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木鶏
その座に横綱双葉山がいたが、双葉山を意識してしゃべったわけではない。
昔、王のために闘鶏を養う名人がいた。
ある日、王は名人に尋ねた。
『どうだ、もう闘わせてもいいかな』
ところが名人はこう答えた。
『いや、まだいけません。いまはちょうどから威張りして、
自分の力を当てにしています』
しばらくして、王は名人に催促した。でも彼はうんといいません。
『まだいけません。他の鶏の姿を見たり、鳴き声を聞くと興奮します』
しばらくして、王はまた催促した。名人はまだ許しません。
『まだです。傲然と構えておって、血気が盛んでいけません』
その後、王が重ねて催促したとき、彼はやっと承知した。
『まあ、よいでしょう。もう他の鶏の鳴き声を聞いても平気です。ちょっと見ると、まるで木で作った鶏としか見えません。徳が充実したのです。これでどんな鶏がやってきても、天下無敵です』
戦いというものはこうでなければいけない。徳が充実してくれば、戦わずして勝つ、つまり相手を呑んでしまうことが起こる。
双葉山はこの話にじっと聞き入っていた。
横綱双葉山といえば、連戦連勝の関取で、不世出の横綱といわた。
安岡正篤は相撲は単なる勝ち負けではなく、
心を鍛練し、天にいたる「道」だと考えたのである。
安岡正篤はこの話をしたことを忘れていた。
ところが、昭和14年1月、欧州旅行の途上、安岡正篤が乗った船がインド洋上にあったとき、無電が鳴った。
「ワレイマダモッケイタリエズ フタバヤマ」
安岡正篤は一目電文を見て、双葉山の連勝が阻まれて土がついたことを知った。
安芸の海に破れ、歴史的記録は惜しくも69連勝で終わった。
連勝中、いつも双葉山の心の中にあったのは、もはや勝敗のことではなく、木鶏の話だったのである。
現役から引退した双葉山は、のちに相撲協会理事長に就任した。
昭和34年12月、時津風は安岡正篤の自宅を訪ね、「木鶏」の揮毫をお願いした。
これを契機に集まりが持たれるようになった。安岡正篤はこの会の名を「木鶏会」とした。
(安岡正篤の世界 神渡良平著 同文舘より)
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