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著者は、自らも発達障害当事者であるフリーライターの姫野桂さん。 「第1章 発達障害とはどのようなものか」で、その概略を確認した後、 「第2章 高学歴発達障害が抱える不条理」では、 10人の当事者が、それぞれの実体験を語っていきます。 その10人は、早稲田大学の政治経済学部(2名)、法学部、国際教養学部、 慶應義塾大学の文学部、経済学部、青山学院大学の文学部、上智大学の理工学部、 大阪大学の外国語学部、東京大学の法学部を卒業した人たちですが、 その歩んできた道筋や現状は実に様々で、個々に格段の違いがありました。職場では、学歴によるハードル上昇で苦しんだり、周囲の同級生との違いに落ち込んだり、発達障害に気付いて障害者手帳を入手、障害者雇用の求人に応募する人も。そこに至るまでの道のりは、想像を絶するほど厳しいものがあったことでしょう。しかも、その結果、辿り着いたところでは、次のような現実が待ち受けているのです。 早稲田卒で清掃の仕事をやっているなんて当然現場の人は知らないので、 軽度知的障害だと思われているようです。 子どもに対するような態度をとられたり、 本来なら自分できる仕事まで横取りされてしまって、地味に傷ついています。 配慮は求めているんですけれど、でもその配慮が苦痛になっているんです。 健常者として25年生きてきて早稲田を卒業したプライドもあるので……(p.035)「第3章 発達障害当事者の大学准教授が見た大学」では、京都府立大学の横道誠准教授が、認知行動療法や自助グループ、現在の大学のあり方について、「第4章 アイデンティティと現代社会と発達障害」では、精神科医の熊代亨さんが、高学歴ゆえにアイデンティティが負い目に変わったり、自己像に沿った支援を受けることが難しかったりする現状について語っています。また、「第5章 当事者に対する支援の取り組み」では、筑波大学ヒューマンエンパワメント推進局の佐々木銀河さんが、合理的配慮について、株式会社Kaien代表取締役の鈴木慶太さんが、発達障害支援サービスについて、それぞれの立場から、それぞれの取り組みについて語っています。 ***本著の中で、私が特に考えさせられたのは、まず、第3章の「無意識のうちの差別」における次の部分。 また、最近では、発達障害は「ニューロ・ダイバシティ」(脳の多様性)であるという 捉え方も広まりつつある。 ニューロ・ダイバシティとは、発達障害を「障害」として捉えるのではなく、 「神経系の多様なあり方」として捉えて尊重していく考え方である。 そして、定型発達の人でも多かれ少なかれ凸凹がある以上、 ニューロ・ダイバシティという概念はあらゆる人々を包含するものだ。 全ての人の多様性が尊重される社会をめざすキーワードと言えるだろう。(p.133)私は「ダイバシティ」と聞いて、先日読んだ『正欲』のことがすぐさま思い浮かんだのですが、あの作品を「ニューロ・ダイバシティ」という語をキーワードに据えて読むならば、誰もが「なるほど」と、スッキリした気分になれるような気がしました。続いて、第4章の「コモディティ化した現代の生きづらさ」における次の部分。 人間のコモディティ化(一般化)が進んで、 誰もが誰とでもコミュニケーションできるあり方を要請されるようになりました。 同時に、社会通念や習慣のレベルでも、横並びからのはみだしは良くない、 あるいはイレギュラーなことには容赦しない方向に年来傾いてきたのが 先進国社会の基調だと思うんですよね。 社会において少しはみ出してしまう人は、 かつて昭和時代の頃は大きな問題にならなかったかもしれない。 けれど、この令和時代においては、 そのままでは会社や学校にいてはいけない問題のある人として クローズアップされるようになってしまいました(p.152)私は、この部分を読んで「不適切にもほどがある!」をすぐに思い浮かべました。「横並びからのはみだしは良くない」「イレギュラーなことには容赦しない」令和の時代に、「寛容」さを求めることは、許されないことなのでしょうか。最後に、同じく第4章の「産業構造と発達障害」における次の部分。 ただ、産業構造が変わって、例えばサービス業などの第三次産業の割合が増えれば、 ADHDやASDの人が農業や漁業といった職に就ける確率は減っていきますよね。 そういう人たちでもデスクワークをしなければならなくなる。 第三次産業が台頭していくにつれて人間同士のコミュニケーションをする必要が出てきて、 どんな職場においてもうまく溶け込まなければならないといった要請が 労働者の側に立ち上がってきます。 そうなると、発達障害の方々はこの新しい状況についていけなくなりやすい。 こうしてASDの人は自分にぴったりの リピート作業を奪われていった経緯があるのではないでしょうか。(p.158)昨今の状況では、「職業差別」と糾弾されてしまいそうな危うさも感じてしまいますが、この主張が出来ないような世の中になってしまう方が、よほど不健全かと。熊代さんの『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は、近々読んでみたいと思っています。
2024.04.07
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副題は「毒親育ちのあなたと毒親になりたくないあなたへ」。 中野信子さんによる一冊で、2020年3月に刊行されたもの。 本著の中には、随所に著者自身の複雑な思いや感情が溢れ出ていると感じます。 以前読んだ『なんで家族を続けるの?』では、内田也哉子さんとの対談で、 自身の家族についても色々と語っておられるのですが、 その内容を知ったうえで次の記述を読むと、それがひしひしと伝わってきます。 個人的なことをなるべく書かないようにしてはいますが、 それでも、ちくちくと自分の心を刺してくる思い出したくないものが、 予期せず記憶の中によみがえってくるのを制するのには骨が折れました。 両親とは特筆すべき大きな確執があったわけでもなく、 二人ともいたって平凡な人物であったにもかかわらず、 それでも子として傷を受けているのですから、 世の中の大多数の人は何らかの解決できない思いを 親に対して抱えているものと考えるのが自然であるように思います。(p.3)ごく個人的に聞いた自身の友人や後輩の話を、「毒親」の例としていくつも採り上げてみたり、六本木ヒルズの森タワー入口にある巨大な蜘蛛の彫刻の女性作者の母親に対して、彼女が行動することを妨げていた状況を慮ることがほぼなかったりすることに、この問題に対する著者の思いや感情の本質が見られる気がします。先日読んだ『バカと無知』に出てきた『記憶はある種の「流れ」であり、思い出すたびに書き換えられている』という言葉や「トラウマ治療が生み出した冤罪の山」や「トラウマとPTSDのやっかいな関係」に記されていたことが、本著を読みながら、何度も頭に浮かんできました。『「毒親」の正体』や『母という病』等を、併せ読むことをお勧めします。
2024.02.18
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『ケーキの切れない非行少年たち』の宮口教授による一冊。 非行少年たちの実態は、ストーリー展開した方が伝わりやすいのではとの思いから、 コミック版を、2023年9月時点で第7巻まで刊行されていますが、 2022年9月に刊行された本著は、その小説版ということになります。 登場するのは、振り込め詐欺の片棒を担ぎ、借金をしていた女友達を殺害した少年、 中学校の担任女性教諭を、失明の恐れがあるほど殴った妊娠8カ月の少女、 父親を困らそうと自宅に灯油をまいて放火し、隣家に住んでいた女性を焼死させた少年、 近所に住む7歳の女子児童にいたずらして入院するも、出院後に再犯してしまった少年。これらの少年たちについて、その家庭環境や生育歴、犯行に至る経過やその後、さらには、主人公の精神科医が医療少年院や女子少年院で関わった様子が描かれていきます。お話は架空のものとされていますが、著者の宮口教授の実体験がベースになっているでしょう。主人公の家庭や職場、特に異動についての描写は興味深いものがありました。
2024.01.31
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親にとって、我が子は何歳になっても子どものまま。 それ故、自身がこの世を去った後のことまで、心配になってしまう。 ましてや、子どもに障害があり、自身がその世話をずっとし続けてきたならば、 後々のことを考えると、不安にならずにはいられません。 ところが、心配はしてみるものの、 じゃあ、具体的に何をどうしておけば良いのかというと、 実際のところは、よく分からないことばかり…… 本著は、そんな人たちのために書かれた一冊です。著者は、親の不安は次の3つに集約できるとしています。①お金で困らないための準備をどうするか②生活の場はどのように確保するか③日常生活で困ったときのフォローをどうするかまず、お金については、無理してたくさん残すことよりも、将来のために使われる仕組みを準備することが大切だと言います。そのうえで、将来の収入(障害基礎年金やその他の手当て、就労による収入等)と支出(家賃、光熱水費、医療費、健康保険料、税金等)とその助成について述べられます。そして、お金を残す仕組みである「遺言」や「信託」についてや、そのお金を管理する仕組みである「成年後見制度」や「日常生活自立支援事業」、生活困ったときのセーフティーネットである「成生活困窮者自立支援制度」や「生活保護」について説明がなされます。続いて、生活の場としての、障害者支援施設、グループホーム、ひとり暮らし、そして、きょうだいや親族との暮らしの4つについて述べられます。日常の見守りについては、福祉サービスを積極的に利用し、地域の人たちに子どものことをよく知ってもらおうと呼びかけます。そして、この本で伝えたいこととして ●社会と接点を持つ=子どものことを話せる 相手を見つけておく ●状況はよくなっている、と気楽にかまえる ●最低限の準備はしておく ●いざとなったら何とかなる!の4つを挙げ、締めくくっています。
2021.09.07
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著者は、精神科医の中井久夫さん。 『アリアドネからの糸』所収の「いじめの政治学」に基づく一冊で、 自身の体験を振り返りながら、いじめかどうかの見分け方や、 その段階を「孤立化」「無力化」「透明化」の三つに分け説明しています。 かなり大きめの文字サイズを使用して作られた本著は、 1ページが24字×Ⅹ10行、印字されたページ番号の最後が100という たいへんコンパクトで、読み進めやすい一冊になっており、 いわさきちひろさんの手によるカバー画と装画に心が癒されます。
2021.08.29
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著者の山本さんは、大学卒業後、毎日新聞に入社し、 横浜支局、東京社会部、サンデー毎日で取材に携わっていた方。 BS11で報道番組を担当し、その後東京社会部に戻った時期に、 都内公立小学校でPTO団長(PTA会長)を務められました。 超多忙であったはずの著者に、PTA会長就任依頼が舞い込み、 それを引き受けるに至った経緯は、第1章冒頭で語られます。 その前向きな姿勢に、まずは感心させられましたが、 その後、PTA改革を推進していく辣腕ぶりには、さらに感心させられました。近年、全国的にPTA改革が急速に進められていますが、本著は、その手引書に相応しい一冊です。 *** このときの経験から、改革を進めるうえで大事なことを学びました。 その行事や担当がいつから、どのような理由で始まったのか、 なぜやらなければいけない活動なのか-を、過去にさかのぼって調べ、 それをわかりやすく伝え、理解してもらうことができれば、 「前例」の壁は突破できるのです。(p.67)これは、本当に大事なポイントだと思います。PTA活動だけでなく、学校の様々な取り組み全般について言えることかもしれません。 誰もが参加しやすいPTAにするには、「PTAは大変だ」という負担感や、 不公平感をなくしていかなければなりません。 そのために2つの案を作りました。 まず1つ目は委員会の数を減らすものです。(中略) 「すべてのPTA活動はボランティアでまわすことができる」という思い -PTA改革の目玉と言える案です-については、 「委員会統廃合案」その2で紹介しました。(中略) ズバリ、委員会をすべて廃止します。(p.117)「委員会の数を減らす」ところまでは考えても、「委員会をすべて廃止します」とまでは、なかなか行きつかないところ。でも、ここに手をつけたことによって、その先への道筋が、大きく開けたのだと感じました。 組織の改革には時間がかかります。 でも、躊躇していては物事は進みません。 大きな改革はPTA規約を改正しなければならないので、 まずは規約改正には手をつけず、できることから始めようと決めました。 そして、次の1年間をかけて活動をすべて見直し、 「委員会の統廃合」を中心とした抜本的な改革を進めることになります。(p.89)これは、目から鱗が落ちる発想。本著で最も参考になる部分かもしれません。 そこでPTO1年目は、 「楽しむ学校応援団A小学校PTO(A)お試し期間中!」を実施しました。 規約を変えることなく、 PTOとしてスタートを切るために考え抜いた「ウルトラC」です。 この方式だと、もしボランティア制でうまくいかなかった場合、 修正したり、元に戻したりすることも可能です。(p.178)この「ウルトラC」は使えます!!「修正」や「元に戻す」ことが可能なのも、とても良いですね。 結果として1年間、「お試し」期間を設けてよかったと思います。 新しいPTO規約も1年間かけてじっくりと作成することができました。(p.190)恐らく、この「お試し」期間を設けたからこそ、皆の協力体制を構築し、改革を進めることが出来たのだと感じました。
2020.12.30
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娘との関係に、何とも言えないもどかしさを感じている父親は多い。 そんな父親たちが、思わず手を伸ばしたくなるようなタイトルを冠したのが本著。 「娘との関係を、少しでも改善するための糸口を見つけることが出来れば……」 期待を込めて、父親たちはページを捲り始める。 しかし、第1章で展開されるのは、今や売れっ子となった著者の体験談。 それは、羨ましいばかりの父と娘の関係。 「残念ながら、そんなんじゃないんだよなぁ、ウチは……」 新しい展開を期待しつつ、父親たちは第2章のページを捲る。そこでみつけたのが『5W1Hは、脳を迎撃モードに入れる』(p.45)。男にとって当たり前の『問題解決の対話』が、女性のご機嫌を損ねるらしい。女性が求めているのは『心の対話』で、これは妻も娘も同じとのこと。「なるほど、これは思い当たる節がアリアリすぎる」目の前が少し開けてきたような気がしながらページを捲り続けると、『心の対話』をするための指南が次々になされていく。『相手の変化に気づいてことばをかけよう』『自分の話をプレゼントする』『頼りにする』『弱音を吐こう』『オタクになろう』等々。そして辿り着いたのが『生殖ホルモンのいたずら』。 まず、「思春期とは、そういうもの」とまるっきり呑み込もう。 尖った目で、うんざりした顔をされたら、「きたきたーっ」と思えばいい。 悲しむことはない。(p.83)娘とは、そういう風に出来ているものだと分かれば、いちいち気をもまずにすむ。そして、『「お父さんは臭い」は、後継者の証』には感動。『お父さんにとっても、娘にとってもツライこの時期は、いつか必ず終わる。』(p.87)目の前に、明るい未来が一気に広がった気がした。そして、第3章。世の父親たちよ、期待して読み進められよ。
2020.11.28
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副題は「大先輩たちが語る生き方のヒント」。 「不登校新聞」に掲載されたインタビュー記事をまとめた一冊ですが、 聞き手は、不登校・ひきこもりの当事者・経験者である子ども・若手編集部、 答えるのは、樹木希林さんをはじめとする様々な分野で活躍する20人です。 2002年6月15日に発行された100号に掲載された横尾忠則さんから、 2018年1月15日に発行された474号に掲載された安富歩さんまで、 インタビューが行われた時期にも幅があり、また、答えた方の属性も実に様々。 不登校についても、色んな捉え方、受け止め方、考え方があることに気付かされます。 *** この先、あなたはなぜ自分がこんな状況になってしまったのか、 考えるときがくるでしょう。 でも、その原因究明はするべきじゃありません。 原因を究明しても、誰かを悪者にして終わるだけ。 誰も助からない。 明日、どうやって飯を食うかのほうが、よっぽど大事です。(p.79)これは、本著の装画も描いている西原理恵子さんの言葉。この部分はもちろん、西原さんの言葉は全体を通じて共感できるところが多かったです。 難しいですが基本的には 「あなたが学校に行こうと行くまいと、私の人生に何の関係があるの」という、 ほとんど太陽のようなあり方をしていたほうがいいと思いますね。 不登校にしろ、病気にしろ、それはたんなる一つの現象にすぎません。 その現象や症状が、病気とか、健康とか呼ばれるだけのことです。 無難な症状だけを見せていれば健康と呼ぶわけです。 症状だけをどうにか押さえつけたところで大きくは変わらないでしょう。(p.109)これは「不登校の息子に親としてどう寄り添えばいいのでしょうか」という問いに、玄侑宗久さんが答えたもので、この後にも僧侶らしい深みのある言葉が続きます。 子どものときを思い出すと、信じて待ってほしかったなと。 10代だったころは気持ちと行動がなかなか伴わないし、 親としては子どもの今後を決めてあげないと責任を放棄している気にもなります。 でも、親が「子どものために」と動きまわっているときは、 「ああ、やっぱり信じてくれないんだな」と 子どもは思ってしまうこともある。(p.161)これは「学校に行かない子に対する大人の役割は何だと思いますか?」という問いに、辻村深月さんが答えたもので、『かがみの孤城』についての問答も興味深いものでした。
2020.11.15
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妹尾昌俊さんが、教育現場の危機的状況、 なかでも教師にスポットを当て、世間に向け警鐘を鳴らす一冊。 妹尾さんの文章は、Yahoo!ニュース等でも頻繁に目にするようになりましたが、 現場感覚やその実態を、かなり忠実に伝えてくれていると感じます。 本著では「ティーチャーズ・クライシス」として、 「教師が足りない」「教育の質が危ない」「失われる先生の命」 「学びを放棄する教師たち」「信頼されない教師たち」の5つを挙げ、 様々なデータを基に、その現状について説明してくれています。第1章の「教師が足りない」は、コロナ禍の現時点でも最も切実な問題であり、いくら予算を付けようとも(これまでは付けようともしませんでしたが)、実際には、その担い手となりうる人材が絶望的に不足しています。その原因だけでなく、今後の行く末についても、著者は記しています。残りの4つのクライシスについても、どれもこれも本当に苦しい状況であり、その中で、著者は第6章で、学校が目指すべき方向を示してくれています。「欲張りな学校」をやめるしかないことは明確ですが、どこまで周囲の理解や協力を得られるかが鍵となってくるでしょう。 *** 筆者の独自調査でも、教師の1か月の読書量について聞いたところ (小説、漫画などは除く)、 小学校教員の約3割、中学校、高校の教員の4割以上が「0冊」と回答しました。 おおよそ6~8割の教員は本から学びを得ておらず、 1~2割の教員はたいへん熱心に本から学んでいる。 そんな二極化した状況が見て取れます。(p.196)著者の調査では、小説は何冊読んでも、読書量としてはゼロカウントで、全く学びに繋がらないという扱いであるということに、ちょっと驚きました。小説からも、漫画からも、作品によっては多くの学ぶべき事柄があり、それらは教員にとって、大きな力になることも多々あると思うのですが……
2020.08.02
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昨年度まで、東京都世田谷区立桜岡中学校で、 10年の長きに渡り、校長を務められた西郷先生の著作。 様々な場面で取り上げられ、広く名前が知られるようになった同校ですが、 その在り様については、絶賛する声と同時に、批判的な声も聞こえてきます。 *** 本気の衝突や喧嘩を経て成長した子どもは、強いですよ。 なぜなら、「人間は必ずしも言葉と感情が一致する時ばかりではない」と 身をもって理解できるようになるからです。 たとえば、「バカ」と罵倒してきた同級生が、 「実はかまってほしいことを素直に伝えられないだけではないか」などと、 言葉の背景にある感情を察せられるようになります。 結果、最終的には無駄ないさかいは減っていきます。(p.26)現在の学校では、多くの場合、子どもたちがこのような気付きに至る前に、衝突や喧嘩は即座に中断されてしまいます。それ以前に、そういった事態にならないよう教師たちは常にアンテナを張っています。なぜなら、トラブル発生後の対処が遅れると、学校は強い非難に晒されるからです。 実際、1学期あたりに桜丘中学校を訪れる外部見学者は、 中学3年生のクラスを見ると、 「まだ中学生なのに自律的に動いている。高校生や大学生のようですね」 と褒めてくれます。 ところが、同じ見学者が1年生のクラスを覗いて絶句するのです。 「桜丘中の1年生は荒れている。しかも先生方は注意もしない」 ここからは教員と生徒の我慢くらべです。 外部から何と言われようと、踏ん張って叱らずにすませます。(p.212)実際には、教員と生徒の我慢比べだけでは済まないでしょう。きっと様々な方面から、様々な厳しい声が届いていたはずです。それを、「教員と生徒の我慢比べ」のように、教員や生徒に感じさせていた裏には、西郷先生の、言葉では言い尽くせぬほどの、並々ならぬ奮闘があったはずです。そして、先ほどの文章は、このように続いていきます。 すると、その積み重ねで、子どもたちが「本当に自由にしていいんだ」 と実感するようになるのです。 と同時に自分達に注いでくれる教員の愛情にも気づき始めます。 それに要する期間がだいたい1年、 遅くても2年生の夏休みが終わる頃には、驚くほど落ち着いてきます。 「試し行動」はなりを潜め、小学校で暴力的でみんなに嫌われていた子や 勉強を全然やらなかった子も自分の考えをきちんと持ち、 問題行動が出なくなります。 さらには、進んで学ぼうとしたり、 やりたいことのためにがんばったりするようになるのです。 それは見違えるほどの変化です。 教員たちも、こうした変化が毎年起きているのを知っていますので、 「この子たちは大丈夫」と教員同士で励まし合いながら、 ひとりひとりの成長を信じて待つことができるのです。(p.212)この落ち着くまでの期間を、どうとらえるかによって、この取り組みの受け止め方は、大きく異なってくることでしょう。1年から1年半という期間は、中学校生活全体の中で決して短いものではありません。およそ3分の1から2分の1にも至ろうかという、とてつもなく長い期間です。もちろん、その期間を経て、生徒たち一人一人が得るものは、とても大きく、その後の人生において、何物にも代えがたい価値あるものだと思います。しかし、そこに至る前の段階で、本当にしっかりと集中して授業に取り組んだり、肩の力を抜いて、楽しく学校生活を過ごせているのでしょうか?そのあたりの実態は、本著を読むだけでは伺い知ることが出来ませんでした。
2020.06.27
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様々な研究誌や会報、紀要、雑誌、新聞等に掲載された広田教授の文章や、 日大での講演、本著のための書き下ろしを加えて出来上がった一冊。 『教育展望』や『学校運営』『月刊教職研修』『日本教育新聞』等、 教育現場ではお馴染みのものに掲載された文章が多いです。 第1部は「中央の教育改革」、第2部が「教育行政と学校」、 そして、第3部が「教員の養成と研修」という、3つの観点から構成されています。 第1部と第2部からは、現在進められている教育改革の背景や、 それを突き動かしている政治の思惑がよく伝わってきます。 「生まれつきの能力」というのは、特別な障害を除いて誰にも分かりません。 にもかかわらず、「個に応じた教育」を早期の段階で始めると、 子どもたちの興味・関心や意欲は家庭環境に大きく左右されているので、 家庭環境の差が早期の学校選択に反映してしまいます。 レベルや内容の異なる教育、すなわち「分化した社会化」がなされていくことで、 結果的に一人ひとりの子どもの間の差異は増幅され、固定化されます。 まだ全国レベルでの分化の程度は進んでいませんが、 下手をすると、多くの子どもが小学校入学段階で将来が限定されてしまうような 教育制度にもなりかねません。(p.17)懸念されるような状況になることを、実は望んでいる人たちも存在する。そして、その状況をつくりだすべく改革が進められているのではないか……そんな風に思ってしまうのは、勘繰りすぎでしょうか。 学力が落ちていっているわけでもないし、教育内容への関心や意欲が低く、 家でもあまり勉強しない子どもたちを相手にして、 日本の学校は、国際比較で上位のスコアを維持している。 日本の学校の教員はよくやっている、というのが私の率直な感想である。(p.39)まさに、『FACTFULNESS』の世界。なぜ、逆方向のことばかり、足を引っ張る内容ばかりが広く喧伝されるのか…… 知識の有無は測定できるけれど、 抽象的な「〇〇力」なんてものは、簡単には評価できません。 評価すべきではないものまで評価しようとすることになったら、 教育の本質から離れてしまいます。(p.49)全く異論の余地がありません。何でも数値化し、評価しようとするのは危険極まりない行為です。 氏岡 国が緩やかに裁量を決めても、 地方行政の段階で締めつけが厳しくなっていくように感じられます。 広田 公教育が官僚制の末端に位置しているというベクトルと、 教育の専門性・自律性との間のせめぎあいなのだと思います。 近年は現場で問題が起きないように…… という上からの関与が厳しくなっていますが、 行政は現場を管理しすぎないでほしいし、 校長は、行政の下請けにならずに、 現場の教員の自主性と裁量を尊重する存在であってほしいです。(p.56)行政側からすると、校長なんて一介の課長にすぎません。そんな分際で上級行政職に逆らうなんて論外、と思っているはずです。さて、何と言っても、本著が優れていると私が感じたのは第3章。学校に関わるものは、ここだけでもぜひ読んでほしいと思いました。 日本の教員の仕事は意外なほどチーム労働である。 教育以外の分野の研究者と議論して、 なかなか理解してもらえないのは、この点である。 政治学の専門家でも経済学の専門家でも、自分が受けてきた教育を思い出すとき、 教壇に立つ授業中の先生の姿だけを思い浮かべているらしい。 だから、個人を単位とした評価・競争の徹底をやれば、 教育の質が向上するはずだ、と思い込んでいる。 実は、教員の仕事の重要な部分は、教員集団のチーム労働や、 メンバー相互の協力によって支えらえてきている。(p.200)このあと、著者は現場の様子を3つの側面から述べています。まさに、これが教員の世界であり、「こうあらねば」と思わされます。 このことを私は「教育の不確実性」と呼んでいる。すなわち、 ①教育を受ける側は、教育に対して、 常にやり過ごしたり離脱する自由を持っている。 ②教育を受ける側は、教育する側が意図したものと まったく異なることを学んでしまう可能性がある。 ③教育の働きかけは、相手(と相手の状態)によって、 まったく異なる結果が生じてしまう。 ④それゆえ、教育に失敗はつきものである。(p.222)これも素晴らしい。まさに、これが「教育」ですね。
2020.06.14
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麹町中学校校長だった工藤勇一さんが、親向けに書いた子育て論。 現在は、横浜創英中学・高等学校で校長を務めておられます。 本著では、学びの本質、しつけの本質、多様性の本質、そして自立について、 ご自身の考えを、これまでの実体験を交えながら述べておられます。 例えば、『第1章 勉強の「正解」を疑う 学びの本質とは』では、 「宿題はいらない」「机に向かう習慣は、本当に重要ですか?」 「わかっていることはやらなくていい」「大量の宿題は先生の都合」等、 刺激的な小見出しを連発しながら、持論を展開されていきます。また、『第2章 「心の教育」を疑う しつけの本質とは?』では、『「服装の乱れは、心の乱れ」って本当?』『「ルールを守らせる」に必死な大人』『「あの子と距離を置きなさい」はダメ』等々述べられた後、『「心の教育」が席を譲らない社会をつくった?』と続けられます。そして、『第3章 「協調性・みんな仲良く」を疑う 多様性の本質とは?』では、「違いを認める姿勢」「合意形成」の重要性を、『第4章 「子どものために」を疑う 自律のために親ができること』では、「後ろで支えて、徹底的に待つ」姿勢の重要性を説かれています。『学校の「当たり前」をやめた。』同様、「その通り!」と思えるところもあれば、「それは、ちょっと違うのでは……」というところもありました。それぞれの場所で、それぞれのタイミングで、何がよりベターなのかを常に考え続け、実行していくことが大切なのだと思います。もちろん、あまりに急激な変化、大き過ぎる変化には、細心の注意が必要です。 「昔はヤンチャをしていました」 そう自慢げに語る芸能人と、 それを見て「恰好いい!」と評価してしまう世間に私は違和感を覚えます。 公の場に出る人であれば、 「自分の過去を後悔しているし、迷惑をかけた人たちに謝りたい」と はっきり言い切るべきです。 ましてや「当時の経験がいまの自分に役立っている」と大の大人が言ってはいけない。 自分の経験を深めるために、他人の自由を侵すことがあってはいけないと しっかり教えるのが大人の役割ではないでしょうか。(p.79)芸能人だけでなく、自治体の長にもそんな人がいましたね。そんな人たちの言葉を聞いて「恰好いい!」と評価してしまう方向に、世間をミスリードしてしまったのは、いったい誰?
2020.05.16
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著者は、かつて公立高校の教諭として約20年間勤務し、 早期退職後に大学非常勤講師や公立教育センターでの教育相談、 高校生・保護者対象の講演等の教育活動に従事してきた方。 教諭としての初任校は「底辺校」、その後「進学校」での勤務経験も併せ持つ。 実は「教育困難校」にはアルファベットを正しく書けない生徒が 相当数存在するという問題だ。 特にbとd、mとn、qとgなど似た文字を書き分けられない生徒が多い。 全く勉強する気がなく覚えようとしない生徒も少しはいるが、 先天的な学習障がいを持ちながら、 今まで気付かれず何も訓練を受けなかったからという理由が ほとんどではないかと推察できる。(p.53)あくまでも「推察」である。しかし経験上、そう感じざるを得ないという実感が著者にはあるのだろう。 これからの社会では、考えられる人、 主体的に学び続けられる人が求められると言われて久しい。 そのような人の育成を目的に各学校段階でアクティブ・ラーニングや 協同学習などの新しい教育方法が試みられており、高校教育でも例外ではない。 だが、教育方法の改革以前に 授業を成立させること自体が難しい高校がある現実から、 目をそらしてはいけない。(p.67)改革を進めようとする際、このような現実は枠の外に置かれてしまいがちである。本著出版の意義は、それも含めて論議することの必要性を示している点にある。 会議が終了した時点では既に19時を過ぎている。 それから担任は、事件の当事者の生徒や保護者に電話連絡を入れる。 それ以外の教員の中には、明日の授業準備を始める者もいる。 何か事件が起こらない日の方が少ないので、 「教育困難校」の職員室はほぼ連日21時過ぎまで照明が点いている。(p.97)「働き方改革」が叫ばれているが、その前にこのような現実がある。地域の児童・生徒が通う小中学校だと、「電話連絡」でなく「家庭訪問」になることが多い。その他、本著には、「教育困難校」の生徒たちの類型や、先駆的な脱「教育困難校」改革の動き等、「なるほど」と思わされる記述が多い。そして、このような状況の中で奮闘している教職員に世間の関心が向けられ、正当な評価、給与などの待遇面での厚遇、十分な休養が得られることを願わずにはいられない。
2020.01.05
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わずか182頁のコンパクトな一冊ですが、読む価値は大いにあります。 今年の夏に刊行されたものですが、今なお売れ続けているのも頷けます。 著者は、立命館大学産業社会学部の宮口教授。 児童精神科医で、医療少年院で勤務したこともある方。 その経験をもとに書かれた本著は、非行少年の実態を知るには絶好のもの。 そして、その知見は、非行少年に限らず、 子どもを理解するために、知っておくべき事柄であふれています。 誰もが、「そうだったのか!」と気付かされるとがきっとあるはずです。 *** 同じことは学校教育にも当てはまります。 悪いことをした子がいたとして、反省させる前に、 その子にそもそも何が悪かったのかを理解できる力があるのか、 これからどうしたらいいのかを考える力があるのか、を確かめなければなりません。 もしその力がないなら、反省させるよりも 本人の認知力を向上させることの方が先なのです。(p.57)いきなりズバッと来ました。そして、この状況は「子」だけに起こるものではなく、保護者である「大人」でも、同様に起こりうることを心にとめておかねばなりません。学校を卒業して、年齢を重ねれば、皆、誰もが同じようになっているわけではありません。 子どもの課題を保護者に理解してもらうことの難しさは、 保護者に関わっておられる専門家や学校の先生方ならよくご存知のことと思います。 (中略)自分の子どもが殺人を犯してすら、 子どもの問題を理解・受容しようとしない保護者がいるくらいですから、 子どもの少々の問題だけでは危機感を抱かず 聞く耳を持たない保護者がいても不思議ではありません。(p.96)もちろん、親の感情として「受け入れ難い」ということは理解できます。しかし、「それだけではない」と思わざるを得ない状況も、ままあるのが現実。そして、それは、ひょっとすると上記のような事情があるかもしれないのです。そんな場合の対応は、本当に難しくなってしまいます。 ・聞く力が弱い→友達が何を話しているか分からず話についていけない ・見る力が弱い→相手の表情やしぐさが読めず、不適切な発言や行動をしてしまう ・想像する力が弱い→相手の立場が想像できず、相手を不快にさせてしまう(p.80)「なぜ?」と思わざるを得ないような行動の背景には、このような「聞く力」「見る力」「想像する力」の弱さがあることも。目の前の子どもたちの、こんな状況は何とかしないといけない。何ともできないまま卒業、大人になってしまうと後々困ることになるのですが…… つまり、今の学校教育には系統だった社会面への教育というものが全くないのです。 これは大きな問題です。 社会面の支援とは、対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、 問題解決力といった、 社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身につけさせることです。(p.127)これは、大きな問題提起だと思います。もちろん、学校が何の手立ても施していないということはないでしょう。各校とも、場面場面をとらえて、様々な取り組みを行っているはずです。しかしながら、「系統的」かと言われると、「そうではない」と言うしかありません。では、実際にどうすればよいのでしょう?著者は、自身が取り組んだ様子について記してくれてます。 人が自分の不適切なところを何とか直したいと考えるときは、 「不適切な自己評価」がスタートとなります。 行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気づくこと、 そして自己洞察や葛藤をもつことが必要です。(p.150)「現実の自分」に気づかせることは、そう簡単なことではありません。でも、それなしには、次のステップへと進んでいけないことは確かでしょう。自己に注意を向けさせる方法のひとつに、「他人から見られている」があり、少人数のグループワークが有効であるとの指摘は、大きなヒントになりそうです。 コグトレとは、認知機能を構成する5つの要素 (記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対応する、 「覚える」「数える」「写す」「見つける」「想像する」の 5つのトレーニングからなっています。これも、本著が提供してくれる大きなヒントの一つ。この認知機能強化トレーニングについては、書籍も販売されているとのこと。そして最後に、本著で興味深かったのは、次の「自尊感情」に対する記述。これまで、あまり見たことのない内容で、目からうろこでした。 つまり、自尊感情が低くても社会人として何とか生活できているのです。 逆に、自尊感情が高すぎると自己愛が強く、 自己中のように見えてしまうかもしれません。 大人でもなかなか高く保てない自尊感情を、 子どもにだけ「低いから問題だ」と言っている支援者は、矛盾しているのです。 問題なのは自尊感情が低いことではなく、 自尊感情が実情と乖離していることにあります。(中略) 無理に上げる必要もなく、低いままでもいい、 ありのままの現実の自分を受け入れていく強さが必要なのです。 もういい加減「自尊感情が……」といった表現からは卒業して欲しいところです。(p.125)
2019.12.01
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『AI vs 教科書が読めない子どもたち』の続編。 というか、本著はRST(リーディングスキルテスト)について述べた一冊。 RSTは、著者らが考案した基礎的・汎用的読解力を測定するもので、 「事実について書かれた短文を正確に読むスキル」を 6分野に分類、設計されています。その6分野とは、1.係り受け解析……文の基本構造(主語・述語・目的語など)を把握する力2.照応解析……指示代名詞が指すものや、省略された主語や目的語を把握する力3.同義文判定……2文の意味が同一であるかどうかを正しく判定する力4.推論……小学6年生までに学校で習う基本的知識と 日常生活から得られる常識を動員して文の意味を理解する力5.イメージ同定……文章を図やグラフと比べて、 内容が一致しているかどうかを認識する能力6.具体例同定……言葉の定義を読んでそれと合致する具体例を認識する能力これまでに小学6年生から一流企業の社会人まで、のべ11万人を超える人々が、有償版RSTを受検しているとのことですが、本著には、その「体験版」が掲載されており、イメージがつかめるようになっています。(結構、気合を入れて取り組まないと、痛い目に合うのでご注意を!)これまでのデータから、その結果には代表的なタイプがあると言います。それは、1.理数系が苦手?<全高後低型>2.自力でもっと伸ばせる<全分野そこそこ型>3.中学生平均レベル<全低型>4.知識で解いてしまう<前低後高型>5.読解力ばっちり<すべて10点満点型>第7章以降は、「リーディングスキルの向上」について記されています。読解力を培う授業案や、著者の身近な人物の体験談が掲載されおり、また、著者が考える「幼児・児童期の教育のあり方」もまとめられています。この部分こそが、本著のタイトルに示された内容になっていると言えるでしょう。
2019.11.23
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本著を購入するに至ったのには、理由があります。 タイトルに掲げられている「時間対効果」や「エビデンス」という語から、 本著が扱おうとしている内容が、旬でとても興味深いものに思えたから。 また、目次に示されている項目も、次のようなもので、面白そう。 ・広まりつつある共同学習。果たしてその効果は!? ・意見真っ二つ!? 宿題は学力向上を促すか? ・増えてきたICT機器の「時間対効果」はいかに? ・日本では当たり前の制服! その効果は果たして ・毎日の学級通信が 良いクラスを作る!?ところが、それに関する記述が……とても残念……ネットで書籍を購入することのリスクを、久しぶりに思い知らされた一冊。特に、本著のように出版されて日が浅く、カスタマーレビューが、まだ全くないものについては要注意ですね。
2019.09.01
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佐藤学氏が進める「学びの共同体」による改革の現状を記したもの。 日本各地にその輪が広がっている様子に加え、 海外でも、その改革が受け入れられ、広がりつつあることが伝わってくる。 「学びの共同体」というものを知るうえで、必読の一冊。 *** 学びの共同体の改革を推進している学校の授業では 「聴き合う関係」と「ジャンプの学び」と 「真正(オーセンティック)の学び=学びの本質に迫る学び」の三つの要件によって、 「質の高い学び」を追及している。(中略) この三つの要件の成熟度が、その授業における学びの質を決定するということであり、 さらに言えば、その成熟度は、その学校の同僚性の高まりは、 何よりも教師たちの日々の授業研究の積み重ねによってもたらされる。(p.115)「学びの共同体」における基本的な姿勢が、ここに示されている。しかし、これにも変化が見られるという。 とはいえ、20年間の持続によって、少しずつ力点が異なってきたことも事実である。 改革の当初は「聴き合う関係」づくりが最も重要であった。(中略) それと同時に力点を置いたのが、 授業協議会における「リフレクション」であった。(中略) その次に力点を置いたのが「ジャンプのある学び」である。(中略) その次には「真正の学び」を力点とした。(中略) そして現在、 これまでを総合して「学びのデザイン」を力点として追及している。(p.161)「学びのデザイン」、これが今後の取り組みのキーワードになるのであろう。これに関する著作が発行される日が待ち遠しい。
2019.09.01
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副題は「日本の数学教育の致命的欠陥」。 著者は『分数ができない大学生』の執筆者の一人、桜美林大の芳沢教授。 著者は、分数が出来なくなった背景に、 「は・じ・き」と「く・も・わ」があると言う。 「は・じ・き」は、「速さ」×「時間」=「距離」の頭文字、 「く・も・わ」は、「元にする量」×「割合」=「比べられる量」の頭文字だが、 子どもたちは、これを「は」と「じ」の上に「き」、 「も」と「わ」の上に「く」と視覚的に覚えているとのこと。そして、この種の問題で驚くべく誤答を書く学生に限って、「は・じ・き」と「く・も・わ」の図が、描き添えられていたのだそうだ。つまり、「やり方」だけを暗記し、そのプロセスを全く理解していないため、まるで見当はずれな間違いを、平気でしてしまっているのだと。と言うことで、本著は「暗記だけでプロセス無視」になってしまっている数学教育を、今何とかしておかないと、とんでもないことになってしまうという警告の書である。 *** 来たるAI時代に向けた学習では、 コンピュータと競うかのような答えを当てる学習スタイルより、 論述力のアップを目指す学習スタイルの方が大切なことは言うまでもない。 もちろん、これまで私が主張してきた「式変形もきちんと書く、 多様な計算練習をたくさん行うべき」と言う主張に変わりはない。(p.98)新学習指導要領が求めているものが、ここにある。そして、次のことにも同じことが言える。 私は何十年も前から、 「数学は教え合うと効果的な教科である」ということを薄々感じていた。(中略) 「こんなことを聞いたら恥ずかしいんじゃないか」と思うような内容は、 教員にはなかなか質問できないだろう。(中略) だが、そのような空気が充満していても、気心の知れた友人同士であれば、 恥ずかしい気持ちを持つことなく何でも質問できるものである。(中略) 試験で100点をとった人でも「三慧」の視点から見れば、 まだまだ「聞慧」の状態の場合はいくらでもある。 だから、そのような人は「思慧」、そして「修慧」のステージを目指せばよい。 すなわち、100点をとった人が40点の人に教える場合でも、 その人は「修慧」の段階の10000点を目指せばよいのである。(p.141)「三慧」については、著者がp.138から丁寧に説明してくれている。これこそが「学び合い」だと感じた。
2019.07.27
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「ハラスメント」。 今では、日常生活の中でも頻繁に使われるようになった言葉。 「セクハラ」から始まって、「パワハラ」「モラハラ」「アカハラ」等々、 実に様々な「ハラスメント」を表す言葉が、巷に溢れかえっています。 「ハラスメント」を日本語に訳すと「嫌がらせ」。 じゃあ、「嫌がらせ」と「いじり」は、どう違うのか? 「嫌がらせ」と「いじめ」の境界線は、どこなのか? あなたは、答えることができますか?さて、本著は学校におけるハラスメントについての一冊。体罰、巨大組体操、スクール・セクハラ、部活動、教師の暴力被害、そして、問題行動の件数という6つ観点から、内田准教授が、これまでの研究成果を踏まえながら論じています。 ***さて、本著で私が付箋を貼った部分をご紹介。 これからは、たとえ暴力に効果があるとしても、 それでも他の手段を選ぶべき時代なのだ。(p.60)実に明快。何の補足も必要ないですね。 部活動の設置・運営は法令上の義務ではなく、 学校の判断により実施しない場合もあり得る。 実施する場合には学校の業務として行うこととなるが、 平成29年度から部活動指導員が制度化されたところであり、 部活動指導は必ずしも教師が担う必要のない業務である。(p.161) 一定数の犠牲の上にはじめて成り立つような活動であるならば、 少なくとも学校教育としては不適当である。(p.175)平成30年度に「部活動ガイドライン」が示され、また、学校における「働き方改革」も叫ばれています。そして、教員の異動や適正配置の観点からも、「部活動指導」は、大転換期に差し掛かったと言えるでしょう。 「子どものために」は、教員にとって殺し文句である。 反論しようものなら、 「あなたは子どものことを大事に思わないのか」という、 「教師失格」のレッテルが貼られる。 教員においては、「労働者」として休む権利は、 もはや剥奪されてしまっている。(p.166)部活動については、この言葉の持つインパクトは、少しずつ変化しつつあると感じますが、それ以外の場面については、相変わらず。過剰要求と思われる内容でも、この言葉を使われると断りづらくなってしまいます。
2019.06.29
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副題は「学びの共同体の構想と実践」。 第1刷発行は、2012年7月5日。 著者は、東京大学名誉教授の佐藤学さん。 本著は、岩波ブックレットの1冊で、全62ページ。 『学びの共同体の挑戦 -改革の現在-』を読み始めたものの、 今一つピンとこない、そしてイメージがわかないのは、 きっと、私が「学びの共同体」自体を全く分かってないからだと思い、 文中にさかんに登場する本著を、先に読んでみることにしました。 *** 学びの共同体の学校改革は、しかし「方式」でもなければ「処方箋」でもない。 学びの共同体の学校改革を「方式」あるいは「処方箋」とした学校で、 成功した事例はない。(p.3)いきなり難しい……あれこれ考えても埒が明あかないので、読み進めて行きます。 学校の公共的な使命と責任は 「一人残らず子どもの学ぶ権利を保障し、その学びの質を高めること」にあり、 学びの<質と平等の同時追究>によって「民主主義社会を準備すること」にある。 教師の使命と責任も同様である。(p.15)これは、あちこちで出てくるフレーズなので、学びの共同体というものを語るうえで、とても大事なことなのでしょう。 私の10年間の失敗続きの学校改革においてもっとも難しかったのは、 改革によって校内が分裂してしまうことだった。 一方で改革に熱心な教師が出現したとしても、 もう一方で改革に疑念を抱き抵抗する教師が出現したとしたら、 学校は内部において分裂してしまう。(中略) もし学校改革が校内に分裂を生み出すようであれば、 決して改革に取り組んではならない。 改革がもたらすデメリットの方が、 改革によるメリットよりもはるかに大きい。(p.21)この部分は、すんなり理解することが出来ました。しかし、この前提条件に従うと、改革に踏み出し進めることは結構難しい。 現在、小学校でも、中学校でも、高校でも、 「学び合い」による授業改革が広く展開されている。 しかし、その多くは「協力的学び(Cooperative learning )」であって、 学びの共同体の学校改革が推進している 「協同的学び(collaborative learning)」ではない。(p.31)この後、両者の違いについての説明が続いてきます。「協力的学び」は、ジョンソン兄弟の理論とスレイビンの方式が代表的研究で、「協同的学び」は、ヴィゴツキーとデューイの理論に基づくものだそうです。その上で、著者は次のように記しています。 したがって、「協同的学び」においては「協力的学び」のように、 教育内容と無関係に授業技術を定式化することは困難である。(中略) そのため、学校現場では「学び合う関係づくり」容易に定式化できる 「協力的学び」が、「協同的な学び」よりも普及しやすい傾向にある。(p.32)この辺りの事情が、学びの共同体をイメージしにくい原因となっていそう。抽象的で、具体的な姿をとらえることが難しい。その後の「5 教師間の同僚性の構築」や「6 保護者との連帯、教育委員会との連携」にも、とても良いことが書いてありました。実際の著者のお話は、とても素晴らしいものであろうと容易に想像できますし、それを聞いて、著者に賛同する人たちが多数出てくるのも納得です。さて、私の中では、まだまだ「学びの共同体」の姿を、まだまだハッキリとらえ切るに至っていませんが、取り敢えず、『学びの共同体の挑戦 -改革の現在-』の続きを読み進めていくことにします。
2019.05.03
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著者の平川理恵さんは、リクルートで8年間勤務した後、 留学仲介会社を起業して10年間その経営に当たり、 2010年からは横浜市立市ヶ尾中学校で5年間、 2015年からは横浜市立中川西中学校で3年間、校長を務めたという方。 2018年からは広島県教育長として活躍している。 *** PBLで教えると、生徒の興味・関心は高まる。 しかし、教師の力量によってかなりの差が出る。 全国津々浦々おしなべて一定のクオリティで教育していこうと思うと、 日本の積み上げ方式がよいのだろう。(p.83)PBLとは、Project based Learning=プロジェクト型学習のこと。欧米の学校の授業は、そのほとんどがPBLで、日本は学習指導要領に基づいた積み上げ方式であるという。が、新学習指導要領のキーワードの一つに「主体的・対話的で深い学び」がある。 前任校でも、一般級でも個別支援学級(特別支援学級)でもない 「特別支援教室」という別室をつくり、 異動時には「不登校生徒ゼロ」になるという実績があった。 実践してみて、「居場所」と「常駐の教員」と その子に合った「カリキュラム」-この3点セットがあれば、 生徒は必ず学校に来ると実感した。(p.157)第5章『特別支援教育・合理的配慮』には、公立学校にフリースクールを設置した経緯が詳しく記されている。「場所」「ヒト」「カリキュラムと教材」をどのように準備したかがよく分かる。本著の中でも特に興味深かったのが、この部分である。 そのとき、必ず「あなたは、なぜこの会社で働いているのか?」 「なぜ、今の仕事を続けているのか?」 「辞めない理由は何か?」を聞いていた。 そこにその仕事の、その会社の魅力があるからだ。(p.197)これは、著者がリクルートに勤務していた頃、「Bing」「とらばーゆ」に求人広告を載せる際に、依頼企業にインタビューした経験を記したもの。この経験を学校で生かしたエピソードも、大いに参考になるものだった。
2019.05.02
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滋賀県大津市のいじめ自殺事件報道が過熱していた2012年、 荻上チキさんは、「ストップいじめ!ナビ」の活動を開始しました。 その経験を踏まえ、データや社会理論を用いて、 いじめの現状とその構造を分析し、教室づくりに言及したのが本著です。 *** 2011年に起きた大津市のいじめ自殺事件。 それが起きた中学校は、文科省の「道徳教育実践推進事業」の指定校でした。 この学校では、道徳教育の主な目標の一つとして、 いじめのない学校づくりというものがうたわれていました。 また、第三者によるいじめ報告書を読むと、 いじめがエスカレートしたタイミングの一つが、 道徳の授業の後であったことがわかります。 そのため、報告書では、 「いじめ防止教育(道徳教育)の限界」という節を設け、 いじめ問題に取り組むためには、道徳の授業などに偏重することのない、 総合的な環境是正が必要であるという提言までされているのです。(p.78)この記述の後、著者は「いじめ被害にあったときの相談方法」の学習に加え、「いじめ被害を仮想的に体験する」機会を設けることを提唱しています。防災訓練や救命訓練のように、実際に体が動けるように練習するのです。漠然とした「徳育」でなく、具体的な実践が期待されるとしています。 教師から見ると、他の子は「普通に通えている」のに、 それでも来られない児童がいると、その子本人に 何か「特別な配慮」を必要とする要因があったのだと見えてしまいがちです。 そうではなく、何か教室に不適応な児童がいた場合には、 教室という環境そのものを見直すという発想を持つことが重要なのです。(p.101)この発想の転換は、とても重要なものだと感じました。ひょっとすると「不適応」の方が、素直で普通の反応なのかもしれないのです。 市民社会のルールよりも、 教室や少数の仲間たちの間でしか通用しない「オキテ」がはびこる状況は、 キャンセルされなければなりません。 グループの外には教室があり、そしてその外には市民社会があり、 社会で許されないことは教室でもグループでもアウトなのだという意識を育むこと。 それとともに、ミスマッチなグループや教室から簡単に離脱し、 他の選択肢をとりやすいような環境を作ることが必要になるでしょう。 現在の日本社会では、教室以外、学校以外の居場所が、 あまりに少なすぎるのです。(p.126)著者は「学校中心主義を生活中心主義へと変えていく」ことも提言しています。確かに、子どもたちの日常は、学校に関わることがその大半を占め、考えることも、することも、そればかりになり過ぎているように感じます。もっと色んな場所に目を向け、繋がり、関わっていくことが必要なのでは?
2019.05.02
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私の読んだものの帯には、 「紀伊国屋書店全店『教育書』部門3週連続1位(2018年12月Publine調べ) Amazon2部門ベストセラー1位」とあります。 話題になり、そしてよく売れた一冊。 著者は「とにかく明るい性教育【パンツの教室】協会」代表理事ののじまさん。 これまでに4,000人以上のお母さんたちと出会い、お話をしてきた経験を活かし、 本著では、性犯罪の防ぎ方、セックス、命の誕生、子どもたちの心の変化、 そして、今すぐできる性教育等々について、丁寧に説明してくれています。性教育を行うタイミングや、子どもからの質問への具体的回答例。さらに、3つの最重要ワードと「水着ゾーン」を駆使しての実践指南。どれもこれも「なるほど!!」というものばかり。お子さんが、3歳になるまでに読んでおくのがベターです。
2019.04.30
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新学習指導要領におけるキーワードのひとつが、 「主体的・対話的で深い学び」。 かつて用いられていた「アクティブ・ラーニング」という外来語が、 定義が曖昧で法令に適さないとの理由から、この表現が用いられることに。 この「教師が教える授業」から「子どもが学ぶ授業」への大転換ですが、 実は、これまでにも様々なところで、数多くの実践がなされてきています。 その一つが、本著の著者である山本崇雄先生が、 都立両国高等学校・附属中学校で始めた「教えない授業」。本著には、山本先生が実践された事例が、詳しく説明されています。中高における英語の授業を中心に、生徒との交換ノート、遠足や修学旅行、課外活動で行う英語劇、大学入試への対応等々、どれもたいへん参考になるものばかりです。 時間はかかるかもしれませんが、教師が生徒を信じ任せることが、 生徒を自立させるためには一番大切です。 こうすることで、生徒は普段の生活でも担任に依存しすぎることなく、 クラスを自分たちで運営することができるようになります。(p.63) 家庭や社会でも、テストや企画書の作成など 短いスパンでの達成度を求めるだけでなく、 長期的に、安心して挑戦させ、たとえ失敗してもそれを認め、 成長させていくゆとりが必要です。(p.120)この二つの文章に、山本先生の教育観を強く感じました。そして、これが「教えない授業」を成功へと導いた秘訣だと思いました。
2019.04.30
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著者は千代田区立麹町中学校長・工藤勇一さん。 山形県で生まれ育ち、東京理科大を卒業後、山形で公立中教員となり、 その後、東京都の公立中教員、教委指導課長等を経て、2014年校長に。 いわゆる民間人校長ではなく、教育困難校での指導経験も持つ方。 麹町中は、多くの日本の学校から見れば、少し「特殊」な学校です。 皇居に近く、学区内には国会議事堂や最高裁判所、首相官邸、 衆議院、参議院の議員会館などもあります。 今でこそ、地元の生徒が通う学校ですが、かつては、学区外の全都から 越境入学した生徒が半数以上を占めていて、 「番町小→麹町中→日比谷高→東京大学」といった 名門校の一つに数えられたこともありました。(p.2)卒業生は錚々たるメンバーで、ホールを始め、その施設・設備は相当なもの。外部指導員の支援を得る予算も十分にあると言います。 でも、だからといって、麹町中で取り組んでいることのすべてが、 この場所、この施設・設備がなければできないということではありません。(p.3)確かに、すべてができないということはないです。しかし、その場所、その施設・設備があるからこそ、できていることもあるでしょう。その辺りのことは、読む方が、それぞれの学校や地域の実態を把握したうえで、しっかりと考え、本著で述べられている知見を活かしていく必要があると感じました。 *** 本校の場合、1・2年生には各6人の教員が配属されており、 その全員が、4つあるクラスの担任という立場で、クラス運営に携わっています。 (中略) また、三者面談は、保護者と生徒が教員が指名する形で行っています。(p.38)教員が組織として指導に当たるということを、具現化した取り組み。しかし、三者面談で指名される数の偏りは、どうしているのでしょうか? 麹町中では、服装・頭髪の指導は一切行いません。 そもそも、頭髪や服装が問題だという概念そのものが なくなってしまったからです。(p.52)私自身も、これが理想形だと考えています。しかし、それを実現するためにクリアすべきことは、あまりにも多い。 ある日、女の子が家で食事をしているときに、 母親が「どうしたの?食欲ない?具合悪そうだけど」と聞いてきます。 その女の子は、そんなふうに感じていなかったので驚くのですが、 その言葉を受けて「ひょっとしたら、いつもより少し食欲がないかも」と返します。 すると、母親は、「何かあった?友達に何か言われた?」と、さらに追及してくる。 そのうち、女の子は「そういえばAちゃんに〇〇と言われた。 先生にも〇〇と言われた」、と嫌なことを次々と思い出し、 本当に気持ちが悪くなって、トイレに駆け込んでしまうという話です。(中略) つまり、大人が取るに足らない問題を取り上げ、言葉にしてしまうことで、 問題となってしまうことがあるのです。(p.89)これは、「『問題』は作られる」というテーマの部分で紹介されているエピソード。本人が気が付いていないことに気付かせてあげることは大事なことですが、度が過ぎると、こういうことも起こりうるという例です。でも、こういうケースは、結構頻繁にあるのではないでしょうか。 これから教育実践を貫くテーマは、 リアリティのある「社会とシームレスなカリキュラム」です。(p.103)これには激しく同意。人が興味・関心を示すのは、自分自身やその回りの現実に直接関わりのある事柄。自分のいる場所とは離れた場所で起こっている他人事になんて、誰も時間を費やして、注意を向けたりはしないのです。 しかし、現状の学校と保護者の関係を見ると、保護者が「消費者」、 学校が「サービス事業者」と化しているような状況が見受けられます。 保護者のクレームを真に受けて対応した結果、 子どもが自立する機会が失われてしまったこともあるはずです。(中略) 私は保護者の方々に当事者意識を持ってもらい、同じ目的を共有し、 合意形成を図っていくことが必要だと考えています。(p.152)著者は、その方策として「学校運営協議会」を挙げています。確かに、この組織と運営がうまく機能すれば、とてもいい。それでも、そこに深く関わって一緒に動く人たちと、そうでない人たちができてしまう。その乖離を最小限に抑えることが、とても重要になって来るのでしょう。
2019.03.03
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カスタマーレビューには、賛否両論それぞれ見受けられますが、 実際にPTA活動に関わることに「なってしまった」という人たちは、 多かれ少なかれ、こんな風に感じたり、思ったり、考えたりしたのでは? あくまでも「なってしまった」という人たちは、ですけれども。 けれど、「なってしまった」という人たちは、少なくないはず。 というか、割合でいうと、そちらの方が遥かに多いのではないかとすら思えます。 だからこそ、この問題は、しっかりと皆で考えるべき問題なのです。 もちろん「不要」の一言で、切って捨てられるような簡単な問題ではありません。 「理想を言えば、委員会を無くす。 それが無理でも、まずは委員会と役員の数を減らして、 各クラスからの役員の強制徴収を廃止する。 皆でやりたいもの、必要なものをボランティアで運営する。 完全なボランティア制度を目指していますが、 一気に変えるのは難しいでしょうから、 委員数を減らして、ボランティアの比率を上げる段階かなと思っています。 全員が何かしら参加できる形にする、それが理想です。 それで、達成感や一体感があるといいなと」(p.104)これは、東京23区の中心部にある小学校でPTA会長を務めるなつみさんの言葉。3人の子を持ち、自身もフルタイムで働く彼女の意見は、参考になります。 改革チームが目指したのは、 各クラスの役員は連絡係として学級代表の1名のみとし、 委員会はすべて廃止することだった。 組織自体を変えるのだ。 その代わりに本部役員を倍の20人程度に増やし、 イベントごとの統括係とし、そこに一般会員が手伝いという形で加わる。 強制ではなく、できる人ができるイベントにだけ関わる。(p.106)これは、東京23区北部の小学校で、委員会を廃止したPTA会長の環さんの例。委員会を無くすだけでなく、月に1回開催していた「運営委員会」も無くし、広報部も廃止して、PTA行事だけを載せる簡易なものを作ることにしたそうです。が、この変更による混乱で、環さんは頻繁に学校に通うことになってしまいました。 本部役員は学校行事だけでなく、教育委員会主催の研修会や、 地域の会議へ招集されることもあり、大きな負担になっていた。(中略) 学校は「地域とのつながり」を強調するが、 実際には子どもには直接関係ない活動ばかりなのだ。 環さんたちが優先したいのは子どものためになる、 子どもが喜んでくれる活動だった。(p.109)なぜ、こういうことになっているかは、「第5章 PTAはいつ、どこで始まり、なぜ続いているのか」と「第6章 PTAは必要か」を読み進めて行くと、分かってきます。「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」(1996[平成8]年7月)には、次のような文言が見られます。 「家庭・地域社会それぞれについて、子供たちを取り巻く環境が著しく変化し、 家庭や地域社会の教育力の低下が指摘されている今日、 学校と家庭、さらには、地域社会を結ぶ懸け橋としてのPTA活動への期待は、 ますます高いものとなってきている」(p.178)PTAとは何なのか、何をどこまですることが求められているのか、このことを明確にしない限り、議論を前に進めることは難しそうです。
2018.12.30
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著者は、かつて文部科学省で事務次官を務めていた前川喜平氏。 2017年1月20日に、文科省再就職等規制違反問題の渦中で退任したが、 その後、加計学園問題を巡る発言や 公立中学校での講演問題、出会い系バー問題等で話題となった。 確かに、本著の第4章には、加計学園問題についての、 前川氏と、かつて「ミスター文部省」と呼ばれていた寺脇研氏、 毎日新聞専門編集委員の倉重篤郎氏による対談が掲載されているが、 本著の本当の価値は、第1章から第3章までの前川氏の回想録にある。ただし、それらを読み進める前に、巻末にある『Twitterなら何でも言える ほぼ独り言の「背腹発言集」』を、先に読んでおくことをお勧めする。これを読むだけで、前川氏がどのような人か、おおよそ見当がつく。 *** 公務員は代議制民主主義の下、国民・住民の代表者の下でその政治的意思に従い、 組織として一体となって仕事をする。 一体となった組織の中で、個人の意思は捨象される。 その意味で公務員は匿名である。 課長、部長、局長、事務次官といった職分で仕事をするのであって、 〇川〇平といった個人の名前は意味を持たない。 私個人の名前の入った文書であっても、それは私個人の意思を表したものではない。(p.4)まさに、その通り。でも、民間でも、そうなのではないかなと思う。「人は立場でものを言う」のである。それが、宮仕えの身というものである。 文部科学省は学習指導要領を改訂するたびに、 その新奇性をアピールするためのキャッチフレーズを考えてきた。 今回の改訂におけるそれは「アクティブ・ラーニング」、 すなわち「主体的で対話的で深い学び」だ。 しかし、現場の先生たちはこういう言葉にあまり振り回されないほうがいい。 大きな方向性は、この30年間変わってはいないのだ。(p.91)この部分を読んだだけで、前川氏が本著において本音を記していることが分かる。こんなことは、文科省に属している時点では、決して書けないだろう。 全国学テは、「悉皆調査」だと言っているが、 全国の学校に実施を義務づける法令などはない。 法的に言えば、文部科学省が全国の学校に 「よかったら実施しませんか?」と呼びかけているだけなのであって、 実施を強制する権限はないのである。 実施するかしないかの判断をするのは、学校の設置者だ。 公立学校なら市町村教育委員会、私立学校なら学校法人である。 学テの実施は任意なのだ。 実際、私立学校は半数程度しか実施していない。(p.101)これなど、現場で教師をしている人間でも知らない人が多いのではないだろうか?まさに、目から鱗が落ちる思いである。 私が文部官僚としてやりたくなかった仕事の最大のものは、 2006年の教育基本法改正である。(中略) 家庭教育については1条が設けられ、、 「保護者の第一義的責任」が規定され、生活習慣を身に付けさせることなどに 「努めるものとする」と法的義務を課す規定が設けられた。 こうして、法律さえあれば、国家が学校教育のみならず 家庭教育に対しても介入できる法的根拠ができたのである。(p.135)こういったことに気付くことが出来るかどうかが肝心なところなのだが、これについては、当時さほど大騒ぎになることもなかったような気がする。しかし、その気になれば、そういうことも可能になっているということは、私たちは、よくよく知っておいた方が良いと思う。 このような「考え、議論する道徳」を、検定教科書を使って行うにはどうしたらよいか。 一つの方法は「中断読み」である。 読み物資料を最後まで読まず、 登場人物の心の揺れの中から道徳的価値の葛藤を見いだし、 児童生徒が自らその解決策を考え、議論するのだ。 答えは一つではない。 物語の結末が示すものは、あらゆる選択肢の一つにすぎない。(p.168)失礼ながら、現場の教師でもない文科省の事務次官が、こんな突っ込んだところまで考えていたことに、逆に驚いてしまった。このように、本著は普段知ることの出来ない文科省内部の裏話や、各種改革についての様々な思惑を知ることができる貴重な一冊である。
2018.11.18
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大阪府立高校における黒染め強要に対する2017年の提訴を受け、 「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」が立ち上げられ、実態調査を行った。 本著は、その調査結果に基づきながら、 様々な個別具体の観点から、校則について問い直す一冊となっている。 *** 私は、羞恥刑や名誉棄損、ハラスメントやヘイトスピーチなどによって ストレスを与える行為は、「脳への暴力」だと言っている。(p.057)これは、本著の編著者である荻上チキさんの一文。「なるほど」と思わされた。 校則を誰がどのように定めるのか、 どうして学校側が生徒側に校則を強制し得るのかという点について、 直接的にこれを根拠づける法令は存在していない。 つまり、現在の学校現場では、法的に明確な根拠のないまま、 子どもたちの基本的人権を校則によって制約しているということである。(p.087)これは、弁護士である真下麻里子さんの一文。これにも「なるほど」と思わされた。そして、本著の中でも、日本学術振興会特別研究員PDの内田康弘さんによる『8 制服の「あたりまえ」を問い直す』は、制服の機能や歴史について、とても簡潔明瞭にまとめられており、この部分だけでも本著を読む価値が十分にあり、皆で共有したい知識である。 規則をきびしくすればするほど違反が目立つ。 これはきれいな部屋ほど細かなほこりも目立つのと同じである。 自由服ならば多少はでな服装も目立たない。 だがセーラー服や黒のツメ襟服で細かな規定をすればするほど わずかな違反も目立ってくる。 この取締りのなかにのめり込んでいけばいくほどアラが見えてくるから 生徒不信におちいってしまうのである。(p.220)これは、内田康弘さんの記した文中に引用された坂本秀夫さんの『「校則」の研究218頁』の一文である。この辺りの指摘も、なかなか鋭い。学校の、そして教師という仕事の難しいところである。 「教育は誰もが専門家」といわれる。 多くの大人たちは、小中高と12年の教育を経て、成人していく。 多感な時期に十数年間、毎日のように学校文化のなかで時間を過ごす。 だから「校則」という、学校教育のなかでいえば些細な話題についてさえ、 誰もが具体的にその現状や問題点を雄弁に語ることができる。 だがそれは、たかだか自分が経験したことにすぎない。 私たちは、教育のことをよく知っているつもりでも、 半径3メートルの視野から物申しているだけなのだ。(p.211)これは、名古屋大学大学院教育発達科学研究科の内田良准教授の一文。現場の教員なら、誰もが感じていることなのだが、現場の教員が述べても世間には決して響かず、逆に反感を買うことになってしまう。このように、ちょっと違う立場から冷静に述べてもらうことが、とても有難い。
2018.11.11
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「どこかの誰かの成功体験や主観に基づく逸話ではなく、 科学的根拠に基づく教育を。」 教育経済学者である著者は、冒頭でこう述べます。 とても納得のいく言葉です。 第2章「子どもを”ご褒美”で釣ってはいけないのか?」 第3章「”勉強”は本当にそんなに大切なのか?」 第4章「”少人数学級”には効果があるのか?」 第5章「”いい先生”とはどんな先生なのか?」といった興味深いテーマに、 著者は、エビデンス(科学的根拠)を示しながら答えていきます。しかし、しばらく読み進めると、そこに示される数々のデータに、ちょっと首を傾げたくなってきます。それは何故かと考えてみると、思い当たりました。それらのデータは外国のものばかりで、日本のものがないのです。そのため、「外国で、その時に行われた実験ではそうだったかもしれないが、それは、日本でも同じなのか?」とか、「実験を行う時期や年代、国や地域が違えば、結果も違って来るのではないか?」といった疑問を感じずにはおれないのです。異なる時期・年代で、異なる国・地域で行われた実験結果が一致するならば、それはかなり説得力を持つものとなりますが、そうでなければ、「この時だけの結果ではないか?」という疑念を拭えません。どれほどの再現可能性が見込めるものなのか、誰にも分からないのですから。それというのも、教育現場においては「実験」を行うことが難しいからでしょう。多数の子どもたちを、その実験に巻き込んでしまい、その期間に行われた教育については、事後に修復するわけにはいかないのですから。それは、日本でも外国でも同じです。その困難さは、著者も本著の中で繰り返し述べており、特に、日本国内での実施については、かなりハードルが高いようです。しかし、それでも、「科学的根拠に基づく教育」が必要だと、私も強く思います。「どこかの誰かの成功体験や主観に基づく逸話」に左右されていてはダメです。それでは最後に、私が本著の中で特に興味深かった箇所を示しておきます。 私たちが期待しているほどに、 学校の資源は生徒の学力に影響を及ぼしていないかもしれません。 そうだとすれば、学力テストの県別順位は、 単に子どもの家庭の資源の県別順位を表しているにすぎない可能性もあるのです。 (p.120)あくまでも、「可能性がある」ということで。 学力には、家庭の資源と学校の資源の両方が影響を与えており、 そして家庭の資源の影響はかなり大きい-このことを正しく理解せずに、 学力テストの結果を学校名とだけ紐づけると、 本来学校や教員が負うべきでない責任を、彼らの責任にしてしまいます。 これでは、正しく学校や教員にプレッシャーをかけ、 学校間や教員間での健全な競争をもたらすことにはなりません。 むしろ、有害である可能性すらあります。(p.124)当たり前のことを、普通に書いているだけだと思いますが…… ある子どもを、他の子どもや集団と比較するのではなく、 過去のその子自身と比較して 昨日より今日、今日より明日と伸ばしてやれる先生こそが、 「いい先生」なのです。(p.147)これも、納得。 これまでの海外における研究蓄積をみる限り、 「給与を上げる」「研修を受けさせる」「免許制度を撤廃する」という 3つの選択肢の中では、教員免許制度を変更し、 能力の高い人が教員になることの参入障壁を低くすることが 有力な政策オプションなのではないかと、私は思っています。(p.158)「教員免許更新制」について、改めて考えさせられる提言でした。
2018.10.08
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カスタマーレビューを見ると、否定的な意見が目立ちます。 「発達障害」と「少年犯罪」の因果関係について述べた著作でありながら、 著者や特定の人物による主観のみで論が展開されており、 その科学的根拠がきちんと示されていないではないか、というものです。 そのため、読者に「発達障害」に対する間違ったイメージを広げ、 「自閉症スペクトラム」「虐待」「犯罪行為」の間に、 誤った関連性を認識させてしまう悪書であると。 そういった意見も多数あることを踏まえて読むならば、読むに値する一冊でしょう。第2章の「自閉症スペクトラム障害は、ここまでわかってきた」や、第3章の「虐待は脳を破壊する」は、分かりやすく記述されており、こういった知識を持ちあわせていない人にも、読みやすいものです。ただし、先述した通り、その記述に否定的意見を持たれている方も存在します。そして、私が本著の中で最も興味深かったのは、第5章の『矯正施設から始まった画期的トレーニング「コグトレ」』。これは、社会面を強化する「認知ソーシャルトレーニング」と学習面を強化する「認知機能強化トレーニング」、身体面を強化する「認知作業トレーニング」の3つから構成されるものです。これは、宮川医療少年院で始まったものですが、児童自立支援施設だけでなく、一般校でも導入されており、その様子が、第6章「教育現場での取り組み」に記されています。その実践校で指導に当たっている教諭の言葉は、とても重たいものでした。 彼らは通常学級ではお客さん状態なんですよ。 何もわからない、何も聞き取れない、 何も手につかず身にもならないまま大きくなっていってしまうってことがあるので、 それが問題だと常々思っていました。(p.179)指導を必要としている子どもに、適切な指導を行う。そんな当たり前と思えることが、実際には行えていない。それには、様々な理由が存在するでしょう。それでも、そこに踏み込んでいくためには、次のことが大前提になると思いました。 心身ともにまだ成長期にある子どもが発達障害をもっている場合、 最優先すべきことは、子どもの「できない」に 真っ向から立ち向かってあげることではないかと私は思う。 確かにわが子の発達障害をありのままに受け入れることや、 周囲の人たちにそれを隠さないことは大きな勇気が必要である。 子どもが安心して自分の不得手なことと向き合い、受け入れ、成長を促すためにも、 私たち大人がしっかりと子どもに向き合う覚悟をすることが大切だと、 改めて感じさせられた。(p.189)
2018.10.08
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東田さんが18歳の時に書いたブログ記事を加筆・修正した一冊で、 2013年に刊行されたものを、2017年に文庫化したもの。 『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』から5年後、 『自閉症の僕が飛び跳ねる理由2』からは2年後の文章です。 巻末の「文庫版あとがき」によると、 東田さんは、2017年までに20冊もの本を出版しています。 12歳の時に、グリム童話大賞(中学生以下の部)を受賞したことが、 作家となるきっかけになったとのこと。そして、次の思いつきが、『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』が誕生する契機となったのです。 普通の人の言動は、不可解なこともありましたが、 だからといって、 僕が自分のことをおかしくないと思っていたわけではありません。 おかしいことはわかっていましたが、みんなのようにはなれなかったのです。 そんな自分を理解してもらうために、 僕は、自閉症という障害について、 自閉症者からの説明ではなく、 普通の人の視点から解説することを思いつきました。 何かに例えたり、誰もがわかる言葉で表現したりすることで、 自閉症を、もっと身近に感じてもらいたかったからです。(p.187)本著の中で、印象に残ったのが次の部分。これは、全ての人に通じるものだと思います。 成功体験というのは、課題ができることだけではありません。 いちばん大事なのは、次もやってみようと思えることです。(p.53)そして、次の部分につていも、全ての人に通じるものだと思いました。 障害を理解してくださっている人さえも、 自分の思いを相手にわかってほしい時には、 普通の人と同じような反応を、 話せない自閉症者に求めてしまいます。 怒っている時には反省している態度を強く求め、 好きという気持ちには、やさしくしてくれる態度を期待します。 しかし、それができないから、僕たちは困っているのです。(p.117) このように、「自閉症」について述べられている本著は、「人間」というものについて、とても深く考えさせられる一冊になっています。
2018.08.22
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『自閉症の僕が跳びはねる理由』の続編。 中学生の頃、『自閉症の僕が跳びはねる理由』を書いた著者が、 高校生になってから書いたのが本著。 前著を読んだ後に本著を読めば、きっと著者の成長が実感できるはず。 でも、本著から読み始めるのも「あり」だと思う。 逆に、「自閉症」について知るためには、本著の方こそ読むべきだと思う。 本著は、それくらい完成度が高い一冊に仕上がっている。 これは、東田さんにしか成し得なかったことだろう。本著では、「自閉症」に関する62の質問に、著者はどれも正面から向き合い、とても誠実に答えている。その答えに、「なるほど」「そうだったのか」と納得させられ、「自閉症」とは何なのかと、深く考えさせられる。そして、それ以上に人間の「コミュニケーション」や「行動」、さらには、「感情・思考」「興味・関心」「行動」について考えさせられる。また、「時間」に対する感覚やそれへの対応については、より一層考えさせられる。もちろん、著者が示した「援助」も、とても役立つものだ。
2018.08.21
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学校がブラック企業だということが、近年広く認知されるようになってきた。 しかし、教員の世界しか知らない者にとっては、 それが当たり前すぎて、その異常さになかなか気付けないでいる。 それでも、その影響は教員採用試験受験者数減少という形となって表れ始めた。 本著を手にするのは、恐らく、その多くが教員の方だと思う。 自分たちが当たり前だと思ってきた学校の常識が、 実は、世間のそれとは異なることに気付いてもらうため、本著は書かれた。 教員として働くとは……、今一度考えてみよう。 ***まぁ、本著についてPRしようとする人は、こんな感じでするのかな。部活動については、色々な書物も多数出版され、スポーツ庁からガイドラインが出されるなど、一定の成果を見たので、次は、給特法ということなのだろう。 そもそも最終下校時間が、 正規の退勤時間より当たり前に1~2時間も遅く設定されていること自体、 おかしなことである。(p.84)確かに、公立学校の多くの教員の勤務時間は、8:15頃~17:00頃ではなかろうか。中学校で、部活動終了が平日17:00に設定されているのは冬季くらいのもので、他のシーズンなら、18:00や18:30といったところが標準的で、延長練習もある。まぁ、部活の在り様はガイドラインで大きく変貌しつつあるが。 ④児童生徒の在校時間を勤務時間内に収めてください 始業前に児童生徒が登校し、終業後も児童生徒が学校に残り続けます。 これは、教員の残業を前提とした時間設定となっています。 所定の時間に出勤したら仕事に間に合いませんし、 所定の退勤時間に帰ったら児童生徒を放置することになります。(p.153)これも確かに、勤務開始時刻よりも相当早く児童生徒たちは登校してくる。部活の早朝練習なんかがあると、7時頃に来る者も。そんな生徒たちが欠席するとなると、保護者からの電話は6時台にかかってくる。早朝練習が無くなるだけで、生徒教師、保護者共に負担は相当軽減される。 どんな職業も、勤務医も先生も民間の労働者だって、 みんな社会のなかで何らかのかたちで役に立つ仕事をやっています。 いい仕事をやりたいという思いはみんなもっていて、 教師だけが聖職者として、 特別な意識で仕事をやるべきだと義務づけられるのはおかしい。 私の考えとしては、教師は労働者であるからには、 当たり前の労働条件のもとで働くということが大事だと思います。(p.118)これは、弁護士さんのコメントなのだが、世間の多くの人たちは、これに同意してくれるだろうか?「聖職」という言葉は、もはや死語となったが、「教師」「公務員」という言葉の中に、「児童・生徒・地域住民のためならやって当前」という意味が込められ続ける。 ③時間割に「レディタイム」「休憩時間」を設定してください。 時間割には授業や会議が詰め込まれている一方、 授業準備の時間や担任業務のための時間が設定されていません。 いわゆる「空きコマ」や、勤務時間外にそれらを行っているのが現状です。 また一応設定されている教員の「休憩時間」は、実際にはほとんど休めません。 時間割の中に、授業準備・担任業務・分掌業務を行う「レディタイム」2コマと 労基法が定める「休憩時間1コマ」を確保してください。(p.153)この提案が、一番「なるほどなぁ」と思わされた。まぁ、そうすると空きコマの一つ一つに意味付けしないといけなくなる気もするけれど。でも、実は学校で「休憩時間」を労基法に従って設定することは、相当難しい。学校の「休憩時間」は本当に有名無実で、それなしでやることが大前提で回っている。
2018.07.29
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昨年の秋頃からか、このブログに9年ほど前に書いた 『日本一醜い親への手紙』の記事へのアクセスがチラホラ増えてきた。 何故だろうと思っていたら、「毒親」がちょっとしたブームらしい。 昨年10月には、『日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?』 という第2弾が刊行されたとのこと。 そして、そのこととは全く関係なく、たまたま本著を読む機会を得たのだが、 これがまさに大当たりで、今年、これまで読んできた書籍の中でNo.1の逸品! 世間であまり騒がれず、大きな評判になっていないのは、 あまりにも「直球」過ぎて、メディアで取り上げにくいからではないだろうか。 ***毒親の抱える4つの精神医学的事情(1)発達障害タイプ ・自閉症スペクトラム障害(ASD) ・注意欠陥・多動性障害(ADHD)(2)不安定な愛着スタイル(不安型と回避型)(3)うつ病などの臨床的疾患 ・トラウマ関連障害 ・アルコール依存症(4)DVなどの環境問題 ・深刻な「嫁姑問題」 ・親になる心の準備不足 ・障がいのある子の育児など、圧倒的な余裕のなさ ・親の親も「毒親」だった ・子育てより大事な「宗教」など(p.105)これが、本著で述べらていることを集約したもの。こういう観点で「毒親」を見ることで、初めてその対処法が見えてくる。 「はじめに」で触れたAさんの母親は、 『毒になる親』の分類の中では「『神様』のような親」 「コントロールばかりする親」に該当すると思われますが、 先述のようにそれは発達障害によるものだったわけです。(中略) 単に発達障害であるがゆえに、 ある点に注意を奪われるとそれを達成することだけにとらわれてしまい、 うまくいかないとパニックになる、ということだったのです。(p.51)親の子に対する理不尽な行動の根源に、親の発達障害があるケース。そのことを頭の隅に置きながら対応することで、様々な場面で、より適した言動が可能になるはず。そのためにも、この問題に対応する者には、発達障害に対する知識理解が求められる。 前述しましたが、ASDタイプの人は、 自分の領域を侵害されたと思うと、攻撃的になる場合が少なくありません。 その間、頭脳はほとんど働いていないので、 いくら説得しても、ますます怒らせてしまうことになります。(p.62)これも、このことを予め知っているのと、全く知らないのとでは、その状況に遭遇した際の行動に、大きな違いがきっと出てくるはず。予め知っていれば、そういう事態に陥ることを未然に防ぐことも出来るし、また、そういう状況になってしまった場合にも、とるべき行動が分かるだろう。 ADHDの親は、自分が子どもとの間に問題を抱えているという自覚が ほとんどありません。 親の不規則さについに子供がキレて問題が顕在化するまで、 そちらの方面にはあまり関心が向かないようです。 ですから、子どもが親を愛していることを確認したりするような親は、 発達障害ではないと言えるでしょう。(p.82)もちろん、素人判断で親を「発達障害」と決めてかかるのは良くない。「そういうことも考えられる」というレベルで対応し、普段の行動を観察したり、会話の中から親の特性を把握していく必要がある。もちろん、子どもから聞き取った情報も重要なものとなる。 うつ病は、子どもをかわいいと思えない、子どもの世話をする体力も気力もない、 という「症状」を作ってしまいます。 それゆえに「親は本来子どもを愛するもの」という「常識」を 平気で覆してしまいますし、 不安が強いタイプのうつ病では、 子どもに対して理不尽に過保護になる場合もあります。(中略) そのほか「毒親」としての形は、 ネグレクトや子どもに対するネガティブなコメント、 イライラを反映した暴力、不適切な不安や焦燥、 「もう死んじゃうから」など、 自分の自殺をほのめかして子供にプレッシャーを与える、などで表れます。(p.84)これは「うつ病」に対する理解が不十分だと、決して良い対応には結びついていかないだろう。言葉としてはよく知られていても、本当の意味で理解している人は少なく、まだまだ「気持ちの持ちようの問題」と捉えている人が何と多いことか…… 例えば、複雑性PTSDを持つ人の中には、 他者に対してとても攻撃的になる人がいます。 それは「感情コントロールの障害」として きちんと「症状」と認められているものです。(中略) 「ひどい目に遭ったことはわかった。だからと言って何でもしてよいのか」 というような批判に私が違和感を覚えるのは、そんな背景があるからです。 「症状」は、本人にはコントロールできないからこそ「症状」なのです。(p.111)これこそが、精神疾患の様々な問題の根源となるところ。「症状」ということが理解してもらえないことが本当に多い。ほとんどの人が「本人にはコントロールできない」という体験をしたことがない故だが、「脚を骨折していたら、走れない」のと同じだということが、想像してもらえない。 1つの象徴的なやり方は、経済的に多少の無理をしても可能であれば 子どもがひとり暮らしを始めること、 そして親がそれを認めることです。 これは親のコントロール下から解放されることであり、 治療中の方であれば、私はその家賃負担を親に頼みます。(p.119)親の抱える問題が、親自身では解決しようのないことに起因するものなら、子は、その事実を認めたうえで、親から離れ、自立していくしかない。この事実を認めていくプロセスが、とても大切なものであるのは、本著の中で、著者が繰り返し述べていることである。
2018.06.02
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重度の自閉症のため会話の出来なかった著者が、 パソコンや文字盤ポインティングによってコミュニケーションが可能となり、 13歳の時に書いたのが本著。 そこに描き出された世界は、想像を超えたものでした。 まず、会話について。 話したいことは話せず、 関係のない言葉は、どんどん勝手に口から出てしまうからです。 僕はそれが辛くて悲しくて、 みんなが簡単に話しているのがうらやましくてしかたありませんでした。(p.30)自分の思いを、上手く言葉に変えることの出来ないもどかしさが伝わってきます。 僕たちは、みかけではわからないかも知れませんが、 自分の体を自分のものだと自覚したことがありません。(p.56)これも、自分の思いが、上手く身体と接続していないことを言い表したものでしょう。 記憶がよみがえることをフラッシュバックと言いますが、 僕たちの記憶には、はっきりした順番がありません。(中略) 僕たちの記憶は、一列に並んだ数字を拾っているわけではありません。 ジグソーパズルのような記憶なのです。 ひとつでも合わなければ全体がかみ合わず完成いないように、 他のピースが入ってきたことで、 今の記憶がバラバラに壊れてしまいます。(p.75)時間の感覚についての記述ですが、このように上手く例え、表現されたことの方が驚きです。 僕たちの1秒は果てしなく長く、 僕たちの24時間は一瞬で終わってしまうものなのです。 場面としての時間しか記憶に残らない僕たちは、 1秒も24時間も、あまり違いはありません。(p.84)これもスゴイですね。上手く言えませんが、感覚的には分かります。 僕は、変更も仕方がないと分かっています。 それでも、脳が僕に『それはダメだ』と命令するのです。 だから僕自身は、あまり時間やスケジュールを視覚的に表示することは、 好きではありません。(中略) 視覚的に示されると、強く記憶に残りすぎて、 そのことに自分が合わせることだけに意識が集中していまい、 変更になるとパニックになってしまいます。(p.134)変更があるとパニックになるのは、自閉症の方によく見られる傾向ですが、この視覚的な情報についての記述は、多くの自閉症の方に共通するものなのでしょうか?そうであれば、十分気を配る必要がありますね。 *** 2007年に刊行された、13歳の日本人少年による、 自閉症という経験の当事者の立場からの手引書は、 現段階で中国語からマケドニア語まで、 24言語(さらに他言語でも進行中)に翻訳されている。 (2016年現在では30言語で翻訳) 私が知る限り、東田直樹は、現代日本の作家では 村上春樹についで広く翻訳されている作家なのだ。(p.187)これは、本著の英語版翻訳者であるデイヴィッド・ミッチェル氏による「解説にかえて」の一文。そんなにスゴイ一冊だったんだ……。
2018.04.30
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学校の多忙化について、『ブラック化する学校 』、 そして『ブラック部活動 』と読み進めて、 今回の本著が、総仕上げという感じです。 教育開発研究所発行の一冊なので、誰もが手にするというものではないかな。 それにしても、読み終えた際、久しぶりに付箋だらけの本が出来上がりました。 それは、本著が学校の様々な内部事情をしっかりと踏まえたうえで、 かなり突っ込んだ指摘を、具体的に示していたからです。 てっきり、学校現場の先生が書かれたものだと思っていました。しかし、実際はそうではありませんでした。著者は、京大大学院を卒業後、野村総研を経て独立し、教職員向け研修や学校、行政向けコンサルティングを手掛けている妹尾さんという方。現場経験のない方が、ここまでのものを書かれたのは本当にスゴイです。 ***さて、本著の真骨頂は「第3章 なぜ忙しいのか、なぜいつまでも改善しないのか」と「第4章 本気の学校改善-あきらめる前にできる、半径3mからの実践」。現状把握の的確さと、問題の掘り下げ方の深さは、他書の追随を許しません。例えば、「多忙化を加速させた直近10年あまりの変化」において、障がいのある児童生徒や、日本語が不自由な児童生徒が増加したために、授業中や休み時間などに、よりきめ細やかな対応が必要となってきていることや、経済的支援を受ける困窮家庭の割合が増加したために、学校が、教育機関というよりは福祉機関になりつつあること、さらには、非正規教員が増加したことで、正規教員の忙しさが増すとともに、教員間での情報共有、コミュニケーションに困難さが生じていることを指摘しています。これらの変化は、あまり取り上げられることがないものですが、大きな問題です。また、次の「学校の長時間労働が改善しない6つの言葉」も秀逸。 (1)前からやっていることだから(伝統、前例の重み) (2)保護者の期待や生徒確保があるから(保護者と生徒獲得のプレッシャー) (3)子どもたちのためになるから(学校にあふれる善意) (4)教職員はみんな(長時間一生懸命)やっているから (グループシンキング、集団思考) (5)できる人は限られるから(人材育成の負のスパイラル) (6)結局、わたし(個々の教職員)が頑張ればよいから (個業化を背景とする学習の狭さ) (p.94)中でも、教員にとって最も抗い難いのが「子どものために」という言葉。そんな言葉にも、著者は果敢に切り込んでいきます。 「子どものために」という視点、基準ではあらゆることが大事なことに見えてきて、 スクラップ&ビルトにはほとんど役立たず、むしろビルト&ビルトを助長させます(p.97)さらには、 教育社会学者の久富義之名誉教授もこう指摘しています。 教師世界では、「熱心さ」がどこの国でも価値になっている。 ……(中略)……「多忙」は「熱心教師」が胸につけた勲章になる。 教師という仕事はその性格の内側に 「長時間労働もいとわずとり組むのが美徳」という、 自分たちを圧迫する面をもともと持っている職業といえるだろう。(p.108)そんな教師という仕事の特殊性が、健康社会学者の河合薫氏が紹介する、次のような状況を生み出しています。 多くのバーンアウト研究から、 「一人きりで責任を背負うことのない職場」にすることの重要性が示唆されている。 だが、新人であれ、20代であれ、「先生」は「先生」。 いったん「先生」になった途端、余人をもって代えがたい状況に追い込まれ、 ”その先生”が対応しなければならない仕事に四六時中追われ、 何か問題が起きると、すべて”その先生”の責任にされ……。 仕事が好きな人ほど、真面目な人ほど、 「子どものため」にと孤軍奮闘し、追い込まれる。(p.107)そして、そのような状況に追い込まれる背景には、次のような事情も絡んでいます。 教師は弱みを見せづらく、共有しづらい職業であるからです。 学校では採用1年目の4月から、一人前の教師として教壇に立たないといけません。 子どもたちはもちろん、保護者等に頼りないと見られるわけにはいきません。 さらに、同僚、上司に対しても、弱みを共有するのは簡単ではありません。(p.118)このような特殊性故に、追い込まれていく教師について、著者は次のように指摘しています。 学校にかぎらず、メンタルを病んだり、 最悪の場合、過労死や過労自殺などが起こったりする背景には、 一人称、自分を大事にできなくなっていることがあります。 会社や学校のためにこれはやらなくちゃ、 家族のためにこれはやめられないなどなど、三人称ばかりになると、 自分が何をしたいとか、何が好きで生きているかが見えづらくなってきます。(p.185)自分を疎かにすることは、子供を疎かにすることにつながっていく。そんな当たり前のことが、職員室文化に染まると気付けなくなってしまうのです。しかし、そんな状況を打ち破るヒントを、著者はちゃんと示してくれています。 教員自身はよかれと思ってやっていることも多いわけですから、 養護教諭や事務職員、あるいはスクールカウンセラーなどの 一般の教諭とは少し違った視点や情報をもつ人から見て 「ちょっとやり過ぎているのではないか」とか、 「かけた時間に見合う効果(=時間対効果)は高いと言えるのか」といった 疑問やモヤモヤを発信、共有していくことが大切です。(p.143)この後さらに続けて、PTA役員やコミュニティ・スクールの委員など「学校文化に染まっていない人の目線を入れることも有効なときがある」とも指摘。さらには、組織として非能率的になっている部分や、見直しが必要な部分についても、次のように、具体的に示してくれています。 多忙、多忙と言いながらも、学校にはもったいないこと、 残念なことが多いのも事実です。(p.164) たとえば「同僚との教材のやりとり」については、 どのグループも月に1回以上は4~5割程度にとどまっています。(p.117) 広い意味での業務改善、つまり、方法改善にとどまらず、 必要性の低いものはやめたり、減らしたりすること、 あるいは関連するものは統合すること(仕訳と精選)が必要です。(p.139) 学力テスト、授業研究、研究指定などを見直しても、 多忙が劇的に減るとは限りませんが、多忙感には相当影響します。 どうせやるなら、楽しいことに時間とみんなの知恵を使おう、 そんな発想です。(p.166)そして、部活動についての指摘も、とても納得できるものです。 教育課程外の位置づけである部活動に、 あなたの学校の教育は重きを置き過ぎていないだろうか、 本当にこれほど多くの部で高い競技性や大会入賞をめざすべきだろうか (もっとサークル活動的なものでもいいのではないか)、 部活動が家族と過ごしたり、他の多様なことを行ったりする 子どもたちの時間を奪っていないだろうか、 という点を問い直していくべきです。(p.145) 部活動の効果は理解しながらも、大事なことは部活動以外にもある、 ということを認める必要があります。(p.147)本著は、前述したとおり、かなり現場に踏み込んだ内容であり、それを踏まえて、具体的な指針を提示してくれている一冊です。それ故、一般の方には少々理解しづらい部分もあるかとは思いますが、現場の教員はもちろん、学校教育に興味のある方には、お薦めの一冊です。
2017.11.12
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『ブラック化する学校 』を読んで、学校全体の様子を概観した後、 そのブラック化の要因として常に挙げられる「部活動」について知るため、 本著を手にすることにしました。 著者は、現在、学校について様々な問題提起の発信源となっている内田准教授。 巻末には、「部活動問題対策プロジェクト」をインターネット上で展開する 真由子氏、藤野悠介氏と、内田准教授との対談が掲載されています。 その活動については、本著第8章「先生たちが立ち上がった!」に記されており、 内田准教授の立ち位置は、そのメンバーたちに近いものと思われます。さて、部活動について記された本著ですが、部活動以外の学校の課題についても、かなり詳細に紹介されています。ここまで現場レベルの問題を、一般向けに紹介した書物は、そう多くはないです。例えば、内田准教授の名前を全国に知らしめた「組体操」については、 巨大な組み体操を披露すると、保護者や地域住民から盛大な拍手が送られる。 子ども(一部を除く)も先生も、大きな満足感を得る。 次の年、保護者、地域住民、子ども、先生のいずれにおいても、 ハードルは一つあがってしまっている。(501) ※注 かっこ内の数字は電子書籍における位置を示しています。以下同じ。これは、組体操についてだけではなく、学校で行われている様々な取り組み全般について言えることです。それ故、一度始めると、なかなかどの取り組みもやめることが出来ず、どんどんやるべきことが増えていってしまうという悪循環に陥っています。そして、部活動だけでなく、教員の働き方について語るとき、避けて通れないはずの問題が、教員の勤務時間と賃金についての問題です。実は、学校では最大のアンタッチャブルな領域となっているこの問題について、本著は、かなり突っ込んで記してくれています。 たとえば、終業時刻を過ぎても部活動をせざるをえない (むしろ終業時刻を過ぎてから部活動が本格的に始まるといっても過言ではない) 状況のなかで、 それに残業代が一銭も支払われることがないというのは、 労働基準法に照らし合わせれば、完全な違法状態での経営である。(1042)本著第5章「教員の働き方改革 - 無法地帯における長時間労働」では、教員の勤務について、その実態をかなり詳細に紹介してくれています。なかでも、「休憩時間」についての問題は、このような形で、世間一般に大きく取り上げられることが、ほぼなかったものです。そして、内田准教授が記しているように、現在の学校運営は、完全なる労働基準法違反の上に、やっと成り立っているものなのです。世間大多数の声が「公務員だからそれくらいやって当然」というものであるために、この状況が、黙って見過ごされ続けているだけです。 今日、教育問題や子どもの問題の語り方は、 子ども=善、教員=悪の構図で成り立っている。 学校の外にいるマスコミや市民が、教員を含む学校内部を、予断をもって批判する。 個別具体的な状況がわかる前から、 教員はただ批判される側の立ち位置にいる。(1877)この背景があることに加え、教員自身の無自覚、さらには、学校の情報発信不足が、現状を招いていると言えるでしょう。 すなわち、長時間労働が抑制されないのは、 一つに「教職調整額」を含めた法制度の問題があり、 もう一つに長時間労働を美化する教員文化の問題があるということだ。(1241)この「長時間労働を美化する」という文化は、教員だけのものではなく、かつて日本社会全体で広く共有されていたものだと思います。しかし、その考え方が大きく変化し始めた今、昔ながらの考えが、今もなお、色濃く残っているのが学校だとは言えるでしょう。さて、いよいよ本著の本題、部活動についてです。部活動は正規の教育活動ではないのに、指導せざるをえない教育活動。このグレーゾーンとしての位置付けが、様々な問題の根源になっていると、内田准教授は指摘します。教科指導と違い、教師になるためのカリキュラムには組み込まれていないので、素人が、勤務時間をはるかに超えて指導することを強要される場面が生じます。また、授業のように活動場所や時間が、元来明確に設定されていないため、場所や施設、備品等が不足し、時間設定もあいまいで青天井になってしまいがち。 そして、グレーゾーンに置かれた部活動の指導もまた、 授業とは別の側面から子どもの成長を促すものと評価される。 社会性の育成、チームワークの醸成など、その教育的意義とされるものが、 部活動の存在価値を高めている。(1034)グレーゾーンでありながら、その教育活動の意義は、世間にも大いに認められてはいるのです。 部活動で生徒を夜まで拘束すれば、たしかに学校の外のトラブルは減るかもしれない。 だが、はたして学校のなか、部活動のなかのトラブルはどうなのだろうか。 そこをブラックボックスにしたまま、 部活動の非行抑止効果を唱えることには慎重でありたい。(2268)この非行防止効果については、本著において概ね否定的なものとなっていますが、異なる意見を持つ人も少なくないと思います。多くの教員の指導に従わないのに、部活顧問の指導には従う生徒がいるのも事実です。授業力だけで、この影響力を発揮することは、容易いことではありません。そして、帯にもある「楽しいから、ハマる。」。これも事実で、授業に注ぐ労力の何倍もの労力を、部活に注いでいる教員も多いのです。「教員の本務とは何か?」ということを、考えさせられてしまいます。そして、内田准教授が示した方策は次のようなもの。 もし部活動がどれほど頑張ってもほとんど評価されない、 それどころか評価される場面(大会)も乏しいとすると、 「部活動は麻薬」に転じにくくなる。 どれほど部活動を指導しても、高揚感が得られないからだ。 逆にいえば、それほどに部活動が評価されるということは、 今日の部活動のあり方を大きく規定している。(995)やがて、部活動のあり方が大きく変わることになるのかもしれません。組体操と同じように。
2017.11.05
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学校について「ブラック」という表現が用いられることが増えてきました。 それは、まず「ブラック企業」について世間が大いに注目し、 電通などの事例から、「働き方」についての関心が高まった段階で、 学校の教員もかなり酷い状況だと文科省が発表したからです。 本著は、そんな学校の「ブラック」さが、 実際どんなものなのか、ざっくりと概観したもの。 冒頭の『はじめに - なくならない「いじめ」や「不登校」の背景にあるもの』で、 著者は次のように記しています。 「教員の多忙」が事実だとすれば、 そして、それで子どもたちにとっての環境が悪化しているのだとすれば、 「多忙」の意味が違っているのかもしれない。 あるいは現在の教員の仕事が、 わたしも含めて保護者たちが考えているようなものではないのかもしれない。(16/1642) ※注 かっこ内の数字は電子書籍における位置を示しています。以下同じ。即ち、世間一般の人たちが思い描いている教員の仕事や働き方は、実際の教員の仕事や働き方と乖離している可能性があるというのです。そして、教員の労働時間や休暇、賃金や手当、非正規教員の増加、病気休職者の増加、教員や子どもに競争を強いるものの正体等々について述べられていきます。なかでも、興味深かったのは「非正規教員」について記された第2章。これまで、取り上げられることが少なかったテーマですが、その勤務実態や、増加の裏事情には、衝撃を受ける人も少なくないでしょう。でも、これが実態なのです。そして、『おわりに - 改善の第一歩は「現実を正しく知る」ことから』では、著者は次のように述べて、本著を締めくくっています。 財務省だけでなく、学校の現状を理解していない人は想像以上に多い。 知っているつもりになっているが、実は知らないことだらけなのだ。 他人事ではない。 わたし自身にしても、今回の取材で、 ここまでの状態に学校がなっていることを知って愕然とした。 知っているつもりの人は多いが、本当の状況を知っている人は、実は少ない。 にもかかわらず、知ったつもりで学校や教員に文句をいったり、注文をつけている。 これでは、学校が混乱するのは無理もない。 混乱するだけでなく、学校のブラック化を加速させることにしかならない。 (1615/1642)本著については、問題提起だけに留まっており、その解決策が示されていない等の意見もカスタマーレビューには見られますが、著者が述べているように、まずは知ることが問題解決の第一歩です。そういう意味で、本著は読むに値する一冊だと思います。
2017.11.03
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副題は、日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体。 2015年の東大合格者数ランキングトップ10の学校のうち、 東京学芸大学附属高校と灘高校を除く8校において、 サピックス占有率は、募集定員ベースで約8割以上、 合格者数ベースでも約半数以上となっている。そして、鉄緑会に通うのは、サピックスの中でも最上位クラスに在籍し、最難関校に合格したような生徒ばかり。結果、東大医学部合格者の6割以上は鉄緑会出身。サピックスから鉄緑会そして東大へという、受験の王道が存在する。『第1章 サピックス~鉄緑会という王道』でそのことが示され、『第2章 サピックス「ひとり勝ち」の理由』でサピックスについて、『第3章 鉄緑会という秘密結社』で鉄緑会について現状が紹介されている。しかし、圧巻は何と言っても『第4章 塾歴社会の光と影』。 こう言っては身も蓋もないが、できる子は、鉄緑会に通おうが、 インターネットで映像授業を受講しようが、 山に籠って1人で問題集を解こうが、できる。 できない子は鉄緑会に行ってもできない。 そのことをさらに強調してしまう結果になりかねない。 平等を追い求めるほど、「前提」の違いが露呈するのである。 いかんともしがたいこの「前提」には、遺伝のほか、 どんな家庭文化や学校文化に属しているかが強く影響していると 教育学の世界では言われている。(p.153)このことを、さらに丁寧に説明しているのが次の部分。結構よく使われる例えだけれど、分かりやすい。 野球をやらせたらダントツにうまいとか、絵を描かせたら先生よりうまいとか、 そういう才能の1つとして、勉強が得意な子というのも存在する。 本著の取材を通してさらに強くそれを確信した。 できる子はできるのである。それも桁違いに。(中略) かけっこが遅くても、 「あの子は運動神経が鈍いからしょうがない。 あの子なりに一生懸命走ればいい」で許される。 かけっこの遅い子が、50メートル9秒切るまで寝ないで走り続けなさいと 言われることはないだろう。 絵に興味がない子が、及第点をとるまで何度もデッサンを描かされることもない。 しかしたまたま勉強という種目が不得意分野である子は大変だ。 勉強ができないのは努力不足だからと叱られる。 できるようになるまでやらされる。(p.201)しかし現在の社会では、この「前提」を公然と認めることはタブーとされている。そして、皆が同じ土俵で競えるようにと、教育には「平等性」と「画一性」が求められ、競わされる本人の意志など関係なく、周囲が競争を続けることを期待し、煽り続ける。その結果、学歴社会が確立し、塾歴社会が登場した。(p.157) 現在議論されている大学入試改革の方向性は、 概して言えば欧米型の大学入試スタイルの模倣である。 ペーパーテストによる一発勝負ではなく、 小論文や面接、集団討議などによって、 表面的な学力以外の部分も評価対象にしようという方向性である。 実は明治以降の日本の教育史の中でも、過度な受験競争を避けるため、 何度かペーパーテストが禁止されたことがあった。 しかし数年で元に戻るということをくり返している。 可視化しにくい要素を評価対象にすることで、 評価基準の不透明性が必ず問題になるのである。 「ずるい」の文化が根強いからだ。(p.157)先日読んだ『2020年の大学入試問題』よりよほど分かりやすい。そして、次の記述には「なるほど」と頷かされる。 では欧米ではどうしているのか。 「大学がほしい人物を採る」 もっと言えば「大学教員が教えたい人物を採る」という姿勢が明確なのだ。 一定水準の学力を満たしていることさえ証明できれば、 あとは採用する側の主観的判断なのだ。 日本の集団就職活動に似ている。(p.157)さらに、記述式試験や口述試験の問題点も、ズバリ指摘している。これこそが、今回の大学入試改革における最大の問題点である。 論述式の試験や口述試験では、結果的に階層文化が影響しやすい。 審査側が所属する階層文化と 親和性の高い階層文化に所属していた学生が有利になる。 そのため、欧米では大学が社会階層の固定化に一役買っていることは 教育学の世界ではもはや常識である。 くり返しになるが、現在進行中の大学入試改革は、 日本もそれを真似しようという話である。 それなのに、大学入試改革が理念通りに実行されれば 日本においても社会階層の固定化が進み、 あらゆる格差が広がっていく可能性があることを指摘する声はまだ少ない。 大学入試改革によって、 鉄緑会に通うような子供たちがますます有利になることはあっても、 一気に不利になるということはまずあり得ない。 それと「塾歴社会」とどちらがいいのか。 私たちは今、究極の選択を迫られているわけである。(p.157)今回の入試改革は、何を本当のねらいとして推進されようとしているのか?そして、そのことによって学校教育の中身が変えられようとしている。私立校だけでなく公立校においても、高校だけでなく中学校や小学校においても。それは、誰にとって本当にメリットがあることなのか、よく考えてみる必要がある。
2017.03.19
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『2020年の大学入試問題』に比べると、 読み進めるのに要した労力は、かなり少なくて済みました。 ただ、190ページほどのボリュームのせいか、 若干の物足りなさは感じました。 本著の中で頻繁に出てくるのが「正解のない『問い』」という言葉。 確かに、現実社会では次々に「正解のない『問い』」に直面することになります。 その時に備え、それに対応できる力を養っておく、 その力が伸びていくよう教師がサポートをする、これはよく分かります。そして、そのような授業を展開することは、すぐにでも可能でしょう。が、難しいのはやっぱり評価です。そのための評価基準や評価規準が必要です。もちろん、どの教員が評価しても、同じ評価が出てくるようにしておかねばなりません。漱石の『こころ』に関する「もし、あなたがKだったら、先生の発言に対してどのような行動を取るのか」という問いに対して、著者は次のように述べています。 正解が一つだけではないということは、 様々な考え方が正解として認められ得るわけですから、 どのような答えを選んでも間違いではありません。 だからこそ、「自分軸」をはっきりとさせ、 回答の背景に確かな価値観があることを アピールしなければならないのです。(p.72)「答え」そのものではなく、その答えの裏付けとなる自らの考えの主張、「アピール」が評価の対象、であると考えていいのでしょうか? 「正解のない『問い』」に対しては、 他人よりもいい答えを出すことが大事なのではありません。 自分にとっての最適解を見つけていくことが求められるのです。(中略) 「正解のない『問い』」を扱うこれからの教育においては、 教師が生徒に教えられる「答え」はありません。 「教える」「教わる」の関係はそこにはないのです。(P.150)やはり「答え」そのものについてではなく、自分にとっての最適解を見つけることが出来たか、それを回答として適切に言葉にまとめ、他者にうまく伝わるよう表現出来たかがポイントのようです。 2020年以降の学校教育では、「正解のない『問い』」が扱われるようになる- だからこそ、大学入試においても、冒頭の東大の問題のような 「正解のない『問い』」が多くの大学で出題されるようになるのです。(p.73) この東大の問題というのは、2014年度に理科一類の外国学校卒業生特別選考で出題されたものを指しています。既に、その方向性の問題を出題している大学もあるそうです。例えば、2008年度の慶応大医学部の小論文などです。これらの問題には、どれほどの数の受験生が臨み、どれほどの数の教員が、どのような採点基準で採点に当たったのでしょうか?もちろん、その問題における解答が、誰にどのように採点されたのか、受験生は知ることが出来なかったことでしょう。しかし、小学校や中学校、高校で行われる試験については、誰がどのように採点したかを知ることが出来ます。どうしてその点数になったのか、説明する義務が教師にはあります。そして、どの教師が採点しても、同じ点数を出さねばなりません。本著166ページから示されている「2020年からのテストと評価」を読めば、教師が迷いなく採点に当たり、その点数になった理由をちゃんと説明出来る。子どもたちや保護者が、その点数や説明に納得できる。そうなるならば、本当に喜ばしいことです。
2017.03.04
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『2020年からの教師問題』を読む前に、 やはり読んでおくべきかと手にした次第。 250ページほどの一冊なのに、 読み終えるのに、結構時間がかかってしまいました。 読み終えてから、カスタマーレビューを見てみると、 なかなかの状況で、「やっぱりなぁ……」という感じです。 カタカナ語が頻出するのと、話の向かっていく方向が読み切れず、 読者としては苦痛を感じる文章になってしまいました。 ***「学力の3要素」とは、「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協調性」。これらについて「高等学校基礎学力テスト」、「大学入学希望者学力評価テスト」「各大学個別の独自試験」の3段階のテストを実施するのだという。「高等学校基礎学力テスト」は高2で複数回実施し、「思考力・判断力・表現力」の基礎となる「知識・技能」の資質・能力をチェック。このテストは、大学入試の判断材料とはしない。「大学入学希望者学力評価テスト」は、「大学入試センター試験」に代わるもので、「知識・技能を活用して、自ら課題を発見し、その解決に向けて探求し、 成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現等の能力」を評価する。そして、「各大学個別の独自試験」は、「思考力・判断力・表現力」と「主体性・多様性・協調性」の範囲まで十分に評価できるテストとして作成されることになるという。「大学入学希望者学力評価テスト」と「各大学個別の独自試験」は、CBTでの実施が予定されているという。コンピュータの画面にテスト問題が立ち上がり、キーボードで解答を打ち込んでいく。 したがって、「高等学校基礎学力テスト」と 「大学入学希望者学力評価テスト」における国語や英語の問題は、 読解リテラシーとして融合され、 後者では「統合・解釈」のレベルが中心に問題が作成されるでしょう。 そして3層構造の3つめの大学の独自入試で、「統合・解釈」の次元、 つまりHOT次元がベースとなった問題が出題されるはずです。 つまり、「キングス・クロス駅の写真の問題」のような レベルの問題です。(p.42)この「キングス・クロス駅の写真の問題」とは、2015年1月、順天堂大学医学部の入学試験の問題で、「キングス・クロス駅の写真です。 あなたの感じるところを800字以内で述べなさい。」というもの。 問題の難易度ではなく、 数学的思考をどこまで現実の現象と結びつけられるのかというのが 世界の数学的なアプローチの潮流です。 2020年大学入試改革で問題の設定そのものが大転換するのは 数学かもしれません。(p.47)その例として挙げられているのは、 絶滅が心配される動物が生息する区域は禁猟区となる。 今このような動物が150いるとき、t年後の生息数はN=150・1.05∧tで表せる。 1年後、2年後、5年後の生息数を求めよ。 2倍になるのに何年かかるか。400になるのは何年後か。 グラフを書け。そのグラフは現実的か。(p.46) ***最大の課題は、その評価です。誰が評価するのか、どのような基準で評価するのか。しかも、それによって合格、不合格が決まってしまうのです。今でも、大学入試に落ちるより、就活でうまくいかない方が辛いと聞きます。それは、人間としての自分を否定されていると感じてしまうから。教科「道徳」の評価だって、本当に難しいと思います。もちろん、学校も受験産業も研究を重ね、次々に対策が施されていくことでしょう。でも、結局作文力次第になっていくような気がしないでもないです。
2017.02.18
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『親なら知っておきたい学歴の経済学』を読んで、 奨学金の返済が大変だということを知り、本著も読んでみました。 JASSO(日本学生支援機構)で、利息付の第2種の奨学金を、 月に12万円ずつ4年間フルに借りると、総額576万円にもなります。 上限利率3%で計算すると、20年間で返済する総額は775万円、 月々3万2292円を返済し続けることになるそうです。 借りることのできる額は、私の想像以上に多かったのですが、 返済額も、馬鹿には出来ないものでした。 奨学金貧困が続いている。 2010年から、3カ月の遅滞者の情報を信用情報機関に登録し、 いわゆるブラックリストに載せるようになった。 9カ月延滞すると裁判所に督促を申し立てる。 本格的に取り立てられるということだ。 そのうえ、9カ月滞納すると、一括返済を求められる。 しかも滞納すると元本に対して年間5%の利息がかかる。(中略) 本人が払えなければ、当たり前のことだが、保証人のところに請求がくる。 そもそも親にお金がないから奨学金を借りて進学したわけだから、 一括返還を請求されても払えない場合がほとんどだ。 本人が奨学金破産すれば、親や親族なども同じように 自己破産の連鎖につながる可能性がある。(p.84)そもそも、月に12万円も借りる必要があるのかということになりますが、首都圏の下宿生は、4年間で約405万円の仕送りをしてもらっています。これに私立文系なら、4年間で435万円の学費が必要です。親の負担額は、4年間で平均約840万円、年平均210万円となります。これが私立理工系なら、4年間でほぼ1000万円、年平均で約250万円、私立薬学部に6年間通うと、総額1800万円、年平均で300万円ほど、私立医学部に6年間通うと、総額3900万円、年平均で650万円ほど、国立大なら、4年間で平均約650万円、年平均で約160万円が必要です。親世代の平均年収から考えると、簡単に支出できる額ではありません。本人がアルバイトをするのはもちろん、奨学金も必要になってくるわけです。仕送りがゼロの下宿生については、奨学金で7万6260円、アルバイトで3万3300円を平均で得ているとのこと。幼稚園から高校までの15年間、全て公立だと約523万円、全て私立だと約1770万円が必要だといいます。幼から高まで公立、地元国立大に現役合格し自宅から通学で、総額850万円ほど。幼から高まで私立、首都圏私立医学部に現役合格で下宿だと、6000万円にも。 *** 「ほんの10年前までは、現役でMARCHに進学する生徒は、 皆から不思議がられていました。 浪人すれば早慶に行けるのに、なぜ?っていう感じですね。(中略) それが今は現役でMARCHに進学するのが 当たり前になってきたと感じています。」(p.34)東京の私立男子進学校の進路指導教諭の言葉。現役進学志向は、特に文系で強いとのこと。 「優秀な理系の生徒は、どうして東大にいくのかと言われてしまいます。 研究者になったり、大企業に入って研究で世界的な成果を上げるなんて、 ほんの一握りの人たちで、それなら国立大の医学部に進学して、 困っている人たちを助けるほうがよっぽどいいとの考えです。 保護者もそれを望みます。 文系の優秀な生徒にしても、目指しているのは市役所や県庁への就職で、 これが生徒にとってのエリートコースなんです。 国家公務員になりたい、 大企業の社長になりたいなどとは思っていません」(p.105)地方トップ高の進路指導教諭の言葉。この地方の地元進学志向により、首都圏の大学の地元占有率が上昇しています。2人に1人が大学に進学するようになる中、学費が高騰。そこに生じた「現役合格志向」と「地元進学志向」。さらに「公立高進学志向」も相まって、進学のムーブメントにも変化が。「行動遺伝学」の知見が広まると、さらに変化が起きるのかも。
2017.01.14
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「ほめて育てる」が、今の世の流れ。 本著は、それに逆らうかのような一冊(に見えるタイトル)。 なので、批判の的になることは、前もって織り込み済みか。 しかし、カスタマーレビューでの評価は上々のよう。 昨夜、ABCラジオの「堀江政生のほりナビ クロス」で、 関西大学人間健康学部の杉本厚夫教授が、 「褒めてしまうと、そこで満足してしまうので、褒めちゃだめ」 というようなお話をされていたので、「へぇ~」と思ってしまった。 *** マスメディアの姿勢にも問題ありと言わなければならない。 つい最近あった「事件」にこんなものがあった。 「高校生96人に都庁前で正座させる 校外学習に『遅刻』 35歳男性教諭処分へ 都教委」 (「産経ニュース」2015年7月11日)(中略) たとえ正座が体罰に当たるとしても、 この報道には抜け落ちている視点があるのが気になる。 それは、96人もの生徒が遅刻するというような異常な事態を なぜ誰も問題視しないのかということだ。 そもそもこの校外学習は、遅刻も含めて、 家庭や校内だけでは身につかない社会的行動を学ぶ機会であったはずだ。 この一件で、生徒たちが実際に学んだことは何だったろうか。 守るべき約束を守らなかった自分たちは親も含めて学校から「謝罪」され、 約束を守らないようではだめだと 規範意識を改めて叩き込もうとした先生は処分対象になる。 彼らの規範意識はどんどん薄れていくに違いない。 教師たちは今後どんな態度で生徒たちに接していけばよいのだろうか。 教育的視点の欠如した批判の目、報道のあり方は、 義務を果たさなくても権利は行使できると教えることにならないだろうか。 (p.96)先日、成人式の式辞の最中に、明石市長がざわついている会場に向け一喝した。この件について、神戸新聞は批判的に伝えていたが、その他の報道機関で、この件を扱ったところはほぼ見られなかった。これも、時代が少し動いたととらえてよいのだろうか。
2017.01.14
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序盤はブルーバックスを読んでいるような感じです。 結構、理系色が強くて専門的で、難しく感じます。 でも、読み進めていけば、行動遺伝学というものについて、 それなりに理解できるような気がします。 けれど、問題は第6章。 この部分については、かなり独創的です。 もし、小中高が現在の学年制から、著者が提唱する能力制に転換されたら、 学校は、学ぶ者にとってどういう場に変化するのでしょうか? *** 知能に及ぼす遺伝と環境の影響を、 児童期、青年期、成人期に分けてプロットしてみると、 図13のようなグラフになります。 グラフを見ると、年齢が上がるほど 遺伝の影響が大きくなっていくことがわかります。(中略) 人間は年齢とともに経験を積み重ねていくわけですから、 環境の影響が大きくなっていきそうなものですが、 実際は逆なのです。(p.116)行く道筋や速度は違えども、辿り着くところは、予定調和の然るべき場所ということでしょうか。 先生や教え方の影響が 子どもにまったくといっていいほど影響を与えていないというのは、 教師としてはかなりショッキングなデータだと思います。 これらの結果は、すでに先生たちがそれぞれにそれなりの教育を 子どもたちに与えてくれているからだと思います。(p.127)著者によると、環境の影響で一番大きいのは「いま、ここで」であり、以前の環境の影響はほとんど残らないのだそうです。なので、誰がどこでどんなふうに教えても大差ない。お受験なんて、全く意味のない無駄な努力と出費ということになるのでしょう。 つまり、学力の70~90%は、 子ども自身にはどうしようもないところで決定されてしまっているのです。 にもかかわらず、学校は子ども自身に向かって 「頑張りなさい」というメッセージを発信し、 個人の力で何とかして学力を上げることが強いられているのです。 これは、科学的に見て、極めて不条理な状況といえるのではないでしょうか?(p.145)不条理と分かっていても、人は立場でものを言わねばなりません。小中高の先生と、大学の先生では立場が違います。大学の学者先生だから、活字でこういうことを述べても大叩きされませんが、もし、小中高の先生が同じことをすれば、全国ネットのニュースに即登場です。 一卵双生児でもちがう大学へいくきょうだいがいます。 中にはレベルの違う大学に行くことになってしまったケースもあります。 一卵性双生児は遺伝要因も共有環境も同一ですから、 その二人の差は、いわば同一人物が環境の違いだけで どのくらい異なる結果をもたらすのかという、 絶対にすることのできない統制実験が、自然に成り立っているのです。 それによると差がありませんでした。 もちろん通常は偏差値の高い大学の卒業生のほうが生涯賃金は高くなります。 しかし偏差値の高い大学と低い大学に別れ別れに通うことになった 一卵性双生児で比較すると、その間に差はなかった。(中略) 収入の差は、通った大学のレベルによるのではなく、 もともとの能力によるものなのです。(p.157)これが本著の結論。遺伝子の力は揺るぎないものなのです。
2017.01.07
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『愛着障害』、『回避性愛着障害』に続く、 岡田さんによるシリーズ?第3弾。 私は、まだ『回避性愛着障害』は読んでいませんが、 読み進めるうえで、全く問題ありませんでした。 そして、『愛着障害』とは趣が全く違いました。 岡田さんの、この分野に関する研究が進んだこともあるでしょうし、 何と言っても、実践的でリアリティにあふれる一冊になっています。 「愛着アプローチ」という言葉が、本著の肝。 *** 暴言には反応しない冷静さとともに、 暴言の背後にある本人の気持ちを読み取って、 そちらに反応することのできる能力が必要になる。(p.33)「優れた支援者となれる人に共通して備わっている能力」として、岡田さんが書き記しているものです。「専門家といえども少ないのが現実だが」と書き添えられているように、分かっていてもなかなかできることではありませんが、精進を重ねて参りましょう。 だが愛着モデルでは、患者は患者ではない。 本当に病んでいて、病状を引き起こす原因になっている者は、 他に存在するのである。 医療少年院の少女の例に見られたように、 症状を呈している子どもをいくら診断し、治療しようとしたところで、 改善は難しい。 なぜかといえば、症状の本当の原因が、子ども本人にあるというより、 子どもを育ててきた環境や、周囲の大人との関係の方にあるからである。(p.37)本著に述べられていることの、最も基礎となる考え方。「発達障害は脳の病気であって、親の子育てに問題があるのではない」ということが、ある時期から盛んに喧伝され、主流となっていったわけですが、ある意味、その流れに一石を投じるものです。 治療できないものは、診断しても治せない。 だが医師の本能としては、「患者を直したい」と思う。 それゆえ、自分が治せない診断をして治療を断るよりは、 治療の可能性がある診断をして治療をしようとする。 それは言い換えると、 医師がもつ治療のレパートリーに診断が左右されるということだ。 医師の治療の中心は、薬による治療である。(p.53)「うつ」や「ADHD」などの発達障害の診断・治療に関する、現場の精神科医による、鋭い指摘です。 安全基地がうまく機能すれば、 休みが必要な間は、ゆっくり休養をとり、 傷ついた思いが癒されて元気を回復すれば、また本来の活動へと戻る。 別に出て行けと言わなくても、自分から行動を再開する。 失敗したことを責めたり、求められてもいないことに意見をしたりするのは、 本人を余計に痛めつけ、回復を邪魔することにしかならない。(p.175)にもかかわらず、無自覚にも、本人が今いちばん話したくないことを、心配のあまり聞いてしまう。 たとえば、学校や会社のことで悩んでいる人に接する場合、 むやみに学校はどうだ、会社はどうだと、根掘り葉掘り質問することは、 傷口に塩をすり込むようなものである。(中略) そういうことを、いきなり聞いてくる人に、 気持ちを開こうという気にはなりにくい。 こうした状況では、まず本人にとってさして重要でない、 たわいもない話をすることから始める。 それさえもしんどそうなら、黙って一緒にいるだけでもいい。 無理に話しかけないことも大事なのである。(p.175)さらに、次のようなことも、岡田さんは指摘しています。 本当に目指すべきは、 問題の答えを見つけることでも、解決することでもない。 問題に本人が向き合い、 本人なりの答えを見つけていくことに付き合うことなのである。 付き合うことができない人は、安全基地にはなれない。(p.193) 安全基地が「安全」なのは、自分の本音を出しても、 それを受け入れてもらえるからだ。 不満一つ言わせてもらえず、それに対して教育的指導が入り、 説得や批判をされるとなると そこは思想改造のための収容所になってしまう。(p.198)何と示唆に富んだ言葉の数々!「優れた支援者」を目指すなら、心に留めておくべき事柄。そして、愛着アプローチによって愛着を改善していくための極意は次の通り。本人にとっての安全基地となってもらいたい人(両親など)への接し方です。 安全基地となってほしければ、 相手の非を責めるよりも、 こちらが安全基地となって、 その人の安定を図った方が、よほど効果的なのである。「優れた支援者」にならねばならない方は、ぜひご一読を!
2016.12.17
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現在、楽天ブックスでは扱っていないようですが、 私は、紙書籍版で読みました。 著者は、上越教育大学教職大学院教授の西川純さん。 親世代の常識が、今では全く通用しないことを教えてくれます。 偏差値60の大学より、実業高校の方が良い就職先がある場合も多い。 大卒の実質就職率は6~7割で、正社員になれない人も増えている。 大学生の過半数が利用する奨学金だが、卒業時の借金額は500万円。 とにかく大学に入れば、後は何とかなる時代ではなくなっているようです。 いまは、「親の落ちた大学に受かり親を馬鹿にして、 親が内定を蹴った企業から内定をもらえず愕然とする」 という時代なのです。(p.28)先術したように、現在の状況は親世代の常識が全くと言っていいほど通用しません。本著を読むことは、そのことに気づく第一歩になります。特に奨学金やオーバードクター、大学入試制度改革に関する記述は必見。親だけでなく、教育に携わる方はぜひ一読を。
2016.12.11
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話題の一冊。 著者は『でっちあげ』の福田ますみさん。 また、同じようなことが起こってしまったことに、 世間は、懲りない人たちの集まりだと思い知らされる。 これは、特殊な出来事ではない。 どこの地域でも、どこの学校でも起こりうること。 なぜ、ここまで学校は弱い立場なのか? なぜ、マスコミは最後まで事実を報道しきらないのか? いったい何が目的でさおりがここまで多くの人を糾弾するのか、 山崎君にはわけがわからなかった。 攻撃のターゲットは最初は担任の立花先生で、 そのうちバレー部になり、 そして最後は、「えっ、おれ?なんで」と信じられない気持だった。 本音を言えば、保護者ひとりになぜ、 県教委や学校は何も言えないのだろうと疑問に思ったのも事実だ。 でもそうなれば、今度は母親の攻撃の矛先が 裕太君に向かうからなのかなとも考えた。(p.155) 無理難題を言う保護者であっても、 教育的配慮から一歩も二歩も譲歩せざるを得ない。 それが、生徒や保護者との信頼関係を前提に、 性善説で成り立っている学校という組織の宿命である。 しかしその”配慮”が大きな禍根を残すことになる。(p.89) ところが、県教委こども支援課の前島や丸山は、 事実を公表したくてもできないジレンマに陥っていた。 公務員である彼らの前に、 プライバシーの保護と守秘義務の壁が大きく立ちはだかり、 県議会で今井県議などによる追及の矢面に立たされても 具体的な答弁が出来ず、袋叩きになっていたのである。(p.92) たった一人の保護者とそれに肩入れする人々に、ここまでかき回され、そして、その保護者のそれまでの行動が、大きな疑問符がつくものだと、色々な立場の人が分かっていながら、何もできなかったのはなぜ?結局、児相一時保護寸前で、裕太君を救い出すことが出来なかった。 24日、県教委こども支援課の丸山は、 尾野生徒指導主事、黒岩とともに佐久警察署に赴き、 さおりを刑事告訴したいと申し出る。 彼女の尋常ではない言動によって 多くのバレー部員や保護者達が傷つけられている現状を、 もはや見過ごすわけにはいかなかったのだ。 応対した刑事課長はしかし、 こうしたケースでは刑法犯として即逮捕は難しく、民事で訴えるか、 いやがらせ電話についてはナンバーディスプレイ付きの電話にするなどの 自己防衛策を講じるしかないという。 ただ、さおりの言動は確かにひどすぎるので、 生活安全課長の方から彼女に注意すると約束した。(p.74)この段階で出来ることは、本当に他になかったのか? 「お父さん、映ってるわよ!」。 この日の夜、妻に言われてテレビ画面を太田が凝視したところ、 番組は、撤回した雑談の部分を放送し、 その後の発言をカットしてしまっていた。 (テレビ局はあらかじめ、学校批判の筋書きを作っていたのか) そのうえ、自分では全く笑ったつもりはないのに、 テレビに映し出された自分の顔がニヤッと緩んだように見えた。 その瞬間、画面が別のニュースに切り替わった。(p.84) 「あなた方には信じてもらえないだろうけど、大変な母親だったんですよ」。 記者たちにそう言いたくても言えないもどかしさと諦めの気持ちが、 あの緩んだ表情につながってしまったのだ。 校長自身は当時の心境をこう分析する。 記者たちは自分の話にしきりに頷いていたが、 結局のところカメラがねらいを定めていたのは、 あの表情だけだったのだろう。(p.151)マスコミの常套手段で、驚くことは全くない。しかし、見る側のリテラシーが、前時代的なままなのが大問題。テレビに映し出されるものは、作り手に都合がいいように加工されており、決して事実をありのままに伝えていないことぐらい、いい加減理解しなくては。 「事情をよく知らない人から、 あれは保護者とのボタンの掛け違いだったのではないかと言われることがありますが、 そんなレベルをはるかに超えた事件でした。 高山さんとは話し合いをしようにも、 狂乱状態になってしまってどうしようもなかった。 結局、言った者勝ち、訴えた者勝ちで、 あれだけの騒ぎになってしまったのだと思います」(p.245)当時、生徒指導主事をしていた教員の言葉である。そう、その当事者でなければ、結局これぐらいの感覚でしかない。高見澤弁護士だけでなく、今井県議、ルポライター・鎌田慧といった人たちは、今、この事件をどのようにとらえ、自分のとった行動をどう思っているのだろうか。
2016.08.13
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学校とは、日本に住む99.9%の人たちが、そこで過ごす経験をする場であり、 それ故、誰もが自分自身の経験を通して、色々と語ることの出来る場です。 それは、自身が児童・生徒だった時のこともあれば、保護者だった時のことも。 つまり、学校について語ることが出来る人は、これ以上にないほど多いのです。 しかしそれは、あくまでも教えられる側から見た学校。 教える側から見た学校は、やはり、それとはちょっと違う見え方をするところがあります。 でも、そこのところが、なかなか分からない人も多くて、 自分の経験だけに頼っているのに、学校の全てを分かったように語る人もいます。本著は、『となりのクレーマー』や『僕が最後のクレーマー』の関根さんが、学校における苦情対応について記した一冊です。日本教育新聞に連載したものをもとに、教師応援の立場で書いたものだと、「はじめに」で述べておられます。 なお、私は今も、またこれからもずっと教育業界を違う角度から見ています。 そして、きっと見誤ることはありません。 それが第三者であり、クレーム対応アドバイザーとしての私の役割なのですから。(p.7)相当な自信と覚悟をもって、教育について関わろうとされていることが伺えます。その自信からか、学校について、教師について、次のように述べられています。 翻って、学校などの教育の現場を冷静に見てみれば、 やはり有形の何かを提供しているわけではない。 ざっくりと分類すれば、サービス業であることは事実だと思います。(p.4)まぁ、本著のタイトルを見ただけで、憤慨した教員の方もいるかとは思います。でも、教員というのは、形のあるものを生産する仕事ではなく、目に見えないものを与え、伝え、導き出す仕事なのですから、サービス業に分類するのは、決して間違っていないとは思います。そして、先ほどの文章は、次のように続いていきます。 しかし、教師はそのなかでも異質ではあります。 また、提供されるサービスも、こういっては申し訳ないのですが、 最低の質のものを提供しているようにしか見えません。 その理由は明らかです。 商品の販売に伴うサービス業とは、あくまで利益の確保を前提としたものであり、 それが担保されるのであれば、それ以上に媚をうったり、 へりくだったりする必要はありません。 ある時は果敢に、毅然とした態度で顧客側と戦うことも要求されます。 しかも、それでも顧客を決して手放さないように 取りまとめるのが本当のプロのサービス。 似合わない色を「お似合いです」とお世辞をいって売りつけるのは詐欺であり、 真のサービスではありません。 また、受けた苦情を解決し、次に生かすのではなく、 ことなかれ主義で最初からなかったことにしてしまうのも、 やはりプロとして失格です。 それらの意味で、教育界はサービス業の基準からみれば、 プロの基準に達しているようには思えないのです。(p.4)教育は「商品の販売に伴うサービス業」ではありません。教育を「ビジネスモデル」でとらえるべきものではないことは、内田先生が度々述べられておられる通りです。なので、そんな基準でみられると、とても困惑してしまいます。 私が教師などの教育現場に携わる454人に調査してまとめた 「日本苦情白書」のアンケートでは、 教師の多くは、教頭や校長に相談した際に 「彼らの意見が参考になった」と回答しています。 それはそれで結構なのですが、年齢を重ねた先生方の意見は、 果たして今現在の保護者のニーズに合致していたのかどうか。 その意味で本当に正しい回答になっていたのか、やや疑問なのです。 同白書によれば、苦情が増えたと回答している教師の割合は、 実は年代が上がるにつれて増えています。 裏返せば、実は年齢を重ねた教師ほど、 保護者へ器用に対応する能力がないということを意味します。 そういった彼らからの「提案」や「指示」がどこまで的確かどうかは 心のどこかで注意しておく必要があるかもしれません。(p.29)上司や先輩の言うことを信頼するななんて、なかなか過激ですね。誰に「提案」や「指示」をしてもらえばいいのか、困ってしまいます。ところで、「年齢を重ねた教師ほど、長期に渡りその移り変わりを見てきたので、苦情が増えたと感じてしまうのではないか?」とは思わなかったのでしょうか?しかし、「第3章 保護者対応マニュアル<基本編>」の「苦情対応の基本7ヶ条」(p.62)では、その5番目に「正しいとは思われる判断をしつつ、上司へも必ず報告」としています。あくまでも報告だけで済ませ、指示は別の人からということで宜しいでしょうか?すると、6番目には「悩んだとき、上司や同僚以外に相談すると、思わぬ解決策が得られることもある」と書いてくれていました。でも、「上司や同僚以外」というのは、どんな人を想定しておられるのでしょうか?守秘義務や個人情報保護の観点から、相談できる人は限られており、これも悩んでしまいます。一方、「怒りを買う話し方」(p.73)として、3番目に「知ったかぶり」を挙げておられます。小野田先生の「イチャモン研究会」にも出席されておられるとのことなので、関根さんについては、これには該当しないはずですね。さらに、「許される話し方」(p.83)として、2番目に「言ってはいけない言葉をインプットしておく」を挙げておられます。「見誤ることのない、第三者の、クレーム対応アドバイザー」である関根さんは、教員に対しても、どのように話せばよいか、熟知されているはずです。ただ、気になったのは「第5章 苦情対応力の強化に『ロールプレイ』」です。ロールプレイ例「出席日数不足問題」(p.130~)の「理想編シーン」がそれです。 担任「朝は学校のトイレ、帰りは駅のトイレ。 それが女子高生の化粧室になっています」 父 「わかっているなら止めろよ」 担任「そうは言いますが、女子トイレですし、そこまでは。 もちろんその場で見かければ注意しますが、ここで、父親から「学校には、女性の教員はいないのか!」と突っ込まれること、間違いなしだと、私などは思うのですが、そういうこともなく、担任は次のように言葉を続けます。 元々『はい』と素直に聞く子なら、化粧などしませんハイ、終了で~す!もう、ここで父親が激怒して、胸ぐらをつかんできてもおかしくない。まさに、これこそ「言ってはいけない言葉」。ところが、ロールプレイは、次のように続いていきます。 父「それもそうか……。うちの娘の化粧は目立つのかい?」(p.143)関根さん、時間がなく、推敲もほどほどに、この部分については、原稿を提出されてしまったのでしょうか?そして、新々・学校保護者関係研究会、通称「イチャモン研究会」に参加したことを受けて、次のような記述もされています。 研究会への参加を通じ、特に印象的だったのは、 都道府県によって、学校問題に対する対応力に大きな差があること。 また地域性が少なからずあることも発見でした。 ここには県民性などもありますが、 それ以上に、各地方を束ねる教育委員会の姿勢も大きく影響しています。(p.190)これは、なかなか鋭いと思います。そう、学校と言っても一括りには出来ないことに気付かれたようです。しかしながら、続く言葉は次の通り。 私の本業は、どんな苦情にも対応し、最善の手段を検討し、収めること。 そんな私から見ると、 学校での問題はレベルからすると失礼ながら「最小」に近いものです。 私はプロである以上、苦情を受ける側の被害を最小限にしつつ、 クレームを申し入れてきた相手の満足を最大限にすることが求められます。 その相手は「その筋」や「とある組織」ということも少なくありません。(p.197)「プライドを外して」とか「上から目線にならず、対等に向き合うよう心がけてください」とか、そういった姿勢がとても大切なことが、とてもよく分かる一冊に仕上がっていると思います。関根さんの狙い通りのものが、ちゃんと出来上がったのではないでしょうか。
2016.02.11
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『これでいいのか小中一貫校』の山本さんの著作。 小中一貫校の問題をはじめ、新自由主義教育改革全体について その様々な問題点を指摘している。 そして、その行きつく先について、大いなる警鐘を鳴らす。 読んでみて思ったのは、日本の教育政策が、 いまだに欧米を後追いしたものに過ぎないということ。 そして、それが経済的な効果を第一の目的としたものであるということ。 さらには、そこでは効率が最優先されているということ。まず、「第1部 今日の教育改革の全体像」では、「第1章 新自由主義教育改革とは何か」において、次のように述べている。 従来、少なくとも日本の戦後教育改革の理念に基づけば、 教育の公共性とは、全ての公立学校がどこでも平等に教育サービスを提供することによって 保障されるものと考えられていた。 6・3・3制は、そのための「教育の機会均等」原則を実現する教育制度であった。 しかし、現代のグローバル経済の社会において、 国際競争に勝ち抜いていけるようなエリート養成に重点的に資源配分していくことこそが 教育の公共性の実現である、と財界、政府は発想を転換したのだ。(p.19)ようするに、かつての「一億総中流」の世の中ではなく、「格差社会」を目指すことに舵を切ったということ。 アメリカの教育委員会は今日でも96%が公選制であるが、 教育委員会の権限移譲は教育の民衆統制の性格を弱めていくことになった。 さらに、教育改革を先進的に行う自治体、 シカゴ、ボストン、デトロイト、フィラデルフィアなどは、 公選制教委を廃止して市長の任命制に移行し、 教育に対する市長の権限を強化する改革を行った。 そのような新自由主義教育改革は以下のような制度から構成されるものであった。 1.アカデミックなスタンダードの設定 2.スタンダードに基づいた一斉テストの実施 3.一斉テスト「結果」に基づいた学校評価・教員評価 4.学校選択制(その結果に基づいた学校統廃合、公教育の民営化を含む) 5.教育バウチャー制度(生徒数に応じた教育費配分制度) 6.学力テスト体制に即した「学校参加」、校長にリーダーシップの拡大(p.25)要するに、政治が教育を主導していくよう転換されてきているということ。このような教育改革を行う自治体は、アメリカでも上記のような大都市が先陣を切っているが、これについては、日本においても同じような傾向が見られる。まずは、東京や大阪等の大都市で先行実施されたものが多い。さて、「第2部 学制改革の突破口」の「第6章 小中一貫校とは何か」では、次のような記述がみられる。 九州に典型的に見られる地域の新自由主義的再編は、 大資本や多国籍企業が活用しやすいような大規模な単位に地域を再編していくものであり、 旧来からの住民の生活圏としての地域はその障害物とされていく。 そして、旧来の集落が小学校区を形成しているケースはきわめて多い。 地域から学校を消滅させることは、 住民の生活圏を破壊させるためには極めて有効なのだ。(p.186)なかなか衝撃的な文章である。これが真の狙いであれば、恐ろしいとしか言いようがない。 その新自由主義的なグローバリゼーションの特徴と影響については、 この会議では「教育費の削減と一斉テストによる教育支配」 「民営化と公設民営学校への公的資金注入」などが、主な問題点として、取り上げられた。 特に、テスト結果については、 経済的、社会的に不利な立場にある生徒のテスト結果は 一般的に低いことが実証されているにもかかわらず、 それが教員の評価にダイレクトにつながっている点は大きな問題であるとされた。(p.213)これは、NAFTAにおいて行われた、第11回「公教育を守る3カ国国際会議」についての記述であるが、なかなか興味深いものがある。テスト結果の数字には様々な要因が絡み合っており、その扱いはとても難しいということだ。 2015年1月に文科省が、 「公立小学校・中学校の適正規模・適正配置に関する手引き」を公表したのだ。(中略) そこには、総務省による、学校がなくなることによる地域コミュニティの衰退を 懸念する意向が強く反映されている。(p.61)本著において、今後進められるであろう統廃合において、明るい希望の光の一筋として提示されているのが、この「手引き」である。 「手引き」では、児童生徒数に応じた機械的に統廃合を進めるのではなく、 「小規模校のまま存続させることが必要と判断するところ」として、 以下の4例が挙げられている。 1.近隣の学校との距離が遠すぎる。 スクールバスを導入しても安全安心な通学が出来ないと判断される場合。 2.学校統廃合を行った際に、 さらなる少子化や地域の産業構造の転換により児童生徒数が減少するなど、 通学可能な統廃合を進めることが困難になる場合。 3.同一市町村内に1校ずつしか小・中学校(小中一貫校)がない場合。 4.学校を当該地域コミュニティの存続や発展の中核的な施設と位置づけ、 地域をあげてその充実を図ることを希望する場合。(p.220)特に4については、地域の存続問題とかかわるところであり、「まちづくり」「まちおこし」とも密接にかかわる部分である。これらの問題に関心のある方たちは、小中学校の統廃合問題にも、ぜひ関心を向けてもらいたい。
2016.01.23
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青森中央学院大の高橋教授の著作。 教授は、青森県立高校の校長から県教育庁生涯学習課長、 県総合社会教育センター所長を経て現職に就いた方で、 現在は国立教育政策研究所のプロジェクト研究委員でもある。 従って、『これでいいのか小中一貫教育』の山本さんとは、 立ち位置が異なり、記述されている内容も違う。 その点については、本著の「はじめに」にも記されており、 双方を読むことが、バランスをとるためにもいいと思う。本著は5つの章と補論からなる。第1章は「小中一貫教育とその必要性」で4頁、第2章は「これまでの小中一貫教育の経緯~その成果と課題~」で22頁、第3章は「アンケート調査結果等から見た小中一貫校の実態」で22頁。 小学校は担任制で、1人で全教科を指導するのが原則である。 これに対し、中学校は教科担任制で 教員は特定の教科のみ指導するのが原則であることなど、 小・中学校の教職員の職務の性質は異なる。 このため、「小学校と中学校では文化が違う」などと公言する教員も多く、 連携・協力が難しいとされる。 一貫教育により、こうした小・中学校間の相違を互いに理解しあい、 「小学6年と中学3年が別々ではなく、 あくまで義務教育9年間で子どもたちを育てる」との意識改革を図り、 望ましい連携協力関係を構築することで、 学習及び生活の両面で教育効果を上げようとする。(p.4)この記述は、実際にその職務に関わったことがない者には分かりにくいかもしれない。同じ義務教育に携わる者であり、同じ子どもを指導する者であるのに、なぜ、「文化が違う」というようなことが起こるのか?しかし、実際それは野球とサッカーほどに異なる。 中一貫教育の成否を決するのは、 取組みの主役である教職員の意識改革ができるか否かにかかっている、 と指摘されることが多い。(p.45)まさに、この指摘の通りだと思う。そして、そのことは、事が「文化の違い」だけに、容易いことではない。続く第4章の「特に注目すべき取組み事例」には148頁が費やされている。「施設一体型」「施設分離・連携型」という施設形態の違いに着目して、奈良県奈良市、千葉県鴨川市、青森県三戸町、鹿児島県薩摩川内市、広島県呉市、島根県松江市を紹介している。 これに対し、地域住民や保護者等から多く出された主な質問や意見は次の3点だった。 1.そもそも「小中一貫教育」や「小中一貫校」への理解が 不足していることから来る不安や、実際の取組み内容に関する質問。 2.もともと合併前の旧町村単位に小学校があったため、 小学校の統合により地域から学校が無くなることで、 地域の活力が失われるのではないかとの不安。 特に、学校が無くなる計画の大山・主基地区で多く出された。 3.通学距離が長くなることによる、スクールバスの運行に関する質問や意見。 特に大山・主基地区の保護者から多く出された。(p.61)これは、千葉県鴨川市の事例紹介の部分に出てくるものだが、地域住民・保護者の意見として、典型的なものではないかと思う。 同市が小中一貫教育の目的の1つとして、 「教職員の教育観の変革と指導力の向上」をあげ、 そのための取組みとしての授業交流と、 児童生徒の交流活動の充実を重視している(中略) その実施のためには教員同士の綿密な打ち合わせが必要なことは言うまでもなく、 取り組みの回数が増えれば増えるほど打合せの回数も多くなり、 そのための時間確保が重要な課題になることは言うまでもない。(p.95)これは、鹿児島県薩摩川内市の事例紹介で出てくるものだが、先述した、「文化が違う」小学校と中学校の「異文化交流」を促進するために、最も基本的で、もっとも効果のある取り組みである。それ故、この時間確保こそが、最重要課題となる。次に「4・3・2」「4・5」「5・2・2」「4・3・5」「3・4・2」という学年区分の違いに着目して、兵庫県姫路市、神奈川県横浜市、広島県広島市、熊本県産山村、長崎県小値賀町、宮城県登米市の事例を紹介している。 初年度は、小・中教職員が各教科・領域の特性や学習内容について 議論するところから作業を始めたが、 教職員から「同じ教科・領域でありながらも、 そのとらえ方や指導上の留意点が小中では全く違う」と驚きの声があがったという。 しかし、2年目にあたる2008(平成20)年度に作成作業を終えるに際しては、 「異校種のことがよくわかった。今後の指導に生かしたい」とか、 「同じ教科・領域でありながら用語や学習内容についてのとらえ方が全く違うことが分かり、 小・中教員間で意識の共有化が図れた」などの声が多くあったという。(p.135)これは、兵庫県姫路市の事例紹介に出てくるものだが、まさに、異文化交流の成果である。そして、次の広島県広島市の事例紹介に出てくる一文は、その成功に向けての指針として、注目すべきものである。 一方で、小学校と中学校の指導方法をめぐる連携には課題がある。 これまで見てきたように、「ひろしま型カリキュラム」の実施を核とした 広島市の小中連携の取組みは、市教育委員会が明確な方針を示し、 試行しながら成果と課題について検証したうえで、 例えば綿密な「言語・数理運用科ガイド」の作成・配布など、 積極的に学校(教職員)への支援を続けながら 全校実施へ歩を進めたことが最大の特徴だと思われる。(p.162)このように、同じ小中一貫教育に取り組みでも、地域により随分差があり、興味深い。それは、同じ小中一貫教育と言っても、これだけ特色に違いを持たせることが可能であることも示唆している。要は、現時点では、各自治体の裁量の幅がかなり広いということであろう。続く第5章の「小中一貫教育を推進するために解決すべき課題」は、わずか13頁にしか過ぎないが、高橋教授の考えを述べた部分で、本著の核ともいえる部分である。それは次のような内容であるが、その指摘は的確で分かりやすい。(1)小中一貫教育の目標や方針・計画等を明確に -何のために一貫教育を目指すのか-(2)学年区分論の活発化が必要 -各区分の取組みによる得失の分析・検証が不可欠-(3)カリキュラム論の重要性を再確認する必要(4)一貫教育に伴う学習指導上の課題(5)保護者や地域住民等の参加を拡充する必要性(6)市町村教育委員会の脆弱な推進体制整備の必要性(7)一貫教育に伴う教職員の多忙化(8)市町村格差が拡大する可能性そして最終的に、やはり課題となってくるのが(7)であろう。成果を上げることの出来る、継続可能な取り組みとするためには、このことを避けては通れない。
2015.12.19
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