問視するかもしれない、しかし「予」にとって、笠嶋は笠嶋であって笠嶋ではなく、岩沼は岩沼であって岩沼ではない。事実よりは、別の何かを求めたのだ。
『予は笠嶋を見ないで松を見た』という。
2014年8月18日
さて今週のNHKラジオ第二、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は「宮城野=仙台」
まずは芭蕉の履歴
山梨の高山伝右衛門にあてた手紙で、芭蕉は数年前の東西交流時代の俳諧を「古い」として、あるべき俳諧の姿を模索しはじめた芭蕉に、その京の俳人、しんとく、はるずみたちが、俳諧による東西交流を呼びかけてきます。
京では、寺田与平次重徳の印刷で俳諧七百五十韻を作り、それを次いで(次韻=漢詩において他者の詩に合わせるという意味)江戸の芭蕉たちが二百五十韻を作ります。
従来、両者に共通するものがあると言われてきたが、佐藤先生は、二者の間の隔たりを感じるそうです。七百五十韻に目立つのは、芭蕉の伝右衛門への手紙と違い、言葉からの連想のナンセンスで、壇林ふう。数年前の句から特に変化していないのだそうです。
芭蕉たちの作は、漢詩の影響を受け、漢詩の勉強をしながら、従来のものから一歩踏み出す姿が見えるらしい。
一例 *秋に対してしょたいどうの き
白親仁(しろきおやじ紅葉村(こうえふそん)に送聟(むこをおくる) 桃青
漁(いさり)の火影(ほかげ)鯛(たひ)を射(ゆみゐ)ル 其角
前句の人なら何をするか考え、想像を新たに広げる。談林は、前句の言葉からの連想のみ、というところ。
では本文「宮城野」
=名取川を渡って仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。ここに画工加右衛門と云ものあり。いささか心ある者と聞て知る人になる。この者、年頃さだかならぬ名どころを考え置侍れがとて、一日案内す。
宮城野の萩茂りあひて秋の気色思ひやらるる。玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入りて、ここを木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。
猶、松島・塩がまの所所画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、ここに至りて其実を顕す。
*あやめ草足に結ばん草鞋の緒=
名取川を渡って62万石の仙台に入ります。川を越える=別の次元の世界に入り、読者は「予」とともに、これが例の松を伐って作った橋か、と思いつつ渡ることができます。
仙台に4泊した「予」は、ここで一人の風流人に出会います。画工の加右衛門というその人は、長年はっきりしていなかった名所を調査してあるので、と、案内してくれます。
加右衛門は仙台の宗匠「三千風=みちかぜ」の門人なのですが、芭蕉はおくのほそ道で「画工」としてのみ紹介。
三千風は、1682年、松島なんとか集を発刊。芭蕉が仙台に行ったときは日本全国の長旅に出て不在でした。この記録は1683年に刊行しているそうです。東北の俳人ネットワークがあり、芭蕉は仙台に入る前に三千風のことを知り、あまり会いたくなかったらしい。筆マメな芭蕉は杉風への手紙に
「これまで仙台までの間は俳諧をやるような人もいないそうだ。1,2日頃仙台に着くが、三千風といういい加減な荒れ俳諧が流行っているらしいので、仙台の風流の望み絶え候」
などと書いたらしい。
そこで、加右衛門から三千風の不在を聞いても、会えずに惜しいとも思わなかったらしい。そして、俳諧の話題をさけて加右衛門を「画工」としたらしい。
ここでは、たくさんの和歌が下敷きになっています。
・「宮城野の萩」 古今集 恋歌 よみ人しらず
* 宮城野のもとあらの小萩 露を重み風を待つごと 君をこそまで
・「玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲く頃」 源俊頼
*とりつなげ玉田よこ野の離れ駒 つつじの岡にあせび咲くなり(あせびは毒なので駒をつなぎなさい)
・「日影ももらぬ松の林」 古今集 東歌
* みさぶらひ御傘と申せ 宮城野のこの下露は雨にまされり
これらを見て回り、その日は暮れていった。(6日は省略)
別れの折、加右衛門は、これからの旅のために、松島、塩釜など、これから行くところを絵に描いて贈ってくれた。そしてマムシや害虫よけになるという(細かい心遣いの)紺色の麻布の鼻緒のついた草鞋を二足。
芭蕉は大感激!
「さればこそ!風流の痴れ者!!ここに至りてその実を顕す!!!」
そこで一句
*あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒
いただいた心づくしの草鞋にあやめ草を結ぼう、と、加右衛門への謝辞をこめて句を詠んだのでした。すばらしい出会いでしたね。この加右衛門との出会いは、芭蕉が旅立つ前に会うことを約束した各地の俳人たちと同じパターンにしたくない、という思いがあったらしい。
2014年8月24日
まずは芭蕉さんの生涯から。天和2年(39歳)のとき、数年前の東西交流を一緒に行った京都の大原千春さんが、江戸の新俳諧三巻を編集し「武蔵曲」となずけて刊行します。芭蕉門下の人ばかりの句集です。
芭蕉は数年前の句を否定的に考え「親句=前句と後句がくっつきすぎ」を「疎句」をよし、とし。「さい句=笑いを狙うわざとらしい句」を否定し「深切」をよしとしました。ひとり静かに深く考える貧寒のイメージで
*芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
*櫓の声波を打って腸氷る夜やなみだ などです。しかし巻頭句にはそうではない句もあります。
*梅柳さぞ若衆かな女かな (梅はかっこよい若衆、柳は優美な女性。説明はせずに読者に想像させる)
*郭公まねくか麦のむら尾花 (麦の穂に心を寄せて、ともにほととぎすを待つ思い)
*侘てすめ月侘斎が奈良茶歌 (自分の書斎に「月侘斎」と名付け、月に侘びて住む(澄む)自画像。)
侘びと風雅を良しとして、その姿勢に徹して対象をよく見る、これが蕉風俳諧の第1歩だそうです。
では本文
= かの書画にまかせてたどり行ば、おくのほそ道の山際に十符の菅有。今も年年十符の菅菰を調へて国守に献ずと云り。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗か。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也。天平寶字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣あさかり修造而十二月朔日」と有。
聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、騎旅の労をわすれて泪も落るばかり也。=
仙台藩は当時官民一体となって歌枕の調査をしており、画工加右衛門もその一員だった。彼にもらった絵図を見ながら行くと、おくのほそ道の山際に十符の菅がある。網目が十筋ある菰を、今も献納しているとのことだ。
歌枕の壺の碑、高さ1,8M,幅は1Mほどで、苔に覆われて文字はかすかだけれど、石にこの四方の国境からの里数を刻んである。芭蕉は碑文をそのまま書いたものも残しているそうです。「この城は724年、大野朝臣東人が設置。762年参議恵美あさかりがこの碑を建てた十二月一日。」
これは聖武天皇の御世のことで、(762年は2代後だが、文学作品なので)予は手放しで感動したのです。
なぜならば、歌枕は歌の名所として歌人たちがイメージとして名が語り継がれてきたけれど、その実態は山は崩れ川は流れてその姿を変え、石は埋もれて(もじずり石)木は老いて若木に変わり(武隈の松)、時の移り変わりとともに形跡の確かでなくなったものが多いけれど、むしろその中で昔のことを伝えようとしている人たちがいる。
芭蕉はこの旅で「不易流行」を実感していきます。流行=変わること、こそが、この宇宙で唯一不易=変わらないことの解なのだ!と。
927年前の碑を見て、芭蕉は「疑いのなき千歳のかたみ=永遠=不易にかぎりなく近いものを実感します。目の前の石碑を通じて古人の心と出会うことができた。碑を建てた人、この碑の歌を詠んだ人たち、この碑を大切に守ってきた人たちと。
辛くても旅に出て良かった。泪も落ちるばかりである。対句仕立てで漢文体になっているのは、論を示そうという作者の意識なのだそうです。
ところで、芭蕉さんの見たのは坂上田村麻呂の建てたという壺の碑ではなく、多賀城の跡らしい。
西行さまのうた
*むつのくのおくゆかしくぞおもほゆる壺のいしぶみそとの浜風
寂蓮さまのうた
*みちのおく壺の石文ありと聞くいづれか恋のさかひなるらん
2014年8月31日
まずは芭蕉さんの人生の軌跡から。
「芭蕉」という名前が初めて使われた武蔵曲=むさしぶり。ここでは多様な内容の多彩な句が載っているけれど、確かに言えるのは、これまでの俳諧とは異なる句を作るために苦闘している芭蕉さんたちの姿。
京都の千春さんが編集しているという意味では、東西交流の成果ともいえるし、ほとんどが芭蕉の門下という点で、蕉門の撰集の出発点ともいえるそうです。
中でも目立つのは其角。彼は編集に協力したらしく、そのあと彼本人が、天和3年、1683年、虚栗=むなしぐり、を西村半兵衛方から刊行します。発句431、連句9巻にも及ぶもので、天和期を代表するものとなり「虚栗調」といわれるほど大流行。
その中の芭蕉の句。
*氷苦くえん鼠(えんそ=どぶねずみ)が喉をうるおせり 今の暮らしの肯定
*世にふるもさらに宗祇のやどりかな
(尊敬する宗祇の *世にふるもさらに時雨のやどりかな=この世に生きるとは雨宿りのようなもの=苦しい・・・を、1語変えただけ。
宗祇のこの句は、新古今集 の二条院讃岐の
*世にふるは苦しきものを槙の屋に易くも過ぐる初時雨かな からきていて、それは小野小町姐さまの「世にふる」歌からきているらしい。
宗祇の句に追する芭蕉のこの方法は漢詩の「追和」というものらしい。この世は生きづらいと尊敬する宗祇は言ったが、そこにはまた侘びの醍醐味がある、という感じ。甲府の「ひじ」あて書簡では「古人の名を使った安易な句はだめ」と書いたが、こういう方法もあると示したらしい。
*鶯を魂にねむるか矯柳(たおやなぎ) 荘子の「胡蝶の夢」を使っている
*ほととぎす睦月は梅の花咲けり 1月にはちゃんと梅の花が咲いたのに・・・郭公の初音を待つ4月
では本文
末の松山 昔の教科書の岩波文庫に書き込みがいっぱいでよく読めないので、ネットからコピペしました。全然記憶にないけど、どうもひどく喜んで授業を受けていたらしい20歳の私♪
=それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。
末の松山は寺を造りて末松山といふ。
松のあひあひ皆(みな)墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。
五月雨の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。
あまの小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「綱手かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀れなり。
その夜、目盲法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。
平家にもあらず、舞にもあらず。
ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。=
野田の玉川・沖の石を訪ねます。 野田の玉川は能因法師の
*夕されば汐風越えてみちのくの野田の玉河千鳥鳴くなり の歌枕の地。
沖の石は 二条院讃岐の
*わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ見えね乾く間もなし
沖の石は、伊達藩が江戸初期に「これ」と決めたもので、芭蕉もそれを見たらしい。近くに末の松山。
*君をおきてあだし心をわが持たば末の松山浪も越えなむ (古今集 よみ人しらず)
*ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは (清原元輔)
永遠の愛を誓った末の松山、その難しさをおもいつつ来てみると、そこには寺ができていて、松の間に墓がたくさんあるのでした。羽を交わし枝を連ねる長恨歌のような男女の契りも、最後にはこのようになるのかと悲しい思いで塩釜の浦に入り、夕暮れの鐘の音を聞けば、祇園精舎も思い起こされて無常感もいっぱいです。
梅雨空も少し晴れて夕月夜のした、まがきが島も近いのでした。まがきが島は古今集東歌の
* わがせこを 都にやりて 塩竃の籬の島のまつぞ恋しき
などの歌枕の地。
*みちのくはいづくはあれど塩釜の浦子のあまの綱手かなしも の歌を思えば、右大臣源実朝の
*世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
などを思い起こしつつ、予は日常の風景をしみじみと見ているのでした。
その夜は、琵琶法師が奥州の浄瑠璃を語る声などが聞こえてきます。平曲でもなく幸若舞とも違って、ひなびた調子でやかましく、洗練されたものとはいえないが、さすがに辺鄙な土地に伝わる伝統を伝えているのは殊勝なことだと思う予なのでした。
昼は歌枕をめぐり愛と無常の歌たちに浸り、夜は奥浄瑠璃の琵琶の音を聞き、めまぐるしく感情のゆれる末の松山の一日だったのです。短いけれど大切なものが詰まっている段なのでした。
2014年9月6日
今週のNHKラジオ第二放送、佐藤勝明先生のおくのほそ道は、塩釜でした。まずは芭蕉さんの俳句的生涯。
芭蕉さんは、俳句のあり方を変えようと苦闘中。「~はこれこれである」という理屈でまとめるのは、すでに卒業できている。貞門、談林の、言葉の縁で句と句が結びつく連句から、疎句の方向へ。
武蔵曲=むさしぶり、より。
*月は築地の古きにやどる びじ
* 遁世のよそに妻子をのぞき見る 芭蕉
*耳に残る吉原 きょうすい
句の細部が違っていたらごめんなさい。 伊勢物語のイメージの最初の句。そうそう業平くんが高子ちゃんの家の築地の破れから訪問してましたね。次に、西行さんが妻子とばったり会った(のは長谷寺 だけど)芭蕉さんは築地からのぞく世捨て人西行さんのイメージ。次に遊興が過ぎて破産した男。言葉の連想からではなく、前の句を深く読み込み、イメージを ふくらませていく彼ら。
虚栗=むなしぐりより
*ほちほちとして?ねだよねむ月(寝つけない人のイメージ) 芭蕉
*婿入りの近づく夜に初砧 其角
*戦いすんで葛うらみなし 芭蕉
寝付けない夜。婿入りが近づくので新妻になる人が夫になる人のために砧=織りたての衣を柔らかくするために打つ。戦いが終わり平和になって、その人は帰ってきた。葛の葉=裏と表の色が違う。葛の葉狐の伝説もふまえ。恨みも消える。
独立した各句の内容の断片をふくらませ、つけ句の理想に近づく天和期の芭蕉さんたちなのでした。ちなみにこの連句は李白の「子夜呉歌」からのイメージだそうです。
=長安一片月
萬戸擣衣声
秋風吹不尽
総是玉関情
何日平胡虜
良人罷遠征=
では、本文「塩釜」
= 早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやか す。
かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎 奇進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。
佳命(名)今に至りて、したはずといふ事 なし。誠「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。=
塩釜神社は衰退していたのを、慶長の頃(1607年)、伊達政宗が社殿を建て直し、以後歴代の藩主たちにより建て直されてきた。
宮柱太く、彩色の垂木はキラキラ。「彩椽」は他に用例がなく、芭蕉さんの造語らしいそうです。202段の立派な石の階との描写は対句になっていて厳かさを強めています。
都から遠く離れたこの地のここにも、神霊あらたかにあることに、わが国の尊さを感じる予なのでした。そしてそこに古い宝塔を見つけます!
金属の扉の表に「文治三年泉三郎寄進」と書かれてあるのです。1187年、芭蕉がその前に立つ503年前、平泉の藤原秀衡の三男藤原忠衡が寄進したものだったのでした。
藤原秀衡が死ぬとき、3人の息子に最後まで義経の味方をするように、と言い残します。2人の兄は頼朝に屈しますが、忠衡は最後まで父のいいつけを守り義経への忠義を守り通した人なのでした。
彼は文治五年七月に23歳で兄に殺されます。宝塔は亡くなる2年前の寄進だったのでした。彼の妻は飯塚の里鯖野にある、「佐藤庄司の旧跡」の、義経の平家討伐の折つき従わせた佐藤夫妻の娘なのでした。
予は、ここ塩釜神社にて、三郎寄進の宝塔を見て感慨にふけります。そこに刻まれた文字を通して、忠衡の生き方が浮かび上がってきます。宝塔を通して古人の心とつながることができます。予は、歌まくらの地や碑文を通し、古人につながることに深い感慨をいだきます。
義経への忠義を貫い勇義忠孝の彼の名は、今もあり、人間は人間としての道をしっかりと歩めば、名声もこれにしたがうといえるのだ、と思ったのでした。
ここでは、泉三郎としか書いていないが、読者には分かるはず、と思って書いたらしい。
2014年9月14日
NHKBSで「日めくり奥の細道」を見ているのですが、各地で芭蕉の足跡を慕って人々が訪れ、商売が繁盛しているのをみると、芭蕉さんって、こん なに人々に愛されているのかと驚きます。芭蕉がお土産にもらった「小松うどん」あまりの美味しさに後戻りしてまた食べたそうです♪
NHKラジオ第2、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」まずは芭蕉の人生から。変化する芭蕉たちの俳諧。
その頃の芭蕉の俳諧観が、其角編集の「虚栗=むなしぐり」への芭蕉の跋文に出ている。
栗といふ一書其味四あり、李杜が心酒を嘗て、寒山が法粥を啜る、これに依て、其句見るに遥にして聞くに遠し、侘と風雅の其常にあらぬは、西行の山家を尋て人の拾はぬ蝕栗なり、恋の情つくし得たり、昔は西施がふり袖の顔、黄金鋳小紫、上陽人の閨の中には衣桁に蔦のかゝるまでなり、下の品には、眉こもり親そひの娘、娶姑のたけきあらそひをあつかふ、寺の児、歌舞の若衆の情をも捨ず、白氏が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす。・・・
天和三癸亥年 仲夏日 芭蕉洞 桃青 鼓舞書
栗と呼ぶ一書 4つの味がある。
1・李杜が心酒を舐めて寒山が法粥をすする 芭蕉は李白・杜甫の2人の作品から影響を受けている。寒山漢詩をよく読んで学ぶ、そうして出来た詩は見るにはるかにして=遙遠な漢詩の世界。
2・わびと風雅のその常にあらぬは、西行の山家をたずねて、人の拾わぬ虫食い栗、人が見向きもしないもの、それが自分たちの俳句、という大いなる自負=雅な和歌の世界
3・恋の情 昔は西施のふりそでの顔。白氏(白楽天)が歌を仮名にやつして、自分たちは設定を日本に置き換え、独自大胆な翻案をする。中国の宮中の詩と同様に下世話な庶民の恋も取り上げよう=俗を扱う文芸の矜持。
4・中国の荘子の一語一語宝の鼎に句をねりて(皇帝が万物を想像したように)高祖(他の宝ではない、虚栗こそが後世につながる宝である。天和3年5月、芭蕉洞 桃青 鼓舞して書す。
芭蕉は喜び勇んで虚栗への跋文を書いた。 この時点での芭蕉の俳諧観がよくわかる。当時このような考えの人は居なかった。
「松島」本文
=そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥じず。
東南より海を入れて、江の中三里、浙江(せっこう)の潮をたたふ。
島々の数を尽して、欹つものは天を指、ふすものは波に匍匐(はらばう)。
あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。 負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。
松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。
そのけしき、よう然として美人の顔(かんばせ)を粧ふ。
ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。
造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。
雄島が磯は地つづきて海に出でたる島なり。
雲居禅師の別室の跡、坐禅石などあり。
はた、松の木陰に世をいとふ人も稀々見えはべりて、落穂・松笠など打けふりた る草の庵、閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、まずなつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼 のながめまたあらたむ。=
昼に近くなって舟で松島に渡ります。舟から見ての感想。小島の磯は歌枕の地。
言い古されたことではあるが、松島は日本第一の景勝地である。洞庭湖・西湖、中国の美しい風景これらと比べても見劣りはしない。12キロほどの距離。せっ こうのような潮を湛える景色、ありったけの数の島々をこの入江に集めて島々が二重になったり三重になったりしている。重なって見えた島が離れたり離れた島 がくっついたりする。杜甫の詩の美人の顔を思わせるほど美しい。
松は折れ曲がり、人為的にも見える。その景色は粧った美人の顔にも見え、そしてそれは、神の仕業。これに対して誰が絵や文で書かれようか。
小島の磯は陸続きの半島。禅師の座禅をしたという石、松の木陰に庵を結び、隠遁している人もまれにあり、落穂松かさ(燃料)など、も見え、なつかしく思える。
夜になり、月影が海に映るのもまた、昼とは違った美しさである。
今週はここまででした。
2014年9月22日
NHKラジオ第2放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道 名句でたどるみちのくの旅」。
まずは芭蕉の生涯。天和期の芭蕉の俳諧への考えをもっていたかが判るのは、先週もとりあげた天和3年の虚栗への芭蕉の跋文。
この年の冬、火事で焼けた芭蕉庵が52名の援助で再建された。その内容は「芭蕉庵再建勧進簿」でわかる。少額の人も高額の人もいて平均は8000円から1万円。中には扇やひさごを寄付した人も。其角など主だった芭蕉門の人の名はなく、彼らは別に高額の寄付をしたらしい。
天和4年の 歳旦句に芭蕉
*にあはしや新年古き米五升
庵にはもらったひさごがかけてあり、中身がなくなると門人が入れていった。そんな暮らしへの感謝が新しい年と古い米と対比してある。ひさごには5升しか米が入らなかったそうで「満タン」。
この年、貞享(じょうきょう)と年号があらたまる。友人の千里(ちり)の帰郷にあわせてともに上京する。その旅立ちに際しては、前年の夏、母がなくなったことも理由のひとつらしい。
故郷の伊賀上野、桑名、熱田、伊賀 深川に戻ったのは翌貞享2年。約8ヶ月の旅であり、この道中のことは芭蕉の自筆で現存しているそうです。
おくのほそ道に先立つ「野ざらし紀行」です。ではウイキさんよりコピペ
=『野ざらし紀行』(のざらしきこう)は、江戸時代中期の俳諧師松尾芭蕉の紀行文。貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地でもある伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。「野ざらし」は、旅立ちに際して詠んだ一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」に由来する。ちなみに、門出の歌に「野ざらし」はかなり縁起が悪い。また、出立が甲子であることから「甲子吟行」とも呼ばれる。発句が中心となって文章はその前書き、詞書としての性格が強く出ており、やがて文章に重きを置いた「笈の小文」を経て句文が融合した「おくのほそ道」へと発展する嚆矢としての特徴が現れている。
芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、江戸から東海道を伊勢へ赴き、伊賀上野を経て大和国から美濃国大垣、名古屋などを巡り伊賀で越年し、京都など上方を旅して熱田に一時滞在し、甲斐国を経て江戸へもどった。=以上。
*野ざらしを心に風の染む身かな 野ざらし(どくろ)宗教的な境地にあこがれる自分。世俗に身をおく生身の自分。という、自分自身が出てきているらしい。
本文松島の続き=(松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立 寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。)
江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙な る心地はせらるれ。
*松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなられける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。=
松島の散策を終え、宿は加衛門の紹介状を持って久之助のところに泊まります。
海岸に近い宿は当時珍しい2階家。窓を開けはなつと、まるで風雲の中で旅寝をしているようだ。風雲は芭蕉の好きなことば。
*松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良
曾良の句は予の思いを代弁したようなもの。鶴にこそふさわしい景色を裂いてほととぎすが鳴いたのです。
予は口を閉じてしまいました。句をよむのを断念したのです。眠ろうとしても眠れない。そこで、芭蕉庵を出立するとき、素堂の送ってくれた松島の詩を見ようとします。孤独な旅ではない、人々との交流、座の意識の1つのバリエーション。
素堂の漢詩 原安適の松が浦島の歌 さらに袋の中には杉風、濁子(野ざらし紀行の清書をした人)などの発句も入っているので、それらを読んで心を膨らませるのでした。
芭蕉が松島で句を詠まなかったわけではないそうです。蕉翁遺稿集に
*島々やちぢにくだきて夏の海 というのがあるそうです。しかしここでは、曾良の句がふさわしいと予は思ったのです。
本文=「瑞巌寺」
十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁平四郎出家して、入唐帰朝の後開山す。其後に雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。=
11 日、瑞巌寺に参詣します。この寺は838年に慈覚大師の開祖。 鎌倉時代に北条時頼の命で禅寺になる 真壁平四郎が唐より帰って開山します。、その後寛永 10年、伊達家の命を得て雲居禅師の力で大寺院になった。七堂伽藍の寺となる。その内部は金色の壁も光り輝いている。
極楽浄土を再現した ような大寺院。そこで予が思い起こしたのは見仏聖の寺のありか。雄島に庵を結び12年の間法華経を唱え続け、鳥羽帝に賞賛された人。西行が慕って能登から 松島に訪ねてきて2ヶ月間そのもとに滞在したという。という伝説で、芭蕉もその古事に興味があるのです。
曾良日記では松島は1日で終わっているのに、ほそ道では2日に分けて演出?しているらしい。
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