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2022.10.08
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カテゴリ: 探訪

正道官衙遺跡を出て、北方向へ丘陵を上り、再び芝ヶ原地区に入ります。
丘陵には住宅地が広がっていて、頂上付近の住宅の一画に「 史跡芝ヶ原古墳 」があります。
「開園時間は午前9時~午後5時。冬期(11月~1月)は午前9時~午後4時30分。12月29日~1月3日は閉園。連絡先 城陽市教育委員会 文化・スポーツ推進課文化財係 0774-56-4049」という案内掲示が出ています。


入口を入り少し進むと、古墳が見え、その傍に 案内碑 が設置されています。



  案内板の地図に 紫色の丸を追記した地点から 南西方向に眺めた景色 がこの古墳です。


古墳の形状図を部分拡大 してみました。

もう1ヵ所にこの説明婢 があります。
これらの案内婢からの情報を総合しますと、



後方部の中心に、 墓坑 が掘られ、 組合式木棺 (くみあわせしきもっかん) が納められていたそうです。 (説明文より)
発掘当時の様子と復元推定図からこの古墳のイメージが湧きやすくなります。

芝ヶ原古墳は、 古墳時代初め(3世紀前半)に築造されたと考えられる前方後方形の古墳 です。古墳の南側(前方部)は住宅地の道路で削られていて、現在は、復元された前方部の一部と後方部を見ることができます。
「前方後方墳は、弥生時代末に濃尾平野に現れた突出部をつけた墳丘墓が、古墳時代に突出部をより大きな前方部へと発達させて生まれた墳形です。古墳時代前期を中心に全国で約二百数十基が確認され、東日本で数多く築造されますが、西日本にも及んでいます。
 芝ヶ原古墳は、前方部の形状が不明ですが、まだ未発達で短く、前端に向けて開いていることから初現的な前方後方墳と考えられています。」 (説明文転記)
後方部は東西9m×南北21m、前方部は前端部が開いた比較的短い形 をしていたと推定されるそうです。


古墳の大きさを比較した図 が案内碑に掲載されています。
左側がこの芝ヶ原古墳 中央が西山1号墳、右側が元稲荷古墳 で、縮尺400分の1で対比されています。


後方部の北西側に、「古墳の被葬者で地域を納めた首長が、権威の象徴として銅釧 (どうくしろ) をかかげる姿をモチーフにして」描かれた キャラクターの図 が設置してあります。
釧はひじにはめる古代の装飾品 です。銅釧、つまり銅製であることが金属が貴重品の時代に権威を象徴したということでしょうね。


    後方部の北側は、丘陵地の斜面がかなり下がって行きます。


          後方部の位置から 北方向を見下ろした傾斜地の広がり です。


一方、 同じ位置から北西を眺めると 、住宅地の向こうに 南北方向に森 が見えます。

この箇所が、「 史跡 久津川車塚古墳 」です。今回の探訪地の一つで、この地域では最大の古墳です。


傾斜地を通路沿いに下って行き、 南に芝ヶ原古墳を見上げた景色 です。


草地の中にあるのが 「芝ヶ原古墳と周辺地形」 モデルです。
2014(平成26)年3月に城陽市教育委員会により設置されました。
「芝ヶ原古墳を含めた久津川古墳群や、奈良時代の古代寺院と官衙(役所)を、古墳時代の地形を推定して表現しています。
 縮尺は500分の1で、高さは2倍に強調しています。 城陽市教育委員会」 (転記)

円形に近い多辺形の地形モデルの外周部に各古墳と古代寺院跡の説明パネルが埋め込まれています。
各探訪地の中で該当部分を利用してご紹介することにします。
この古墳群と地形モデルは現地で実感していただく他はありません。
ここでは部分図としてご紹介します。

久世廃寺跡の北側から北東方向に芝ヶ原古墳群 が築かれていました。

左のモノクロ写真は、 久世小学校内の中庭に保存されている 芝ヶ原9号墳の景色 です。
第1回にご紹介した久世神社境内にある 久世廃寺跡史跡指定地には、1~8号墳が所在 するそうです。

第2回にご紹介した 正道官衙遺跡の北側に、今回の「芝ヶ原古墳」 が所在します。
この古墳から東へ徒歩3分位の場所に「 芝ヶ原13号墳 」が緑地として保存されているそうです。
見落としていましたので、次回探訪への宿題になりました。

正道官衙遺跡から北東方向に 行けば、 「上大谷古墳群」「上大谷東古墳群」 があります。
現在の地図を見ますと、 大谷地区、上大谷地区に 点在する 4箇所の古墳公園として保存 されているようです。ここが次回探訪の課題になりました。

この部分図は地形図の 西方向から撮ったもの です。この地形図で一際大きい古墳が 久津川車塚古墳(前方後円墳) です。この車塚古墳の東側に見えるのが「 丸塚古墳 」です。この後の探訪目標です。その次に、久津川車塚古墳と芭蕉塚古墳を目指します。
芭蕉塚古墳 はこの部分図で2番目に大きな古墳です。

久津川車塚古墳の南に、 平川廃寺跡 」があります。その西側に赤塚古墳。

近鉄京都線久津川駅の南方向 に、 東垣外古墳、箱塚古墳や北垣内古墳群 が見えます。
私は現在この辺りの情報は未収集です。


上空から見た現在残る久津川古墳群 はこんな位置関係になります。下辺が北方向です。
赤字表記がここ、芝ヶ原古墳で、久津川車塚古墳の一部を縦断する形でJR奈良線が走り、その西には平行する形で近鉄京都線が走っています。


北から見た久津川古墳群の推定復元図

丘陵地を下り、下大谷バス停より一つ西側の交差点を渡り、交差点の北にある下大谷橋手前の道路を左折します。最初の三叉路を左折して道沿いに回って行くと、次の探訪地の森が見えてきます。

            古墳に続く北隣には、 城陽市第二浄水場 があります。



    「丸塚古墳」全景  (一番下の案内図、番号4のところ)
      フェンスに囲まれていますので道路傍から眺めるだけです。



ここには、この キャラクター がお出迎えです。「久津川車塚古墳の被葬者である大首長による地方支配を支えた有力な首長」 (説明文より) であり、この古墳の被葬者がキャラクターのモチーフになっているとか。

この 「国指定史跡 丸塚古墳」の案内板 が設置してあります。
説明の要点と言う形でご紹介します。
*前方部が低く短い帆立貝形の前方後円墳で、周濠がめぐる。
*墳丘の長さ 80m、周濠を含む全長  104m
*後円部直径 63m、高さ:東側 8.3,、西側 9.6m、
 後円部は二段式と推定。墳丘斜面に葺石を施す。一段目平坦部に埴輪列
*前方部の長さ 17m、幅:前端 32m、クビレ部 26.5m、 高さ 約2m
 前方部は一段に築く。墳丘斜面には葺石を施す。
*周濠は墳丘と相似形、幅 16m
*周濠の上縁から1.8m外側に、約6.6m間隔で円筒埴輪を据える。古墳の墓域の区画
*埋葬施設は未調査。
*出土した埴輪から3世紀初めの築造と考えられる。


この家形埴輪のほかに、蓋形(きぬがさがた)埴輪、甲冑形埴輪が出土。家形埴輪は5棟以上の破片が出土しているそうです。
大型の入母屋造の家形埴輪の一棟は、桁行約72cm、梁行約60cm、高さ約1mの大きさ
円筒埴輪・朝顔形埴輪も出土。形象埴輪も出土していますが据えられた状態での出土はなしとのこと。


地図を見ると、JR奈良線の東側煮位置する丸塚古墳は車塚地区になります。
上掲の航空写真の様子は、地名に痕跡を残しています。



それでは、久津川車塚古墳に向かいましょう。

つづく

補遺
芝ヶ原古墳 ​  :ウィキペディア
芝ヶ原古墳 ​  :「文化遺産オンライン」
史跡芝ケ原古墳 ​ :「京都府南部(山城地域)の観光情報サイト
丸塚古墳 ​ :ウィキペディア
国・府・市指定登録文化財 ​  :「城陽市」

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか へ
探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡 へ





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Last updated  2022.10.08 21:04:29
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