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海外を中心に移民や難民のニュースが流れない日はない。日本は、といえば、先日法務省が発表した速報値によると、昨年、難民認定申請を行った人は7586人、認定されたのはわずか27人である。
現在とは時代背景が全く異なるが、7、8世紀の日本は多くの難民を受け入れていた。660年に滅亡した百済(くだら)や、668年に滅亡した高句麗(こうくり)から、2千人をはるかに超える人々が海を越えて移住してきたからである。
正史である『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、百済の王族や貴族らはその知識や技術で官僚に登用されたし、それ以外に、近江国(今の滋賀県)に400人とか700人、東国に2千人もの百済人が集団移住し、農業に従事していた。摂津国には百済郡(今の大阪市の一部)が、武蔵国には高麗郡(こまぐん、今の埼玉県日高市ほか)が置かれたが、後者は今からちょうど1300年前の716年に1799人の高句麗人が移住して建てた郡だった。
さて、正史からは、科学展術の分野で重用された百済人・高句麗人や、官僚として活躍した百済王(くだらのこにきし)さん(もと百済王の子孫)や楽浪(さざなみ)さん(百済系)、高麗(こま)さん(高句麗系)などが知られるが、正倉院文書からは、8世紀の写経所で働く難民の子孫の姿がみえてくる。
正倉院文書の中心は、写経所の労務管理のための事務帳簿である。働く人々の作業記録や給与支払いの書類が多くあって、写経する経師らの氏(うじ)名がわかるのだが、そのなかには正史でおなじみの氏族とは異なる、より多彩な姓(せい)が認められる。
例えば、余(よ)さんや高(こう)さん。余は百済の王族の姓で、高は高句麗の王族の姓である。鬼室(きしつ)さんや難(なん)さんもいる。鬼室は、百済復興を計画した武将・鬼室福信(ふくしん)の一族であろうし、難も百済の姓である。
王(おう)、荊(けい)、辛(しん)、楊(よう)などの一字の姓の人々もそうかもしれない。ちょっと変わった姓として、既母辛(きもしん)さん、答他(とうた)さん、達沙(たつさ)さんがある。既母辛は「支母末(きもま)」という百済系の姓の可能性が高く、答他は百済、達沙は高句麗にみられる姓である。
試みに、745年の写経所で働いていた経師41人の構成をみてみよう。達沙さん1人、鬼室さん1人、難さん1人、既母辛さん2人と明らかな百済・高句麗からの難民の子孫が5人含まれる。王さんや楊さんら5人もおそらくそうであろう。他に陽胡(やこ)さんや忍海(おしぬみ)さんなど6世紀以前の移民の子孫も5人ほど見える。つまり4~5人に1人は百済・高句麗からの難民の子孫であり、3人に1人は難民・移民の子孫だったということになる。
彼らは鬼室や王など姓は本国のものをそのまま使っているが、個人の名は小東人(おあずまひと)とか広万呂(ひろまろ)とあって、すっかり日本風である。日本生まれの二世、三世であるのだろう。
写経所で働く経師らは、「試字(しじ)」という文字を美しく書けるかどうかの試験を受けて、採用された。彼らは泊まり込みで働き、一緒にご飯を食べて、共同生活を送っていた。並んだ机の隣は同じ経師で、同じように足をしびれさせつつ、毎日ひたすら文字を写していたのである。
(愛知県立大教授)
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