泡雪の日記

泡雪の日記

今更ながら、芥川龍之介を見出した理由


以前は直木賞が流行だった。

芥川龍之介に危険を感じていた私が芥川賞の作品を読んでないのは自明の理。

蛇にピアスと言う作品の受賞で妙な気がした。
芥川賞に選ばれる人に「芥川の怖い清さ」を感じなかった。
むしろ、太宰賞を差し上げたい。

そして、太宰治は私の最も嫌う作家。
蛇にピアスは太宰の持つ顔を背けたくなる≪毒≫は持って居ないが、

人間の滑稽さを扱っている部分では、太宰的だ。

芥川賞に選考に値しないという、「選無し」と言う選択は無いのだろうか?
と言う疑問を持った。

今回の介護を扱ったものに、更に薄っぺらな太宰を感じる。
太宰と芥川は対極な印象が有った。

芥川は、人間の全ての人格を慈悲の心で扱うのに対して、

太宰は、人間の局所的なものをかき集めた偽者臭さが嫌いだ。
一人の人間に人間の厭らしさの全てを集めた人格を作った
目を背けたくなる「人間失格」。デリカシーの無い作品だと思う。

太宰治に負けないくらい汚い喩えをすれば、
太宰治の芸術は
美しい女性の排泄シーンを写真に取り、「美しい女性でもトイレに行く」
と言う事を表現したい為に、人様の前にわざわざ張り出すような事をする。

わたしは、それを芸術とは思わない。

そんな分けないだろう?と言いたくなるような御目出度い話の「走れメロス。」
動かしたい感情の狙いが先に有って、話しを作る厭らしさを感じる。
美しすぎる作り話で人を感動させる、セールスマン的な匂いが嫌だ。

太宰治の作品は、人間として、腑に落ちないところが残る。
太宰治の死に方には興味が無いが、やはり自殺したのだろうか?
「生きていて申し訳ありませんと言う理由かしら?」
だとしたら、智慧が無さ過ぎるとしか思えないし、

美学の為に命を架けた三島由紀夫は、命を架ける事で芸術を擁護するほどに命の重さを扱っている。

が、最後まで、太宰治には軽々しさを感じて、太宰治が幾つまで生きたのかどんな死に方をしたのか、調べる気にも成らない。

死に憧れる人間の愚かさを書くなら、渡辺純一の方が芸術を感じる。

最近の芥川賞には、太宰的な厭らしさを思い起こされるので、
本家本元の私が敬遠した、≪清過ぎる印象の芥川龍之介≫本体を開いてみる事にした。


私の漠然とした長々とした嫌悪をさすが天才。
芥川龍之介は違いを一言で述べていた。

≪芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。≫

太宰は人間の悪を玩具に居ている。
見出す事に悦びを感じている。
そして、それをあざ笑う。
つまり、救いがないのだ。

清らかな人間はあくまでも清く。
悪は清らかさに負けると言う御目出度い構図が嘘っぽい。

芥川龍之介の険しい顔には、人間の悪を救おうとする仏の真剣な時の顔だと理解するようになった。
仏も、へらへら笑ってひとを救わない。
救う時は真剣な顔になる。

彼は力の限り、人々に逃げ道を与え、自分の逃げ道を失って力尽きた。
彼ほど、正直な自殺は無い。
自分の全てをさらけ出して死に挑んだ彼を私の知る神は愛するはずだ。
芥川龍之介は、この世の全てを愛した。善も悪も神(希望)も知っていたはず。
そして、神の嫌うとされる自殺をして迄避けたかった事。
≪気が狂って、他人に負担を掛けない選択。≫

神に愛されるより人を愛した彼の死。
こんな崇高な自殺を責める人は誰も居ない。
彼の張り詰めた神経は限界まで来ていたと感じる。
現実に目を背けられるほど臆病であれば、生きながらえたのに。











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