モラルに体当たり記

モラルに体当たり記

欲望という名の列車とそれにまつわる真実


蜷川幸雄の「欲望という名の列車」。

色々考えたが、一番思ったのは、「真実」にまつわること。

「真実」を知りたい、という気持ちはどこから来るのだろう?
真実なんてパンドラの箱であり、開けてしまったら汚いものがいっぱい飛び出してくる可能性が高いことを、みんなうすうす感じているのに、どうして人は真実を求めるのだろう?

私は、真実は真実でしかない、と思う。
見てしまったら受け入れるしかない、と思う。
だから、酷い真実は見たくない、と思う。

でも何でだろう?
世の中はそうなっていない。
真実がまるですごく価値のあることかのようであり、真実を暴くことは英雄行為のように受け取られる。
でも、暴かなければよかった真実、知らなければ幸せだった真実も世の中には一杯あるのに、と思う。

たとえば、ガラス玉を宝石だと思い込んでいた時の方が世の中はずっと綺麗に見えたように、もしもそれが人に認められなくても、自分の中で真実であれば、それでいいのに、と思う。

それでも人は客観的な真実を求める。真実を受け入れる覚悟もないままに。
真実が本物であって欲しい、自分の思っている通りであって欲しい、という甘い期待のもとに。

そうやって、真実を暴く側に真実を受け入れるキャパがないのに、真実を暴き、その真実に対して失望したり批判したりするのは、ルール違反じゃないのか。
客観的にはガラス玉でも、自分にとっては宝石だと、どうして言えないのか。
それほど強く自分の考えに対して確信を抱けるほど、人間は強くない、ということなのか。

多分、そうだから、私は酷い真実を見たくないという気持ちがある。
できるなら、目を背けて、自分の都合のいいように解釈していたい、と思う。

しかし、自分がそうであるのに、同時に、真実が見えていない人がいた場合、真実を突きつけてやりたい、という暝い衝動に駆られるのも真実。

多分、この真実にまつわる考えに答えはない。

間違いなく言えるのは、この舞台は、私にとっては、見たくなかった酷い真実を突きつける舞台であったということ。

そしてこの真実もやはりただ受け入れるしかないのであろう。
多くの酷い真実とともに。




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