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国会議員がSNSで性暴力被害者を誹謗中傷する投稿に「いいね」を意思表示する行為は被害者の名誉を棄損するという判決が確定したと、10日の東京新聞が報道している; 性暴力被害を公表したジャーナリスト伊藤詩織さん(34)が、自身を中傷するツイツター(現X)の投稿に「いいね」を押され名誉感情を傷つけられたとして、自民党の杉田水脈衆院議員(56)に220万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(安浪亮介裁判長)は、杉田氏側の上告を棄却する決定をした。8日付。「いいね」を押す行為を違法と認め、55万円の支払いを命じた東京高裁判決が確定した。 交流サイト(SNS)の投稿への「いいね」を巡る違法性が争われ、最高裁で確定するのは初めて。 伊藤さんは性暴力被害やSNS上の誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を巡って複数の民事訴訟を起こしたが、杉田氏の上告を棄却した今回の最高裁決定ですべての訴訟が終結した。 一、二審判決によると、杉田氏は2018年6~7月、元TBS記者の男性から性暴力被害を受けたと訴える伊藤さんを「枕営業の失敗」「売名行為」などと中傷する第3者の投稿25件に「いいね」を押した。 二審判決は、杉田氏が以前から伊藤さんへの揶揄(やゆ)や非難を繰り返していた経緯などから「侮辱する内容のツイートを利用し、積極的に名誉感情を害する意図があった」と認定。請求を棄却した一審東京地裁判決を変更し、伊藤さん側が逆転勝訴した。 伊藤さんは15年、元記者から性暴力を受けたとして被害届を提出した。警視庁が準ごう姦(当時)容疑で元記者の逮捕状を取ったが、刑事部長の指示で逮捕は見送られ、書類送検。東京地検が嫌疑不十分で不起訴とした。 元記者を訴えた民事訴訟では、性暴力被害を認定し、約330万円の支払いを命じる判決が22年7月に確定。性暴力被害は虚偽だとするSNSの投稿や転載をした漫画家らにも賠償を命じる判決が確定している。(太田理英子)2024年2月10日 東京新聞朝刊 12版 24ページ 「杉田氏の賠償命令確定」から引用 この記事は字数が少ないので、ことの顛末を詳細に把握するのは困難であるが、性暴力の被害者である伊藤氏を誹謗中傷する投稿をした25名は当然、名誉棄損で有罪判決を受けた上で、それらの誹謗中傷の投稿に「いいね」を押した国会議員である杉田氏も、公人としての影響力を考慮すると被害者の伊藤氏に損害賠償として相応の金品を支払え、との判決が出たということのようです。このようにして社会正義が実現できたのは良かったと思います。
2024年02月29日
前橋市の市長選挙では立憲民主党が応援した野党系候補が勝利したのに、京都市長の選挙では自民党推薦の候補を応援した立憲民主党の態度を、文芸評論家の斎藤美奈子氏は7日の東京新聞コラムで、次のように批判している; 4日の前橋市長選で、4期目をめざす自公推薦の現職を破り、野党系の元県議・小川晶候補が当選した。保守王国でのまさかの快挙だった。 一方、同日の京都市長選では新人2人のデッドヒートの末、与野党が推薦する松井孝治候補が、市民グループの推薦と共産党の支援を受けた福山和人候補を制した。 2つの選挙は似ているようで少し違う。前橋市の場合は与野党の対決に野党系が勝った形だ。 京都市の構図はやや複雑だ。本命の松井候補は元民主党の参院議員で、立民、自民、公明が推していた。与野党相乗りになったのは維新対策だったかもしれない。ところが告示直前に、維新推薦候補の「架空の政治資金パーティー開催」疑惑が発覚、維新は推薦を取り消し、国民民主は松井候補に乗り換えた。 こうして浮上したのが穴馬の福山候補だ。松井氏との対決を「非共産対共産」と書いた新聞もあったが、福山氏は共産というより市民派の弁護士だ。これは「既成政党対市民派」の戦いで、弱小の市民派が与野党軍団を追い詰めたのだ。 となると疑問なのは立民の立場である。前橋では自公と対決し、京都では自公と手を結ぶ。裏の事情があったにしてもダサい。前橋で小川氏が勝ったのも市民の力が大きい。泉代表は次期衆院選で政権交代をと宣言したが、今のままでは無理だろう。(文芸評論家)2024年2月7日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-前橋と京都の乱」から引用 京都市長選で与野党相乗りの松井候補の当選が報道されたとき、有田芳生前議員は「京都で立憲が自公候補を応援したのは『維新対策』だということを、もっとしっかり説明しておくべきだった」とXに投稿していたが、まあ、今にして思えば、いくら「維新対策」でもあんなに裏金問題で支持率を落としている自民党推薦の候補を応援するべきではなかった。政倫審を非公開でやるのはおかしいと追及するくらいの迫力があって、「維新候補の当選を実現させてはまずいが、自民党候補も同じくらいにまずい」という合理的「判断」があれば、ここは無名候補ではあるが「市民派」を応援するべきだ、という判断に至るのが「健全野党」のあるべき姿ではないかと思います。立憲民主党が、もっとプロの政治家集団としての力量を獲得することを切に望みます。
2024年02月28日
昨日まで連日この欄に引用してきた山元研二氏のインタビュー記事の最終段では、山元氏の積極的な授業への取り組みについて、教育委員会や町議会、県議会から横やりが入ったこと、同僚教師や生徒の反応等々について、実に冷静で率直な見方・考え方を表明している;■臆するところは何もない――近年、教育内容への介入も強まり、こうした授業実践にはさまざまな攻撃などもあったと思いますが、いかがでしたでしょうか。 【問題なのは現場教師たちの委縮】 特攻をテーマにやれることはたくさんある気がします。8月下旬に全国社会科教育学会の、日韓交流研修が鹿児島であって、それの一つのテーマが、「特攻はなぜ語りにくいか」でした。私にも2、3時間のインタビューがあったのですが、私は教えにくいと思っていないので、なぜそんな難しく考えるかと、最初から最後まで思っていました。 問題なのは現場の教師たちが委縮することです。私は2度県教委から「偏向教育」で事情聴取を受けました。1回目は原発で、こういう危険性があると指摘しただけでした。チェルノブイリ事故の直後、伊方原発が出力調整実験をするときで、もし失敗したらこういう被害が起きると授業で言っただけで、それが「子どもたちに不安を煽っている。危険性だけを指摘した」と言われました。それが「偏向教育」だと、県教委から事情聴取を受けたのです。何十回も呼ばれましたが、もちろん処分はされませんでした。 2回目は日本軍「慰安婦」で、1997年、中学教科書に記述されることが決まっていた時期です。河野洋平官房長官談話も出て、政府が公式に国の関与を認めた。だから「慰安婦」の授業をしたのですが、藤岡信勝氏たちが動き出し、「慰安婦問題などというのは、日本人を嫌いになる教材だから、そういうものを教えるべきでない」という人も出てきた。中学生に、「君たちはそういうのを教わりたいか、教わりたくないか」と聞いたのです。すると、90%以上は「ちゃんと教えてほしい」と言う。にもかかわらず、それが議会で取り上げられて、「まだ教科書にも載っていないのに、早まって実践しようとするけしからん教師がいる」と県議会でも町議会でも話題になったのです。私はまた事情聴取を受けることになった。 まわりの教師たちはそういうものを見て委縮するのです。事情聴取は犯罪者扱いですから面倒です。すぐ校長室に呼びつけられます。私は、直接教育委員会に行くと言ったこともあるのですが、それは許さない。彼らのシステムがあって、校長が聞いたことを上に上げて、市教委からさらに県教委に上がっていく。それを頑なに守るのです。そういう姿を見ていると、触れない方がいいとなるのです。だから、「教えにくい」ではなく、「教えなくなる」のです。 よく「学習指導要領からの逸脱」と言いますが、指導要領は教科書以外のことを教えてはダメと言っているわけではありません。むしろ、私など授業では常に学習指導要領に則ってしゃべっていると思います。今の教師たちは、教科書から逸脱することが怖くなっている。近所に基地があったって、近所に戦災の話があっても、教科書になければしないのです。 しかし、教科書は最大公約数でしかない。その地域、地域で素材があれば扱えばいい、戦後の社会科は身近なことから社会についてを考えようというところから始まったのです。それがだんだんと国家主導になっていった。そういう意味で、足元で考えるということをしなくなっています。ここはよくないと思います。 人の命とか尊厳とか、そういうところを根っこにした、戦争の語り方とか、安保の語り方がされなくなってきている。そこに踏み込もうとすると、圧力が怖いという感じになってきている。しかし、実は圧力などたいしたことないのです。私は、処分されたことはありませんし、むしろ、今までやってきたことの積み重ねで、大学に就職させてもらっているし、研究、学問的なところで認めてもらっています。臆するところは何もないのです。 【命と人権の大事さを教育で考えたい】 実は、私の特攻の授業実践には、教育研究の仲間からもさまざまな批判もありました。研究会で報告したとき、尊敬する大先輩から批判を受けたのは、「特攻の兵士の心情に迫れていない」ということでした。もちろん心情に迫る努力はやらないといけませんが、正直なところ、それを実感するのは無理かもしれないとも思っています。 それでも、特攻について、語ることは大事だと思っています。兵士たちはやはり悔しかったと思います。彼らの多くは、学徒兵で、それまで勉強していたのです。戦前の日本の大学や学問はダブルスタンダードで、一方で軍国主義、皇国史観が大きな枠としてありますが、その一方で学生たちは高等教育機関において普通に世界標準の学問を勉強していた。勉強していれば、科学的にどうかという点で気づくことがたくさんあるはずです。上原良司は自分は自由主義者だと、権威主義的な国は必ず滅びるとわかっているわけです。しかし、わかっていて死なないといけない。そこは、私は一番辛いと思います。 岩井先生も、兄の忠正さんとこの戦争はおかしいと語り合っていたわけです。でも岩井先生の言葉を借りれば、「死に場所」を探していた。海軍でこのまま航海士になって戦艦に乗れば、一番危険な艦橋で死ぬことになる。それよりは「同じ死ぬならいっそのこと体当たりして敵に確実な打撃をあたえる方がよいのではないか」という最悪の選択です。 私は、学徒出陣の神宮の行進の映像で、顔がアップされるのを見るたびに、本当は辛いだろうなと思います。もちろんそれを言うと、「庶民はとっくに戦場に送られて、ひどい目に遭っている」と言われます。ただ、地域の人たちに聞き取りをすると、よく「あの若い子たちがね」と言われます。鹿児島の田舎では、予科練の人たちを家に泊めたりしていたのです。甑島と種子島では、一般の家で、小さい子を疎開に出した分、予科練の兵隊を受け入れたりしていた。16、17ぐらいの今の高校生の年齢でした。 私が今教えている学生が、18歳から22歳です。この子たちを送り出したのかと考えるわけです。岩井先生も言っておられましたが、「大学への未練、学問への未練があった」というその気持ちはわかります。その辛さや怒りは昔話ではないと思うのです。ウクライナの兵士たちも、ベトナム戦争のときのアメリカの兵隊たちも、同じように思ったはずです。しかもそれは国や政府や軍の勝手でおこなわれる。それで個人の命が弄(もてあそ)ばれる。なによりも命と人権が大事なのだということを、ハンセン病であれ、「慰安婦」であれ、様々な事例をとおして教育で考えたい。■若者たち大人たちと共有したいこと――「新しい戦前」とよばれ、日本の軍事化も急速にすすんでいます。この点はどのようにお考えですか。そういうもとで、「特攻」を含め、戦争の問題は、大人も含め、いましっかりした学びと議論が必要だと思います。そうした点ではどのようにお考えでしょうか。 【阻むためには憲法しかない】 ロシアによるウクライナへの侵略戦争が始まり、いまや世界は戦争の時代に突入したと言われています。そのときに往々として、ロシア対ウクライナという構図で見がちです。しかし、戦後日本が選んだ道は、個人が国家の犠牲になることを否定した道だったはずです。国家のために個人の命を犠牲にすることはやめようと平和憲法をつくったわけです。 私には李さんという韓国の友だちがいます。彼は、韓国人にとっては、日本のような平和憲法は採用できないと正直に言います。北朝鮮があり、徴兵の国として銃を取らないといけないと。李さんは、それでも日本の平和憲法に憧れると言います。彼はずっと日本の戦後民主主義とか平和憲法とか眩しい、いつかああなりたいと言ってきましたが、その日本が今こうなっているのは自称日本研究家としては辛いと言っています。 山東昭子参院議員は、ウクライナの様子を見て、日本も愛国心教育に力を入れないといけないと言っています。かつて日本赤軍による日航機ハイジャック事件のとき、福田首相は「人の命は地球より重い」と言いました。福田さん自身は夕力派ですが、日本の総理大臣がそういうことを言ってくれるのだと私は子ども心に嬉しかったのを覚えています。国際的には人質と交換したので批判を浴びたと思いますが、この国はそんな考えだと思って嬉しかったのです。しかし、その福田派よりもハ卜派の流れにあるはずの山東昭子氏が愛国心教育を言うわけです。 だからこそ、私は、特攻のことを、今の時代に忘れてもらったら困るという気持ちが強いのです。身近に特攻基地はたくさんある。私のところに史料を送ってくださる裹には、日本中津々浦々に特攻で亡くなった人たちがいたこと、生き残った人がいることを示しています。戦後「特攻崩れ」という言葉で白い目で見られることもあったし、生き残った負い目もある。辛い目に遭った記憶があるので、ほとんどしゃべらない。しゃべらないで済ませていいのか。まず、しゃべりにくい状況に置いてしまっていることを考えないといけない。 「新しい戦前」という言葉は、タモリさんの言葉ですが、ぴったりきます。少し前から、1930年代ぐらいによく似ているのではないかと言われてはいましたが、昭和の初めの軍国主義化していく流れは、モボ・モガの時代でもありました。先日、関東大震災のNHKスペシャルを見ましたけれど、震災前の街並みはすごくモダンで、近代的なビルが並んでいた。そんな時代と軍国主義化は並行して進んでいって、ある時ふと気づいたら、おかしくなっていたという時代です。そこに学ぶべきだと思います。 学術会議の問題も私はとても怖いと感じています。結局、産軍複合体をつくるためには学術会議がじゃまなわけです。日本の技術を軍事移転したり、海外への軍事供与に使いたいから、それに反対している学術会議はなんとかしないといけない。放送法も同じです。少し前に高市氏が、総務大臣時代に、放送法の政治的公平性についての新たな解釈について発言した内容が問題になりましたが、そうしたことへの批判は一度はおこなわれますが、すっと収まってしまい、問題が結局解決しないまま、忘れられていくだけです。そういう状況は変えないといけない。 その先にある、国が人の命を奪うということは防がないといけないし、今日本でそれを阻むためには憲法しかありません。そうしたことを特攻で思い起こしてほしいです。「英霊」ではなくて、新しい見方で思い起こしてほしい。 【学生たちと話していて思うこと】 ゼミの学生たちと話していて思うのですが、たしかに若い人たちは、戦争や社会のことなどを語ることをタブーとしている風潮はあります。「あなた意識高いね」と言われて場が白けてしまう。でも、「そういうことをしゃべりたいときはあるんじゃないの」と聞くと、「実はそうなのです」と答えます。「ここはゼミだから話そうよ」と言うとたくさんしゃべります。だから本当は語りたい部分があるのだと思います。 怖いのは、今は学生たちは情報元がユーチューブなどのネット媒体であることです。自分が見たい情報、得たい情報を探して見る。もちろん新聞などまったく見ません。だからニュースを知らないのです。自分で情報にたどり着かないことには、考えなくなってしまうという怖さがあるのです。 教科教育法の授業で、積極的に社会問題を伝えていくのですが、学生たちは嫌がっているわけではなく、むしろ、しっかり考えたいと思っている。私が、教師になった最初のころの中学生たちの反応と、今が違うかというとそうではない。若者の純粋さは失われていない気がするので、おとなの側が、教師の側がどういうふうに与えていくかだと思うのです。 実は、大学にうつる直前は、ちょうどロシアによるウクライナ侵攻が始まった時期でした。ある一見ツッパリ系の生徒が戦争を気にしていて、「先生、どうなるの」と聞いてきました。私の教師生活最後の授業は、いろいろ考えたけれど、結局ウクライナ戦争の授業をしました。そのなかで私は、「戦争にはならないと思う」と言ってしまいました。今考えると誤った判断でした。生徒たちは、ほんとうに真剣に考えていて、ゲーム感覚で面白がっている様子はなかったのです。むしろ「やばい」というものを感じていたと思います。 その「やばい」という感覚を、今、日本政府は利用しているのではないかという気がするのです。中国だ、北朝鮮だと煽る感じで、「ほら、同じことがこの国の周りで起きているよ。ぐずぐずしておられないよ。平和憲法なんかで大丈夫なのか」と仕向けてきている。かえって安倍元首相のような人が言うより、岸田首相のような人が言うのが危険であるようにも思います。時代状況はそんな気がします。 「やんなきゃいけないときは、やんなきゃいけない」という感覚で、持っていかれかねない。「そうなったらしようがない」「ここまできたら」というのは戦前と同じ発想です。5・15事件があり、2・26事件があり、「満洲国」もでき、日中戦争も引き戻せない状況がつくられていくと、国民の中に、「もう戻れない」という雰囲気がつくられていった気がします。今はまだできることはあると私は思います。 私の韓国の友人が言ったように、日本の平和憲法に憧れている人たちがたくさんいることはわかってほしい。「普通の国」とよく言いますが、日本がアメリカ、中国、ロシアのような国になってほしいと思っている国は少ないのではないか。あの戦争をきちんと反省して、戦争をしないという方針を立ててこそ日本は尊敬されるのではないか。日本はかつてのようなことはしないということを、周辺の国々にわかってもらう方が、日本のためになるのです。またそれしか道はないと思います。若者たちとも、大人たちとも、そうしたことを共有していきたいと私は思っています。(おわり)月刊「前衛」 2023年11月号 177ページ 「シリーズ 戦争と平和の岐路に問う-『新しい戦前』に『特攻』の経験から学ぶこと」から末尾を引用 ここに引用した記事の冒頭では、社会科の先生たちが「特攻は教えにくい」と発言し、山元先生は「なぜそんなに難しく考えるのか」と言っている。山元先生の場合は、戦争体験者の話をよく聞いて「どのような戦争だったか」自分なりに把握した上で生徒に説明するので、特に難しいことではない。しかし、他の先生たちの場合は、教科書には漠然とした記述しかないし、戦争体験者の話を聞いてその詳細を授業で生徒に説明などしたのでは、教育委員会や県議会からつるし上げを食らう、そんなリスクは避けたい。しかし、教員であるからには生徒に対し責任もあるし、せめて山元先生くらいの授業は生徒のためにして上げたい、というようなジレンマがあるのではないかと思います。そのジレンマを克服するには、大局に立って憲法と教育基本法を出発点として、過去の英霊神話と決別し、どのような戦争を私たちの祖先が経験したのか、事実を掘り起こし、後世の人々に伝える努力が必要と思います。第二、第三の「山元先生」が出てきて、健全な歴史観を持つ市民を育ててほしいと思います。
2024年02月27日
一昨日、昨日と連日引用した山元研二氏のインタビュー記事の続きは、中学校教員として生徒とともにフィールドワークの実践を重ね、かつて家族の一人が軍隊に招集されたときの様子を劇として上演することを通して生徒が戦争の実態を理解する様子を、次のように述べている;■どのように学びあったのか――実践をとおして、若者と戦争や「特攻」について学びあうとき、どんな工夫をされてきたのでしょうか。どんなことを大切にして実践されてきたでしょうか。 【劇-生徒に気持ちを体感させる】 私は授業で教えることとともに、劇にこだわっています。まず聞き取りをする。聞き取りをしてそれをシナリオに書く。劇なので、もちろん少しは創作を入れますが、8割方は事実です。それを子どもたちに演じさせると、当時の状況で子どもたちがわからない部分がでてきます。ある生徒は、今から死ににいくのにまわりの人たちが「万歳、万歳」と言う意味がわからないと言いました。そこで、生徒を集めてそのことについて教えたり、議論したりするわけです。 授業だけではたぶんそういう質問は出てこないと思います。自分がせりふを担当してしゃべると、その時代の雰囲気というものや、意味がわからないことが意識化されるわけです。それを、私は大事だと思うのです。体感する、その気持ちになる。母親の気持ちになって考えているとき、兄が特攻に行くとなったときの弟の気持ちになったときに、まわりはみんな「万歳、万歳」と言う。「おめでとう」と言われる。それはどういうことなのかと。 劇は、保護者も見に来ますが、地域の人も見に来るのです。甑島(こしきしま)がそうでしたが、地域の人たちが何十人も見に来て、「こういうことがありました」と思い出して泣くのです。タブーになってきたことがたくさんあるのです。なかなかそれは語れないでいたが、でも80歳を過ぎるぐらいになると、「もういいか。もうしゃべっていいか」と、しゃべってくれる人もいる。だから劇というのは一つの授業だと思うのです。 地域の人たちにも見てもらう。おじいちゃん、おばあちゃんたちにも見てもらって、そこからまた新しい事実が入ってきたりするのです。「先生、実はこういうこともあってね」というのも入ってくる。そういったやりとりを赴任した先々で一応やったつもりです。最初は知覧のもので、万世(南さつま市)のものもつくり、甑島のものもつくり、薩摩川内市の船間島のものもつくったし、やろうと思えばいろいろな場所でできると思います。 【フィールドワーク-現場を見る】 もう一つ重視をしたのがフィールドワークです。今も、社会科の教員養成の現場でも大事にしたいと思っていますが、教室のなかで語るのも大事ですが、教室を飛び出し、歴史の現場を見ることはとても重要な「学び」です。強制連行・強制労働の話をするのにも、今私が赴任している大学の近くにもその現場となった炭鉱があり、また慰霊碑もあるから見に行く。見に行って初めて感じることはたくさんあると思います。 南さつま市の中学に赴任していたとき、私は郷土研究会をつくりました。「郷土」と名がつけばたいがい管理職はオッケーしてくれます。自分としては、地域のフィールドワークなのですが、「地域」というといい顔はされません。「郷土」というと、彼らは喜ぶのです。 そこでフィールドワークです。そこで見たり経験したりしたことを文化祭で発表する。あるいは新聞につくって郵便局や役場に配って回る。そのなかに特攻の話もたくさん入れたのですが、そのほかにも子どもだちとともにオンボロなトーチカを見に行ったりしました。すると生徒たちは、「先生、僕はこのなかに入りたくない」と言います。コンクリートなんてほぼなくて、ほとんど石ころで、鉄筋にあたるところには竹が入っている。これでアメリカの機械化された武器と戦おうとしていたことがどれだけ無茶なことかはだれだってわかります。 特攻については、子どもたちはたいてい飛行機の特攻しか知りません。特攻には、ほかに「回天」「震洋」「海龍」「伏龍」など、さまざまなものがありました。鹿児島などでは「震洋」の基地は相当な数できていました。ものすごくたくさんの基地があるのに知らない。知覧が全部引き受けた形になっているのです。靖国神社がすべてそこを象徴しているような形で「英霊」神話になってしまっている。 震洋は、ベニア板でつくったモーターボートです。それに250キロ爆弾を乗せて、集団で海の上を敵艦に向かっていく。当然、相手から丸見えです。それで突っ込んでいく作戦ですから死ににいくようなものです。軍も命中率は最初から10分の1と想定していて、10分の9は失敗して死ぬことを前提にしている。実際はもっと低く、ほとんど成功することのない作戦で、無責任の極みだったのです。 生徒たちと、出水にも行ったし、鹿屋にも行ったし、足元には震洋の基地がたくさんある。「なぜここが震洋の基地になったと思う」と聞けば、「陰になっていて、敵から攻撃されにくい」「隠しやすい」とかわかるのです。「ここらあたりにたくさんあるのは、どうして」と聞くと、上陸地に近いことにも目が行く。オリンピック作戦とよばれた米軍の日本本土上陸作戦で、吹上浜に上陸しようとしていたこともわかってきます。 また、震洋の基地のあるところでは沖縄の「集団自決」(強制集団死)のように、「住民はOOに集まれ」という命令がどこにもあった話が聞けます。実は、私の母も種子島で指示を受けていたそうです。種子島の西之表のある地域、今空港があるあたりだと思いますが、最後はそこに集まれと言われたのです。みんな口々に「あそこで死ぬんだと思った」と言います。沖縄でもそうですが「集団自決」という命令書などあるはずがないのです。あっても絶対に残さない。でも、戦争のじゃまになるから、女、子どもを中心に老人もみなそこに集める。それは死ねということだとみんな思っていた。だから母も、「軍隊は島を守る気ない」と、そのときから思っていたそうです。最終的に天皇が住んでいる宮城を守るために、いかに時間稼ぎをするかだと感じていた。まだ母は元気ですが、今の南西諸島の基地の話になると、「ここでいかに時間を稼いで、本土の守りを固めるか、それだけの話よ」と冷めた感じで言います。 【継承すべきことはたくさんある】 教師として鹿児島のあちこちを異動して回りましたが、必ず特攻基地がありました。しかしどこでも、その事実はほとんど語られないのです。一つは兵士たちが引き揚げていっているので、しゃべる人がいないということがあります。しかし、見ていた人たちはいるし、そういう人に聞き取りに行けば、必ずしゃべってくれます。「うちの学校、その司令部でしたから」といった話がたくさんあり、これは掘り起こさなければという話もあります。しかし、放っておいたら消えていくだけです。 よく「特攻を語りにくい」「教えにくい」という言い方がされますが、語りにくい、教えにくいの前に、まず材料を自分たちがきちんとつくっていないのです。知覧に行って、そこで材料を探してくるから「英霊」の授業になってしまうわけですが、足元にはいくらでも材料はあり、足を運べばいくらでもしゃべってくれる。これはたぶん鹿児島だけではなく、あちこちでそうだと思います。心ある教師がいるところでは、その事実は掘り起こされるでしょうけれど、いなければなくなります。 よく「継承」ということが問題になります。兵士たちは亡くなって、直接話を聞けることはできなくなるかもしれませんが、埋もれている事実は後から後からどんどん出てきます。私たちは、それを明らかにしないといけない。関東大震災の朝鮮人虐殺の話でも、私も10年前には千葉県野田市の福田村事件などは知りませんでした。ああいう事件が100年たって映画になり、みんなに知れわたる。そういうことは、戦争に関することではたくさんあるのではないでしょうか。 私の恩師である岩井忠熊立命館大学名誉教授も、私たちの学生のころは特攻についての話をすることはほとんどありませんでした。晩年になって語り始めたわけです。浜園さんも、私の妻がまず聞きに行って、いろいろ語り始めて、それが教材になったり、本になったりし始めている。そういう作業は今からでもできるし、特攻兵士たちが亡くなってからも、やらないといけないと思います。 当人たちから聞くだけでなく、埋もれている事実を掘り起こしていく作業を続ければ、眠っていたものがどんどん出てくる。特攻もそういう要素がたくさんあると思います。実際、この本を出してから、いろいろな史料が私のところに送られてきます。同僚の地理学の教員が、「実はうちの父は鹿屋で整備兵をやっていたのに、特攻のことはほとんどしゃべらなかった」と言いながら、その父の戦友会の冊子を私にくださった。たぶん私に何か役に立つことがあればと託したのだと思います。こういう作業が大事だと思います。(つづく)月刊「前衛」 2023年11月号 177ページ 「シリーズ 戦争と平和の岐路に問う-『新しい戦前』に『特攻』の経験から学ぶこと」から一部を引用 ここに引用した記事の冒頭に出てくる「いまから死にに行くというのに、周りの人たちが『万歳、万歳』と言う意味が分からない」という中学生の発言は印象的です。これが幼いころから教育勅語を叩き込まれた世代であれば、天皇陛下をお守りするための軍人になって世の中の役に立つ立場になったのは目出度いと、そういう意味で「万歳」なのだと理解するわけで、それはまた、当時「万歳」を唱えた大人たち自身も本音では「今から死にに行くのに、万歳もないものだが・・・」と心の中では思っていても、それは口には出さずに、建前として「万歳」を唱えれば、周りもそれに調子を合わせる、そういう屈折した世の中だったということを、後世の我々は学ぶべきだと思います。また、この記事の後半で指摘されているように、社会科の先生たちは「特攻を教えにくい」と発言することが多いとのことですが、それは私たちの社会が明治維新以来の「侵略戦争」路線をしっかり反省していない証左だと思います。菅原道大やその他の元軍人が戦後に生き延びて、「英霊」神話をでっちあげることに暗躍した結果、靖国神社には極東軍事裁判で死刑判決を受け処刑された軍人や政治家が「英霊」として秘密裏に合祀され、そのことが発覚したその年から、昭和天皇もそれまでは続けていた靖国神社参拝を、それ以降は参拝しないことになったという「不祥事」だったわけで、戦争に対する反省の不徹底が反映した事象だと思います。
2024年02月26日
軍の上層部がどのようにして「特攻作戦」を始めたのか、「志願」の実態はどのようであったか、昨日の欄に引用した山元研二氏のインタビュー記事は、次のように報告している;■一人ひとりの命を語る――特攻の授業はどのようにすすめられるのでしょうか。たとえば「志願だった」「みんな喜んでいった」という言説などもくり返されていますが、これに対して、「特攻」について、どのように説明されたりするのでしょうか。 【元特攻兵士からの聞き取り】 「英霊」という大きな物語に対抗するためにはどうすればいいのか。大きな物語を崩すためには、一人ひとりの命を語っていくしかないと考えました。本当にみんな喜んで死んでいったのだろうかと、まず『きけわだつみのこえ』に向き合うことになりました。そこでは上原良司など特攻の兵士たちの本音が出てきます。 平和会館にある遺書は検閲を通したものです。なかには本音の人もいるかもしれませんが、すべて本音とは言えない。知覧には、「なでしこ隊」という女子学生たちの組織がありました。期間は短くほんの数力月ですが、特攻兵士の身の回りの世話をした知覧高女の女子学生だった前田要子さんに話を聞いたのですが、知覧の検閲された遺書には本音はないとズバリ言います。「あれは先生、書かされていますから。あれを本音だと思っちやダメです」と。 そこで、人に当たるしかないと思ったわけです。『きけわだつみのこえ』を読み、城山三郎さんの『指揮官たちの特攻』なども読み、そして浜園重義さんという実際に特攻に行った人の話を聞くなかで、特攻の実相が少しずつ見えてきたのです。 志願か強制かという問題も、浜圉さんは、「あの時代は志願しないなんて考えられなかった」「強制と一緒でしょう」と言っていました。○、△、×という印を用いてという言い方をするときもあるし、○、○、△というときもあり、どちらかわからないのですが、そういう形で志願をつのる。多くは志願せざるを得なかったが、断った人もいたのも事実です。しかし、その人も特攻に行かされた。説得されたのか、見せしめで行かされたのか、真実はわかりません。 浜園さん自身は、特攻を「ばかげた作戦だと思った」と言いました。そしていくつかのエピソードを語ってくれたのですが、そのなかには、出撃前に大西中将(瀧治郎、特攻の生みの親とされる)に向かって、腕利きのパイロットが「私は搭載した爆弾で、敵の輸送艦を2隻ぐらい沈める自信があります。それだけ沈めたら帰ってきていいですか」と言ったことに、大西中将が「死んでくれ」と言ったという話がありました。特攻が何を目的におこなわれたのかがよくわかる話だと思います。 そして作戦を考えた人たちに対しては強い怒りがあった。浜園さんが上官に対して「特攻に行くとき、大西を20ミリと13ミリで銃撃し、命中しなかったら、250キロ爆弾を投下して行く」と言ったことに、上官は「お前の言うことは当たり前であるが、この世界ではそれが通らないことが多いんだ」と言ったそうです。上官にそんなことを言えば、まず殴られると私たちは考えます。しかし、軍の人たちのなかには、不信感、怒りはたくさんあったのです。ところが、なぜそういう作戦になったのかは、知覧の特攻平和会館の展示では何も見えてこないのです。 浜園さんは出撃した後、引き返してきたわけですが、「英霊」の物語からすると、引き返してはいけないわけです。陸軍の場合は引き返してくると福岡につくられた振武寮に閉じ込められて、ひどい待遇を受けたとされています。海軍はそういうことはなかったようです。しかし、不時着したり引き返してきたりした人は当然いました。知覧特攻平和会館の学芸員の調査でもかなりの数です。半分とは言いませんが、少なくとも一割などという少ない数ではないはずです。 そういうところは平和会館の中では隠されています。教員たちが語る特攻の話にも、そういう話は出てこないのです。浜園さんは軍人として「これでは役に立たない」と思って帰ってきたわけですが、そういう1人の兵士の姿から、特攻作戦のおかしさが見えてきたという気がしました。 【特攻の指導者たちの戦後】 浜園さんは、天皇に対しても批判的で、何より上官に対しては許せないと批判しています。私は、指導者がどういう戦後を送ったかを知りたいと思い、陸軍で2人、海軍2人の指導者を調べました。 特攻の生みの親と言われている海軍の大西瀧治郎は、敗戦の玉音放送の翌日、遺書に「死を以て特攻の英霊に謝す」と書いて自決しました。しかし、彼が自決したことによって、彼に全責任を負わせ、ほかの指導者たちの責任が曖昧になっていったと思います。彼が生き残って多くの証言を残した方が、かえってよかったように思えてなりません。 陸軍中将で、フィリピンにおける特攻作戦を指揮した富永恭次はフィリピンにおけるマニラ戦の現場から、司令官であったにもかかわらず部下を戦場に置きざりにしたまま台湾に逃げています。戦後は、シベリアへ送られています。帰国後は多くを語らずすごしています。その息子は、戦争が終わる直前に特攻で亡くなっているのです。 海軍中将の宇垣纏(まとめ)は、部下を道連れにし、敗戦後の「私兵特攻」をおこなって死にました。しかも、玉音放送後に「未だ停戦命令に接せず」として、中津留達雄大尉などを引き連れて特攻したわけです。浜園さんは「行くのだったら一人で行くべき」と怒っていましたが、その事件は軍隊のなかでもすぐ広まっていて、浜圉さんたちの耳にも入っていたのです。戦争は終わったが、突っ込んでいこうという雰囲気は軍のなかではあったようですが、浜園さんたちは、そんなバカなことはやめようと言い合っていた。にもかかわらず指導者がそれを実行した。 陸軍中将の菅原道大(みちおお)は陸軍の特攻作戦を指揮した人物です。この人が戦後の「英霊」化の道をつくったのです。彼も、敗戦後、特攻で死ぬと言っていて、出撃用の航空機まで用意していたのですが、その後、私の仕事は別にあると態度をあらため、「特攻を知る私こそが、特攻精神の継承、顕彰をおこなうべき」と、「英霊」化をすすめる活動をしています。特攻隊の遺品を巣めて、知覧の特攻平和会館の礎をつくったのは彼なのです。最初は「遺品館」といって、展示しだのは写真と遺書だけでした。隣は護国神社ですから、そうやって国の「英霊」としての形をつくった。彼は遺族に対して「どうしてご主人は特攻なんかに志願したのでしょうか」と言って、顰蹙(ひんしゅく)を買ったという話も残っています。 この指導者たちの責任も、許せないと私は思います。これを授業で扱うかどうかは別として、教師は事実としては頭に入れておかないといけない。 いずれにしても、「英霊」神話でつくられた大きな物語に対しては、こういう一人ひとりの兵士の事実を積み重ねていき、語るしかありません。現実というのはそこにある。「喜んで死んでいった」という言説に対しては、姿を具体的に語っていくしかないし、「志願だった」というのも、追い込まれた状況だったことを想像する必要があります。そして、それは中学生であれば受けとめることのできることだと思います。(つづく)月刊「前衛」 2023年11月号 177ページ 「シリーズ 戦争と平和の岐路に問う-『新しい戦前』に『特攻』の経験から学ぶこと」から一部を引用 この記事で山元氏が主張するように、私たちは戦争の当事者が敗戦した後も尚、自分たちの行動を美化した「英霊神話」を安易に受け入れて、それが真実であるかのように思い込むのではいけないと思います。あの戦争は祖国を守るための戦争だったのではなく、明治政府発足以来の海外膨張政策の挙句の近隣諸国侵略であったことを先ずは反省し、300万同胞の命を失ったのみならず、2000万のアジアの人々の命を奪ったという事実を自覚し、二度と戦争はしないと憲法に誓ったことを、私たちは新たな歴史の出発点とするべきであり、戦争当事者の不十分な反省の元に建設された「平和館」は、遠くない将来に平和憲法の思想に則った展示内容に改編し、間違っても母親が幼子に「あなたも、こういう人になりなさい」などと恐ろしいことを吹き込むようなことのないようにしたいものでございます。
2024年02月25日
鹿児島県の中学校で社会科を教える教員として勤務し、定年後は北海道教育大学准教授として研究教育活動に就いている山元研二氏が、昨年秋の共産党機関誌「前衛」11月号に、次のように書いている;■なぜ「特攻」を教えるのか――山元さんは「特攻」をテーマにした授業を実践されてきて、それについて『「特攻」を子どもにどう教えるか』(高文研)も刊行されています。なぜ、「特攻」を教材とした授業をやるようになったのでしょうか。それがどう大事だとお考えでしょうか、といったところからお話しください。 【「英霊」という語り方への疑問】 私は、鹿児島で35年間、中学校で社会科を教えてきました。鹿児島の学校で特攻を扱うことは珍しいことではありません。長崎に原爆があるように、沖縄に沖縄戦があるように、鹿児島の先生たちは鹿児島で平和を教えるには特攻ではないかと思っています。私もいろいろやりましたが、文化祭で劇をやっている学校が多いようです。 ただ、私は、「特攻」の語り方がずっと気になってはいました。私か本に書いたように、全国的に見ても道徳の授業でとりあげる人たちが多いのです。それは「英霊」という語り方です。悲劇として伝え、「この人たちがいたから今の私たちの平和がある」という「英霊」の教え方が主流なのです。 知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)ができてから、それがさらにすすんでいます。平和会館に入ると正面に絵が飾ってあります。天女が降りてきて兵士を天国に連れていくという絵です。まさに「英霊」で、この絵がすべてを語っています。鹿児島では、教える中身は、この知覧特攻平和会館に任せきりで、丸投げしていることが多いと思われます。知覧の側もよく心得たもので、平和会館として教材資料をつくっています。ダウンロードしてそのまま使えるようになっています。 しかし、その資料は「なぜ戦争になったの? 世界の情勢から考えてみよう」とのテーマで、ABCD包囲網から始まるのです。これだけ外国に包囲されて、追い込まれた日本が戦争をやらざるを得なくなったというところからスタートする。すると、日本の戦争はしかたがなかったとなります。明治以降の日本の大陸膨張政策、侵略の道筋などはまったく見えないことになってしまいます。だから問題なのです。その最後の結晶が特攻です。その延長に今の平和があるという教え方なのです。 私は、かつて中学の生徒たちをつれて遠足に行ったときに見た場面が忘れられません。5歳ぐらいの子どもに向かって、若いお母さんが「あなたも、この人たちみたいな勇気を持たないとね」と言っていた。それも子どものためを思って言っているような言い方でした。 その後、中学生を集めて、戦闘機を前にして語り部が語るのです。そのときに「誰一人行きたくないなどという人間はいなかった。みんなが喜んで行ったのだ」と言う。今も強烈に印象に残っています。語り部が今もそう言っているかはわかりませんが、そのころ知覧特攻平和会館を訪ねた仲間の教員たちが、みんなそこに違和感をもっていたので、当時は間違いなくそう言っていたと思います。 戦争は国家が個人の命を奪うことが一番の問題点です。特攻はその最も極端な例で、死ぬことが前提になっています。これを軍の作戦、国家の作戦の一部としてやったことは、世界でも例を見ないことなのです。国のために命を捧げることが前提になっている。それが「英霊」の大きな物語になってしまうのです。 【負の歴史を掘り起こす意義】 私は、特攻のほかにも、戦後補償や日本軍「慰安婦」、ハンセン病問題など社会問題の暗部をとりあげた授業をしていました。よく若い先生たちから「どうしてそうダークなことにこだわるのですか」と言われます。教育学の世界では「ディフィカルト・ヒストリー」というらしいのですが、困難な負の歴史を扱ってきた。それは、そういう歴史は掘り起こさないと消えてしまうからです。ナショナル・ヒストリーでは語られない、国家の歴史ではまずふれられない内容なのです。私たちがナショナル・ヒストリーに足りない部分、対抗するものをつくっていかないことには、本当のヒストリー、歴史は消え去ってしまう。そこに意義があるのだろうと思います。 しかし、違う教え方をする教師もいます。ある学校に赴任したとき、私の前任者は、子どもたちにはっきりと「国のため亡命を捧げられる人間になれ」と言ったらしいのです。そして、その通り一人は中学を卒業してそのまま自衛隊に入隊したのです。それは本人の選択かもしれないけれど、教師が間違いなく影響を与えています。 やはり私が赴任した鹿児島市内のある中学校は、生徒たちを職場体験の一環として自衛隊に体験入学に送り出していました。何の目的かと問いただすと、規律を学び、生徒指導上も有意義だというのです。ところが、その職場体験が自衛隊の広報誌の表紙になったのです。私はそれを持ってきて、「先生たちわかっていますか、なぜ自衛隊の広報誌にうちの学校の取り組みが載るか。珍しいからです」と言いました。職業体験として送り出していますが、そこでは、自衛隊の訓練を疑似体験をさせ、自衛隊車両にも乗せる。面白い経験をするから、子どもは喜んで帰ってきます。でも学校が子どもたちに教育の一環として、そういうことをしていいのでしょうか。反対をしたのは私しかいなかったのですが、あまりうるさくいったことが功を奏したのか次の年はなくなりました。 鹿屋基地はかつて、神風特攻隊の出撃基地だったことで有名です。私たちの常識としては、自衛隊は旧日本軍とは切れているということを前面に出すべきだと思いますが、鹿屋基地は、帝国海軍時代から現在の海上自衛隊に至る連続性を誇りにした鹿屋航空基地史料館が開設されており、館周辺には帝国海軍の飛行艇なども展示されています。教育施設として、その連続性を意識してつくられているのです。 その鹿屋の特攻基地は、実は見捨てられた基地でもあるのです。戦況が悪くなってくると、鹿屋の特攻隊は大分に後退しています。特攻基地はだいたいが、「街を守る」と言ってやってきます。住民は、特攻基地があるから、飛行場があるから、われわれを守ってくれると受け入れるわけです。ところが戦況悪化で引き揚げていったわけですから、送別会をやった際には、地元の人たちは誰も参加していなかったそうです。しかし、そういう歴史もまったく語られないのです。(つづく)月刊「前衛」 2023年11月号 177ページ 「シリーズ 戦争と平和の岐路に問う-『新しい戦前』に『特攻』の経験から学ぶこと」から冒頭部分を引用 鹿児島の知覧特攻平和会館と聞いて思い出すのは、ある週刊誌の読者会に出席して話しているときに、一人の参加者が、鹿児島へ行く用事があって出かけたついでに知覧の特攻平和館を見学してきた、と発言したのを聞いて、私は「平和館と称していても、頭に『特攻』とつけたのでは軍国主義を称賛するような印象を受ける」と疑問を表明しました。すると、その彼は「自分が行って見た感想としては、決して軍国主義を称揚するような雰囲気は感じられず、過去にあった不幸な出来事を忘れないように、との意図だったように感じた」というような発言をしていました。それにしても、現代の若い母親が幼子に「あなたも、この人たちのように勇気を持たないとね」などと発言するのは、衝撃的です。鹿児島県では、どのような平和教育をしてきているのか、大きな疑問を感じます。「特攻隊があのように頑張ってくれたから、今の日本がある」というのは虚構です。天皇が統治する国家体制と帝国陸海軍、特攻隊を含めた全ての戦前体制が全力を挙げて戦って敗北した後で、GHQ主導の戦後体制が構築されたという「史実」が「出発点」であることを胡麻化してはいけないと思います。
2024年02月24日
去年は民族差別の発言を2カ所の地方裁判所から指摘された自民党の杉田水脈議員は、今度は朝鮮人労働者追悼碑を「うそのモニュメントだ」などとデマを煽る発言をXに投稿した、と4日の東京新聞が報道している;◆今度は朝鮮人追悼碑「日本に必要ない」 自民党の杉田水脈衆院議員は3日付のX(旧ツイッター)投稿で、過去の教訓を伝える各地の朝∧鮮人労働者追悼碑を取り上げて「うそのモニュメントは日本に必要ありません」と書き込んだ。県立公園の追悼碑撤去に踏み切った群馬県(山本一太知事)の動きに呼応している。歴史修正主義やレイシズム(人種差別主義)をあおる言説で、強い批判を招きそうだ。◆撤去の群馬県に同調の投稿 投稿で杉田氏は、群馬県が追悼碑撤去工事を終えたと伝える新聞記事を引用し「本当に良かったです」と強調。「日本国内にある慰安婦や朝鮮半島出身労働者に関する碑や像もこれに続いてほしい」と訴えた。所在地の自治体や住民は群馬県を見習い、撤去に動くべきだとの趣旨。 群馬県の碑撤去を巡っては、犠牲者と朝鮮民族への冒涜であり、負の歴史を否定する恥ずべき行為だとして、反対運動が起きていた。県は現場の公園を閉鎖し、2日までに取り壊した。碑には「記憶、反省そして友好」と刻まれていた。 杉田氏は投稿で「京都にある徴用工像」の画像も添付。「私有地ということで、撤去できない状態」「こちらも早く撤去できればいいのですが」などと記した。 これまでにも杉田氏は在日コリアンとアイヌ民族を巡り「同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」などとする差別的言動を繰り返しており、札幌と大阪の両法務局から人権侵犯認定されている。◆「放置する党変革を」大阪で集会 杉田衆院議員による在日コリアンやアイヌ民族への差別発言が法務局から「人権侵犯」と認定された問題を考える集会が3日、大阪市で開かれた。被害者や弁護士らは、認定を評価した上で「差別者を放置する自民党や社会の変革を求める。差別を禁止する法制度が必要だ」と訴えた。 札幌法務局に被害申告したアイヌ女性団体「メノコモシモシ」の多原良子代表は、杉田氏の言動が元で、インターネット上に658件ものヘイトスピーチが書き込まれ苦しんだと振り返った。「人権侵犯認定され、この国にまだ正義があったと感激した。しかし杉田氏は反省していない」と限界を指摘した。 ヘイト問題に詳しい師岡康子弁護士は「政府機関が公人の発言を人権侵犯と認めたことは大きいが、強制力がなく中途半端な制度だ」と述べ、日本の法制度が国際人権基準に達していないと強調した。 「多原さんら被害者が被害申告や裁判を起こすのは負担が大きい。差別禁止法を制定し、独立した国内人権機関が人権侵犯を判断する制度が必要だ」と述べた。 集会は「アジア・太平洋人権情報センター」(ヒューライツ大阪)などが主催した。2024年2月4日 東京新聞朝刊 12版 22ページ 「懲りぬ杉田氏、動かぬ自民」から引用 杉田水脈議員は、数年前にはLGBTQを差別する記事を大手出版社の月刊誌に投稿して物議を醸した挙句、当該雑誌を事実上の廃刊にしてしまった人物で、時々このような騒ぎを起こして世間の注目を浴びるようにしておかないと、次の選挙は危ないという「自覚」があっての行動と思われます。政権与党が健全でまともな政党であれば、このような人物には相応の懲罰を課して反省を促すとか、似たような事件を起こさないための対策を講じるものであるが、自民党はいま、幹部議員が長年にわたる不正な裏金問題で右往左往しており、とても公党に相応しい行動を期待できる状況ではありません。今の自民党は、杉田水脈のような議員に面白がって投票するような、本来あるまじき「投票」もあてにしなければ政権維持が出来ないという事態で、与党の立場を維持する上でピンチに立っている。したがって、本来であれば、このような状況は野党にとって千載一遇のチャンスのはずなのに、そのチャンスを生かすことが出来ない野党の力量のなさ、センスのなさが、この国にとって大きな不幸であることを示しています。
2024年02月23日
ウクライナの紛争について、元外交官の佐藤優氏は6日の朝日新聞でインタビューに応えて次のように述べている; 約2年前、ロシアがウクライナに侵攻し、日本でもにわかに関心が高まったが、様々な角度から成熟した議論をかわすのは案外難しい。主権を踏みにじられたウクライナへの同情的な声が圧倒的な中、即時停戦の必要性を説く作家で元外交官の佐藤優さんに話を聞いた。――開戦から2年。祖国を守るウクライナに対する支援の機運が最近は変わってきたように感じます。「世論や西側の対応は現実的になってきました。『ウクライナの必勝を確信する』と頑張っていた軍事専門家と称する人たちも、ウクライナの苦戦で、どのラインで戦争を終わらせるべきなのか苦慮している。でも私に言わせると当初から明白な話じゃないかと」――この間、即時停戦を言いにくい雰囲気を感じていましたか。「言いにくいのは確かでした。でも早くやめないと、ウクライナの黒海に面した領域が全部ロシアにとられる可能性がある。米国の軍事支援が先細り、ウクライナは完全に弾切れを起こしています」「今秋の米大統領選でトランプ前大統領が当選するような事態になれば、完全にはしごを外された形になる。ロシアは手加減しないでしょう。だから早く停戦に持っていかないと」――それは可能ですか。「変化が起きるとしたらウクライナの中からでしょう。ゼレンスキー政権である限り無理です。彼は4州だけでなくクリミアまでの解放を勝敗ラインにした。それを達成できないと敗北を認めたことになります」◆欠けていた戦争のリアリティー――日本の報道や世論をどう見ますか。「日本人は、この戦争についての報道を見て語る中で、熱気に包まれてしまった。でも、しょせん他人事だったのだと思います。戦争のリアリティーが欠如していた。ただ、ここから学ばなければならないのは、戦争での憎しみというものが我々にも感染してしまうと、我々の目も曇って、戦争をする心に同化してしまいやすいことです」――ウクライナは勝たなければならないとの意識が現実との乖離(かいり)を生んだと。「そう思います。今は少し冷静になってきた。ウクライナが目標を達成できないことは相当の人がわかってきている。ならば一刻も早くこの戦争をやめるところに行くべきですが、そこはなかなかメディアが踏み込まない。今まで、さんざんあおってきたからです」◆変わったロシアの目標――そもそも、この戦争をどう見ますか。「これは2期に分かれると思います。境目は2022年9月30日にロシアがウクライナ東部ドネツク州など4州の併合を宣言したこと。それまでロシア側は、ウクライナ東部に住むロシア系住民の処遇をめぐる地域紛争との主張でした。他方、西側連合の考え方は民主主義対独裁。その意味で非対称な戦争でした」「ところが4州併合によってロシアの目標があいまいになってしまった。と同時に双方が価値観戦争にしてしまった。終わりなき戦いです、価値観戦争は」「一方で、プーチン大統領は勝敗ラインを明確にしなくなった。実効支配の領域が開戦時より少しでも多ければ、当初目的は達成できたという形でいつでも停戦できるということです。率直に言ってこれは予測していませんでした」――戦争が長期化した背景をどう見ますか。「ロシアの行為は国際法違反で、厳しく非難されるべきです。ただ、ロシアが侵攻を決めたのは、米国の影響力低下で国際秩序が変動しているという要素もあったと思います。米国が直接的に軍事行動を取ると宣言していれば、ロシアは侵攻しなかったと思います」「長期化の背景には、力を付けて言うことを聞かなくなったプーチン政権に対する米国の強いいらだちがあります。核戦争に発展しないよう戦争を管理しつつ、ウクライナへの軍事支援によってロシアを弱体化するのが米国の戦略的目的になっています」「ウクライナの人々のためにもならない戦争です。もし自由と民主主義がそれだけ大切だったら、それは戦争を自分たちでやらないと。自分たちの価値観のために『お前たち戦え』と言って兵器だけ出すのは、モラル的におかしい」◆日本、和平交渉で大きなカード――日本の立ち位置は。「昨年9月の国連演説で外交政策を大きく転換しています。『イデオロギーや価値観で国際社会が分断されていては課題に対応できません』と岸田文雄首相は明言した。世論よりむしろ政府の方が冷静です」「日本外交には大きなカードがあります。日本はこれまで殺傷能力のない装備品しか供与しておらず、日本が提供したお金でロシア人は一人も殺されていない。ロシアとウクライナの和平交渉の段階に入れば、仲介国として機能する重要な要素になると思います」(聞き手 編集委員・副島英樹) ◇<さとう・まさる> 1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学客員教授。ソ連・ロシアとの外交の最前線で活躍した。「自壊する帝国」「プーチンの野望」「十五の夏」など著書多数。2024年2月6日 朝日新聞朝刊 13版S 13ページ 「交論・戦争の語られ方-言いにくかった停戦 現実とズレ」から引用 この記事はさすがに元外交官だけあって、ロシアとウクライナの力関係を冷静に見ていると思います。また、突然ロシアに侵略されたウクライナに非はないのだから友好国からの支援を得てウクライナは勝利するべきだという下世話な「世論」を客観的に見る姿勢は大事だと思います。ウクライナは決して一方的な「被害者」だったのではなく、アメリカの手先になってアメリカの戦略である「ロシア包囲網」強化に味方すれば、ウクライナに利益がもたらされると判断したゼレンスキーの「判断ミス」が今回のロシアの軍事侵攻を誘発したのであって、単純な「ロシア悪者論」では真実を見る目が曇らされるだけだと思います。いずれにしても、もはやウクライナには勝ち目はないのであって、これ以上ウクライナ人の被害を増やさないために、国際社会は停戦に向けて努力を始めるべきだと思います。
2024年02月22日
岸田政権が国会審議を無視して防衛費倍増を勝手に決めた問題について、元外務事務次官の藪中三十二氏は6日の朝日新聞で、次のように述べている; 戦争の足音が響き始めると、冷静な議論がしにくくなるのかもしれません。そんな風潮に異を唱え、現実的な視点も踏まえた平和外交の重要性を唱える元外務事務次官の薮中三十二さんに聞きました。――ウクライナでの戦争を機に日本でも戦争の語られ方が変わりましたね。 「私は今、戦争の足音が聞こえてくるような日本のムードを心配しています。平和の重要性を語ると『空想的平和主義』と批判され、『中国に勝てるのか』と言われる。戦争の足音が響き始めると、それに対して否定的なことを言うのが難しくなります。戦争って、そういう力を持っています」 「戦争の話には、お金も付いてきます。『国を守るのは当然だ』と言われ、中身を吟味しにくくなる。岸田文雄首相が防衛費の倍増を決めましたが、唯一の理由は『ロシアのウクライナ侵攻が起きてアジアも危ない』というだけで、まともな説明はありません。岸田さんは『数字ありきではない』と言っていましたが、まさに数字ありきです」――精査もせずに倍増するなど、ほかの予算では考えられませんね。 「北大西洋条約機構(NATO)並みに、ということで国内総生産(GDP)比2%と決め、なんとなく国民も納得したかのようです。しかし、中身をチェックせず決めたのは大問題です。ただ、防衛増税となると、世論も慎重になりましたが、防衛費倍増となれば、大規模な増税が必要となるはずです」 「少子化対策では、財源がすぐに問題となりますが、少子化は日本にとって大きな安全保障上の問題です。私みたいな年寄りばかりで人口が減って、この国を守れますか」◆侵攻止められなかった米の外交不在――ウクライナの戦争の影響は大きいですね。 「ウクライナ侵攻が不可避だったかのように言われますが、本当にそうでしょうか。『侵攻を止める方法はなかったのか』ということです。そのための外交が不在ではなかったか」 「侵攻前、ロシアは米国に『ウクライナをNATOに加盟させるな』と要求していました。これに対し米国はゼロ回答でした。ブリンケン米国務長官は『ロシアが誠意をもって話す用意がないので、ロシアと話しても無駄だ』と言うのです。これでは、外交官として失格だと思います」――失格ですか。 「私が米国の外交官なら『米ロの共通の理解として、当面の間、ウクライナがNATOに入ることはないという見通しを共有した』といったようなボールを投げますね。ロシアが納得するかはわかりませんが、そうした努力をなぜしなかったのか」 「ロシアの侵攻の3カ月前に米国とウクライナが結んだ『戦略的パートナーシップに関する憲章』で、米国はロシアの侵攻阻止への協力姿勢を打ち出しながら、直前になってバイデン大統領は『米軍は関与しない』と言い切った。この一貫性のなさ。抑止は完全に失敗し、外交不在でした」――米外交の失策だと。 「米外交を問題視すると『ロシアの味方か』と言われかねないので、誰も言おうとしません。もちろん、100%悪いのはプーチン大統領であり、ウクライナへの侵攻は絶対に認められない。でも侵攻を止められたかどうかは別問題です」 「ウクライナでの戦線で膠着(こうちゃく)が続けば、停戦に向けた動きが活発化するでしょう。その際、米国の関与が不可欠ですが、今、米外交は中東問題で手いっぱいになっています」――混迷していますね。 「ガザのイスラム組織ハマスがイスラエルを急襲すると、ブリンケン氏はすぐにイスラエルに入り、ネタニヤフ政権のガザ攻撃を全面支持すると表明しました。その後、イスラエルの反撃が始まると、米国の若者世代から『イスラエルはやり過ぎだ』という批判を浴び、大統領選を前にして、バイデン政権は苦しい状況に立たされています」 「米国をはじめ世界の若者たちはSNSでガザの悲惨な映像を見ています。ウクライナでの戦争もそうですが、いま起きているのは『SNSのもとでの戦争』です。戦地の映像が直接スマホに入り、世論に影響を与えます。今までの戦争とは違うのです」◆日本は東アジアの平和維持に全力尽くせ――日本外交に何を期待しますか。 「戦後の平和は私たちが卑下するような話ではありません。平和で豊かに暮らすことこそ国益でしょう。それがおかしいと言う人がいるのなら、私はその人の見識を疑います」 「日米同盟の堅持と一定の防衛力整備は必要です。同時に、東アジアの平和をつくる外交にも汗をかくべきです。それが現実に根ざした安全保障でしょう。中国と堂々と向き合い、中国に対し『ルールを守るべきだ』と平和攻勢をかけ、東アジアの平和維持に全力を尽くす。そのチャンスが現実にあります。それをモノにする、それが私の期待する外交です」――もはや米国頼みでは立ちゆきませんね。 「かつては米国に頼っていれば大丈夫でしたが、米国がスーパーパワーだった時代が終わり、不安定になっています。そこで日本なりの工夫をしなければいけない。一定の実力もつけなければいけない。でもあわせて、平和をつくる外交をしなければいけないんです」――防衛費が倍増される一方で、政府の途上国援助(ODA)は減っています。日本は軍事的な協力をテコに外交をしようとしているのでは。 「ODA提供は先進国の義務で、各国は国民総所得(GNI)の0・7%をODAにあてることを責任を持って約束しています。欧州連合(EU)諸国はその目標に近づいていますが、日本は0・34%です。国内が大変だと思いますが、国際社会の中で生きている日本です。『日本は信頼できる友人だ』と思ってくれる人が世界に増えれば、広く、長い意味での安全保障になります。日本が軍事的な対応で外交をしようとしても、うまくいくはずがありません。日本は得意なところで外交をやらなければいけません」 「東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々と海洋問題で協力したりするのはいいと思いますが、日本が得意なのは国づくり、人づくりでの民生支援です。それはみんな、これまで必死でやってきたわけです」◆核兵器禁止条約にオブザーバー参加を――核軍縮への取り組みをどう考えますか。 「日本が核軍縮の先頭に立つ、という覚悟を持つべきです。『核の傘があるのに何を言っているのだ』と批判されますが、そんなことはないのです。核の傘は今、現実の問題として有用です。一方で、核の傘があっても核軍縮の先頭に立つことはできます。そのことを世界の国々はよくわかっています」 「日本は唯一の戦争被爆国です。しかも、核兵器を持つ能力はあると思われている。その日本が『いや絶対に核保有国にはならない』という決意を示すことが、外交の非常に強いメッセージになります。核不拡散条約(NPT)で核保有国は核軍縮が義務づけられているのですから、中国がどんどん核弾頭を増やすのはおかしいと、もっと言わなければいけません」――核兵器禁止条約の締約国会議には、米同盟国のドイツや豪州などがオブザーバー(傍聴)参加していますが、日本は見送っています。 「日本は核禁条約にオブザーバー参加すればいいと思います。たしかに日本が核禁条約に署名してしまうと、核の傘との整合性がとれなくなるので、完全に参加はできません。ただ、めざす方向は同じで、核軍縮であり、核なき世界です。オブザーバー参加をして、一緒に議論すべきだと思う。それを日本が打ち出すことが世界への義務でしょう」――日本の義務ですか。 「いま世界は核軍拡と軍備拡張に向かっています。それではいけないと言わなければ。北朝鮮の核の脅威に対する受け止め方も、米国と日本では異なります。米国にとってみれば、北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(ICBM)をテストしなければ米本土は安全です。それがトランプ大統領(当時)と金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長(現総書記)の2018年の合意なんですよ」 「突き詰めれば、北朝鮮は『ICBMのテストをこれ以上しない』代わりに、米国は北朝鮮を攻撃しないという合意です。その翌日、トランプ氏は『これでよく眠れる』と言いました。日本はそれじゃ駄目です。日本全土を射程に収める北朝鮮の中距離ミサイルでカバーされているのですから」――だからこそ、外交が大事だと。 「日本が先頭にたって、北朝鮮の本当の非核化に向けた具体策を考え、汗をかかなければなりません。私はそこに中国も入れるべきだと思います。北朝鮮核問題をめぐる6者協議はそういう思いでやってきましたが、最後は壊れてしまいました。今はもっと難しいと思います。それでも声をあげなければならない。汗をかかなければならない。それが外交だと思います」(聞き手・小村田義之) ◇<やぶなか・みとじ> 1948年生まれ。外務省アジア大洋州局長時代に北朝鮮核問題の6者協議首席代表。外務審議官などを歴任し、大阪大学特任教授。私塾「薮中塾グローバル寺子屋」主宰。著書「外交交渉四〇年・薮中三十二回顧録」ほか多数。近日中に「現実主義の避戦論」(PHP研究所)を発刊予定。2024年2月6日 朝日新聞朝刊 13版S 13ページ 「交論・戦争の語られ方-防衛や外交 批判を許さぬムード」から引用 この記事の冒頭では、インタビューする記者とそれに応じる藪中氏との間で「ウクライナの戦争を機に日本での戦争の語られ方が変わってきた」という会話が交わされているが、私はそれは何か政治的な必然性があって起きた歴史的現象などではなく、経済成長の機会を逸した「日本帝国主義」が軍需産業への投資に「活路」を見出そうとし始めた、そこにたまたま起きたのが「ウクライナ戦争」だったので、「日本も軍備を増強しないと危ないぞ」とばかりに岸田政権を使って「軍備増強キャンペーン」「防衛費倍増キャンペーン」を始めただけのことと思います。記事中で藪中氏が言ってるように「安全保障の手段は軍備によるだけではなく、外交も主要な手段」なのであり、むしろわが国憲法は「武力によって他の国々を威嚇する」ことを禁じていることを、再確認するべきと思います。防衛予算の倍増は、単に戦争の準備をするだけの危険な政策で、我が国の安全を逆に阻害する要因ですから、止めるべきです。武器の製造や販売で軍需産業が潤っても、国民生活に寄与するとは考えられず、国もいくら武器を購入して倉庫に積み上げても、それを使う自衛官が少子化のせいで定員割れとなり、せっかくの武器も使えないのでは、安全保障の「あ」の字もないという結果になりかねません。そういう無駄な金の使い方を改めて、防衛費倍増は止めて少子化対策に取り組むことこそが、将来の安全保障に寄与する道だと思います。
2024年02月21日
陸軍の青年将校が2・26事件を起こして88年になる今年の2月になり、毎日新聞専門記者の栗原俊雄氏は3日の同紙に、次のように書いている; 後世からみて「あれが国家の運命を左右した」と思われる事象は、日本の近現代史にいくつかある。「2・26」事件はその一つだ。1936年2月26日、「昭和維新」を目指す陸軍の青年将校らが約1500人の兵士を率いて決起した。「近現代日本最大のクーデター未遂」とされるこの事件は、大日本帝国の前途を照らす稲妻であった。 当時、農業は日本の主産業だったが、冷害などによって農村は大打撃を受けていた。貧富の格差も深刻だった。そうした中で青年将校たちは「君側の奸臣(かんしん)軍閥を斬除して、彼の中枢を粉砕する」ことを目指した。天皇の悪い取り巻きを排除して、世直しをやろう、という発想であった。首相官邸などを襲撃。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、警備の警官らを殺害。永田町や霞が関など政治の中枢を占拠した。 昭和天皇は、側近たちを殺されたことに激怒し早期鎮圧を求めた。反乱部隊は3日後に鎮圧され、目指した国家改造はならなかった。その後の裁判を経て19人が処刑された。 * * 毎年2月26日、遺族らが東京都内2カ所で追悼を営んでいる。朝は渋谷税務署脇にある慰霊像の前。一帯はかつて陸軍刑務所で銃殺が行われた場所だ。65年、青年将校らの遺族団体「仏心会」が建立した。午後には東京都港区の賢崇寺で法要が開かれる。私はいずれも10年以上参列し、遺族らの聞き取りをしてきた。 安田善三郎さん(98)の兄安田優少尉は熊本・天草出身。陸軍士官学校に進んだ。当時のエリートコースだ。善三郎さんにとって「優しい兄で、家族の誇りでした」。しかし、事件によって「国賊」となり、同志の青年将校らとともに銃殺された。「家族はつらい思いをしました……。友だちとけんかすると『お前の兄貴は死刑にされたじゃないか』と言われました。二の句が継げませんでした」。兄を思いつつ、長く犠牲者の追悼のために奔走してきた。 事件は国家の運命も変えた。本来ならば行動を慎むべき陸軍は、さらに強力な政治的組織となった。例えば、事件後に組閣した広田弘毅首相は、外相に吉田茂(戦後の首相)をすえようとしたが、陸軍は親英米派として知られていた吉田の人事に反対し、流れてしまった。 その広田内閣は陸軍の主張で「軍部大臣現役武官制」を復活させた。もともと軍部大臣は現役に限られていたが、大正デモクラシーの流れの中で現役を引いた予備役にも門戸を開いていた。それを元に戻したのだ。「陸軍が気に入らない内閣には陸相を出さない」という政治的どう喝が制度的に可能になった。 これらは明治天皇によって下された「軍人勅諭」にある、「(軍人は)政治に関わってはならない」という趣旨の一文に反するものだった。広田内閣は陸軍の横車により1年で総辞職。昭和天皇は陸軍出身で現役を引いていた宇垣一成を首相に指名した。ところが、陸軍は「陸相を出さない」とごねた。 現役武官制でなければ宇垣が陸相を兼務できたが、かなわない。宇垣は組閣を諦めた。国家元首であり、陸海軍の「大元帥」でもある天皇が首相にしようとした人物の組閣を、陸軍がつぶしてしまったのだ。 * * 天皇の意思より組織の論理を優先する陸軍に対し、正面からの批判は困難になっていった。2・26事件の後、陸軍を厳しく批判したのは個人誌「他山の石」を発行していた言論人の桐生悠々や、軍人の政治運動を厳しく批判した「粛軍演説」で知られる衆院議員の斎藤隆夫ら少数だった。昭和史が専門のノンフィクション作家、保阪正康さんは「2・26事件で『軍にたてついたら何をされるか分からない』という恐怖心が広まった。それを軍官僚が利用した」と指摘する。 事件の翌37年には日中戦争が始まり、陸軍は中国各地を占領していった。アメリカがこれをとがめて日本政府に撤兵を求めるが陸軍は断固として拒否。日本は41年に破滅的な対米戦争を始めることになる。 司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」が示したように、大日本帝国は「明治維新」によって近代化・強国への坂道を上っていった。対して2・26事件は、破滅への坂を転がっていく起点になったと思える。ひるがえって現代をみた時、私たちは今、新しい起点に立っているのではないか。 軍事クーデターはないとしても、泥沼のような「自民党とカネ」問題。政治不信のゆえか、近年の国政選挙では投票率が50%を割ったこともある。その選挙で勝った与党は「民意を得た」とばかりに世論の反対の多い施策を強行する。さらには、善隣外交ができないままに「新しい戦争」の準備を進め、かつ戦争による国民の被害を試算してその結果を示そうとしない(本当に戦争になれば破滅的な被害が生じることは確実なのだが)。そうした政府の一連の姿勢に、私は危険を感じる。 2月26日は、自分の足元を見つめ直す日だ。「ここは踏みとどまるべき坂の上なのではないか。政治にノーをつきつける時ではないか」と。(専門記者)2024年2月3日 毎日新聞朝刊 13版 10ページ 「現代をみる-坂の上の2・26事件」から引用 明治天皇によって下された「軍人勅諭」に「軍人は政治に関わってはならない」との一文があるのに、陸軍大臣だの海軍大臣だのという官職を設けたのは矛盾であり、これが政府の意向を無視して軍人が勝手に侵略戦争をやりたい放題やって、やがて帝国を破滅させることになったというのが、戦前の日本の姿であったわけです。天皇が、国家元首であり陸海軍を統率する「大元帥」であるにも関わらず、その天皇が組閣を命じた政治家の言うことを聞かない陸軍大臣は、天皇の命令ですぐにクビにすればいいのに、それができずに「やりたい放題」を許したために、帝国は破滅しました。同じ過ちを繰り返さないために、私たちが注意しなければならない点は、安倍政権以来、日本政府は国会を軽視して、憲法の精神とは相いれない「集団的自衛権の合憲化」や「武器輸出三原則」の空洞化、防衛費予算はGDP1%以内という戦後日本のルールの変更を、国会審議なしで、一片の閣議決定で勝手に「暴走」している点です。これを止めさせなければ、上の記事が指摘するように、日本は坂の上から奈落の底に転がり落ちる、今まさにその「寸前」にあるのではないかと思います。
2024年02月20日
岸田首相が裏金問題の追及をかわすために言い出した「派閥解消」のその後について、毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏は、3日の同紙に次のように書いている; 自民党の派閥「解消」が、妙な雲行きになってきた。解散を決めた安倍派(清和政策研究会)では、福田達夫元総務会長が新グループ設立を予告。解散するか迷う茂木派(平成研究会)からは、小渕優子選対委員長らが相次ぎ脱会し、「いずれ小渕グループに結集か」との観測しきりである。 福田氏は、派閥創始者・福田赳夫元首相の孫。小渕氏も、経世会(竹下派)から平成研に改称した時の会長、小渕恵三元首相の娘。「創業家の坊ちゃま、お嬢さま」が、汚れやしがらみのこびり付いた老舗を畳み、由緒正しい血統継承者として、新ブランドで出直す派閥「再編」というわけだ。もちろん首相をめざすため。 政治資金の裏金汚染は、岸田文雄首相の号令で派閥解消論にすり替わり、派閥リーダーの世代交代へずれてきた。若返りというより家督返還、お家再興。芸事の家元みたいな理屈が、いまだ政界では臆面もなくまかり通る。 小渕氏の派閥継承と首相擁立は、「参院のドン」こと青木幹雄元参院議員会長の遺言だった。長男の青木一彦参院議員や元側近らも小渕氏と同時に茂木派を抜けたので、共同歩調とみられる。 ドンは秘書として仕えた竹下登元首相の死後、派閥オーナー格に納まった。平成研を攻撃して権勢を振るった小泉純一郎元首相にすり寄る際、派内に「竹下が作ったモノを俺が好きにして悪いか」と開き直った。まさに派閥私物化の権化。その遺訓に従う気らしい。 現会長の茂木敏充幹事長は、細川護熙元首相の日本新党から自民党に転じた。今なお経歴に陰口をたたかれる。安倍派「5人衆」も元議員のおいや娘婿はいるが、たたき上げ。創業家にすれば、老舗が成り上がり者たちに台なしにされたので、正統な跡目に据え直す感覚なのかもしれない。 麻生太郎副総裁が麻生派解散を拒むのも、自分が育てた派閥を、同じ流れで河野洋平元総裁の長男、河野太郎デジタル相に事実上譲ることになりかねないのを恐れるからであろう。 無派閥の小泉進次郎元環境相にも、いずれ担ごう、ぶら下がろうと物欲しげな議員が群がる。 ただの世襲ではない。元首相・総裁のプラチナ2世・3世たちが、生まれながらに次世代首相候補として居並ぶ政治である。 派閥は解消しても必ず再生してきた。岸田氏がその法則を知らぬはずはない。派閥解消宣言は、派閥を七光り族へ先祖返りさせる深謀遠慮に違いない。公邸で忘年会に興じた岸田家4代目も黙って出番を待っている。(専門編集委員)2024年2月3日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-政界七光り族の反抗」から引用 この記事は自民党議員が日ごろからどのような判断基準で行動してるのか、羞悪な実態を赤裸々に表現しているので、読めば吐き気を催すような気がする。〇〇派は自分の祖父が作ったとか父が作ったとか、政治の私物化も甚だしい。実に、芸事の家元みたいな理屈が臆面もなくまかり通る世界は、お茶とか生け花とか踊りの世界だけにしておけばいいのであって、政治は有権者の政治的な要求を実現するために機能するべきものであり、有権者はどの政治家が自分たちの要求に耳を傾けているのかを適切に判断して投票先を決めるべきなのだ。「ここの地元は4代前から〇〇家の先生に入れることになってる」などという時代遅れの考えを捨てて、近代的な思考と行動力を持つ有権者を増やしていくには、メディアによる「啓蒙活動」が必要ではないかと思います。
2024年02月19日
パレスチナ難民を支援する国連機関はUNRWAという名称で1万3千人の職員が働いており、この1万3千人の職員のうちの12人が昨年秋のイスラエルの音楽祭会場にハマスがミサイルを打ち込んだときに、ハマスを手引きしたらしいとの情報があり、それを理由に欧米諸国や日本がUNRWAに対する資金拠出を停止することになった。この問題について、文筆家の師岡カリーマ氏は3日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 国際司法裁判所がイスラエルの意に沿わない暫定措置を発表したタイミングで、パレスチナ難民を支援する国連機関UNRWAのガザ職員がハマスによる昨年10月のイスラエル襲撃に関与した疑惑が浮上し、日本を含む支援国が資金拠出停止を决めた。 事実なら確かに問題だが、ガザのUNRWA職員は約1万3千人。それだけいれば、親ハマスの現地職員がいても不思議ではない。むしろ関与が指摘された12人という数は、感心するぐらい少ないという見方もできる。UNRWAはガザで政府並みの機能を担っている。その仕事が滞れば他機関の救援活動にも支障をきたす。それを承知で、少数の個人の犯罪疑惑を理由に、飢えた人々の命綱を奪う「文明国」が続出し、日本も同調。 その理屈が正しいなら、裏金作り(一種の脱税とみなす意見もある)が発覚した自民党には公的助成金が交付されないのが筋だろう。UNRWAへの拠出金停止を决めた岸田政権は、来年度の政党助成金を全額辞退して下さるものと期待する。 仏ル・モンド紙によれば、すでに凍結された額が5億ドル。2月末には資金が枯渇するという。どう穴埋めするか。そちらは「アラブ・イスラム世界の盟主」サウジアラビアに期待したい。報道によれば同国は昨年、サッカーの外国人スター選手獲得にそれ以上のお金を使っている。(文筆家)2024年2月3日 東京新聞朝刊 11版 21ページ 「本音のコラム-殺戮への加担では?」から引用 国連職員でありながらハマスの活動に協力したのはけしからんというのであれば、証拠を上げて如何なる理由で「けしからん」のか、法廷にでも訴えて理由を明らかにするべきで、何十年にも渡ってパレスチナ人の土地を侵略し略奪してきたイスラエルの国家規模の極悪非道な行動に比べれば、ミサイルを数発打ち込んだくらいの罪は、比べ物にならないほど軽微である。どうしても「処罰」が必要なら、当該の12人を逮捕して裁判にかければいいのであって、いきなり経済支援を全面停止するのは暴挙というものであり、イスラエルのパレスチナに対するジェノサイドを後押しする行為であることを自覚するべきだ。
2024年02月18日
大阪では何故維新の会が人気なのか、神戸女学院大学名誉教授・凱風館館長の内田樹氏は1月28日の東京新聞コラムに、次のように書いている; ある雑誌から「大阪でどうして維新はあれほど支持されているのでしょうか」という取材を受けた。同じ問いは10年以上前から繰り返し受けている。そのつど返答に窮する。維新は地方自治では失政が続いているし、党員の不祥事も止まらないのに選挙では圧勝するからである。 コロナ禍で大阪府は死者数ワースト1だった。 看板政策の大阪都構想は2度否決された。全長2キロ「道頓堀プール」で世界遠泳大会を開催した場合の経済波及効果は「東京五輪を超える」と堺屋太一氏は豪語した。でも、資金が集まらず最後は80メートルにまで縮小されたがそれもかなわずに放棄された。 学校と病院の統廃合が進み、公立学校と医療機関は今も減り続けている。 管理強化の結果、教員志望者が激減して、学級の維持さえ難しくなっている。 市営バスの運転手の給与カットは橋下徹市長が最初に行った「公務員バッシング」だづたが、運転手が不足し、バスの減便・廃線が起きている。 来年の大阪・関西万博もおそらく歴史的失敗に終わり、重い財政負荷を住民に残すことになるだろう。 どの施策を見ても、市民府民にとっては行政サービスの劣化をもたらすものばかりである。にもかかわらず大阪の有権者たちは維新に圧倒的な支持を与え続けている。なぜなのだろう。 ◇ ◆ ◇ もう17年前になるが、橋下氏が大阪府知事に立候補した時に、神戸女学院大のゼミの学生たちに「彼に投票するかどうか」訊いたことがある。12人中10人が「投票する」と答えた。理由を尋ねたら「すぐに感情的になる」「言うことが非論理的」「隣のお兄ちゃんみたいで親しみが持てる」という答えだった。 なるほど。自分たちの代表としては自分たちより知性徳性において卓越した人ではなく、「自分たちと同程度の人間」がふさわしいと彼女たちは考えていたのだ。確かに民主主義の妙諦はそこにある。 ◇ ◆ ◇ トクヴィルは『アメリカの民主主義』の中で、アンドリュー・ジャクソン大統領について「その性格は粗暴で、能力は中程度、彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」というにべもない人物評を記している。だが、そのジャクソン将軍をアメリカ人は2度大統領に選んだ。 「民衆はしばしば権力を託する人間の選択を誤る」とトクヴィルは書く。でも、それでいいのだ、と続ける。重要なのは、支配者と被支配者の利害が相反しないことだからだ。「もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんどの用がなく、才能は有害になろう」。卓越した政治的能力を持ち、有徳な統治者は民衆の意に反しても「自分が正しいと信じたこと」を断行するかも知れない。それよりは徳性才能において民衆と同レベル程度の人間を統治者に選ぶ方が安全だ。これはポピュリスム政治の本質を衝いた卓見だと思う。 大阪の有権者たちはトクヴィル的な意味ですぐれて「民主主義的」なのだと思う。利己的であったり、嘘をついたり、弱いものいじめをしたりするのは「誰でもすること」である。「誰でもすることをする政治家」こそが民衆の代表にふさわしいというのはロジカルには正しい。果たして、大阪のこの民主主義はこれからどういう社会を創り出すのか。私は深い関心をもってそれを見つめている。2024年1月28日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「時代を読む-維新的民主主義」から引用 維新の会が出来た頃は、確かに偉そうな態度で上から目線で話す既存の政治家よりも、「隣のおにいちゃん」みたいな印象が「新鮮」な雰囲気を演出して、誰もが期待をこめて維新に投票したと思います。その時点では、人々はトクヴィルが説明するような「民主主義」を期待して維新に投票したのかも知れませんが、しかし、もうすでに十分な時間が経ち、それなりに結果も出てきており、学校や病院のやみくもな統廃合で必要な学校や病院がなくなり、コロナ禍に十分な対応ができなかったとか、行政が教育に干渉しすぎて教員のなり手が不足になったとか、維新による「失政」を新聞もテレビも報道を怠り、批判はおろか日々の放送番組に知事や市長をゲスト出演させて「人気者扱い」を続けているから、維新は数々の「失政」にも拘わらず、府議会でも市議会でも与党として存在し続けているというのが現状ではないでしょうか。大阪の民主主義がまともに機能しているとは、到底考えられません。
2024年02月17日
私の記憶では、野党議員が国会で質問をする時は、事前に質問内容を内閣に提出し、それを見た内閣の職員が回答文を作文して、その作文を首相や閣僚が棒読みする、事前申請のない質問には回答を拒否するという「悪習」が始まったのは安倍内閣のときからだったように思います。しかし、今やその「悪習」は国会の質疑にとどまらず、メディアを相手にした記者会見の場でも横行していると、朝日新聞記者の冨名腰隆氏が1日の同紙に書いている; 昨年末の夜、取材の席で向き合っていた経済産業省幹部のスマートフォンに、1通のメールが届いた。「明日の大臣会見で、私の担当分野に関する質問が出るようです」 連絡を受けた幹部はそうつぶやくと、部下に電話で要点を伝え「明日の朝までに想定回答を用意しておいて」と指示した。 国会では、答弁にそなえるため省庁職員が事前に議員から質問内容を聞き取る慣習がある。「質問取り」と呼ばれるこの動きが、記者会見にも広がっていることをご存じだろうか。 経産省では会見前日になると、担当職員が「ご関心は」と聞き回っている。私たちは幹事社として代表質問をする時を除き質問取りに応じていないが、他社の事情までは知り得ない。 同僚によれば、質問取りは他省庁や首相官邸、政党の会見でも常態化しつつあるようだ。応じなければ挙手しても指名されない傾向が強まっているという。 ある省庁幹部に不満を漏らすと「優秀な閣僚でもすべての政策に通じることは難しい。やむを得ない面もあるのでは」と釈明した。私は同意できない。 もちろん閣僚も政治家も完璧ではない。知らないこともあるだろう。持ち場によっては担当分野の幅広さに苦労することも分かる。 それでも記者への質問取りは論外だ。事前に質問を把握し、手元の回答を読むだけの会見は、国民から見れば「やらせ」と大差ない。資料が必要なら自ら想定問答を準備するべきであり、質問を集めることはカンニングにほかならない。 質問取りは以前から存在していたが、一部の行為だった。感覚的には2012年末に発足した第2次安倍政権以降に広がり、公然の秘密になったように思う。 私は政治取材の経験が長く、振り出しは小泉純一郎首相の番記者だった。日々のぶら下がり取材で質問取りなどなかったし、内閣官房長官や財務相を歴任した与謝野馨氏などは想定外の質問を楽しんですらいた。 そのやりとりは毎回が真剣勝負であり、取材力や答弁力を磨く場でもあったはずだ。質問取りを経た緊張感なき会見は、互いを高めあう機会も奪っている。 経産相は昨年末、斎藤健氏に交代した。安定した答弁に定評があり、何より経産官僚出身だ。政策理解に問題はない。その斎藤氏は幹部職員への年頭あいさつで「アリバイづくりの仕事は率先してやめよ」と述べた。ぜひ質問取りからやめてみてはどうか。<経済部> *<ふなこし・たかし> 2000年入社、政治部、上海支局、中国総局(北京)などを経て、23年5月から現職。通商産業政策を中心に担当。取材時の質問の失敗は数えきれないが、その経験がいまの自分を支えている。2024年2月1日 朝日新聞夕刊 4版 7ページ 「取材考記-閣僚会見、『質問取り』は論外」から引用 政府が国家予算を使って行う事業は、千差万別数限りなくあり、その一つ一つについて詳細をすべて記憶することは、普通の人間には無理があるから、野党議員の専門的な質問に正確に回答するには、それなりの時間をかけた調査が必要な場合は多々あることは、素人にも創造がつきますが、それでも昔の政権担当者の皆さんは、いちいち野党議員から「質問取り」などしなくても、大体の応答はできていたのでした。確かに、中には「今、手元に詳細なデーターがないから」と言って、答えは後日に、というケースもたまにはあったが、野党もその辺は気を利かせて、すすんで質問を事前通告することもあり、ある程度スムーズな国会審議ができていたと思います。その辺は、与野党ともに新聞などで世間の関心がどの辺にあるのかを察知して、日ごろから情報を集める努力をしていたものと思われます。ところが、安倍晋三首相になると、彼は漢字を読めない人だったから、新聞など読む習慣はなく、テレビをつければニュース番組など興味はないという人物でしたから、いざ国会で野党議員の質問を聞いても、何を聞かれているのかさっぱり理解が出来ず、したがって何を答えるべきか、見当もつかないという状態だったため、取り巻きが「これは、事前に野党から質問を聞き出して、官僚に答えを作文させるのが得策」という話になったものと思われます。しかも、単なる作文では用が足らず、その作文中の漢字には全てフリガナをつけるという「落ち」までついたのですから、呆れます。そのようにして始まった「質問取り」が、今や記者会見の場にまで広がったとは、正に「落ち目の日本」を象徴しているようで、実にさみしい限りです。
2024年02月16日
神奈川県相模原市の本村市長が、専門家会議の答申を蹴って罰則抜きの「人権尊重まちづくり条例案」を議会に提示したことを、1月28日の神奈川新聞は次のように批判している; 相模原市人権尊重のまちづくり条例案の骨子にヘイトスピーチを規制する罰則を盛り込まなかった理由について、本村賢太郎市長は「表現の自由の壁があった」と説明する。だが、ヘイトスピーチ解消法ができて7年半、ヘイトスピーチに刑事罰を科す川崎市条例の制定から4年がたち、表現の自由を持ち出すのはもはや時代遅れ。罰則を設けないという結論を正当化したいがため、時計の針を巻き戻す愚までも犯している。 相模原市内に暮らす在日コリアン3世の母親は2019年春、小田急線相模大野駅前でヘイト街宣に行き当たってしまった。朝鮮人への敵意と排斥をあおるヘイトスピーチを拡声器で叫んでいた。とっさに子どもの耳を両手でふさいだという。 「小学生なので何を言われているかある程度分かってしまう。自分はここにいてはいけない存在なんだという傷を心に負えば取り返しがつかない。『どうしたの?』と不思議がられ、『うるさいから耳が痛いかなと思ったの』とごまかすことしかできなかった」 わが子を守る必死さとその惨めさはどれだけ伝わっただろうか。翌年の12月、母親は本村市長に面会した。ヘイトスピーチに罰則を設けた条例を求める署名を市民団体と届けた。訴えたのは、3人の子どもたちに外では朝鮮の言葉を使わないよう言って聞かせているという差別の現実たった。 「私たちのことをよく思っていない人もいるから、『アッパ(お父さん)』『オンマ(お母さん)』と呼ばないよう気を付けようね、と。朝鮮人であることに誇りを持ってほしくて民族学校へ通わせているのに、こんなことを言わなければならないなんて」 ヘイトスピーチはかくもマイノリティーの表現の自由を奪う。圧倒的強者のマジョリティーからの排斥に言い返しようがない。言い返したり、被害を訴えたりしようものなら、さらなる攻撃が襲いかかるのは目に見えている。そうしてますます沈黙を強いられる。 だから表現の自由が大切たというなら、規制がマジョリティーの表現の自由を萎縮させかねないと心配する前に、いまこの瞬間も損なわれているマイノリティーの表現の自由を直ちに回復させなければならないはずだ。表現の自由を守るためこそペイトスピーチは規制する必要があるのだ。 ◆川崎市が証明 ところがそうはならない。名誉毀損罪や侮辱罪など言論を規制する法律は既にある。だが、ヘイトスピーチの問題では途端に表現の自由が振りかざされる。マジョリティーの表現の自由が心配だから、危険にさらされ、尊厳が踏みにじられようが、マイノリティーなのだから甘んじていろと言っているに等しい。この思い上がりこそが差別だと知るべきだ。 公的機関でさえヘイト街宣をやめさせようとしていないのだから、襲われても誰も助けてくれないのではないかと恐怖はさらに増す。実際「表現の自由は大切だから慎重に検討するべきだ」と腕組みを続けているうちに、ヘイトクライムまで続発するようになった。朝鮮人という理由だけで脅迫され、住まいに火を放たれ、子どもたちが通う学校までも放火の標的にされた。 これでどうしてありのままの自分を生きられるというのか。朝鮮人であることを隠して生きざるを得ず、偽りの自分を強いられ、表現の自由どころか生き方までがねじ曲げられている。 母親は懇願するしかなかった。「条例が未来をつくる。耳をふさぐのではなく、あの人たちが言っていることは間違っている、私たちはここで生きていていい人間なのよと子どもたちに伝えられる、そんな確かな条例になることを願っている」 切実な願いを直接聞きながら本村市長は応えなかった。それも「表現の自由」というもはや理由にならない理由によって。 ヘイト規制で表現の自由は萎縮しない。萎縮するのはレイシストだけで、間違った「表現の自由」の名の下に放置されてきた「差別する自由」が規制されるだけだ。 川崎市の条例が証明している。インターネット上のヘイトスピーチの認定を担う市差別防止対策等審査会の吉戒修一会長は言う。 「罰則対象のヘイトスピーチはその後、市内で行われていない。条例は一定の効果を与えている」 川崎市の条例では罰則の対象を露骨な差別的言動に絞り込んだ上、勧告、命令と段階を踏み、それでもやめなかった場合、確信的にヘイトスピーチを行っている者を刑事告訴する。その際も恣意的な判断にならないよう、有識者でつくる審査会の意見を聴くという慎重な仕組みになっている。 あからさまなヘイトスピーチができなくなったレイシストたちは川崎での活動から手を引いていった。もちろんレイシスト以外の市民が言論弾圧を受けている」という声を上げることもない。 吉戒会長は東京高裁長官、法務省人権擁護局長などを歴任してきた。保守的で慎重な物言いが多いその人でも「表現の自由を逸脱した言論活動なのでプロバイダー企業に削除を求めている。線引きは難しいが、憲法や行政法の学者の知見を踏まえ、お墨付きを得ながらやっている」と言い切る。「川崎モデル」に倣った答申通りの条例なら、表現の自由を守りながらマイノリティーの人権を守れる。国や自治体に先駆けた川崎市の歩みがそう示している。 ◆政治家の本分 本人は忘れてしまったようだが、19年4月の就任会見での本村市長の発言は筋が通っていた。 「生まれた環境や人種で差別するということはあってはならない。条例制定も含めて検討をしっかりしていかなければならない」 2ヵ月後には川崎市が刑事罰を盛り込んだ条例案を公表したことを受けて、さらに踏み込んだ。 「罰金を科す対応は高く評価したい。ヘイトスピーチのような人としての尊厳を傷つけるばかりでなく、差別意識を助長させ、人々に不安感や嫌悪感を与えかねない行為は決して許してはいけない」 「先週、川崎市長と意見交換した。相模原市は後発なので、罰則を含めて川崎市に引けを取らない厳しいものにしたい。先進市である川崎市を見習いながら罰金や刑事罰を含めて検討していきたい」 罰則条例の制定を宣言して5年近く。本村市長は「自分が直接見聞きしていないのでヘイトスピーチはなくなった」という、およそ72万市民のトップとは思えないとんちんかんな認識まで口走り、差別から目を背けるようになった。一体、何を吹き込まれ、誰に言いくるめられているのか。県議時代からの親友で、自らの条例案について「教育や啓発の対応では限界がある。表現の自由といっても何を言っても許されるわけではない」と説き、差別に立ち向かう強い姿勢を示した川崎市の福田紀彦市長から何を学んだのだろう。 国会議員だった当時の本村氏は母子家庭で育ち、居酒屋のあるじだった母から「父親がいないぐらい何だ。せっかく生まれてきたんだ。夢と希望を持て」と厳しく育てられたと選挙演説でよく語ったものだった。「生まれた環境や人種で差別するということはあってはならない」とヘイト規制に意欲を見せる本村市長の姿に、私は自身の過去を重ね合わせているに違いないと感じ、罰則条例を必ず実現させるだろうと思った。しかし―― 「私たちはここで生きていていい人間なのよと子どもたちに伝えられる、そんな確かな条例になることを願っている」 本村氏はまさに、差別に苦しむこうしたマイノリティーの母子も等しく夢と希望を持てる社会をつくるため、政治家になったのではなかったか。そのために権力が与えられているのではないのか。 まだ間に合う。条例案骨子を撤回し、仕切り直せばいい。不見識ゆえの思い違い、判断ミスと知りながら突き進むことほど愚かなことはない。恥じることはない。いま引き返さなければ、差別の被害者や差別根絶を願う人々による「人権をうたった『反』人権条例案の廃案運動」という、かつてない惨状と恥辱をこのまちにもたらすことになる。2024年1月28日 神奈川新聞朝刊 15ページ 「時代の正体・差別禁止法を求めて-未来をつくるために」から引用 この記事が指摘するように、川崎市では罰則付きのヘイトスピーチ禁止条例を制定して以来、ヘイト団体はまれに姿を見えることはあっても、ヘイトスピーチは一切しなくなっており、罰則付きの「禁止条例」の効き目は絶大である。表現の自由を妨害する心配があるとか、相模原市にはヘイトスピーチをする団体や人物がいないなどと、子どもの言い訳のような筋の通らない理由を繰り返す相模原市本村市長の様子からは、おそらく直近の市長選挙の際に応援してくれたいずれかの団体に「罰則つきの条例は議会に提案はしない」と約束をさせられて、約束できないなら選挙の応援はできないとか、脅迫されていたのではないかと思います。いずれにしても相模原市には「ヘイトスピーチ禁止はまずい」と考える輩が一定数いるから、市長は変節したのだと思います。
2024年02月15日
戦時中の強制労働で命を落とした朝鮮人労働者を追悼する記念碑は市民団体が資金を集めて建立し、当時の群馬県議会が全会一致で県立公園に設置することを承認したものであったが、右翼団体にそそのかされた山本一太知事は、県の予算でその石碑を破壊するという暴挙に及んだ。1月28日の神奈川新聞は、次のように批判している;◆朝鮮人追悼碑 強制撤去へ 朝鮮半島を植民地支配した日本の加害の歴史を反省し、友好を願う朝鮮人追悼碑を群馬県は行政代執行で強制撤去する。29日から2月11日まで碑がある公園を封鎖して作業を行う。差別・排外主義をあおる歴史否定を自治体が行う「ヘイト行政」に批判が高まる。(石橋 学、視点も) 高崎市の県立公園「群馬の森」にある追悼碑は2004年、市民団体が建立した。太平洋戦争中、日本は国策として多くの朝鮮人を強制的に働かせ、非人道的な扱いで命まで奪った。群馬県内の炭鉱や軍需工場もその現場となった。 碑はそうした過ちを繰り返すまいと誓い、アジアの平和と友好を願うもの。ところが県は14年、設置許可を更新しなかった。設置者の市民団体が碑の前で開いた集会で「強制連行の事実を訴えたい」などの「政治的発言」があったというのが理由。 市民団体は裁判を起こしたが、22年に県の処分を容認する判決が最高裁で確定した。県は行政代執行の実施を通告し、撤去費用3千万円を請求するとしている。 市民団体「『記憶反省 そして友好』の追悼碑を守る会」が20日、撤去反対を訴えた集会には県内外から約250人が参加。アーティスト有志が募った碑の存続を求める署名約4300筆も26日に提出された。 山本一太知事は25日の定例会見で「設置者がルール違反を繰り返した。法治国家なので最高裁の判決に従って粛々と代執行をする」と強調したが、最高裁判決は碑の撤去を求めているわけではない。◆◆ 視点-レイシズムと表裏一体 ◆◆ 歴史否定はレイシズムと表裏一体だ。朝鮮半島の植民地支配を正当化することは、在日コリアンの存在を否定し、排除するこ、とに通じる。日本が行った侵略や虐殺をなかったことにして「朝鮮人はうそをついてカネをだまし取ろうとしている」とやはり排斥をあおり立てる。 群馬の追悼碑を巡る問題も、ヘイト団体「日本女性の会 そよ風」や村田春樹氏といったレイシストが「碑文に書かれていることはでたらめだ」と言いがかりをつけたことが発端だった。彼ら彼女らは加害の歴史を伝える全国各地のモニュメントを攻撃しているが、それが差別であり、迫害を扇動する格好のネタであるからに他ならない。 ところが群馬県はそれを真に受けた。行政代執行に踏み切る理由について、山本一太知事は「碑文に問題はないが、論争の対象になっており、公園に置き続けることは著しく公益性に反する」と説明するが、歴史否定という形態のヘイトスピーチを「一方の論」と扱うことでレイシストたちの思惑に乘ってしまっている。 このように強制撤去を正当化する知事の説明は欺瞞(ぎまん)に満ちる。 「歴史否定のグループのような考えは持っていない」と言うが、県議会や県が県立公園にふさわしいと認めたはずの追悼碑をなくすのだ。歴史の過ちを伝え、反省と友好の思いを寄せる代わりの施設や機会を設けてもいいはずだが、知事はあっさり「これを機に歴史の話をあえて知事として発信することは考えていない」。 こうした姿勢を受け、神奈川で活動するレイシスト集団「日の丸街宣倶楽部」は「朝鮮人碑にガソリンをぶっかけて丸焼きにしろ」とジェノサイドの実行を呼びかけるかのようなヘイトスピーチを行っている。歴史否定に自ら手を染めることで差別を後押しする、まごうことなき「ヘイト行政」である。2024年1月28日 神奈川新聞朝刊 18ページ 「歴史否定『ヘイト行政』」から引用 群馬県の山本知事は「碑文に問題はないが、論争の対象になっており、公園に置き続けることは著しく公益性に反する」と発言しているが、この知事の認識は間違っている。正しい解釈は、碑文に問題はないという部分は「正解」であり、「したがって、今さら碑文について『論争』はありえない」と判断して、ヘイト団体の主張をこそ退けるべきだったのである。それを、ヘイト団体が根拠もなく言いがかりをつけてきただけであることを「これ幸い」に「論争を引き起こす碑文を置き続けることは公益性に反する」などと、もっともらしい(しかし、でたらめの)理屈をつけて、最初から山本知事は内心で朝鮮人追悼碑が存在することを快く思っていなかったとしか考えられません。彼が言うような理屈が通るのであれば、今後は日本中に存在する追悼碑に、ヘイト団体が片っ端から言いがかりをつけて歩けば、「論争の対象になるような石碑は公益性に反する」こととなり、すべての追悼碑が破壊されることにもなりかねません。群馬県当局の対応の「誤り」を、メディアはもっと多くの国民に周知するべきだと思います。
2024年02月14日
歴史家で東京大学大学院教授の小島毅氏が著した「日中二千年史」(ちくまプライマリー新書)の一節に、戦前の日本を支配した「教育勅語」に関する考察が書かれている;2教育勅語の思想背景◆教育勅語は大事? さて、ここでいったん日清戦争前に戻り、明治時代の日本における中国思想の影響について述べておきましょう。一八九〇年に発布された「教育二関スル勅語」、いわゆる「教育勅語」です。今でも一部の人たちが「内容的にはすばらしいのに、戦後教えてこなかったのはけしからん」と主張しているシロモノです。たしかに、教育現場で教材には使われてこなかったため、みなさんはその名前は知っていても、読んだことがないかもしれません。 「教育勅語」は、ひとことで言えば、皇帝を中心とする中国的な国家システムを称賛しています。幸い、二〇一七年三月一四日に松野博一文部科学大臣が「学校で「教育勅語」を教えても構わない」とおっしゃっていますので、あらためて読み返してみましょう。 なお「教育勅語」は、本来であれば校長先生が起立して読み上げ、生徒は起立して頭を下げて聞くのが正式な学び方です。これを奉読式といいます。畏れ多くも明治天皇陛下のおことばということになっている文章だからです。ですので、生徒・児童が声を揃えて勅語を読むなどというのは、戦前なら不敬罪で捕まる行為です。「教育勅語は大事だ」と主張する人たちこそ、少しはこういう歴史を勉強してもらいたいものです。朕(ちん)惟(おも)フニ、我力皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。我力臣民(しんみん)、克(よ)ク忠二克(よ)ク孝二、億兆(おくちょう)心ヲー(いつ)ニシテ、世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我力國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実二此にこ)二存ス。爾(なんじ)臣民、父母二孝(こう)二、兄弟(けいてい)二友(ゆう)二、夫婦相和(ふうふあいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょううけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)二及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常二国憲ヲ重(おもん)ジ、国法二遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)二奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。是(かく)ノ如(ごと)キハ、独(ひと)リ朕力忠良(ちゅうりよう)ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしよう)スルニ足ラン。斯(こ)ノ道八、実二我力皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)二遵守(じゅんしゅ)スベキ所、之(これ)ヲ古今二通ジテ謬(あやま)ラズ、之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)二施(ほどこ)シテ悖(もと)ラズ。朕、爾臣民卜倶二拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸(みな)其(その)徳(とく)ヲー(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。明治二十三年十月三十日御名御璽(ぎょめいぎょじ) 御名というのは明治天皇の名前(睦仁)、御璽というのは「天皇御璽」という大きい印鑑のことです。勅語の正本には署名があり、押印されていました。◆中国由来の「教育勅語」 実は「教育勅語」は日本独自のものではありません。一三九七年、明の洪武帝(朱元璋)は六諭(りくゆ)というものを発布しています。「教育勅語」が発布される五〇〇年前ですね。「明の建国と明治維新の五〇〇年という差はそのまま、中国と日本における文明の成熟度の差である」というのが私の持論です。元号が一世一元になる(中国は一三六八年の明建国以来、日本は一八六八年の明治改元から)のがまさにそうですが、この勅語の例もこの持論を証明してくれています。 六諭というのは儒教の倫理道徳を庶民に浸透させるための教訓で、清ではこれが増訂されて一六箇条になっています。では書き下し文で読んでみましょう。父母に孝順なれ。長上を尊敬せよ。郷里に和睦せよ。子孫を教訓せよ。各々生理に安んぜよ。非為を作すなかれ。 江戸時代に、八代将軍・徳川吉宗は儒学者の荻生徂徠や室鳩巣に六諭の注釈を書くよう命じ、普及をはかりました。明治時代になって六諭のようなもの、つまり国民の道徳にかんする天皇の諭告(「諭吉」という字に似てますが違いますよ!)を出すべきだという議論が盛り土がり、その結果「教育勅語」がつくられたのです。たしかに勅語には六諭と似た儒教道徳を説いた箇所があります。「父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆二及ホシ」といったあたりで、勅語擁護派の人たちが「人類に普遍的な道徳で、なんら問題ない」と言う箇所です。 しかし、問題はなぜそれらの道徳が大事かという点です。勅語ではそうすることで一人前の「臣民」になり、「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」としています。いわゆる忠君愛国です。天皇家は「天壌無窮(この宇宙とともに永遠に続く)」であるから、「爾臣民(お前たち家来ども)」はこの「皇運(天皇家の繁栄)」のために命を捨てて戦えと言っているのです。国民の生命・財産を守るためのやむをえぬ自衛戦争ではなく、日本が世界の強国であることを示すために天皇の名で行われる戦争のことです。 明の六諭も同じです。なぜ家族や近隣と仲良くし、生業に励み、罪を犯すなといっているのか。それは明の政治秩序、皇帝制度を守るためです。君主(皇帝・天皇)が国民に対して道徳性を高めよと要求するのは、国民自身のことを思うからではなく、自分が頂点に立っている現行システムを盤石なものにしたいからなのです。「教育勅語」を「拳拳服膺(大事に守る)」することに私が同意できない理由はここにあります。 こういうことをきちんと知らないと、一部の文言にだまされて「すばらしい」と思ってしまいます。その成立経緯を知らないと「日本に伝統的にある考え方」だと誤解してしまいます。ある人が中国を見下していても、それはそれとして思想言論の自由で容認したいと私は思いますけれど、そういう人こそ中国由来のこうした考え方を批判すべきです。本居宣長が漢詩に対して和歌のすばらしさを説いたように、中国由来の儒教的な教育勅語は日本の「国体(国のすがた)」に合わないと主張すべきです。 もっとも、そもそも本居宣長が理想とした「物のあはれを知る心」をもつ人は、こんな肩肘張った教訓を金科玉条にしたりはしないはずです。教育勅語を信奉する人たちは、宣長のことばを借りれば「からごころ」つまり中国的な感性の持ち主だと、私は思います。小島毅著「日中二千年史」(ちくまプライマリー新書) 「第5章あこがれから軽蔑へ-近現代- 第2節教育勅語の思想背景」から引用 教育勅語が明治の政府によって発布されたのは1890年でしたが、それよりも500年前にすでに中国大陸で同じ内容の文章が公布されて、庶民の心得として広く宣伝されていたという、こういうことを教養として知っておくことは大切だと思います。安倍政権の時代には、関西の学園経営者が幼稚園児に「教育勅語」を暗唱させるシーンがテレビニュースで報道されて、昭恵夫人が「感動しました」とコメントしてましたが、あのような「不敬」なことは、教育勅語が「現役」だった時代を知る人にとっては「あり得ない」事態であったということも貴重な情報です。とかく「親を大切にしろ」とか「兄弟は仲良くしろ」とか聞けば、「ありがたい教え」だと思いがちですが、勅語を発布した明治天皇の「本音」は、そんなことを教えることではなく、文章の終わりにある「いざという時には、皇室を守るために命を捨てる気で戦え」を、国民の脳裏に刷り込むことであったわけで、これは別に、日本の伝統文化などというものではなく、中国では日本よりも500年も前に公布された、その二番煎じであったということを、知るべきです。
2024年02月13日
自民党はどのようにして有権者の支持を得ているのか、毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏は1月27日の同紙に、次のように書いている; 県議会議長だった故人の家で、大掃除を手伝ったことがある。事務所代わりだった広い酒蔵に、ゆうに1000を超える湯飲みや食器が何台もの棚にぎっしり収まり1週間かけても片付かなかった。 往年は選挙の度に千客万来。常に酒と食べ物を用意し、自由に飲み食いさせていたという。手伝ってくれる近所の人たちに、三度の食事も出さねばならない。 資金は元議長の老妻が、地場産品の商いで捻出。「稼いだお金は全部選挙に使っちゃった。赤ら顔であちこちの候補者宅を渡り歩き、くだを巻く人たちにはうんざり」とこぼしていたそうだ。 政治資金パーティーの裏金の使途は依然あいまいだ。憲法改正国民運動の資金作りとか、北朝鮮拉致事件解決の工作資金といった大志があったようでもない。大半は今も地方議員や支援者向けの飲食代に消えているのだろう。 国会議員秘書の仕事に、陳情で上京した地方議員や地元支援者の接待がある。それを楽しみに上京する人も少なくない。店選びから酒席の盛り上げ方まで、満足度が議員の人気を左右するからおろそかにできない。わざわざ隠し芸を習得する秘書もいる。 某元首相の事務所は、親族の女性秘書が金庫番だった。接待係のベテラン秘書が議員会館の廊下でなじみの陳情「客」に「では今晩、例のあそこで」と目配せしたら、部屋から「今月は使いすぎよ」と女性秘書の怒声が飛ぶ現場に出くわしたことがある。 公金を使った供応の集大成が、安倍晋三元首相の「桜を見る会」。裏金汚染の温床に、長期政権の腐敗があったのは疑えない。 地元の「たかり」に応じるうち、国会議員同士の会合もぜいたくな飲食が当たり前になってくる。経費もばかにならない。 最たる例は、岸田文雄首相である。「首相日々」に載る昼夜の飲食は、相手がいつも地元議員か党内の同じ顔ぶれなのに、庶民には縁遠い高級店がきら星のごとく並ぶ。きっと全部公金だ。 貧乏人のひがみか、景気振興のお手本だ、警備の事情だよ……。どんな弁護もむなしい。商売人が稼いだ金を使うのと政治家の政治活動は違う。外国要人も繁華街の居酒屋でもてなす時代だ。それにどんな高級料理も、仕事で緊張しながらでは味気なかろうに。 前にも書いたが、岸田派(宏池会)創設者の池田勇人元首相は在任中、大好きな待合(芸者のいる料亭)通いをやめると宣言し、毎晩自宅で晩酌をたしなんだ。派閥偽装解散より、公邸でコンビニ弁当を食すべし。(専門編集委員)2024年1月27日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-岸田メシ、うまいのか」から引用 この記事は、日ごろから自民党の政治家はどのような活動をしているのか、具体的に表現していて、野党があれだけまじめに活動しても自民党ほどの支持が得られない「理由」が、理解できる。我々は学校教育を通して、立候補者が自らの政策を訴えて、その訴えに共感した有権者がその候補者に投票すると学習したので、どの立候補者もそういう選挙活動をしているものと思っていたが、実は、自民党の候補者は学校教育で学習するような選挙活動などはほんの付録程度のことで、活動の主要部分は飲食の提供なのだ。つまり、多くの自民党支持者にとっては「選挙はお祭り」なのであって、選挙が始まったと知るとすぐに知っている候補者の事務所を訪問する。そこで、お茶だ、酒だ、食事だと次々とサービスされて良い気分になれば、その候補に投票する、というのが自民党支持者の投票行動のパターンなのであり、これでは共産党や立憲民主党は逆立ちしても自民党に追いつくことはない、という日本の選挙事情のからくりが理解できる。このような自民党のやり方ですっかり腐敗してしまった日本の政治を、なんとかまともな民主政治にしていくには、公職選挙法を改正して、「有権者に飲食の提供」を禁止するという条項を追加して、各政党間の政策論争から投票先を選択するという、本来の民主政治を実現するために、どのように有権者を「教育」していくべきか、という「議論」が必要と思います。
2024年02月12日
自民党の裏金事件について、東京地検は徹底解明を期待した国民を裏切って、議員逮捕は数名の例外に限定し、派閥幹部議員の責任を問わず、代わりに会計責任者を在宅起訴するという実に生ぬるい結果で、これまでの自民党の流れをそのまま温存する態度に出ていることについて、1月27日の東京新聞は次のように書いている; 政治資金パーティー裏金事件を巡り、東京地検が自民党安倍、二階、岸田各派の会計責任者らを政治資金規正法違反で在宅・略式起訴したことを受け、3派と森山派が派閥の解散を決めました。 同党の政治刷新本部がまとめた党改革中間報告は、裏金づくりの温床となり、人事や政策を数の力でゆがめてきた派閥について「本来の政策集団に生まれ変わらねばならない」と指摘し、政策集団としての存続は認める内容です。 派閥解消と復活を繰り返してきたのが自民党の歴史ですから、今回も派閥が本当に解消されるのか疑わしい。 東京新聞は社説で裏金事件を繰り返し批判し、政治資金の透明化を訴えてきました。 特に、22日掲載の長文社説「それでも政治は正せる」では「こうした状況を招いた責任は私たち有権者にもある。眼前の腐敗にまみれた議員たちを選んだのは私たち自身だからである」と訴えました。 読者からは、有権者に責任はないとして内容に不快感を示した意見もありましたが、多くは有権者の選択の大切さを強調するものでした。一部ですが紹介します。「政治に関心を持ち、より多くの人が投票すれば政治は少しは変わる」「裏金問題は自民党のおごり、野党の弱さと甘さ、国民の無関心さが原因だ」「自民党の金まみれは今に始まったことでない。こうした議員を飽きもせず国会に送る有権者の問題だ」 「派閥が解散しても、しばらくすれば新しい勢力が生まれ、自民党全体としてはあまり変わらないのではないか」との指摘もありました。 読者の鋭い指摘にはいつも刺激されますが、有権者が諦めてしまえば、日本の政治がより悪い方向に進むのは火を見るより明らかです。 年内に衆院解散・総選挙が行われる可能性もあります。私たちの民主主義があるべき方向に進むよう、読者の皆さんとともに権力監視を続け、言わねばならないことを言い続ける社説でありたいとの思いを一層強くしています。読者の皆さんからのご意見、本欄での談論風発の議論は大歓迎です。(と)2024年1月27日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「議論の森-政治の腐敗と有権者の選択」から引用 選挙といえばカネをばらまいて票を集めるというのが、自民党政治の基本です。しかし、民主主義の本質から考えるとカネで票を集めるというのは、「買収」と呼ばれる行為で公職選挙法に違反する「犯罪」ですから、さすがの自民党議員も建前では「買収はダメ」と口では言いますが、いざとなればそこら中にカネをばらまくというのは、私たちは過去に何度も見てきています。それでも自民党が与党でいられるのは、そういう腐敗した自民党であっても、選挙と言えば自民党に入れるという、ものを考える能力がないとしか思えない有権者が多くいて、腐敗した政党が与党の座にあぐらをかいていられる、これが現在の日本の姿であるわけです。本来、政治献金は個人がするものであり、個人の経済力の数百倍もの経済力を持つ企業が政治献金をするというのは、カネの力で権力を買収するのと同じですから、これは法律で禁止するべきです。現行の政治資金規正法の抜け穴を、すべてふさぐことも必要で、中でも政治資金報告書への虚偽記載については連座制の導入は不可欠です。会計責任者に罪をなすりつけて、議員本人はおとがめなしというのは、法律としての意味がないということで、これは是非とも改正するべきです。この法律の改定を議論するに当たっては、自民党議員を議会から排除して、企業献金とは縁のない野党だけでまじめに議論をして抜け穴のない法律を目指すという、これくらいの真剣な取り組みがないと、この国の政治はまともにはならないと思います。
2024年02月11日
政治家が現金収入を得た場合、それが政治資金であれば政治資金報告書に記載して国に届け出る、その他生活資金等は課税所得だから税務署に届けて、法定の税金を収めるものであり、それを怠ると「脱税」ということで告発されることになります。この度の自民党裏金事件では、安倍派だけでも数十人の議員が数千万円の所得をどこにも届け出ることをせずに裏金にして脱税をしたことが明らかであるのに、その裏金が理由で起訴された議員は3千万円を超える数名の議員だけで、裏金が2900万円だったことが発覚した荻生田議員は不起訴となっている。この「矛盾」について、経済学者の野口悠紀雄氏は、1月27日の東京新聞で、次のように述べている; 自民党派閥の政治資金パーティーを巡る裏金事件は、「安倍派5人組」をはじめ、ほとんどの議員が刑事処分を免れた。だが、経済学者の野口悠紀雄・一橋大名誉教授(83)は「税の問題」が解決されていないと指摘する。――今回の事件に脱税問題があると指摘されています。 安倍派の場合、還流は派閥から収支報告書に記載しなくていいと言われていた。政治資金であれば収支報告書に記載しなければならないので、政治資金ではないと考えざるを得ない。議員側もそういうものと理解して受け取ったということは課税所得だから、申告しなくてはいけない。申告しなければそれは申告漏れ、脱税だということになります。これはきわめて単純な論理です。――収支報告書の不記載額が3千万円以下だった議員は不問に付されそうです。 税っていうのは1円だってだめです。もちろん、当たり前のことです。――国民は申告漏れがあれば追徴課税されます。 そうです。何も悪いことをしていなくても税務調査を受けることもある。そうした場合、断れないですよね。ところが、なぜ政治家に対して行われないのか納得できないですよね。なぜ税務署が動かないのかと。――寄付やパーティー券収入を政治活動に使えば非課税になることについて、どう思いますか。 私はそのこと自体もおかしいと思っている。推察するに、政治活動は非常に崇高で、社会の役に立つ行為であると、だから課税しないと、たぶんそういうことじゃないですか。たとえば私は原稿を書いている。この原稿は社会の役に立つ、だから私の書いた原稿料の収入は非課税だと主張しても、絶対にそんなことは認められないでしょう。なぜ政治活動だけが特殊なんですか。非常におかしな制度だと私は思っています。――国会議員にはさまざまな特権があります。 歳費は課税所得ですが、調査研究広報滞在費や立法事務費とか、いろいろ非課税の所得があります。これも納得できないですよね。――税の問題はこのままでいいのでしょうか。 国会議員は税制を決める立場にあるのに、税制上の取り扱いが不公平なのは問題です。私は税制を誤れば国が滅びると思います。歴史上、革命というのは大体、税に対する不満をきっかけにして起こっているんですよ。その一番有名な例がフランス革命で、一部の特権階級は課税を免れ、人民は重い税負担に苦しんでいた。アメリカの独立戦争もそうですね。イギリスが植民地のアメリカに対して、不当に重い税をかけ、それに対して不満が爆発した。ですから、税の不公平は国を滅ぼすだろうということを言っているんです。――今後、どうするべきでしょうか。 政治資金を非課税にすることの是非について問題にすべきでしょうね。そこを議論し、そしてもし不適切であれば、それはあらためるべきでしょう。<のぐち・ゆきお> 東京生まれ。専門は日本経済論、ファイナンス理論。1964年、旧大蔵省入省、72年米エール大で経済学博士号取得。一橋大教授、東京大教授、早稲田大大学院教授などを歴任。「『超』整理法」「どうすれば日本経済は復活できるのか」など著書多数。2024年1月27日 東京新聞朝刊 12版 23ページ 「政治とカネ・自民党裏金事件-税逃れの『特権』おかしい」から引用 この度の自民党裏金事件で、検察がなぜ3000万円という線引きをして3000万円以下の「脱税」を不起訴にしたのか、検察官を正義の味方と考えれば、これは大きな「矛盾」となります。しかし、日本のように政治が大きく歪んだ社会では、検察もそれなりに歪んでしまうというのが社会の特質というもので、おそらく担当の検察官は、ここであまり杓子定規に法律を振り回して、その仕返しに自分が退職するまでの間に、不当な圧力が加わって迫害されかねないから、ここは有力議員には「不起訴」で恩を売っておくのが得策、というような計算をしているとしか考えられません。野口氏は「不公平税制が革命の発端」と言ってますが、それは欧米の話で、日本では人民が革命を起こして成功した経験はまだなく、「おれは政治家だ」と根拠もなく発言する人間にわけもなく投票する政治感覚ゼロの有権者が、この歪んだ社会を継続していくものと思われます。「政治活動は崇高なものだから、政治資金には課税しない」などという理屈は、おそらく政治家自身が勝手に言いふらして愚かな有権者を騙したセリフであり、実際は地位を利用してウソとごまかしでやりたい放題をしているのが政治家の「実態」であり、崇高さのカケラもありはしないという「現実」を、メディアはもっと国民に知らしめるべきだと思います。
2024年02月10日
埼玉県の県立公園を管理する公益財団法人が、誰とも知れぬ者から「クルド人に公園を貸すな」という差別むき出しの電話があったからとの理由で、毎年許可してきたクルド人の春の祭りを禁止するつもりだったことが発覚した。1月24日の東京新聞は、ことの経緯を次のように報道している; さいたま市の埼玉県営秋ケ瀬公園で毎年春に催してきたトルコなどの少数民族・クルド人の伝統的な春の祭り「ネウロズ」について、公益財団法人の県公園緑地協会が一時、主催者に「今春の利用は認めない」と伝えていたことが明らかになった。クルド人に公園を貸すなとの電話を受けたなどとして、協会は「安全が担保できない」と説明した。その後開催を認めたが、祭りに必要な楽器演奏をしないことを求めた。専門家は、協会が差別的な主張を受け利用を認めなかったのは地方自治法上の問題があると指摘する。(池尾伸一、飯塚大輝) ネウロズはクルド語で「新しい日」の意味で例年3月に開催。伝統衣装をまとった人々が演奏に合わせ踊る。荒川河川敷にある秋ケ瀬公園は東京ドーム20個分の101ヘクタールの広さ。新型コロナウイルス禍を除き2018、19、23年に園内で開かれてきた。日本人も多数参加し、クルド文化に接する場にもなってきた。 今年は3月20日の開催に向け、クルド人支援団体「在日クルド人と共に」の関係者が、1月4日に協会の公園管理事務所に利用を申し出たところ、事務所長が「反対する人たちが来ると、安全を担保できない」と難色。13日には、役員との協議で「使用許可しない方針」と伝えてきた。 その後、県と協議したとして「音楽抜き」の開催を認める方針を伝達。クルド人の集まりである日本クルド文化協会が「音楽と踊りは一体であり、祭りが成立しない」と主張すると、23日の面談では「音楽を流すのはよいが、楽器演奏は禁止」と転じた。 地方自治法は正当な理由がない限り公共施設の住民の利用を阻んではならないと定めており、クルド難民支援に取り組む大橋毅弁護士は「一部の人の『クルド人に貸すな』という要求は差別的主張で、それに基づいて県や協会が使用不許可とするのは違法」と指摘。その上で集会の自由を保障する憲法違反の疑いもあるとした。 管理事務所長は23日、使用不許可とした点に「危険があるという具体的な事実がないのに不許可としたのは誤っていた」と謝罪した。県公園スタジアム課は「妨害を予告するなどの脅迫はなかった」と認めた。 一方で、管理事務所長は「園内は一律に演奏や練習は禁止している。これまで演奏しているのを知らなかった」と説明。クルド人側は「これまでも、演奏してきたのに知らないのはおかしい。CDで音楽を流すのも演奏も音量面では影響は変わらない」と当惑する。 クルド文化協会のワッカス代表理事は「伝統楽器の演奏は私たちの重要な文化であり演奏抜きでは厳しくなる」と指摘。他の場所での開催も検討する考えを示した。2024年1月24日 東京新聞朝刊 12版 23ページ 「伝統の祭り、一時認めず」から引用 私たちの日本は、言論は自由であるが、しかし、それは何を言うのも自由というわけではなく、発言には責任を持たなければならないという常識が存在することも忘れてはなりません。したがって、公園を管理する事務所も「クルド人に公園を貸すな」と言ってきた時には、正当な理由に基づいた発言なのかどうか尋ねるとか、「当事務所は、そのような差別発言を聞き入れることはあり得ません」とはっきり断るべきだと思います。憲法が補償する民主的な社会は、すべての国民の不断の努力によって維持されると憲法にも書いてあるとおりであり、公園管理事務所といえども差別発言を抑止するために、電話を受信した冒頭で「社会正義を維持する目的で、この電話は発信元電話番号の記録と発言内容を録音することをご了承ください」というようなコメントを流すのが良いと思います。
2024年02月09日
中国東北部を侵略した日本軍がでっちあげた傀儡国家「満州帝国」には、帝国としての体面を保つ目的で日本政府が国内の自治体に「満州への移民」を奨励し、「奨励」だけでは足りないと分かると農村部を「満州に移る人と地元に残る人」に分ける「分村移民」などという妙な標語を作って「満州」への移民を義務付けたりしたのであったが、敗戦直前の1945年春に長野県河野村から移住した95人の村民は、移住後数か月でソ連が参戦することとなり、その時点では「満州帝国」の「国民」を守る「軍隊」は存在せず、移住して間もない河野村から来た人々は逃げることもできず集団自決したという「事件」があった。戦後そのことを知った河野村村長は責任を感じて自死し、その後生まれた村長の孫は、つい最近になってそういう「歴史」を知ったといういきさつを、1月24日の東京新聞が、次のように報道している; 戦時中に旧満州国(中国東北部)の満蒙開拓移民として送り出された長野県旧河野村(現豊丘村)の村民の多くがソ連の侵攻時に集団死し、村民を送り出した村長は自責の念に駆られて自死した。一連の悲劇はなぜ起きたのか。村長の孫で医師・劇作家の胡桃沢(くるみざわ)伸さん(57)が28日、東京都三鷹市で「河野村開拓団と祖父と私」と題して語る。(佐藤直子) 「幼いころ、祖父の盛(もり)は戦争で死んだと聞かされていた。けれど、近所の子に『おまえのおじいちゃ(祖父のこと)は自殺した』と突然言われたことがあって」。胡桃沢少年は尋ね返せなかった。親にも聞けなかった「真相」を知るのは37歳のときだ。 一つの記事が地元紙に載った。大戦中に農業移民や青少年義勇軍などとして渡満体験を持つ人に聞き取りを進めていた飯田市歴史研究所に、父が盛さんの遺品の日記を寄贈したことを伝えていた。「君のおじいさんのことでは」と言って友人が記事を送ってくれた。1932年、中国に傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国した日本は、農村部などから移民を送り出し、その数は敗戦までに27万人。日米開戦後は、町村単位で地元に残る人と満州に送る人を分ける「分村移民」を推進し、各自治体に送り出し人数が割り当てられた。当時河野村長だった盛さんは分村移民を決断した一人だった。45年春、27世帯、95人を吉林省に送り出している。 しかし開拓団の成人男性は敗戦直前に徴兵され、村に残った女性や子ども、高齢者73人は、ソ連軍侵攻時に日本人に土地を奪われた中国の人たちに襲われ、帰国をあきらめて集団死。翌年、悲劇を知った盛さんは村民を送った罪責から自ら命を絶った。42歳だった。 「悩んだ末の決断とはいえ、村民を送り出し、死に追いやった責任を感じて祖父は生きていけなかった」。事実の重さに打ちのめされながらも、胡桃沢さんは事実から学ぼうとした。 河野村と同じ下伊那内の阿智村にある満蒙開拓平和記念館に足を運び、河野村の集団自決をただ一人生き延びた男性に会った。中国の河野村開拓団入植地も訪ねた。盛さんの日記からは、国策にのまれていく祖父の姿を見た。 「くるみざわしん」の名で戯曲を発表してきた胡桃沢さんには、日本軍慰安婦など戦時性暴力や、町おこしのために放射性廃棄物の処分場誘致を画策する男を扱った作品などがある。 戦争の加害や国家の欺瞞を見つめてきた劇作家は今、祖父の過ちや故郷の悲劇も自ら語ろうとしている。 「厳しい言い方だが、祖父は村長として甘かった。国に協力しない者は非国民と非難された時代、国策に従わない選択はなかったと言う人もいる。けれど、僕はその声にうなずきたくないんです」と胡桃沢さん。 身内の痛みをもあえて語る。なぜか。「次の新たな戦争に加担しないためです。祖父の誤りを語るのは孫である僕の役割。僕が言わなくて誰が言えますか?」 講演会を三鷹市と共催するNPO法人「中国帰国者の会」の前身は、旧満州に放置された「中国残留婦人」の一人、鈴木則子さんら十数人で1982年、産声を上げた。事務局次長の橋本美緒さんは「胡桃沢さんの講演を通して満蒙開拓とはなんだったのかを考えたい」と話す。 会場は三鷹駅前コミュニティーセンター。開演は午前11時半(開場同11時)。胡桃沢さんの話のほか、信越放送制作ドキュメンタリー「決壊 祖父が見た満州の夢」の上映などがある。定員60人。参加無料、事前申し込み不要。2024年1月24日 東京新聞朝刊 11版 20ページ 「国策に加担、祖父は誤った」から引用 戦時中の日本は軍部がでっちあげた「満州帝国」を、あたかも支援するかのような演出をして、始めは「満蒙開拓団」などと称して、いかにも未開の地を日本人の力で「開拓」するのだというふりをしていたが、実際のところはその「満州」にも何千年も昔から住んでいる中国人がいたのであり、その中国人の家屋と田畑を軍が武力で威嚇して奪い取り、それを日本からきた「移民」に分け与えるという「暴挙」を行っていたために、ソ連が参戦するらしいと知るや、「満州帝国」の官僚も軍隊も「国民」には知られないように、あっという間に逃げ出し、実際にソ連軍が侵入して来たときには、日本軍がいなくなったことを知った中国人が、自分たちの家と田畑を返せとばかりに日本人に襲いかかるという場面も多くあったということのようです。元から住んでいる人々を追い払って自分たちのものにするというやり方は、現代のイスラエルがパレスチナに対してやっていることであり、日本が中国でやったときは英米が「やめろ」と言い、それを聞き入れなかった日本と戦争になったのでしたが、現代では戦後数十年にわたって、イスラエルのパレスチナ侵略を欧米が「支援」するという歪んだ世界になっているのが、大変残念な点です。
2024年02月08日
昨年秋に亡くなった歴史学者の中塚明氏について、同じく歴史学者で佛教大学名誉教授の原田敬一氏が1月23日の「しんぶん赤旗」に、次のような追悼記事を書いている; 日本近代史研究を牽引(けんいん)されてきた中塚明先生が2023年10月29日に亡くなられた。享年94歳だった。 中塚先生の講義を聞いたのは1970年代で、主著である『日清戦争の研究』(68年)の刊行後、間もなくの頃だったと思う。 その頃は、日露戦争研究は多かったが、日清戦争に注目する研究者はほとんどいなかった。それを切り開いた一人が中塚先生だった。先生は、とりわけアジア侵略を続けた日本を批判する問題意識を持ち続けた。 94年に中国の威海(いかい)市で、日清戦争100周年の国際学会が行われ、入江昭ハーバード大学教授(当時)の記念講演や日中両学界の研究者が報告し議論した。その帰りに北京まで列車で同行した際、「よくもこんなに広い所を支配できると思ったものだ」と言われていたのを思い出す。 この時の日本人研究者たちが発起して、95年に東アジア近代史学会が立ち上がるが、先生はその中心で、2代目会長を務められた。 先生は先の主著を刊行された翌年の69年には、『近代日本と朝鮮』を発表された。「他民族を圧迫し、侵略することについて、侵略を侵略とも思わぬ不感症を、われわれ日本人のあいだにつちかってきた」という戦前から戦後に続く歴史意識への強烈な批判のもとに書かれたこの本はよく読まれ版を重ねた。 福島県立図書館で、隠された参謀本部史料を発掘され、『歴史の偽造をただす』を97年に刊行された。日清戦争は清との豊島(ほうとう)沖海戦で始まったのではなく、漢城(現在のソウル)での日本軍の王宮占領作戦から始まったという説は、その後、学界にも広く受け入れられた。 そうした研究は、井上勝生北海道大学名誉教授と朴孟洙(パク・メンス)韓国・円光大学校教授(当時)との共著『東学農民戦争と日本』(2013年)として広く世に問われた。井上さんや朴さんたちと東学農民戦争の共同研究会をしているとき、突然中塚先生が現れた時は驚いた。02年に始められた、東学農民戦争の現場を訪ねる旅は、多くの参加者が先生の丁寧な説明を聞きに集まっていた、その途中だった。行動する歴史学者であり、日本学術会議会員として社会に歴史学の重みを伝える役割も果たされた。 「過去にまじめに向き合い、歴史の真実に真っ正面からとりくむ」(同書あとがき)という姿勢を貫いた研究人生だった。後進として胸に刻んでおきたい。<はらだ・けいいち 佛教大学名誉教授・日本史研究会元代表委員>2024年1月23日 「しんぶん赤旗」 8ページ 「日清戦争研究切り開く」から引用 中塚氏がその著書で主張した「侵略を侵略とも思わぬ不感症」というものを、これからの日本人は正当に批判し克服すべきものと私は考えます。私たちは、同じ東アジアの住民として、この地域に暮らしどのような歴史をたどって今日に至ったのか、かつて起きた歴史の事実を明らかにし、共通の歴史観をもって共に将来を展望する、そのような東アジアであってほしいと思います。
2024年02月07日
陸上自衛隊の幹部数十人が通常勤務の時間帯に公用車を使って靖国神社を参拝するという憲法違反の行為を行ったことについて、1月21日の北海道新聞は社説で、次のように批判している; 陸上自衛隊の小林弘樹陸上幕僚副長ら数十人が、東京都の靖国神社を集団で参拝した。 小林副長らは時間休を取得していたというが、防衛省からの移動に公用車を使っていた。 参拝前には、陸自の担当部署が、新年の安全祈願として実施計画を作成しており、防衛省はこれを行政文書と認めている。 参加者は「公式参拝的な意味合いではない」との趣旨の説明をしたというが、一連の経緯をたどれば、公務の延長で組織的に参拝したと見られても仕方あるまい。 憲法の政教分離の原則を踏まえ、防衛省は事務次官通達で、宗教の礼拝所への部隊の参拝や、隊員への参加の強制を禁じている。 実力組織である自衛隊の隊員が先の戦争を正当化する歴史観を持つ靖国神社に集団参拝するのは海外からも不信を招きかねない。 集団参拝はなぜ行われたのか。防衛省は厳正に対処し、同様の行動がほかでも行われていないか、全組織を徹底調査すべきだ。 参拝した数十人は、陸自の航空事故調査委員会の関係者で、小林副長はその委員長だった。 参拝当日の午前、小林副長は東京都内の防衛省に出勤していたという。時間休は午後から取って、私服で靖国神社を訪れ、職場との間を公用車で往復した。玉串料は私費で払っていた。 小林副長は自衛官で最も階級が高い陸将だ。この程度の行動なら問題ないとの認識が隊内に広がっていた可能性もある。 防衛省は通達違反の疑いで調べているが、恒例行事として過去にも行われていなかったか、文民統制は機能していたかなど、あらゆる真相をつまびらかにすべきだ。 靖国神社は戦前、国家神道の中核をなす軍の所管機関だった。東京裁判のA級戦犯を合祀(ごうし)する。 閣僚ら政治家の参拝が侵略戦争の肯定と受け取られかねないと、たびたび問題となってきた。首相の参拝は2013年の安倍晋三氏を最後に行われていない。 平和憲法下で創設された自衛隊は、旧軍の軍国主義的な発想と関係を断つことが大前提である。 日本は近年、急速に防衛力の増強を続けている。国を挙げた体制の強化が、自衛隊内部に緩みをもたらしてはいないか。 自衛隊が能登半島地震の救援に取り組む真っ最中に、このような問題が起きるのは極めて残念だ。 防衛省は、再発防止だけでなく、自衛官の規範意識を高める教育を改めて徹底すべきである。2024年1月21日 北海道新聞・社説ウェブサイトから引用https://www.hokkaido-np.co.jp/article/965614/ 靖国神社は上の社説が指摘するように、戦前は国家神道の中核をなす施設で陸軍と海軍が共同で所管しており、徴兵された日本軍兵士は「戦場で命を落とした者は、この神社に祭られる」と教え込まれて、戦意高揚に利用された施設だったのであり、侵略戦争に敗北して陸軍・海軍が廃止されたときは、当然一緒に当該神社も廃止するべきであった。しかしながら、当該神社はそれまでの天皇が参拝する格式の高い神社という「プライド」を捨てて、どこにでもある普通の神社として(一般の宗教法人として)東京都に届け出をだして戦後の社会に生き延びることができたのであった。戦後になって、靖国神社に総理大臣が参拝すると韓国や中国からクレームが来るようになったのは、60年代に戦後処理を担当していた厚労省(当時は厚生省)官僚が東京裁判で有罪判決が下った戦犯14名を当該神社に合祀するように書簡を極秘に送付したのであったが、その時の宮司は受領した書簡を保留にして直ちに行動することを控え、次の代の宮司になって密かに合祀されたことが、数年後に発覚する事態となったのであり、それが元で、それまでは毎年参拝して戦死者を弔っていた昭和天皇も、それ以来当該神社参拝を取りやめることとなったという、いわくつきの神社である。政治家や官僚、とりわけ防衛省の要職にある官僚は政教分離の原則に抵触することのないように行動を慎むべきである。
2024年02月06日
二酸化炭素の過度な排出が異常気象の原因だから、とのことで化石燃料を燃やして発電する方式を近い将来停止することを目標に、30年ほど前から国際会議を重ねてきているにも拘わらず、代替エネルギーである再生可能エネルギーによる発電事業の発展を極力妨害していく方針の日本政府の政策について、1月21日の「しんぶん赤旗」は次のように批判している; 2023年は過去12・5万年で最も暑い年となるなど、世界で異常気象による災害が頻発し甚大な被害が発生しています。グテレス国連事務総長は「気候崩壊の始まり」と厳しい警告を発し、世界の平均気温上昇を産業革命前から1・5度以内に抑えるための二酸化炭素の排出削減対策、行動の加速化が切迫した課題となっています。 昨年のCOP28(国連気候変動枠組み条約第28回締約国会議)では、「30年までに再生可能エネルギー(再エネ)の設備容量を3倍、エネルギー効率を2倍にする」誓約に日本も含め120力国以上が賛同しました。 日本も「再エネの主力電源化」を掲げていますが、実際は再エネつぶしの政策が進められています。 ◆ ◆ 日本共産党の岩測友参院議員が昨年12月の経済産業委員会で、23年4月~10月の再エネ出力抑制量が前年同期間比で7倍にも達していることを明らかにしました。 経済産業省は電力の需給(発電と消費)バランスが崩れると停電が発生することがあるとして、「優先給電ルールに基づき、火力発電の出力抑制や連系線、揚水、蓄電池の活用等の対応を図りつつも、供給が需要を上回る場合、再エネの出力抑制を行う」としています。 原子力発電については「出力制御は技術的に困難」として、抑制実績はありません。火力発電の出力抑制も不十分です。 現行の「優先給電ルール」は、原発優先、火力発電温存で原発利益共同体、大手電力に都合の良いルールで、再エネの電力を大量に捨てることになります。さらに、出力抑制分の補償はなく、「同様の出力抑制が続けば、今後10年の売電収入が2億~3億円吹っ飛ぶ」との窮状も報告されるなど、再エネ事業をつぶす方向に働きます。 欧州では再エネ指令(09年)で再エネ電源の優先給電が明確に義務づけられ、再エネに先んじて石炭火力や原子力の出力抑制が行われます。ドイツでは出力抑制は原則として補償されます。 ◆ ◆ 経産省によれば、23年度の再エネの出力抑制は東京電力以外の全地域で実施され17・6億キロワット時の見込みです。自然エネルギー市民の会の声明(23年9月)では、「約41万世帯の年間消費量に相当し、475億円分の価値がある」としています。 COP28で日本は化石燃料の廃止に激しく抵抗し、会期中に2回も「化石賞」を受賞、世界中から批判されました。 今年はエネルギー政策の基本的な方向性を示す「エネルギー基本計画」改定が予定されています。「脱炭素」の名で原発推進と水素・アンモニア混焼で石炭火力の延命に突き進む原発利益共同体、大手電力と、化石燃料の完全廃止、再エネ導入加速を求める国際的潮流、国民の声とのせめぎ合いとなります。 「危険な原発はゼロに、再エネこそ拡大」「石炭火力の廃止」を願う国民の声が反映するエネルギー政策への転換が求められています。<安部由美子(あべ・ゆみこ 日本共産党国会議員団事務局)>2024年1月21日 「しんぶん赤旗」 日曜版 24ページ 「経済これって何?-電力捨てる一方、原発推進し火発温存」から引用 欧州では再エネ電源の優先給電が法律で義務づけられ、石炭火力や原子力の出力抑制が行われている、これは合理的な政策が実行されていることを示しています。しかし、大手電力会社や大企業の裏金で成り立つ自民党が与党の日本政府の場合、このような将来を見据えた合理的な政策は、立案も実行もできず、目先の利益のために、せっかく出来上がった再エネ発電による電力は無駄に捨てさせて、その補償もしないということでは、日本はいつまで経っても二酸化炭素を排出し続け、有害な放射性廃棄物を、この狭い国土に貯めこむこととなり、人間が住めるスペースを狭めることになります。今の日本政府は将来の我々の子孫の生活のことはまったく考慮していないということです。このような政府で良いのかどうか、国民は真剣に考えなければならないと思います。
2024年02月05日
元日に起きた能登半島地震のときに、メディアがボランティアに行こうとしている人々に「能登には行くな」と呼びかけたことについて、文芸評論家の斎藤美奈子氏は1月17日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 能登半島地震から2週間の14日。《「道路が渋滞するから控えて」ではなく、「公の活動を補完するために万難を排して来て下さい」と言うべきでした》。防災研究の第一人者で石川県の災害危機管理アドバイザーを務める室畸益輝さんが朝日新聞電子版のインタビューで語った言葉だ。 振り返ると・・・。4日、深刻な渋滞を理由に石川県警が輪島市や珠洲市に向かう車両を制限、国交省北陸地方整備局が一般車両の能登への移動を控えるよう呼びかけた。同日、岸田首相が同様の要請を行い、5日には林官房長官と石川県の馳知事が続いた。同日、社民やれいわを除く与野党党首が国会議員の視察の自粛を申し合わせた。 このへんからメディアは能登に行くなの大合唱となり、影響力のある政冶家や著名人が同様の情報を拡散。5日に現地入りした山本太郎議員はほぽ非国民扱いされた。私たちはいわば「大本営発表」に乗ったのだ。 災害対応には自衛隊、消防、讐察などの官だけでなく民の力が欠かせない。が、先の宣伝効果で専門性の高いボランティアまで現地に行くのをためらった。《悔恨の念にかられています》と語る室崎さん。17曰で阪神・淡路大震災から29年。以来蓄積されたノウハウを能登の初動では生かせなかった。現地を見もせす自粛要請を右から左へ流した首相と知事の責任は重い。(文芸評論家)2024年1月17日 東京新聞朝刊 11版 21ページ 「本音のコラム-自粛の背景」から引用 阪神・淡路や熊本の大地震は都会で人口も密集している地域で、道路も地割れや倒壊した建物ので通行不可の部分があるにしても、迂回して行く方法もあり、遠くない位置に自衛隊の基地もあり、それなりに迅速な対応ができていたのでしたが、それが地震に対する普通の対応だと思っていたのは間違いで、今回のような過疎の地域で幹線道路も1本しかないような地域で大地震が発生した場合は、今まで見たような迅速な対応はできないのだということを、私たちは気づかされたように思います。能登半島のような人口過疎の地域は、日本列島の至るところに存在するわけですから、そういう地域には災害時にどのように対応するのか、平素から対策を検討しておくべきだと思います。
2024年02月04日
日本テレビの人気番組「ザ!世界仰天ニュース」が安倍政権時代の森友問題を取り上げたことについて、現代教育行政研究会代表の前川喜平氏は1月14日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 9日の日テレ「ザ!世界仰天ニュース」は、森友学園問題の経緯、公文書改竄(かいざん)と赤木俊夫さんの自死、妻雅子さんの真相追究の苦闘を伝える注目すべき番組だった。この番組で初めて事件を知った人も多いはずだ。安倍晋三元首相が殺害され、菅覊偉元宣房長官が政権を離れて圧力が弱まったから作れた番組だろう。 番組では、自分と妻の関与を否定した安倍氏の答弁をきっかけに、佐川宣寿元財務省理財局長の忖度で改竄が行われたとされ、ヒロミの発言も忖度を強調していた。しかし番組の副題は「文書改ざんの謎」。中居正広は「こういう風に(蓋を)される前例」「そういう人(再調査する政治家)が出てきて改めて解決しようよとか・・・など、事件の未解明・未解決を示唆する発言をしていた。 最後の雅子さんの言葉には驚いた視聴者が多かったろう。佐川氏が真相を話してくれたら裁判をやめると語った上で彼女はこう言ったのだ。『公文書の改竄の責任を一人負わされて、このまま佐川さんはつらい道を生き続けなければいけないんだなと思うと本当に気の毒な気がしました。近畿財務局の中で夫が一番の被害者だとしたら、財務省の中での被害者は佐川さんなのかなと思います」。佐川氏が被害者なら加害者は誰なのか。番組は触れなかったが、それは安倍氏と菅氏だと僕は確信している。(現代教育行政研究会代表)2024年1月14日 東京新聞朝刊 11版 25ページ 「本音のコラム-ザ!世界仰天ニュース」から引用 日本テレビと言えば、安倍晋三応援団みたいな読売新聞の系列会社だと思っていたが、森友問題を検証する番組を放送するとはなかなか勇気の要る仕事をするものだと思いました。森友学園は小学校を建設する目的で近畿財務局が管理する国有地を購入するとき、建設予定の小学校の名称を「安倍晋三記念小学校」とするとか、安倍昭恵氏を名誉校長にするなどホームページに公表すると、購入予定の土地の価格が8億円も値下げされて、ただ同然の低価格で森友学園が取得できたのであったが、法律上はどのような手続きやいきさつがあってそのような値下げが可能となったのか、安倍首相の意向があったのかなかったのか、すべては今も闇の中である。あまり遠くない日に、すべての真実を明らかにするべきであり、政権交代が実現すれば、それは可能だと思います。
2024年02月03日
元日からの大地震で原子力発電所にはどのような被害があったのか無かったのか、電力会社は沈黙しメディアも当たらず触らずという態度に徹しているが、14日の「しんぶん赤旗」はジャーナリストの添田孝史氏の報告を、次のように報道している; 激震地に近い石川県志賀(しか)町の北陸電力志賀原発(運転停止中)。今回の地震で安全上の重大な問題点が浮き彫りになっています。原発問題に詳しい科学ジャーナリストの添田孝史さんがリポートします。 元日に発生した能登半島地震で、志賀原発の安全対策で2つの大きな問題が明らかになりました。◆活断層を過小評価 一つは活断層を過小評価していたことです。もう1つは、もし原発で事故が起きていたとしたら、住民の避難はとても出来そうにないことです。 政府の地震調査委員会は、今回の地震で動いた断層の長さは能登半島北岸に沿う約150キロと見ています。しかし北陸電力が想定していたのは96キロで、3分の2に過小評価していたことになります。 北陸電力の資料によると、この判断の根拠は海底の音波探査の結果でした。この調査方法では、将来起きる地震の規模を評価することが難しいということになれば、ほかの原発の審査にも影響を与えることになります。 北陸電力による地震想定の失敗は、2007年の能登半島地震に続いて2回連続です。前回も、海底活断層の長さを過小評価していて、想定より大きな揺れに襲われました。◆道路壊れ避難困難 もう一つ深刻なのは、地震と原発事故が同時に起きる原発震災では、避難が難しいことが目に見える形で実証されたことです。 激震地の輪島市や穴水町、七尾市は原発から30キロの圏内です。全壊した住宅で屋内退避はできません。避難しようにも道路は寸断されています。避難の夕イミングや方向を決めようにも、放射線のレベルを調べるモニタリングポストが機能を失い、輪島市と穴水町に設置された14力所で計測不能になりました。情報を得ようにも携帯電話もつながらない。これでは逃げようがありません。 地震のわずか1ヵ月前、経団連の十倉雅和会長が志賀原発を視察し、「一刻も早く再稼働できるよう心から願っている」と述べました。しかし、北陸電力が活断層の評価を何度も間違え、その原因も究明されず、事故発生時の避難が困難な原発を動かすのは、あまりにも危険です。今回の地震の影響で、志賀町沖の海底活断層が地震を引き起こしやすい状態になっているという試算もあります。 海底活断層の再評価や、避難計画の実効性の検証は、すでに再稼働している原発でも必須です。<そえだ・たかし> 元朝日新聞記者。福島第1原発事故の国会事故調査委員会で津波分野の協力調査員。著書『東電原発事敵 10年で明らかになったこと』(平凡社新書)など2024年1月14日 「しんぶん赤旗」 日曜版 6ページ 「志賀原発はもう再稼働できない」から引用 能登半島は人口の少ない過疎地域のようで、県庁所在地の金沢市から半島の最先端まで行く道路は1本しかないのだそうで、それが地震で寸断されてしまうと被災者は避難ができず、救援物資の輸送も滞ることとなるのは、連日のテレビ報道で見るとおりです。その一本しかない道路の能登半島最先端と金沢市の中間に位置するのが志賀原発で、原発の周囲に設置されたモニタリングポストは今回の地震で故障をきたし、どれもまともに作動できない状態になってることが報道されました。今回は幸いにも原発が停止中だったから大事には至っておりませんが、地震は原発の停止・稼働に関係なく突然起きる自然現象ですから、毎回「幸い」なタイミングに恵まれる「保証」はないのであって、今回の地震によって、志賀原発の場合、不幸にして事故に見舞われた場合は半島の住民は逃げ場がなくなることが証明されました。こうなったからには、北陸電力は志賀原発の稼働は諦めて、直ちに廃炉作業に取り掛かるのが、損害を最小限に食い止める道だと思います。
2024年02月02日
太平洋戦争の折、旧日本軍は戦地で捕虜にした米英やオランダ軍など連合国兵士16万人を日本に連行し、国内各地の工業地帯に配置して武器製造などの強制労働に従事させたのであったが、その実態を横浜市の市民団体が古文書等の史料を調査しまとめた結果を「捕虜収容所・民間人抑留所事典」として昨年暮れに出版した。その内容について、14日の神奈川新聞は次のように報道している; 太平洋戦争時の外国人捕虜の実態を調べている市民団体「POW研究会」が20年以上に及ぶ研究成果をまとめた専門書「捕虜収容所・民間人抑留所事典」を昨年12月に刊行した。旧日本軍は連合国側の戦争捕虜3万6千人を国内連行し、約1割に当たる3559人が暴力や劣悪な環境から命を落とし、在日外国人の民間人も約1200人が抑留された。戦時下の捕虜や民間人抑留の全体像をまとめた研究図書は過去になく、市民研究者たちが知られざる「戦争犯罪」の歴史の閤に光を当てた。(深沢剛) 開戦直後から・アジア太平洋地域の占領地を拡大した旧日本軍は米英やオランダなど連合国兵士16万人を捕虜とした。徴兵による日本国内の労働力不足を補うため、一部が本土へ送られることになったが、輸送船が連合国の攻撃を受け約1万1千人が海に沈んだ。日本に着いた約3万6千人が全国130ヵ所の収容所に送られた。 日本は当時、捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約を批准していなかったが、開戦後に条約の「準用」を国際社会に宣言した。しかし、実際には収容所職員による捕虜の暴行や虐待が横行し、赤十字国際委員会からの救援物資も横取りされて十分な食料や医療も与えられず、強制労働により衰弱した。 草の根の研究成果を996ページにまとめた事典には、京浜工業地帯を抱えて全国最多16力所が設置された県内の収容所も詳述。少なくとも2500人以上が収容され、213人が亡くなったとされる。 ■大船収容所 横須賀海軍警備隊植木分遣隊(通称・海軍大船捕虜収容所)は唯一の海軍の収容所で1942年に現在の鎌倉市植木に開設。ジュネーブ条約で敵兵を捕虜とした場合は国際赤十字への通報義務があったが、大船収容所は捕虜の存在自体が秘密にされ、禁じられている捕虜への尋問が行われていた。通報されない捕虜は国際法の保護を受けることができなかった。 2週聞から数力月に及ぶ抑留で捕虜たちは尋間官の質問を拒否すれば殴打され、食事を抜くなどの懲罰を受け6人が亡くなった。捕虜の中には撃墜王と呼ばれた米海兵隊少佐や元五輪陸上選手ルイス・ザンベリーニもいた。 ■横浜公園球場 東京俘虜収容所第3分所は横浜スタジアム(横浜市中区)の前身となる横浜公園球場のスタンド下を宿舎として利用した。 軍の指示で病人も港湾荷役や工場で強制的に働かされたが、所長の将校は温情のある元僧侶で捕虜からも評判が高く赤十字の救援物資も公平に配られた。ある程度の自由も許され、元捕虜から「(他と比べ)日本一の収容所」と評された。 ■三菱ドック 東京俘虜収容所第1派遣所は横浜市神奈川区の倉庫街に開設し、捕虜は現在のみなとみらい21地区にあった三菱重工業横浜造船所のドックで働かされた。 1日10時間、休日は月2日で病気でも重労働を強いられた。捕虜への暴力か横行し、靴が汚れているだけで懲罰を加えられた。54人が栄養失調などで亡くなり、戦後の横浜裁判では「京浜地区ワーストの収容所」として県内の収容所で唯一、所長が絞首刑となった。 ■民間人抑留所 太平洋戦争が始まると、軍人でなくても連合国の国籍を持つ在日外国人も抑留された。全国で約1200人が自由を奪われ、そのうち50人が亡くなった。 県内5ヵ所の抑留所のうち、神奈川第1抑留所は43年に旧横浜競馬場(横浜市中区)から旧北足柄村(現在の南足柄市)の山荘に移転。厳冬の中で暖房も食料もなく1割に当たる5人が亡くなった。収容所は戦後、北足柄小学校(現在は廃校)となった。2024年1月14日 神奈川新聞朝刊 1ページ 「捕虜に蛮行 旧日本軍の闇」から引用 かつての日本は天皇が統治する国として、国民は天皇の命令で軍隊を組織して東アジアの各地を侵略したのであったが、そのような歴史を事実に基づいて記録するのは国の責任であるはずなのに、政府はそのような作業に無関心で、都合の悪い史実については「そのようなことを記録した公文書は見当たらない」などと発言して、じつはその翌月には歴史研究者が防衛省の戦史研究所書庫で、その都合の悪い史実を記録した文書を発見したりする始末であるが、放っておくと古くなった文書は廃棄処分にされかねないのだから、そうなる前にしっかりと記録をとって、日本がどのような歴史をたどって今日に到達してきたのかを、しっかり将来世代に継承していってほしいと思います。
2024年02月01日
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