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「毎日更新」読レポ第2162承認欲求捨ててみた~他人を恐れない自由な心を手に入れる自己改造法~著:諸富祥彦発行:㈱青春出版社第1章 人間には、二種類の人生しかありません。④「排除されても気にならない人」には誰でもなれる。 ここでは、日本には「村八分」や「世間の目」を気にする文化があり、承認欲求が強い社会が存在します。このような社会の裏面には、いじめという「排除の論理」があります。承認欲求に縛られることは、排除の恐れに怯えて生きることを意味します。誰もが排除されたくはないものの、その恐れの程度には個人差があります。自己を確立している人は、排除されても気にせず、安心感を持っています。彼らは「排除する側がおかしい」と考え、他人からの排除に対して動じません。 確かに、私も日本には「村八分」や「世間の目」を気にする文化があり、「他者と同じではなかれば、排除される」との怯えがある。他者と同じでない、異質に対しては、排除での攻撃をするので、「他者と同じであること」に気をつかい、異なる意見などは言わないようにと怯えている面があるとおもう。私の中にもまだ、あります。場合によっては、言わないことがある。 以前に初めて参加したある地域での集まりでは、異なる意見を言い排除されそうになった事がある。昭和から変わらない、特定の力のある立場に支配されている感じだった。本人も、周りも無意識でしょうがね。 いまだに、日本は、「村八分」や「世間の目」を気にする文化があり、「他者と同じではなかれば、排除される」文化が一部に残っている。そのため、著者が指摘しているように「いじめ」という排除論理が残っているのだろう。これは、子どもだけなく、大人の社会にもある。 そのためにも、著者が言うように 異なる意見や考えを言える、それぞれが自己を確立している社会を目指して行かなければならないと思う。それには、それぞれの個々を尊重して、孤独力も磨くことだと思う。
2024.08.16
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「毎日更新」読レポ第2121カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第9章 ロジャーズの教育論 「教えることと、学ぶことについての私見」―「学習者中心の教育法」誕生の日(3/4) 筆者も一時的、キルケゴールに夢中し、『死に至る病』冒頭の自己生成論や、『哲学的断片への結びとしての非学問的な後書き』などに惹かれて、キルケゴールを原著で読むためにデンマーク語を学んだこともあるので、ロジャーズのこの言葉はうれしかった。ロジャーズは、キルケゴールを読んで、「せっかくやるんだったら、ほんとうに思っていること、感じていることを話してみるか」、そんな気持ちになったのである。そんな気持ちになって「教えること」や「学ぶこと」について、自分の思うままを短い文章にしてみて、優秀な教師や教育関係者が集まる研究会でそれを披露した。こうした前置きした。「私の教室での体験や個人心理療法やグループセラピィにおける体験から明らかになったことを、3,4分で話してみたい。これは決した誰かに対して結論を示そうとするものではないし、こうするべきとか、こうあるべきといったことを言おうとしているのでもない。1952年4月の時点で私の体験が持っている自分にとってのきわめて仮説的意味と、それが持つ突飛さが引き起こす厄介な問題のいくつかをお話ししたい」(Rogers,1957b)。こう断った上でロジャーズは、3、4分、短いスピーチをおこなった。こんな内容だった。「私の体験から言えるのは、どのように教えたらいいかを他の人に教えることはできない、ということである」「教えることができるのは、いずれかと言えば、どれも取るに足らないことであって、行動にはほとんど、あるいはまったく、意味がないように思える」「自分は、行動に意味がある影響を与える学習にしか関心がないことに気づいた」「行動に意味のある影響を与える学習とは、自己発見的、自己獲得的な学習だけである」「自己発見的学種という、体験の中で個人的に獲得され吸収されるる真実を、他の人に直接教えることはできない」「教えることによって生じる効果は、取るにたりないか有害であるかのいずれだ、と感じるようになった」「私は、自分が重要なことや自分の行動に意味のある影響を与えることを学びつつある一人の学習者たらとすることだけ関心を持っていることがわかった」「自分自身の不確かさを知り、自分の混乱を明確にしようとして、ぴったりな言葉を探していく。そうすることで、自分の体験が持っている真の意味に近づこうとする。こてが、重要なこ意味のある学びである」「自分の現在の体験の意味を理解しようとすると、進むべき方向に向かっておぼろけにつかんでいる目標に向かって、その体験は私を導てくれる」 このように述べた上で、次のような具体性のあることも話している。「この体験が意味するのは、教えることはしない方がいい、ということである。人は学びたいという気持ちがあれば、おのずと集まり、学び合うものである」「試験はやらないほうがいい。試験は重要ではない学習の効果しか測ることができない」「同じ理由で、成績評価や通知表もやめたほうがいい」「同様に、卒業証明や学位も廃止したほうがいい」「結論を示すことをやめる。私たちは結論から重要なことが学ぶことができない」「私が最も知りたいのは、私の内面で考えてきたことが、皆さんが教室で体験してきたことに何か、訴えるものがあるか、そしてもしそうだとするならば、それが自分の体験にとってどのような意味を持っているか、といことである」と著者は述べています。 ロジャーズは、前置きしながら、教育において個々の経験や内面的な探求が重要であり、他者へ直接的な教えや結論よりも、自己獲得的な学びや体験の共有がより意義深いと提唱しています。 私も、学びには自己獲得的な学びや体験の共有がより意義深いと思います。自らの学びたいという気持ちでの体験での自己獲得や他者とそれぞれの体験を共有しての対話により、新たな気づきが湧いてきます。ロジャーズが言っているように、自らの学びたいという気持ちが大事です。一方的に関心がないのに教えるのは、意味が無いと思います。 もちろん、基礎学力が必要ですので、私は基礎学力は、楽しくなるように教えることが必要だとおもう。それは、基礎学力が無いために学びたいと思っていることで、例えば、英語力が無いために学びたくても、学べないからです。だから、基礎学力は、楽しくなるように教えることが必要があるとおもいます。
2024.07.01
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読レポ第2034カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 後期ロジャーズの「直観」を生かしたカウンセリング(1/3) ロジャーズは70歳を過ぎた頃から、妻のヘレンの死に際しての神秘体験や、当時のワークショップの体験、同僚からの影響などにより、スピリチュアリティアルへの関心を急速に深めていった。中でも大きかったのは、娘のナタリーや同僚のマリア・ボウエン(Maria V.Bowen)と共におこなった大規模なグループでの体験だったのである。かなり大規模なエンカウンター・グループで、参加者全員が「一つ」になり、宇宙意識の一部であると感じられるような体験であったという。 ボウエンは、ロジャーズが最初に直観やスピリチュアリティについて語り始めたのは、グループのプロセスについて述べた次の言葉だったと言う。 グループの進行中のプロセスの中で、メンバー同士がますます心を通い合わせていき、一体感が生まれ、魂の集合的な調和(a collective harmonious psyche)が生まれてきます。これは、本質的にスピリチュアルな性質のものです。(Roges,1980) このような大規模なグループの体験や他のスタッフからの影響が、晩年のロジャーズをスピリチュアリティへと向かわせていった。 娘であり仕事の仲間でもあったナタリーも、当時の同僚たちからロジャーズが大きな影響を受けていたことを指摘している。 父は晩年とトランスパーソナルの領域に関心を抱き、スピリチュアルとか神秘的といった言葉を好んで使い始めました。このことは、マリア・ボウエンと私が父に与えた影響が大きいと思います。(Rogers,]N,1997) ロジャーズはこうした体験について、晩年の主著『一つの在り方』(rogere,1980)(A Way ofBeing)の「変性意識状態」という節において記している。ロジャーズにも大きな影響を与えた大規模グループに参加したあるメンバーは、その体験について、次のように語っている。 とても深いスピリチュアルな体験でした。このコミュニティのスピリットが一つになった(the oneness of spirit in the communiy)と感じました。私たちはお互いに話をしているのだけど、一緒に息をし、一緒にかんじていました。私たち一人一人に、強烈な「いのちの力(the power of the life force)」が吹き込まれたのです。それが何であるにしても。 「私が」とか「あなたが」といった普通はあるその壁がなくなって、その力の存在を感じることができたんです。自分の意識の中心であるような感じ。自分が何か大きな宇宙意識の一部となったような、そんな瞑想のような体験でした。この異様なまでの一体感中で、そこにいる一人一人が切り放された存在だという意識はすっかり消えてなくなっていたのです。 その後ロジャーズは、この体験は神秘的な性質のものであり、「私のセラピィやグループの体験が、何か超越的なもの、記述不可能なもの、スピリチュアルなものにかかわっていることは明らかだ」と述べている。こうした体験を積み重ねていくうちに、ロジャーズのセラピィ観にも変化が生じ始める。そして彼のセラピストとしての到達点ともいえる次の言葉を記している。 私は、自分のグループのファシリテーターやセラピストとしてベストの状態にある時、そこに、これまで論じてきたのとは別の、もう一つの特質があることを発見しました。私が自らのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私が自らの未知なるものに触れている時、そして私が、クライアンの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるのです。 その時、ただ私がそこにいること(presence)がひとを解放し援助します。 この経験を強めるために私ができることは何もありません。けれど、私がリラックスして、私の超越的な核心に近づくことができる時、私は奇妙かつ衝動的な仕方で振る舞うことができるのです。合理的に正当化することのできない仕方、私の思考過程とはまったく関係のない仕方で。 そしてこの奇妙な振る舞いは、後になって正しかったのだとわかります。その時、私のうちなる魂が外に届き、他者のうちなる魂に触れたように思えるのです。私たちの関係はそれ自体を超えて、より大きな何ものかの一部となります。そこには、ふかい成長と癒やしとエネルギーとがあります。(Rogers,1980)と著者は述べています。 後期のロジャーズは、「直観」からスピリチュアリティなカウンセリングへと変容していた。それは、仕事を一緒にしていた娘のナタリーや同僚のマリア・ボウエンの影響も受けて、スピリチュアリティな大規模なエンカウンター・グループでのカウンセリングへと変容していった。 「自らのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私が自らの未知なるものに触れている時、そして私が、クライアンの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思える」のです。 まさしく、ロジャーズは、トランスパーソナルの領域へと関心を向けていった。 私もスピリチュアリティ的なことは、あると思っています。すべてが科学的に解明などできでいませんし、科学的にすべてが解明できるとは思っていません。今の紅麴問題などが良い例です。 そのスピリチュアリティ的なことの一つが、ロジャーズが言っている「直観」だと私は思います。最近の日本でもメンタ関係の本でも「直観力」を唱えている人もいます。実は、学びの中にも「非認知力」が、これからAI社会には重要だと言われて、数字化できない言葉化ができない「直観力」がこれから必要と言われています。
2024.04.05
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読レポ第1162号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第2章 「カウンセリングにおける変化の過程」の発見 私は体験の中に秩序を見出すのが楽しい ロジャーズは、自分の一群の体験の中に意味や秩序や法則性を求めていくことは知的好奇心を大いに満足させるし、またそうした好奇心こそ自分が理論をつくっていくことにもつながっている、という。科学的なリサーチも、理論構築のプロセスも、「重要な体験の内的な秩序づけ」を目指してなされるものと考えるようになった。ロジャーズにとって「リサーチとは主観的な体験の現象から意味と秩序を見出そうとする持続的に制御された試み」なのである。と著者は述べています。 体験が、好奇心を呼び起こし、さらに科学的なリサーチの好奇心を呼び起こします。好奇心が弱くなると自己成長も弱ると思います。非主観的になって行くと思います。 好奇心は、主観的になる原動力になり自己成長を促します。 学びも好奇心から来ます。 子どもたちは、大人の好奇心が反映されるのですから、大人になっても好奇心を大切にしていきましょう。
2023.12.22
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読レポ第1145号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWAはじめ2/3-「現代カウンセリングの礎」を築いたカール・ランサム・ロジャーズ ロジャーズの思想と方法の本質の一端は、そのラディカル(徹底的/過激さ)にある。彼は、治療者と治療される者との関係を、教師と生徒の関係を、夫婦関係や恋人関係を、これまでまったく異質のものに転換しようとした。さまざまな人間関係についてまわる、凝り固まった常識や通念や硬直した倫理を木っ端みじん微塵に粉砕し、人間をそれから解放しようとした。ロジャーズが一部の人から「永遠の非行少年」と呼ばれるゆえんである。 ロジャーズは、一人一人が自分の「内臓感覚=うちなる実感」に即して、自由に生きることを徹底的に尊重した。真に自分らしく、何にもとらわれずに自由に生きることを徹底的に尊重した。それに比べれば、学校や職場に「適応」することなど、取るに足らない些細なこととして退けた。 社会の通念に染まり、「自動機械」のようになって、パターン化されたティビカルな思想しかできなくなった状態で生きるのは、「人間」として生きていると言うに値しない。映画『鬼滅の刃」の無限列車に乗っている、自分が「夢」をみているとも知らず、まどろんでいるままのようである。人間は、周囲の期待から離脱し、自分の内側にぐっと深く入って内臓感覚に触れ、リアルな実感を持って生きるのでなくては、真の自分自身と生きるのは難しいのだ。 そこに貫かれているのは、徹底した自由であり、「脱・社会的期待」「脱・適応」の姿勢である。自由である。自由であることをやめるくらいなら、狂気であることを、ロジャーズは選ぶだろう。 徹底的に自分らしく生きよう! 自らの「内臓感覚」に従って! 自分の実感以上に信頼できるものなど何もない。それ以外は内にも恐れるに足りない。 周囲の人の期待に応えるな! 孤立を恐れるな! 勝手に寄せられてくり期待や押しつけや倫理などすべてから、自分を解放せよ! 自分自身を失うことほど、恐ろしいことは何もないのだから!ロジャーズの著書の端々からは、そんな強烈なメッセージが発せられている。しかし、これを一人で貫くのは、困難を極める。多くの人は、困難にぶつかり、心が折れて、挫折する。いやその前に、人とぶつかるのを恐れて、周囲に融合し、自分の気持ちを抑えて「いい人」になってすごそうとする。 けれど心の中で叫んでいる。「ほんとうの私は、ここにはいない!」 では何が必要なのか。あなたが、真に自分として生きるために必要なものは何か。 それは、あなたがほんとに自分自身であることを許してくれる誰かとの、「真実を語り合い聞き合うことのできる関係」だ、とロジャーズは考える。 あなたが考えていることや感じていることを、あなた自身の内側に視点を置いて、あなた自身になりきったかのようにして、ていねいに確認しながら理解してくれる人がいれば、あなたが自分らしく生きることは難しい。 ロジャーズがクローズアップしたのは、心のどこかで誰もがうっすらと知っている、人生のこのシンプルな真実である。 人が、真に自分らしく生きるには、誰かたった一人でいいから、あなたのほんとうの理解者が、あなたの傍らにいてくれることが必要なのだ。ロジャーズにおいて、人が自分自身を生きることと、それを可能にする誰かとの「関係」は、ワンセットである。 ロジャーズのカウンセリングや共感的な傾聴は、自分らしくいきようともがき闘っている人にとっての「傍らでそっと寄り添ってくれる存在」「側にとどまって内側の声に共に耳を傾けてくれる存在」たらんとするものだ。この不確かな時代にあって、「闇の中を歩く」ようにして日々を生きる現在人の孤独な心の旅を「共に体験し、共に歩む、人生の同行者」であろうとするものだ。その典型的模範は、心理カウンセラーであり、セラピスト(心理療法家)であるが、それは必ずしも心理の専門家である必要はない。それは「教師」であっても「看護師」「医師」「保育士」「看護士」「上司」であってもいい。あなたの家族であってもいいし、「恋人」や「夫婦」のようなパートナーであってもいい。そればかりか、後述するロジャーズの実践にみられるように、イデオロギーや新条を異にする「紛争国の政治家同士」であってもいい。 誰かの内側から発せられる心の声に、誰かが耳を傾け、聴き、寄り添う。「こういうことだろか?」と確かめながら、ていねいに聴いていく。すると、何かが確実に変わり始める。聴いてもらった人はより自分らしくなり、心の声を発するようになる。すると、学校が、会社が、親子関係が、結婚が、恋人関係が、変わりはじめる。紛争国同士の関係さえ変わり始める。世界が変わり始めるのだ。 世界が変わる具体的なきっかけは、「いがみ合い、不信にみちていた相手が発している小さな声に、そっと耳を傾ける」。そんな小さな営みであることをロジャーズは教えてくれる。心理の専門家である必要はない―これが、「すべての人がより自分らしく生きることができる世界」をつくっていくための最初の一歩である。ロジャーズは「静かな革命家」なのである。と著者は述べています。 自分らしく生きるには、何にもとらわれずに一人一人が自分の「内臓感覚=うちなる実感」に即して、自由に生きることを徹底的に尊重することと、私も思います。 それには、勇気をもって、内側の自分と向き合い、自分に問い、何がしたいかを感じたり、自分の中の衝動を知ることだと私は思います。 ロジャーズは、自分らしくいきようともがき闘っている人には、カウンセリングや共感的な傾聴での「傍らでそっと寄り添ってくれる存在」「側にとどまって内側の声に共に耳を傾けてくれる存在」がいると自分らしくいくることができるできると言っています。 著者が言っているように、自分らしくいきるためにはカウンセリングや共感的に傾聴する人は、心理の専門家である必要はないです。 小さな営みでの「いがみ合い、不信にみちていた相手が発している小さな声に、そっと耳を傾ける」ける相手がいれば、自分らしく生きることができると思います。 否定しないで耳を傾けてくれる人がいたら、自分らしく生きることができると私も思います。
2023.12.05
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読レポ第1133号言いにくいことが言えるようになる伝え方~自分も相手も大切にするアサーション~著:平井典子発行:㈱ディスカヴァー・トェエンティワン第4章 《実践》アサーティブに「思い」を伝える◎焦って主張せずに、まずは相手の言い分を聞く ケンカは絶対にしてはいけない。 これも「思い」を抑えてしまう人が抱きがちな思い込みのひとつです。 もちろんケンカをしないにこしたことはないでしょう。 何の歩みもない、ただ怒鳴り合い、ののしり合うだけのケンカなら、しない方がいい。 ただし、言いたいことがあることに、がまんして黙っているよりは、ぶつかることも覚悟して、思っていることを言った方がいいでしょう。 がまんの挙げ句、キレたり、相手を攻撃するような実態に陥らないためにも、多少の葛藤を恐れすぎないことです。 ただ、言い合いをする場合も注意があります。 お互いに自分の言い分を理解してもらおうと焦ると、つい、一方的な主張だけになったり、感情的になったりしがちです。わかり合うための話し合いが、悪口の応酬に発展することもあります。 では、そうならない「いいケンカ」のコツはあるのでしょうか。 ポイントは、自分の言い分をわからせようと焦らないで、少し立ち止まることです。 またがまんして聞き入れるのではなく、まず、相手の言い分に耳を傾けるのです。 ケンカが始まるとき、わたしたちはつい「自分の言い分を先に聞け!」と言いたくなっています。両者とも無意識に「自分の言い分が先」と争い始めるるので、言いたいことだけの応酬になり、声も言い方も激しくなり、泥沼のケンカになっていきます。 泥沼のケンカにならないためには、「先に聞け」を止めて「先に聞く」ようにする。 「あなたは何をい言いたいのか?」→「いいたいことがわかった」→「では、わたしはこう言いたい」と話を進める。 この一呼吸が感情のぶつけ合いにならないコツです。 ケンカの場合は、そのことになんらかの葛藤や行き違いが起きているという信号です。誰もがそこまでは理解しているのですが、その際、自分の言い分を先にわからせ、押しつけようとすると、一方的な説得になりかちです。 ケンカは、あくまでも互いが歩みよりのための話し合いのひとつ。 言いっぱなし、ケンカしっぱなしでは、理解がされなかった不満と嫌な感情の蓄積にエネルギーの消耗という状態が加わり、問題は先送りになります。 収拾がつかなくなって、言いっぱなしでおわらせないために、相手に耳を傾けながら「熱い論議」(いいケンカ?)を心がけましょう。と著者は述べています。 確かにケンカは、いけない事と子どものことから、親や先生、周りの人が言って教育されてきています。でも、よいケンカは、私もあると思います。 ケンカというよりは、議論です。お互いの言いたいことを、ぶつかり合う恐れを手放して、お互いを尊重しながら、議論をすることです。 その議論とは、相手が何を言いたいのか先に聞いて、自分の言いたいことを押し付けないことです。相手の言い分をジャッジしないことです。 ついつい、相手の言い分を聞いている時に自分の物差しで聞いているとジャッジをしがちですが。自分の物差しでジャッジせずにまずは、相手の言い分を聞くことをすると、その後に自分が言いたいことを相手に言うと、相手も自分の言い分をちゃんとジャッジせずに聞く可能性がでてきます。 泥沼のケンカになりません。お互いに自分の正しさの感情に振り回されることはありません。 ついつい「自分の言い分が正しい」となりがちですが、相手の言い分をジャッジせずに肯定的に聴くことです。 言い分の中には「事実」と「感情」「思い込み(勘違い、妄想、錯覚)」などがあります。お互いに感情に振り回されると上記の事が見えないです。 不毛な言い合いの泥沼になりエネルギーと時間の無駄使いになり、何も前進しなく、返って人間関係を悪くしてしまいます。 お互いを尊重しながら、ぶつかり合うことも覚悟して、言いたいことに蓋をせずにコミュニケーションをとることです。 お互いの言いたいことには、良い・悪い・正しい・間違っているなどのジャッジをせずに。コミュニケーションで対話を通じて、見つけていくことです。
2023.11.23
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読レポ第1052号不安・イライラがスッと消え去る「安心のタネ」の育て方~ボリヴェーガル理論の第一人者が教える47のコツ~著:浅井咲子発行:㈱大和出版第2部「安心」を育てる2つのスイッチ・47のワーク:重さのあるものを足に乗せる 睡眠に問題を抱えている人は、腎臓や脳幹タッチに加えて、セラピストが両足のすねを手で押すというものがあります。これによって交感神経の興奮が収まります。 このワークをより簡単に自分で行うには、重さのあるものによって利用することです。 具体的には、2キロくらいの重さで、しかも、両足のすねにまんべんなくまとわりつくようにフィットするものを乗せられたら理想的です。 となると、私が一番に思いつくのがお米です。横になって、2キロ程度のお米を袋のまま、両足のすねの上に置いてみましょう。それだけで気持ち良いと思います。 そのまま10分もすると、神経が落ち着いて眠くなってくるはずです。 そうしたら、すねの上から取り除いてぐっすり眠ってください。 お米の他に、そば殻の枕もおすすです。 厚めの本など重みのあるものをタオルでくるんでも良いですが、その場合、すねへのフィット感がやや不足するかもしれません。 さらに、このセラピストでなくとも誰かにやってもらうと、より効果的です。 なぜなら、他人に自分の神経の興奮を収めてもらう経験は、神経の土台を育てる大事なプロセスだからです。と著者は述べています。 確かに、整体師やセラピスト、マッサージト師などは、ふくらはぎをマッサージをすることがあります。ふくらはぎは、第二の心臓と言われています。 この第二心臓と言われるところに働きかけると、血液の循環に影響を与えることができます。 この著者の言ってるようにすねに重みをかける事で、過覚醒ぎみになり過ぎて、血液の流れを落ち着かせる効果を狙ったものかもしれません。 過覚醒は、血液の流れからも来ているのではないかと思います。寝るときは、心臓がゆっくりになり、血液の流れも穏やかになっていき眠りついて行くことから考えて、このすねに一時的な重みをかけることは、血液の流れを穏やかさせる効果があると私もあると思います。 血液の流れが少なくなると、脳の働きも燃料の血液が少なくなり、働きが穏やかになって過覚醒も減少の方向へ行くと思います。
2023.08.30
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読レポ第986号「孤独」のちから著:諸富祥彦発行:㈱海竜社第5章快適な「マイ・スペース」の見つけ方【実践編】▷自分に合った「マイ・スペースの見つけ方 ひとりなって自分の心の声に静かに耳を傾けていく—マイ・スペース—を見つけることをおすすめしてきました。 ここからは、実際にあなたがあなたらしくいられる場所、あなたのマイ・スペースを見つけていくための具体策をご紹介しましょう。 マイ・スペースはどのように見つけていけばいいのか。どういった場所がマイ・スペースに適しているのか紹介していきます。 まず自分に合ったマイ・スペースの見つけ方ですが、とにかく「ここは‼」と気になるところに足を運んでみることです。その場所に行ってみて、身を置いて、そこが自分の心と深く対話できるかどうか試してみるしかありません。 大事なことは、この本を含めて情報に左右されないことです。 近頃、メディアには「癒しのスペース」とか「リラックスできる空間」とか「おすすめのヒーリングスポット」といった情報が溢れています。 しかし、マイ・スペースは自分だけの場所であることが、何よりも大切です。ほかの人にとってはどうでもいい場所でも、自分にとって居心地のいい場所がマイ・スペースです。「おおすすめの場所」にみんながこぞって行くと、マイ・スペースではなくなってしまいます。 マイ・スペースであるからには、「みなのマイ・スペース」はありえません。したがって、インターネットなどで調べるのも悪くはありませんが、できるだけ自分の足で歩いて探していただきたいのです。 わたしはここで自分の経験や、おすすめのマイ・スペースをいくつもあげています。けれども、それはあくまでヒントとして参考にしてください。 私のヒントから「それなら、自分はむしろこういう場所のほうがいいかもしれない」「ここに書いていてある場所より、こういうスペースに言って見ようかな」と連想を膨らませていくこと、自分に合ったマイ・スペースが見つかりやすいと思います。 マイ・スペースになりうる場所は、人それぞれに異なります。 ある人は自然に囲まれた場所で見つけられるかもしれません。ある人のマイ・ペースはビルの中にあるかもしれません。 家の中のほうが落ち着くという人もいれば、家の外のほうが気持ちがのびのびできるという人もいるでしょう。 私の場合は、家の近くの江戸川がマイ・ペースのひとつです。 夕方の川辺に座って、川面の移ろいを眺めていると、静かな気持ちでおのずと自分を深めていくことができます。私はこの川といっしょに、自分の人生を歩んでいるといってもいいかもしれません。また、私は筑波大の大学院生時代には、よく平日に近く(つくば市)の公園に行っていました。週末その公園は人で賑わっていたのですが、平日は人もまばらで、とても気が休まる場所だったのです。そこで芝生やベンチにゴロリと寝ころがってボンヤリしていると、自分の心の世界に深く入っていくことができました。 こうした場所をいくつか見つけていくと、マイ・スペースそのものが、自分らしい人生を生きていくための強力なパートナーとなってくれることにきづくでしょう。自分の人生にとって、かけがえない心の財産になっていくのです。 そんなマイ・ペースをみつけるときの大事なポイントは、心のモードが変わるかどうかです。ここに来ると、あれこれ考えるモードではなくなる。考えるのではなく、ただ心の声が聞こえてくる。雑念がふっと消えて、自分と深く対話するモードになる。 そんな場所があれば、そこがあなたにとってのマイ・スペースです。 ここに来たら、いつも心のモードとは違ってくるという場所があるはずです。逆にいうと、いろいろと考えてしまう場所は自分にとってマイ・スペースではないのです。 たとえば、「どこかでボンヤリしたいな」というときに、公園のベンチにこしかけたり、ベランダで夜空を見上げたりする。 しかしそこに実際にいるとあれこれ考えすぎてしまう。「あれをこうしよう、これはどうしよう」と頭の中でグルグル考えが巡っている。だとしたら、そこはあなたのマイ・ペースではないということです。 自分だけのマイ・スペースを見つけると、心のモードがスーッと切り替わっていくのがわかるはずです。つまり、ひとりになるということは、心のモードチェンジでもあるのです。心のモードを変えて、あれこれ考えない。そこでは何もしない。マイ・スペースでは「何もしない」を「する」ことが大切なのです。 自分だけのマイ・スペースをつくるには、とにかくいろいろな場所に行ってください。そして「ここだ!」と感じる、あなただけのマイ・スペースをみつけてください。と著者は述べています。 確かにマイ・スペースは、人によって違います。 私もいくか、ひとりの時間になってマイ・スペースの場所を持っています。ここには、書いていませんが、マイ・スペースは、時には、時間帯や季節によって違います。いまこのブログを書いている場所は、自宅の二階で早朝の大きな窓があり周りの山々が見える場所で書いています。私のマイ・スペースの一つです。 時には、シーズの終わった海水浴場もマイ・スペースです。ひとりになって、波の音を聴いてボンヤリしたり。著者も書いているように、市内の平日は樹木が多く人が居ない公園や、森林公園だったり、霊園の展望台だったりと、自分が居心地がいいと感じる場所がマイ・スペースです。 頭の中か余白になれる場所です。あれこれと考えようとしないで、自分の中で湧いてくる心の声が聞こえてくる所です。 このブログもこの本を読んで、自分の中で湧いてきた声をただ書いているだけです。あれこれとは、「今日は、何を書こう」とは、考えているわけでは、ありません。 ただ、自分の中で湧いてくる直感的ともいえる声を書いています。 即興演劇や即興音楽などと同じで、自分の心の声から湧いてくる事を書いています。 自分の心の声を聞くのがなかなかできないときは、即興演劇や即興リレー朗読などでインプロゲームのようなトレーニングをすると、自分の中に湧いてくる心の声が次第に聞こえるようになってきます。 自分がひとりになれるマイ・スペースを見つけて、自分の中に湧いてくる声を聞いて、自分らしい生き方を見つけてください。時には、マイ・スペースでコーヒやハーブティーなどを飲みながら、ボーッとするといいかも知れません。人生は有限なので、自分らしく生きることをお勧めします。
2023.06.25
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読レポ第946号「孤独」のちから著:諸富祥彦発行:㈱海竜社第2章「ひとり」になれば、なぜ人生はうまくいくのか?4、自分の人生で本当に大切なものをみつけよう。いい人生を送るための三つの条件 いい人生を送りたい、自分らしい人生を生きたい、と願わない人はいないはずです。 それでは、自分らしい生き方をしている人とは、どういう人のことでしょうか。 自分らしい人生、いい人生の共通点は、三つあります。 一つは、自分にとって大事なことと、大事でないことを知っている。 つまり自分の中で、何が大切か、優先順位がはっきりしていることです。自分にとって大事なことが、はっきりわかっている。大事なこと、大事ではないことがごちゃごちゃになっていないのです。 大事ではないことに時間を費やしている間に、大事なものを見失ってしまう人がいます。それは枝葉松節に気をとられて、全体を見渡すことができない人です。自分にとって大事なことがわからずに、人生の時間を無駄にしてしまうのです。 二つ目は思いきりがいいことです。 思いきりがいいというのは、どういうことかというと、自分にとって大事だと思われるものがあっても、もっと大事なことがあるとわかったらそれを犠牲にできる。または捨てることを厭わないということです。 本当に大事なものを生かすには、いらないものは思いきって捨てられる。だから自分らしく人生を生きられるのです。 思いきりが悪い人は、「あつ、こっちのほうが大切だな」と気づいたときにでも、不要なものを捨てらず、心の切り替えがききません。 だから、いつも流されて生きていて、自分がどういう人生を生きているかわからなくなってしまうのです。 思いきりがいい人は、「これは選ぶ」「これは捨てる」というように、必要なものとそうでないものを、スパッと分けることができます。優先順位を頭の中で分かっていても、選んだり捨てたりできなければ、なりません。優先順位がわかったうえで、思いきりよく取捨選択をすることが大切なのです。 三つ目は、すぐに行動に移せること。 優先順位を決めて選んでも、行動にうつさななければ、これもまた意味がありません。フットワークよく動いてこそ、自分のやりたいことが実現できるのです。と著者は述べています。 確かに、いい人生を送るためには、優先順位をつけること、。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言われているように、何も得られないということです。マーケティングでも具体的な一人の想定したターゲットに絞ることが、効果があると言われています。その代表例がTV番組の「北の国」です。 そして、本当に大事なものを生かすためなら、いらないものは思いきって捨てられる。手放す事ができることです。 それに従って、行動に移すことです。私も完璧ではないですが、上記の3つを意識してます。人は特に思いきって捨てられなくて、手放す事ができないのです。上記の5割でもいいのですから、意識していくことです。「完璧主義」も手放す事です。
2023.05.12
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読レポ第931号改訂版アサーション・トレニンーグさわやかな〈自己表現〉のために著:平木典子発行:㈱日本・精神技術研究所第6章トレーニングの概要(5/5)2、アサーションのこれから 1982年より「アサーション〈自己表現。トレーニングを開始して以来、参加者の人数も種類も大きく変化してきました。初期の頃は、寿命が伸び、少子化が進み始めて、専業主婦だった女性たちが自由な時間を確保し始めた頃、社会に出て仕事をしたりボランティア活動に関わってた女性たちが自己表現やコミュニケーションを洗練するために参加する女性がほとんどでした。やがて、国際的な仕事をする人々のために企業で取り入れられ、まのなく、援助職の人々の「燃え尽き防止」のために関心を持たれ始めました。 国連子どもの権利宣言をきっかけに、子どもの権利を守る必要性から、アサーションは学校に広まっていきました。教師がアサーションを知り、身につけることが子どもとのよりよい関わりと子ども同士のコミュニケーション力の向上に役に立つことが認識され始めたことによります。 さらに、バブルがはじけ、働く中年男性のうつや突然死が問題になり始めたとき、攻撃的仕事の押し付け、受身的引き受け、そしてそれらが引き起こす職場のメンタルヘルスと人間関係の関連がクローズアップされて、2000年半ばから。コンプライアンス(社会のルールや人の期待に即した経営)の実現には、その仕組みやルールをつくるだけでなく、その基礎となる構成員の自由で、気軽なコミュニケーション、すなわちアサーションが必要なことが明確になってきました。また、裁判制度が実施されるに及び、学校や職場におけるアサーションは、さらに自分の考えや意見を明確化し、表現できるようになるための準備、心構えとしてより多くの人々に必要となっていくでしょう。 このように、アサーションは、時代と社会の変化にともなって、必要とされる場や方向は変化しています。しかし、人々は人間関係とコミュニケーションなしでは生きていけないこと、そして多くの困難や不都合は人間関係とコミュニケーションに起因していることを考えると、今後人間に残される課題は、機会やものが充たせないこと、つまり人間力でできることを洗練していくことでしょう。アサーションは、その手がかりの一つです。と著者は述べています。 アサーションは、女性の社会に参加できるよになってきた1982(昭和57)年頃女性たちの自己表現やコミュケーションの洗練から生まれたモノのよで、当時は男社会で男でも上下関係があり自由な自己表現がでなっかた時代で、羽田日航機着陸寸前「逆噴射」事件での職場のストレスの顕在化してきた中で、女性が声を上げてきてアサーションが生まれてきたようです。 その後にアサーションは援助職の「燃え尽き症候群」のためになり、子どもの権利を守るために学校にも広がっていったようです。また、2000年後半には国際化が進みコンプライアンスやハラスメント等のルールづくりが進み、さわやかなな自己表現のアサーションの必要性が見えてきたようですが、 残念ながら、私の主観的ですが、地方では、昭和時代のままで昭和のままの高齢なトップが勤めている組織の大半がさわやかな自己表現を言える場としてはなっていないのが事実で遅れています。 男の私も50代前後までは、人の顔色をみながらの職場にいました。意見で自由な自己表現をすれば、否定攻撃にあったこともありました。行き過ぎた年功序列の社会が今も残っています。心理的な安全性の進歩が遅れています。 ただ、インターネットのオンラインの広がりで、進んだ地域との交流もあり、モニター越しなんで同調圧力はあまり感じることがなく、去年と一昨年とオンラインでの街づくのオンラインワーケーションのファシリテーターと参加して、若い人たちが自由に自己表現の発言をしていて、嬉しいかったです。これからの自由に自己表現できる未来に期待ができます、それには、主催者やファシリテーターはさわやかな自己表現をアサーションの知識を積み重ねることが大事だとこの本で感じた。 とくに、「D:描写する」「E:表現する、説明する、共感する」「S:特定の提案をする」「C:選択する」のDESCは重要になってくるとおもいます。 自分なりにDESCワークショップをつくり、さわやかな自己表現のアサーションを広げて行きたいきます。この本に出会えたので! 今回でこの本の読書レポートは一応終了です。著者の平木典子さんにはこの本を通じて出会えたことに感謝しています。(実際に合っていませんが)アサーションを深めたい人は、この本を購入してください。 次回は、何の読書レポートか期待してください、はしりを読んで、「これだ!」と直感しました。人間関係に悩む片多の助けになる人もいると思います。今までの呪縛から解放されるお役にたてる人がいたら嬉しいです。(^^
2023.04.24
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読レポ第728号 プロカウンセラーが教える絶対幸せになれる「感謝ノート」著:心理学博士 古宮 昇発行:PHP研究所 第4章 感謝ノートので人間関係も幸せになる4-7愛情貯金ってなに?米国の結婚心理学者ジョン・ゴットマン博士は、 仲良しの夫婦と離婚する夫婦の何が違うのかを、 膨大な数の夫婦を研究して明らかにしました。 彼が見つけたことの一つが、仲良しの夫婦は日ごろからお互いにちょっとした気遣い・優しさをたくさんしている、ということです。 ちょっとした優しさの行動とはたとえば、 ●寝ている夫・妻に掛け布団を、肩にかけてあげる。 ●寝室が寒くないように暖めておく。 ●食料品を買いに行ったら夫・妻の重いビニール袋を持ってあがる。 ●1日の疲れを癒すために、肩や背中をマッサージしてあげる。 ●電車の切符を相手の分も買う。 ●仕事帰りに、ちょっとしたおみやげを買って帰る。 ●帰り道に、夫・妻に必要な日用品などの買い物をして帰る。 ●車で送り迎えをするとき、面倒くさそうなそぶりを見せず、こころよくさっと行く。 こなんホンのちょっとした優しさが、 パートナーとの「愛情貯金」を増やします。 幸せな人は恋愛や結婚の相手に対して、 普段から「愛情貯金」をたくさんしています。 だからケンカになったときにエスカレートしなくて済みます。 反対に幸せじゃない人は、普段から「愛情貯金」が乏しいので、 ケンカをしたときに怒りをとめることができず、エスカレートしてしまう傾向があります。と著者は述べています。確かに普段からの何気ない小さな優しさの積み重ねが「愛情貯金」を増やします。 その何気ない小さな優しさが無意識にするのは「感謝」です。 普段から、感謝することで潜在意識(無意識)に焼き付きます。 普段から感謝せずにいて、相手の愛情が当たり前になると、そのような行動は無意識にはできない。 魂胆があるときには、するかもしれないがないが。 普段から「愛情貯金」を育てていれば、 確かにケンカしてもエスカレートはしない! それは、感謝が無意識にブレーキをかけるからです。 「愛情貯金」の少ない人は、幸せ度が低い。 ケンカがエスカレートして、お互いに怒り合い、仲が増々悪くなっていくでしょう。 幸せになるには、「愛情貯金」を増やすことです。 それには感謝が必要です。
2022.09.24
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読レポ第698号 プロカウンセラーが教える絶対幸せになれる「感謝ノート」著:心理学博士 古宮 昇発行:PHP研究所 第1章 感謝は幸せへの最高のツール 1-6感謝するほど心が満たされる ここまで見てきたように、お金やモノなど外的なことに価値を置く 「物質主義」のひとほど人生への満足度も幸福度も低い傾向があるのですが、 お金やモノに価値を置く人のなかでも、 日ごろの感謝の思いが大きい人は、人生への満足度が低くないことがわかりました。物質主義が幸福度に及ぼすマイナスの影響が、感謝によってゼロになるようなのです。 モノに価値を置く気持ちは日によって変動します。 人のつながりを大切に思うときもあれば、 何かのモノに高い価値を感じる時もあります。 大学生を対象にした調査で、モノに価値を置く思いが強いほど、人間関係のくるしみが多く、独立感が増しています。 反対に、モノに価値を置く思いが弱い日ほど、孤独感も人間関係の苦しみも少なくなっていました。 感謝の気持ちが強くなるほど、人生への満足度がたかくなり、 お金やモノをほしがる気持ちが減ります。 感謝すると心が満たされて幸せになるので、 お金やモノが必要だとあまり感じなくなるでしょう。 ちなみに、お金を、モノを買うためにではなく コンサートに行くとか外食するなど、楽しい経験をする目的で使うほうが、幸福度が上がることがわかりました。 このように、感謝の気持ちが強い人ほど、幸せで人生にも満足しているし、 人間関係もいいし、体も心も健康だし、 トラウマやいやな出来事から早く立ち直れることがわかりました。 ところが私自身は、若いころは感謝の思いが小さい人間だったと思います。 幼少期は辛いことが多かったので、感謝の思いが湧きづらかったのは自然なことだったと思います。 ここから、私自身の感謝を巡る体験をシェアしますね。 まず私の生い立ちをお伝えし、その後、感謝ノートに関する私自身の体験をお伝えします。 と著者は述べています。 確かに感謝があると物質主義でいても、 日によってモノへの価値観が変動するもので、感謝が芽生えていくと、しだいにモノへの価値観が薄れていきます。 私も若い時は、モノへの価値観が強かったです。 電気技術者の思考があるのか見える現象がないと信じられない思いでした。 その頃は、見えないコトに対して、不満があり、そのコトをいつまでも手ばさせないでいて、人生の満足度が低かったです。 見えないコトにイライラが心の中に時よりあったな。 一番は、執着して手放せないことです。 執着して手放せないことで他人や自分に感謝の思いなど湧くコトなど少なかったと思います。 物質主義は、執着の傾向になりやすい! それを抜け出すには、感謝です。 私も何のきっかけでか、物質主義からの拘りから抜け出すことができました。 きっと、感謝を常にしている出会いが自分を変えてくれたのではないでしょうかね! 他者が強く強く感謝しているのを見ると、 感謝は伝染して行くような気がします。 強い感謝は、人を変えて行くような気がします。感謝の秘めたる力は凄いです。
2022.08.23
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読レポ第686号 傾聴の基本著:心理学博士 古宮 昇発行:総合法令出版KK おわり~聴き手の成長について~ あなたに覚えていただきたいこと 本書の最後に、どうしてもお伝えしたい大切なことがあります。 本書を読むと、「子どもの心を傷つける親は悪い親だ」とか、 「人の気持ちを傾聴できないのは悪いことだ」 「共感的に耳を傾けないのは良いことで、すべての人がそうするべきだ」と 私が言っているように感じられる方もいらっしゃるでしょう。 本書でお伝えしたとおり、子どもは親の無条件の愛情を強烈に求め、 それが得られないときにはとても不安になったり、寂しくなったり、傷ついたり、腹が立ったりします。 それはとても辛いことです。 また、私たちは自分のことを自分の身になって分かってほしいと願っており、そうしてもらえないと傷つきます。 そんな経験をするとき、私たちは自分のことを犠牲者だと感じます。 しかし、私たちは犠牲者ではありません。 子どもにとって親から無条件に愛されないと感じるのはとても辛いことですが、 その経験は、決してその子にとって「悪いこと」ではないのです。 同様に、人から優しくされなかったり大切にされないと感じたりするのは、苦しい辛いことではありますが、「悪いこと」ではないのです。 私(著者)の心理援助を受けた多くの来訪者の方が、 それを腑に落ちて実感し、何十年も抱えて苦しんできた心の傷つきや苦しみから解放されて、 いっそう充実した意味を感じられる人生を歩んでおられます。 「毒親」「機能不全の家庭」「アダルト・チルドレン」という言葉が出回るようになりました。 それらの概念の根本には 「子どもは悪い親のかわいそうな犠牲者であり、苦しんで生きざる得ない」という前提があります。 しかし私(著者)のもとへ来る多くの方々はそれが真実ではないことを発見し、新しい人生を歩んでおります。 誰の心にも傷つきがあります。あなたもご自身の心の痛みを根本的に解決しようと思われたときには、 プロのカウンセラーなど専門家の支えを求め、解決に取り組まれることをお勧めしたいと思います。 と著者は述べています。 確かに人は無条件の愛情を求めるものです。 また、私たちは自分のことを自分の身になって分かってほしいとそう願っています。 それが叶わないと感じて、傷ついて自分が犠牲者であるといつまでも、その犠牲者であることにフォーカスしてしまいます。いつまでも私は犠牲者であると捉われると、前には進めません。苦しみや辛さから抜け出すことができないです。そんなときは、傾聴の力が支えになって勇気をだして犠牲者であるとのフォーカスから抜け出すことができます。人は自分がどこにフォーカスするかで、苦しみや辛さから抜け出すことができます。 そんなときは、傾聴の力がそのフォーカスを徐々に変えていきます。※次回は別の本になります。
2022.08.12
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読レポ第604号傾聴の基本著:心理学博士 古宮 昇発行:総合法令出版KK Ⅱ部 第2章:無条件の愛を求める衝動 2-10愛情飢餓感と人間不信「愛されない」とういう過去の痛みが心の奥底に強く残っているひとほど、人々から愛情をもとめてやまなくなります。すると、めの前の人間関係においてさまざま苦しみを経験することになります。完璧な親などいません。完璧な子育てもありません。私たちはみんな、程度の差はあれ「親は自分のことを無条件に愛してくれない」と感じて育ちました。その傷つきが深く激しいほど、強く寂しさを抱えて生きていくのです。桃太郎でいえば、おじいさんとおばあさんの愛情を感じられず、「おまえなんて出て行け」と家をおいだされた状態です。しかもきび団子もなく、恐ろしい鬼ヶ島にたった独りで乗り込んで行かなければならないとしたらさぞ心細く寂しいく、恐怖を感じるに違いありません。親から無条件の愛を感じないままに大人になるとこんな気持ちで生きているのです。子どもと接する大人の責任はとても重大なものです。親から無条件に愛された実感が乏しい人は、寂しがり屋になります。そして、「自分をするべきことを理解して受け入れ、関心を寄せてくれる理想の親」という幻想を知らず知らずのうちに他人に求めてしまいます。幼児は、親から一方的に世話と関心を与える存在です。寂しがり屋の人は、幼児と同じように与えてもらうことばかり求めてしまいがちです。相手のことを思う、他人に対して与えるといった心のゆとりがないのです。理想的な親としてのイメージを求める相手として特に多いのは恋人や配偶者、および目上の人、権威者です。例えば、恋人や配偶者に「このひとなしでは生きていけない」「この人がいないと自分は空っぽだ」と感じる人がいます。しかし実際には恋人がいるほどの年ですからもう幼い子どもではありません。たとえ恋人を失っても何の問題もなく生きていけるはずです。こうしたひとたちは、相手のに対して理想的な親の幻想を求めているのです。親に頼らなければ生きて行かない子どもように、大人にまっても相手に依存してしまうのです。もちろん相手は理想的な親ではありませんから、このような甘えた要求は必ず裏切られることになります。すると「ああしてくらない、こうしてくれない」と不満に思ったり、怒ったり、傷ついたりしてしまうのです。子どものころから愛情を感じてることができずに心の痛みを強く抱いている人ほどこうした人間関係の苦しみを味わいます。親の愛情を実感できなかった寂しさを自覚している場合でも、寂しさを抑圧したまま気づかずいていない場合でも同じです。「当然の要求なのにかなえてもらえない」と感じるたり、その思いを押し付けて相手から責められたり、攻撃されたり、裏切られたりと、心の痛みが大きい人ほど人間関係に苦しみを抱えるのです。また、こうした人は他人の目を気にしやすく、その点でも人間関係が重荷になります。と著者は述べています。確かに親から無条件に愛された実感が乏しい人は、寂しがり屋が多い。特にDVを起こ男性などは、配偶者に無条件の愛をもとめその愛の要求が拒否されると暴力などの恐怖で相手を支配する行動をします。「このひとなしでは生きていけない」「この人がいないと自分は空っぽになる」との衝動にかられるからです。DVをする男性は寂しがり屋なんです。DVを受けている女性の一部でも実は、無条件の愛を求めいる衝動があって、DVの男性から暴力を受けても離れられないのです。同じように「このひとなしでは生きていけない」「この人がいないと自分は空っぽになる」との衝動にかられるからです。同じように寂しがり屋なのです。子ども達の問題も同じような社会問題も同じように、無条件の愛を求めたいという気持ちの表れです。社会問題の現象は愛情飢餓感が大きく影響しています。私の中にも、以前は今思えば、恋人に無条件の愛を求めた記憶があったな!「このひとなしでは生きていけない」と執着心があったな。誰にしもが多少は、無条件の愛を求め衝動をもっています。それが、大きくなるさまざまな社会問題を生んでいるのです。子どもの頃にたっぷり無条件の愛を与えるのは大人の責任です。大人になっても、無条件の愛を求め続ける人には、周りの大人が無条件の愛を求める衝動をしっかり受け止めることです。ただし、相手の奴隷にならで「全肯定」「全承認」で受け止めることです。その無条件の愛の求める衝動の気持ちをしっかり否定しない聴いてあげることです。やがて、無条件の愛の欲求が満たされていきます。社会問題も満たされいけばしだいに減少していくでしょう。みんな、無条件の愛の欲求をそれぞれ持っているのです。
2022.05.15
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読レポ第596号傾聴の基本著:心理学博士 古宮 昇発行:総合法令出版KK Ⅱ部 第2章:無条件の愛を求める衝動2-2子どもは自己実現に向けて立ち上がる。桃太郎は、おじいさんとおばあさんの愛情をいっぱ受け、居心地の良い家庭で立派に育た桃太郎。ところが桃太郎はその環境に安住しません。ある日に一羽のカラスが桃太郎の家の庭に来て「鬼が島の鬼が来てあっちゃ村で米とって姫をさろうて鬼が島に」と鳴き話しました。カラスの話を聞いた桃太郎は、「オラ、鬼が島へ鬼退治に行く」と言いだします。これは自己実現を求める衝動の表れです。つまり、「自立したい」「もっと立派な自分になりたい」「人の役に立ちたい」そして「自分の生に意味を見出したい」と求める激しい衝動です。 おじいさんとおばあさんは突然の鬼退治という危険なミッションに挑もうとする桃太郎にビックリ猛反対しました。彼れらにとっては桃太郎が出ていくコトに非常に悲しくて寂しいコトです。桃太郎は大好きな二人の反対に対しても家を出ると言い張るので彼れらは悲しみましたがついに桃太郎を手放すことを決めました。ここで子どもが受けと取るのは、「あなたは、成長したらいつか自立し、お父さんやお母さんと別れるよ」とのメッセージ。また、親に対しても「愛する子どもをいつか手放すのですよ」と伝えことになります。この桃太郎では、おばあさんからきび団子を持たせてもらいました。きび団子は親の愛情の象徴なのだと思います。それを自分のものにして自立し、自己実現に向けて人生を歩んでいくのです。と著者は述べています。この桃太郎から、人が育っていくコトを語っています。子ども頃は、親の愛情をたっぷり受けて育って行くがしだいに成長して行き、自己実現の衝動が大きくなり、危険や失敗のリスクのある自己実現の衝動に駆られて行きます。 初めの赤ちゃんの時は手足をバタバタしながら2本の足で立ち上がりたいとの衝動に駆られて、しだいに2本足で立ち上がるコトが出来るようになり次は、2本足で歩きたいとの自己実現の衝動に駆られて、二本の足で歩けるようになたり中学生や高校生にもなると自立の芽がでて親の保護から離れて危険や失敗のリスクに親が止めても、挑んで行くようになります。この昔話の「桃太郎」にはその自己成長の過程が見えているですね!人は、自己成長を求める動物です。危険や失敗を孕んでいても自己成長の衝動つまり自己実現の衝動が湧いて来るのです。安住の場所に閉じこもて居ては自己成長は望めません。自己成長をしないとつまらない人生で終わるコトを孕んでいます。自分の自己実現の衝動を否定せずに、大切に受け取るコトです。その自己実現の衝動が叶わなくても行動しなくても次の自己実現の衝動に活かしていけばいいのです。自己実現の衝動の中で出来るコトが出てきます。自分の中で否定していてばかりいれば、しだいに、自己実現の衝動が起きなくなります。つまりは、自己成長も止まってしまいます。私たち人間は、自己実現の衝動を使いに自己成長していく動物です。自己成長は、自分の幸せ感を育みまからね!人は幸せになるため生きているのです。自己実現の衝動は幸せになるに必要なモノです。
2022.05.07
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読レポ第592号傾聴の基本著:心理学博士 古宮 昇発行:総合法令出版KK Ⅱ部 第1章:自己実現をもとめる衝動1-9自己実現をもとめないと人生は退屈になる。自己実現の喜びを味わるには失敗を冒されなけばなりませんがこうした行動には恐怖がつきものです。そのため私たちは失敗の危険を避けるため自分自身に制限をかけてしまうことがあります。 「私にはこんな大それたことはできない」「自分みたいな者がこんな光栄な役に就くなんて、怖れ多い」と自分に思いこまされことでチャンスから身を引き失敗を避けようとします。本当にしたいから断ったり本当に欲しくないから求めなかったりするのは自分を大切にする上でとても重要です。しかし、失敗する怖れによって本当に欲しものをあきらめていはいないでしょか成長のチャンスを前に尻込みしてしまっては、人生の喜びも充実感も減ってしまいます。失敗を避け続け、成長しないで生きていくコトが最大の失敗なのです。単位を取る目的でレポートやテスト対策こなす大学生はたくさんいます。授業を通じて本を読む機会があっても単位に必要でない本はよみません。彼らは単位取る最小限の態度の授業に臨んでいるのです。 こうした態度は大学の勉強をつまらないものにしています。私たちの欲求の本質は、「成長を求める」ことですがそれをしていないからです。もっとも、私たちは自分にとって大切でないことはやる気がでないのは当然です。。誰だってそうです。大学の勉強で成長を求めないない学生にとって、大学での勉強は本当にしたいことではありません。沢山学ぶことが自分にとって大切なことを具体的にどうつながるかが見えていません。生ていく過程で成長や貢献のチャンスを見出すことなく、なるべくラクをして最大のトクをしようという態度で生きると生きる意味も自己実現の喜びも乏しい人生になります。やりがい持ってイキイキ取り組む大学生は、単位や成績のためでなく新しい知識を身につけるために勉強をしてます。と著者は述べています。 確かに自己実現には危険のリスクが孕んでます。その危険の恐怖から自分の中で自己実現に対して「私にはこんな大それたことはできない」 「自分みたいな者がこんな光栄な役に就くなんて、恐れ多い」などと言う気持ちの一歩、踏み出さない理由を付ける感情が湧いてきます。私も今まで出来ていなかったモノでの自己実現には「失敗したら!」「上手くいけるかな」などの不安の恐れがあります。その時に自分と向き合いならが自分と対話して、その自分の不安と恐れを受け取りながら自分はどうなりたいのか自分に尋ねてみることにしています。または、その不安や恐れが受け止めているうちに自己実現の衝動で消えてしまうコトがあります。それは、自分は成長したいとかもっと上手くなりたいもっと出来るようになりたい、との自分の中で無意識の衝動で消し去るコトがあるんだと思います。もちろん、消えないときは自分との対話でそこに立ち止まるコトもあります。それにも自分に〇をあげます。後退でなければ、そこに立ち止まるのもOkです。でも、自己実現に向かい一歩、進むのはワクワクします。失敗の恐れを不安を乗り越えた時の充実感、幸せ感は嬉しいもです。昔は、前に一歩進むのに不安で不安でおじけずいた過去の自分がいました。ですが、他者の一歩進む姿の背中をみたり、他者から勇気づけの励ましあり自分の中に一歩進む勇気が湧いてきて、一歩進む一歩進むコトに嬉しさや楽しさを感じるようになり自己実現への一歩が自分の中で湧く気持ちが育ってきました。この湧いてくる気持ちは何度も何度も量稽古から徐々に作らていきます。自己実現は楽しいです。嬉しいです。自己実現を求めないでただ、言われコトをしているだけではもったいないです。人間は自己実現を求める動物です。私は今日は、以前から温めていた社会教育ツアーに挑戦しまします。昨日も、粗削りの社会教育ツアーの構想を師匠を連れまわしてその自己実現のために一歩ふみだして充実した一日でした。自己実現は自分にとっての人生の栄養源です。自分の有限の人生を楽しむためにも自己実現を求めることは、自分の幸せ感を満たしてくれます。人は幸せになるために生きているのです。その幸せには自己実現を求める衝動が重要です。幸せには自己実現の衝動が大切です。
2022.05.03
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読レポ第570号苫米地式コーチング著:脳機能学者苫米地英人 第3章コーチングに向く人、向かない人 3-12ラポールの前提条件初対面であっても、警戒心を持たれないのはラポールが重要です。大抵は、人間に限らずほとんどの動物は、相手に対して警戒心を持つています。警戒心を持つのは生命の維持のため関わる非常に強固で根深い本能です。この本能こそがラポールを確立する大きな壁です。その警戒心は昔の狩猟採取の時代の集団生活から食料を安定的に得るために縄張りをもっていました。他の縄張りのに他の集団に出くわすと自分たちの食料が脅かせると感じて警戒心の感情が湧いてきます。そこで、敵か友好関係ができる仲間かを判断しますそこで、人は何を判断の材料にするのかと言えば「類似性」と「共通性」です。①同じ服装をしているか?②同じ髪型をしているか?③同じ作法(文化)を持っているか?④同じ言葉で話しているか?などです。要するに同じ臨場感を見ているかによって敵になたり争いなり、仲間になって協力しあったりします。アメリカでは、医師は白衣を着ないという選択してハーバード大学の医学部がそのムーブメントを先導しています。患者との異なる服装がラポール生成に妨げになると考えて研究データーを集めています。私たちはこのようなラポールの形成の上での壁の心の癖に今も強く支配されています。と著者は述べています。確かに警戒心は人間や動物が持っている生命を維持するための感情です。どんな野生動物でも警戒心を持っています。私が観察しているエゾリスも警戒心を持っています。ただし、人から餌付けされているエゾリスはエサを目当てに警戒心をもたづに人に近寄りますが、本来は人間も野生動物も警戒心をもちます。自分の領域(縄張り)を冒すものに警戒心をもち行き過ぎ警戒心が不安ん呼び起こし今のウクライナの戦争に発展するではないか?。過剰な警戒心の現われでしょう。また、著者のいうように「類似性」や「共通性」で仲間か仲間でないかを無意識に判断してしまいます。もっと身近なことでは、出身地や出た学校などではじめてあったのに仲間意識ができるコトあります。また、制服が同じだと仲間意識ができます。海外では、同じ日本語を喋る外国の人でも何か警戒心が薄れます。「類似性」と「共通性」が同じ空間を見ていると感じるのです。逆に、「共通性」や「類似性」を感じない人に対しては警戒心を抱く傾向があります。日本でも、自分たちと違った容姿や異なる態度言葉、文化のあるひとに警戒心を持って排除すしてしまう人もいます。これの一つがいじめです。また、排除されて孤独感が増すと引きこもりに陥ることがあります。また、著者が述べている医者の白衣の件は確かに白衣をきてると患者からは、一段上の人に感じて自分たちの仲間と別な次元と人と感じることもあります。こ逆にの白衣で自分の威厳を保っているかもしれません。そこには、患者と医者の境界線を感じて強い確かなラポールは形成されにくかも知れません。まあ、白衣の威厳で表面的な専門家してラポールはありますが前項書いたよに先日にワクチン接種のオリの白衣を来た医者にはラポールはおきなかたです。逆に不信感を持ちました。。いまや、インターネットとなどで多様な情報原あるので医者の見解とちがう情報を見つけるコトができます。白衣をきてるからと鵜呑みにしません。ちょっと、著者のいうよに脳は「類似性」や「共通性」に引き込まれるクセがあるを知ってしまた自分だから鵜呑みしないクセがあるにか知れません。多様な情報源の環境がもたらしてこのよなすぐには鵜吞みしない考え方になっているのかも知れません。逆にこの「共通性」や「類似性」の脳のクセを利用して、相手との表面的ですがラポールを形成できることもあります。逆手にとて服装で威厳性を演出することもできます。私は高校の授業では室内でもフリースなどの服装で高校生と同じ目線になるよなラフな服装しています。スーツなどは、表彰式などしか着たコトありません。ラフな服装で高校生との関係性のラポールを今は思いだすと作りていたのかも知れません。ミーテングファシリテーターでもフリースのラフな服装で活動しています。自分たちの同じよな服装が参加者と距離を縮めて仲間と意識のラポールを築けるけるからです。ラポールは「類似性」や「共通性」を上手く利用するとラポールの形成を進めていくと思います。ラポールの形成には「類似性」や「共通性」を利用するのが良いのかもしれません
2022.04.10
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読レポ第490号人間関係が楽になるアドラーの教え著:岩井俊憲 第3章人間関係をこじらせない「感情」のルール3-5仲良くなんてしなくていい!日本人は苦手な人がいても好きにならなければいけないと、思い込んでしまう傾向がある。と著者は述べています。私もそういう傾向があります。それは、以前にも書いたが小さいことから「みんなと、仲良くするですよ」「みんなと仲良くしてね」などを先生や親、周りの大人達から、言われ続けているからです。その人たちも、子どもの頃は同じようなコトを言われて育っているからです。世代間連鎖なんです。この裏には、同調圧力があります。また、「みんなから好かれたい。誰からも嫌われたくない。一人でも苦手な人がいるのが怖い」などの承認欲求が潜んでいます。一種の強迫観念に囚われいます。不登校の子どもたちは、そのような承認欲求からくる強迫観念に囚われて怖いのかもしれません。私も以前は、そのような二つの感情に囚われいました。今でもニョキリその感情が顔を出すコトがあります。そんな時は、私は自分に「そんな感情が湧いているだね」と素直に自分の湧いた感情を受け止めています。否定は、しません。そういう同調圧力の社会で育ってきたので、受け止めることです。あたり前にそのような環境にそだっただからその感情が出ても「〇」です。どうやら、この「同調圧力」と「承認欲求」の感情に囚われた状態は、「勇気をくじかれた人」とアドラー心理学ではみるようです。アドラー心理学は、一人ひとりがユニークでかけがいのない存在であることを前提にしてます。一人ひとり違って当然と考えています。だが、日本は金太郎飴のように均質な人間を作る価値観がある社会ですから、昭和に比べては、だいぶ改善してきたが「みんなと、同じではいけない」との概念はまだ、根強く残っています。意味が不明の校則などいまだに残っています。著者は、人は相性の法則があり自然に生きていても2割ぐらいは苦手な人は居ると述べっています。すべての人を好きになる、という無謀ともいえるゴールを目指すのは、やめることです。苦手な人がいても、仕事では、協力すればいいんです。苦手な人は、苦手な人としておけばいいんです。また、人から認めらたい思い込みの承認欲求は、徐々に卒業することです。SNSの友達が多くいるとか「いいね」の数に右往左往しないことです。私は、誰が「いいね」をつけてくれたかをみます。このブログもFacebookにリンク投稿していまが「いいね」をつける人は2~3人です。その中で、私が尊敬してる人が毎回「いいね」をつけてくれいます。沢山の人が「いいね」よりも尊敬している○○さんが「いいね」をつけてくれことが嬉しいです。中には「いいね」を沢山つけてもらいたいために無謀なコトしたり中身がないもので目立ちたいからと投稿もありますがそれよりは、私はほのぼのした投稿に「いいね」をつけたくなります。自分に幸せにしてくれた方にありがとう気持ちで!この承認欲求に囚われいるのは愛情が乏しくなってるだろな!そもそも、すべてのみんなに好かれコトなどありません。不可能です。自分にとって、大切な人に好かれていればいいです。すべての人から好かれたいと言う幻想から卒業しないとその幻想には愛情の枯渇があるかも知れません。愛情不足からかも知れませんそれは、きっと他人軸で生きるている弊害からきているかも?私は、自分軸で生きるようになったらラクになりました。他人軸から、徐々に卒業して、自分軸で行きましょう!人生がラクで楽しい世界になります。
2022.01.19
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読レポ第358号思考停止という病著:認知科学者 苫米地英人 第3章 自分の頭で考える技術3-12 最終的なゴールのあとに見えてくる重要なもの 本当に成し遂げたいものやりたいことを形にするポイントは・現在の自分のままでは、 達成できないゴールがあること。・自分の興味に合致すること。・自分中心にならないこと。自分中心にならないことは、ゴール設定をあまりにも自分の欲によって決めることは抽象度を低くしてあまり良いゴール設定ではないからです。たとえば、「異性からもてたい」「お金持ちになりたい」という設定です。できれば、人の役にたつこと、数多くの幸せになるようなゴールを設定をしましょう。さて、1分くらい時間を使って、ゴールを考えてみてください。そうすると、自分にとって重要なものが見えてきます。今現在の延長線上で達成できていないゴールがあれば本気で興味をもっているか見直してください。ゴールが何であれ、今の仕事での結果を出すことにはゴールの設定することで結果を出すためには何が必用かが見えてきます。確かに、ゴールの設定があればそのゴールに行くためにはどうすれば、ゴールに行けるのかと言うコトを脳は考えるます。つまり、思考が働いていきます。ゴールが設定していなければそもそも、それを達成しようとする思考などは働きません。脳は、ゴールの設定をすることでそれを達成するために動くようになっています。それぞれ、振りかえてみてください。あなたが、この高校へ行きたいとかこの資格を取りたいとか、この料理を作りたいとか目標(ゴール)を定めるとそれを実現するためには、どうしたらいいかとあなたは、考えるでしょう。それを実現したいために考えるのです。その目標の願いが強ければ強いほど考えて考えるのです。ゴールの設定することは、大変重要です。私も、引きこもりや不登校、自殺者、自傷者を減らす貢献をしたいとのゴールを設定することでそのゴールを実現するためにドンドンと実現するために私の脳は働きます。今では、メンタルケアーリストして脳科学や心理学、メンタルトレーナーと様々な知識や資格、実践活動を脳はしつづけています。だから、ゴールの設定することは、大変重要なのです。
2021.09.07
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読レポ第345号思考停止という病著:認知科学者 苫米地英人 第2章 なぜ日本人は思考停止するのか?2-12オカルト・エセ宗教に騙さる人が減らない思考を停止といった時に思い浮かぶのは宗教かもしれない。宗教で思い浮かぶのは、1995年のオウム真理教の一連の事件を思い浮かびます。多くのひとが、驚いたのが高学歴の有名大学出身者と医師が教祖のウソに騙され洗脳されてしまっていた。「こんなに頭のいい人がなぜ……」と多く人が思っただろう。オウムに限らず、カルト宗教にハマる人は自分の頭で考えらない状態でいると人に騙されやすくなるのです。常に自分の頭で考えらる人は判断を間違えたりすることがなくなるだけんでなく騙されることはが無くなります。カルト宗教だけでなく世の中には、ウソツキが思ったよりも多くいます。振込詐欺などは、その典型です。言葉たくみに不安や恐怖を煽って騙すのです。不安や恐怖を感じると脳の扁桃体が優位状態になり正常に判断する時の前頭前野の働きを弱くして、冷静な判断ができなくなるのです。詐欺師は経験的に人が不安や恐怖、パニックにおちいると、考えらないことを知っているのです。だから、その状態をつくりだしてラクラクと人を騙すのです。こうした詐欺師に騙されないないてめには思考停止にならないことです。不安、恐怖、怒り、不信感などの情動に漬け込んで嘘の論理で詐欺師やニセ宗教家は狙っています。それに対抗するためには、情動と論理を切り離して考える力が必用です。情動に左右されずに論理的に考える能力と詐欺師や洗脳に対する知識があれば騙されることはなくなります。自分で考える力は騙されない脳をつくる方法であるのです。確かに、オウム真理教の信者の中には高学歴や医者がいた。私も当時は、なんでこのような高学歴者があのうよな信者となりあのような事件を起こしたのかと驚いいた。頭がいいのにどしてあのうような判断・行動をしたのか驚いた。ここで、述べているように不安や恐怖を植え付けて正常な判断さないように陥らせているのだ。これは、他のニセ宗教や振込詐欺も不安や恐怖を煽りたてることはよくある手です。私も以前、自宅に訪問してきた布教活動称して訪れる○○教の信者から、「この地球が……」と言って恐怖心や不安感を煽ってくることが、幾度かあった。その不安と恐怖心の情動を煽る手は、良くある手です。そこの煽られると高学歴でも判断をあやまり洗脳されるのです。著者のいうように「情動と論理を切り離して考える力が必用です。」なのです。それには、日頃から論理的に考える習慣と詐欺師や洗脳に対する知識をつけることです。そういえば、20年前に札幌での手相占い師に占いなで、不安を煽りたて、祈祷しないといけないとドンドンと運命が悪くなると言われたことがあった。もちろん、そんなのは、載らなかったが詐欺師は占いと称して不安や恐怖を煽るものです。自分で普段から考えるコトの習慣を付けていれば騙されない脳になります。そこで大事なのは自己肯定感です。自己肯定感の中の自分を信じる自己信頼感です。詐欺師などの恐怖や不安感を煽ってきても自分を信じる自己信頼感があれば騙さることはないのです。自分を信じることです。自己肯定感の中の自分を信じる自己信頼感をしっかり持つコトです。
2021.08.25
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読レポ第334号思考停止という病著:認知科学者 苫米地英人 第2章 なぜ日本人は思考停止するのか?2-0なぜ、自分の頭で考えられないか?日本人が自分の頭で考えること弱いのかは?・前例主義・知識不足・ゴールがない。の3つの理由が挙げられます。2-1前例主義日本人の多くが思考停止になっているのは前例主義が要因です。前例主義とは、何かを行う時、過去のやり方、結果を引き継ぐという考え方です。例えが、経営者や管理職は「昔からこのやり方でやってきたから」「前年の売上げは、○○だから来年の売上はこれくらい」過去のやってことをそのまま適用すること。過去と同じ行動するじたい思考した結果決定ならいいのだが。ほとんどは、思考した結果ではないことがおおい。思考停止は、司法の判例主義が影響している。担当裁判官によって類似刑事裁判でばらつきがあっては不平等になるから殺人事件なら2人以上にならないと基本的には死刑判決はないです。これにばらつきがあれば不平等になるから過去の判例を参考にして判決をくだすのです。この司法の判例主義がビジネスシーンでの前例主義化に影響しています。司法の判例主義はビジネスシーンの前例主義とは違うにビジネスシーンで不平等をなくすことが前提に無意識のか?持ち出されいて必用性の論理の議論はないです。思考していないのです。「商習慣だから」と言って多くは片付けれるのです。「これが最善の方法なんだ」「昔からこうやってきたんだ」とやり方を変えようしないのが大半です。仮に口では「変えたい」と言っても、実際にやり方を変えようとすると抵抗があるのです。その抵抗や思考停止にするのは、年配社員や管理職です。日本は儒教の文化が強くの残っているので年上を立てる文化が強く残っているので先輩、後輩の文化があるので若手社員が会社を変えることはほとんどできないのです。前例主義におちいるとルールに縛られクリエイティブな思考が働きません。記憶にたよるだけで過去の最適化しかていません。前項の小魚が群れて泳いでいるスクールオブフィッシュの生き方なのです。このような生き方を続けいけばドンドン思考する力は失われます。退化して、絶滅への道へと歩んでいると言えるます。 確かに「前例主義」「知識不足」「ゴール」が日本人の多くが欠けています。私もサラリーマン時代はこの3つの中にハマりこんでいました。前例主義の圧力はサラリーマン時代は多く受けていた。新し事やこれおかしから変えようとしたら反発や抵抗を受けていた。「いままで、やっていたのだから、変える必用はない」「いままで問題なかっただから」とか「波風たるな、それをすることで、今までしたいたコトややっていないかったことがバレじゃないか」そんな圧力に晒されていた。このように言ってくるは年配社員や管理職、年上の先輩たちです。間違っていたことや新しいいやり方。やっていないコトなどそのまま、継続しつづけるのです。まったく、進化しないのです。時代はドンドンと進化しているにです。時代にあったアップロードしていないのです。ドンドンと時代に取り残されて退化の道へ歩でいます。今、日本をみると元オリンピック組織会長 森 喜朗などみると昭和の時代の頭でアップロードしていないためいまだに女性蔑視の頭。森氏だけありません。地方議会でも、いまだに女性への蔑視、セクハラは残っています。私も女性議員から聞いています。また、私の尊敬している現役の高校教諭からも「学校などは、一番遅れいるかもよ」「昔のままの授業スタイルの教員がおおい」「いまでどうり、教え込む暗記暗記の教育」アップロードしていない教員は多いと言っていました。このコロナ時代での日本政府をみていると新型コロナウイルス接触確認アプリココア(COCOA)のお粗末さ、ワクチン接種やオリンピックへ対応など見ると、お粗末すぎることが表面化している。日本の退化が見えてきます。ここでのべているように「記憶にたよるだけで過去の最適化しかていません。」過去の成功例が無いので新し事態には思考力が低下しているので対応出来ないのです。クリエイティブな新しことは出来ないのです。その要因が前例主義です。儒教の年上を立てる文化がそれを強化しています。年上を立てるのは大事だが間違ったことや新しコトを生み出すためには年上とか関係なく議論していくことが重要です。新しい時代へと進化していくためには、年齢に関係なく議論では、相手の意見を受容して肯定的に受け取り議論するべきです。前例主義に囚われないためには他者の意見を肯定的に受けとることです。それが、思考停止から卒業する一歩の一つです。
2021.08.14
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読レポ第322号「やる気」を育てる!著:心理学者 植木理恵 第4章長距離のやる気を育て方(価値編)4-10「自分がしなくて誰がする!」という心を育むには?(その1/3) 前項では、元気な人たちは、みな錯覚や幻想の中で生きている。「現実を見ろ!カン違いをするな!」と育て方は、抑うつになるリスクがある。多少は楽観主義的であったほがメンタル面では、強くなる。つまり、前向きな幻想(ポジティブ・イリューション)はメンタル面を強くする。さて、今の時代はSNSの全盛期。SNSが楽しいのは?友人だけでなく、見知らぬ誰かにも個人的な情報を見てもらうとなんだか、ワクワクするなんだか、楽のしいくなるその楽しく一つは「承認欲求」が満たされるチャンスが豊富にあるから。人は生まれた時からほめらたい、肯定されたいという気持ちを持っている。「いいね!」や閲覧の回数が実は自己肯定感をSNSが満たしてくれるつねに褒めらるわけではなく時には反論を呼ぶときもあるがそれも楽しいポイントになる。「これって、ヒンシュクを買うだどろうか?」とか「これは、炎上するかも」といったリスクもあるがそれ分、そんな反応になるかワクワクするものです。楽しさは、善し悪しの承認欲求だけではない。人は「いいね!」という評価を得られないとしても人はただ「誰かが私を見ている」と思うだけで、元気になれものです。人は善かれ悪しかれは、実はかまわない。自分の存在していることが誰かに「認知されいる感覚」を強く、強く求める動物なのです。確かに、私もこうしてブログを書き続けているのは、誰かが、私のブログを見てくれているから、複数の方が毎回、毎回、毎日閲覧してくれていることが投稿者からは、閲覧数がグラフ化されて見えるから「もしかして、私のブログが誰かのお役にたっているのか?」「誰かの人生の歩みにのお役にたっているのか?」と勝手に幻想している自分がいます。つまりは、誰かのお役にたっているという幻想かも知れないが貢献度が湧いている。それが、幻想であろうと錯覚であろうと、前項での前向きな幻想(ポジティブ・イリューション)が私のメンタル面を強化している。また、自分が認知されいる社会に認知されいるという感覚にもなる。それが、少数の方での自分の存在が認知されいるコトはワクワクする心を育てる。人はきっと、ワクワクを求める動物であろうとおもう。ワクワクはやる気には重要な要素です。ワクワクはやる気を育てるものです。
2021.08.02
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読レポ第301号第4章「やる気」を育てる!著:心理学者 植木理恵 長距離のやる気を育て方(価値編)4-3「フシギを楽しむ習慣」をどう身につけさせるか?(その1/2)「面白い」という言葉は、「面」が「白い」というコトから来ている。本来の顔が灰をかぶったりして白くなってり面白、ちょっとへんだと思う気持ちから出た言葉です。人は実は「ちょっとヘン」が好きなのです!アメリカの心理学者フェイスティンガーがこれを「認知的不協和理論」と呼んだ。人は、音楽でも絵画でも教科書的にバランスのとれた作品を美しいと感じるがそれ以上に少し不協和で不安定なもにかえって興味や関心を強く惹かれる。音楽では、サビの部分とそれ以外の音の高低さが「おっと」と思うくらいのほがヒットする。確かに、今ヒットしている音楽での映画「鬼滅の刃」のテーマソング「紅蓮華(ぐれんげ)」映画の名前の「鬼滅」て何だろう?さらにテーマソングの歌の名前「紅蓮華」て何て読むのか?(ぐれんげ)そした、「どういうコト?」などと違和感やフシギ?と思わせる仕掛けが散りばめている。人は少し違和感、少し「あれ?」という矛盾が人の心の琴線に触れる。つまりは、心の奥深いところを動かす。なぜかというと、不協和のものは、私たちの「不安」をかきたてるからです。「あれ?何にこれ?これはどう解釈したら?」と思う。「あれ?どして」と自分の中の思っていたのと違う不安の「不快」を埋めるためその不安の「不快」解消したい気持ちから心の内から興味が湧き出る。「面白い!」「面白=少し矛盾している」が発生するカウンセリングでは、クライアントが話す内容の中の小さな矛盾点を取り上げて話し合うコトもあるようです。クライアントの中では、「貧困妄想」に囚われ人がいる。「自分には、もうお金がない。今夜にでも、のたれ死にしそう」とクライアントが思い込みに支配されいる。大抵は、「いやいや、このくらいお金があれば、大丈夫ですよ。景気も回復してきますよ!」と言ってもクライアントは「そんなことないです。」と押し問答になり、意味がない。そんな時に「え!そんな状況でよく電車賃を使って来てくれてありがとう」と感謝して「それしても、もうすぐ死んでしまうのだったら、お部屋は片付いけましたか?」あわてて心配してあげ。クライアントさんが自分が言っていることの矛盾点んに気づいてもらう言葉かけをすることで、「あれ?おれて!」おかしい矛盾点あるな!と気づき面白がってもらうことです。確かに、クライアントさんが言っていることに対して「そうじゃないよ!」と言うのはクライアントさんに対して非受容的態度である。「それで?」というしっかりと受け止める受容が重要。クライアントさんに対して、ジャッジせずにクライアントさんの言葉を全承認、全肯定することまず、そのコトが重要でクライアントさんが自ら言っているコトでの思い込み、矛盾点に対してしっかり、カウンセラーは受容して把握してクライアントさんが自分の言っていることの矛盾点に気がつくように言葉かけ(問い)をすることのようです。これっは、認知療法の一部のようです。「なんか私、極端なこと考えいるな」「自分が思い込んでいるほど深刻な状況ではないかも」とクライアントさんが前向きに矛盾の解消するようにカウンセラーは誘導して、ゆがんだネガティブ思考を卒業させるように、目指していくことのようです。これは、やる気を育てるにも「ちょっと、自分の言っていることヘンだな?」と気づくことが重要だと思う。
2021.07.11
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読レポ第275号「やる気」を育てる!著:心理学者 植木理恵 第2章「とにかくやる」を育む短距離のやる気を育てる2-11 アメとムチにこだわる「人間観」 その1/2行動理論の心理学者は動物実験での正の強化、負の強化からスキナーの実験からつまりは、電気ショックの実験からそれを人間の教育にも使えるのでないかと波及され検証されてきた、著者も若い頃にそのシンプルな実験からどの仕掛けを提案提示すれば行動を引き起こすかを病院でのカウンセリングでそのアメとムチの行動療法を幾度か経験を重ねて試してみたが「行動療法」等の難しさの限界を感じた。理論のまま人間をあてはめてみると確かに行動は変わり家族からも喜ばれるが また、半年もせずに当人は、ほかの悩みで不調をきたし、再受診。たとえば、不登校の子どもが適切なはずのアメとムチで学校に行けるようになったが必ずといって、大きな別の困難を抱えて戻ってくる。半年くらいは登校できても、そのあとになって引きこもってしまうケースが少なくない大人の「引きこもり」の場合も同じである。外に出ることができてもアメとムチでは、限界がくる。そもそも心の内面が解決が必用なのです。アメとムチの行動理論は「短距離の行動」にはつながるが未来にはつながらない根本的なエネルギーにはならない。確かに勉強などでのテストの点数をとらせるために養育者は「オモチャを買って上げる」から「おこずかいを増やすから」とか逆に「今度のテストで○○点以下ならゲーム機を取り上げるからね!」などと言われて、時には効果がでるときもあるが一時的なものがおおい。自分はこうなりたい!そのためには、○○知識は必用でその知識が身についているか自分に対しての確認がテストであるはずです。テストの点数はそのなりたい自分への進捗の確認の一つで本人の課題が上記のようなアメやムチになると養育者の課題になってしまう。アメとムチは、非常に扱いがむずかしい。いっぽ間違えると養育者の課題になってしまう。「いっぽ」と言うよりほどんどかも知れない他者の課題なので継続性は生まれ難い。根本的には自分の課題にしなかれば継続性は薄いであろう。アメとムチは、人間とっては不向きなようです。
2021.06.11
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読レポ第274号「やる気」を育てる!著:心理学者 植木理恵 第2章「とにかくやる」を育む短距離のやる気を育てる2-10 それでもなぜ「アメとムチ」などか?これまでからアメとムチは、①アメとムチは、速やかに効く ②しかし、そのテクニックは単純に見えても、とても難し。 ③そのわりには短期間しか効果がない ④長期連用していたら、根本的な無気力人間を育ててしまう。どうやら、外発的なモチベーションをつかって、つまりアメとムチを使ってモチベーションを高めようしても人間に対しては、リスクを大きいし不向きなようです。④の「無気力人間を育てる」はいまの日本の社会をみていると無気力人間が結構いる。なに関しても、否定的な人間がいるのは、また、しまいには、自分までを「無理、無理」と「できない、できない」「どうせ、俺なんて」なり否定しつづけると何もしたくない状況になり引きこもりを生んでいるのではないだろうか?どうして、「アメとムチ」による教育が広がったのか?そのポイントは、①「なまけ者の心理学」という人間観が、アメとムチを支えている②しかし本当は、アメとムチでなく「自分で」生きたい欲求が強い。これから、次項深めていく。①の「なまけ者の心理学」、人は楽をしたがるものとのバイアスから養育者は「なまけ者」にしてはならないと、すぐに効果のみえるアメとムチに走ってしまう罠にハマるのかもしれない。次項以降が楽しみです。引きこもりにブレーキをかけるヒントがみえるかも知れません。
2021.06.10
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>読レポ第248号>人は、なぜ他人をゆるせないのか?>著:中野信子>第4章 「正義中毒」から>自分を解放する>>節:正義中毒を乗り越える>カギはメタ認知。>>正義中毒を乗り越えるには>「人を許せない自分」を>自分の力で解放して上げる>ことが一歩です。>>人を許さない自分や他者、>相手をバカにしてしまう>自分や他者の愚かさを>>人間なのだから>しょうがないと>認めることです。>>訓練や考え方の変化で>一時的に正義中毒から>抜け出ししても>>疲れや誰かの影響で>元に戻ってしまう可能性が>あるからです。>>正義中毒に>陥らないカギは>メタ認知です。>>常に自分を客観的に>見る習慣をつけることです。>>メタ認知できない人は>>他者に共感したり>他者の立場での事情に>斟酌することができないです。>>自分自身が現在>どのような状況にいるにか、>うまく把握できなくなっています。>>「今、自分は正義中毒状態に>なっているかもしれない」と>思った時は、まずメタ認知から>始めてください。正義中毒にブレーキをかけるのには、メタ認知が欠かせないです。正義中毒になっている人は自分が正義中毒だということを認知していません。現在の自分の状況を把握できていないのです。メタ認知とは、私、自分を俯瞰して見る能力ではないかとおもう。「ああ、今自分の中で人を許さない感情が湧いてきているな!」そんな自分をちゃんと受け止めることです。人間の脳は他者を許さない傾向を持っています。それを否定せずに肯定にうけとめることです。そうできることがメタ認知につながる。そんな自分を認めることではないしょうかね!そんな、嫌な自分も受け入れること、ありのままの自分も受け入れことではないでしょうかね!
2021.05.11
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第198号人は、なぜ他人をゆるせないのか? 著:中野信子 >第1章ネット時代の「正義」>他人をつるし上げる>節:炎上ビジネスに踊らされる>正義中毒者たち>>他人の粗さがしに翻弄する>正義中毒者を上手に>ビジネスに利用してしまう>炎上ビジネスがあります。>>これは、正義中毒者は>中毒症状から>>飢えた動物のように>常に不正義を探し求めています。>>ですから、これをエンタービジネスとして>考えらば、わざとわかりやすい失態を>演じて、正義中毒者に餌を供給し>その対価して報酬を集める仕組みが成立する>>この不正義を発生さて、>世論が沸騰しているタイミングで>意図的に不正義をかばったり、>不正義を非難したりと>>正義中毒者たちに>燃料を与える。>>炎上ビジネスを仕掛けた側に>注目があつまるわけです。>>それが、SNSの出現で>芸能人以外の外野が>参画しやす仕組みができている。>>ただ、炎上ビジネスと>批判する(レッテル貼る)こそ>>言論封じではないかと>あらたなテーマがが浮上します。>>炎上ビジネスは>いかに素早く、気持ちよく、>力強く沸騰させるかが、ポイント。>>フラットな情報、>ニュートラルな見方を>保ひつ努力は必用ない。>>正義中毒者が>喜んでく消費してくれる>不正義のネタを供給すればいい。>>それがビジネスの>スケールアップにつながれば。炎上ビジネスは、社会にじつに氾濫している。とくに、TVの世界では正義中毒者を焚きつける番組がおおい。根拠の怪しい、出所のあやしい情報の真偽もあやしいモノを垂れ流している。また、感情的な批判もある。私自身、芸能人の浮気などは家庭や親族、関係者間のことであるに!ああだ、こうだと、まったく、関わりの無い人たちが問題を語り、正義中毒者に餌を撒いている。もちろん、社会的な問題としての捉える部分があるのら議論することは、あるだろうが、私もかっては、少なからづそのようにプチ正義中毒の罠にハマっていた。人間の脳は、自分の価値観で物事を測るものです。その価値観のモノサシで測って判断するものです。それが、自分は正しいと凝り固まった価値観に支配せれると自分の考え、価値観に疑いをしないままに測って、「あいつは、常識はずれだ!」「あのようなのは、考えられない!」などと、はじめからジャッジして再考もせずに決めつけてしまうものです。その価値観を他者についつい押し売りすりこともだれだって、正義中毒の要素は潜んでいます。その正義中毒の要素をクスグル炎上ビジネスは増々と氾濫しているような気がする。それが、SNS上の中でもYouTubeなどにも氾濫している。炎上ビジネスにハマり自分の中にある正義中毒の要素に火をつけないようにするには、鵜呑みにしないこと、盲目になって思考停止ならいことまた、自分の価値観を再考すること「自分は自分、他者は他者」で相手の判断することの領域を意識すること相手が求めていないに相手の領域に無断で土足で踏み込まないことだど思う。正義中毒にならないために!
2021.03.15
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第196号人は、なぜ他人をゆるせないのか? 著:中野信子 >第1章ネット時代の「正義」>他人をつるし上げる>節:著名人にとって>SNSはもろ刃の剣>>著名人がインターネットや>SNSに参加するのは、>>ファンや支持者と>直接メッセージを発し>>コミュニケーションを>取るコトで関係性を>深めたり、販売促進に>つながります。>>かつては、マスコミの力を>借りなければ意見表明などの>発信ができなかったが>>今は自ら自由に>発信することができる。>>だが、その半面、>デメリットもある。>>一般の人から、興味本位で>質問してくることがある。>>ついつい、自分の基本的な>知識が無い分野まで>応えてしまい>>「常識はずれ」「案外無知だ」>「失礼だ」などと、>印象や信用、信頼を>悪くすることもある。>>また、私生活なでの>高級なお店で食事をしたり>ブランドの商品を購入した>>などの投稿は>「贅沢自慢」となり>>ときには、妬みから>批判や非難をぶつけて>くる人もいる。>>SNSの出現より、>応援してくれる人のために>良かれと思って発信している>>私生活やその他の情報も>想定外の受け止め方をされて>>一般の「正義中毒」に>かっかた人たちの>「ツッコミどころ」にされる。>>下手をすると>その「正義中毒」の>攻撃から、活動を大幅に制限に>するリスクもあります。>>SNSは、相手との距離が>縮まる現象をおこす。>>つまり、リアルな人間関係でしか>起こりようがなっかことです。>>典型的なもに、>仲が良かったカップルでも>結婚してしばらくたつと>>互いの粗が目立ち>場合によっては>離婚にいたるような例です。>>SNSには、>このようなリアルな人間関係の>距離を縮める効果があるのです。>>なので、先ほどの例のように>仲の良いカップルと同じように>粗が見えてくるので>>理想していた者(著名人)は>ちょっとしたミスでの発信が>>正義中毒者から標的にされ>強烈なアンチ攻撃を受ける>場合もあるのです。>>イメージが非常に重要な>職種は死活問題に>陥ることもあるのです。>>重度の正義中毒者は>著名人に妬みと憎しみを>重ねていき>>場合によっては、>自らが社会正義の>体現者であるかのように思い込み。>>凶悪な犯罪行為に>いたる可能性もあります。確かに著名人がSNSで発信するのには、支持者とコミュニケーションをはかるコトで関係性を深めたり、販売促進につながるからです。これは、著名人でなくても私を含む一般的の人でもコミュニケーションを深めるためる、通じ合うためには、今や欠かせないツール。自分も活動の仲間とのコミュニケーションを図るためにSNSを活用している。著名人は、SNSの活用では、支持者の開拓や販売促進のためにたいていは、不特定多数がアクセスしてもらうためオープンにして投稿している。そのため、リスクは、ここで述べているようにデメリットの危険性がある。ちょっとした、投稿で支持者の一部からは、著名人から描いていたイメージから逸脱した発信が「こんな、○○さんだとは思わなかった!」の落胆から批判をうけたり、妬みや嫉妬、恨みをうたりする。とくに、匿名性だとそれが強化される!支持者やファンとの関係性を深めるて応援してくれるために良かれとおもったことの発信が想定外のうけとめ方をされと正義中毒にかかった一般の人からの標的にされることも。これは、著名人だけではなく一般のSNSをつかい発信している人でもです。とくに、「○○に来ています」「こんな、美味しいの高級店で食べています」「こんな、高級な○○の手にいれました!」などなど「贅沢自慢」や「幸せ感」から妬みや嫉妬、ジェラシーで批判や攻撃をうけることもある。これは、ここでのべているようにSNS通じて相手との関係性が近くなる錯覚感覚からです。SNSでの関係性深めるいい面もありながら、距離が近すぎると、相手の粗がみえてくるものです。まさしく、仲の良かったカップルが結婚してしばらくたつと互いの粗が見えてくるのと同じです。そのへんのコントロールがリアルな場合とちがい相手の反応が見えにくので非常にリスクです。一般の方々に多いのは食事投稿でしょが、みんなにこんな、美味しいのあるよ!見つけたよ!情報のおすそ分けのつもりが!不満が蓄積している正義中毒にかかった一般の人からの標的にさえ受けます。これは、著名人だけでなく一般の人にとってもSNSは諸刃の剣です。私は、あまり食事や買い物では投稿はしない。やはり、頻繁にそのような投稿は贅沢自慢と受けとられるからです。何度も何度もそのような投稿が続くと、みている相手にとっては「いいな!」が膨らむのでジェラシーに火をつけることもあるからです。私たちの中には、だれだって、「うらやましい」と感じる種があるものです。受け取り方しだいでは、それが、過大成長してジェラシーに火がつくもです。一般の人にとってもSNSは諸刃の剣です。そのことを認識することです。もちろん、受け取り方はさまざまですから、受け手しだいですから、そういうことがあると認識して、変の恐れることは必用ないと思う。相手の反応が???という時はこのようなことが、あると理解することです。理解しないと、自分自身をせめたり相手との関係性をわるくするからです。SNSは関係性を深めるツールであるので適切な距離を取ることで良い関係性が築けます。維持できます。また、新たな出逢いを産みます。SNSのプラスとマイナス面を理解すること、受容することが大事のなような気がします。
2021.03.13
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第190号……なる自己肯定感の教科書 著:中島 輝第4章 自己肯感をじわじわと高める方法。 >節:負の感情をコントロールする>マネージメント法3>「ポジション・チェンジ」>不安や恐れは客観視すれば>遠のいていく>>私たちは日常生活で>>上司から叱責を受けたり>パートナーと喧嘩したり>>子どものいざこざに>巻き込まれたり、>>何かとネガティブな負の感情に>襲われのは避けることができません。>>そのとき、その感情を>赤インクすると>>ペットボトルのミネラルウォーターの>中に赤インクを垂らしたとして>>それとも、大海原に>赤インクを垂らしたと>イメージするかで>>ずいぶん、自分の感情は>違うように感じる。>>ペットボトルに>垂らすイメージをしたら>>たちまち、ペットボトルの中は>赤い色に染まるが>>大海原に赤インクを>落としたとイメージをしたなら>>大海原に赤インクを>垂らしからといって>>大海原にとっては>たいして影響はないと>思えるものです。>>こんなふうに>ネガティブな負の感情への>見方を変えるテクニックを>>「ポジション・チェンジ」と>言います。>>たとえば、cafeでコーヒーを>飲んでいて、ふと上司から>叱責されたことを思いだすと>>ネガティブな負の感情が>湧いてくるもです。>>それを>「コーヒーカップを上司」>「スマホをあなた」>とします。>>コーヒーカップの立場から>スマホを眺めると>>上司がなぜ、>あなたを叱責したのか>考えてみることです。>>上司は叱責するにも>エネルギーも時間も要します。>>その上司の背景には>愛情と期待が見えて行きます。>>こうして、近くにあるもので>問題を擬人化して、>>自分とその問題を>眺めて見るのです>>一瞬で自分の色眼鏡を>外すことができるのです。>>そして、冷静になり>相手や出来事が起きた意味を>考える冷静さを取り戻せることが>できるのです。>>こうして、>「ポジション・チェンジ」の>テクニックを使うことで>>負の感情から抜け出せるのです。確かに、日常生活をしていれば負の感情に襲われことはあるもです。そこで、その負の感情から抜け出すてめに問題を擬人化する「ポジション・チェンジ」これは、問題を自分から切り離して俯瞰するテクニック。自分の中に抱え込むと冷静に見ることができないものです。よく、議論するうちに議論の問題ではなく人格否定に陥ることが多々ある。私もミーティングファシリテーター活動では出くわすことがある。そんな時にそれぞれの発言を要約して文章に言葉化することで発言者の人物から話した内容へ移し替えこと。このこでは、コーヒーカップやスマホになっているが文字へ、それぞらの参加者フォーカス化させる。そこに視点を集めさせるのです。そうすると、俯瞰して、冷静に見ることができる考えは同じです。人が冷静になるためには自分のなかにあるものを外に外部にだすこと出すことで冷静に俯瞰して眺めることができます。それが、「ポジション・チェンジ」でもあるのです。私もこの「ポジション・チェンジ」はミーティングファシリテーター活動で無自覚ながらも同じ考えを利用していました。あなたも、、ぜひ「ポジション・チェンジ」をためしてみてはいかがですか?
2021.03.07
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第184号……なる自己肯定感の教科書 著:中島 輝第4章 自己肯感をじわじわと高める方法。 >節:トレーニング1「スリー・グッド・シングス」>1日3つ書く。それだけで>アファーメーションが加速する。>>自己成長を促すトレーニング>「スリー・グッド・シングス」>>ノートを一冊、用意しましょう。>パソコンのテキストエディター(メモ帳機能)や>スマホのメモ機能、SNSへの書き込みでも>かまいません。>>できれば、手書きのほうが>効果がたかまります。>>1日1ページ、>その日の「今日よかったこと」を>3つ挙げて書き出すのです。>>たとえば、「書店でおもしろそうな>本に出会い、買ってきた」>>「取引先の担当者と世間話を>するチャンスがあって、>距離が縮まった感じがした」>>「夕方、見た夕焼けが>めちゃくちゃきれいだった」>>など、どんな小さな事でも>「今日みてよかったコト」を書き出す。>>それを21日間(3週間)>続けることで定着します。>>それは、私たちの皮膚が21日間で>生まれ変わるよに>脳も21日間で書きえ可能との>研究結果が出ているからです。>>ですので、「スリー・グッド・シングス」を>3週間続けてみてください。>>その3つの書き出しに慣れてきたら>これから起こしたいワクワクするような>>体験や自分なりの発見を>妄想して、1つだけかいてみましょう!>>たとえば「明日は必ず営業で契約が1件とれる」>「明日は新しい出逢いがある」>「明日は子どもと楽しい時間が過ごせる」>などと書いてみる。>>そうして一定期間、書き続ける>「朝早めに家をでると、>ラッキーな展開が多い気がする」>>「なんだか、新しい経験や良い出逢いが>あるような気がする」>>「○○さんと、いい汗かいて>笑える一日になりそう」と>変化にも気づく。>>すべての行動がポジティブに>肯定的になっていくのです。>>すると、その1日、1日と期待感を高め、>あなた脳は、「グッド・シングス」を>探すようになっていきます。>>たとえば以前は、>「自分には、いいことが起きない、>楽しみがない」という潜在意識思考も>>「自分には、いいことが起きるはず、>それを楽しみしている」というように>書き換えがおこなわれるのです。>>それは、まさしく「自分がツイてる」という>アファーメーションを>日常化している状態です。>>自己決定感や自己有用感が高まり>自己肯定感の木が育つていきます。>>また、「スリー・グッド・シングス」と>同じ効果をもたらすものに>>自分を褒める「褒め日記」もあります。>>1冊の日記帳に自分を褒める言葉を>書いていくアファーメーションです。>>どちらの方法でもかまいません。>自分の中にアファメーションでの>肯定的な言葉を習慣化することです。あちゃ~!こんなアファーメーションのやり方があるとは、知らなかった。『「今日よっかこと」を書き出す。』は、自分の思考を”よかった”ことに自分のフォースを当てる習慣へとなります。それは、そこへフォースする習慣化して、脳は、いつもいつも”よかった”ことを検索しようとする習慣になります。悪かったコト、自分を否定する要因を探さなくなるのです。人は、どこにフォースするかで人生の質が決まってくるものです。どこにフォーカスしているかで言葉にも、思考にも、行動にも最後には、運命に影響を与えるからです。私は、これを読んでいて自分にも似たようなことをしていたコトに気づきました。ときより、ミーティングワークショップ時、授業の初日に参加者(生徒)の方々に「6っか月に以内で自分にとって、感動したこと楽しかったこと」など自己紹介のお題を出すことが多いのです。その目的は、これから始まる話合いや授業が参加者一人一人が肯定的な思考に肯定的なコトにフォーカスするための思考になるための環境づくりです。肯定的な言葉は肯定的な言葉を呼び寄せるものです。言葉は思考と密接に関係していて、肯定思考を呼び寄せます。なので、反対に否定的な言葉は否定的な言葉を呼び寄せて否定思考を呼び寄せるのです。この「スリー・グッド・シングル」はそれをアファーメーションでの習慣化して強固なものしていくのだと思う。確かにです!始めは、なかなかその日1日での「今日、よかったこと」を3つ挙げるのは難しい人は、まずは、1つから始めてみるのもいいかも知れません。自分の中で呟く(心の中)のもいいかも知れません。私も実践してみます。どこに自分のフォーカスを当てるかが重要です。
2021.03.01
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第164号……なる自己肯定感の教科書 著:中島 輝第3章 自己肯感が一瞬でパッと高まる方法かんたんに今すぐできる 小さなコツ>節:22 夕暮れどきは、>明るいところへ行く、ウィークエンド編>>自己肯定感が下がっていると>>夕暮れ時には寂しさを感じて>増々、自己肯定感が>下がり気味になるものです。>>私の場合はパニック障害の>予期不安が夕暮れどきに>15年間も続いた。>>日没になると脳内分泌物の>セロトニンが少なくなり>>抑うつ的状態になるのが>わかっているからです。>>夕方になると>副交感神経が優位になり>>車でいえば、アクセルから>ブレーキをかける状態になる。>>夕方になりと、>落ち込むことは>正常なことですが>>自己肯定感が低下しているとき>わけもなく、行きづまり感を>感じたり、モヤモヤしたり>>イライラしたり、後悔したり>切なくなったり、自信を>喪失したり>>そんなときは、>人の多い場所へでかけましょう。>>人の多い場所は>照明も明るく、>気分もあがります。>>ショッピングモール、>コンビニエンスストア>セレクトショップなど>>ざわざわと賑やかな場所に>身をおくことで社会と>つながりを感じます。>>自己有用感が上昇します。>>人の動きも感じられ>安心感も得られます。>>完全に陽が落ち、>夜になって帰宅することで>>休日が終わると>寂しさががくるもです。>>明るい雰囲気の場所は>自己肯定感を勝手に高める>恰好の場所です。 日没に限らず、日中でも、極たまに人のいる場所つまり、人恋しくなるのか人のいる場所に無性に行きたいコトがあるものです。 Cafeや図書館とわざわわざは、人居る場所へ人がいるとなんだか安心感が湧くものです。以外に集中もできる。おそらく、ここで述べているように自己肯定感が低下している時なんだろうな著者のようなモヤモヤとかイライラとか夕方などになったことは記憶がない。正直、それはパニック障害がまねくモノようなきがする。人恋しさは極たまにあるがでも、SNSなどでつぶやくことはあるし SNSを覗くことは日課になっている。SNSの中=人込みてことなのかも知れない。安心感も湧くものなんだろな脳は勘違いしてしまったいるだろうな!きっと、SNS上で無意識に自己有用感を上げているであろう。SNSなどのバーチャルな所に身を置くコトで誰かとつながりを感んじている。誰かとつながっていることは人にとっては、重要な気がする。自己肯定感以上に誰かとつながっていることは精神衛生上もSNSやネット上でもつながっていることは人にとって大切で重要です。人とのつがりを持つことで安心感を持つものです。あなたの安心感はどのよな時ですかね!
2021.02.07
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第36号プロカウンセラーの共感の技術 著:杉原保史>23 自分を語ることが共感を深める。>>共感は、”相手の気持ちを感じること”だけでなく>感じたことを”表現する”ことも含まれいます。>>たとえば、相手の話を聴いていて>淋しいんだなと感じたなら>>「淋しいですか?」と言うよりも>「淋しんですね」と言う表現のほうが>共感として成熟を感じるでしょう。>>さらに、ぽつりと「淋しいなぁ」とつぶやくのは>さらに成熟した感じになるでしょう。>>これは、本人か聴き手なのか主体がだれかが曖昧です。>このようなコメントは、私とあなたの響き合いを>どこかに前提してしています。>>”共感を深める”とは、>相手の気持ちと自分の気持ちとの>境界線がぼやけることです。>>あるいは、相手の気持ちと自分の気持ちとが>出会い、相互作用することです。>>「淋しいなぁ」には、ちょっと注意が必用です。>相手との距離感によっては、違和感を感じます。>相手に響かないことがある。>>「あなたの話を聴いて、淋しいんだなぁと私は、感じた」と>いったほうがいいかも知れません。>>共感では、自分の感性をさらけだして>「自己開示」をすることが>共感を深めることにつながる。これを読んでいて、あらため自己開示の有用を感じた。人間関係に悩みをもっている人は、ほぼ、自己開示に怖れをいだいている。「間違っていては、……」とくに、男性は多い。プライドもあるのだろがね!男性自体には、そもそも共感に対する意識は低いだろうな。「え!共感?」「そんなもの……」と極端だろうが言うひとがいる。女性のほうが、感覚を重視する。男は、物や理屈で感情は興味ない。とうの私も理工系の男性なので見えないもや理屈にあわないのは軽視する傾向は以前はあった。めったにないが、以前は自分自身、感情的になってしまっているのに自分の感情と向き合わない認めなかったコトが今おもえばあった。いまは、半々かな!話は、元に戻すが、コミュニケーション力のある人をみているとやはり、自ら自分自身の自己開示している。そらは、男性でも、リーダー的というか、活躍しているひとは、自己開示を積極的にしている。SNSをみていると、それがはっきり見える。コミュニケーション力高い人は、けっこう、投稿している。これは、男女ともです。自己開示は、共感を超えてコミュニケーション力ではそうとう、重要である。そもそも、挨拶などは、自己開示のスタートです。自分の心を開く行為だからです。いつも、挨拶している人と挨拶していない人では、声をかけたり、訪ねたりするときにどちが、掛けやすいだろう?私は挨拶するひとだろうな!これを観ても、コミュニケーシには、自己開示が必用である。深いい共感には、コミュニケーション力が必用でコミュニケーション力には自己開示が重要であると思う。まさしく「自分を語ることが共感を深める。」と思う。
2020.09.24
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プロカウンセラーの共感の技術 著:杉原保史>2 孤独なのになぜ人と関わりたくないのか?>>人は孤独なになぜ人と関わりたくないかは、>共感をすコトにに恐れを抱くから!>ともとすると「生きずらさ」を感じる。>>いじめれている子のつらさに共感すれば、>今度は、自分がテーゲットにされる恐れから避けたい。>>正社員の人が、隣席の派遣社員の人の苦しい立場に共感すれば>会社の方針に疑問をもち、行動したくなる。>>黙って通り過ぎれば、平和な人生を歩める。>それでいいじゃないかと言う気持ちも理解できます。>>こうした共感への恐れがコミュニティーをバラバラする。>コミュニティーのメンバーに孤独をもたらす。たしかに、共感することはで、力になりたいがいまの平和な自分の世界を脅かすことになる恐れは私の奥底にあるな!それは、自分を守る本能の一部かもしれない。また、今の自分の居心地がいいので変化をもたらすことはしたくない。新しいコトはしたくないそれは、いまの位置が居心地いいからという守りたいからという心理は働く。だが、人は自己成長していかないとならない。赤ちゃんの時と小学生の時の自分、いまの自分は確実に変化している。ひとは、変化しつづける者。変化=チャレンジする。尊敬できるる人は、やはりたゆまぬチャレンジしている。居心地枠の丸を心理用語でコンフォートゾーンと言うがこのコンフォートゾーンが大きいひとほど尊敬もされて、幸せ感も大きい人のように見える。それには、たゆまぬチャレンジでの後退と前進の繰り返しでコンフォートゾーンを大きくしていくだろうな!>淋しさや空しさを癒すために>次々と商品を開発して買い求めるが>買っても買っても幸せにはならない。>>私たちは、十分な豊かになったいるが>幸福な人、人生に喜びを感じる人>人生に深い意味を感じている人>>大いなる満足をもって死を迎える人>当たり前にたんさんいる世の中に>なっているだろうか?確かに、モノはあっても、淋しさや空しさは癒されない。追いかけても追いかても満たすことは、できない。モノでは、一時的に満たされるが慣れてしまい、淋しさや空しさが追いかけてくるだろうな!>過度な個人主義での競争的な現在の社会や経済システム。>>誰か一人が富を得るためなら、>他の人を犠牲にしても構わない。>>地元の伝統的産業が荒廃しても>人間の便利さをえるために自然を犠牲しても>>現在社会の現実は>「身近な人たちに共感していけない。>そういうものを切り捨てこそ>豊かに生きることができる」>>そうしたメッセージが不安あおる。>>身近な隣人への温かな共感を大事しないように>共感を避けるように誘導する。>>このようなやり方は、>永遠に淋しさや空しさが>癒えることはありません。>>共感への恐れが非現実的とは言うつもりはないが>共感がもたらす否定面ばかり注目さらて>肯定面がみのがされいる。>>共感へんの恐れを乗り越えて>勇気をもって他者に関わりあうことで>生きがいや充実感が増すはづです!確かに、過度な個人主義での競争環境に晒されると、他者のへの共感などは、薄れていく。いかに、自分がトップを維持するかだけの狭い視野になりがちです。ただ、過度じゃない競争は、必用ではないかと思う。やる気や向上心の動機をつくる。スポーツなどがそれを物語る。また、スポーツでなくてもこの課題をやり遂げるために競争は、成果をあげる。以前、子どたちにもの作りの場面で競争動機をいれた時と入れない時では、ずいぶん、やる気に差がついた。だが、過度に差がつくとやる気が薄れる弊害もある!差が大きいと、課題が重荷なると諦めてしまう。自分は「もう、どうせ!」とか「自分は、もう」とか自分であきれジャッジしてしまう。前に進むコトを諦めてしまう。競争には、さじ加減が重要とおもうしつねい、競争に晒されると自己否定が生まれる要因になる。自己肯定感の低下を招く。さて、本題に戻るが「身近な人たちに共感していけない。そういうものを切り捨てこそ豊かに生きることができる」確かに、無意識にそうなっていく傾向が各人々の中に忍びよっているコトは確かです。ただ、田舎にはそういう傾向は少ないのでは、大勢のいる都会はどうしてもその傾向があるがそれは、野生動物でも似たような環境で現れている。確かに、共感の否定面が注目されるが共感の肯定面に眼をむけると。他者に眼をむけるこや他者の役にたつこと他者にの喜びや笑顔みることは、生きがいや充実感につながる。マズローの欲求段階説は、本来5段階ですが実は5段目の続く、6段階目の自己超越。「個人の利益を超えて同胞や社会のために貢献したいという思い」です。それが、生きがいや充実感につながるそれは、幸せ感につながるのでないかと思う。
2020.09.04
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『自分に気づく心理学』著 加藤諦三1章人づきあいが苦しいのはなぜかこの本を手にしては、まずは、自分が「なぜこんな感情が湧いてくるのか?」そんな、動機からです。1章では、「人づきあいが苦しいのはなぜか」であるがまわりにも、人づきあいが苦しのか???嫌なのか?観ていると、私の独断だが、自分が傷つくのが怖いように感じる。もちろん、私もそいう所はある。自己防衛本能としては、ある。この章では、神経症的自尊心の持ち主として取り上げている。ささいな事実は、言った側は、ささいだが、言われた側には、違うコトがある。その人の価値観を通してその人の心に達する。高い自己評価を持ち自尊心が健全なら傷つくコトは、少ない。その要因の一つとして小さい頃、やさしさに接するコトが無かった人。やさしさに触れることがないと他者からの拒否されるのに恐れをいだく。甘えた経験がないため。人のやさしをやさしいと受け取れない。ちょっと、脱線するが「甘え」検索するとhttps://puresmilesaiko.com/pamper-like-me/「甘え」と「甘える」では、日本では、受け取り方がずいぶん違う。「甘え」は、「ずるい」というイメージや「中途半端」、「他人まかせ」、「自分に厳しくない」、「半人前」のように、良くないイメージが付ある。だが、「人は誰でも心から信頼できる人、心を許せる人に思いっきり甘えたいという欲求が」ある。たしかに、いっぱい幼少のころに親に愛情たっぷり育てらた人=甘えた経験のある人と厳しく育てられた人。なんとなく、感じる。厳しく育てられた人は、自分に厳しく、他者にも厳し人が多いように感じる。本に戻るが、この章の中にでは、心が、ドンドン病んでくると憎むべき人を憎まず。逆にその人々に罪悪感をいだく。憎んでもいい人に対しては、自分を理解し思いやりある配偶者や恋人などを憎んだりする。たしかに、振返るとDVの被害者の中にはいる。たしかに、恋愛でも似たような感情は起きる。仲間同士でも親子どうしでも似たよなコトは、起きている。子どもころの愛情を受けてそだった人とそうではない、人では、違いがでてくる。そうでないひとは、心が傷つくのが怖さからを持ち続けるのではないかな!やはり、「愛」が人には、必用なんのだろな。
2020.08.16
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