LIVE FOR LIFE

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彩の足跡 1


父は自分が幼い頃 両親を亡くしていたので 
自分の子供には淋しく辛い思いをさせないようにと
兄・私を時には優しく 厳しく 育ててくれていました。
それが・・・
私が生後7~8ヶ月頃のことでした。
高熱に見舞われ病院に入院することになったのです。
熱が下がらないため無菌室(ICU)に入れられ ここに入れるのは
母だけでした。
私が父・兄・祖母(母の親)は窓越しからしか私の姿をみることが
できませんでした。
それだけでも父は毎日病院に会社の帰りにきてくれたそうです。
家にいた兄は祖母とお留守番をしていたようでした。
母は夜も家に戻らないで1人病院に残って私のそばについていたのです。
熱は下がらず医師から・・・
「これ以上 熱がさがらないと生命の危険があります。助かっても
障害者になります」と宣告され両親は覚悟をしていたようです。
母が母乳で育ててくれていたので私は天国の入り口までいったのを
引き返してきたそうです。
その頃の医学ではわからなかった病名も今でいうと「脳性マヒ」
だった感じでした。
なきだせばあやすこともできない状態だったのでお乳を加えさせることしかできなかったそうです。母は片腕だけが唯一自由に
できる状態だったそうです。
今 母はいいます。「今 考えてみるとなんであんな無茶なことが
できたのだろう? 若さだったのかな~?今では考えられない」。
退院してきてからは今度は通院生活。
病院までは電車でいっていたそうですが
その間でも私はトンネルに入れば泣き気の休まる時間はなかったようです。私は普通の生活をしていたのですが
私の異変に気がついたそうです。
言葉を話さない・左手をかばっている・・・

幼稚園☆
言語障害にも似た症状を持った私は幼稚園に入園しました。
幼稚園まで送ってきた母と離れるのがイヤで朝 泣きじゃくったそうです。
そんな日が続き困り果てた先生が母に
「お母さんしばらく後ろにいてあげてください」といわれ
私のそばにいてくれたそうです。
時々後ろをみていては安心をしたようでした。
友達もでき毎日のように遊びに夢中にもなり始めたそうでした。
そんな私の1番 印象に残っているのは
日曜日の朝 幼稚園で「日曜学校」というのがあり
そのときに朝飯を父に食べさせてもらっていたのです。
卵ご飯にほうれん草のお味噌汁でした。
幼稚園の友達と家の方向が違うのに私はこの友達と帰りたい一心で
一緒に帰ってしまい先生と母は大慌てだったそうです。
この知人から家に電話が入り一見落着になったそうです。
私にとって忘れられないことがあります。
隣に住んでいた人のことです。
私は幼稚園が終わると必ず隣のおじちゃんの所にパズルを持っていき
仕事をしているおじちゃんの横でずっとパズルをやっていたのです。
20才前後のお姉さんとお兄さんがいて私はいつの間にかお姉さんのあとを
追うようになっていたのです。
とっても優しいきれいなお姉さんでした。
この家も立ち退きの話がでて逗子へと引越しをしていったのです。




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