カブトムシダイエット

カブトムシダイエット

水野南北



『食は命なり運命なり』

・人を相すりには、まず食の多少を聞き、これによって生涯の吉凶を弁ずるに、万に一失なし。
・にんげん生涯の吉凶ことごとく食より起こる。
 常に大食暴食の者は、たとえ相貌大いによろしくとも、身上収まりがたい。
 貧者は次第に窮するし、相応の福ある人ならば家を損じる。

・食は命を養うの根元、恐るべきは食なり。慎むべきは食なり。
・常にぶんげんより美味を好み食う者は、大いに凶である。
 生涯出生発達は覚束なく、貧者は働けど功をみず、苦しみ続けて世を終わる。

・酒肉を多く摂る者は、皮膚も肉も締まらず、血は濁り、骨は脆くなり、新規ゆるみ、
 意識おのずから増長し、終いには悪心を生じるものである。
・禍を福に転ずるものは食に在り。
・食を節することは 天地に陰徳を積むことであり、それにより知らずして天録が書き換えられる。

これは彼水野南北自身の体験が元になっている。
乞食坊主に死相が出ており後半年の命といわれて、ホトケにすがろうと禅寺に入ろうとした。
そこで麦と白豆だけの生活を半年だけ続けたら弟子入りをゆるすといわれてやったのである。

そして気がついたら半年はすでに経過していた。
死相はそのときすでに消えていたのである。

観相家としても知られる水野南北ですが、その食に関する造詣の深さには驚かされます。しかも、そのすべてが自らの体験に基づくものだけに大変説得力があります。幕末の名医として知られる石塚左玄にも影響を与えたと言われている人物です。
  南北の教えで特徴的なのは「食べ物が人の運命に影響する」という点です。なぜそのような考えに至ったのかといういきさつは本文中に詳しく触れてあります。
  今日、わが国ではグルメブームということで、テレビでも食べ物を題材として美食を推奨するような番組が増えていますが、私たち日本国民の運勢がどんどん悪化の方向をたどっているように思えてなりません。こんな世の中だからこそ、水野南北の教えを謙虚に受け止めたいものです。         

 「人の運は食にあり」と啓示される

●江戸時代中期の頃に生きた水野南北は、日本一の観相家といわれ、「節食開運説」を唱えた人物である。いわゆる霊能者と呼ばれる類ではないが、その人物史を見てみると、霊妙不可思議な出来事に何度も遭遇している。
  まだ幼児の時に両親を失って孤児となり、鍛冶屋をしていた叔父に引き取られるが、性格はすさみ、10十歳の頃から飲酒を始め、喧嘩ばかりしていたという。そして18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、入牢するに至っている。
  だが、牢内での生活を通じて南北は、人相について興味深い事実を発見する。罪人として牢の中にいる人の相と、普通に娑婆生活を送っている人の相の間に、明らかな違いがあることに気づくのである。これがきっかけとなり、南北は観相家というものに関心を持つようになった。
  出牢後、南北はさっそく、当時大阪で名高かった人相見を訪れ、自分の相を見てもらった。するとなんと、「剣難の相であと1年の命」と宣告されてしまった。愕然とした南北が、助かる方法はあるかと問うたところ、その唯一の方法は出家であると言われた。
  南北は天下稀に見るほどの悪相・凶相の持ち主だったのである。
  そこで禅寺を訪れて入門を請うが、住職は南北の悪人面を見、断ろうと思い、「向こう1年間、麦と大豆だけの食事を続けることができたなら、入門を許そう」と告げた。
  助かりたい一心の南北は、この条件を忠実に実行に移す。港湾労働者として従事しながら、1年間、麦と大豆だけの食事を実践するのである。
  こうして1年が経過し、約束通りのことを実行した南北は、禅寺の住職のところへ行く途中に、再び例の人相見を訪ねてみた。と、この人相見、南北の顔を見るなり驚いて、「あれほどの剣難の相が消えている。貴方は人の命を救うような、何か大きな功徳を積んだに違いない」と言った。南北が、食事を変えて1年間貫き通したことを話したところ、それが陰徳を積んだことになって、彼の凶相を変えてしまった、というのである。
  これで禅寺に行く必要のなくなった南北は、自分も観相家の道を志そうと決意し、諸国遍歴の旅に出た。水野南北、21歳の時である。

  南北はまず髪床屋の弟子となって、3年間人相を研究し、続いて風呂屋の手伝いをして、やはり3年間、全身の相について研鑽を深め、さらに火葬場の作業員となって、ここでもまた3年間、死人の骨格や体格などを詳しく調べ、人の運命との関連について研究を重ねたという。
  この修業時代に南北は、相学の淵源は仙術にありとの思いから、仙師を求めて深山幽谷に分け入ったりしている。そして25歳の時、奥州の金華山山中でようやく求める仙人と出会うことが叶い、100日間に及んで相法の奥義を伝授されているのだ。
  この仙師は、「これすなわち相法の奥秘にして寿を保つの法なり。たとえ俗人といえどもこの法を行なう時は寿命百歳に至りなお天気に至ること自らやすし」と教えたという。
  仙道には、食について厳格な規則がある。その理想とするところは、不老不死である。相法の奥義も、病まず弱らない体のまま長寿を全うすることにあるとすれば、「運命(長寿)」と「食」とを関連づける両者の接点は大いにあると考えられる。
  さらに南北は後年、そのことを確信させる神秘な体験をしている。
  おそらく50歳頃のことであったと思われるが、彼が伊勢神宮へ赴き、五十鈴川で21日間の断食と水ごりの行を行なった際、豊受大神の祀られている外宮で、「人の運は食にあり」との啓示を受けるのである。
  豊受大神は、五穀をはじめとする一切の食物の神で、天照大神の食事を司ると言われる。
  南北は、「我れ衆人のために食を節す」という決意のもとに、生涯粗食を貫いた。その食事の内容とは、主食は麦飯で、副食は一汁一菜であった。米は一切口にせず、餅さえも食べなかった。また若い頃はあれだけ好きだった酒も、1日1合と決めて、けっしてそれ以上は飲まなかったという。
  このような食生活を、盆も正月もなく続けたのである。南北はひどい凶相で、短命の相の持ち主であり、長生きしたり成功する相などは持ち合わせていなかった。しかし、食を慎んだことで運が開け、健康のまま78歳まで生き、大きな財を成したのである。
  水野南北による「幸運を招来する法」とは、一言で言えば食の節制である。次にその要点を現代語訳したものの一部を挙げてみる。(佐伯マオ著・徳間書店刊『偉人・天才たちの食卓』所収)

 ● 食事の量が少ない者は、人相が不吉な相であっても、運勢は吉で、それなりに恵まれ
   た人生を送り、早死にしない。特に晩年は吉。
 ● 食事が常に適量を超えている者は、人相学上からみると吉相であっても、物事が調い
   にくい。手がもつれたり、生涯心労が絶えないなどして、晩年は凶。
 ● 常に大食・暴食の者は、たとえ人相は良くても運勢は一定しない。もしその人が貧乏で
   あればますます困窮し、財産家であっても家を傾ける。大食・暴飲して人相も凶であれ
   ば、死後入るべき棺もないほど落ちぶれる。
 ● 常に身のほど以上の美食をしている者は、たとえ人相が吉であっても運勢は凶。美食を
   慎まなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人で美食する者
   は、働いても働いても楽にならず、一生苦労する。
 ● 常に自分の生活水準より低い程度の粗食をしている者は、人相が貧相であっても、い
   ずれは財産を形成して長寿を得、晩年は楽になる。
 ● 食事時間が不規則な者は、吉相でも凶。
 ● 少食の者には死病の苦しみや長患いがない。
 ● 怠け者でずるく、酒肉を楽しんで精進しない者には成功はない。成功・発展しようと思う
   ならば、自分が望むところの一業をきわめて、毎日の食事を厳重に節制し、大願成就ま
   で美食を慎み、自分の仕事を楽しみに変える時には自然に成功するであろう。食を楽し
   むというような根性では成功は望めない。
 ● 人格は飲食の慎みによって決まる。
 ● 酒肉を多く食べて太っている者は、生涯出世栄達なし。

  また南北は、「運が悪くて難儀ばかりしているが、神に祈れば運が開くでしょうか」という質問に対して、こう答えている。

  真心をこめて祈らなければ、神は感知してくれない。真心をもって祈るとは、自分の命を神に献じることである。そして食は、自分の命を養う基本である。これを神に献じるということは、自分の命を献じるのと同じことである。
  どうするかというと、いつもご飯を3膳食べる人なら、2膳だけにしておいて、1膳を神に献じる。といっても本当に1膳分を神棚なら神棚にお供えする必要はなく、心の中で念じればよい。自分が祈りを捧げたい神仏を思い浮かべて、その神仏に向かって『3膳の食のうち1膳を捧げ奉ります』という。そうして自分で2膳を食べると、その1膳は神仏が受け取ってくれる。(中略)
  そうすれば、どんな願いごとでも叶えられる。小さい願いごとなら1年で、普通の願いごとなら3年、そして大望は10年で叶うのである。

  また、食の面以外にも、強運をもたらす秘訣として――、

 ● 毎朝、昇る太陽を拝む。
 ● 朝は早く起床し、夜は速めに就寝する。
 ● 夜に仕事をすることは大凶。
 ● 衣服や住まいも贅沢すぎるものは大凶。
 ● 倹約は吉であるが、ケチは凶。

  ――などといったことも挙げられている。
  南北の説いたこのような観相学の要諦は、岡本天明が書記した「日月神示」に示された開運の法とも酷似しているのである。

【食は命なり】~ 水野南北(江戸中期の観相学の大家)
         (1760~1834)
彼は、『食は命なり』 という名言を残しています。
「飲食により、人間の運命が変わる」
という意味です。


水野南北の経歴は それだけでも 数奇な人生です。

両親を早く失い 
子供の頃より 盗み 酒を覚え
長ずるに 酒と博打と 喧嘩に明け暮れ
18歳の時、酒代ほしさに 押し込み強盗をしでかし
とうとう 牢屋に 入れられました。
ところが これが 観相学への第一歩となったのです。

南北は 牢屋の中で
罪人たちの顔を まじまじと 観察して
ある事実に 気付きます。

それは 
「人の顔には それぞれ相がある」
ということでした。

入牢している 罪人たちの顔と
娑婆に過ごす 一般人の顔とでは、
その特徴に 著しい相違が ありました。

この時点から 南北は
観相学に 興味を持つ様に なります。

出牢後、大道易者に
「剣難の相がある。1年は生きられない
    死相が出ている」と告げられ
その災いから逃れるため 禅寺へ行き、出家を願い出ます。

住職に
「1年間、米飯を口にせず、
  麦と大豆のみで過せたら入門を許す」と言われ、
南北は 生命の危機の恐怖から
好きな酒も ぷっつりと絶ち
麦と豆を常食にし、川仲仕をして暮らします。

1年後、易者と再会し
「不思議だ!剣難の相が消えている!!
 何か大きな功徳を積まなかったか」と聞かれ
別に 何もしなかったが
食事を 麦と豆だけにしたことを言うと、

「食を節することは 天地に陰徳を積むことであり
 それにより 知らず知らずに 天録が書き換えられ
 相まで変わったのだ」と教えられました。

これが契機となり 観相学に興味を持ち、その道を志します。
まず3年間、散髪屋の小僧になって 頭の相を研究。
次の3年間、風呂屋の三助をして 裸体を観察。
これで 生きている人間は 「よし、解った」と。

さらに3年間、
火葬場の隠亡(おんぼう・・・死体を処理する人)をして
死者の骨相や 死因がわかっている死体を観察。
これ以降も 研究を積み重ね 学究の徒と 化していく。

神道や 仏教から始まり、儒教、史書、易まで網羅する。
南北の名である 南と北は 火と水であり
陰陽 すなわち「易」である。

しかし そこまで研鑚を 積み重ねても
従来の観相学では 百発百中とはいえず 悩んだ末に
伊勢の五十鈴川で 断食水行50日の荒行を行い
断食を続けるのさなか 天啓が訪れる。

『食は命なり!』~「人の命運は総て食にあり」
南北は喝破した。

水野南北が言うには運のいい人に共通している特色があるということです。
死体を切り開いて、運の悪い人は内臓とくに胃や腸の中の色やツヤ、
残存物が悪いことを発見したのです。
このことから彼は「運は食なり」という結論にたどりついたのです。
食べるものが偏っている人は運も悪いというのです。

さらに食事の量を見ると、その人の性格や運がわかるとさえいっています。
食事量の少ない人は、たとえ人相が悪く見えても福相で長命型が多い。
人間の欲望の中でいちばん強いものは「食べる」という欲望です。
その「食べる」欲望をどのようにコントロールするかが、
大切だということを説明されていたようです。

美味大食を戒め「慎食延命法」を説くに至る。
以後、観相にあたっては
必ず詳細に その人の食生活を聞いて 占断を下し
外れることが なかったという。

また凶相の者でも 食生活を改善することにより
運を変えることが 出来るとし
『南北相法極意』を執筆、
後『相法修身録』と改題し 刊行され 広く世に知られた。

結論として
水野南北の教えの要点は、
いかなる良相・吉運・健康な人であっても
常に美食をし、十二分に食事をしたならば
悪相となり 凶運短命となる。

如何なる悪相・凶運・病弱の人でも
口にする物を節し 食事を腹八分目にする人は
良運となり 健康長命となる、という事です。

歴史上の少食の達人

少食の達人とも言うべき歴史上の人物が、数多く存在します。
彼らの中には食べようと思えば食べられた身分であったにもかかわらず、
あえて少食をつらぬく者も少なからずいました。

例えば、権力者の中で少食・粗食を実践していたことで有名なのは、

徳川家康です。

戦国時代すでに白米は登場しており、
庶民にはほど遠くても身分の高い者は口にすることができたにもかかわらず、
徳川家康は決して白米を食べようとしませんでした。日常食は麦飯と、野菜、小魚のおかずの一汁一菜でした。

同じ時期、戦国武将の中でも武田信玄、上杉謙信らもまた、食を慎んだことで知られています。

藩の財政再建に貢献した上杉鷹山は、一日三食一汁一菜かそれより少ない粥と漬物という食事を、生涯にわたって続けました。

徳川光圀の食事は、ほとんどが一汁ニ菜で、たまに一汁三菜。

八代将軍徳川吉宗は、一日二食の一汁三菜。

ここにあげた人物たちは、少食だったからといって短命だったかというと決してそうではありません。
武士階級は質素を旨にしていたとはいえ、彼らが自ら少食を選んで実践するには、何か意図するところがあったのでしょう。

法相修身禄より(水野南北)
人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、
食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。

★食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。
古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、
その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。

みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。
生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。
食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、
ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。

★三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。
いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。

★いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。
その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。
まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。

★大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、
酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。

★子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。
子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。
子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。
もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。
悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。

世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、
これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。

★仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。
なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。
不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。

★千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。
また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。
食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。

水野南北(その他のエピソード)

◆南北は人相観に似合わぬ悪相で
あったため、地方などへ行った際、
偽物と間違われることがしばしばあった。
そのため自分の人相書を、門人に
画かせ、それに身体の特徴を記入して
持ち歩いていた。
この肖像画は『南北相法極意抜粋』に
載せられていたものである。

『浪速の相聖 水野南北とその思想』
牧野正恭・田中一郎著 大阪春秋社より

■江戸時代の中期に活躍した人相、手相の研究家である水野南北は、
日本の人相、手相占いの元祖ともいわれている運命学者です。
彼の著書である『南北相法』は占い師の古典とされており、
占いを志すものが必ず目を通さねばならない本とされています。

水野南北流の運命判断法が考案され、やがてその弟子が日本各地に三千人を
超えるほどの運命学者となっていったのです。

水野南北は人相や手相に関するさまざまな判断法を考案し、
その「相法」を弟子たちに教えるとともに、占い師としての生活の戒めを書き残したり、言い伝えています。
水野南北の占いが300年近くもの長い年月の間受け継がれているのも、
彼のこの占い師としての生活の戒めの効果が大きかったと思われます。

水野南北の家憲として残されているものの中に次のようなものがあります。
「人の貴くなること、また賤(いや)しくなることは、みな飲食のつつしみにあるべし」

■南北自身は『相法早引』の序文に、真言の高僧 海常律師により改心し相法を学び、
師の俗姓「水野」の名字を許されたと述べている。(不思議にも南北の父も水野姓)
海常律師から中国渡来の相書『神相全編』を学んだのち、実地に観相して修行する
ため諸国を遊歴し、相法を確立する。

三十歳ごろ京にて観相家の看板を掲げ、『南北相法』や入門書ともいえる『相法早引』
などを出版、相法家として名声を博し、全国に多くの門人を持つにいたる。

享和3年(1803)、恩師 海常師の追善供養のため『相法早引』1千部を無料で施本し、
そのことにより慈雲尊者から居士号を授けられた。
しかし従来の観相では百発百中とはいえず、悩んだ末、伊勢の五十鈴川で断食水行
50日の荒行を行い「人の命運は総て食にあり」と悟り、美味大食を戒め「慎食延命法」を説くに至る。

以後、観相にあたり詳細にその人の食生活を聞き占断を下し外れることがなかった。
また凶相の者でも、食生活を改善することにより運を変えることが出来るとし、
『南北  相法極意』を執筆、 後『相法修身録』と改題し刊行され広く世に知られた。

南北の慎食説に傾倒して夭折の相を変えた門人に、大坂 道修町の薬種商 三代目小西喜兵衛がある。
彼は、幼少より身体虚弱で三十歳まで生きられないと言われていたが、若い時から
養生に努め、宴会も極力辞退、早退するほどであった。

五十歳の時に南北と出会い感銘を受け、生涯の師と仰ぎ、八十余歳まで長命する。

また、自分の持ち家を南北の大坂での住まいに提供し、南北の『安心辧論』を基に、
文政8年(1825) 『安心辧論要決』を自費出版、無料施本した。
この施本は、代々の小西喜兵衛が継承し、昭和8年には南北の百回忌の事業として
六代目 小西喜兵衛により活版印刷に改め、施本が行われた。
水野南北は天保5年(1834)、道修町の小西家 奥座敷で亡くなった。享年七十五歳。

食事に関して(その他)
お昼を食べすぎないように

ある大学の研究により発見された。
仕事中お昼を簡単に取る人はお昼を豊富にとる人より仕事の効率が高い。
研究で、人はお昼を食べ過ぎると、午後仕事をするときに、糖分、脂肪、食物の栄養を消化するため、
頭部から体の血液と酸素を体のほかの部位に行く。この過程は2時間続く。
体のエネルギーの大部分を消化のために使われので、お昼後1時間-2時間の間に、問題の解決や結論を出すのはよくない。
というのは頭部にエネルギーが行っていないから。

水野南北略伝

 水野南北の先祖は遠く人皇三十代敏達天皇にさかのぼり、その家系である小野家からは小野篁、小野道風、小野小町などが出ている。小野妹子から数えて六十七代目が小野文章で、水野南北の父である。南北の代に水野姓に変り、名は勝三郎忠良。
 小野文章は、大阪の浄瑠璃小屋阿波座で芝居の脚本を書いていた座付作者であったが、南北が幼ないころ他界し、*孤児となった南北は、鍛冶屋だった叔父のもとにひきとられ幼名を鍵屋熊太といっていた。
 〔注〕*釈尊は叔母に育てられ、イエス・キリストは養父に育てられ、マホメットも孤児であった。その他偉大な哲学者のほとんどが家庭的には恵まれていない。
 熊太は十歳のころから飲酒をはじめ、喧嘩口論で生傷が絶えなかったという。十八歳のころ、酒代を稼ぐため犯罪を犯し、入牢したが、牢内で囚人と娑婆の人間とのあいだの人相に、きわだった差異のあることを発見し、観相に興味をもった。
 出獄後、巷の易者に自分の相を観てもらったところ、剣難の相とあと一年の寿命を予言され、避難の方法は出家にあり、と教えられた。禅寺を訪れて弟子入りを志願した熊太に、住職はことわるつもりで、一年間、麦と大豆だけの食事を続けてきたら入門させようと約束した。
 熊太は命惜しさの一念で沖仲仕をして暮しながら、麦と大豆を常食にして一年を送り、禅寺を訪れるまえに、くだんの易者に会うと、「剣難の相が消えた。なにか大きな功徳(くどく)を積んだにちがいない」とおどろき、熊太が食生活を改善したいきさつを話すと、「それが陰徳を積み、相まで変えたのだ」と自信をつけられた。そこで熊太は禅門に入るよりも観相家を志すべきだとして、諸国遍歴の旅へ出た。
 南北が相学を志したのは二十一歳のころといわれ、人間の全身の相を学ぶために湯屋の三助となったり、死人の相をたしかめるため火葬場の隠亡(おんぼう)にまでなったという。南北の観相法は顔や手を見るだけでなく*全身を裸にしたといわれるが、これはそのころの修業の成果であろう。
 〔注〕*中国医学の診断法も全身を裸にしたという。その診断法を四診という。
 (1) 望診……神色・舌診・部分望診(2) 聞診……音声・気味(口気・汗気等)(3) 問診……家族歴・既応症・起病理症(4) 功診……脈診・按診(腹診・肌表・手足・胸腹・額部・臓穴)
 しかし、従来の相学では百発百中というわけにはいかず、悩んだすえに伊勢皇大神宮に参詣し、断食・水ごりの荒行を修めた結果、「人の運は食にあり」という真理に想い到るのである。それには、伊勢外宮の祭神が豊受姫命(別名・御食津神)という、五穀や一切の食物をつかさどる神体であったことも手伝っている。
 そして名古屋の宮宿、熱田神宮の近くに居を構え、観相家として一家をなし、晩年は皇室のひいきを受け、光格天皇の時代に、従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」および「日本中祖」の号をおくられたという。
 また、南北という号も、
 「相法に於て日本中祖の号を賜う。天命を恐れ、家名は我れ一代かぎり、子孫にこの相法を伝えず、門人に免ず」
 としるしているように、法統を重視したといわれる。
 *南北自身の相貌は(「背は低く顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく落ち込み、印堂は狭く眉は薄い。家続も狭く鼻は低く、顎骨は高く歯は短かく小さい、また足も小さい」とみずから書いているように貧相であるが、「人の運は食にあり」の大悟によって、「我れ衆人のために食を節す」と、一日に麦一合五勺、酒一合、米のものは餅すら食さず、副食は一汁一菜と食を慎しんだ結果、晩年は屋敷一丁四方倉七棟に及ぶ産をたしたという。
 〔注〕*南北自身の人相所見=(1) 小さな口…愛情に欠ける(2) 背が低い…愛情に欠ける(3) 眼がけわしい…犯罪者(4) 眼がくぽむ…ひっこみ思案(5) 印堂がせまい…精神不安定(6) 眉がうすい…兄弟運がない・短命(7) 鼻がひくい…貧乏・短命(8) 歯が小さい…貧乏・短命(9) 足が小さい…賎しい・不健康。
 南北の相法は*「血色気色流年法」という独特のもので、従来の宿命論的観相法を打ち破り、いかなる運命の星の下にある人も、神仏を崇敬し、修身努力すれば、宿命を転換できると説いた画期的なものである。
 〔注〕*流年法とは、正確には「百歳運気流年法」といい、一歳から百歳までのうち何歳で運気が終り(死ぬ)となるかを論ずる観相法のこと。現代中国ではこの流年法が全盛である。水野南北の相法は日本においては独特であろうが、中国では珍らしくない。
 南北いわく「天地自然の相を得ざる相者は我を見ること能わず。我を見ることを得ずして書を見るときは、その書我にありてその用をなさず、これ書を見ざるが如し。故に相者はまず我を知りて後人を相するが肝要である。人相、家相よくとも其家主、意定まらず、そのいとなみおこたる時は必ず家を破る」
 これが南北の相学ないし人生哲学の要諦なのである。
 南北の生年は宝暦七年(一七五七年)、没年は天保五年十一月十一日。享年七十八歳。
 著書に、「南北相法十巻」「相法和解二巻」「秘伝華一巻」「修身録四巻」「皆帰玄論」「神相全篇精理解」「燕山相法」「相法対易弁論」各一巻(そのうち後の四書は未刊)など。また南北伝に『浪速人傑談』(安政二年、政田義彦著)がある。




▼相法極意抜粋跋

 先生の人を相するや肢体容貌を相せず、先ずその食を相す。先ずその食を相し而して後一心の善否得失、一世の浮顕沈隠を相す。件々一毫を失わず、なお止水影を照し、妍醜局別し、耋穉(てっち)を格断するが如し。夫れ食は天也、人にして一日この食を食せずば何んぞよくその天年を全からしめんや、蓋し食の多少を以て世の行芸を律するは先人未発の論なり、余また古語を今に徴すべきもの一二を集めて付す。尚雲顧君子の心得、躬行は日ならずして先生の徴する処を徴す
 (湖南宗清謹跋)。
 【注解】これは巻末に付せられた、弟子の手になるものと思われる跋文であるが、水野南北の観相法の真骨頂を簡潔にまとめている。すなわち、南北が観相するとき、世間の観相家がするように肢体容貌を相することは一切しなかった。その食事の作法や分量をたずねるだけで、その人の利害得失や一生の運命をト(うらな)って、一度も当たらなかったことがないという。この食の多少をもって人間の運命を占ない、その行動の全体の基準にするという発想は、前人未踏の分野であると讃嘆しているわけである。
 易やト占の思想は、人間の運命が移ろいやすく易(かわ)りやすいことに根ざしてはいるものの、決定論的であり宿命論的に過ぎるきらいがある。しかし水野南北は、「天」という他力を認めながらも、「慎しみ」という自力によって宿命を変えられることを発見した点で、他力本願を喝破して、自他の二力による救済を唱えた、その世界における革命児であったといえる。
 中国に「医食同源」ということばがあり、*「食(じき)は医なり」という格言もある。
 *中国医学でいう食医に次の二義がある。(1) 食は、医なり。(2) 食事で病気を治す医者。つまり、(A) 疾医(内科医)、(B) 傷医(外科医)、(C) 帯下医(産婦人科医)、(D) 獣医、(E) 食医
 ――で、以上の医者のうち、食医が最尚の位にあった。
 水野南北の思想は「食宗同源」または「食は宗教なり」ともいうべきもので、生命や宇宙を一個の総合的存在と洞察した点で、すぐれた哲学者、宗教者の横顔すらみせてくれる。(玉井禮一郎)



監注者のことば  松原日治

 世の中には色々な健康法がある。しかし、ものに動じない玉井さんの心をゆさぶるものは少ないはずだ。ところが水野南北の修身録はその玉井さんをうならせた逸品である。すばらしい健康法であるといえよう。
 さて健康法というと仏教に関係あるものが多い。まず漢方薬だが、素問(そもん)の異法方宜論(いほうほうぎろん)で「●石(へんせき。石偏に乏)は東方より来り、毒薬は西方、灸は北方、九鍼(くしん)は南方より来る」と、インドから渡ってきたものだと記されている。その漢方の根本理論である、陰陽の原理(ハ・タ.ヨガ)、経絡やツボの原理(秘孔)は、有名な僧医ギバが研究して発表したみであり、この流れをうけつぐインド拳法は菩提達磨によって少林寺拳法として伝えられている。また手技療法も仏教に関係が深い。按摩・指圧・導引などは経典にしばしば登場するし、最近馬王堆(まおうたい)で発見された導引図によると、各種の手技療法は紀元前二百年前後にインドより中国に渡ったことが証明されている。
 食事による治病法あるいは健度法も釈尊のご考案である(くわしくは拙著『リューマチ・神経痛が治る』〈たまいらぼ〉を参照)。
 中国でも食事による治病が古くからおこなわれていた。BC六五〇年『千金方』に食治という言葉がみられるし、七〇〇年代には『食療本草』が著わされ、一五九六年『本草綱目』十六部六十類一八九二品が季時珍によって発表され不動のものとなった。一方日本においては奈良時代に『神農本草経』十部に「食治」が初めて紹介され、江戸時代には貝原益軒の『大和本草』によってその重要性が説かれた。
 しかしこれらの食事による治療法は残念ながら、口と身体の養ないにとどまっている。ところが水野南北は、これを、口と身体と心の養ないを目的とした「修身録」にまで高めているのだから、玉井さんがうなるのも無理はない。
 水野南北は観相家であったから、現代人でその名を知っている人は少ない。しかし貝原益軒に勝るとも劣らない健康法を発表していたのである。それは個人の健康についてだけでなく・食糧危機・エネルギー危機・人口増加問題など現代がかかえる難問題すら解決できる杜会の健康法でもある。
 世の中は医学だけで解決できるものではない。たとえば江戸時代中期の漢方医和田東郭(わだとうかく)は『蕉窓雑話(しょうそうざつわ)』の中で、いかなる漢方薬方よりも厳格な食生活が大切であることを述べている。現代でもさまざまな健康法が医療不信をカバーしている。ところがその健康法を煮つめてみると、みな水野南北の指摘するところに突き当ってしまう。
 たとえば石塚左玄氏の食養論――
 一、食欲のコントロール(腹八分目医者いらず)
 二、身土不二の法則(人は住んでいる土地、その季節に生産される食物を食べるのがよいとする説)
 三、食動平衡の方則(摂取する食物の質と量は、身体の動きとつりあっていなければ健康は保てないとする説)
 などはすべて水野南北の説の亜流である。
 この石塚左玄氏の説に心酔した桜沢如一氏の食養療法は、著書三百余冊にあらわされ、世界各地にその運動を展開しているが、その内容は水野南北の説そのものである。
 西洋医学で水野南北の主張するところを支持する学者も多い。お茶の水クリニックの森下敬一医博などもそうだし、東北大学名誉教授の近藤正二医博はその長寿法で、
 (1)米の偏食・大食をやめる。(2) 肉・魚・卵また大豆を毎日食べる。(3) 野菜を多くとる。(4) 油は毎日少しずつとる。(5) 海藻類を常食する。(6) 牛乳はなるべくのむ。
 とまず第一に過食をいましめている。
 水野南北の説は実に色々な思想が混然と盛りこまれている。観相家だったのだから儒教はもちろん、仏教の精神も神道の精神もあふれている。しかし、なんといっても彼の説を決定づけたのは仙術との出会いだった。略伝では伊勢神宮で断食・水ごりの荒行の結果、自ら体得したことになっているが、本文の中では仙術の道士に教えを受けたとなっている。多分後者が正しいのだろう。いずれにしても水野南北はその仙術にすらきびしい批判を加えている。これは彼が仙術を自分のものにしきったからできることで、その点この本を読まれるみなさんも、自分なりの健康法をあみだして、きたるべき老齢化杜会、無保険医療杜会、資源不足杜会に対応できる抵抗力を養なってもらいたい。
 過去の日本がそうだったように、世界の食糧危機は必ずやってくる。その日のために私は、アワ・キビ・コーリャン・ソバ・イモ・トウモロコシなどの非常用食糧を庭で栽培し、常食している。備えあれば憂いなし。この点だけは水野南北よりすぐれていると自画自賛している。



訳者あとがき  玉井禮一郎

 この本は「腹八分に病いなし」という健康法の基本中の基本を、手をかえ品をかえ、さまざまな角度から、徹底的に、しつこいくらいくりかえしている。そのしつこさにはただならぬ気魂が感じられる。
 「仏法は道理なり」(日蓮)ということばがあるが、健康法もまた道理でなければたらない。
 道理とは自明の理であり、常識でもある。「腹八分に病いなし」という、古人が発見した道理を、キチンと守っていればもとより病気などは受付けないはずである。そういう簡単明快で、しかももっとも基本的な道理を無視して、ともすれば節度をこえた暴飲暴食に走ろうとするおのれの本能をコソトロールできないから、病いがはびこる。人間、病いを得れば、どのような強運の持主でも、その運命にかげりを生じる。
 ところがいかなる医書にも健康書にも料理書にも、「食事が運命を左右する」などということは一行も書いてない。また、人間の運命を論じる易の本や宗教書をひろげてみても、そんなことには触れていない。
 ところが、人間にとっていちばん大事たことは「生きる」ことであり、生きるためにもっとも必要なことは「食べる」ことであり、この基本中の基本、大事のなかの大事をなおざりにして、「……」健康法を追っかけたところで、あまり効果は期待できない。
 原本を活字で翻刻した人間医学杜版『南北相法極意修身録(全四巻)』の「はしがき」で大浦孝秋氏は、こう述べている。
 「水野南北が食は命なり運命なりと断じ得たことは、当時の観相家としては破天荒の考え方であったと思われる。南北が若し現代に生きていたら、今日の栄養科学を巧みにとり入れて、更に正確な運命判断を下し得たかも知れない。科学無き時代、医者でもなかった市井のいわば一介の売ト(ぼく)者が、〈食〉という本能をとらえ、その本能のつつしみと乱れが健否を左右し、心身の健否は精神と肉体を、よい方にも悪い方にも持ってゆく、それが即ち運命をつくる根元であると考えついたことは、余程の卓見である。〈中略〉古今医統に曰く(百病のくるしみは多く飲食にあり、飲食の患は色慾に過ぎたり、色慾は断つとも飲食は半日も断つべからず)と、話は少し極端ではあるが、食こそ生命の基本とすれば、生命の発展的活動が強弱正邪に岐れて、人の運命を左右することは当然といわねばならぬ。本書をひもとく読者よ、南北は宗教家ではないが宗教精神をもち、道学者ではないが倫理道徳の道を教えようとしている。ただ文字が足らず、表現が拙いために、その精神を掴み得ないことがある。この点、読む方で斟酌し心読熟慮されたい〈後略〉」
 人間医学杜版では、原文それ自体のもつ時代の味を生かすために、原文をそのまま活字に組んである。そこで私としては、さらに一歩を進めて現代語に訳し、不明瞭な部分は削除した。
 監修・注解は、群馬県境町の無宗派平等山福祉寺住職松原日治師にお願いした。師は中医学(漢方)、易などに造詣が深く、その関係の著書もいくつかある適任者である。
 貝原益軒の『養生訓』は有名であるが、水野南北の『修身録』は、食を形而下の次元にとどめず、運命という形而上学に結びつけ、人問を総合的にとらえている点で卓越しているにもかかわらず、意外に世に知られていたいのはもったいない。これからのあるべき医学や健康法、そして人間そのものを示唆する本として、ひろく世にその存在を知らせたいものである。

水野南北の著書 『相法修身録』からの抜粋                 TOPへ戻る

水野南北の著書『相法修身録』から、重要と思われる記事を一部抜粋してあります。

○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。

○食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。

○三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。

○いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。

○大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。

○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。
 悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。

○仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。

○千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。

○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。

水野南北の教えの概要                                    目次へ戻る

○ 食がその人の分限、分より少ない人は顔かたちが少々不細工といっても吉である。 それ相応の幸運の   天分がある上に短命ということもなく、高齢になっても、なお吉がある。

○食がその人の分限、分より多いと言う人は、どれほど顔かたちがすぐれているといっても、いろいろのことす べてが備わるということもなく、その備わるべきものも、もつれることが多い。その上、一生を通して気苦労も 絶えることがなく、高齢になってから凶があるだろう。

○食がその人の分限、ほどほどに応じている者は、吉凶とも表に表れることもほどほどであって、さしたる善悪 は無い。

○ところが、いつも大飲大食をする人は、いかように顔かたちがうるわしかろうと、身分、地位、分際に不安定 が生じ、確立はむずかしく安定を得難い。貧しい者はますます困窮していく。さらにそれ相応の福ある人、豊かな人はやがて家を損するようになる。

○いつもいつも分限を超えて美味贅沢を好む人は、どのように顔かたちが立派であっても非常な凶 である。

○常々に粗食をする者は、どのようにこの上ない悪人であれ、みずぼらしい相であっても、幸福と長寿をおさめ る。 

○粗食だからといって、大いに食べるのは大凶である。

○一方、小食を日常としなければならない厳しい定めのある人が、たとえ賤しい悪相であったとしても、相当の 幸運の天分に恵まれ長寿を全うし、ほとんどのことはおおかたうまくいく。ゆえに高齢になっても吉である。  外見が弱々しそうに見えることはあっても、病の床に就くということはない。

○手当たり次第なんでもかんでもやたらと食う人は常に精神状態が穏やかでない。色々のことが乱れ調和し  ないことばかりになる。

○ 少ない食というものは婦人、女性の食である。だからたいそうに悪いことはない。

○また大いに食らうは強く勇ましい人の食といえよう。しかし強気にはみえるが多くの人の気をのがしてしまう。これは自然からの徳が薄いといえる。

○また、食を厳しく定めている人は、正しく誠意の心があるようにみえる。これはまた自然の徳といえよう。

○婦人が大いに食らうということになれば、それは夫を負かす、 しのぐと言うことになる。男の食を侮りさげす む気性にして、当然のことながら気は激しくなり夫を負かすことになる。しかし、夫の方が強ければそうした事 態は成らない。したがって禄が安らかである。

○一方、少ない食で夫を負かす女はたいがい心がねじれており、みだらでよこしまといった悪女の類といえよう 。すでに家の中が混乱していて心が乱れているときは、食そのものが乱れ、いっこうに揃わないものである。 これは災いがあっての後か、まだ何ら災いもない場合には、災い、苦しみの前兆である。

○家の後継ぎ相続すでに決まった人があると言っても、日夜美食をほこりにして何一つ慎みがなければ、その 家がやがて滅ぶ、無くなるときが来ていると知るべきだろう。若しくは家の主人が早く退くと言う前兆である。

○表にみえる物や形が厳重にみえるとはいっても、食が乱れ揃わない人は、心の中は厳重でなく只表のみ飾 り立てる人である。

○食を厳しく定めるという心が在れば、それはひとえに心が厳重と言うことである。したがって、かたちや表も  知らず知らずのうちに厳重になる。しかし、心が厳しくなくて顔ばかりが厳しい、というのであれば、これはや はり表のみを飾る人であるといえよう。

○ 一飯一菜を常食に貴人には食無く、小人に食ありという。つまり貴人は常に正しくしており、むやみと食べ ないが、小人はべらぼうに食らいながらなおその節度を知らない。これを見て次のように解釈できよう。貴人 は食してその与えられた天命を知ることができるが、小人は食して己を忘れ去り、ついには自ら善をなくして しまう。故に食の少ない人はなお貴いといえる。

○いつもいつも小食の定めのある者が、もし病みついてしまったとき食を作らないとしたら、脈や血色がすこぶ る良いといっても死なないことはない。必ずや死が訪れるものである。こうしたことは食が尽きて自然と滅ぶ ようになっている。だからさしたる罪はないし、病というほどのものもなく、困窮はさらにない。ともあれ、人々 それぞれに分限、ほどほどの食がある。 

○身分の低い者は粗末な食事、粗食をもっぱらとして一飯一菜を常食とすれば良い。

○そのうえ慎みがあって粗食を小食に定めるというのであれば、家運が長く続くということの兆しであり、自然 と家の食録をのばしていく。この様な人は、一生涯に一つの功をたてて、子々孫々にこの功を残していく。   その上長寿であり、病を患うと言うこともない。

○ 命の長短は相で定まらず。五〇歳より若い人で患い病んでいる者に、もし死相があるといっても、常に小食だけを定めれば死がやってくるとはいえない。必ずや生命が復してくる。これは病ではない、すべて行動の方角の問題である.........


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