全30件 (30件中 1-30件目)
1
副題は「生成AIが変えた世界の生き残り方」。 著者は、京都大学経営管理大学院客員教授の山本康正さん。 私は、これまでに、他のチャットボットを利用したことはありますが、 ChatGPTについては、昨年11月末に無料公開されてから、 既に1年を経過したにもかかわらず、これまで利用したことがありません。 それは、イタリアのデータ保護当局が、今年3月末にその使用を一時的に禁止したり、 日本企業の72%が、ChatGPTの業務利用禁止の方針を示したりしており(今年9月段階)、 私の勤務する職場でも同様だからです。そこで、今回本書を手にすることにしたわけですが、文章だけ読んでも、ピンとこないというのが正直なところ。生成AIのレベルが格段に向上したことや、その背景にディープラーニングがあること、関連企業間で競争が激化し、ビジネスのあり方が今後変化しそうなことは分かりましたが……パソコンやインターネット、スマホなどが初めて登場した時と同じように、やはり、実際に触れて、色々試してみないことには分からないことも多いですね。
2023.12.03
コメント(0)
著者はスウェーデンの精神科医、アンデシュ・ハンセンさん。 2016年に刊行された『一流の頭脳』が母国で大ベストセラーとなり、 それが世界的20か国で翻訳されて、多くの国で知られる存在となった。 そして、それを受け、2019年に刊行されたのが本著である。 私たちは未知の世界にいる。 人間が進化し、適応してきたのとはかけ離れた世界だ。 しかし今でも私たちは狩猟採集民の脳を持っていて、 そこらじゅうに危険を探そうとし、すぐにストレスを感じ、気が散り、 同時に複数の作業をするのが苦手だ。 デジタルな世界に生きているというのに。(p.241)これは「第10章 おわりに」の冒頭部。本著は、人間の脳や生物学的な基本的条件といった知識を深めることで、一見奇妙に見える現象を理解できるようになるため書かれた一冊。「人間の進化の見地」から、人類のデジタル世界への対応を考察していく。特に「第3章 スマホは私たちの最新ドラッグである」は、スマホを手にするすべての者が、読んでおきたい内容となっている。
2021.04.18
コメント(0)
本著の著者である新井紀子さんは、 国立情報学研究所教授で、同社会共有知研究センター長を務める方。 『AIに心は宿るのか』の著者である松原仁さんとは、 AIの未来に対する思いや考えに、少なからず隔たりがあるように感じました。 もちろん、現状認識については、ほぼ一致しているようですが。 AIはいくらそれが複雑になって、 現状より遥かに優れたディープラーニングによるソフトウェアが搭載されても、 所詮、コンピュータに過ぎません。 コンピュータは計算機ですから、できることは計算だけです。 計算するということは、認識や事実を数式に置き換えるということです。 つまり、「真の意味でのAI」が人間と同等の知能を得るには、 私たちの脳が、意識無意識を問わず認識していることをすべて 計算可能な数式に置き換えることができる、ということを意味します。 しかし、今のところ、数学で数式に置き換えることができるのは、 論理的に言えること、統計的に言えること、確率的に言えることの3つだけです。 そして、私たちの認識を、 すべて論理、統計、確率に還元することはできません。(p.164)数学者らしい、とても明快で、納得できる一文です。著者は、AIは神にはならないし、人類も滅ぼさないし、シンギュラリティも到来しないと、本著冒頭で述べています。それでも、人間の仕事の多くがAIに代替される社会は、すぐそこに迫っているのだとも。では、AIには肩代わりできない仕事、つまり、AIが苦手な仕事とは何なのか?それは、高度な読解力と常識、そして人間らしい柔軟な判断が要求される仕事。ところが、著者らが実施したRST(リーディングスキルテスト)の結果では、日本の中高生の読解力は危機的な状況にあると警告します。確かに、テストで点数が取れない生徒について、その理由を考えてみたとき、その問題で問われている内容が十分に理解できていなかったとか、知識としてしっかり定着していなかったという以前に、問題そのものが読み取れない、何を問われているか分かってないというケースは多々あります。そして、著者がRSTの結果から導き出した次の結果は、鶏が先か、卵が先かについての議論の余地はあるにせよ、確かなことでしょう。 就学補助率が高い学校ほど読解能力値の平均が低いことが分かったのです。 つまり、貧困は読解能力値にマイナスの影響を与えています。(p.227)さらに、次の一文は、新学習指導要領が目指す新しい授業のあり方に、一石を投じるものです。 答えを知っている者にとっては珍答である解答が、 それを知らなかった4人にとって、 一番確からしい解答になっていく過程に驚いたのです。 つまり、「推論」が正しくできない人ばかりが集まって グループ・ディスカッションをすると、 このような事態に陥ってしまう危険性が高いことを思い知ったのです。(p.237) 意味のあるアクティブ・ラーニングを実施できる中学校は、 少なくとも公立には存在しません。 高校でも、ごく限られた進学校だけです。(p.239)生徒たちに主体的に活動させることは、とても意義のあることです。しかし、生徒たちの自主性に任せっきりでは、良い結果にはつながりません。やはり、教師が生徒たちの実態に則して授業を上手くコントロールし、卒業までに、必要な力をしっかりとつけてやることが重要です。 AIと共存する社会で、 多くの人々がAIにはできない仕事に従事できるような能力を身につけるための 教育の喫緊の最重要課題は、中学校を卒業するまでに、 中学校の教科書を読めるようにすることです。 世の中には情報が溢れていますから、読解能力と意欲さえあれば、 いつでもどんなことでも大抵自分で勉強できます。(p.241)
2018.07.29
コメント(0)
著者は、はこだて未来大学教授の松原仁(まつばら ひとし)さん。 衆議院議員の松原仁(まつばら じん)さんとは別人です。 人工知能やゲーム情報学を専門とし、 2014年から16年には、第15代人工知能学会会長を務めた方。 本著には、第3回星新一賞応募作品である 『コンピュータが小説を書く日』が掲載されています。 これは、AI作家・有嶺雷太が生み出したものですが、 その事実を伏せ応募したところ、一次審査を通過してしまったというもの。これが、結構面白い。もちろん、突っ込みどころは色々あるのですが、それは、人間が書いた作品でも普通に起こりうること。なので、なかなかの出来と言って全く差支えのないレベルのものです。 実際の社会は、言ってみれば 「問題に対して、それなりに適切な答えを10分以内に出しなさい」 という問題の連続です。 自分単独でできようが、何かの助けを借りようが、 答えを出すことができればよい。 それが生きていく能力であり社会的適応能力だとすれば、 大学入試でも、それを問うということは自然な流れなのだと思うのです。(p.111)これは、今年2月に国民栄養賞を受賞した羽生善治竜王との対談で著者の松原さんが述べた言葉。これからの学習で重視されるのは「判断力や応用力」であって、漢字の書き取りや英語の綴りを問う入試問題に意味はあるのかと問いかけています。 アメリカのAI研究者であり、未来学者であるレイ・カーツワイルが提唱した 「シンギュラリティ(技術的特異点)」という概念は 今や多くの人に知られるようになりました。 人間が生み出したテクノロジーが、急速に進化し、 後戻りできないほどに人間の生活を変容させてしまう-。 その未来の到来をカーツワイルはシンギュラリティと呼称し、 年代を2045年と特定しています。(p.44)この世界を現代に見出すことができるのが、囲碁・将棋の世界だと著者は言います。確かに、囲碁も将棋も、人間はAIに太刀打ちできない状況になりました。そこで何が起こっているのかを知り、研究することが、今後、人間とAIが社会で共存していくために必要なのだと述べています。 AIがフレーム問題を解くというのは 「目の前の問題を、何の知識を用いて解くかを コンピュータが自力で見つけられる」ということ。 つまり未知への状況への対応という知能本来の働きを行わなければ 汎用的とは言えないのです。(p.131)ここでいう「フレーム問題」というのは、『ある行為をコンピュータにプログラムしようとした時、「その行為によって変化しないこと」をすべて記述しようとすると計算量が爆発的に増えてしまい、結果としてその行為を行うことができなくなる』という問題のこと。「必要な情報を枠(フレーム)で囲い、適切に用いる」という、人間なら大多数の人々がなんとなくうまくやっていけることが、現状のコンピュータにとっては、とてつもなく難しい。その突破口として、著者は身体という物理的限界を与えることを提唱しています。
2018.07.14
コメント(0)
著者は、慶応大学経済学部の田中准教授と 国際大学グローバル・コミュニケーション・センターの山口助教。 参考文献には、荻上チキ氏や中川淳一郎氏等の、お馴染みの著作も見られるが、 分析には、19,992人へのアンケート調査結果が用いられている。 これまで様々なメディアを通じて知らされてきた、 私たちの記憶に、今なお鮮明に残る数々の「炎上」事件について、 学術的な視点と調査方法を用いながら、研究・分析を進めており、 「研究」と銘打つに相応しい一冊となっている。 *** 以上の結果から、炎上に積極的に参加している人は、 年収が多く、ラジオやソーシャルメディアをよく利用し、 掲示板に書き込む、インターネット上でいやな思いをしたことがあり、 非難しあっても良いと考えている、 若い子持ちの男性であるといった人物像が浮かび上がってくる。(p.112)これが、19,992人へのアンケート結果から導き出された「炎上」という事象に、直接かつ積極的に関わっている人たちの特性である。著者は、これまで漠然と抱かれていたイメージと食い違う部分もあると指摘する。そして、「炎上」という現象に関する、著者の結論は次の通り。 しかし、主役となる攻撃者、 すなわち炎上事件で書き込みをする人はごく少数である。 過去1年に炎上事件への書き込んだことのある人は、 インターネットユーザーの0.5%程度にとどまる。 個別事件単位になると書き込む人は0.00X%のオーダーとなり、 人数で見ると、数千人である。 さらにこのうち大半は一人でつぶやくだけであり、 直接に当事者を攻撃してアカウント閉鎖などに追い込む人は 数人~数十人のオーダーにとどまる。 炎上事件が起こると、ネット中が批判のあらしになり、 全ユーザーから攻められているような気持になるが、 実際に騒いでいるのはごく少数である。(p.145)つまり、「炎上」は大多数の人々の意見を集約、反映した現象などでは決してなく、ごく限られた数の人たちが発生させた一現象に過ぎないということである。 問題なのは、そのようなわずかな人が、 多くの人の情報発信を委縮させるほどの、 あるいはネット上の意見分布を左右するほどの 大きな力を持ってしまったということである。(p.152)ごく限られた人たちの主張が、世間を揺るがすほどに大きく響き渡ってしまう。この現実を、私たちはしっかりと受け止める必要がある。そして、インターネットとは、そもそもどのような空間であったのかという次の事実についても、知識としてしっかりと持ち合わせておく必要がある。 すべての人に最強の発信力を与えれば濫用の恐れが出てくる。 しかし、当初のインターネットは学術ネットワークだったため、 濫用は抑制されていた。(中略) すべての人が最強の発信力を持ってもそれが濫用されなかったのは、 そこが学術ネットワークだったからである。(中略) 同じように学術ネットワークの外側の多くの人が最強の情報発信力を手にすれば、 少数ではあってもそれを濫用する特異な人が現れるのは避けられない。 炎上の真の原因はここにある。 すなわち、この学術的な、あまりに学術的なネットワークが、 少数ではあるが特異な人もいる世界全体への適用に耐えなかったこと、 ここに炎上問題の本当の原因がある。(p.179)これを受け、著者が提唱するのは、「受信と発信の分離」である。そのSNSの具体例として、「サロン型SNS」を挙げている。これについて、その賛否は意見が分かれるところであると思うが、「発信の制限」については、今後考えていかざるを得ない問題となるだろう。
2018.07.08
コメント(0)
著者は「セキュリティ集団スプラウト」。 まず、ここからよく分からない。 正式名称は「株式会社スプラウト」。 2012年創業のサイバーセキュリティ企業とのこと。 実際に執筆したのは、取締役の高野聖玄さん、 リサーチャーの岡本顕一郎さんと宍戸ラファエラさんに フリーライターの江添佳代子さん、 そして、フリーのセキュリティ研究者・西方望さん。 現在、インターネットの世界は三つに分かれている。 世界中の誰もがアクセスできる自由な空間と、 限られた一部の人だけが触れることのできる空間、 そしてサイバー犯罪者たちが跋扈する闇の空間とに。(p.20)検索エンジンで補足可能なウェブサイトを「サーフェイスウェブ」、補足できないものを「ディープウェブ」という。ただし、「ディープウェブ」も大半は、そんなに怪しげなものではない。ウェブメールやマイページ、ソーシャルメディアの非公開ページがそれ。そして、「ディープウェブ」のさらに奥底にあるのが「ダークウェブ」。そこは、専用のソフトウェアによる通信方法でないとアクセスできない。「Tor(トーア)」「I2P」「フリーネット」の三つが代表格。最も広く使われているのは「Tor」。迫害を受けている政治活動家やジャーナリストが利用していた空間が、現在では、犯罪者が群がる場となっている。世界最大のサイバー闇市場「シルクロード」が摘発されたことで、その存在が、世に広く知られることになった。闇サイトで取り扱われる商品のうち、15.4%を占めるのが麻薬関連。その他には、偽造パスポートに偽造免許証、世界各国に偽札、盗難品である貴金属、銃器に流出情報、詐欺商材、ハッキングツール、未発表の脆弱性情報、違法ポルノにサイバー攻撃や殺人依頼の請負サービスと多種多様。そこでの取引で多く用いられるのが「ビットコイン」。2009年に運用がスタートしたこの電子決済サービスは、匿名で資金のやり取りができ、さらに信頼性も高いことから、闇市場の住人に、大きなメリットをもたらしてしまった。これらの闇市場について、最新の情報を記したのが本著。インターネットの裏側に潜むものを知っておいて損はない。
2016.12.17
コメント(0)
まさに今時の一冊。 私も、こうやってパソコンの前で作業をしているとき、 ふと気になることがあったのだが、 なぜか、このことについて扱った書物は、ほとんど世間に出回っていなかった。 副題は「そのパソコン遺して逝けますか?」。 死後、自分の胸の内(パソコンの中)に秘めていたことが、 どんどん、色んな人の知るところになってしまったりしたら、 それはやはり、ちょっとどころではなく、かなり困った問題だろう。さらには、自分の中だけで完結するはずだった事柄が、自分という存在がなくなってしまうことによって、保留状態となり、それが原因で、周囲の色々な人に色々な形で迷惑をかけることになるとしたら、それも大いに困った問題だ。それらについては、第1章で7つの例が取り上げられている。故人のシークレットファイルを開けてみると、不倫の記録が出てきてしまったとか、故人が急死の当日に行っていたFXの損害が、遺族に降りかかったりとか、ネットオークションの取引が完結していなかったので、遺族が残務処理をしたりとか。そして第3章では、遺族が故人のパソコン・スマホにどのように対応すればよいかが示される。インターネットにおける預金や金融商品、通販、オークション、有料サイトを確認し、ホームページやSNS,メール、写真・住所録に外部デバイス、クラウドも確認、対処する。こうなると故人は丸裸状態で、使用者はそうなることを覚悟して使用する必要があるということ。なので第4章では、パソコン・スマホの使用者が、自分が死んだとき(丸裸にされること)に備えて、やっておくべきことが示されている。パソコン・スマホのパスワードやロックナンバー、金銭がらみのデータ、写真・住所録は、遺族が分かるよう、エンディングノートに書き残しておくようにするのだ。 繰り返しになりますが、秘密は「墓場まで持っていく」覚悟と責任がある、 というのが私の考えです。 遺された家族を傷つけることがあってはならないと思うのです。 プライベートな画像をはじめ、誰にも言えない、知られたくない秘密は、 デジタル機器内にも「遺さない」が基本です。(p.147)付録として「デジタル遺品」対策便利ツール・参考サイトも掲載されており、パソコン・スマホを使う現代人には、必読の書と言えるだろう。
2016.06.11
コメント(0)
イケダハヤトという人は、 月に40万文字を書き続け、70万回閲覧され、約50万円を稼ぐ。 早稲田の政経卒業後、大企業に就職したのに、ヘッドハンティングで退社、 さらにそこも辞めて、現在20歳代でプロのブロガーをしてる。 私も、気が向いた時に、このブログを更新しているけれど、 その目的は、あくまでも自分のための備忘録。 家の収容能力の問題で、購入した本を全て手元に置いておくことができず、 それなら、手放す前に記録を残しておこうと始めたもの。だから、書く目的は全然違うわけだけれど、結局、自分の書いた文章を、人目に晒すのは同じ。ならば、私も読む人のことを考えて書かねば、と思って本著を購入、読んでみたわけである。まず、1章「文章が残念な人の10の特徴」に書かれていることについては、普段、私が思ったり、気を付けたりしていることと大きな差異はなかった。色んな人に、数多く読んでもらおうとするなら、タイトルを工夫した方がいいのだが、主目的が、自分のための備忘録なので、敢えて書籍のタイトルのままにしているけれど。2章と3章も、書いたものを、読んでもらう上での参考になった。4章以降は、書いて儲けようとする人に向けての内容なので、私には、直接関係しない事柄だったが、興味深いものだった。私もアフェリエイトを使用しているが、これは画像を自分で用意するのが面倒だからです。
2015.10.04
コメント(0)
これまで出版されてきた数々のネット関連書物と 同じような内容だろうと思って読み始めたら、全く違った。 まさに、今年一番の衝撃の一冊。 さすが、岡田尊司さんというところか。 なぜ、この本が、もっと話題にならないのか不思議に思う。 しかし、それがマスコミの実態ということなのだろう。 スポンサーにとって不都合なこと(つまり自身の不利益に繋がること)は、 決して積極的に発信なんかしない。 *** スマホに依存するケースが急増しているが、 男性では、オンラインゲームや動画への依存が多く、 女性では、LINEやフェイスブック、ツイッターといった SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)や ソーシャル・ゲームに依存する人が多い。(p.34)まぁ、そうだろう。これぐらいなら、驚かない。 ところが、中学生もスマートフォンをもつ子が増えている。 親が子どもにスマホを買い与えるとき、 ちょっと進んだ携帯電話を与えるというくらいの感覚ではないだろうか。 だが、それはあまりにも甘い考えだ。 携帯のメール機能だけでも、はまってしまってなかなか寝ない中学生が続出した。 あらゆる情報通信機能を備えたスマートフォンは、 コンピュータと劇場と通信ネットワークとスロットマシーンが、 掌に与えられたようなものだ。 それを寝床までもっていくのは、ニューヨークのタイムズスクエアかラスベガスで、 煌々と光る電飾看板に照らされながら寝ようとしているようなものだ。(p.37)例えが、これ以上ないくらいにとても上手いが(特にスロットマシーン、ラスベガス)、実態としては、驚くようなものではなく、当たり前のことだ。それを知らないのは、逆に無知としかいいようがない。 線状体は快感の中枢であり、その領域でのドーパミンの放出増加は快感をもたらす。 人であれ、サルであれ、快感をもたらした行為を、繰り返すようになる。 それが依存を生むことにもつながっていく。 わずか50分間のゲームが、 覚醒剤の静脈注射にも匹敵する状態を脳内に引き起こしていたのである。(p.39)精神科医である筆者に脳内画像診断データを提示され、初めて読者は気付くのである。「これは、ひょっとすると凄いことになっているのではないか……」と。 重度のギャンブル依存症では、勝負に勝とうが負けようが、 変動する確率にワクワクする興奮そのものが刺激であり快感となっているのである。 依存症に陥った人の行動を周囲からみると、どうしてそんな行動に、 時間とお金と健康を無駄にしているのかと、ばかばかしく思えるに違いない。 パチンコ依存の人は、平均で年間150万円くらい損をしていると言われている。 20年続ければ、3,000万円だ。 競馬にしても、その期待値(平均的な回収率)は、0.75であり、 100円の馬券を買えば75円しか戻ってこない。 つまり、やればやるほど損が膨らむ運命にある。 それが数学的な真実であり、勝ったり負けたりしながら 最終的には負けが膨らんでいく。 だが、ギャンブル依存の人は、負けてもドーパミンが出続けてしまい、 金銭的な損得よりも、賭けること自体が報酬になっているのである。 そのことを理解すれば、損が膨らもうと賭けつづけることにも納得がゆく。(p.45)ここへ来て、スマホをスロットマシーンやラスベガスに例えた理由が見えてくる。 前述の通り、2013年5月に、アメリカ精神医学会より出された最新診断基準であるDSM-5に、 インターネット・ゲーム依存症が初めて、 「インターネットゲーム障害」として採用されたのである。 異議を唱える勢力の執拗な抵抗に遭いながらも、どうにか多数派を占め、 一定の同意をみるに至ったのである。 最初のゲーム依存の報告から、30年かかったことになる。(p.60)私も、DSM-5関連の書物は、『精神医療・診断の手引き』や 『<正常>を救え』等、何冊か読んでいたが、そのものをしっかりと読んではいないので、「インターネットゲーム障害」については、見過ごしていた。 さらに2012年から、16歳未満の児童に対して、 深夜零時から朝6時までインターネット・ゲームへのアクセスを規制している。 こうした姿勢と取り組みによって、 韓国のインターネット依存症の有病率は低下傾向にある。(p.188)韓国は、相当酷い状態だというのは知っていたが、規制により、何とか最悪の事態は食い止めたようである。 事態を重くみた中国当局は、2007年4月から、 オンラインゲーム依存防止システムを試験的に導入した。 これは、18歳未満の児童が1日に3時間以上プレイした場合は、 それまで稼いでいたクレジット(ゲームをする権利)が半分になってしまい、 5時間以上だとゼロになってしまうという仕組みである。 18歳未満の児童であるかどうかを把握するため、中国ではオンラインゲームをする場合、 本名での登録が義務付けられ、身分を証明する住民登録番号も必要となる。 こうした規制にゲーム会社も協力し、2011年から全面的に実施されている。 また、治療の面でも、中国は世界で最初にインターネット依存を臨床的な障害、 つまり病気として捉え、積極的な対策に乗り出している。 また、インターネット・ゲーム依存となった若者の治療のための 軍隊式の教育キャンプが設置され、そこで多くの若者が実際に治療を受けている。(p.189)中国でも、相当思い切ったことを実施している。まぁ、中国だから出来るのだとも、言えるかもしれないが。 繰り返すが、インターネット依存、インターネット・ゲーム依存を防ぐうえで重要なのは、 親子の関係や、それと直結する愛着の安定性である。 親子関係が不安定で、愛着も不安定な場合には、 家庭内の居場所や家族からのサポートが乏しくなるだけでなく、 家庭外での対人関係にも問題を抱えやすく、 インターネットやゲームの世界にしか逃げ場所が見出せなくなってしまう。(p.210)岡田さんの近著には「愛着」や「家族関係」に関するものが多く見られるが、本著では、それらが見事に一体となって、融合している感じがした。 依存が重度で理性的なコントロールがまったく利かないケースや、 発達に課題を抱えているようなケースでは、 無理に取り上げるとパニックになり、危険な行動を誘発しやすい。 こうした対応は、お勧めしない。 むしろ、依存するという行為には、 そうせざるを得ない理由があるのだと理解した方が良い。(p.230)そして、どのように治療しサポートするかを、豊富な症例を交えながら、段階的に説明している。この部分は、まさに臨床の精神科医にしか書けない部分であり、本著のクライマックスである。(1)関係を作り、安心感を取り戻す段階(2)自覚を芽生えさせる段階(3)背景にある問題を吐露し、整理する段階(4)変化への決意を引き出す段階(5)決意を行動に移す段階(6)現実の活動をサポートする段階親子関係や家庭外での対人関係に問題を抱えている人たちはとても多い。そして、その逃げ場所にインターネットやゲームの世界はなっている。巻末の「インターネット・ゲーム依存症 チェックリスト」では当てはまらなくても、「スマートフォン(スマホ)依存症 チェックリスト」で当てはまる人は、相当数いるだろう。 一旦依存症になると、そこから得られる報酬によってだけでなく、 やらないと生じる離脱症状によって、文字通りにやめることを困難にする。 飴と鞭で二重に縛られてしまうのだ。 それが、「デジタル・ヘロイン」と呼ばれるゆえんだ。(p.282)「デジタル・ヘロイン」何とも物騒な言葉だが、これがもっと世間に認知される必要がある。 韓国、中国、タイ、ベトナムでは、すでに児童の利用には一定の規制が行われ、 効果を上げている。 一方日本は、対応の遅れから、 小学生にまでインターネット・ゲーム依存が広がっている状況だ。 阿片が蔓延し亡国の道を歩んだ清朝中国の二の舞にならないためにも、 国が主体性をもって国民の未来を守るという姿勢を、 危機感を持った決意と行動で示して欲しいものである。(p.286)この筆者の叫びにも似た警告の言葉を、日本に住む住民は、きちんと受け止めることが出来るのだろうか。それなしには、決して国は動かない。
2015.07.26
コメント(0)
私自身は、そこそこのゲーマーである。 パソコンも使えば、DSやプレステも扱う(WiiやPSPは持ってない)。 DSで「ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー」をやった時には、 「魅惑のメタルエリア」でレベル上げに励み過ぎ、一気に視力低下の経験を持つ。 それ以降さすがに懲りて、少しばかり距離をおいていたのだが、 結局、先日も「ドラクエ9」をクリアしてしまった。 それでも、これまでならクリア後の世界も、行ける所までとことん行ってたが、 今回は、クリア後に即終了!!(それでも約30時間を費やした)そんな私にとって、「オンラインゲーム」は未知の世界。なぜ、そこに足を踏み入れなかったのかというと、経済的な理由と、あとは自分の都合でゲームを始めたり、終わることができないこと。要は、機械相手じゃなくて、人間相手になってしまうから、少々面倒。なぜ、そんなことに拘るかというと、HPやブログの管理・運営を通じて、これまでに色々と経験させてもらってきたから。「人との繋がり」が出来てしまうと、やっぱりそれを良い状態で保持しようとするし、そのための義務感を感じだすと、時間も体力も本当に無理を重ねてしまうと知ったから。だから、現在の私は、ブログでも割と勝手気ままなマイペース。どっぷり浸かって、無理に人の輪を広げようなどとは思わない。そこであんまり一生懸命になり過ぎると疲れてしまうし、時間が飛ぶように消費されていって、本業に差し支えるから。そして本著を読んで、やっぱり「ネット・ゲーム」は踏み込むべき世界でなかったと再確認。 ゲームにはまっていく途中から、 他の仲間への優越感よりも義務感ができていった。(p.118)おお、やっぱり、そうなんだな。 ネットゲームにはまらない方法って、ありますか? 「やらないことです」(p.189)それ以外にはないんじゃないかという、明快なお答え。 半永久的で、底なし沼のようなネットゲーム。 好きであればあるほど、終わらせたくないという気持ちが生まれるというのだ。(中略) 「終わりがないというのが、逆に魅力なんじゃないかなとも思います」と洋平が指摘すれば、 「最大の魅力でもあり、最大の落とし穴でもある」と洋二がまとめる。 ゲーマーにはゲーマーにしか通じない言葉を持っているというが、 彼らは、二人で共通の感覚を共有しているに違いなかった。(p.214)これは、私にもよく分かる。ネットゲームだけじゃなくて、ドラクエなんかのRPGでもそういう作りになっている。本編はクリアしても、その後の世界でやるべきことは、嫌と言うほどあるのだ。そういう意味で、私の今回のドラクエ9における態度は、一皮むけたものと言えるかも。 ゲーム産業に携わっているビジネスパーソンが、このようなインタビューを読むと、 初めからネットゲーム否定ありきで本書が構成されていると疑うかもしれない。 しかし、ぼくが実際に会ったハードゲーマーのほとんどが、 子どもたちへの影響を心配していた。 それは原体験からくる直感的な恐れであった。 ハードゲーマーであればあるほど、一言こんな前おきをした。 「ゲームばっかりやってきた僕が言うのは変ですが……」 「こんな私が言うのは、おかしいんですけど……」 「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが……」 そう断って、反省とともに自戒ともとれる警鐘を鳴らした。 彼らは異口同音にこう語った。 「自分が親だったら、子どもには、やらせない」(p.192)韓国の状況は、日本よりスゴイらしい。そのため、夜10時から朝の6時まで、ゲーム会社が青少年にオンラインゲームを供給しないシャットダウン制というものを作ろうとしているらしい。韓国のほとんどの親は、この導入を歓迎しているとか。 人類はゲームを創造した。 ゲームの面白さを知った以上、もう誰も後戻りはできないのだ。 では、後は何ができるのか? それは、雀院長の言葉を借りるならば、「ゲーム時間を減らすこと」 それしかないのかもしれない。(p.201)日本では「ゲーム」を「ケータイ」に入れ替えれば、ちょうどそういう状況だ。
2009.08.13
コメント(0)
今からちょうど一年ほど前、『ネットいじめ』を読んだ。 それは、当時世間を大いに騒がせていた現象であり、 それ故、多数の関連書籍が発行されることになった。 それらの中で、私の一番のお勧めが『ネットいじめ』だった。 そして今回、同じ著者による『ウェブ炎上』を読んだ。 期待に違わず、本著の出来も素晴らしい。 先日読んだ『ウェブはバカと暇人のもの 』にも重複する部分があるが、 本著の方がより冷静で、学術的なものを感じさせてくれ、好感が持てた。さて、本著の中には様々なキーワードが登場するが、その中でも、最も重要だと思われるのが「サイバーカスケード」。この言葉を、本著では、こんな風に説明している。 アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンが 『インターネットは民主主義の敵か』の中で提唱した概念で、 サイバースペースにおいて各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、 特定の-たいていは極端な-言説パターン、行動パターンに 集団として流れていく現象のことを指します。(p.034)次は、コメントスクラム。 コメントスクラムは炎上と非常に似た概念ですが、 小倉は掲示板など公的な場所で起こるものを「炎上」、 ブログなどの私的な場所で起こるものを「コメントスクラム」と区別しています。 ただし、サイトの性質を私的か公的かで明確に区別することは難しいでしょうから、 この言葉はむしろ「コメントがスクラムを組んで押し寄せる」という 現象のみを表現するものとして使用した方が便利です。(p.040)これらのキーワードをあらかじめ説明した上で、著者は、それらに関わるウェブの特徴について述べていく。まずは「匿名性」について。 そして何より匿名であることで、 軽率な発言によってネガティブな反応が返ってくるというリスクへの備えが甘くなり、 「不用意な発言」をしやすくなります。(p.077)続いて「つながり」について。 ただし、「これまでつながっていなかったものがつなげられる」ことによって、 「出会いたかった人」だけでなく、それまで「出会うはずのなかった人」や 「出会いたくなかった人」とつながることも起こります。 通常であれば自分の前では囁かれないようなたぐいの陰口を耳にすることだってあるでしょうし、 聞かれたくない人に相談事を聞かれてしまうかもしれません。(中略) このようにウェブ上では、場所や時間による棲み分けのルールが変わることで、 「もともと届くはずのなかった人」にメッセージが届く、ということが起こりえます。(p.106)そして、「可視化」について。 空間も時間も超えてすべてをつなげていくウェブにおいては、 異なる文脈へと接続しやすいために誤配が生じやすく、またそれが可視化されやすい。 まったく異なる文脈同士を接続してしまうため「約束事」のあり方が変容し、 その一方で誤配の痕跡がいつまでもウェブ上に残ってしまう (たとえブログが閉鎖したとしても、キャッシュ=断片としてウェブに保存され続ける)。(p.110)このような特徴を背景としながら、ウェブ上には様々な情報が飛び交うことになる。そして、そこで飛び交う情報・発言がどれほど広まるかは、次のようにして決まる。 こうしてオルポートとポストマンは 「流言の量は問題の重要性と状況のあいまいさの積に比例する」という有名な公式を提示します。 ウワサやデマの流通は、その重要さと曖昧さとのかけ算によって決まるので、 流言が重要なものでないか、はっきりとした情報が得られている場合には広がりません。(p.122)その情報の持つ「重要さ」と「曖昧さ」。この二つが、大きければ大きいほど、ウェブ上でより多くの様々な情報が飛び交うことになる。そして、それらの情報は、次のように集約され、大きなうねりとなって、時として、ある特定の個人やサイトを襲い、呑みこんでいく。 人が自らに必要な情報を収集していった結果、 各人が自らにとって必要な情報=都合のよい世界観に飛びついてしまうことで、 特定の極端化された言説に集団でなだれ込んでしまうこと。 自らの世界観を満たしてくれるような言説が存在しない場合、 自ら情報の発信者となってデマの補強に加担してしまうこと。 「ヒミツの大計画」のようなデマへのカスケードは、 そのメカニズムを顕著に反映しています。(p.130) ***「自らにとって必要な情報」というのは、自らにとって「都合のよい世界観」を補強するのに役立つものである。そして、より強く「自分にとって都合のよい世界観」を補強してくれる情報が有り難い。それ故、出来るだけ極端で強力な情報の方が、より有り難く感じられるのである。そして、これまで現実世界ではそう簡単に出会えなかったそれらの情報に、ウェブ上では、出会える機会が驚異的に増加した。しかも、そこは匿名性が強いため、期待以上に極端で強力な情報に満ち溢れている。それらの極端な情報が、さらに極端な情報を呼び、よりパワーを増していく。「出会わなくてもいい人」と出会わずに済むような「棲み分け」が、ウェブ上で可能だろうか?そして、そこで「目にすることが出来るもの」を、せめて現実社会レベル程度の慎み深さがあるものに、コントロールすることは可能だろうか?全ては、そこに集う人、そしてその人たちが、そこでどう振る舞うかにかかっている。
2009.08.02
コメント(0)
本屋さんで見かけて手に取り、 「はじめに」を斜め読みしてみると、なかなか面白い! でもその時は、手持ちの荷物を増やせない状況だったので、 帰宅してからネットで注文(本屋さん、いつも御免なさい……)。 読み進めると、頷ける部分がたくさん。 付箋の数は、軽く10枚を突破。 全245ページの新書でこの数字は、私にすればかなり多い方。 例えば、こんな所に付箋を貼りました。 とまぁ、このようにネットには 「怒りたい人」「つるし上げの対象を血眼で探す人」が多いので、 あまりネットの世界が善意にあふれているとは思わないほうがいい。 さらに、そういった人々は匿名の個人として発信し、組織を背負っていないがゆえに、 「絶対に勝てる論争」を高みから仕掛けてくる。 クレームを受ける側は組織を背負っているため、逆ギレできない。 完全なるハンディキャップマッチに巻き込まれてしまっているのだ。 これは、ときどき見かける 「人身事故で電車が止まった際に駅員をひたすら罵倒する乗客」と同じ構造を よりお手軽にやっている、とも言えよう。(p.40)最後の例えが非常に素晴らしい!まさに実感です。 また、テレビでの発言もすぐさま抗議の電話がやってきて、 さらにはネットに反映されるため、 テレビコメンテーターは以前にも増して無害なことしか言わなくなった。 「派遣切り」の話が出たら、「政府は無策だ」 「総理は苦しんでいる人の気持ちがわかっていない」 「大企業はもっとこころやさしくならなくてはダメだ」と強者を叩く発言をしておき、 全面的に弱者をフォローしておけばとりあえずクレームは減る。(中略) 政府の財源や企業の事情などを考えることなく、とにかく無難なことを言っておくべし! という思考停止状態が蔓延し、既存メディアから自由な発言は失われた。 その代わり、政治家や公務員のことは必要以上に叩くのである。 というか、そうやってテレビでコメントしている人々が高額所得者だらけというのも、 完全な矛盾ではないだろうか。(p.41)これも、最後の一文が光っています!p.48から述べられている「ネットで叩かれやすい10項目」も納得。 揚げ足取りが大好きで、怒りっぽく、自分と関係ないくせに妙に品行方正で、 クレーマー気質、思考停止状態の脊髄反射ばかりで、異論を認めたがらない……と、 実に様々な特徴があるが、決定的な特徴は「暇人である」ということだ。 書き込み内容や時刻から類推するに、 無職やニート、フリーター、学生、専業主婦が多いと類推できる。(p.58)なかなか過激ですが、これが本著の中核をなす部分の一つ。インターネット黎明期には、それを使用するためにある程度の経済力や知識能力が必要だったのに、今やその垣根が大きく取り払われ、それ故このような現象が現れたと著者は言っています。 あと、重要な情報を持っている人は、その情報をわざわざネットに書かない。(p.72)これもスゴイ。当たり前なんだけど、当たり前じゃないと思っている人が結構いますよね。本当に重要な情報は、ネット上にタダでころがっているわけなど決してなく、然るべき所で、然るべき手続きを経て、然るべき対価を支払わないと入手できません。 だが、ネットは、本来一緒の場所にいるべきではない両者を 同じ土俵の上にあげてしまうのである。 さらに、その場で意見を簡単に書くことができる。 これは、「すばらしき交流」など生み出すわけがなく、 「うんざりするドロドロの争い」を生み出すことになる。(p.79)ボーダーレスは、実は考えもの。棲み分けも、実はかなり大事。 そこで私が結論づけたのは、 ・全員を満足させられるコンテンツなどありえない ・結局、頼れるのはおのれとプロジェクトにかかわっている人だけ の2点である。(p.97)場を開けば開くほど、そして、そこに集まる人が多くなればなるほど、このことを実感できるのではないでしょうか。このことが言えるは、ウェブサイトに関してだけではありません。そして、p.104の「ネットで受けるネタ」や、p.158の「ネットでうまくいくための結論」も概ね納得。 だが、そろそろネットを4媒体の延長と考えるのはやめるべきでは? くり返すように、ネットは居酒屋のような場所なのである。 居心地の良い店に自然と人が集まり、そこで楽しんでいく場なのだ。(p.192)これこそが著者の主張であり、私としても、十分理解出来る内容です。 ここで結論を言うと、ネットでバカなこと、B級なことができないのであれば、 ネットでは最低限の情報公開を除き、何もすべきではない。 クリックされず、さらにはリスクを恐れている状況では、 ネットを使いこなせるわけがないのだ。(p.210)「ネットを使いこなす」ということを、著者はこんな風に考えているのですね。そして著者は、こんなことが出来る感覚を持ち合わせた人です。 また、亀田興毅対ランダエタ戦後、 「全国の『亀田』関係者に電話をする」という記事を書いたときも批判まみれとなった。 単に「亀田」という名前がつく地域や企業の人から お祝いコメントや試合の感想をもらうという、 今考えれば意味もなく実にくだらない企画だったのだが、 「忙しい人に迷惑です!」「いい加減にしろ!」というコメントが殺到(中略) また、「吉野家で肉・たまねぎ抜きの牛丼を注文した」という記事に対しても、 「忙しい店員さんに失礼です!」との批判が殺到したのである(p.36)TV番組で、「どっきりカメラ」的VTRが流されたあとに、このイタズラが許せるか許されないかを、回答者に問うものがありますが、あれが放送番組として成立するのは、人により、それぞれ判断が分かれるからです。私はと言うと、「許せない」とする方が圧倒的に多い方です。見ていてあまり気分が良くないので、あの手の番組は、殆ど見ませんが。
2009.07.25
コメント(0)
今からおよそ4年前、 2005年4月18日に、本著の初版第1刷が発行された。 日本の「ブログ元年」となった2004年の翌年、 ブログ人口が急速に伸びていこうとする時期である。 第2章は、初心者向けの「マニュアル」になっている。 「ブログ」と「ホームページ」とでは、何がどう違うのか。 ブログはどうやって開設すればよいのか。 そこにはどんな機能があって、どんなことが出来るかのかが記される。続く第3章では「ブログサービス」の徹底比較が行われる。今お読みのブログのある「楽天広場」に始まって、「livedoor Blog」「ココログ」「ヤプログ!」そして「Ameba Blog」が、一つ一つ丁寧に紹介される。私が初めてブログを開設したのは、2005年4月(このサイトとは別のもの)。本著の初版発行とほほ同じ時期(それ以前は、ホームページを複数開設)。それ故、第2章や第3章に書かれていることは、現在の私にとって、目新しいことは、ほぼ皆無。しかし、第1章と第4章の内容は、とても興味深いものとなった。そこでは、当時注目を浴びていた11人のブロガーが紹介され、その人たちのブログが成功した秘訣を、一つ一つまとめてある。ただし、私が興味をもったのは、そこに記された成功の「秘訣」ではない。それは、本著が発行された4年後の、現在のブログの姿である。どれもこれも、書籍に掲載されるほど一世を風靡した有名ブログであるが、その現在の姿には、情報化社会の移り変わりの早さを感じずにはおれない。それでは、有名ブログの現在の姿を一つずつ見ていこう。 ***1.「『小さな会社★儲けのルール』『逆転バカ社長』『ベンチャー大学』で弱者必勝! 栢野克己の『人生はアドベンチャーだ!』」 長い名前のブログだが、現在は 「【人生は逆転できる!】 小企業コンサル・講演家・栢野克己/カヤノの天職ブログ」という名称に。 更新も頻繁に行われ、大いに賑わっている。2.「発狂ニュース島」 ブログ名もブログサービスもそのまま継続中。 カウンターの数字は244万超の凄さである。 ただし、最新記事は、今年1月に書かれたもので、約半年放置状態。3.「まいまいの生存歴」 遅くとも2005年の4月某日には、閉鎖された模様。 つまり、本著が発行された時点で、ブログが存在していたかどうか微妙。 本著に掲載されているURLは「レゲエ大好き」というブログになっている。 現在は「DANCE2」が、まいまいの生存歴復刻版として公開されているが、 今年5月の記事が一つ掲載されているのみである。4.「10年後も行政書士で生きていく!」 2008年4月の記事のみが掲載されており、 そこで、現在のブログ「行政書士横須賀てるひさの天才マーケティング!」へと誘導している。 こちらの方は、頻繁に更新されている。5.「起業家のための書評ブログ」 現在のブログ名は「ビジネス書 書評ブログ (後悔しないための読書 ブログ版)」。 今年の4月に記事が書かれてから、5月・6月は更新がなされなかったものの、 7月には新たな記事が書かれている。6.「ディズニーランド好きのアフィリエイト講座」 2005年11月で記事はストップ。 コメント・掲示板・トラックバックの欄も放置状態。 「ディズニー・進化論。」も昨年4月でストップ。7.「Silent Voices」 2007年2月の記事でストップ。 この続きは、もう書かれることがないのだろうか……。8.「マダムKの西麻布通信」「マダムKサロン」 いずれも閉鎖されており、 「事例マーケティング最前線~WEBライティング達人の日記 」を経て、 現在は、「福の神BROG」に。 最新記事は、今年5月のもの。9.「貴田乃瀬」 ブログは独立して「旬肴地酒 貴田乃瀬」に。 更新は頻繁で、その内容の充実ぶりには圧倒される。10.「あとむの正直日記」 現在のブログ名は「あとむの半分正直日記」。 更新は頻繁で、カウンターの数字は179万超。11.「ワーキングマザースタイル」 複数の共同編集者が、それぞれに自分の意見をブログにアップするというスタイルを継続。 ほぼ毎日更新されている。 ***続けるということが、いかに難しいかがよく伝わってくる。人気ブログですら、こんな状況であるから、世の中に、どれほどのブログが放置され、それらが山積していっているかは、想像に難くない。継続のキーワードは、やはり「ビジネス」。人が一日の、そして人生の大半の時間を費やす「行動」。これに直結しているかどうかが、ブログの持続力に大きな影響を与えているように感じた。
2009.07.25
コメント(0)
「ゲーム脳」等、ゲームの負の面ばかりが強調されてきた社会に対し、 自身と息子との「ゲームを通じての触れ合い・成長」を示すことで、 「ゲームの持つ良さ」に光を当て、社会に知らしめようとする一冊。 著者は、ファミ通グループ代表の浜村さん。 森教授の「ゲーム脳」理論も、一時ほど、脚光を浴びることがなくなった。 逆に、DSやWiiが、この世に登場してからは、ゲーム機の使われ方が多様化し、 ゲームの持つ「功」の部分が、さかんに宣伝されるようになってきている。 DS等は、今や教育現場にまで持ちこまれ、広く世間に認められる存在となった。 ***ゲームを通じての、父と子の会話が、ほのぼのと心地よい。ゲームを通じて、こどもが経済観念を獲得していったり、ゲームをきっかけに、こどもが野球に興味を持つようになったりと、色んなものへの動機付けに、ゲームが一役買っている状況が、とてもいい。「ドラクエ」の中で、こどもの着実な成長ぶりに感動する父、「ファイファン」の中で、留まることを知らない親バカぶりを示す父、「モンハン」の中で、遂に訪れた父子の立場の逆転を、実は喜んでいる父。本著の中には、そんな父と子の心温まるドラマで、満ち溢れている。そんな中、私が最も記憶に残ったのが『打倒、お父さん!』(p.101~)。「スーパーマリオスタジアム ミラクルベースボール」で、父と子が対戦するのだが、ゲームの腕前を上げてきた息子に対し、何が何でも勝とうとする父・著者は、息子が知らない「スクイズ」や「ホームスチール」等を駆使し、得点を重ねていく。そんな中、息子が発した「心が折れそうだよ」という言葉に、先日のWBC中、イチローが発した言葉が重なってしまった。さらに、圧巻は「ノムライズムって勝ち方が汚いね」という息子の一言。これには、もう、何も言葉が出ませんでした。
2009.03.28
コメント(0)
さすがに、名著と言われるだけのことはある。 日進月歩のジャンルを扱いながら、 発行から2年半以上の時を経ても、 決して古さを感じさせることはなく、その価値は色褪せていない。 私自身、本著を読んで、「グーグル」の本当の凄さに気付くことが出来たし、 「ロングテール」という見方・捉え方も知ることが出来た。 さらに、「ブログ」の増殖と総表現社会の到来についてや、 「オープンソース」の持つ可能性についても、認識を新たにした。 *** 情報をインターネットの「こちら側」と「あちら側」のどちらに置くべきか。 情報を処理する機能を「こちら側」と「あちら側」のどちらに持つべきなのか。 このトレードオフが、これからのIT産業の構造を決定する本質である。(p.059)実際のところ、これまで「こちら側」で受け持たねばならなかったことがらが、近年、どんどん「あちら側」で請け負ってもらえるようになってきている。ウイルス対策なんかも、その一例だろう。そして、「作業場であるインターネット世界」で、必要な作業を、オープンソースを使ってこなし、インターネット上に、そこでの情報を蓄積するようになるのかもしれない。さらに、「作業場であるインターネット世界」への扉となる「こちら側」のPC等のスペックは、さほど大きな問題でなくなってしまう日も、近い将来にやって来るかもしれない。もちろん、その時には、「あちら側」の情報管理体制は、大きく問われることになる。というか、もう既に「クッキー」等を通じて、かなりの個人情報を「あちら側」は握っている。アマゾンや楽天に接続するやいなや、「最近チェックした商品」が表示されるのは、正直言って、かなり気持ちの悪いものだと、私自身は思っている。「知る権利」と「プライバシーの権利」の問題は、今後益々大きな問題となっていくだろう。 2004年秋にロングテール論が脚光を浴びたのは、 ネット書店がこの構造を根本から変えてしまったという問題提起があったからだ。 提唱者は米ワイヤード誌編集長のクリス・アンダーソン氏。 米国のリアル書店チェーンの「バーンズ・アンド・ノーブル」が 持っている在庫は13万タイトル(ランキング上位の13万いまでに入る本)だが、 アマゾン・コムは全売り上げの半分以上を 13万位以降の本からあげていると発表したのである。(中略) リアル書店では在庫を持てない「売れない本」でも、 インターネット上にリスティングする追加コストはほぼゼロだから、 アマゾンは230万点もの書籍を扱うことが出来る。(p.100)買い物に関しては、ネットの発展で本当に便利になった。以前であれば、余程のコネがない限り、決して手に入らなかったようなコアな商品でも、検索すれば、書籍でも、音源でも、たいてい手に入るようになった。しかも、そんなにとんでもないお金を払わなくても。本当に有り難い時代になったと思う。 メディアの権威側や、権威に認められた表現者としての 既得権を持った人たちの危機感は鋭敏である。 ブログの世界を垣間見て「次の10年」に思いを馳せれば、 この権威の構造が崩れる予感に満ちている。 敏感な人にはそれがすぐわかる。 基盤を脅かされる側の新しい現象に対する反応はまちまちである。 しかし総じてウェブ社会のネガティブな面ばかりをメディアが取り上げがちなのは、 こうした危機感が形をかえて表出しているという面が少なくない。(p.146)なかなか鋭い指摘である。こういう切り口に、これまで、私は出会ったことがなかったので、まさに「目から鱗が落ちる」といった気分。玉石混合でも、参加母体数が膨大であり、その石を篩い分けるシステムが向上すれば、これまで知られることのなかった玉が発掘されるのは、当然の成り行きであろう。 コレラは19世紀の病気という印象が強いが、発展途上国ではシリアスな問題だ。 処方にカネがかかるか高いスキルが必要か、そのいずれかの治療法しかなく、 貧しくて医療スキルも低い国では、相変わらずコレラに苦しめられているところが多かった。 従来の組織的手法ではこの問題が解決されなかったのだが、 ネット上にこの課題が提示されたとたん、わずか数カ月の間に、 関連分野のさまざまな領域の見ず知らずのプロフェッショナルたちがネット上で協力しあい、 低コストでしかも訓練なしに使える新システムが開発され、 その課題は解決されてしまったのである。(p.176)まさに、インターネット世界ならではの、素晴らしい出来事。こういった「オープンソース現象」「マスコラボレーション」が、さらに広い分野で展開されることが望まれる。インターネット世界の将来は明るい、と感じさせられるお話しだった。
2008.11.16
コメント(0)
一時、テレビでモバゲーのCMが盛んに流れていた。 広末涼子やにしおかすみこ、南明奈などが登場し、なかなか大々的だった。 この本を読んだのは、ちょうどその頃だったので、ちょっと記憶が薄れ気味。 でも、一応、記録としてまとめておこうと思います。 本著で描かれているのは、モバイル市場の変化と その変化の中で、ディー・エヌ・エーが、どのようにして成功を収めたかである。 そのスタートは、通信速度の向上、即ち第三世代ケータイの登場。 コンテンツの大容量化が進み、パケット定額制が普及していく。ケータイのインターネット常時接続環境が実現した頃、番号ポータビリティが開始される。そのことが、キャリアを越えたポータルをが求められる一因となっていく。コンテンツを公式サイトに登録しさえすれば、勝ち組になれたのは、もはや過去の話。検索エンジンも導入され、勝手サイトの勢いが一気に増していく。そんな急成長する勝手サイトの筆頭がモバゲータウンである。無料ゲームから始まり、今や一大コミュニティサイトにまで成長。アバターも重要な役割を果たしているという。さらに、ケータイは個人を特定しやすいことが、セキュリティ面でプラスとなる。 ***本著が発行されて、すでに1年3か月。その間にも、いろいろな新しい動きが起きている。アイシェアが、今年10月8日に発表した「健全サイトに関する意識調査」では、健全だと思うサイトのトップは「mixi」で30.7%、「モバゲー」は17.9%でこれに続く。そして、同調査回答者の、携帯電話からの各SNSの利用状況は、「どれも利用したことがない」が57.7%で、「mixi」27.7%、「2ちゃんねる」25.4%。その他については、10%未満という結果だったそうだ。変化の激しいモバイル市場で、成長を続け、生き残っていくことは、なかなか難しい。
2008.10.13
コメント(0)
ソーシャルメディアとは、 意見、洞察、経験、見解を互いに交換するための ツールやプラットホームのことで、 マイスペース、ユーチューブ、セカンドライフ等がある。 そして、日本国内では、ミクシィ、モバゲータウン、ブログ等がある。 こんな説明が、本著冒頭でなされるのだが、 私自身は、これまで、PCに触れてきた時間は結構長いにもかかわらず、 「ブログ」を除くと、これらのものとの付き合いは、本当に希薄だ。というわけで、それらがどんなものかを知るために、本著を手にしてみた。「マイスペース」や「セカンドライフ」については、言葉としては知っていたが、本著を読んでみて、まずまずイメージできるようになった。しかし、会員登録して、その中を実際に覗いてみようと言うところにまでは至っていない。また、「ミクシィ」や「モバゲータウン」についても同様。特に「ミクシィ」については、紹介者がいないことには、登録すら出来ない。(もちろん、本気になれば、いくらでも手段はあるのだが、そこまでして……)とにかく、これらに関わると、途方もなく時間がかかりそうで……。その点、「ユーチューブ」には、時々だが、お世話になっている。お気に入りのアーチストのPVを見たりするのはもちろん、話題になった場面の動画は、かなりの確率でアップされているので、気が向けば、ちょっとばかり、チェックしたりする。 ***私にとって、仮想空間内でビジネスが成立するという事実は、なかなか衝撃的だった。かつて、「現実世界」と「仮想空間」との間には、厳然たる壁があった。しかし、今や、一部の人にとっては、そんな壁を意識することなく、どちらの世界でも同じように、(いや、ひょっとすると仮想空間を主に)生きている。そんな感覚が、今後、社会にどんどん広まっていくようにさえ思う。それほどまでに、人々は、自らのクリエイティビティを、ソーシャルメディアにおいて、発揮し始めているということだろう。まさに、情報社会の到来である。
2008.08.09
コメント(0)
「高校生へのインタビューと統計データ分析から導かれる答えがここに!」 これが本著の帯のキャッチコピー。 高校生たちが、現在どんな風にケータイを使い、 どんな風にケータイのことを考えているのかが、分かる一冊。 iPodとケータイを、どのように使い分けているのか、 また、カメラ機能では画素数を重視しているという姿勢、 さらに、平野啓一郎をケータイで読んでいるなど、 結構、新鮮な情報が、盛り込まれていた。また、「モバゲー」と「ミクシィ」については、リアルな友達はミクシィに、バーチャルはモバゲーにと、ちゃんと求めるところを変え、使い分けていることについては「なるほど、今時の高校生は、そうなのか」と、変に納得。また、「ケータイユーザー下流論」や「フィルタリング」についての記述には、著者の一貫した姿勢が、しっかりと表れている。『「コミュニティサイト」は「出会い系サイト」ではない』(p.84)についても同様で、世間に広がりつつあるマイナスイメージを、払拭しようと試みるものである。ただし、『ケータイ世界の子どもたち』のように、子どもたちの過ごしている社会や、世界そのものにまで踏み込むことはせず、あくまでも、ケータイに絡む高校生たちの有り様について、インタビューと統計資料から、著者の分析を述べるところで留まっている。auユーザーの私にとって、本著を読んでの一番の収穫は、ドコモには「iモードアクセス履歴検索サービス」というものがあり、メールの送受信履歴までもが、3か月前までなら分かるということを、初めて知ったこと。これは、子どものケータイ濫用にブレーキをかける、大変大きな武器になる!
2008.07.27
コメント(0)
これも先日久しぶりに本屋さんに行ったとき、 平積みにしてあったので目についたもの。 『成功する男はみな、非情である。』と同様、書店では買わず、 家に戻ってから、ブックオフで発注しました。 しかし、この本が、なぜ平積みしてあったのか? と言うのも、この本、第1冊発行は1968年7月24日。 何と、40年も前のものです! ひょっとして、最近またブームになって読まれだしている?そんなことを気にしながら、読み始めてみると、流石に年代物という感じ。取り扱われている出来事やデータには、第2次世界大戦前のものがある!エール大卒業生の年間平均所得が2万5千ドルなんていうのは、もう感動もの!!ユーモアたっぷりに「統計のいかがわしさ」について、いろんな事例が紹介されていますが、少々理解しづらいところも……。全ての事例について、きちんと最後まで説明してくれているとは限らないので、自分でちゃんと考えて、理解しながら読み進めないとダメです。でも、結論から言えば、第10章の「統計のウソを見破る五つのカギ」が、分かればOKかもしれません。 第1のカギ:誰がそういっているのか?(統計の出所に注意) 第2のカギ:どういう方法でわかったのか?(調査方法に注意) 第3のカギ:足りないデータはないか?(隠されている資料に注意) 第4のカギ:いっていることが違ってやしないか?(問題のすりかえに注意) 第5のカギ:意味があるかしら?(どこかおかしくないか?)そして、「はしがき」の中で、著者が述べているのこの言葉が、統計というものを、一口で言い表しているような気がします。 統計学という秘密の言葉は、事実がものをいう社会では、 人に訴える力が非常に大きいので、 物事を批判したり、誇張したり、混乱させたり、 また極度に単純化してしまうのによく利用されている。 (中略) しかし、そういった言葉を正しく理解して使う人と、 その言葉の意味がわかる人とがそろっていなければ、 結果はナンセンスな言葉の遊びにすぎないのである。
2008.07.13
コメント(1)
ハンチントンの『文明の衝突』をもじったタイトル。 『文明の衝突』は、私も読んでいる最中だけれど、 今は、長い休憩期間に突入したまま(でも絶対再開します!)。 しかし、本著の趣は、ネーミングほど、ハンチントンに近くない。 出てくる話は、かなり、専門的な部分も多く、 私ごときでは、全てを理解するには、ほど遠かったが、 とりあえず、最後まで、 一応、何とか話の方向にだけは、ついて行くことが出来たので良かった。本著の前半、主役となっているのは「Winny」。「Winny」は、「P2P」と呼ばれるアプリケーションソフトの一種。「P2P(ピア・トゥー・ピア)」とは、中央サーバーを介さずに、ネットワーク上のマシン同士が、直接接続される仕組みで、インターネットの理想型。その開発に至る経緯と、その開発者が逮捕されるまでが、見事に描き出されており、読んでいて引き込まれてしまう。そして、そこに割って登場するのが「アンティニー・G」。Winnyを媒介にして感染し、個人情報や機密情報をまき散らす凶悪なコンピューターウイルス。 村井は大学で、自律分散協調という科目を教えている。 自律・分散・協調というのはエンド・ツー・エンドとともに、 インターネットの理想を象徴する言葉だ。 システムの中にシステムを統治する管理者は存在せず、 システムは自律して分散しているサブシステムによって構成され、 彼らの協調性によってシステムの機能は遂行される-。 (中略) だが、その三十年の努力の末には、Winnyというパンドラの箱の出現があった。 開けてはならない箱を開けたことによって、 Winnyはこの社会の中に、異形の空間を現出させた。 その衝撃は国家権力をも揺さぶったのである。 インターネットの理想はいまや、無限の悪意に満ちた空間と、 国家権力の介入の間で押しつぶされそうになっている。そして、後半の主役は、2004年頃から急激に注目を集めるようになった「ウェブ2.0」。この概念の中心は、一言で言えば「すべてをオープンにしていこう」というもの。「ウェブ2.0」の考え方が目指すのは、個人と個人、個人と企業、個人と国家が同じ地平でフラットに繋がっていく世界、つまり、エンド・ツー・エンド。 ウェブ2.0はブランドやバーロウが夢見た理想の、正当な後継者なのである。 90年代に大企業のビジネスに囲い込まれ、 当初のエンド・ツー・エンドの理想を失いつつあったインターネットの いわば「復古運動」だったのだ。 おそらくもっともその理想を体現しているのは、ウェブ2.0の世論形成機能だろう。 ネットの世論が、リアルな世論に結びつき、ネット上の言論が、政治や社会を動かしていく。そういう時代に、既に突入している感がある。そこでは、ネットを支えるプラットフォームが、最も重要な社会的基盤となると著者は言う。この、とてつもなく強大な権力を、最後に握るのは、一体誰なのか?グーグル?それとも、別の企業?あるいは、ネット世界のパワーを囲い込み、覇権を取り戻そうとしている国家?そのせめぎ合いは、既に始まっている。
2008.07.12
コメント(0)
自分は、インターネットの世界について、 結構知っているほうだと思っていたのに、 実は、全然そうではなかったということを、 この本を読むことで知りました。 私は、専らPCを使ってインターネットを利用していますが、 学生を中心とする若者たちの多くは、携帯電話からインターネットに接続しており、 今や、インターネット利用者は、PCからよりケータイからの方が多くなっています。 そのあたりまでの状況は、既に私も知っていました。ところが、本著によると、同じようにインターネットに繋がると言いながらも、その繋がっていく世界が、PCとケータイでは、全くと言っていいほど違うところであり、それらは、お互い独立して存在、そして、双方間の行き来が、ほとんどないらしい。故に、PCから「携帯サイト文化」を知ることは難しく、逆もまた同様とのこと。この間、TVで「画嬢」とかいうものについて扱った番組を見たのですが、私は、「そんな言葉、今まで聞いたことも、見たこともないなぁ……。」とか、「こんなものが、中高生の間では、流行っているのか……」と思ったのですが、結構ネットに親しんでいる私ですら、そんなことになった理由が、ハッキリ分かりました。 ***本著では、このような現在の状況が生まれるまでの過程を、日本のインターネット発展の様子を追いながら、丁寧に説明してくれているので、とても理解しやすく、「携帯サイト文化」の一端にも触れることが出来ました。「ケータイ小説」を実際に読んだことはないけれど、どんなものか、雰囲気はつかめたかな。そして、本著を読んで、最も考えさせられたのは、インターネットの「世代間格差」。「PC世代」と「ケータイ世代」の間に生じている対立を、いかに解消していくかということ。これまで、バーチャルなネット上での格差・対立でしかなかったものが、今後は、リアルな現実世界に、どんどん持ち込まれていくであろうという事実。現実社会で予想される、この「世代間の軋轢」は、避けて通ることは出来ないでしょう。「PC世代」「ケータイ世代」の、それぞれの発想や考え方を、お互いに理解し合う必要があります。同じ言葉・同じ態度・同じ行動から受け取るメッセージが、全然違うということを知った上で、二つの世代間にある「感覚のズレ」に、折り合いを付けていかねばなりません。
2008.05.17
コメント(0)
予想していた内容とは、かなり違っていました。 もっと「2ちゃんねる」というものの存在について、 その「社会的価値」を正面から問うような内容の著作だと思っていましたが、 そんなところには全く拘らない、もっと高度な(?)次元を表現したものでした。 私自身、ちょっとはコンピュータとか、 インターネットの世界に、通じている方だと思っていましたが、 それは、単なる思い上がりにすぎないことが、よく分かりました。 本著に描かれている世界は、私のイメージを遙かに超えた奥深いものでした。「Web2.0」という言葉が、実は、どれほどあやふやなものであるかに始まり、「ミクシィ」や「YouTube」等の、インターネットにおける最新動向、「2ちゃんねる」や「ウィニー」等の、インターネット関連裁判まで、裏事情まで含めて、よ~く分かります。本著の最後を締めくくる、小飼弾氏と西村博之氏の対談は圧巻。プログラマー同士のお話なので、ハード面・ソフト面ともに、飛び出してくる言葉や内容は、その全てを理解するのは、素人には難しいでしょう。それでもなお、伝わってくるものは、とても多い……。「それを言っちゃあ、お終いよ」的な、「身も蓋もない」発想と言動。それが、ひろゆき氏ということになるのでしょう。そして、彼が管理する「2ちゃんねる」が、なぜ潰れないと言えるのか、その秘密が、確かに、この一冊の本の中に描かれています。
2007.12.31
コメント(0)
社会心理学から分析する ネット・コミュニケーションの最新形 なぜブログは書かれ、読まれるのか? これが、本著の帯に書かれている宣伝文句です。 2005年3月に出版されたものですから、 もちろん、当時最新事情だったことも、 今となっては、過去のことになっているところも、多少はあります。 それでも、全体的に見ると、かなり新しい情報の集まり。ただ、『ウェブログの心理学』というタイトルから期待するほど、ウェブログに対する、心理学的なアプローチは、そんなに多くはありません。第3章が、その核となる部分ですが、わずか40ページほどで、全体の約2割程度。以前、記事を書かせてもらった『インターネットの心理学』に比べると、物足りなさを感じないわけにはいきません。それよりも、本著から多く得られるものは、インターネットの発展に関する知識。これに関しては、たいへん面白く、参考になりました。巻末付録の『ウェブログの歩き方』や『インターネット・ウェブログ関連年表』もよくできており、こちらを目当てに購入するのであれば、満足度は高いかと思われます。
2007.11.25
コメント(0)
『モラトリアム人間の時代』の小此木先生による 「ケータイ・インターネット」時代に生きる人間の精神分析。 本著序盤には、「インターネット、五つの魅力」や「あと1分シンドローム」等、 『インターネットの心理学』に見られた記述内容と一致するものが多くあります。 しかし、「人間とマシンとの1.5のかかわり」の記述あたりからは、 「さすが小此木先生!」と、感心させられる分析が続々登場してきます。 ***1対1の、人と人との関わり、これが「2.0」で表される二者関係。それに対し、「1.0」の人間と、半ば人間扱いされたり、擬人的な機能を備える「0.5」の物体マシンとの関わりが、「1.5」の関係。この「1.5」のかかわりは、人間よりも安定性と恒常性があり、自律感覚と全能感を満たしてくれ、さらに人間的な配慮がいらないもの。そして、「1.5」の世界に親しみすぎると、「2.0」の世界が億劫になる。これが「外的な引きこもり」に拍車をかける。そして、現代社会に多く見られるのが「内的な引きこもり」、ジゾイド人間。無名者として都会に暮らし、感情を隠し、自己主張をせず、人との関わりを避ける。これは、近づくほどに傷つけあう「山アラシのジレンマ」を避ける巧みな方法。さらに、誇大自己と現実の自分が一致せず、無気力・引きこもりになる者も。自己愛が破綻したとき、希望や目標を見失い、燃え尽きてしまう。彼らは、分に応じた自分のあり方をみつけ、等身大の自分を外の世界に見いだせない。それは、誇大自己にとらわれているため、周囲の人々を軽く思い、うまく人と関わりを持てず、周りは全部競争相手で、相手を頼るのは恥だと思っているから。また、モラトリアム人間社会は、働く者も働かない者も平等な社会。むしろ、モラトリアムを提供する人々の心理より、モラトリアムを提供されている側の心理が大変に尊重され、依存を「当然の権利」と見なすのが、タテマエとなっている社会。それが、モラトリアムを居心地のよいものにしてしまい、終わりのないモラトリアムへと、その質を変えてしまった。このような社会に拍車をかけたのは、消費者優位心理。商品をつくる人より、商品を買う人の方が、はるかに心理的に優位な社会。消費するお金は、どこからどんな方法で手に入れても、消費する力になりさえすればよいという社会。 ***この後も、「スーパーウーマン挫折症候群」「父親なき自己愛家族」と興味深い分析が続きます。特に、家族の分析は、「なるほど!」と納得せざるを得ないものです。さて、全体を通じて感じたのは、私が最近読んだ書物の内容と関連する部分が、あまりにも多いこと。『オレ様化する子どもたち』や『下流志向』は、本著を踏まえて書かれたのではないかと思えるほど、共通点が多い。また、現在、読みかけている『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』も本著の「父親なき自己愛家族」と共通する部分があるような気がします。「ケータイ・インターネット」について知るために購入した本著ですが、その扱っている内容は、現代社会そのもので、そこに記されている内容は、小此木先生の偉大さ再確認させてくれるものでした。
2007.04.15
コメント(0)
久しぶりに読んだ学術書。 元々、英語で書かれた文章を日本語に訳したものだから、 純粋の日本語とは違う、独特の文体や言い回しの連続。 そして、新書として出版された書物とは違い、 読みやすさより理論立てを重視した、 ちょっと堅めで、かちっとした全体構成。 久しぶりの読書感に、学生時代が懐かしくなりました。日本での初版発行は、2001年の秋。さらに、原文の方は1999年の発行となっているから、インターネットの最前線の情報を元にしているとは言い難く、ちょっと昔の事情・状況を踏まえて書かれた部分が、当然多く見られます。しかしながら、インターネット上で見られる人々の振る舞いを社会心理学の基本的概念で解き明かそうとした研究書としての価値は、まったく低下することなく、そこに古さを感じることはありません。 ***オンラインにおいて、どんな「自分」を創造し、演じていくのか。それは、「現実の世界の自分」とどのような関係の「自分」なのか。そして、その「新たな自分」を、ネット上でいかに相手に印象づけていくのか。もちろん、そこには嘘、欺瞞が入り込む可能性がある……。それは、ミスター・バングル事件に見られる、ジェンダーの問題をも生み出してしまう。ネットにおける「集団の力学」は独特なもの。その集団は成極化する可能性が高く、そのため論争も数多く勃発。インターネットゲームにおいても、集団間競争が激しく展開される。また、ネットにおける「攻撃性」の高さは、誰もが感じるところ。そして、これらの背景には「匿名性」や「物理的距離」がある。だが、そのことが、逆に「援助の心理」を働かせやすくする面も。さらに、コンピューター相手の方が、人間相手よりも自己開示しやすいらしい。だから、ネット上には「嘘」も溢れているが、「本音」も溢れている。もちろん、インターネット上の「ポルノ」や危険サイトは要注意!けれど、ネット上で、友情や愛情が生まれることもある。インターネットは、現実社会に負けず劣らず、複雑怪奇なものなり……。 ***中でも、私が一番関心を持ったのは、インターネットのタイム・シンク(時間泥棒)的特徴、そして依存特性。本当に、パソコンをさわり出すと、時間お構いなしになってしまう……。ブログを書き始めると、なかなか止められなくなってしまう……。そんな私と、似たような経験があるあなたに、著者は、こう述べています。 インターネットはコカインでもなければ、アルコールでもニコチンでもない。 インターネットがタイム・シンクと化す理由がわかっている人は、 問題を克服し、もっと有意義な活動に戻ることができるだろう。
2007.03.17
コメント(0)
自分のホームページやブログを持っている人が、とっても多くなりました。 一人で複数のウエブサイトを開設している人も珍しくないし、 最近では、携帯電話利用のホームページも急増中。 で、そんなウエブサイトを持っている人にとって 嫌でも避けて通れないのが「著作権」というもの。 「それって、何?」とか、「そんなの、私(オレ)に関係ないよ!」と言ってても、 やって来るときには、やって来る(らしい)「警告」。 場合によっては、かなり厄介なことになってしまうことになる(らしい)。『おふくろさん』をあれだけ歌い続けていた某有名歌手ですら、著作権をもつ作曲者先生の逆鱗に触れると、あんなにも厄介なことになってしまうのです。だから、ウエブサイトを運営する人にとっても、著作権を無視したまま、世界中に情報をばらまき続けるという行為は、やっぱり、どことなく落ち着かない気分。例えば、「掲示板の書き込み」ですら、著作権がある?とすれば、勝手に削除することはできないし、当然、勝手にその文章をぱくることなんて、絶対に出来ないということになってしまうのです。こんな風に、ウエブサイトを新たに作ったり更新したりと、色々していく上で、「これでいいのかな?」と迷ったら、とりあえず、この本を読んで、著作権に引っかかるのかどうかを、調べてみましょうということになるのです。でも、これだけ色んなことを気にしながら、文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を鳴らしたり、写真を貼り付けたりしないとダメなんですね。読んでいて、これらをすべてクリアする個人サイトは、ほんとうにどれくらいあるのだろうかと思ってしまうほど。唯一の救いは、「黙示の許諾」ということになるけれど、もちろん、これとて万能ではない……。私のサイトにも、あちこち……。先日、某メディア大手が、米動画投稿サイトとその親会社であるインターネット検索最大手に対し、著作権を侵害されたとして、10億ドル以上の損害賠償を求める訴訟を起こしました。それでも、現在、米動画投稿サイトは、堂々と運営し続けているぐらいだから、ひっそりやってる我がサイトくらいのことなら、 そんなに神経質になる必要もないのかも……。
2007.03.17
コメント(0)
やっとこういう本が出ましたか! と、迷うことなく買ってしまった一冊。 ケータイを持っているお子様たち、 パソコンでインターネットをするお子様たちが、 想像以上のスピードで、爆発的に増えていく中、 その所持や行為の意味するところを、 実は全然理解できていない、お父様やお母様方に 懇切丁寧に教えてくれる、最新にして、十分な情報です。この本のポイントは、インターネットの危険構造を、「盗撮」「出会い系・迷惑サイト、メール」「自殺サイト」といった直接的被害と、「メール依存症」「思春期の発達阻害」「カルティべーション効果」といった間接的被害に分類し、説明してくれているところ。特に、「思春期の発達阻害」の観点から、思春期前期に「偽りの自分」を公開するブログやホームページを子供任せで開設させないことを重視すべきという提言には、大いに賛成。 ホームページは決して「私物」ではない。明白な「公器」である。 小・中学校の発達段階では、 たとえ高度なパソコンスキルが身についていても、 社会全体と公共性に対する責任能力は未成熟だからである。この「ホームページは公器」という定義付けは、とっても重要だと思います。「ホームページ」は、世界中で、どんな人が目にするかわからないものなのだから、逆に言うと、誰でも、いつでも見ることが出来るものなのだから、それを掲げるということについては、それなりの責任が伴うと考えられます。 車が走る「公器」なら、 ホームぺージは世界に発信する「情報の公器」である。 どんなに車社会が発展し、 子どもたちに交通マナーを徹底したとしても、 子供に車の運転を許可したり、 ましてや車そのものを買い与えたりはしない。 18歳以上という年齢制限のみならず、 実技と学科試験に合格しない限り公道を走ることは許されない。 物理的な危険はわかりやすいが、 形がない文化的危険は判断しづらいという違いから、 危険性を見抜けないのかも知れない。そう、たしかに「車の運転」なら、容易に想像できる物理的な危険を「ホームページの開設」では、想像しにくいでしょう。でも、確かに「ホームページの開設」には、さまざまな危険が伴います。私も、ホームページやブログを開設して、もう何年にもなりますが、やっぱり、これまでには、色んなことがありました。嫌な思いをしたり、生活にも色々な面で支障が出たり等々……。それとは別に、カルティべーション効果に関する記述は、ウェブだけでなく、情報そのものについて考えさせられました。 テレビが伝える現象や映像は、事実であってもすべてではない。 しかし、一部分の繰り返しを見慣れることによって、 「世の中ってこんなふうに成り立っているのだ」などと 文化状況、政治・経済背景、人々のモラル、社会の秩序などを 「わかったつもり」になってしまう。確かに、TVの場合には、そういうところが多々見られます。本当は、一部しか分かってないのに、全部、分かったつもりになってしまう。今、巷を騒がせている大臣の問題発言にしても、どれほどに人が、その言葉の前後のつながりを知った上で、ああだ、こうだと発言しているのでしょう……。ニュース番組、本当に恐るべき存在です。ちょっと、話が横道にそれてしまいましたが、TVの世界ですらこうなのだから、玉石混淆の情報の嵐が吹き荒れる、インターネットの世界については、その危険度の大きさは、推して知るべし、なのではないでしょうか?
2007.02.05
コメント(0)
2006年8月24日発行。 だから、結構新しい情報が満載。 私は、「スカイプ」っていう言葉は知ってたけど、 「アスクジーブス」や「マーズフラッグ」は知りませんでした。 早速、インターネットで、この二つのページを覗いてみると、 「アスクジーブス」は、 既に「Ask.jp」っていう名前に変わってました。 移り変わりの早い世界だと、改めて感じた次第。 そして、「マーズフラッグ」の方は、個性的で面白いですね。米国の新聞業界と、日本の新聞業界の違いの話も面白かった。「紙」にこだわらなくても良い米国の新聞社と、あくまでも「紙」にこだわらなければならない日本の新聞社。今後、新聞とネットビジネスとの関係は、目が離せません。そして、堀江さんや西村さんの話も面白かった。最近、テレビのニュース番組や新聞紙上を賑わしている両名ですが、著者の「身も蓋もない」という二人の共通点の提示には、思わず納得してしまいました。あと、印象に残ったのは「Tivo」や「録画ネット」の話。今までとは違う感覚で、今後は、さまざまなコンテンツを楽しむことが出来るようになるのでしょう。「iPod」の使い方のバリュエーション拡大は、間違いない?でも、そこで問題になるのが「放映権」や「著作権」。今後、ウェブはこれらをどのように変えていくのでしょう?また、そこから発展して、著作権全体の問題についても、大いに考えさせられました。 「著作権があるからといって、 必ずしも無断利用を禁じなければならないわけではないだろう。」 「著作権は守るだけでなく、 みんなの共有財産として有効活用しなければならないという面もある。 著作権をガチガチに守るだけというのは、明らかに間違いだ。」とする著者の考え方に、私は大いに賛成。権利は、その個人又は団体にあるかも知れませんが、みんなの前に、一度公開したからには、その利用に制限を加えるというやり方は、何か違うような気がします。
2007.01.26
コメント(0)
いくつか手がけているブログの充実のためにと購入。 しかし、その内容は期待したものとはちょっと違っていました。 決して、期待はずれというのではなく、 良い意味で、裏切ってくれました。 それは、ブログそのものについて書かれている部分よりも、 ブログを支えるネット社会や そこに集まる人達についての細かい観察、 そして、その人達を生み出した現代社会の有り様への言及、等々に感心させられる部分が、たいへん多かったからです。中でも、「バイアスかかりまくってます!」に見られる我が国のマスコミの報道姿勢と日本国民がいかに情報入手を制限されているか、という内容の記述は、以前、記事を書かせて頂いた、竹村健一氏の手による『日本の常識、世界の非常識』と見解が一致しています。また、かつて、銀行が汎国民的なバッシングを受けたことを例に、「メディアの煽りが、結果として国民の理性的な判断を見失わせ、国民負担がさらに増大するというわけである。」と述べ、感情的になった世論に振り回されることの危険性について指摘している部分は、大いに共感を覚えました。さらに、「コミュニティツールの陳腐化の波は、4年から5年で一巡する。」としたうえで、居心地の良い、古き良きものにしがみついていたのでは、時代という濁流に呑み込まれ、脱落してしまうことを述べている部分では、「平家物語」や「方丈記」にも見られる、日本人らしい世の中のとらえ方や、感情を感じました。著者:山本一郎(ブログサイト「俺様キングダム」http://kiri.jblog.org/を運営)発行所:ソフトバンク パブリッシング株式会社※ この記事は、他サイトに2005年07月02日に投稿した記事を 移転したものです。
2006.02.06
コメント(0)
今のところ、私はブログで儲けようなどという、 畏れ多いことなど全く考えていませんが、 せっかくのブログだから、アクセスアップは望むところ。 ということで、少々値段は張りましたが(本体1400円+税)購入。 さっそく読んでみました。 なかなか面白いですね。 「アフィリエイト」や「SEO」など、初めて目にした言葉もあり、 「こんなふうになっているんだ」と改めて気付いたことも多いです。他の方のブログを見る時の、視点も変わっていきそう。で、この本を読んで分かったことの結論は、たくさんの人にブログを見てもらうのには、それなりに、というか相当の努力が必要だと言うことと、儲ける、ということになると、さらに時間と労力と情熱が必要だと言うこと。気が向いたら、私もトライしようかな……。でも、当分は(永遠に?)無理なような……。著者:副業ネットワーク研究会 発行所:株式会社宝島社※ この記事は、他サイトに2005年05月10日に投稿した記事を 移転したものです。
2006.02.06
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1