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昨日の朝はテレビの広島の平和式典で黙とうしました。原爆投下から70年。唯一の被爆国日本。何故原爆が一般の人々が生きている市街地に落とされなければならなかったのか、今日と明日NHKで特集番組をやるようで(今夜の分は見ました)改めて確認したいと思います。サイパンへは以前勤務していた事務所のお仲間と会社の旅行で行きました。多くの日本人が亡くなったという断崖絶壁の傍まで行き手を合わせました。アメリカと日本が行きつくところまで行ってしまった結果が原爆投下になったのだという事が少しわかりました。明日も引き続き特番を見たいと思います。昨日の午後は月一回のお医者さんの往診がありました。運転手つきの車で、お医者さんと看護師さんが来て下さいました。我が家は夜中から朝のうちまでは一階の網戸のある窓と2階のやはり網戸のあるベランダへの出口の2か所のみ開けて、外の涼しい空気を入れていますが、陽が射してくると逆に閉めてしまいます。主人の寝ている部屋と私が過ごす食堂(台所)のみに扇風機をまわしています。それでも家の中は結構涼しく下から上がって来られる看護師さんやヘルパーさん達は「ここは本当に涼しいですね」と言われます。クーラーはなしで夏を過ごせる特権をどうにか享受しています。こちらもよろしく【楽天ブックスならいつでも送料無料】広島原爆 [ 諏訪澄 ]価格:2,376円(税込、送料込)サイパンの戦い 「大場栄大尉」を読み解く 詳説図解価格:1,728円(税込、送料別)
2015/08/07
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日本は明治、大正、昭和と沢山の戦争に関わってきた国でした。帝国国家日本として近隣の国を次々に侵略して、その権力を誇示し続けてきた歴史があります。その結果として中国からも、韓国からも帝国主義日本は恐れられ、憎しみの対照となって来た背景があります。そして第2次世界大戦でアメリカが原子爆弾を投下することで日本は初めて敗戦国としての屈辱を味わう事になりました。ここまでしないと日本の軍国主義の政府は戦争から手を引かなかったという愚かな国になっていました。その陰で日本国民自身も犠牲になり、沢山の戦没者、犠牲者が山のように生まれてしまいました。ほんの一部の軍国主義政府の要人達がその愚かな権力を行使していたに過ぎなかったにもかかわらず、その愚かさを止める事が出来なかった日本の国の悲しい歴史はもう2度と繰り返してはならない。広島、長崎の原爆被害はその愚かなほんの一部の政府要人が引き起こしたとも言えます。確かにアメリカも原子爆弾の実験場として選んだという余りにも生身の人間が其処に生きていることを無視した行為は許されない事ではあるけれど、それを招く原因を作ったのは、同じ日本人であった、というところが余りにも情けない事実です。私の父方の一番末っ子の伯父さんは南の島アドミラルティ諸島の中マヌス島にて戦死しました。まだ25歳でした。この伯父さんには会うことが出来ませんでした。私が生まれたのが伯父さんが亡くなってからですから。父方の本家にはその大きな石の慰霊塔が建てられています。主人の事を書かないままになっていましたが、相変らずオンオフが繰り返されています。それでもオリンピックは夜中に一人で起きて見ていたり、長時間は無理でしたが、少し見ては又寝たりという状態でした。閉会式は少し見始めましたが余り興味がない様子で途中で寝てしまいました。平和の祭典、オリンピック、平和を再認識する終戦記念日、これが隣り合ってくるのが不思議です。地球という美しい星をもっともっと皆で大切にして居たいですね。 語りつぐ戦争 15人の伝言/早乙女勝元価格:1,680円(税込、送料別)アメリカの視点第二次世界大戦(DVD)価格:12,600円(税込、送料込)
2012/08/15
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戦争が終焉したのがお盆に合わせるかのように、8月15日が終戦記念日、という不思議なめぐり合わせを感じます。づっと以前から当たり前に終戦記念日を「あー、又今年も終戦記念日がやってきたんだ。と思って特別意識もしないままでした。たまたま我家の長男が予定日より早く生まれてしまったのが8月15日だったのでした。東京暮らしをしている時で、信州育ちの私にとって学生時代は夏休みとなるとすぐ実家に帰って来てしまっていましたし、就職してから夏の暑さに参っていましたが。それでも職場はまだ冷房は完備されていない時代でしたが、扇風機をがんがん回して、仕事をしているとさほど暑さも気にせず気が紛れていたと思います。しかしお腹に子供が居る状態で仕事はしていなかった私にとって、家に居ると木造の割合ゆったりしたアパートではありましたが、2階だった事もあり暑くてたまらない毎日でした。母に話すと、実家の近くの別所温泉に宿を取ってくれたのです。主人と2人で土、日、を挟んで泊まりに行きました。暑い温泉に入り、そのまま散歩したりと結構動き回り楽しい数日を過ごして、東京へ帰って来たのでした。しかも暑いので、腹帯もしないまま歩き周っていたことがいけなかったのでしょう。アパートに帰って来た次の日急にお腹が痛くなってしまい、そのまま通院していた目白の聖母病院へ駆け込みました。そして即入院となり、その日の夕方長男は生まれました。後で知った事ですが暑い温泉も妊婦には良くなかったようです。初めての出産、しかもまだ、予定日にも3ヶ月あるということで余り用意もしていないままの無防備な若い母親で、恥ずかしながら覚悟も無いままの妊婦でした。結構大騒ぎをして出産したのでした。未熟児で体重は7ヶ月でしたが、1860グラムほどでした。7ヶ月にしては体重が多かった事、7ヶ月という時期は割合安定している時期であったこともよかったのでしょう。長男はその後の検査でも特に異常も無く、少し小柄な身体でしたがすくすくと育って、元気一杯の少年に育っていきました。8月の日本は本当にお盆という先祖の霊を呼び生きている今の自分たちと一緒に過ごす大切な時期です。そんな時期にあわせるように、戦争が終わったというこの終戦記念日が重なったということはきっと日本人の魂の全てのご先祖が願っていた事だったのかもしれません。今年はたくさんの課題が提供されています。生きる意味を本当にしっかり考える事が、人類皆に必要だよ。と神様や、仏様、ご先祖様たちが敢えて、時を与えてくださっているのかもしれませんね。このところ、毎日夜寝る前には2人でシャワーを浴びてさっぱりして休めています。しかし相変らずはもう一つ、さっぱりすると目が醒めるらしく、昼間ウトウトして寝てばかりですが、深夜一人で起きてテレビボーイになっている主人です。トイレタイムはやっぱり私を起こすので、自分のトイレタイムも兼ねて起きています。 別所温泉 観音様となりの宿 かしわや本店別所温泉 旅の宿南條
2011/08/11
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オバマさんが勝利してアメリカ合衆国は本来の自由と平等の国に戻れるかもしれませんね。ライス国務長官のうれしそうな笑顔が印象的でしたね。あんな和やかな笑顔を見せたのは初めてではないでしょうか。どちらかと言うと硬い表情で仕事をこなす優秀な女性としてのイメージしかなかったライス長官がニコニコと笑っている顔は初めてではないでしょうか。南北戦争で黒人開放戦争をしたアメリカでしたがその後すでに150年以上の歴史が流れる中で、いまだに黒人は差別を受け続けてきたのでした。「風と共に去りぬ」の映画の中で黒人は確かに立場は奴隷でしたが、決して虐げられた存在には描かれていなかったと感じました。スカーレットが気を失った時、身をもって助けたのはいつも身近で家族として暮らしてきた黒人の召使だったのです。心を通い合った主人と召使の関係ではありましたが、むしろ其処には愛があったのではなかったでしょうか。時代は変わり自由で平等のはずのアメリカは、黒人を排除して、ほんの一部のエリートだけをとりあえず評価する、と言う形の象徴があのライス国務長官だったように思えてなりません。だから彼女は選ばれた存在としていつも表情は硬く、緊張していたのだと思います。でもこれからは心の底から喜びに満ちて楽しく仕事をしていくでしょうね。問題は山積みですが、きっと好い知恵が多くの人から湧き出てくるような気がします。日本ももう一度明治維新の時の純な気持ちに戻る時が来たのではないでしょうか。日本にとってもチャンスではないか、と感じます。若い人がもっと政治に目覚め自分の国をどうしたいのかもっと情熱を傾ける時ではないでしょうか。もう武器を使って経済を廻す発想は止めるべきです。自衛隊だってどれほどたくさんの武器を持ってしまっているか知れない事実をもっと国民は自覚し、何故そうしなければならなくなってしまったのかもっと考えて見る時ではないでしょうか。今世界の武器はアフリカに流れていると言われています。美しい青い地球をもっと皆で大切にする方法を考えていかないと、余りにも哀しいではないですか。
2008/11/06
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元沖縄県知事大田昌秀氏は1977年記録写真集「これが沖縄戦だ」を出した人である。 その表紙になった写真の少女は実は少年だった。という記事を読んだ。当時12歳だったというその少年は1984年になってその写真が自分である、ということを大田氏に伝えるために自宅を訪ねたそうである。当時「男の子は日本軍に引っ張り出され何をされるかわからん」という父親のいいつけでおかっぱ頭にしていた、ということであった。しかし沖縄戦が始まった時はそんなことは無駄で家族の食料を奪おうとした日本軍に取りすがった時は、殴る、蹴るで気を失った結果米軍につかまった時に撮られた写真だったそうだ。その時の怪我で右腕脱臼、右目も失明、右足にも今でも障害が残る。当時の日本軍は住民に手投げ弾を持たせ、壕から出るときも子供を先頭に立たせて盾としていた。住民にとっては日本軍こそが敵だった、ということだ。「そういう事実を知らない人たちが歴史の教科書を飽きているんです。」という証言をしているのがその写真の少女、大城盛俊さん(75)であった。本当のことを知っている人がどんどんいなくなってしまわないうちに史実をまとめた「沖縄戦辞典」と「大田昌秀全集」を出そうとしているのはこの「沖縄戦だ」を編集担当した桑高英彦(63)だ。桑高は当時大田の論文に引かれて直接手紙を書き紹介されて入社した那覇出版社の新入社員としての初めての仕事だったのがこの写真集だった。
2008/01/31
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DVDで先週借りてきた中に以前から気になっていた「硫黄島からの手紙」がありました。 返す日の深夜になってまだ見てないことに気が付き遅い時間だったけれど観ることにしました。監督が「夕日のガンマン」でお馴染みのクリント・イーストウッド、主演が「明日への記憶」で好演だった渡辺謙さんということで、しかもアカデミー受賞作品でもあり2年前から気になっていました。2年前のお正月に購入した「文芸春秋」に栗林忠道中将について、渡辺謙さんと作家の梯久美子さんの対談が載っていたので買ったのですが、余り良くわからずそのまま表題だけでよく読まないでいました。「文芸春秋」などももう何十年も買っていませんでしたが。しかし映画を観終わってから昨日改めて読んでみると、栗林忠道という人がクリントイーストウッドを何故惹きつけたか、わかりました。陸軍の優等生だった指揮官であった栗林は直属部下には厳しいながら、一般の兵士には大変優しい人で、一緒に食事をする、同じものを食べる、司令室に閉じこもって作戦を練るだけでなく、現地である島の中を自分の足で歩きその状況を確かめるなど、兵卒にも声を掛けているなど当時の指揮官としては普通ありえない行動をしていたということでした。そして毎日家族に当てた手紙を書きながら、日本に残された家族を思って悲惨な戦場での日々に耐えていた。実話に基づく映画ではありますが少しは脚色もあったようです。当時日本では戦意を掻き立てるために、鬼畜米兵ということを教えられていた日本兵にとって、上陸してきた米兵の一人を捕虜にした時、その命を助けたものの亡くなってしまったその米兵の持っていた母からの手紙を読み上げた時、その内容は全く日本の母と同じことが書かれていた、ことに兵卒は驚き、人として米兵を見ることになったシーン。世田谷区ほどの広さの島に2万人余りの将兵が入って、今でも1万3千柱の遺骨が眠っているという硫黄島は島全体が遺骨で埋め尽くされているといっても良い。栗林中将の魅力は戦前アメリカ・カナダ駐在の経験があったことで、アメリカ人を良く知っていた事でアメリカに勝てるはずが無い、と戦争には根底では反対をしていたのではないか、といった陸軍の大本営に対しても常に和平を提言していた、と伝えられている事など当時の軍閥では異色の立場だったようだ。それだけに戦場での苦しみも強かったであろうし、多くの将兵はほとんどが応召兵(各戸に赤紙で招へいされて兵隊になった兵士)であった事もあり、望んで戦争をしているのではなかった一人一人の気持ちが良く判っている人だったのであろう。硫黄島をそこまで死守するにはこれも理由があったという。硫黄島を米軍に支配されれば即本土に空爆が手軽になされて日本にいる家族は全滅する事を知っていたからである。米軍が5日で落ちると見ていた作戦は、一ヶ月の長い期間死守されていたのである。多分もう一本の「父親たちの星条旗」をアメリカ側から見た硫黄島の戦いも観た方が一層イーストウッド監督の心意気が伝わってくるであろう。無念のうちに死んでいった当時の若者の気持ちが伝わってくる映画でした。今の平和がこの人たちの犠牲の上にあることを忘れてはいけない、と再確認しています。 主人は一緒に観ていましたが、無言でした。その日は寝たのがもう明け方の4時近かったです。金曜日と今日も又寝ている日になりましたがそれでも夕方になってかなり冷えて来て石油スト-ヴだけでは家の中は底冷えが増してきた所、少し起きて食べたり、薪割り機で薪作りをしてくれたりと、薪ストーヴでやっと暖かな夜になりました。
2008/01/26
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