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第7官界彷徨
佐藤勝明先生の「おくのほそ道」その3
まずは芭蕉の生涯をたどります。おくのほそ道に先立つ「野ざらし紀行」貞享元年(1684年8月から)
本文=千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年却て江戸を指故郷=
荘子に「千里の旅をするものは3ヶ月分の食料を用意せよ、という知恵が書かれているが、それを反転させた、広聞和尚の「路に糧を包まず」を、芭蕉は反 論ではなく、精神の平安をもってとりあげる。三更=11時から13時くらいか)深夜月の下で悟りに入る、と言った昔の人(広聞和尚)の考えにすがっ て、秋のさかりに粗末な家を出ようとする予に、風の音は旅の不安をかきたてるように寒々としているのだ。
=『中国の禅僧広聞の「路粮(かて)ヲ齋(つつ)マズ笑ツテ復(ま)タ歌フ。三更月下無何二入ル」(『江湖風月集』)』=
太平の世の旅はそんなに心配することもない。そうはいっても風の冷たさで不安も・・・割り切れない人間の一面。
*秋十年却て江戸を指故郷 (十年も住んでみれば離れるこの家が、故郷のようにも見えてくる。)
旅立ちの高揚感と不安感、残してゆく門人たちへの挨拶句でもある。人間関係への配慮も忘れない芭蕉さんなのでした。
おくのほそ道
本 文= 十二日、平泉と志し、姉歯の松、緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の行きかふ道そことも 分かず、つひに道踏みたがへて石の巻といふ港に出づ。「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山、海上に見渡し、数百の廻船入江につどひ、人家地を争ひて、 竃(かまど)の煙立ち続けたり。思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿借らんとすれど、更に宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明 くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧(まき)・真野(まの)の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添うて、 戸伊摩といふ所に一宿して平泉に至る。その間二十余里ほどと覚ゆ。=
12日、平泉を目指し、歌枕の土地にも心惹かれながら行きます。
*栗原の姉歯の松の人ならば都のつとにいざと言はましを 伊勢物語
*妹背山ふかき道をばたづねずて緒絶の橋にふみまどひける 源氏物語
*陸奥のおだへの橋やこれならむ踏みみ踏まずみ心惑はす 後拾遺集
そうしていくうちにとうとう道に迷ってしまい、猟師たちの行き交う道のようなところを迷ったりしているうちに、石巻という港に出ます。そこは数百の廻船が集い、家々が立ち並びかまどの煙も立ち続ける町なのでした。そこで予は一つの歌を思い出します。
*天皇の御世栄えむと東なるみちのく山に黄金花咲く 万葉集 家持
*高きやに登りて見れば煙立つ民の竈は賑にけり 新古今 仁徳天皇
思いもよらないことに素晴らしいところにきたものだ、と思ったのですが、しかし、宿を借りようとしたら貸してくれる宿がない。乞食行脚に近い旅。飯塚の記 憶がよみがえります。やっと貧しい小屋に一夜を明かし、翌日はまた、見知らぬ道を迷いながら平泉をめざします。途中の歌まくらの地をよそ目に見ながら北上 川の長い長い堤を行きます。
*綱絶て離れ果てにし陸奥の尾班の駒を昨日見しかな 相模
*露わけて 秋の朝気は 遠からて 都は幾日 真野の萱原 玉葉集 定家
遥かなる堤。心細い長沼。そして、戸伊摩(登米)という所に1泊して平泉に着きました!その距離二十余里。
曾良日記によれば、十日快晴、松島を発ち、途中喉が渇いたので家ごとに湯を乞うたがどの家でも断られた。困っていたら今野源太左衛門という人(小野の邑主 の家老)が通りかかり知人の家に連れて行ってくれた。彼は石巻で四兵衛を訪ねるように言ってくれます。日和山に登り石巻を(案内してもらい見物)十一日石 巻を発ちます。途中まで四兵衛とあと一人同行者がいて、道に迷うことはなかった。といま(登米)では儀左衛門に宿を借りようとして断られ「検断」の庄左衛 門に頼み込んで泊めてもらいます。
こうした2日間の経験をおくのほそ道では1つにまとめた。なぜ、このような設定にしたのか。
「道に迷いながら進む予の姿をアピール!」
「歌枕のもつ、何かしらの力に導かれるように平泉に着いた」という感じを出す!」という所か。
2014年10月5日
今週のNHKラジオ第2、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、平泉!
まずは芭蕉の生涯から。
野ざらし紀行(貞享元年(1684年)8月から翌年4月までの上京の旅)
・大井川馬上吟
*道の辺のむくげは馬に食はれけり (説明的な貞門・談林と明らかに違う)
・ 尾張・熱田にて旅人を見る
*馬をさへながむる雪のあした哉 (雪は馬を~に見せる、だったのが、自分の行為を中心に見る)
・海辺に日暮らして
*海暮れて鴨のこゑほのかに白し (5・5・7の句。共感覚=聴覚の声・視覚の白)
・年が明け奈良に出る道のほど
*春なれや名もなき山の薄霞 (奈良の山には名山が沢山あるが、名も無き山に着目。有名なものもありふれたものも同格、と思う心)
◇野ざらし紀行には字余りの句も多い。
・伊勢
*みそか月なし千とせの杉を抱あらし (西行の歌を思い)
*深く入りて神路の奥を尋ぬればまた上もなき峯の松風 (西行)
・母の遺髪を手に
*手に取らば消えん 涙ぞ熱き秋の霜 (初句、字余りで感情の昂ぶり)
人が見過ごしがちな景色を捉えた場合は字あまりもなく、激しい心の動きを書く場合は字あまりも辞さない。
では本文「平泉」
平安時代後期、奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡の三代、約百年にわたって、産出される黄金で豊かな文化を栄えさせました。
秀衡は頼朝の追討命令から逃げてきた源義経を庇護しますが、1187年に秀衡が病没すると、次男康衡は鎌倉に抵抗できず、父の教えを守ろうとする三男忠衡を殺害。(忠衡の妻は佐藤基治の娘)義経を攻め滅ぼします。
文治5年(1189年)義経が康衡によって滅ぼされ、今度は康衡が頼朝によって滅ぼされます。頼朝はこれで、独立政権の奥州藤原氏を滅亡させます。
本文= 三代の栄耀(えよう)一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ 大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口 をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」 と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
*夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
*卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曾良 =
予(と読者)は佐藤家の菩提寺で忠義の一族を思い、塩釜で宝塔の文字に忠衡を偲び、平泉に到着します。
「一睡」とは邯鄲の夢=どんな繁栄も一時でしかない。藤原三代の栄華もあの故事と同様、と思われます。大門の跡は館から一里手前にあり、その規模が偲ばれます。
秀衡の館は野原となって跡形もありません。唯一、金鶏山だけが残っています。
義経の館があったという高館に上れば、滔々とした大河の北上川。義経を守ろうとした忠衡の館のあたっという和泉が城を巻いて流れる衣川は高舘の下で北上川に合流していきます。康衡の旧跡は北を防いでいるように見えます。読者の目には大きな景観が見えてきます。
そこで予は、本当にまあ、義臣たちが忠義の心をえりすぐって、この館にこもり、平家討伐の功名も一時のものに過ぎなかったのだと、思いをめぐらすのでした。
そして予の心を杜甫の「春望」という詩が過ります。戦乱による国土の荒廃を嘆いた詩。
「国敗れて山河あり 城春にして 草青みたり」(原作は草木深し)
予はこのように口ずさみ、笠を敷いて腰を下ろし、長い間涙をこぼし続けたのでした。
*夏草や兵どもが夢のあと 芭蕉 (功名も一時の草むらになる)
*卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良 (兼房は義経の死を確認してから火中に飛び込んで死んだ忠義の老臣)
珍しく2人の句が並び、マクロに 夏草 兵 夢 とした芭蕉の句に、卯の花、 兼房、白毛、とミクロにみている曾良の句が、お互い補い合って、すごくいい感じ。
2014年10月12日
佐藤勝明先生のおくのほそ道。まずは芭蕉の生涯をたどります。
前回は野ざらし紀行の発句の紹介で、特徴としては
・難しい語や表現を用いず易しい言葉を使う
・漢語を多様し、字余り多い句もある~深い感情、気持ちが激した場合など。表現も難解
の2つが共存しており、これは、この段階の芭蕉にとっては必然だったらしい。今回は、野ざらし紀行の富士川のところ。本文は
=富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえず、露計の命を待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
*猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝、ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。=
富士川のほとりで3つくらいの捨て子に遭遇。小さな命は尽きかけている。飢饉が続き、「捨て子禁止令」が出るほどだった。小萩=小さな命の象徴。予は食べ物を投げ与えて通る。
この子の小さな命は今日明日には終わるかもしれない。読者への作者の答えは
「袂より食い物投げて通る」=この子の命は救えない。それでもいいのか。倫理的観点からすればどうなのか。ここにある句*猿を聞く人捨て子に秋の風いかに
は杜甫の『聴猿実下三声涙=猿を聴きて実にも下す三声の涙』から。『いかに』は、禅問答の問いかけの語。猿の声に涙しその思いを詩ってきた人よ!どうなのだ!
文学と現実の社会の関係を問いかける。捨て子は持って生まれた悲運だからどうにもならない。旅人は大きな問題に出会ってしまった。作者の無情、倫理観を私 たちは問えない。大切なのは芭蕉が作品中であえてこのことを取り上げたこと。主人公が「無用者」としての自分を強く意識した出来事だったのです。
☆なるほど~。この場面にも深いものがあったのに驚きです。ではおくのほそ道の本文。
=兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。 暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の降のこしてや光堂 =
以前から耳に聞いて驚嘆していた経堂、光堂の二堂を見せていただく。(曾良日記によれば、別当が留守であけてもらえなかった、と書いてあるそうです。)
経堂は清衡、基衡、秀衡の三人の像があり、光堂はその三代の棺を納め、阿弥陀三尊の像が安置してあります。(数字が多用されている段)
光堂は風雨に晒されるのを防ぐため、それを囲う「さや堂」で守られていて、もしさや堂だなければ、七宝は散り、珠の扉は風に破れ、金色の柱は霜雪に朽ちて、崩れた草むらになってしまっていたであろうに、四面を囲い甍で覆い、雨風をしのいでいる。
暫時=あらゆる事に絶対は無く、すべてが変化して止まないが、このさや堂によって千年も残ることだろう。
*五月雨の降のこしてや光堂
昔のテキストのメモ解釈=光堂が今日残っているのは、何百年もの五月雨が、ここ光堂だけは降り残しているのだろうなあ=
2014年10月19日
有名な尿前の関。
まずは芭蕉の生涯から。貞享元年、41歳の芭蕉が野ざらしの旅の折に名古屋滞在中に巻いた「冬の日」は、俳諧七部集のひとつとされ、従来のものとは違う成果を上げたものらしい。ここで芭蕉は名古屋の豪商たちの支持を得たらしい。
「冬の日」
=笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえ
*狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉 芭蕉
*たそやとばしるかさの山茶花(さざんか) 野水
長旅で笠は雨にほころび、紙の衣はあらしでヨレヨレ。侘びのきわみの侘び人の姿は我ながらすごいと思う。(侘び=天和期以来の芭蕉俳諧のキーワード。そん な姿が心地よく面白がっている自分)その昔、狂歌の上手い人=竹斎がこの国(名古屋)にやってきたことを思い出して、この句を詠んでみました。
*狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉 (狂句をつけないと575の俳句になる。竹斎に似た私は、焦がれてじりじりしているのです。そんな私です、どうぞよろしく♪
それに応えて野水(やすい)さんが
*竹斎に似ているあなたはどなたでしょうか。笠にさざんかの花びらを散らせたあなたさまは・・・♪
と、芭蕉の求める句を理解してすぐに応えたのでした。
では本文。
= 南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれ ば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれ て、よしなき山中に逗留す。
*蚤虱馬の尿する枕もと
あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者、反 脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我ゝが先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高 山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分ゝ、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき 汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、「此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり」と、よろこび てわかれぬ。跡に聞てさへ胸とヾろくのみ也。=
解釈=平泉で大きな感動を得た予は、南部道を見やりて(できれば北に進みたい心を抑え)岩手の里に泊まり、歌枕の地、小黒先・みずの小島を過ぎて鳴子温泉を眺めながら通り過ぎます。
*お黒先みずの小島の人ならば宮このつとにいざといはましを 古今集
尿前の関では旅人も稀で、関守に怪しまれて大変だった。難所の大山を上り日が暮れてしまったので(最上町境田の)封人の家に泊めてもらいます。嵐のため何 もない山中に3日間逗留します。その家は本当は立派な家で今も当時のまま残っているけど、予はこの珍しい体験に興じてこんな句を作ります。
*蚤虱馬の尿する枕もと 俗語も詩の言語になることが俳諧の利点であることを証明。物のみを並べた結果生まれたユーモアも可能性を広げた。
翌日、出立の折に主が、ここから出羽の国に行くには山越えで道が定かではない、案内人を連れて越えたほうが良い、というので、それならと依頼すると、屈強な若者がものものしい反脇差を腰に、頑丈な樫の杖を持って先導する。
その完全防備は頼もしくもあり、半面今日はきっと危ない目にあいそう!とおびえつつ後をついていくと、高山の森は深く鳥の声もなく木下闇で真っ暗!
杜甫の詩 雲端につちふる ような垂れ込めた空気。
篠竹踏み越え、瀬を越え、岩につまづき、冷や汗をかきながらやっと最上の庄に出ました。
案内人の男が言うには「この道は(山賊やけだものなど)不都合に出会うことが多いのです。何もなくてよかったです!」といい、お互い幸運を喜び合って別れたのでした。あとで聞いてさえ胸がどきどきするばかりなのでした。
この峠は「山刀伐峠=なたぎり峠」=名は山賊が住む峠に由来しているらしい。やむを得ず山中に泊まったのちの危険な峠越え、芭蕉さんの構成意識も盛り上がりに加味されているのかも。
今週はここまででした。(現在は交通事情が良いみたいです)。
2014年10月26日
今週のNHKラジオ古典講読、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、尾花沢でした。昔は「おばねざわ」と読んだらしい。
まずは芭蕉さんの生涯を辿る。芭蕉七部集に数えられる「冬の日」は、貞享元年(1684年)から翌年にかけて、野ざらし紀行の途中で立ち寄った名古屋で、初対面の人たちと巻いたもの。蕉風の俳諧はこの冬の日から始まったといわれている。
突然出来たものではなくて、武蔵曲、虚栗などに、前の句に全体がはまることや、奇をてらうこしらえごとなどから離れようとした試みがあり、冬の日はその延長線上にあるらしい。
名古屋の人たちと芭蕉は初対面で、名古屋の宗匠荷兮=かけい、は芭蕉を試す思いもあり、他の人々も伝え聞く芭蕉の様子に期待を持って迎え入れた、双方ともに良い緊張感で巻かれた作品集になっているらしい。
「狂句 木枯らしの身は・・・」で俳諧に生きる芭蕉の自己紹介から、「たぞやとばしる・・・」で、笠にさざんかの花びらをつけた風流なあなたは?と迎え入れた名古屋側。
今回は季語の入らない三句から。字余りなしの定型。
*髪ヲ生やす間を忍ぶ身のほど 芭蕉 (何か深い事情がありそう)
*偽りの辛しと乳をしぼり捨て 重五(その事情を探る=子を産んだ尼・奉公先の主人の子を身ごもった使用人)
*消えぬ卒塔婆にすごすごと泣く 荷兮(墨跡がまだ黒々=子はもうこの世にいない)
中国趣味は散見されるが、極端な漢詩風が抜ける。この試みが初対面の名古屋の人と共有されている。芭蕉と名古屋連中の句の合致がある。
次に同じ冬の日より
*乗り物に簾ヲ透く顔朧なる 重五(あだ討ちの場面)
*今ぞ恨みの矢を放つ声 荷兮
*盗人の記念の松の吹き折れて 芭蕉 (盗賊ゆかりの松=背景を)
*しばし宗祇の名をつけし水 杜国(この世は儚いという宗祇)
*笠ヲ脱ぎて無理にも濡るる北時雨 荷兮 (わざわざ笠を脱ぎ無理にも濡れようとする・・・芭蕉さん、あなたなら当然そうするでしょうね!のメッセージ)
「冬の日」の特色は
1・前句をしっかり理解して自分なりの新たな句を=真句から素句へ)
2・かなり特殊な場面が好まれている。
だそうです。では次に本文。尾花沢。
=尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
*涼しさを我宿にしてねまる也
*這出よかひやが下のひきの声
*まゆはきを俤にして紅粉の花
*蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良 =
清風は紅花問屋を営み、且つ幾つもの俳誌を編んだ人。「富めるものなれど志卑しからず・・・」という文化人で仕事の用事で都(京・大坂・江戸)にも折々通っていて、旅人の情もよく理解して芭蕉たちをもてなしてくれたのです。
芭蕉の尾花沢滞在は11日間で、そのうち3日は清風宅。あとはお寺に泊まったが、これも騒がしい商人の家よりも落ち着けるだろうとの、清風のはからいらしい。
尾花沢の紹介が少なく、句が4つも載っている。文章と句の量の逆転は、ここで大きな変化が生まれたのだろうか?
はじめの句*涼しさを・・・この涼しさを満喫し、自分の家のようにくつろいでいます。「ねまる」はくつろぐ、という意味の当地の方言を使った。
*はいいでよ・・・・万葉集に*朝霞かひ屋が下に鳴く蟾蜍声だに聞かばわが恋ひめやも
くつろいだ自分の耳に聞こえる養蚕室の下から聞こえる蟾蜍の声に、万葉集の作者の気持ちになって呼びかけてみた。
*まゆはきを・・・・紅花の姿は、まるで化粧道具のまゆはきのようだ。紅花の古名は「末摘花」。ところで、この句は曾良日記によれば立石に向かう道で詠んだとある。尾花沢に入れた理由は?
4つめに曾良の句が入ります。*蚕飼いする人は・・・。
尾花沢ではこういう体験をした芭蕉。
1・清風の清らかさ
2・そのことが予にもたらしてくれた安心
3・目で見、耳で聞く古代の姿。
芭蕉はそれらを違和感なく間延びせず表現するには、文章でなく句で表したほうが適切だと判断。
曾良は、あの養蚕の人たちは古代さながらの姿ですね。生活の中に残る古代、なんとも嬉しいことではないか、と2人して思ったのでした♪その結果の編集として4つの句が入れられたらしい。
2014年11月2日
NHKラジオ第二放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、立石寺(山寺)でした。まずは芭蕉さんの生涯をたどる。野ざらし紀行の旅の続きです。
1684年野ざらし紀行の旅の途中、芭蕉は名古屋の人々と交流し、歌せん5巻を巻きます。1685年に刊行された「冬の日」は、すぐれた内容から芭蕉7部作のひとつになったのです。
野ざらしの旅で、芭蕉は東海道~伊勢参り~故郷の伊賀~山城~桑名~熱田などをめぐり、貞享2年4月、深川へ帰ります。
芭蕉自筆の初稿や自筆の画、じょくしの絵入り原稿なども現存しているそうです。
この野ざらし紀行の特徴は
・句の数が多く文章量が少なく、句集の様相だということらしい。
名古屋に入る
・狂句木枯しの身は竹歳に (脚色、演出された自分)
・草枕犬も時雨るか夜の声 (犬も我も)
雪見に歩きて
・市人よこの笠売らむ雪の笠 (世間的に価値はないが自分にとっては風雅の友)
旅人を見る
・馬をさゑ眺むる雪の朝哉
海辺に日暮らして
・海暮れて鴨の声ほのかに白し
紀行の最後のほう
杜国におくる
・白芥子に羽もぐ蝶の形見哉 (離れがたい杜国と自分)
ふたたび東洋子が元にありて
・牡丹蘂深く分け入る蜂の名残哉 (熱田で門人となった桐葉子と今東国に下らんとする自分)
甲斐の山中に立ち寄りて
・行駒の麦に慰むやどり哉 (馬も自分も休息)
卯月の末庵に帰るに
・夏衣いまだ虱を取り尽くさず
帰りの句は、ひどくあっさりと、上の二句しかない。では本文「立石寺」
= 山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝ むるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔 滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景 寂莫として心すみ行のみおぼゆ。
*閑さや岩にしみ入る蝉の声 =
予は、10泊もした尾花沢を立ち、予定にはなかったが人々がぜひ立ち寄るべきと勧めてくれた立石寺に寄ることにした。尾花沢から七里ほど取って返し、行きの三里は清風の用意してくれた馬で、残りの四里は歩いて行ったのです。
着いたあと、まだ日が暮れていないのを幸い、麓に宿を借りて、山の上のほうに登りました。岩が重なって山となり、松や柏の古木があり、土石には苔が生えて滑るところを上がっていくと、岩の上の院は扉が閉まりひっそりとしています。
絶壁の淵を回り、岩を這うようにして仏閣を拝むと、美しい景観が静まりかえって、予は自分の心が澄んでいくのを感じたのでした。自分の心を澄み切らせていく静けさに・・・・。
*閑さや岩にしみいる蝉の声 という句が。
曾良の書き留め日記には初案があって
・山寺や岩にしみつく蝉の声
・寂しさや岩にしみ込む蝉の声
というのがあるそうですが「しみいる」という卓越した表現にゆきついたらしい。後世にまで人々に愛される名句誕生ですね♪
2014年11月9日
おくのほそ道、まずは芭蕉さんの生涯から。
野ざらし紀行の旅から帰った芭蕉は、深川の芭蕉庵で野ざらしの旅のまとめ(絵もつけて画巻本)を書き、弟子の濁子に写させたりしています。近年2つの画巻本が発見され、芭蕉晩年の作との説もあるらしい。
江戸での動向がはっきり分かるのは貞享3年(1686年)3月の、この有名な句。
*古池やかはつ飛び込む水の音 はせう
ありふれた素材、難しくない言葉。和歌では蛙な鳴き声だったのに、水の音を聞く作者。古池「や」の切れ字によって、時間の流れが一句の中に作られていく・・・・かはつの動作を通して春の喜びが表されている・・・などの高評価!いろいろな解釈が今もされているらしい。
1686年3月、仙化という門人の「蛙合」(かわずあわせ)に初出の場面があるそうです。深川の芭蕉庵にて行われた蛙合という句合せの巻。
最初に左側に *古池やかはつ飛び込む水の音 はせう
右に *いたいけにかはつつくばふ浮き葉かな 仙化
とあり、その添え文に『このかはつの句を何気なく作ったら、われもわれもと、4つになり6つに成り、一巻のものとなった。上も下もないので、それぞれ争うことはないよ♪』
古池や、の句は「春の日」にも採られ、蕉門の象徴的一句として評価されていったのだそうです。芭蕉さんと門人たちとの、新しい文化を作る同志としての、和気あいあいの感じが伝わってきますね。
では本文「最上川」
= 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあ しゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。
最上 川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆 ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ゝに落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやう し。
*五月雨をあつめて早し最上川=
芭蕉さんの文は、省略が多く「最上川のらんと」は、最上川を船に乗って下ろうと・・・という感じ。ここは以前より俳諧が盛んで、その古い俳諧の伝統を忘れ ずに行っている場所だったが、「芦・角笛」のような素朴な古い俳諧が、この地の人の慰めになっているのだが、新しいものを模索はするものの、新風と古風に 踏み迷っているのだが、教えてくれるものがいない。そこで、予に依頼されたので、仕方なく連句を一緒に行い、一巻を残したのだ。(でも本心は決して嫌では なく)今回の旅の風流がここに極まった、という素晴らしい経験だったのです。
句会のことを書いたのは須賀川以来で、それからここまで何度も句会を開いてきたのに、それには触れていない。この地での句会を素晴らしい経験として感極まった予の心・・・・らしい。
張り紙の下には『この一巻には、新風と古風が入り乱れたことになってしまったが、そのまま別れた』と書いてあったそうです。短い時間では充分に自分の俳句を伝えられなかったが、自分に新しい俳諧を学ぼうという、この地の人々に感激したんでしょうね。
最上川は、陸奥を源として、山形を水上としている。大きな石が碁石のように点在し、はやぶさのような急流の難所がある。板敷山の北を流れて酒田の海に入るとのことだ。
川の左右は山が覆いかぶさるようで、そういう中を下っていく。古今集に
*最上川上れば下る稲船のいなにはあらずこの月ばかり(あなたの求婚を否、というわけではないのですよ。この月だけはまってください)
という歌を思い出し、稲を積めば稲船になると思ったり。白糸の滝は最上四十八滝のひとつで青葉の間を落ちるのを見たり、仙人堂が岸辺に立っているのを見たりしているうち、水かさが増えて舟は危険なくらいなのだった。
*五月雨を集めて早し最上川
増水して急流となっている川=句と文と一体になっている名句が生まれたのです。
2014年11月16日
まずは、芭蕉さんの生涯をたどる。
有名な*ふる池や蛙とびこむ水のおと
では「や」の使い方が確立された。同じ頃
貞享3年の秋に催された芭蕉庵での月見の句。
*名月や池をめくりてよもすがら
宝井其角によれば、この日門人たちが芭蕉庵に参集して舟遊びを楽しんだ・・・・とのことで、「池」はそのあたりに無く虚構かもしれないが、句は必ずしも現実でなくてもよい。
夜じゅう池をめぐるという風狂の行為を詠みつつも、句はやさしく柔らかい。蕉風俳句が発展してきているのがわかる。
同じ年の冬
*初雪や水仙の葉のたはむまで
まちかねた初雪が水仙の葉のたわむくらい、少しだけの重みが初雪の風情を見せている。ていねいな観察に基づく句。しっかりと蕉門俳句の進む道が表れている。初雪と水仙とが季重なりだけど芭蕉の頃は特に気にしなかったそうです。
この句は、貞享4年1687年の「集め句」にあり、刊行したものではなく、芭蕉が選んで自筆で巻物にして、弟子の杉風に渡したもの。これは鹿島詣の「鹿島 紀行」と1対にして渡したのだそうです。杉風は芭蕉庵を建ててくれた人。おくのほそ道のはじめにも「杉風が別所にうつりて」って出てきますね。
では本文 =六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて俳諧興行。
*有難や雪をかほらす南谷
五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いづれの代の人と云事を知らず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書 写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に 侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法(のり)の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法 を励し、霊山霊地の験効、人貴び且恐る。繁栄長(とこしなえ)にして、めで度御山と謂つべし。=
旅の文芸作品でありながら、日時をあまり出さないのもおくのほそ道の特色だそうです。
ここでは珍しく三日、四日、五日、八日とたたみかけるように日にちが出てきます。一種の記録性を重んじたかったのかも。
6月3日に佐吉を訪ね、その案内でお山に登り、会覚阿闍利に会うことができました。佐吉は山伏の法衣を染めたり参拝者の案内もする人で、この時蕉門に入り、露丸=呂丸、という俳号を持ちます。彼は芭蕉より早く元禄6年1693年に亡くなったそうです。
羽黒山中興の祖といわれる「天宥」という人は流されて伊豆の配流先で死亡していて、芭蕉は
*その魂や羽黒にかえる法の月 という句を残しているそうです。
芭蕉たちは南谷の別院に泊めてもらいます。会覚は仏の憐みの心のごとく親切にもてなしてくれました。
四日には本坊で俳諧の興行をします。
*有難や雪をかほらす南谷
有難いことです。夏も雪が残る霊地に心地よい風が吹いてきています。
曾良の日記によれば
6月四日
*有難や雪をかをらす風の音 おきな (もてなしへの感謝)
*すむほと人の夏草 呂丸 (この別院は人の住める程度の粗末な庵にすぎません)
当初、歌せんの発句として作ったらしい。
五日、羽黒権現に詣でます。当山を開いたという能除大師は、いつの時代の人とも分からない昔の人で、延喜式に羽州里山の神社とあるのを写すときに里を黒と 間違えたのだろうか。出羽というのは、鳥の毛羽を国への貢物にしたと風土記にあるという。(延喜式にはなく、東鏡にあり、風土記に出羽の記述もない)
呂丸からの受け売りらしい。
当山は江戸の東叡山寛永寺を本山とし、天台止観の法灯をともし続けている。僧坊は棟を並べ、修験者たちの修行を励まし、霊山霊地の素晴らしい力を、人々は恐れ敬っている。この繁栄は永遠に続くめでたいお山ということができるだろう。
この山に来てからの知識を並べ、予は俄然宗教つうの様相を見せて書き綴ります♪
2014年11月23日
まずは芭蕉の生涯を辿る。前回は、殊更な趣向を構えず、難しい語句を使わず、575の17音でいかに表現するかを追及した頃。それに続きます。
貞享3年冬 深川雪の夜
*酒のめばいとど寝られね夜の雪
寝られね、の「ね」は「ず」の已然形。雪に降り込められて一人酒を飲んだが、いよいよ目が冴えてしまった・・・・孤愁に似た思い。
*月雪とのさばりけらし年のくれ
月といっては興奮し雪といっては気もそぞろ、ずいぶん勝手な1年を過ごしたものだなあ♪反省、自嘲の裏の自負の心。
貞享4年、1686年春
前書きに「物皆自得」
*花にあそぶ虻な食らいそ友すずめ
雀たちよ、虻を食べてはいけないよ、花も虻も雀も私も、命を天に与えられて生きているのだから。
=物皆自得(ものみなじとく) ... 生き物は皆それぞれに天から与えられた性に従って楽しんで生きている、の意。万物は人知をはるかに越えた宇宙意志(道の本体)の具現したもので、従って万物は一如、その間に価値の差別はないとする荘子哲学から出た自然観。=という荘子の言葉かららしい。
では本文
= 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入か とあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻(いた)れ ば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
谷 の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをし たふ。 道に堪能(かんのう)の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下 に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶ま さりて覚ゆ。惣て、此(この)山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍(よっ)て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需(もと め)に依て、三山順礼の句々短冊に書。=
八日、月山に登ります。(本当は6日)。芭蕉は7泊を出羽三山で過ごします。
山の修験者の服装、木綿のしめなわ(曾良日記によれば紙のこよりだったらしい)を首にかけ、頭を包み、強力に導かれて雲霧の山の冷気のなか、氷や雪を踏ん で八里を上り、さらに日や月の通り道の雲の中に入ってしまうのかと感じられるほど行きます。息も苦しく身も凍えて、やっと頂上に着けば、折りしも日が没し て月が出ました。
笹を敷いて篠だけを枕にお山の中で寝て(曾良日記によれば、山小屋に1泊)、夜が明けて日が出て雲が晴れたので、湯殿山に下ります。
その途中、谷のそばに鍛冶小屋というものがありました。ここの鍛冶職人が、霊水を選んで潔斎して剣を打ち、立派なものができたので「月山」という銘を切って賞賛されるようになったのです。龍泉に剣をにらぐ、の故事にも似て、また、
『晋ノ太康ノ地理記ニ云フ、西平県ニ龍淵水有リ、刀剣ヲ淬グニ用ヒル ベシ、特ニ堅利ナリ」(史記、荀卿伝注)』
二人して名刀を打った呉の国の干蔣・莫耶の夫妻のことも思い出されて、道を求める思いの深さを連想するのでした。
岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺ほどの桜のつぼみの開きそうなものを見つけました。降り積もった雪の下に埋もれても、春を忘れないこの遅桜の花の心はなんとも立派である。予はこれに一種の永遠性を感じ心を動かされます。
これは禅林句集にある「炎天の梅花ここに香る」のような、ありえないほど素晴らしいものだ。予は実際に咲いている遅桜から、奇跡的な花の姿だと感じ入ります。そして次の歌を思い出します。
行尊僧正の=大峯(吉野)にて桜の花を見て
* もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかに知る人もなし (私がお前をなつかしく思うように、お前も私を懐かしいと思っておくれ。ほかに知る人もない私だから)
行尊僧正は、羽黒にも訪れ、そこで死んだとも伝えられているそうです。
予は月山という銘の名工のこと、雪の中の遅桜、歴史的なものと自分の体験したことから感銘を「猶まさりて」覚えたのです。
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