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総理大臣が神社に参拝するのは憲法違反であるという問題について、元文科官僚の前川喜平氏は9日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 岸田文雄首相は4日に伊勢神宮を参拝した。首相の正月の伊勢神宮参拝は1967年の佐藤栄作首相以来の慣行だ。 岸田氏が個人としてどの神社にお参りしようとそれは全く自由だ。しかし岸田氏は内閣総理大臣として参拝した。信教の自由の保障と政教分離原則を定めた憲法第20条は、第3項で「国及びその機関は・・・いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。内閣総理大臣は国の機関だ。伊勢神宮参拝は宗教的活動だ。だから内閣総理大臣が正月に伊勢神宮参拝をする慣行は憲法違反だと考えざるを得ない。 仏教寺院であれキリス卜教教会であれ、首相の立場で参拝すれば憲法違反だ。しかし伊勢神宮参拝の違憲性はもう一段高い。なぜなら日本国憲法の政教分離原則の狙いは天皇を神格化した国家神道の廃止にあったのであり、天皇の祖先とされた天照大御神を祀る伊勢神宮は国家神道の最高位の神社だったからである。 首相の靖国神社参拝にも同じ憲法問題がある。過去の軍国主義との関係やA級戦犯の合祀の問題に焦点が当たることが多いが、1985年の中曽根康弘首相の靖国神社公式参拝については、1992年の福岡高裁と大阪高裁の判決が政教分離原則に照らして違憲の疑いがあると述べている。首相の靖国神社参拝も外交問題である前に憲法問題なのである。(現代教育行政研究会代表)2022年1月9日 東京新聞朝刊 11版 19ページ 「本音のコラム-首相の伊勢参拝は違憲だ」から引用 天皇の祖先が天照大神であるというのは、まったくの作り話であり嘘か誠かと言えば、それは真っ赤なウソであることは、現代の日本では常識である。また、わが国憲法が国の宗教活動を禁止しているのは、上の記事が説明するとおりであるから、総理大臣が正月であれお盆であれ神社に参拝するのは「憲法違反」である。以前にブログにこう書いたら「総理大臣にも『思想信条の自由』や『信仰の自由』があるだろう」という反論を書かれたことがあったが、そんなものはないのである。どうしても、ということであれば、首相公邸を出て自宅に帰って私服(?)に着替えて、どう見ても総理大臣には見えないように気を遣った上で、気が済むように参拝でも祈祷でも、好きなようにすればいいのであって、首相公邸からSPをぞろぞろ引き連れて公用車で神社に乗り付けて、挙げ句の果ては玉串料を公費から支出するなどということは、あってはならないことです。
2022年01月31日
戦前の日本では国民が自由に発言し行動する権利は国が法律で定めた範囲内に限るという制限があったため、最終的には治安維持法という悪法で国民は政府批判をする権利を奪われ、侵略戦争に誰も反対意見を言えなかったという歴史を持っている。戦後はそれを反省して憲法21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」は自由であり、法律で制限してはならない、ということになっていたのであるが、近年はそれが変わりつつある、と専修大学教授の山田健太氏が9日の東京新聞に書いている; 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する――。日本国憲法21条の定めだ。旧憲法が「法律ノ範囲」を設けていたことで、戦時立法によって思想や言論が封殺された反省を受け、「例外を作らないことによる強靭な自由」を保障している。 もちろん、名誉やプライバシーなどの〈個人〉、青少年の健全育成や公序良俗を守る〈社会〉、さらには公正な選挙の実現、司法の権威の維持などの〈国家〉といった、対抗的利益との調整を図るため、事案ごとの比較衡量が行われ、表現の自由が制約を受ける場合も少なくない。 ◇◆◇ しかし、重要なのは、あくまでも自由が「原則」であって、こうした制約は「例外」的措置にとどまるということだ。しかし、近年、この原則と例外を逆転させ、例外を一般化する考え方が強くなってきている。これは日本だけでなく世界的潮流でもある。 その明確なターニングポイントは2001年の米国における同時多発テロだった。愛国者法ができるなどして、憲法上の自由の制約を幅広に認めることが一般化し、国家安全保障は常に表現の自由よりも優先するという考え方を社会が受け入れる余地が広がった。その流れは日本でもあり、03年に有事立法ができるなどして、緊急事態になれば表現の自由を含む人権が制約されて当たり前というルールが増えていった。 そして、13年の特定秘密保護法の立法時において政府は、明確に表現の自由は国家安全保障(秘密保持)との関係において「劣後」にあるとして、優先されるのは国家の安全で、その範囲内において表現の自由が認められるという順番を示すに至った。これは、表現の自由の土俵から一定の表現行為を排除することを意味する。 この「初めから含まれない」という考え方は、その後、さまざまな場面で登場することになる。たとえば、平等な社会の実現は重要な社会的利益であって、差別的表現はそもそも表現の自由の枠外であるとされたり、犯罪被害者を保護する必要があるのは当然だから、人権が十全に守りれる場合に限って取材報道が認められたりするといったものだ。 ◇◆◇ 差別言動が許されないことは当然だし、犯罪被害者に2次被害を与えるような取材や報道は絶対にあってはならない。ただし、対抗的利益を守るという結果が同じであっても、自由が原則なのか劣後なのかが入れ替わってしまうことは、そのほかの表現活動に大きな影響を与えかねない。社会全体が制約に不感症になることで、デモや集会あるいは芸術活動などの表現行為が、規制を受けたり妨害されたりすることに対し、一般の無関心が広がっている。 さらに、ここ2年で、音楽やイベントといった日常生活で当たり前の表現行為が、政府の号令でいとも簡単にできなくなってしまうことも学んだ。最短で22年夏には、憲法改正の国民投票が実施される可能性があるという。そこでは、このコロナ禍でより強い国家権限の発動が期待された緊急事態条項の新設が、「お試し改憲」の有力な選択肢とされている。 同様に違和感なく受け入れられる変更点が、表現の自由に「ただし書き」をつけて公益的な理由による制限を憲法上明確にすることかもしれない。まさに私たち自身が試される年を迎えている。2022年1月9日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「時代を読む-表現の自由の原則と『劣後』」から引用 国家の安全保障は国民の表現の自由に優先するという「考え」が広まった切っ掛けが2001年の米国同時多発テロであったと言うのは、何かの因縁を暗示しているような気がします。国民の表現の自由よりも国家の安全保障の方が重要だという「考え」は、戦前の日本と同じであり、現在の中国と同じではないのかと思います。そもそも、アメリカの同時多発テロを誘発したのは、アメリカの帝国主義が中東を搾取して中東の貧困を放置した結果、中東の人々の一部をテロリストにしてしまったもので、同時多発テロの遠因を作った責任はアメリカ政府にあると言えます。その責任を棚に上げて、国家安全保障のために国民の権利を制限するというのは、失政の責任を国民に転化する仕業であり一流国の政府のやることではないと思います。 2013年以降の日本の、秘密保護法や自衛隊を海外の紛争地域に派遣する法改悪などは、米軍に代わって自衛隊を活用しようという「方針転換」は、わが国憲法の「平和主義」に反するものであり、国民として容認することはできません。来る参議院選挙では野党を過半数にして、自公政権の間違った政策に強力なブレーキをかける「算段」を、我々は考えるべきです。
2022年01月30日
元日本軍慰安婦だった人々が日本政府を訴えた裁判で、判決が確定して1年経つのに日韓両国政府の間にはこの問題を解決しようとする気配がないことを、9日の神奈川新聞は次のように報道している; 「ソウル共同」韓国のソウル中央地裁が日本政府に元従軍慰安婦の女性らへの賠償を命じた判決から8日で1年を迎えた。日本政府は賠償を拒否。ソウルの日本大使館などの資産はウィーン条約の保護を受け、差し押さえも容易でない。懸案解決へ日韓両政府が歩み寄る兆しはなく、原告側は動きが取れない状況だ。 日本政府は、国家は他国の裁判権に服さないとする国際法上の「主権免除の原則」に反するとして訴訟参加を拒み、控訴もしなかったため判決が確定している。原告側は韓国内にある日本政府の保有資産目録を開示させるよう求め、地裁は今年3月21日を開示期限に指定した。 日本政府は開示にも応にない方針で、原告側弁護士は裁判所を通じて金融機関などに日本の資産の有無を照会するかどうか検討するとしている。 昨年4月には別の元慰安婦らによる損害賠償請求訴訟の一審で原告側か敗訴しており、韓国の司法判断は一定でない。敗訴した原告の控訴審は昨年11月に第1回口頭弁論が予定されていたが「日本側から訴状を受け取ったかどうかの返事がない」との理由で延期された。 確定判決は、故人を含む12人の女性に1人当たり1億ウォン(約960万円)の支払いを命じた。日本政府は請求権に関する問題は1965年の請求権協定などで解決済みだと反発。文在寅(ムンジェイン)大統領も昨年1月の記者会見で、確定判決に「困惑している」と述べたが、日本側が受け入れ可能とする案は提示していない。◆日本は具体的な謝罪を――李那栄理事長インタビュー 旧日本軍の従軍慰安婦問題の解決を求めてソウルの日本大使館前で毎週開かれる「水曜集会」が1992年に始まって8日で30年を迎えた。主催する元慰安婦支援団体の李那栄(イナヨン)理事長は日本政府の具体性のある謝罪などがあれば「続ける理由はなくなる」と語った。――日本では「既に謝罪済み」との見方がある。 「(問題解決をうたった)2015年の韓日合意などは日本がどのような被害を与え、何に対する謝罪なのか具体性が欠けていた。日本で歴史教科書の従軍慰安婦表記の『従軍』が削除されたり有力政治家が史実を否定する発言をしたりし、被害者は真摯(しんし)な謝罪があったと受け止めていない」――どう謝罪すべきか。 「内容が具体的でなければいけない。ドイツはナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を謝罪し続けている。『一度謝罪したから終わり』と言うのでなく、謝罪や反省が繰り返されれば人々が真心を感じる。日本政府が真実に近づく努力をすれば(被害者の)おばあさんたちは受け入れるだろう。歴史がなくなるわけではないが、問題は一段落する」――被害者支援のために日韓合意で設立された財団の残金がある。 「両国政府が15年合意に基づき残金を利用しようとすれば、相当な国民的反発が起こるだろう。金銭による解決は問題を複雑にする。日本による事実認定と謝罪、再発防止の約束を前提に、両国政府が共に残金はアフガニスタンやミャンマーといったアジアの紛争地域の女性人権推進に使ってはどうかと思う」 ◇<李那栄・イナヨン> 1968年、韓国・釜山出身。米メリーランド大で女性学博士号。韓国中央大で社会学科教授。水曜集会を主催する「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」理事長。※引用者注 上記引用文中で「元慰安婦支援団体の理事長」のお名前を、便宜的に「李那栄」と表記してますが、本当のお名前は次の図のとおりです。2022年1月9日 神奈川新聞朝刊 2ページ 「元慰安婦へ賠償命令1年 日韓歩み寄りなし」から引用 この問題について、日本政府の言う「国家は他国の裁判権に服さない」とする国際法上の「主権免除の原則」というのは、百年前に流行った考え方で、最近では特にに先進国でこういうことを言う国はなくなっていると聞きます。また、日本政府はよく65年の日韓基本条約で解決済みであるということも、よく発言しますが、実際の問題として65年当時に国交正常化交渉に関わった政治家たちの間に、「慰安婦問題」が日韓双方で協議して解決するべき問題であるとの認識は無かったのが現実であり、90年代に元慰安婦であった人物が実名を公表して「訴えた」結果、始めて日本政府が「これは深刻な人権問題である」との認識に至ったもので、それまでは日本社会では戦争を描いた映画には普通に「従軍慰安婦」が登場する場合もあったし、中曽根首相は産経新聞の経営者との対談で堂々と自分が日本軍の一員として南方の島に派遣されたときに、現地有力者と交渉して慰安所を作ったなどと自慢話をして、それを本にして出版したような状況でしたから、65年の条約で解決済みなどとは、とても言えない状況です。支援団体理事長の意見に耳を傾け、真摯に対応する以外に解決の道はないと思います。
2022年01月29日
竹信三恵子著「賃金破壊-労働運動を『犯罪』にする国」(旬報社刊)について、ジャーナリストの斎藤貴男氏が8日の東京新聞に、次のような書評を書いている; グローバル化が加速した1997年以降の4半世紀を通して、賃金が下がり続けている先進国は日本だけだ。米英仏独伊のいずれもで、20~30%は上かっているのに。 ”異次元”も窮まった賃金デフレ。見せかけだけの”アベノミクス”の主が表舞台を去り、ようやく知れ渡った日本経済の実態を読み解くカギのひとつが、本書にはある。 練達の労働ジャーナリストが、「関西生コン事件」の深層を活写した。生コンクリート輸送の運転手らを組織した「全日本建設運輸連帯労働組合」の関西支部を標的とする、国策としての労組潰しだった。 2018年夏から1年間で延べ89人が逮捕され、うち71人が起訴された。同じ大物の逮捕や勾留を、いくつもの警察署が重ねていく。凶悪犯並みに住所まで晒(さら)す報道。検察の求刑は殺人罪を連想させるほど重かった。 関生支部のような産業別組合には、企業別組合とは異なる戦術がある。国際的にはそれが普通だし、ほとんどが企業別組合の日本でも、もちろん法的に認められた活動だ。 それでも弾圧された理由。本書によれば、当局は彼らの正当な組合活動を、「カネ目当て」の「嫌がらせ」「脅し」「不当な圧力」などと言い換えることで、暴力団などの組織犯罪と同然に扱ったという。 いかなる無理無体も、言葉の表記や定義を変えてしまえば”問題ない”。縮小するパイの分配先から労働者を外すためなら、人間の生存に関わる労働基本権だろうと容赦なく、だ。集団的自衛権の行使を容認する新法に「平和安全法制」の名を与えた安倍晋三政権らしい、憲法28条の「解釈改憲」と言うべきか。 事件におけるメディアの問題にも一章が割かれている。朝日新聞出身の著者による構造的陥穿(かんせい)の指摘は生々しい。記者の取材よりSNS上の空気を優先するデスクが現実にいるらしいとは呆(あき)れた。 このままなら、賃金デフレは一層の深みに嵌(はま)り、日本の何もかもがジリ貧になっていく。だが著者は希望を捨てない。ラストの一行に感じ入る。<評・斎藤貴男(ジャーナリスト)>竹信三恵子(たけのぶ・みえこ):ジャーナリスト・和光大名誉教授。著書『しあわせに働ける社会へ』など。2022年1月8日 東京新聞朝刊 21ページ 「読む人-国策としての労組潰しの深層」から引用 政府が国策として労働組合潰しを開始したということは、この辺で民主主義を終わらせて戦前のようなファシズム体制を復活させようとする策謀です。当ブログの22日から3日間引用した、竹信氏の詳細なインタビュー記事が示すように、メディアは「関西生コン事件」などと表現してますが、当該労働組合の活動は労働法で保障された労働者の権利に基づいた正当な活動であり、これを違法行為であるかのように言うのはまったくの「言い掛かり」です。このような「権力の横暴」を止めさせるために、私たちは次の選挙で「野党を過半数」にするための作戦を考える必要があると思います。
2022年01月28日
この記事に言う「ブースター」とは、3回目のワクチン接種のことである。第6波が始まる前から政府は3回目のワクチン接種を年内に(遅くとも12月中)始めると言っていたが、年が明けて1月になっても3回目が終わったのは1~2%のエッセンシャル・ワーカーに過ぎず、一般人は待ちぼうけを食らっている現状について、エッセイストの師岡カリーマ氏は、8日の東京新聞コラムに次のように書いている; 私の周囲では最近「ブースターはいつ・・・」という不安の声が相次ぐ。コロナ感染が急増する中、内外メディアはオミクロン株に対し追加接種がいかに効果的で、遅れるといかに効果が減るかを報道。「どうか追加接種を」と他の先進国では政府が国民に懇願し、日本では国民が政府に懇願するという事態は避けたいものだ。国家破綻状態のレバノン在住の友人までもがワクチンの3回目接種を受けたと聞くと、さすがに心細くなってくる。 ほぼ必ず来ると予測された第6波に向け「先手、先手で」と岸田首相。では最大の予防策である追加接種の遅延はなぜ? 説明されてもあまり腑(ふ)に落ちない。ワクチンが足りないとすれば、根拠も示さず「2回目から8ヵ月後」と決めて安心していたためではないのか(途上国へのワクチン援助が先決、という方針なら話は別だが)。前回のようにすべてお膳立てした上で実施をスムーズにする日本的完璧主義は素晴らしいのだが、今回は時間との闘いだ。各市民が2回目から6ヵ月後に接種証明持参で会場に出向き、誰が3回目を接種したかという情報が役所に送られて登録されればよいではないかと言う人は多い。とりあえず接種を始め、役所の激務は事前ではなく事後というのではダメなのだろうか。 規制復活で一般市民が経済的打撃を受けるのは見たくない。柔軟さも大事である。(文筆家)2022年1月8日 東京新聞朝刊 11版 23ページ 「本音のコラム-もういくつ寝るとブースター」から引用 武骨で口数の少ない菅前首相は典型的な東北人という印象だったが、その点都会育ちの岸田文雄首相は何かと気の利いた言葉を並べる才能を持っているように見える。新しい資本主義とか、分配に力を入れるとか言ってはみたものの、党内から異論が出るとすぐに「成長あっての分配だ」と軌道修正したり、コロナ対策も「先手、先手」とよく発言して「先手ムード」を作るのは上手だが、よく見ると全然「先手」になっておらず、第5波を超える感染者数で毎日「過去最高」を更新しているのに、ワクチン3回目接種は遅々として進みません。結局、口下手な東北人の首相でも気の利いたお話ができる都会人の首相でも、必要量のワクチンが手元にないから各自治体に発想することが出来ず、自治体もワクチンの実物が届かない限り「接種券」を住民に発送するわけにも行かない。これはやはり、政府の失態であると考えるほかないと思います。
2022年01月27日
わが国の「象徴天皇制」の行く末について、毎日新聞記者の伊藤智永氏は8日の同紙に、次のように書いている; 年末年始の雑誌がこぞって「愛子天皇」待望キャンペーンを張っている。困った。このコラムは始まって以来何度も女性・女系天皇を認めるべきだと書いてきたが、今の「愛子夫皇」待望論には同調できない。小室眞子さんの結婚を巡る秋篠宮家批判のはけ口に持ち出されているのが明らかだからだ。この人は嫌だからあの人がいい、ではタレントの人気投票と変わらない。天皇は「なる」ものである。誰彼を天皇に「する」「したい」という傲慢な願望が、どれほど危険な政治思想であるかは、歴史をひもとけば分かる。 女性・女系天皇を認める国策は16年前、既に決まっている。当時の小泉純一郎首相が諮問した「皇室典範に関する有識者会議」が約1年、17回の議論で結論付けた。2006年1月の国会冒頭、小泉氏は施政方針演説で「象徴天皇制度は国民の間に定着しており、皇位が将来にわたり安定的に継承されるよう有識者会議の報告に沿って皇室典範改正案を提出する」と公約。法案は準備されていた。世論は当時も今も賛成8割。これを国論が二分とは言わない。 1週間後、小泉氏は首相公邸で有識者たちをねぎらう招宴を開いた。左隣に座った安倍晋三官房長官を見ずに、こうあいさつしている。 「これからは(担当閣僚である)安倍さんの国会答弁が重要だな」 皆が一斉に安倍氏を見た。「顔は青ざめ、こわ張っていた」そうだ。反対に有識者たちは「最大の心配は女性・女系反対の安倍氏だったから胸をなで下ろした」。会食後、安倍氏は黙って公邸を出た。 2月、秋篠宮妃ご懐妊発表。静かな環境への配慮から法案の国会提出は延ばされたが、国策が白紙に戻ったわけではない。有識者報告書はあらかじめ結びで「今後、皇室に男子がご誕生にな」つても皇位の危機は変わらず「女性天皇・女系天皇への途(みち)を開くことが不可欠」と記していた。 9月、悠仁さまご誕生。直後に小泉内閣退陣。以後6代の首相が短期で交代し、安倍長期政権になった。女性・女系天皇は政治の都合で棚上げされてきた。決まった国策をないかのように扱うのは政略である。 * * 眞子さんの「皇室脱出」は、皇室の消滅が時間の問題かもしれないと容易に推測させる。愛子さまも佳子さまも遠からず皇室を離れるであろう。皇室に入った女性の辛苦は、一時声を失った上皇后美智子さま、心身不調が続く皇后雅子さまを見れば分かる。悠仁さまが健やかに成長しても、祝福される結婚相手と出会うのは至難だ。「妃(きさき)になりたい」女性が現れたら、要らぬ勘繰りの餌食になるのは避けられまい。しかも男子出産が絶対の使命とは。 宮内庁幹部は「悠仁さまは姉の身に起きたことをよく分かっている。我が身についても思い巡らしているはずだ」と眉を曇らせる。男系男子継承に固執する限り、悠仁さまが最後の天皇になる可能性はある。 因果応報との見方がある。昨年12月は日米開戦80年の検証報道が相次いだ。昭和天皇の戦後の弁明を初代宮内庁長官が記録した「拝謁記」の刊行も始まった。近代天皇制の罪を考えれば昭和天皇は退位すべきだったが、終身在位した。1世紀後に皇統が絶えるなら、それが「歴史の裁断」なのか。苦い宿命論である。 天皇のいない日本を想像してみよう。対外的に国を代表するのは首相でよいか。歴代の顔ぶれを思い浮かべたら、反対論が多いに違いない。とすれば、議院内閣制と元首大統領が併存する半大統領制か。国民直接選挙なら、選ばれるのは例えば石原慎太郎氏、橋下徹氏(旧おおさか維新の会は首相公選制を唱えた)、安倍氏・・・。自分たちの投票にこれほど自信が持てないとは情けない。 それは世界的流行でもある。民主主義が縮小し、権威主義化する国は年々増えている。上からの強制ではない。民主主義に疲れた民衆は政治の権威にすがる。民主主義は自由と人権だけで行えるものか。民主政治の権威は憲法と主権委譲と権力分立だけで達成できるのか。 * * 象徴天皇制は、平成の天皇、皇后両陛下(上皇ご夫妻)の在位30年余で革新された。お二人は、国民統合の象徴がどうしたら実現されるかを平穏な確固たる行為で表した。 東日本大震災で国民に語りかけたビデオ放送、生前退位の立法化は、その実績の上に行われた。厳密には政治行為に踏み込んでいるとの批判もあるが、民主主義を損なうどころか、その機能不全を補完した。 近代天皇制の原罪たる戦争責任に皇室がなお意識的であるなら、象徴天皇制の無二な権威をみすみす失うのは愚かしい。政治には手も足も出ない中国、韓国との安全保障さえ、敵基地攻撃や経済制裁より皇室外交の方が有効かもしれない。 男系男子論は「ほとんどずっとそうだった」以外に根拠がない。一夫多妻と不可分なのに、そこは口をつぐむ。もはや天皇は男か女かの閻題ではない。象徴天皇制をやめるか続けるか、国のかたちを変えるのか。そこを問われている。2022年1月8日 毎日新聞朝刊 13版 8ページ 「時の在りか-天皇のいない国になると」から引用 明治時代の政府が定めた皇室典範は、今では時代遅れである。天皇に即位する者は「男系男子」に限るという「既定」は、この記事が書いているように「今までほとんどそうだった」から、という理由があるだけで、「女系女子では、このような不具合がある」という理由は存在しない。明治時代に「男系男子に限る」と皇室典範に書き込んだ人々のアタマにあったのは、「家族というものは、一家の主である父親の命令に従うものだ」という古い「家族制度」であったと推定される。しかし、私たちの社会は戦後「男女平等」が当たり前になったのであって、その時に「皇室典範」を置き去りにしたのが間違いの始まりだったと思います。戦後、女性に参政権が認められたときに「女系女子」の天皇即位を認めるべきでした。遅まきながら2006年に、小泉政権の下で「皇室典範改正案」が有識者会議によってまとめられたのですから、岸田政権は躊躇することなく、この改正案を国会に提案するべきだと思います。 それにしても、この記事は深い思索のもとに書かれていると思います。近代天皇制の「罪」の一つには、隣国の王妃を殺害しておきながら、その犯人を「処罰」することなく無罪放免としたことなどが「因果応報」の一つとして挙げられると思います。このことに、日本人として無関心でいることは許されないと、私は常日頃思っております。
2022年01月26日
新型コロナウイルスの感染が始まって間もなく、人々がマスク購入に殺到して日本中のドラッグストアの店頭からマスクが姿を消したとき、当時の安倍内閣が全国民にマスクを無償提供するとの「大英断」を下したのは政府判断として妥当であり、多くの国民の支持を得るものと思われたのでしたが、そのようにして出来たマスクが、何故かサイズが小さめで、材質がガーゼのため人体へのウイルス侵入を防ぐ効果が弱いもので、しかも、どうやら普段衛生用品を製造するような業者とは異なる業者に作らせたらしく、製品に虫の死骸やらホコリやらが混入しているという代物で、結局、政府も途中まで「全国民への送付」を実行したものの完遂は諦めて、倉庫に保管し、後は「誰も知らない」という状況で数年放置した時点で人事院の検査が入り、保管料の倉庫代が毎年数億年かかる実態が公表されて、岸田政権がようやくこの「不良在庫」の処分をすることを決めました。その件について、次のような投書が8日の毎日新聞に掲載されています; アベノマスクの在庫8000万枚が廃棄されることになった。そのために6000万円かかるが、2021年3月までの保管料が6億円にもなるから、廃棄した方がいいと、岸田文雄首相は考えているらしい。 だが、なぜもっと前に廃棄しなかったのか。そもそもマスク製造費用は常識からかけ離れて高く、しかも配られたのは普通に買える時期だった。後藤茂之厚生労働相は「マスクが入手困難な状況の中、感染防止に一定の効果があった」と言っているが、本当だろうか? 何百億円も税金を使う必要があったのだろうか? 後藤氏の記者会見と同じ日、貧困に関する政府の実態調査結果が出され、多くの貧困世帯、ひとり親世帯が食料を買えない経験があったと答えた。そんな人たちにこそ税金は使ってほしい。アベノマスクに限らず、ウヤムヤにされることが多い。きちんと検証し、無駄なこと、ダメなことは責任を明確にすべきだ。2022年1月8日 毎日新聞朝刊 13版 8ページ 「みんなの広場-アベノマスクの責任明確に」から引用 岸田政権が今まで無駄に倉庫料を払って保管していたマスクを処分することに決めたのは当然であるが、あのような粗末なマスクの製造に、何故あのような法外な経費がかかったのか、何故サイズの小さいマスクを発注したのか、製品に不純物が混入したのはどうしてだったのか、国民はいろいろ疑問をもっている。政府自体、そういう疑問を今ここで明らかにしておけば、今後同じ失敗を繰り返すことを防ぐのに役に立つと思われるが、岸田政権にはそういう疑問を解明しようとする「誠意」がまったく感じられず、ただひたすら波風立てないように済ませようという姿勢である。これでは国民は政府を信用することができないわけで、野党にはこの問題についても、しっかりと責任の所在を追及してほしいと思います。
2022年01月25日
「関西生コン事件」をメディアはどう報道したのか。一般市民に広く伝わらなかった裏にはどのような事情があったのか、昨日の欄に引用したインタビュー記事のつづきは、次のように述べている;■警察への忖度とSNSの影響――次に、メディアの問題について伺います。2018年の大量逮捕の時、大手メディアはそれをほとんど報道しませんでした。実に不気味な感じがするのですが、それは権力への忖度と見ていいのでしょうか。竹信 一つは、警察に対する忖度があると思います。もう一つは、ヘイトグループを経営側が巧妙に使ったこともあります。こうしたグループが、街頭宣伝はもちろんSNS上でも大展開し、「暴力集団」であるかのようなイメージをつくられてしまったところに事件が起きた、という怖さがあります。たとえば「今夜仕事を頑張る女性のためのウェブマガジン・地方女子」というタイトルのサイトやサラリーマン向けサイトといったさまざまな意匠をこらして「逮捕されてばかりいる暴力集団」といったイメージを流しているので、知らない人は引っかかってしまうのです。 関生事件を弁護している弁護士が、記者会見で「もっとしっかり報道してほしい」と記者に訴えたら、ある放送局の人に「そんなこと言うけど、先生、書き込みがネット上で出まくっている情報を見たんですか。あれでは市民感情が許さない」という趣旨の反論をされたそうです。またメディアのデスク以上は現場に行かないので、最近は概要を知ろうとネットで検索しますよね。そこで目にする情報がひどいと、「何だ、これは」と予断がつくられてしまう。一般の人の間にも、「手を出したらやばい」とか「関わりたくない」という空気が蔓延しています。ネットでの情報攻勢にやられてしまっていたのです。――ただ、これだけの事件ですから警察は当然逮捕したことを発表しますね。その時、メディアはその発表さえほとんど伝えていないような気がするのですが。竹信 報道はしていますが、結構小さめのものが多かったようです。産経のように「明日にも逮捕」といった感じの前触れ的な大きな記事を掲載し、暴力団の摘発と錯覚させるかのような見出しや写真をつけた例もありました。テレビ局では、逮捕時の映像まで入れて報道したものがあります。あれが家族に見られてつらかっかと逮捕された労組員は言っていますから、メディアによる制裁ですね。小さめな報道だったところは、産経が先に書いたからということもあるかもしれませんが、労働組合だったということで、労働基本権との関係に多少は配慮が働いたのかもしれません。――しっかりした記者ならば、警察発表があった時に「なぜ労働運動がそういうことになるのか」と、一歩立ち止まって考えますよね。竹信 最初は発表をもとに書くしかなかったとしても、こんなにたくさんの人が逮捕されているわけですから、分析記事は必要ですよね。普通は89人逮捕の意味とかを記事にすると思いますが、きちんとした分析記事がまったく出なかったのは謎です。その結果、第一報が経営側やヘイト団体に利川されて、国会質問でも「報道しないのは怖い労組だからだ」といった勝手な意味付けがされ、維新の会の議員が「破防法適用」を求めたりしています。――イラク戦争反対のビラを自衛隊の官舎に投げ入れた市民が逮捕された事件もそうでしたが、あんなものが住居侵入罪になるはずがないことくらい、少し勉強した記者ならわかるはずです。それでも、警察が言った通り垂れ流しましたが、それと非常に似ています。竹信 似ていますね。一線の記者で書くべきだと頑張った人は結構いるのですが、上司に止められたというケースもありました。「警察忖度型」の場合と、SNSでつくられた「空気」を読んで、触らない方がいいと感じた「市民感情が許さない型」、その複合型があるかもしれません。 ただ、その後、京都新聞のように、「600日の長期勾留を国に損害賠償請求」といった、労働事件としてしっかり扱う紙面も出てきました。そのきっかけになったのは、労働法学会の研究者有志の声明です。「これは労働三権違反の刑事弾圧だ」という趣旨の有志声明を発表し、厚労省の記者クラブで会見を開いてなぜこの事件がおかしいのかを詳しく説明しました。その場に来ていた記者たちの中で、労働担当記者が「これでやっと書けるかもしれない」と言いました。一度警察の事件になってしまうと、縦割りの中では司法担当記者に対する遠慮もあり、労働問題にかかわる事件なのだという文脈にもっていくのが大変だったようです。そこへ労働法の学者が声明を出してくれたので、それを機に、労働者の権利にかかわる社会問題として記事を書くことができる、という意味です。実際、この声明をきっかけに、大手紙でもその観点からの記事が少しずつ出てくるようになりました。■マスメディアは空気みたいな存在――お話を伺っていますと、メディアの良心は少し見えるのですが、全体としてはジャーナリズム精神を失っているように思えるのです。竹信 大手メディアは、SNSに押されて、いま本業が振るわなくなり、多角化しています。そんな中で、本業についても「売れるニュース」が必要とされる。また、マスコミはマスごみ、などといったメディア批判が強まり、読者に叩かれたくないという空気も強い。市民感情を過剰に気にするのです。以前は、「おかしいものはおかしい」「読者の批判が仮にあっても書かなくてはいけないことは書かねば」という気概のようなものが結構ありましたが、「商売」「客の顔色を窺う」といった感じが強まっているように見えます。多角化によって、「報道機関」という側面より「企業」という面が強まり、労働運動に対しても妙に会社の目線で斜に構えたり、厳しくなったりしているのではないかと思うことが増えています。――この事件を通して感じたのは、組織メディアの体質と記者の資質、劣化の問題だと思いました。竹信 今回の事件の経緯を見ていると、劣化している記者と、そうではない記者がいることがわかってきます。頑張っている記者がまだいるのです。SNSに頼ってしまったり、余計なことを書いて読者に叱られたくないと委縮したり、「売れる」「好感度が高い」に変に傾斜してしまったりするような記者がむしろ幅をきかせていたりすることもあるようです。一方で、志のある記者や優秀な記者が活躍しにくい環境になっており、報道ができない部署に異動させられたり、辞めてしまったりした例も複数聞こえてきます。それはマスメディアにとっては大損失です。 安倍政権がテレビ局やニュースキャスターの発言に介入したり、慰安婦問題等々で圧力をかけてきたりしたことで、マスメディアがかなりおかしくなっています。もともと様子を見る体質はあったのですが、本当に壊れてしまうようなこわい気持ちがしています。――とにかく、一人ひとりの記者の方に頑張っていただきたいですね。竹信 それはすごく重要ですし、また読者も支えなければいけないと思います。「こういう記事がよかった」とか「もっとこういう記事を出してほしい」と言って、外側から支えていくことも重要です。最近はフリーの記者がもっと活躍できる受け皿をつくろうという動きも出てきています。そういうものがあれば、今までは辞めてしまえば何もできなくなってしまいましたが、いろいろやりたい記者はそちらで頑張ることもできるようになります。 マスメディアは意外に大事なもので、実は空気のようなところがあります。SNSは自分から取りに行かなければなりませんが、マスメディアは何となく身のまわりにあって、SNSもマスメディアがつくった情報環境の上でテーマを決めたりしているのです。ですから、マスメディアを一律に叩くよりも、悪いところは悪いと批判しながら、いい記事をきちんと評価して、共に政府を監視していけるように、私たちは意識的に動いていかなければならないと思います。 関生の事件で問題なのは、メディアが書かなくなってしまったために、情報の共有がほとんどされず、金縛りのように沈黙してしまっていることです。「産別の労組はこれから重要なんじやないの」とか、こんな逮捕をしちゃっていいの」とか、普通に話し合えたらいいのです。情報があれば、「暴力集団」と言われても「いや違うよ」という話が出てくるのですが、情報が出ないためにみんな触れてはいけないことのように黙ってしまう。こうした沈黙を破りたくて、『賃金破壊~労働運動を「犯罪」にする国』を書いたので、これを情報共有の第一歩にして活かしていただきたいと思います。 このままでは、賃金を上げるための労組という存在がさらに弱められ、日本は本当に賃金が上がらない国になってしまいます。そもそも政府が税の優遇で賃金を上げさせるなんておかしい。会社と労働者が一緒に稼いだ富を、労使交渉で分配させるという基本がこれほど弱くなったのは、関生事件に見られるように、戦前の治安的な労働行政が息を吹き返しつつあり、賃上げ装置の破壊が起きているからではないのでしようか。関生事件を取材して、そんな怖さをじわじわと感じました。月刊「マスコミ市民」 2022年1月号 48ページ 「関西生コン事件 闘う労働運動を刑事犯罪にする国」から後半部分を引用 この記事で印象深いのは質問する側の「組織メディアの体質と記者の資質、劣化」という言葉です。私は常日頃、国会審議の場で安倍晋三首相(当時)が、前もって質問内容を通告しないと答弁しないとか、その答弁も官僚が書いた作文を棒読みするだけとか、「更問い」には応じないとか、こういうことは世襲議員で何の苦労もせずに親の七光りで議員になれたために、大した知的訓練も切磋琢磨もなく首相の座についた者の「弊害」で、「政治家の資質の劣化」と思ってましたが、その「資質の劣化」が政界のみならず、報道界にまで及んでいる、しかもこれは「世襲」は関係ないとなると、この「劣化」の問題は角度を変えて検討する必要があるのかも知れないと思いました。しかし、大量の労働者が逮捕された事件を労働法に関わる事件として書いてはいけないのかと躊躇する記者たちに対し、労働法学者の有志が「労働法違反の弾圧だ」との緊急声明を出してくれたのは良かったと思います。これからも現場の記者を励まし、権力監視の仕事をしっかり継続してほしいと思います。
2022年01月24日
昨日の欄に引用した竹信三恵子氏のインタビュー記事は、組合つぶしを始めた警察の意図とその背景について、次のように述べている;■戦前の構図が戦後にも引き継がれた――ごく当たり前の労働運動が恐喝罪や強要罪といった刑事事件に仕立て上げられていったのですね。聞くところによると、委員長や副委員長は、判決も出ていないのに、大変な長期勾留にあったそうですね。竹信 武建一委員長と湯川裕司副委員長は、未決勾留の期間が600日以上です。人権上、一つの事件について調べられる期限は決まっているのに、調べが終わると次の事件でまた逮捕して、それを何度も繰り返していったのです。執行部と組合員をなるべく切り離して労組つぶしに利用した、と労組・弁護側は見ています。そうすればトップからの指令が出せず、組織は身動きが取れなくなっていきます。また、釈放の際にも組合で働いている人も含めて組合事務所への立ち入りを禁じたり、顔を合わせてはいけない、などの条件を科していますから、そのために働けなくなったり、労組活動ができなくなったりしています。これも、暴力団つぶしによく使われる手法ですが、それを、暴力団ではない、正当な労組活動に応用したのではないかと言われています。――組合をつぶしていこうとする意図があるのでしょうが、そもそも当局の目的は一体何なのでしょうか。竹信 もともと協同組合は、労組と一緒に生コンの値崩れを防ぐなどして安定した業界環境をつくろうとしてやってきたのです。加入企業を広げていけばさらに価格競争力がつくので組織の拡大に努力していきました。その結果、2015年に大阪広域協組は100パーセント加入を達成しました。ところが、その過程で良い業界をつくることや、労働者への分配による業界の好循環に関心がないような「アウト」の業者も入ってきて、そうした人たちが協組の執行部に就いてしまった、と労組側は見ています。そうなると労働者には分配したくないので、うるさい組合はつぶしたいとなるわけですが、大同団結して100パーセント加入になったことで、執行部の支配力が増して、労組に協力的だった経営者の異論を封じやすくなる。皮肉なことに広域協組が変質してしまったのです。それまでは、いろいろと対立かありながらも零細企業の経営者と労働組合が一緒になって大手企業に対抗する構図をつくれていたのですが、それが崩れてしまったわけです。 もう一つは、警察との関係です。元々、警察は関生支部を苦々しく思っていたのではないかと思います。賃上げを強く求めたり、何かあれば実力行使も辞さないので、大手セメント業界やゼネコンから見ても目の上のたんこぶの存在だった。中小零細企業を自分たちに対抗させる役割も果たしているわけですから、企業が労働者の上に立つという、彼らの社会秩序意識からすれば何とかしたいと思ってもおかしくありません。 事件は第2次安倍政権の時に起きていますが、これを機に、企業支配を外れて動く産業別労働組合を根絶やしにしたいという意図が働いていた可能性を指摘する声もあります。官邸の官僚が、野党議員と関生支部の関係について情報をさぐっていたという動きもあり、維新や自民の議員が関生事件をリベラルな野党叩きに利用してもいます。また、ゼネコンにとってみれば、大阪はこれからIRや万博が行われるので、そういう時に生コンの価格を上げられたら堪らないと考えても不思議ではないのです。――お話を伺っていますと、普通の労働運動が強要罪に仕立て上げられたJR東労組の浦和電車区事件に非常に似ています。関生事件も公安が動いているのでしょうか。竹信 公安というと警察の中の警備部門の担当と思われるかもしれませんが、今回の事件では組織対策班という刑事部門の部署も動いています。暴力団対策法やテロ等準備罪が相次いで整えられ、刑事部門と公安部門の境界があいまいになりつつあるような気がします。――それに政治が絡んでいる可能性もあるのですね。竹信 今回の事件がどうなのかは証拠もなく、断定は避けたいと思います。ただ、産別労組を排除して企業別労組こそ日本の労組だ、とする手法は、戦前の政府によって形成されたという歴史的事実があります。歴史学者の岡田与好(ともよし)氏によると、戦前の労働運動では日本でも産別労組が普通で、企業別組合は異端視されていたそうです。第一次大戦後に国際連盟への加入がテーマになる中で、労働組合を公認しないと国際連盟に入れないということで、当時、治安警察法第17条(ストライキの誘惑、煽動の禁止)の改廃が課題になりました。そこで当時の内務大臣が一計を案じ、横断組合や外部者がストに関与することは17条に違反するけれど、企業内組合は違反しない「解釈変更」を行ない、やがて、治安維持法ができるという経緯です。産別労組は企業の支配を越えて労働者のための社会規範づくりに威力を発揮するので、嫌がられたということですね。 元三菱鉱業セメント社長で日経連会長だった大槻文平氏は、関生支部などの産別労組の運動について、業界新聞に「箱根の山を越えさせるな」と書いていますし、武委員長が80年に逮捕された時、検察官から「君たちはやってはいけない3つのことをしている」と言われたと回顧しています。3つとは「下請け孫請けの雇用責任を親会社に持って行ってはいけない」、「不当労働行為を解決するにあたって実損回復のみならず経営者にペナルティーを科してきたことはいけない」、「枠を超えた連帯行動と称して同情ストライキをかけたり、労組のないところに動員をかけたりしてはいけない」だというのです。戦前の治安警察的な労組観が戦後の司法や財閥系企業にも引き継がれていたということです。 ただ、以前は社会党や労組が一定の発言権を持っていましたし、憲法28条や労働組合法でも企業別労組しか労組ではない、なんて書いていません。それが安倍一強政治の中で、戦前的労組観が復活しやすい環境ができました。労組の組織率も17パーセント前後で非常に弱くなりました。それらが今回の事件の土壌になったのだと思います。――なるほど、そうかもしれませんね。それにしても、逮捕を繰り返して長期間の勾留をすること自体がそもそも異常であり、権力の濫用です。竹信 勾留中の湯川副委員長に対し、検察は「武委員長を抑えたので関生の現在は抑えた。君を抑えたので関生の未来も抑えた。だからもう君たちは終わりだ」と言った、など、取り調べの時にはさまざまなことが言われていたとの証言もあります。それらの行為について、関生支部は国賠訴訟も起こしています。――ネット上では、須田慎一郎が「これは現在の日本の法律がおかしいのですが、労働争議になると刑法と民法が及ばないのです」とか、デマを書きまくっています。労働法の成り立ちも、一般法と特別法の関係も分かっていないし、社会権や人権の意味もまったく理解していません。本当に頭がどうかしています。竹信 この事件は、労働法というのをみんなが理解しなくなった社会で生まれた事件だと思います。ほとんどの人が労働法を知らないし、使ったこともないという恐ろしい社会になっています。意味がわからないものだから、デマを吹き込まれても何の疑いもなくそうだと思ってしまうのでしょう。 今は非正規が5人に2人ですから、組合に入って労使交渉をすることがやりにくくなっています。こうした組合から排除された人々の労働基本権を守るうと、個人加盟労組の「ユニオン」がつくられていくのですが、正規が企業別組合に分離され、低賃金の労働者を主に対象にしているので組合費が潤沢ではなく、こうした労組の財源をどうしていくかも大きな問題です。また、企業別組合が会社にとって便利なのは、解雇してしまえば労使交渉ができなくなるからです。クビにしてしまえば組合員でなくなるので労使交渉の権利もなくなる。ただ、今のように4割もが非正規社員になると、会社を超えた横断的な産別組合をつくる構造的な余地も生まれてきます。ピンチをチャンスに、ということですが、今回の事件はそうした企業横断型労組のニーズの高まりに待ったをかけるもの、という考え方も成り立つと思います。(つづく)月刊「マスコミ市民」 2022年1月号 48ページ 「関西生コン事件 闘う労働運動を刑事犯罪にする国」から中間部分を引用 以前は社会党や労組が一定の発言権を持っていたから、警察もあまりデタラメな理屈で労働組合を弾圧することは出来なかったという指摘は重要です。その頃は日教組出身の国会議員という人もいましたが、あの頃から労働問題は労働組合にお任せという風潮だったから、社会党が社民党になって総評が連合に吸収されて、野党共闘の足を引っ張るような事態になっているのは実に遺憾です。頼りになる労働組合がないのであれば、一人一人の国民が先ず労働法を学び、自分たちにどういう権利が認められているのかを知るという基本から学び直す必要があるのだと思います。
2022年01月23日
関西地方の生コン業界で働く労働者たちで組織する連帯労組関西生コン支部は、大手のセメント・メーカーから高く売りつけられたセメントで生コンを製造し、大手の建設会社からは安く買い叩かれるという困難な状況の中で、零細生コンメーカーの経営者を励まし同業者の協同組合を設立して、大手ゼネコンに買い叩かれるのを防いで売上げ額を確保し、毎月の給料も少しずつ増えるという成果を上げているところに、数年前から警察がこれらの真面目な労働運動の「弾圧」に乗り出して来ています。この問題について、和光大学名誉教授の竹信三恵子氏は月刊「マスコミ市民」のインタビューに応えて、次のように問題を解説しています;■組合活動が暴力事件に読み替えられた――2018年頃から、滋賀県警をはじめとするいくつかの警察が、連帯労組関西生コン支部の組合員を逮捕・弾圧していく事件が繰り返されてきました。この事件についてはメディアの報道がほとんどありませんので、多くの人は知らないと思います。事件の概要をかいつまんでお話しいただけますか。竹信 関西生コン支部(関西支部)というのは、全日本建設運輸連帯労働組合(全日建連帯)という労働組合の支部で、関西一円の生コンクリート業界の運転手たちを組織している組合です。これは日本に多い企業別組合ではなく、日雇いや非正規雇用の運転手が多く所属している産業別組合なのです。雇い主である生コンの運送会社はほとんど零細企業なので、場合によっては偽装倒産もあるし、実際につぶれてしまうこともある非常に不安定な職場です。そこに仕事を発注している生コン会社も零細で不安定な会社が多いのです。そういう環境の中では企業別に労組を組織しても安定した労使関係は確保できませんので、産別組合でなければそもそも成り立たないのです。加えて、大手企業からセメントを買って生コンをつくってゼネコンに売る零細の経営者は乱立させられセメントを高く買わされ、ゼネコンからは価格を競わされて安値販売を強いられたりするのです。そうすると、構造的になかなか利益が上がらず、組合が賃上げを要求しても賃金が上がらない。 こうした中での過当競争、値崩れ、劣悪な生コンによる危険建築物の登場を防ぐため、生コン会社が業者団体をつくり、価恪安定のために工場や生産量の集約をしていく形で協同組合化することを、通産省が認めたのです。関生支部はそれを利用して零細企業の協同組合化を働きかけ、大手ゼネコンに対して価格対抗力をつけることで利益を確保させ、これで運送会祉の運賃を引き上げ、その利益を労働者の賃金に回す交渉ができるようにしたのです。そうやって賃上げを勝ち取っていき、週休2日制などの待遇面や労働時間規制も改善させていきました。経営者側は、「企業間の競争があるのでウチは賃上げできない」とは言えなくなり、一方、労組は企業を横断する組織を生かし、「労働条件を良くしなければ労務提供しない」と言えます。それで労働条件はよくなっていったのです。 ところが、2017年の12月にゼネラルストライキをやったことなどをめぐり、数力月もたった後の2018年の7月から約1年にわたって大量の人が逮捕されていく大事件に発展します。事件の総計は10件を超しますが、大きく4つに分けることができます。まず、2018年の7月に会社の法令違反を調査・告発するコンプライアンス活動をしたことが恐喝にあたるとして滋賀県警による逮捕が起きます。 次に、2018年の9月に先に述べたストを行ったことが威力業務妨害にあたるとされて、大阪府警による大量逮捕となり、さらに、労使交渉などをめぐって、京都府警が乗り出し、労組員らが強要未遂で逮捕されます。非正規の運転手が関生支部に加入して正社員化を求めたら団交を拒否され、その運転手が子どもを保育園に入れるための就労証明書の発行を求めたら、毎年出していた就労証明を出さないと言われます。それでは子どもを保育園に預けられないというので、組合員があわててみんなで交渉に行ったら、それが強要未遂だというのです。会社はついに就労証明書を出さなかったので、強要ではなく強要未遂なんですね。 最後が、和歌山県警の事件です。この事件は、組合事務所の周りに暴力団らしき人が徘徊していたので、それを差し向けたのが経営側ではないかとして、労組側が経営者の事務所に行って問い質すなどした事件ですが、それらも強要未遂や威力業務妨害に問われました。 こうして「コンプライアンス活動」「ストライキ」「団体交渉」「抗議活動」などの労働基本権に相当する権利行使が刑事事件化され、2府2県の警察に、延べ89人、うち組合員81人が逮捕された前代未聞の大量逮捕事件です。そのうち71人が次々と起訴(組合員は66人)されていきました。――ひとつ理解ができないのは、組合員だけでなく経営側の人も逮捕されたということです。竹信 協同組合(協組)というのは、生コンなどを製造販売する経営側の協同組合です。最初の滋賀県警の事件で逮捕されたのは滋賀県内の協同組合の業者ですが、関生支部は、地域の零細企業を協同組合に加入させて大手からの値下げ交渉に対抗させることで生コンの値崩れを防ぎ、賃上げのための利益を生み出す、という先に述べた作戦があり、協同組合に入っていない業者を入れるために加入業者に協力して働きかけをしてきたわけです。滋賀で逮捕された事業者は組合と一緒にこうした組織化に努めてきた事業者です。協同組合に入っていない「アウト」と言われる業者に対して、労組が協同組合に入るように働きかけることによって、値崩れを防ぐのです。こうした動きをめぐり、滋賀県警の組織犯罪対策課は「イン」と言われる協組内の事業者が組合員と結託して大手ゼネコンの企業を脅したという容疑に仕立て上げて逮捕したわけです。 この事件で滋賀県警が問題にしたコンプライアンス活動とは、組合員が建築現場を回って、「汚水を垂れ流している」とか「置くべき所にコーンが置かれていない」とか「タイヤの擦り減ったクルマが出入りしている」といったことを見つけて注意を喚起し、時には公的な機関に通報して是正させる活動です。関西生コンの労組は産別組合ですから、一企業にとどまることなくコンプライアンスを遵守させていき、業界全体の労働環境を良くしていく効果を目指しています。警察はそういうコンプライアンス活動について、「法令順守を理由にゼネコンなどに因縁をつけた」と見立て、労組と協力関係にあった経営側を逮捕したのです。その証言を端緒に、恐喝などの容疑で多数の組合員を逮捕しました。それが滋賀県警のコンプライアンス事件です。 2つ目は、ストライキをしたことで大阪府警が組合員を逮捕しました。ストライキは労働基本権として認められているのですが、産業別組合が圧力をかけた会社には組合員はいなかったから、それは正当な組合活動ではなく暴力集団による業務妨害行為にあたるという理屈です。つまり、企業内組合しか労働組合ではないというわけですが、産業別労組なのですから、そういう行為もあり得るわけで、欧米では珍しいことではありません。――そんなことを言えば、連帯ストも支援ストもできなくなってしまいますね。竹信 そういうことです。3つ目の事件での検察側の主張は「アウト」の業者を「イン」にしようとしたのを断られたために意趣返しをしようとして嫌がらせに執拗に交渉した、労使交渉ではなく嫌がらせなのだから強要、というものです。強要罪とは「生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した」場合に成立する罪ですが、それにあたるとしたわけです。しかし、就労証明書を出してくれないと保育園に行かせられなくなり、共働きができなくなるわけですから、それを出さなかった行為の重大性を問わずに、強く求めたから強要、ということが通れば、子どもを持つ人は安心して働けません。 最後は、抗議活動などをめぐり、和歌山県警から逮捕された事件です。労組員が和歌山広域協組の事務所に行って数人で話をしていたというのですが、それが強要未遂だとして逮捕されたのです。もし強要に相当するような態度なら、その場で警察を呼んで逮捕となると思うのですが、その出来事からだいぶたってからの逮捕で、となると、ここでも、労組つぶしのための逮捕の口実にこの事件が利用されたのではないかという疑いが出てきます。(つづく)月刊「マスコミ市民」 2022年1月号 48ページ 「関西生コン事件 闘う労働運動を刑事犯罪にする国」から前半部分を引用 連帯労組関西生コン支部のみなさんは、よく頑張って努力していると思います。困難な経済環境の中にあって、通産省も認めた生コン業者の協同組合化を率先して実行し、労働組合としてコンプライアンス活動に力を入れて製品の品質を維持する努力をするなど、立派な活動と思います。もし、組合員の態度が粗暴で「因縁を付けるような態度だった」というのであれば、その場で警察に電話するべきところ、数ヶ月も経ってから「あの時の容疑で逮捕」などというのは、どっちが「因縁を付けてるのか」と思わせます。このような一部経営者と警察の横暴を、何故メディアは問題として取り上げないのかという観点からの問題も内在しているように思います。
2022年01月22日
おめでたい正月の晴れやかさの影で伝えられる不穏なニュースについて、文芸評論家の斎藤美奈子氏は5日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 新年早々、めでたくない案件が目白押しだ。【脱脱原発】 「脱炭素」や「SDGs」という語が目立ちはじめた頃から懸念はしていたが、やっぱりか。1日、EUは原発を地球温暖化対策に資する「グリーンな投資先」に認定する方針だと発表した。渡りに船とばかり、日本政府も原発の再稼働や中断していた原発の新増設に向けて動き出すだろう。原発がグリーンなら石炭だってグリーンだぞ。もとは植物だからな。【コロナ改憲】 1日の年頭所感で岸田文雄首相は改憲を「本年の大きなテーマ」に挙げ「国民的な議論を喚起していく」と述べた。維新や国民民主も改憲に前のめり。彼らはコロナ禍を緊急事態条項創設の大義に利用するだろう。「批判より提案」とかいってる立憲民主は流れに抗(あらが)えるのか。正直、不安。壊憲だけはやめてくれ。【新聞の身売り】 12月27日、大阪府と読売新聞大阪本社が「包括連携協定」を結んだと発表した。読売はもともと権力に媚(こ)びる傾向が強かったものの、ここまで露骨だとさすがにヤバい。東京五輪の次は大阪万博の利権に乗るつもりなのか。もう身売り新聞に改称しなさい。 などなどと、ぼやき漫才みたいな難癖をつけているうちに、正月休みも終わってしまった。しゃあない。今年も気を抜かないで行くしかないですね。(文芸評論家)2022年1月5日 東京新聞朝刊 11版 23ページ 「本音のコラム-めでたくない」から引用 原発は、欧米の国々はともかく、日本人には向かないと思います。東京電力柏崎刈羽原発の一連の不祥事が昨年一年間に数回報道されましたが、あれは東京電力に固有の問題というよりは、日本中のどこにでも起きうる問題で、要は日本人のモラルはその程度ということで、安全維持のために厳格な規律順守が求められる「原発の安全性維持」は、その程度のモラルでは実現不可能と思います。一事が万事という諺が示すように、モラルがその程度であれば、それに続く政治的判断もそれに準ずることとなり、科学的に危険性が指摘されても政治的に「まあ、大丈夫でしょう」と受け流しために起きたのが2011年・フクイチの事故だったわけで、仮にCO2削減に役立つとしても、日本ではやめたほうがいいと思います。 新型コロナの流行を憲法改正の機会と考える人たちは、現憲法は個人の自由を尊重するからコロナまん延防止のために個人の行動を規制することはできない、だから今の憲法がある限り「まん延防止」はできないと主張しています。しかし、大方の憲法学者はそういう主張を歯牙にも掛けない様子です。その理由は、感染症の拡大防止という明確な理由があれば、個人の行動を制約する法律を制定することは憲法違反にはならない、との見解だからです。ところが、改憲派は「コロナでもなんでも、とにかく政府が命令すれば、いつでも国民の権利を制限できるという一文を憲法に書き込む」という主張で、それは自民党改憲草案で確認することができますが、これは明らかに現憲法を「破壊」することであり、日本にナチス並みの独裁政権を実現させるための策謀であり、お世辞にも「憲法改正」とは言えず、明らかな「憲法破壊」であることを知る必要があります。 読売新聞が地方自治体と包括連携協定を結ぶという前代未聞の事態は呆れるばかりですが、大阪ではテレビ局が、去年の夏、新型コロナの感染爆発、医療崩壊という事態の中で、連日、吉村知事をバラエティまがいの番組に出演させて高視聴率を稼いだ実績があり、読売新聞はその二番煎じを狙ったものと思われます。報道機関としての「使命」よりも、権力との連携が「金儲け」の近道とは呆れた話です。
2022年01月21日
外国人にも投票権を認める住民投票条例案を否決した東京都武蔵野市について、東京新聞特報部長の小国智宏氏は、元旦の同紙に次のように書いている; 昨年11月10日から14日の5日間、東京都武蔵野市で「MIA多文化体験ウィーク2021~見る、聞く、感じる」というイベントが開かれました。 公益財団法人「武蔵野市国際交流協会(MIA)」の主催。ミャンマー語の会話交流教室やウクライナ民族音楽のステージなど多彩な催しがあり、多数の参加者が国際交流を楽しみました。 モンゴル民族音楽を演奏した女性は「コロナ禍でも工夫次第でとても豊かな交流ができる。人とのつながりを身近に感じる」と語りました。タイ家庭料理の講師役女性は、日本人の夫と結婚し2018年に来日しました。「MIAは、外国人にとって安心できる場所。いろんな人が声をかけてくれる」と話します。 MIAは、国際平和に寄与することを目的に1989年に設立。現在は日本人約600人、外国人約400人が会員登録し、多数のボランティアが企画・運営に携わっています。外国人のサポートだけでなく、地域に暮らす外国人を大切なパートナーとして認識し、多文化共生の地域づくりを目指して活動しています。 武蔵野市の住民投票条例案が、昨年12月21日、市議会で否決されました。地域づくりの担い手として、3ヵ月以上在住の外国人にも投票権を認める内容でした。反対派からは「外国人に市政を牛耳られる」などというヘイトスピーチまがいの過激な意見もありました。市役所に街宣車が押し掛ける光景は異常でした。市長は条例案の理解を広げ再提出を検討しています。冷静で寛容な議論を期待したいと思います。 街で外国人を見かけることは、日常になりました。中には、技能実習生として、劣悪な労働環境で低賃金で働く外国人もいます。入管施設に収容中だったスリランカ人女性が、適切な医療を受けられずに死亡するという深刻な人権侵害事件もありました。排外主義的なヘイト事案も後を絶ちません。 もはや日本社会は外国人なしでは、成り立ちません。外国人との多様性と共生の社会をどうつくるのか。私たちに突きつけられた課題です。その先に平和で豊かな社会があるのです。 「こちら特報部」は、分断、格差、差別に徹底してあらがい、多様性を認め合い、誰ひとり取り残さない社会を目指す記事をこれからも発信していきたいと思います。ことしもご愛読をお願いします。2022年1月1日 東京新聞朝刊 11版 27ページ 「新年に寄せて-多様性と共生。その先の平和へ」から引用 武蔵野市で住民投票条例案が否決されたのは残念なことでした。武蔵野市よりも数年早く外国籍住民の投票権を認めた神奈川県逗子市などでは、「外国人に市政を牛耳られる」などと幼稚な屁理屈をこねて反対するような動きはなかったし、現在もそのようなことを言い出す市民はいません。当時は社会の雰囲気が、そのような幼稚な発言は恥ずかしくてできないという、多少なりともハイレベルの社会だったような気がします。それに比べると、最近の私たちの社会は「恥も外聞も捨てて、本音を言って何が悪い」という調子で開き直って日頃の不満の憂さ晴らしをしているような、品の無さを感じます。いずれにしても、この記事が指摘するように、これからの日本社会は外国人なしでは成り立ちません。外国人との多様性と共生の社会を作るために、今年も努力を積み重ねていきたいものです。
2022年01月20日
検察審査会が「不起訴不当」の議決をしたために東京地検が再度捜査したことになっていた事案について、暮れも押し詰まった12月28日に地検が再度「不起訴」を決めたことを、12月29日の東京新聞は次のように報道している; 「桜を見る会」前日の夕食会を巡り、東京地検特捜部が28日、安倍晋三元首相を2度目の不起訴としたことに、告発した弁護士らからは「再捜査でどれだけ対象を広げたのか不明で、国民の分からないところで結論が出た」などと失望の声が上がった。 「捜査で何をしたかはお答えしない」。特捜部の担当副部長は記者への説明で、検察審査会の議決後の追加捜査の内容を問われ突っぱねた。 安倍氏の不起訴を「不当」とした検審議決は、夕食会の費用を安倍氏側か補境したことが公職選挙法の禁じる「寄付」に当たるかどうかについて、特捜部が参加者の一部にしか聴取していない点を批判。安倍氏の捜査も「本人の供述だけでなく、メールなど客観的資料も入手し、犯意の有無を認定すべきだ」としていた。 「不起訴不当」の議決を受けると検察は再捜査するが、強制起訴もあり得る「起訴相当」と異なり、2度目の処分結果が再び検審にかかることはない。7月の議決後、ある検察幹部は「われわれは不起訴だと思つている」と語った。当初から検察は、再捜査で結論が変わる可能性は低いとの見立てだった。 関係者によると、最初の捜査で聴取した参加者は約30人。別の検察幹部は、「会費が安すぎる」という認識が参加者のほぼ全員にない限り、寄付の認識を立証できないとし「全員聴取しなくても起訴が難しいことはわかる」と解説。「8百人全員に聞けるわけがない。とはいえ検審の指摘なので一応は『検討』する」とこぼす幹部もいた。 告発人の一人の神戸学院大の上脇博之教授(憲法)は「安倍氏は国会で百回以上うそをついた。安倍氏に強制捜査をせず、任意聴取で終わらせているのはおかしい」と指摘。「『桜を見る会』を追及する法律家の会」の泉沢章弁護士も「検察はこの事件にふたをしたいのだろう。年末の忙しい時期の処分は、検察への批判逃れなのではないかと疑ってしまう」と批判した。(小沢慧一、奥村圭吾、三宅千智)<検察審査会> 事件の被害者や告発人らの申し立てを受け、くじで選ばれた有権者11人の審査員が、検察の不起訴処分が妥当かどうかを審査する。起訴すべきだとする「起訴相当」、再捜査を求める「不起訴不当」、処分を妥当とする「不起訴相当」のいずれかを議決。「不起訴不当」か「起訴相当」の場合、検察は再捜査する。「起訴相当」では、再捜査した検察が再び不起訴にしても、2回目の審査で改めて8人以上が起訴すべきだと議決すれば、裁判所から指定された弁護士が強制起訴する。2021年12月29日 東京新聞朝刊 12版 20ページ 「国民分からぬところで結論」から引用 どのような捜査をして今回の「不起訴」決定に至ったのかを記者団に尋ねられた特捜部の担当副部長は「捜査で何をしたかはお答えしない」などと回答拒否をしている。ことが自分の将来の出世に影響しそうな安倍晋三議員の「捜査」など出来るわけもなく、何もしないで「不起訴」を決めて、年末最後の日に発表して正月休みに入れば、休み明けはめでたい「新年」なのだから、年末の古い話題など誰も気に留めないであろうという姑息な「計算」が透けて見えるようである。下っ端議員なら厳しく選挙違反を追及するのに、有力議員の場合は国会で100回以上もウソの答弁をしたことが明らかになっても、誰も何も言わない。法治国家にあるまじき事態であることを、私たちは深刻に受け止める必要があると思います。
2022年01月19日
元日にコラムの当番が回ってきたエッセイストの師岡カリーマ氏は、次のように書いている; 元日。皆さんはどのようにお過ごしたろうか。年一回の行事は日本のもアラブのも、何も祝わない私はというと、今年も元日はいつも通りに過ごし、白菜が安かったから作りすぎたクタクタの八宝菜を食べる。でも湯たんぽで温めた布団の中で、近くの寺の除夜の鐘をひとり聴くのはいつも楽しみだ。自由と静寂。わびしくなんかない。むしろ贅沢だと思っている。 「おせちを食べずに新年は始まりません」と年末のスーパーの店内放送。結構値が張る。12月31日に寝て1月1日に目覚めるという単純な行為に、特別な費用がかかる「年越し」という言葉の魔法。お金、家族、交通ラッシュ、「予定」。この休日は物入りだ。 伝統的な祝い方や愛する人々との時間を大切にできることは素晴らしい。でも、「正月はこう」という固定観念が他の誰かにとってのプレッシャーや孤独感のもとになる必要はない。 定休日も洗濯機もなく、必死で働いても質素な食事しかできなかった私たちの先祖が年に一度、身も心もリフレッシュできるのが正月だったなら、今はワンコインで牛丼の時代。しかもコロナ禍。おせちがなくても新年は始められる。元日にひとりコンビニ弁当だっていい。自分だけの幸せの源を心に持っていれば。大晦日も元日も昇る太陽は同じ。たとえ雲に隠れたとしても。健やかな一年を!(文筆家)2022年1月1日 東京新聞朝刊 11版 27ページ 「本音のコラム-謹賀新年」から引用 元日は一年の最初の日、というのは人間が便宜的に決めた言わば架空の「話」で、12月31日の朝日も1月1日の朝日も日の出の時刻は1分くらいズレるだけで、別に何の変わりもなければ特別記念すべき事柄でもないのですから、「めでたい」と言って朝からお屠蘇を飲む人もいれば、いつもと何の変わりもなく過ごす人もいて不思議はありません。この度の正月は、私は近所の神社の氏子総代をしており、5年に1回回ってくる「当番町会」だったので、大晦日の23:45から始まる「大祓式」と、それに引き続く0:00から始まる「歳旦祭」の神事に列席し、普通はその後「直会(なおらい)」と称する宴会が開かれるのですが、昨年に引き続き今回もコロナの関係で宴会はなし。初詣に来る人々のために境内の焚き火の管理をボーイスカウトに頼んで帰宅したのは午前1:30頃でした。だから、その後の元日は夕方まで寝て過ごし、翌2日の10:00に町会の係が集合して、焚き火をしたドラム缶やかがり火の後始末をしたのでした。
2022年01月18日
JR川崎駅前で「レイシストに居場所を与えない」のスローガンで「ヘイトパトロール」を行なう市民の様子を、12月26日の神奈川新聞は、次のように報道している; 差別を許すまい、レイシストに居場所を与えまいと、休日のたびJR川崎駅前に集まる「川崎駅前読書会」が活動を始めて1年を迎えた。多くの人が行き交うクリスマスの25日も書物を片手に監視の目を光らせるメンバーの姿があった。(石橋 学) 折り畳みいすに座って読みふけっていたのは「ルポ京都朝鮮学校襲撃事件<ヘイトクライム>に抗して」。ヘイトスピーチを放置すればヘイトクライム(差別を動機にした犯罪)に行き着く。だからレイシストを野放しにしてはならない。そんな活動の原点を読書やおしゃべりをしながら確かめ合ってきた。 文化の力でヘイトを止めたい-。代表の木村夏樹さん(53)が川崎へ通い始めたのは昨年12月。ヘイト団体がゲリラ的に街宣するようになっていた。このままではヘイトスピーチが垂れ流され続けてしまう。ならばと先回りを思い立つ。ただ待ち構えているだけでは時間を持て余すが、「読書をしながらなら多くが参加しやすいと思った」。ヘイト街宣が毎週続いた時期もあったが、「駅前に現れる回数はすっかり減った。知性と対極にあるレイシストはよほど文化が嫌いらしい」と胸を張る。 差別が公然と行われているという醜悪な風景を塗り替える営みでもあった。レイシストがいないことこそが正常な日常で、差別があるなら反対する人々が集い、防ごうとしているのがあるべきまちの姿。この日も子どもを朝鮮学校に通わせている父親が「今日は大丈夫だね」と安心した様子で改札へ向かった。 差し入れの菓子やおにぎりが届き、在日1世のハルモニ(おばあさん)からは感謝を示す手作りのうちわやしおりが贈られた。国内外のメディアが報じ、参加者が増えた。卒業論文やゼミの研究で大学生が足を運んでくるようにもなった。 読書会のきっかけになったツイッターを使った「ヘイトパトロール」を始めた「しーぽん」さん(49)は「差別を許さない意思を示す人が横浜や京都などにも広がり、うれしい。マイノリティーの安心に少しでもつながれば」と話す。 川崎市は2年前、刑事罰をもってヘイトスピーチを封じ込める条例を定めた。レイシストを見つけ次第抗議し、通報する読書会は条例に魂を込める取り組みにほかならない。。木村さんは口癖のように繰り返す。「市には条例に基づく施策を積極的に展開してほしい。市民が汗をかかなくても済むようになるまで読書会は続ける」2021年12月26日 神奈川新聞朝刊 16ページ 「監視の目、クリスマスも - 文化のカ ヘイト防ぐ」から引用 ヘイトスピーチを放置すれば、やがてヘイトクライムに行き着くというのは、私たちが自らの歴史に学んだ教訓です。1923年の関東大震災のときは、取り立ててヘイトスピーチをするまでもなく、当時の日本人は中国人や朝鮮人をバカにし差別するのは当たり前という認識でした。今から冷静に考えれば、大地震で社会が混乱したからと言って「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んでいる」などと言う話は、「日本中の井戸に投げ込むほどの大量の毒薬を、どこから調達できるのか?」「普段、どこに保管ができたのか?」「そんなことをする資金は誰が提供できたのか?」というように考えれば、デマであることはすぐに分かりそうなものですが、それは平常心で冷静に考えればの話で、社会が混乱すると冷静さを失う危険があるということを、私たちは認識しておく必要があると思います。そして、「やってはいけないことをやる者がいれば、それは止めさせる」というのが、まともな市民社会の在り方だと思います。
2022年01月17日
昨年秋の総選挙に立候補した小川淳也議員が当選を勝ち取る様子を記録した映画について、前文科官僚の前川喜平氏は12月26日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 公開中の「香川1区」(大島新監督)は、立憲・小川淳也氏と自民・平井卓也氏が激突した選挙を追った映画だ。 戦いぶりは対照的。平井陣営には知事や市長がつき、組織ぐるみ、業界ぐるみ、企業ぐるみの選挙。小川陣営は個人ボランティアが中心だ。静岡や宮崎からもやってくる。SNSでの発信もボランティア。「小川淳也さんを心から応援する会」略称「オガココ」なるグループもある。選挙事務所の窓には青い鳥たちの切り絵が貼られ、壁には「為書き」ではなく、カフェ店員など様々な支持者の言果を書いたカラフルな紙が貼られている。街頭演説は対話集会。高校生もマイクを持って発言する。これは新しい選挙の形だ。しかし、小川氏が日本維新の会に立候補取り下げを要請したのは間違いだった。平井一族が経営する四国新聞の格好の餌食になった。 開票日。直ちに当確が出て歓声に沸く選挙事務所。娘の友菜さんが声を詰まらせ挨拶する。「お父さんが負ける度に、社会に出たら正直者がバカを見る現実に立ち向かわないといかんのかなって、ずっと思ってたんですけど、正直者の気持ちはいつかみんなに届くんじゃないかって、今日初めて感じました」 この映画では平井陣営の政治資金規正法違反の疑惑と社命による投票の実態も暴かれている。放置できない問題だ。(現代教育行政研究会代表)2021年12月26日 東京新聞朝刊 11版 19ページ 「本音のコラム-映画『香川1区』」から引用 昔、人類の文明が未開だった時代は乾燥した木の枝をこすり合わせて摩擦熱で火を起こしたものが、その後文明が発達して今では指先でスイッチを押せばお湯が沸く。このように、歴史が進めば人間のモラルも自然に高度化して、昭和の時代に横行した「選挙違反」が、まさか令和の時代にあるわけないだろうと思うのは「素人の浅はかさ」。企業ぐるみ選挙とは、職場の上司が職権で部下を恫喝し特定の候補(だいたいは自民党の候補)に投票することを強要する。中には、指示通りの候補者名を書いたことをスマホの写真に撮ってメールで上司に送らせるケースもあるとの投稿がツイッターにありました。これは「投票の秘密」を規定した憲法に違反する行為です。しかし、いくら正義感の強い若者でも、まさか選挙管理委員会に「上司に特定候補への投票を指示されました」などと、そんなこと訴えたらその職場にはいられなくなるわけで、そんなリスクを侵すよりは黙ってやり過ごすことになるわけです。このように、テクノロジーは進歩しても人間のモラルは、それに合わせて進歩することは決してなく、人々の間に「民主主義」の意識が存在しないために、日本では「悪代官と越後屋」の関係が未だに払拭されない事態です。人々の努力によって一定程度の民主主義が発達した韓国の場合は、大統領経験者であっても「不正」が発覚すれば「逮捕・起訴」されて公正な裁判を受けることになりますが、「悪代官と越後屋」関係が温存されている日本では、ただの議員なら公職選挙法違反で起訴される案件でも首相経験者の場合は、検察は捜査すらせずに「不起訴」の決定をして、それがまかり通る事態となっているわけです。
2022年01月16日
東京都が新型コロナウイルス感染症の無料検査を始めたことを、12月26日の東京新聞は次のように報道している; 東京都は25日、オミクロン株の市中感染が確認されたことを受け、無症状の希望者全員に対する無料検査を始めた。人と接触する機会の多い人や、年末年始に帰省を予定している人などに不安を解消してもらい、感染拡大の抑制につなげる。 同日、都民を対象に都内12ヵ所の検査機関で始め、27日にはドラッグストアなども含め約180ヵ所に規模を拡大。一日計3万件の検査に対応できるようにする。 小池百合子知事は25日、都内の視察先で記者団に対し、「無料検査を受けることで自分の状況を確認し、そのことによって濃厚接触者を増やさない、できるだけ早く有効な治療を受けられるようにする。都はこの方針で進めたい」と述べた。 政府は感染拡大が懸念される地域で希望者への無料検査を開始する方針を示しており、既に大阪府などで始まっている。2021年12月26日 東京新聞朝刊 12版 2ページ 「都民に無料検査開始」から引用 去年の今ごろは、感染防止のためにPCR検査をもっと増やすべきだと発言すると「PCR検査は精度が悪いから、やっても当てにならない」とか「検査をすれば病気が直るわけではない」とか、意味もなく検査に消極的な政権を擁護する目的だけの、ナンセンスな反論が寄せられたものであったが、ここにきてようやく政府部内の調整が整ったようで、報道のように無料のPCR検査が始まった。感染症拡大を予防するには、検査によって感染者を早期に発見し隔離することが「基本」であり、日本政府もようやく「感染拡大防止」のスタートラインにたどり着いた模様である。しかし、1千2百万人が暮らす東京都で一日3万人は少なすぎる。実質的に「検査」が効果を発揮するには、一日30万人くらい検査するべきだと思います。
2022年01月15日
新型コロナウイルスの感染が始まったときに政権担当していた安倍首相(当時)の発案で製造し、何故か国民への配布が途中で終わり、大量に在庫として残ってしまった布マスクは、このまま保管を続けると毎年数億円の保管料がかかるが、そうかと言って処分するには6千万円かかると、12月25日の毎日新聞が報道している; 後藤茂之厚生労働相は24曰の閣議後の記者会見で、大量在庫が問題となっている布マスク「アペノマスク」について、現在残っている8000万枚全てを廃棄すると、約6000万円の費用がかかるとの見通しを明らかにした。 希望者への配送を今後進め、余れば年度内をめどに廃棄する。24日付で自治体に事務連絡を出し、厚労省のウェブサイトにも配布の要項を掲載する。 厚労省によると、介護施設や自治体、個人などに対し、来年1月14日まで配布希望を募る。その後、在庫を売り払い、それでもマスクが余った場合は3月ごろから廃棄を開始する。 布マスクは2020年4月、安倍晋三首相(当時)が全世帯への配布を表明。現在、介護施設向けの布マスクなどと合わせ計8000万枚余りが備蓄されている。 後藤氏は当時の対応について「マスクが入手困難な状況の中、感染防止に一定の効果があった。洗濯して繰り返し利用ができ、需要抑制の観点からも有効だった。国民の命を守りたいという一心で、緊急的に実施した」と改めて説明した。 今年3月までの保管費用は約6億円で、野党などから批判が上がっていた。【小鍛冶孝志】2021年12月25日 毎日新聞朝刊 13版 4ページ 「アペノマスク8000万枚、廃棄に6000万円見通し」から引用 あのアベノマスクは、本当にお粗末な話で、多分「首相の一声」でゴリ推ししたために、ああいうお粗末な製品になり、感染予防の効果はまるでない、見るからに昭和初期に流行したようなレトロ感満載のマスクで、うちには届いたが、ちょっと試してみようという気には、とてもならなかったが、しかし、政府も何故途中で全国民への配布を止めたのか、何の説明もないところが、お粗末さを象徴している。有能な官僚の意見を聞いていれば、もう少しマシなマスクになったであろうに、日頃から「官邸主導」などと威張り腐っていたために、有能な人材を活用できなかっただけではなく、無駄に保管料を支払って、人事院に指摘されてようやく処分することになったのは良かったが、こういう間抜けな事態を繰り返さないために、ことの顛末を検証する必要があると思います。
2022年01月14日
昨日の欄に引用した記事の続きは、安倍政権によってわが国憲法の「平和主義」が蔑ろにされてきた経緯を、次のように説明しています;◆9条の規範性を損なう<1面のつづき> これに公然と異を唱えたのが安倍晋三元首相です。 「敵基地攻撃について言えば、ずっとアメリカに頼り続けていいのか。F35(ステルス戦闘機)を導入するのなら、その能力を生かせるか検討しなければならない」(2013年2月28日、衆院予算委)と述べ、「敵基地攻撃能力」保有の検討を表明しました。 装備面では、護衛艦「いずも」の改修、F35Bステルス戦闘機搭載で「空母」化を図るなど、「敵基地攻撃能力」保有をなし崩し的に進めてきました。 安倍政権は、歴代政権が「憲法違反」としてきた集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、15年には違憲の安保法制=戦争法を強行。次の標的が、憲法9条の明文改定とともに、「敵基地攻撃能力保有」の「合憲」化でした。海外での武力行使を禁じた9条の下で集団的自衛権の行使も、敵基地攻撃も可能となってしまえば、9条の規範性は大きく損なわれてしまいます。 しかし、政権私物化やコロナ失政への批判が高まり、安倍氏は退任に追い込まれました。退任直前の20年9月11日、安倍氏は談話を発表し、「迎撃能力を向上させるだけで国民の命と平和な暮らしを守り抜くことができるのか」と述べ、ミサイル阻止のための「抑止力強化」を表明。次期政権に、年内に「あるべき方策」を示すよう指示。事実上、敵基地攻撃能力の保有を求めたのです。◆「変えない」とは言わず 後継の菅政権は同年12月18日、長距離巡航ミサイルの配備加速や、12式地対艦誘導弾の長射程化などを進めることなどを閣議決定しました。「いずも」の空母化同様、なし崩し的な敵基地攻撃能力の保有です。新たな巡航ミサイルの射程は「1000キロ超」「日経」2日付)との報道もあり、中国本土まで到達可能です。 同時に、閣議決定は憲法解釈に触れておらず、安倍氏は不満を持ったとされています。 そして、安倍氏の路線に忠実に従っているのが岸田政権です。日本共産党の志位和夫委員長は9日の衆院代表質問で、59年伊能答弁を示し、「『敵基地攻撃能力の保有』は『憲法違反』、これは歴代政権の憲法解釈だ。この変更を『検討』の対象にするつもりか」とただしました。しかし、首相は「解釈変更」の有無について、一切答えませんでした。つまり、首相は59年に確立された「敵基地攻撃」に関する政府統一見解を「変えない」とは言わなかったのです。2021年12月19日 「しんぶん赤旗」 2ページ 「安保法制に次ぐ立憲主義破壊」から引用 この記事の冒頭には安倍元首相の「敵基地攻撃について言えば、ずっとアメリカに頼り続けていいのか」などと櫻井よしこにでも吹き込まれたかのようなセリフが紹介されているが、客観的に言ってわが国には「敵基地攻撃」の必要性はまったく存在せず、現実の問題としてアメリカに頼ってはいない。アメリカはアジア侵略の足場として、敗戦国日本に軍事基地を置いているが、これが役に立ったのは朝鮮戦争のときに朝鮮民主主義人民共和国が半島を統一するのを防げたことだけで、その後のベトナム侵略は失敗したし、イラク戦争もアフガン戦争も失敗に終わっている。日本に軍事基地を置いた表向きの理屈は「軍備をもたない日本をアメリカが防衛する」ということであったが、戦後の70数年間、在日米軍基地の軍隊が「日本の防衛」のために出動する事態は一度もなかった。それもそのはずで、仮に隣国から軍隊が来て日本を占領しても、この国土ではウクライナのような豊富な農産物が得られるわけではないし、地下資源があるわけでもないし、外国語を話す軍隊の命令で勤勉に工場労働をする民族かと言えば、そう簡単に服従するとは考えられず、それよりも、いきなり日本を占領するというような無法を働く国がもしあれば、国連を初めとする諸外国が「経済制裁」などの行動に出るわけで、どう考えても「日本占領」が侵略国に大きな利益をもたらすとは考えられません。したがって、上の記事冒頭の安倍晋三の発言は、寝言のようなもので、わが国の外交は戦後75年の積み重ねを基盤として、さらなる平和外交を継続していくことが安定的に発展していく「方向性」であると言えるわけです。
2022年01月13日
岸田首相が昨年12月の臨時国会・所信表明演説で「敵基地攻撃能力」の保有を検討すると発言したことについて、従来の日本政府の見解がどのようなものであったのか、12月19日の「しんぶん赤旗」が次のように論評している; 「いわゆる敵基地攻撃能力も含め、あらゆる選択肢を排除せず、現実的に検討する」-。歴代政権が「憲法違反」と判断してきた敵基地攻撃能力の保有をめぐり、岸田文雄首相は6日、臨時国会の所信表明演説で「検討」を表明しました。9日の衆院本会議での日本共産党志位和夫委員長の代表質問、17日の参院予算委での小池晃書記局長の基本的質疑でその危険性がうきぼりになりました。敵基地攻撃能力の保有「合憲」化は、第2次安倍政権による集団的自衛権の行使容認に続く「立憲主義破壊」第2幕です。 「敵基地攻撃」に関する政府見解か確立したのは1959年の政府答弁です。 54年7月に自衛隊が発足しましたが、憲法9条2項では「戦力不保持」を明記しています。このため政府は、自衛隊は軍隊ではなく「自衛のための必要最小限度」の実力組織であると定義。海外での武力行使=海外派兵は「必要最小限度」を超えるものであり、国会でも同年6月、参院本会議で「海外出動を為さざる」決議が可決されました。 これに対し、自民党議員が、「誘導弾」による攻撃が行われ、その基地をたたく以外に防御の手段がない場合、どうするのかと繰り返し追及します。 当時の鳩山一郎首相は「(防御のため)他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは法理的に自衛の範囲に含まれ、可能である」と答弁(56年2月29日・衆院内閣委=船田中防衛庁長官代読)。同時に、「他に防御の手段があるにもかかわらず、安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らない」とも述べており、実際の敵基地攻撃には慎重姿勢を示しています。 さらに、政府は「誘導弾基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれているが、平生から他国を攻撃するような、攻撃的な脅威を与えるような兵器を持っていることは憲法の趣旨とするところではない」(59年3月19日・衆院内閣委、伊能繁次郎防衛庁長官)と答弁。これが「敵基地攻撃」に関する政府統一見解となりました。 「敵基地攻撃」は「法理上」可能だが、「能力」の保有は憲法違反であるIというのが、今日まで変わらない政府の憲法解釈です。事実上、「敵基地攻撃」はできないのです。 この見解を踏まえ、田中角栄首相は「専守防衛」とは、「相手の基地を攻撃することなく」国土や周辺を防衛することであり、「この考えを変えることはない」と明言しています。(72年10月31日、衆院本会議) 「攻撃的兵器」については、「性能上もっぱら相手国の国土の壊滅的破壊のためにのみ用いられるいわゆる攻撃的兵器を保有することは、自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなり、いかなる場合にも許されない」(88年4月6日・参院予算委、瓦力防衛庁長官)とされ、「攻撃的兵器」として、(1)ICBM(大陸間弾道ミサイル)(2)長距離戦略爆撃機(3)攻撃型空母-が例示されています。(2面につづく)2021年12月19日 「しんぶん赤旗」 1ページ 「『能力』保有は違憲が政府見解」から引用 これまでメディアが勝手に「ハト派」のレッテルを貼ってきた岸田文雄氏が、ここに来て何故いきなり「敵基地攻撃」などと言い出したのか、それは多分、昨年秋の自民党総裁選で安倍氏に借りを作った岸田氏が、ここに来て安倍氏に「借りを返す」ということで、こういう訳のわからないことを言い出したものと思われます。そもそも、岸田も安倍も親の七光りで議員になっただけで、市会議員から叩き上げて、その間に庶民の暮らしの苦労とか庶民が何を望んでいるかなどの「声」を聞いて「政治の在り方」を学んだという経験がないため、日本会議などという怪しげな団体と付き合ったり百田某の作り話に意気投合して戦前の陸軍軍人みたいな思考回路に陥って「日本も武装するべきだ」などと言い出している。しかし、現代は武力で国が繁栄する時代ではありません。隣国がしばしば核ミサイルの実験を繰り返しているのは、戦争を起こして日本を占領しようという「野望」があってのことではなく、不当な「敵視政策」を継続するアメリカに対し、話し合いのテーブルに着かせることが目的でやっていることであって、トランプ政権の時代には一定の「成果」がありました。「敵基地攻撃能力」だの「攻撃的兵器」などについては、上の記事が紹介するように、先人がしっかり議論してきているのであって、現在はそれら先人の「議論」を変更する必要に迫られている事態ではないことを、先ず以て確認しておくべきと思います。
2022年01月12日
秋の総選挙で与党が勝利したことに乗じて「野党は批判ばかりだから負けた」などとお門違いなことを言い出した日本のメディアを、フリージャーナリストの青木理氏が12月19日の「しんぶん赤旗」で、次のように批判している; メディアが総選挙後、「野党は批判ばかりだから選挙に負けたんだ」との主張を繰り返しています。 民主主義が機能するためには、国会での行政権力や与党に対する批判、監視が不可欠です。野党が批判を加えてこそ、行政権力のゆがみや問題点が可視化され、多少なりともただされます。そのことは「森友・加計・桜を見る会」疑惑の追及からも明らかです。 新型コロナ対策や経済対策なども政府への批判があってこそ、建設的な提案ができます。 いま必要なのは、ファクトを抉(えぐ)り出して政府や与党の責任に迫る、徹底した「批判力」です。そのための共産党の情報収集・調査能力は高いと思っています。 「野党は批判ばかりを改めよ」とのメディアの主張は、権力や与党の悪事を黙認しろというのに等しいものだと思います。このことは野党にも問われていることです。<3面につづく> ぼくは少し前、ある雑誌で新聞の元政治部長らと鼎談(ていだん)しました。そこで「今後のメディアは批判一辺倒にとどまらず、建設的な政策提言活動も重要だ」という言葉が飛び出し、びっくりしました。いわゆる「リベラル」派といわれる新聞の幹部も「その通りだ」と口をそろえたので、”批判も満足にしていないのに”とあきれたことを覚えています。 もちろん、ぼくは「提言」活動を否定しているわけではありません。「批判よりも提言を」「対立よりも対案を」などという、優先順位のつけ方がおかしいと言いたいのです。 政策課題では、たとえば新型コロナ対策で給付金支給が業者に「中抜き」されているのはおかしいというのは、立派な「提言」ですよね。 今回の「10万円支給」だって、「クーポンという配り方は実情に合わないし、余計な費用もかかるのでは」というのも、現金を困った人たちに配るというまともな「対案」です。◆監視機能が果たせない 日本では、メディアによる権力や与党への監視が十分に機能していません。 たとえば、「森友・加計・桜を見る会」などをめぐるおびただしい疑惑や、元法相夫妻が選挙買収で逮捕・起訴された前代未聞の事件を思い起こしてください。 行政権力の中枢や与党幹部できちんと責任をとった方、心からの謝罪を口にした人がいますか。真相は解明されましたか。いや、誰一人責任を取らず、真摯(しんし)に説明することすらなく、いまなお権力の中枢でのほほんと権力を行使し、恥じ入る気配すらないのではないですか。 スキャンダルの数々に加え、安倍政権では、安保法制や秘密保護法、共謀罪など問題だらけの法をゴリ押ししてきました。ベテランのメディア関係者はよく言っていました。 「昔なら政権の一つや二つは吹っ飛んでいたな」と。与党が国会を軽視し、憲法を無視して好き勝手なことをやっても、政権が吹っ飛ばなかったのはなぜか。ぼくはメディアの政権監視機能が衰えたことが大きいと思います。◆政権機関紙へ「読売」の変質 たとえば「読売」のさらなる変質です。同紙は以前から保守的な立場ではありましたが、いまほど政権べったりではなかった。たとえば小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝などは社説できびしく批判していました。 しかし最近は、そうした気骨さえ失われました。憲法改正問題では安倍晋三首相(当時)の単独インタビュー(2017年5月3日付)を大きく載せ、安倍氏は国会で野党の追及を受けると「読売を熟読してくれ」と答弁しました。まるで政権機関紙です。 さらに同年5月22日付の「読売」では、前川喜平・元文部科学事務次官の「出会い系バー通い」が掲載されました。ちょうど加計学園疑惑が大問題となり、前川氏が実名での告発を準備していた時です。記事を読んでも何か問題なのかさっぱりわからない。ただ女性の話を聞いていただけ。それを「読売」1紙だけが”スクープ”した。 しかも「読売」の各本社が社会面の同じ位置で、同じ大きさで載せている。「ワケアリ」の案件で上層部の意図が働いている、と「読売」出身でジャーナリストの大谷昭宏さんは指摘しました。 かつて公安警察を取材したぼくの経験から言うと、本人をつけ回してこんな情報を取れるのは公安警察ぐらいです。ということは、そういう筋からリークがあったとしか考えられません。つまり、政権批判の告発者をつぶしていく。それにメディアが加担した疑いがある。 最大の部数を持つ新聞の変質は、メディア全体に影響を与えています。メディアがまとまって政権批判をすることがなくなり、監視機能が大きく低下するのです。◆野党全体にも問われる能力 監視機能の低下は野党にもつきつけられます。共産党の情報収集、調査能力は高くても、野党全体がもっと新しいファクトを突きつける必要もあるでしょう。一部メディアは「批判ばかり」と言いますが筋違いです。批判するのはそもそも野党の責務。議院内閣制のもとでは、国会で与党を追及するのは野党の責務です。 そして現在の政権や与党は、だれがどう考えても批判されるようなことばかりやっている。それを満足に批判せず、批判する側が批判されるのは本末転倒です。いま、野党やメディアに必要なのは、事実をえぐり出し、権力や与党に迫る徹底した「批判力」です。<聞き手・田中倫夫記者>あおき・おさむ=1966年生まれ。共同通信記者を経て、フリージャーナリスト、ノンフィクション作家。著書に『日本の公安警察』『安倍三代』『日本会議の正体』『時代の抵抗者たち』『時代の異端者たち』など多数2021年12月19日 「しんぶん赤旗」 日曜版 1&3ページ 「野党には『批判力』こそ必要」から引用 昔の日本では、国民の反対を押し切って安保条約改定を強行した岸内閣が倒れたり、リクルート疑惑に連座した有力政治家が自民党総裁選への立候補を見送ったりといった「政治家の疑惑」に対する国民やメディアの「監視の目」が正常に機能していた時代があったが、最近では特に安倍政権から、疑惑の追及に対して「答えをはぐらかす」「答えは一回だけ、さら問いは許さず」「質問時間は制限する」などと変なルールを勝手に作り上げて、「決定的な証拠」さえ隠し通してしまえば、あとは何でもOKという風潮になっている。そういう所にもって来て「野党は批判ばかり」だの「何時までも同じことを批判してる」だのと言い出すのは、結果的に「権力の不正」に加担する行為となるのであり、日本の民主主義を後退させるだけの「百害あって一利なし」であることを自覚するべきだと思います。
2022年01月11日
昨年秋の総選挙で野党が共闘態勢で臨んだ割に見かけの上で議席を減らしたために、メディアの野党に対する批判に根拠のない誹謗まで含まれる事態になっていることについて、弁護士の白神優理子氏は12月19日の「しんぶん赤旗」コラムに、次のように書いている; 一部大手紙は総選挙を受け”野党は批判ばかり”とキャンペーンを張っています。 「日経」(1日付)は「野党は優先政策を厳選し、財源問題からも逃げずに国民に理解を求めるほかに道はない」と。「読売」(同)も「政権批判票を奪われたのは・・・前向きな改革案を示せなかったのが一因」といいます。 「産経」(同)も「『何でも反対』と揶揄(やゆ)された枝野幸男前代表の路線」などと誹謗(ひぼう)中傷を繰り返します。 異様なのは「毎日」。6日付コラム「風知草」は、「安保や天皇をめぐる共産党綱領の現実離れも、私から見れば度を超している・・・政権参加を狙うのなら現綱領の絶対視は改めるべき」と根拠のない断定で共産党を攻撃しました。 一方で「朝日」は「政権に誤りや疑惑があれば、厳しくただすのは野党の重要な役割である。行政監視が後退するようなことはあってはならない」(1日付社説)と反論します。 地方・ブロック紙も-。「(立憲民主党代表は)『批判ばかり』と見られることを気にしているようだが、必要な批判はきちんと行ってほしい。政権監視は野党に課せられた重要な責務だ」(新潟日報9日付)「批判は・・・議論を深める上では、むしろ必須ではないだろうか」(「東京」1日付)と論じます。 注目なのは「毎日」電子版(2日付、一部地方版)の作家の中村文則氏のコラム。「野党が反対するのは一部のおかしい法案のみ・・・いい対案も多く出しているが、マスコミはその事実を報じず『野党は批判ばかり』と言う」と書きます。その上で「共産党へのバッシングが何だか急にひどくなったが、昔の日本もヒトラーも、共産党を弾圧するところから全体主義を始めている。歴史は繰り返すのだろう」と。 メディアの野党攻撃は歴史を逆行させるもの。真実と民主主義に根差した報道を求めます。(しらが・ゆりこ=弁護士)2021年12月19日 「しんぶん赤旗」 日曜版 35ページ 「メディアをよむ-野党攻撃は歴史に逆行」から引用 一部メディアが言う「野党は何でも反対」というのは事実ではなく、実際は国会に提案される法案の7割くらいは全会一致で可決しており、「何でも反対」というのは真っ赤なウソである。野党が真剣に反対の議論を繰り返すのは、「共謀罪」や「安保法制」のような「憲法違反」が疑われる法案に限っているのであり、野党がこういう「行政の監視」を怠り与党に妥協するようになれば、わが国の政治は一気に戦前風の挙国一致・独裁政治になってしまうのであって、そういう自覚もなく「野党は反対ばかり」などという虚言に迎合して、立憲民主党みたいに「提案型の国会審議」など言ってると、目の前に「国の基幹統計の改ざん」が数年に渡って行なわれていたという「大問題」が発覚していても、なんら問題視することなく「質問時間」が終わってしまうという「失態」を演じることになるのだ。野党議員には、わが国民主主義を支える屋台骨であるとの自覚を強くしてほしいものである。
2022年01月10日
自民党政権の総理大臣が2代続けて、コロナ禍に苦しむ国民を置き去りにして政権を放り出した事態について、新聞記者の望月衣朔子氏は月刊「創」2021年11月号に、次のように書いている; 菅義偉首相が安倍晋三前首相と同様、コロナ禍に苦しむ市民を置き去りにして、逃げるように政権を投げ出してしまった。野党の要求に応じず、臨時国会も開かなかった。国のあり方として、異常としかいいようがない。 その後の自民党総裁選では、連日のように4人の候補がテレビに出演し、政策や人物像がつぶさに報じられている。その「お祭り」報道の影響もあるだろう。毎日新聞の世論調査(9月18日)によると、菅内閣の支持率は、最低を記録した8月から11ポイントも上昇し、37%に回復した。退陣する菅氏へのねぎらいの意味もあるだろうが、彼は何もしていない。「コロナ対策に集中するため退陣する」といいながら、すべきことをしていない。 第5波では都心を中心に医療崩壊を起こした。9月3日の全国の重傷者は過去最多の2221人、自宅「放置」は13万5674人に上った。自宅放置中のコロナ感染死者数は、8月の東京都内だけで250人で7月の8倍に達した。この責任をうやむやにしてはならない。コロナ禍はあと数年続くだろう。行き詰まったら政権を投げ出し、その都度「ご破算」にされてはかなわない。公衆衛生政策は、個人の努力だけでは難しい。外交と並んで、国家が最優先で果たさなければならない義務だ。 菅政権はなぜ失敗したのか。一言でいえば、菅氏の言葉に人々を納得させる力がなかった。批判に耳を傾け、改善につなげる意欲にも欠けていた。代わりに、人事と情報を駆使し、「アメ」と「ムチ」で官僚や政治家、メディアを支配し続けた。学術会議の推薦候補者の任命拒否や総務省官僚の接待問題などでは国会でも説明を果たさず、異論を封殺してきた。言葉がないのは政治理念や国家観がないからで、政治家として致命的だ。 最たる例は、東京五輪の強行開催だろう。不要不急の外出の自粛を訴えている以上、開催の意義と感染防止対策を丁寧に説明する義務があった。それでも、おそらく開催は難しかった。だが、菅氏から出てきた言葉は「安心・安全」ばかり。複数の閣僚が五輪中止を進言しても耳を傾けなかった。 2年目に突入したコロナ禍で、国内経済が疲弊し、職を失った人たちがいる。健康・生命が危機にさらされる一方で、医療は崩壊したまま。そんな状況でスポーツイベントに熱中できる人は極めて少ない。誰もが「今はそれどこじゃない」と思っているのに、その気持ちが理解できない首相だとわかれば、人心は離れていく。さらに「五輪開催で庶民が熱狂し、政権浮揚につなげて再選を目論む」という下心しか見えなければ、当然、支持率は回復しない。これが決定的だったと思う。 8月にあった「お膝元」の横浜市長選では、菅氏側近の小此木八郎・前国家公安委員長が50万票差で敗北した。この頃からようやく、党内の若手議員を中心に「菅首相のもとでは総選挙を戦えない」という批判が出始め、党内で急速に求心力を失っていく。 だが、それでも菅氏は、自分のやり方を変えることができなかった。立候補の意欲を示した下村博文政調会長には、政調会長の辞任を迫り断念させ、岸田文雄前政調会長が「党役員1期3年まで」と「二階切り」を表明すると、党役員人事の刷新を打ち出し、争点つぶしを図った。さらに内閣改造を断行し、解散総選挙に打って出る「禁じ手」を模索した。なりふりかまわず権力にしがみつく姿は実に菅氏らしく、やっぱり国民不在だった。最後の相談相手は、小泉進次郎環境人臣だったが、その小泉氏からも「解散したら自民党が終わる」と説得され、解散も封じられた。 そんな菅氏がなぜ総理になれたのか、振り返ってみて欲しい。菅氏は二階氏を筆頭に5派閥の支持を固め、筆頭候補に踊り出た。一方で、官僚が作った紙を読み上げ、質問に答えない官房長官時代の仕事ぶりについて、メディアが批判することは少なかった。むしろ、テレビを中心に「パンケーキおじさん」「令和おじさん」「仕事師で喧嘩好き」などと、夕レントのように扱った。 都合の悪い質問には「答える必要がない」と拒否し、記者や政敵にレッテルを貼り、差別を仕向けたのが実像だったのに、「鉄壁」などという虚像を拡散したのもメディアだった。コロナ禍で国民が疲弊し、最も「公助」が必要なタイミングで「自助」を掲げた菅氏の本性を知りながら、首相としての適性や実績とは無関係な内容を詳報した。そういう意味で、菅失敗政権の製造責任の筆頭はメディアだろう。 この記事の掲載号が書店に出るころには新総裁が誕生し、総選挙前の臨時国会での攻防が佳境を迎えているだろう。国民は直接、新総裁を選べないが、新総裁や与党への信任は、投票で示せる。ここで必要な情報は「意外に知られていない、首相候補のお茶目な一面」ではない。その人物の本性や国のリーダーとなった際のリスクであり、それを暴くのはメディアの責務だ。菅政権誕生時と同じ轍(てつ)を踏むのか。今回は、メディアの姿勢も国民に問われることになる。月刊「創」 2021年11月号 54ページ 「望月衣朔子の『現場発』-菅政権はなぜ失敗したのか」から引用 菅義偉という政治家がわが国の総理大臣としてどうなのか、選んだのは自民党員であるが、自民党員が彼を選出するにあたって、派閥の「指示」があったとは言え、それまでにメディアがどのように「菅義偉」像を報道していたのか、という「要因」も大きなウエイトを占めていたことは否定できず、官房長官時代の「質問に真摯に応えず、答えをはぐらかし、さら問いを許さず、短時間で切り上げる」という「問題行動」を批判しなかったメディアの不手際が、短命で終わらざるを得ない政権の出現を許した、という記事の主張はその通りだと思います。最近は地方自治体と「連携協定を結ぶ」新聞社が出てくるなど、日本のメディアはますます怪しげな行動をするようになっており、戦前風の「翼賛体制」がますます近づいてきたような昨今、国民は権力の監視だけではなく、メディアにも監視の目を向ける必要があるようです。
2022年01月09日
昨年秋に連合会長に就任した芳野友子が意味もなく共産党を誹謗中傷していることについて、ライターの田中俊宏氏が、5日の東京新聞に投書して、次のように批判している; 昨年12月16日総合面「連合・芳野会長に聞く」を読み、連合の、そして野党の未来が心配になった。芳野友子連合会長が言う「連合と共産はイデオロギー対決の歴史」に、どれだけの組合員が共感するのだろう。 連合が誕生した30年以上前に共産党系労組と相いれなかっだのは事実だろう。だが多様性の認め合いが必要なこれからの時代、イデオロギーにこだわり続ける労組に存在意義はあるのか。芳野会長は「共産主義と私たちの民主主義は決定的に違う」と語る。しかし、共産主義と対のイデオロギーは資本主義、民主主義の対立軸は専制主義や封建主義だと私は考える。 総選挙前の「立民と共産の共闘はあり得ない」との発言も含め、まるで共産アレルギーをあおる自民党の政治家のように感じた。2022年1月5日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「発言-共産党への距離 疑問」から引用 腐敗した自公政権では社会の経済活動も低迷して、国民生活のレベルも韓国に劣るような体たらくになってしまった状況を挽回していくには全野党が共闘して政権交代を実現するしかないという「主旨」で闘った昨年秋の総選挙は、戦略としては間違いではなく、もう少し頑張れば「政権交代の目」は確かにありました。そのことに肝を冷やした政府・財界が、「今のうちに野党共闘を破壊しておく必要がある」と考えて、連合・芳野にあのような卑劣な発言をさせているものと思われます。上の投書にも書いているように、言葉の意味としては「共産主義か資本主義か」であり「民主主義か専制主義か」である。そして、日本共産党は綱領に「共産主義の社会体制は、発達した民主主義の社会にのみ成立する」と書いてあるのであって、芳野は共産党を批判するまえに共産党綱領を学習するべきだ。民主主義の基盤がなかった所に成立した他国の共産党政権の負の側面のみを強調して、事実とは違う「妄言」を吐いているのでは、ますます若者が離反し組織が弱体化するだけである。
2022年01月08日
近畿財務局に勤務していた赤木俊雄氏が自殺に追い込まれた事件の真相を究明するために遺族が起こした裁判を、政府が「認諾」という手段で強制的に終了させたことについて、元文科官僚の前川喜平氏は12月19日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 森友学園に関する決裁文書を改竄(かいざん)させられ自殺した赤木俊夫さんの妻雅子さんが、事件の真実を知りたいと国と当時の財務省理財局長佐川宣寿氏を相手に起こした訴訟で、国が突然損害賠償を全額認める「認諾」を行い、裁判を「強制終了」させた。「金を払えばいいんだろ」と札束を投げつけて逃げるような行為だ。 「ふざけんな!」。穏やかで優しい雅子さんの口からこれほど激しい言葉が発せられたのは、彼女の怒りと悔しさの大きさを表している。僕も全く同じ思いだ。 こんな形で裁判を終結させたのは最終的には岸田首相の判断だ。岸田首相はなぜそうしたのか。実質的な審理に入って新たな証拠が出たり証人尋問で新たな証言が出たりすると困ることになるからだろう。 岸田首相は何かを隠そうとしている。それは何なのか。岸田首相は誰かを庇(かば)おうとしている。それは誰なのか。まさにそれこそが、雅子さんが本当に知りたい事件の真実だ。それが明らかにならない限り森友学園問題は終わらない。 森友学園問題を「いつまでやっているのか」とか「批判や追及ばかりではだめだ」とか、したり顔で語る輩(やから)は畢竟(ひっきょう)悪事の隠蔽(いんぺい)の共犯者にほかならない。五年かかろうと十年かかろうと真実は明るみに出さなければならない。僕は最後まで雅子さんに味方する。(現代教育行政研究会代表)2021年12月19日 東京新聞朝刊 11版 23ページ 「本音のコラム-ふざけんな!」から引用 「金を払えばいいんだろ」と札束を投げつけて逃げるとは、如何にも安倍晋三議員ならやりそうな行為である。近畿財務局の公文書が改ざんされる切っ掛けを作ったのは、国会答弁で逆上した安倍晋三首相(当時)が「もし森友学園への土地払い下げについて、自分や自分の妻が関係していたということであれば、自分は総理大臣も議員も辞める」とわめき散らしたのが原因であった。近畿財務局が管理する国有地を森友学園に払い下げるに当たっては、財務省に安倍昭恵氏やその付き添いの官僚が何度も電話を入れて、東京の財務省から近畿財務局へ「首相案件だから、うまく面倒みてやってくれ」と何度も電話やメールで指示が出されて、そのため近畿財務局は時価9億円の国有地を8億円も値引きするという前代未聞の契約を実行させられた上に、安倍氏の逆上発言の後は、土地取引に関わる公文書の書き換えを命じられたのである。森友学園への土地の払い下げの直前には安倍氏夫妻が大阪へ行って、森友学園経営者と面談したりテレビに出演したり、妻の昭恵氏は新設の予定の小学校の「名誉校長」に就任するとの案内も関係者に配られた時期があったのであるから、安倍氏もその妻も森友学園に関わりがないわけがありません。赤木氏の遺族が起こした裁判が進めば、その辺の経緯はすべて公開されて真実が明らかになり、遺族も一般国民も事件の「真相」を知ることができたものを、岸田政権はどのような不都合があって裁判を「強制停止」することになったのか、国民に説明する義務があるのではないでしょうか。
2022年01月07日
野党共闘をぶち壊すことしか考えていないかのような「連合」について、12月19日の東京新聞は次のような「Q&A」を掲載している; 日本最大の労働組合の全国中央組織「連合」は先の衆院選について、立憲民主党や共産党などの野党共闘に批判的な総括をまとめました。労働者が団結して賃金や雇用環境などの改善を勝ち取るための団体である労組がなぜ、政治に影響力を持つのでしょうか。(大野暢子) Q 連合って何? A 正式名は「日本労働組合総連合会」です。業界ごとに分かれた48の産業別労働組合(産別)と、中小零細企業や個人を主な対象にした47の地方連合会から成り立っています。12月2日現在、組合員は約704万人。経営側の経団連が自民党を支援するのに対し、連合は立民、国民民主両党の最大の支援組織で、両党には産別出身の議員がいます。 Q 労組が政党を支える理由は。 A 労働環境を良くするには、労使交渉に加え、制度や法律の改正など政治の力も大きいからです。連合初の女性トップ、芳野友子会長は本紙に「各企業の労使関係、労働条件の改善に取り組むだけでは生活は良くならない。働く人、生活者の立場に立った政治勢力の拡大が、政策を実現するためには重要だ」と説明しています。 Q 衆院選で立民と関係がぎくしゃくしました。 A 立民が共産と政策の実現に必要な範囲でのみ協力する「限定的な閣外協力」を確認したことに連合は不快感を示し、立民議員を支援しなかったケースもありました。国民民主は共産と距離を置き、衆院選後は国会で立民との協力関係を解消しました。 Q なぜ、共産との協力に否定的なのですか。 A 1989年の連合発足時、共産系の労組が路線の違いで合流せずに「全国労働組合総連合(全労連)」を結成し、対立した経緯が背景にあります。連合傘下の産別も、公務員中心で旧社会党を支えた日本労働組合総評議会(総評)系や、民間企業主体で旧民社党を支持した全日本労働総同盟(同盟)系など政治的な考えに違いがあります。 Q 政権交代可能な勢力を求める声もあります。 A 立民、国民両党と関係が深い連合は鍵を握る存在です。2009年には旧民主党政権誕生を後押ししました。連合には政治的な主張の違いで対立をあおるのではなく、それぞれの立場や多様性を認めつつ、労働者の幅広い民意を政治に反映するため、非自民勢力の結集を促す役割が期待されます。2021年12月19日 東京新聞朝刊 12版 3ページ 「労働環境改善へ 政治に働き掛け」から引用 私が記憶するところでは、「連合」は日本社会党を支持する労働組合の団体「総評」と民社党を支持する労働組合の団体「同盟」が合併して出来た組織で、民社党という政党は野党共闘が盛り上がると必ず共産党を差別する言動を行なって共闘路線をぶち壊す役目をする組織で、それで裏で財界と繋がっているのかと思うと、そういう気配もない、何を考えているのか訳の分からない政党で、その残党が国民民主党や連合に巣くっているのだと思われます。 昨年秋の総選挙で立憲民主党が共産党と政策の実現に必要な範囲でのみ協力する「限定的な閣外協力」を確認したのは、立憲民主党が「連合」に気を遣って「例え共産党の協力を得て選挙に勝利して政権奪取に成功しても、組閣の際は共産党は入閣しない」との言質をとったものを、「連合」はそれでも気に入らないといって、共産党を誹謗する発言を続けている非常識きわまりない団体です。東京新聞には、そういう危機的な実態を告発する記事を書いてほしいものです。
2022年01月06日
昨年50周年になった月刊誌「創」の11月号に、複数の文筆家がエッセイを寄稿しているが、その中の一人である武田砂鉄氏は、次のように書いている; 権力を監視するなんて当然のことなのだが、それがとても珍しがられてしまう場面に立ち会う度に、本当に驚く。「えっ、権力に厳しくいくタイプなんですか」みたいな感じのことを言われる。で、そういうタイプではない人が何を言うかといえば、「野党も批判しているだけではダメだよね」とか、「メディアももうちょっと公平に報道してほしいよね」とか言う。つまり、傍観している。分析しているつもりなのかもしれないが、結局は、権力の横暴を容認する、あるいは加担する。その自覚はあるのだろうか。 この数年間、政治の中枢では同じことが起きている。自分が仲良くしている人を優遇するために、物事を無理やり進めようとする。あとでバレてしまい、仲良しだからこういうことをしたんですか、と問い詰められると、そんなことはない、平等にやっている、陥(おとしい)れようとするな、とけん制し、その疑いが濃くなるスクープ記事などが出ると、ろくに答えずに逃げ回る。同時に、証拠になりそうなものを破棄する。なかったことにするために、あらゆる手を尽くす。その後ろ姿を追いかけていると、「いつまでそんなことやってるんですか」と嘲笑される。 権力者は当然、この流れを繰り返す。だって、逃げ切れてしまうのだから。最初は新聞もワイドショーも雑誌もあれこれうるさいけど、そのうち扱われなくなって、最後まで騒いでいるのは一部の人だけになる。その一部の人には、嘲笑が向けられる。こんなにも権力者が悪事をしやすい体制はないと思う。複雑な手口ならば許されるわけではないとはいえ、今、権力者が起こしている悪事って、手口があまりにもシンプルすぎやしないか。日頃仲良くしているから優先する、そんなことばかりだ。 権力者って、もう少し賢かったのではないかと思う。巧妙に逃げていたのではないかと思う。こんなにも露骨に悪事を慟いてこなかったのではないか。なぜそれをしてしまうのか。答えは簡単で、それをしても大丈夫だからだ。逃げ切れるからだ。 この原稿が載っているコーナーもその類いの原稿が並んでいるのかもしれないが、「今、メディアはどうあるべきか」というような記事には納得しつつも、今、目の前で放置されている悪事があるのだから、まずはそちらをつかまえたい、と思う。家が燃えているのに、理想の都市の話をするのは順番が違う。いち早く消火して、原因を追及するしかない。 どうやら、新しい政権が始まるらしい。始まろうとも、放っておいたことを引っ張り出して問わなければいけない。森友学園、加計学園、桜を見る会、日本学術会議任命拒否問題、名古屋入管施設死亡事故問題、河井夫妻買収事件、並べればキリがない。権力の横暴が目の前に転がっている。それぞれ問いかけて、かかわった為政者には出ていってもらう。至ってシンプル。何ら難しい主張ではない。いつまでも言っている「一部の人」でありたいし、この雑誌はいつまでも言っている「一部の雑誌」であってほしい。月刊「創」 2021年11月号 48ページ 「ジャーナリズムの現状と『創』創刊50周年に一言 - 『いつまでも言う』雑誌を」から引用 この記事は岸田政権が始まろうとする時期に重なったので「新しい政権が始まるらしい」と書いているが、全体として述べていることは「正論」だと思います。安倍政権以来、疑惑はあっても何も言わずに黙っていれば、そのうち世間が「いつまでそんな話をしているのか」などと言い出して助け船を出してくれる。そういう世の中であってはいけないと思います。権力の「疑惑」に助け船などと出しているから、国家予算も適切に使われず、用もないミサイルだの戦闘機だのに莫大な金額を注ぎ込み、少子化対策や教育費無償化などが疎かになって、経済活動は停滞し勤労者所得は低下し西欧はおろか東アジアの近隣諸国にも劣る有様となっている。「野党も批判だけではダメ」だの「メディアも公平に報道しろ」だのと言って権力の腐敗に加担する人々の責任は重い。
2022年01月05日
東京都武蔵野市では外国籍市民の投票権も認める住民投票条例案を、市議会の委員会で可決した後ににわかに右翼・レイシストの反対運動が激しくなり、本会議での採決が危ぶまれる事態となったために、住民投票推進派の市民が「住民投票条例案」に賛成を呼びかけるデモを行なった、と12月19日の神奈川新聞が報道している; 日本人も外国人も区別なく投票権を認める東京都武蔵野市の住民投票条例案に賛成する市民らの街宣活動か18日、JR三鷹駅前で行われた。市議会本会議の採決を迎える21日を前に賛否は拮抗(きっこう)し、まちなかでは条例反対を口実にした外国人排斥のヘイトスピーチが響く。危機感を強める参加者は「差別と暴力を認めるわけにいかない」「公平で誰も差別しない条例を実現しよう」と訴えた。 条例案では投票資格を3ヵ月以上住む18歳以上とだけ定める。松下玲子市長は外国籍であっても住民に変わりはなく、外国人に特別な要件を設けて排除することに「合理的理由を見いだせない」と説明する。 市内主要駅では外国人の権利を認めない差別・排外主義者や極右政治団体がデモや街宣を繰り返し、自民党の国会議員までが外国人を危険視するヘイトデマを街頭で発する。山本ひとみ市議によると、「『中国人にまちが乗っ取られる』と聞き不安になった」と、レイシストが流布させる荒唐無稽な妄言を信じた市民の声が届くという。 地方自治に詳しい小原隆治・早稲田大教授はマイクを手に「グローバル化の中、外国人を受け入れている以上、排斥するのではなくどう共生するかを考える責任がより生じている」と話す。条例はそのささやかな一歩とし、「外国籍の市民に一緒にやっていきましょうと示す条例で、これを否定すれば、あなたたちの声は聞きませんというメッセージを発することになる」と警鐘を鳴らす。 13日の委員会審議では自民、公明の会派が反対を表明。傍聴した看護師の宮子あずささんは「反対派の議員は自分たちを権利を与える側としか捉えていない。私たちは選ぶ側でなく、海外の人たちに選んでもらい来てもらう側だ」。21日の採決へ向け「私たちの在り方、まちの未来が決まる。平等で差別のない武蔵野市であってほしいし、国籍で人を選別することのない市民でありたい」と力を込めた。〈石橋学)2021年12月19日 神奈川新聞朝刊 20ページ 「ヘイトに屈せず成立を」から引用 この記事が出てからしばらくして武蔵野市議会は「住民投票条例案」を否決したとのニュースが報じられました。外国籍の市民にも投票権を認める条例というのは、全国で約40の自治体で実施しているもので、ことさら先走った「条例」でもないのに、首都圏の自治体が否決したのは残念なことです。川崎市が罰則付きの「ヘイトスピーチ禁止条例」を成立させたときは、反対を表明していた自民党を市長を始め市議会各会派が自民党と何度も話し合いの場をもち説得して「全会一致」で可決成立させたのでしたが、武蔵野市もそのようにじっくり取り組んで「全会一致」にするべきではなかったかと思います。
2022年01月04日
昨年末の毎日新聞に、歴史家で東京大学教授の加藤陽子氏が一年を振り返って次のように書いている; 今年1月に長逝した作家の半藤一利氏が名乗っていた「歴史探偵」という呼称。満面の笑みで半藤氏が使えば軽妙に聞こえたが、この呼称が作家・坂口安吾に由来すると知れば、少し印象も変わるだろう。安吾は1946年の「堕落論」の冒頭で「半年のうちに世相は変った」と書き、戦後社会の急変ぶりを、特攻隊の勇士は闇屋になり、戦争未亡人は使徒から人間になった、と描いた怖い人だ。 誤読されがちだが、「堕落論」は敗戦を機に一夜で変貌した日本人の姿を冷笑したもの心はなく、人間には時に「正しく墜(お)ちる道を堕ちきること」が必要で、そうして初めて、旧来の道徳や規範、果ては天皇と国民の関係さえも相対化しうるのだと述べていた。年の瀬ともなったので今回は、私流の「半年のうちに世相は変った」を書いてみたい。 まず半年前に何かあったかを思い出しておこう。6月、主要7力国首脳会議(G7サミット)が英国で開催され、菅義偉首相(当時)も出席した。開催地は風光明媚(めいび)なコーンウォール。英首相の祖先に縁がある地との触れ込みだったが、そこは2012年のロンドンオリンピック開会式で、ダニエル・クレイグ(映画「007」シリーズで主役を演じた俳優)に女王をエスコートさせた国。ただの保養地のはずがない。コーンウォールは、米国家安全保障局(NSA)とともに世界の通信情報を傍受していた、政府通信本部(GCHQ)の施設がある土地だ。 6月の東京では、新型コロナウイルス禍中での五輪開催の可否が論じられていた。3日、政府の新型コロナ感染症対策分科会の尾身茂会長がパンデミック下での五輪を「普通ではない」と述べ、24日、宮内庁長官は五輪を開催して感染拡大にならないかとの天皇の懸念を「拝察」したと述べた。それでも政府は、国民に十分な説明をしないまま、かつ開催都市・東京の5割の人が中止を望むなか、ほぼ無観客で五輪を挙行した。酷暑下の五輪は、感染者の急拡大も手伝って、パラレル・ワールドか幻影ではあるまいかと思われた。 コーンウォール、感染拡大、パラレル・ワールドと来れば、どうしても小松左京の小説「復活の日」が思い出される。このSF小説は64年8月に刊行された。お気づきだろうが、64年東京五輪開会式の2ヵ月前だ。物語の内容はこうだ。196×年、英軍施設から生物化学兵器が謀略で流出する。この取引場所がコーンウォールに設定されていた。最凶のウイルスは事故により全世界に拡散され、「ただの風邪」と誤認した人類は絶滅の危機にさらされる。絶滅を免れたのは南極にいた約1万人のみ。そこに起きた海底地震を核攻撃第1波と誤認した核ミサイル自動報復装置が作動して、核の冬が南極をも襲う。 「復活の日」は、核兵器の誤作動への着眼、人類滅亡に際しても米ソ両国が核の自動報復装置を停止しないことへの洞察という点で、掛け値なしに恐るべき作品だった。次に私か想起するのは、米の戦略研究者、ダニエル・エルズバーグの告発の書「世界滅亡マシン」だ。エルズバーグは、61年春、ケネディ政権下のマクナマラ国防長官が統合参謀本部に提出した全面核戦争作戦計画に関する「機密」指針の起草にあたった、政権中枢の若手エリートだった。ベトナム戦争関連の極秘文書のリークで知られたこの人物は、より重要な米国の核戦略に関する第2のリークをこの本でした。 告発を決意した理由は、米国という国がその特殊な核戦略を手放さない限り、人類の未来は危ういとの危機意識だろう。エルズバーグいわく、ソ連からの奇襲核攻撃の抑止ないしそれへの報復が、米国の核戦略の目的だったことは一度たりともなかった。換言すれば、米国の戦略は常に、自らが第1波攻撃を行い、ソ連からの報復攻撃を受けた後の第2波攻撃をいかに遂行するかという発想で作成されていた。 この事実は、核による抑止論が、結局は相手次第で不確かな安全保障思想だとの批判への、斜め上からの完全な反論となろう。米国が第1波攻撃を決意し、それを可能とする能力を磨き続ければ、相手方は抑止されうる。このような考察自体、衝撃的だが、エルズバーグの著作の更なる衝撃は、米国の対ソ攻撃は常に対中攻撃と一体のものとして計画されてきたという指摘にある。 今から振り返れば、一点の曇りもない明るさで回顧されがちな64年の東京五輪。その東京の空の下では、世界の滅亡と人類の未来を展望した大きなフィクションが書かれていた。今回の東京五輪の時空の下では、何が生まれ出たのだろうか。この半年では、「正しく墜ちる道を堕ちきること」が足りなかったようだ。次の半年後には参院選が待つが、さて。(東大教授)2021年12月18日 毎日新聞朝刊 13版 11ページ 「加藤陽子の近代史の扉-東京五輪の下で何が生まれたか」から引用 この記事に書かれているとおり、6月の東京では新型コロナウイルス渦中で五輪を開催するべきなのか中止するべきなのか、一部では議論されており、専門家会議の尾身茂会長はパンデミック下での五輪は「普通ではない」と発言し、暗に「五輪強行は正気の沙汰ではない」ことを示唆したのであったが、政府も大手メディアもその重大な発言をそしらぬ顔でやり過ごし、とにかく誰も「中止」と言わないのだから、これはやるしかないのだ、という調子で五輪は「開催へ」と進んだのであったが、案の定、感染症は爆発的に拡大し感染が判明しても病院に入れてもらえずに「自宅療養」しているうちに絶命する事例が相次いだのであった。それ以外にも、当初は「コンパクト五輪」などと称していたものが終わってみると数兆円の経費を注ぎ込んでしまう結果となっており、何故こんなことになってしまったのかという原因究明の議論もなされず、ただひたすら国民の忘却をまつだけというおぞましい事態となっており、さらにその「忘却」を促進するために、32年の冬季五輪を札幌に招致しようなどという馬鹿げた計画が進行中とのことで、いよいよこの国は滅亡への道に足を踏み出したかと思われる年頭でございます。
2022年01月03日
アメリカが中国の人権問題を重視して欧米諸国に冬季五輪ボイコットを呼びかけている問題について、エッセイストの師岡カリーマ氏は、12月18日の東京新聞コラムに次のように書いている; 米国などが北京冬季五輪の外交ボイコットを決めた。ウイグルのイスラム教徒に対する人権侵害などが理由とされる。ウイグル民族に対する中国の行為は、ジェノサイドに匹敵するという。 イスラム教徒の人権がこれほど大事にされるとは、奇妙な時代だ。信者だというだけで米国に拘束され、テロ容疑者と一緒にグアンタナモ基地で虐待された男たちの傷がまだ癒えぬうちに、この変わり身の鮮やかさ。ついでにパレスチナのイスラム教徒のことも思い出して欲しいものだ。ガザ地区などに対するイスラエルの政策も、欧米の一部人権団体から「一種のジェノサイド」と非難されている。それを黙認して中国にイスラム教徒の人権を説いても、ご都合主義にしか見えない。 日本もボイコット参加を検討中らしい。一方、国際司法裁判所が「ジェノサイド」と呼んだ、ミャンマーにおけるイスラム教徒の少数民族ロヒンギャ迫害に関し、日本がミャンマーに制裁を科したという話は聞かない。第一、入管の収容施設や技能実習生の人権侵害を挙げて反論されたらあまり格好がつかない。 やりたい放題の中国に五輪開催の資格がないのは同感だ。ボイコットも結構だし、賛同する自民党保守派が、中国との違いを明白にするために嫌でも必要な政策として、例外も優劣も差別もなく人権第一を実践するならなお結構だ。(文筆家)2021年12月18日 東京新聞朝刊 11版 25ページ 「本音のコラム-ご都合主義な人権擁護」から引用 この記事が述べるように、アメリカが中国の人権問題を理由に冬季五輪ボイコットを呼びかけている姿には私も、大いに疑問を感じます。中国はウイグル地区にロケット弾を撃ち込んで「人権抑圧」の手段に出ているわけではないのだから、アメリカがそんなに人権問題に敏感に反応するのであれば、先ずはイスラエルのパレスチナ侵略をこそ止めさせるべきである。アメリカが中国に嫌がらせをする本当の理由は、アメリカ流の資本主義がだんだん落ち目になってきて、まだこの先10年くらいは世界のトップの座を占めてはいるかも知れないが、その先は間違いなくその座を中国に譲り渡さざるを得ない時代が来るからで、その「時」を一年でも先送りしたい一心で一生懸命中国に嫌がらせをしてますが、そんなものは時代の流れには勝てない虚しい作業だと、私は思います。
2022年01月02日
熊本の県立高校100周年を記念する式典に招かれた某大学学長が「かつて日本はアジア解放のために正しい戦争をした」などという虚偽のスピーチをしたことについて、前文科官僚の前川喜平氏は12月12日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 10月8日、熊本県立御船高校100周年記念式典で講演した西川京子九州国際大学学長が「日本はアジア解放のための正しい戦争をやった」という趣旨の発言をした。報道によると、式典は同窓会などによる実行委員会の主催だったが、学校は全校生徒にこの講演を聴かせていた。 12月9日の熊本県議会で教育長は「政府見解や学習指導要領とは異なる内容があった」と認めた。確かに西川氏の発言は1995年の村山談話に反するし、「戦争を防止し、平和で民主的な国際社会を実現することが重要な課題である」とする学習指導要領にも反する。しかしより根本的な問題は、西川氏の発言が歴史学という学問の成果に反していることと日本国憲法の平和主義の精神に反していることだ。 学校ではこのような講演を不用意に全校生徒に聴かせた過失に気づいたのだろう。事後に教師が授業の中で「様々な歴史観がある」と伝えたという。最低限の応急措置だがそれでは不十分だ。そのような歴史観を否定する歴史学をしっかりと学ぶ機会も作るべきだ。 ただし、元衆議院議員で文部科学副大臣も務めた西川氏のような人物がこのような問題のある歴史観を抱いているという事実を生徒たちが知っておくことは悪いことではない。同類の政治家は現に権力の中枢に沢山いるのだから。(現代教育行政研究会代表)2021年12月12日 東京新聞朝刊 11版 25ページ 「本音のコラム-西川京子氏の戦争賛美」から引用 仮にも大学を名乗る組織であれば、学問の成果を無視してそれと矛盾することをその大学のトップを務める者が公の場で話すなど、あるまじき行為である。かつて日本軍が真珠湾を奇襲する数時間前に、別の部隊が東南アジアへの攻撃を開始しており、西欧諸国の植民地支配から日本による支配へ変更することによって、アメリカからの輸入を絶たれた石油を確保するのが目的であって、「植民地解放」などということは全く考慮の外であったことは、当時の政府や軍部が残した記録からも明らかことです。「国際大学」を名乗る大学のトップがそのようなデタラメな発言をするようでは、その内実はとても国際社会では相手にしてもらえないような程度の大学なのだろうと思います。
2022年01月01日
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