文の文
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わたしが友人から詩集をもらったのは52年生きて3回こっきりだ。そのうちの2回は学生時代のボーイフレンドからもらった。高見順とエミリー・デッキンソンだった。52歳になったもらったのは小池昌代詩集である。このひとの名前は知っていた。おたずねするブログでお勧めされていた。新聞の書評でもよい文章を書かれていた。なのになんとなく食指が動かなかったのは、昌代という同名のものかきさんと混同していたからだろうと思う。それはたぶん、宮本百合子と武田百合子を混同していたのと同じこころの動きなのだがやはりおなじようになんて遠回りをしてしまったのだろうという後悔がわいた。このひとの言葉は魅力的だ。1959年深川材木商の家にうまれたこのひとは「もっとも官能的な部屋」という詩集で高見順賞を受賞している。絵本の翻訳もしている。離婚歴もある。現代詩に紡がれた言葉や重層的なイメージは単純なわたしの頭には手ごわ過ぎて、じりじりとあとじさりするしかないのだけれど、このひとの言葉の底にある哲学するこころになんだか惹かれる。存在するものと存在しないものを同時に見つめる目を持って目の前にあるものと悠久の時間とおのがいのちを結ぶ思索の逍遥。友人のお勧めの詩はこれだ。 あたりまえのこと 男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。それがまた、がぽがぽ、というような、ひどいあまりかた。なので、あまってしまう、ということは、こんなにも、エロティックなことだったか、と思うのだ。 それにしても、と、この大きさを満たしている男の足を思ってみる。あのひとの日常。 それにしても、と、今度は又、自分の小ささに戻ってみる。 知らないうちに、からだが、勝手に貸し出されていたような気分である。 さきっぽに届かないつま先が、なんだか、むずがゆく、あたらしい。 ひとの靴のなかに、自分の足を入れてみる。そして、ぬいてみたりもするなんて。それから、そのようなこと別に男に言うほどのことではない、などと考えている。そのこと。 そのことさえ、たぶん、とてもエロティックなことなのだわ、と考える。さきほどの。男の靴。たとえばこのひとはドーナツを見ていて、ドーナツの穴を思い、それと同時にドーナツのない空間へ深く思いを馳せてしまうような感じがする。詩が孕む跳躍にわたしはついていけないのだがこのひとの思索はどこか自分に近いというと失礼なのだが、なんだか興味深くて、図書館でこのひとの本を借りて読んだ。「屋上への誘惑」「感光生活」はエッセイ。「ルーガ」は小説。借りている本なのでラインが引けず、付箋を貼っていった。散文になったこのひとの思いにますますひきつけられてしまい、一冊につけた付箋の最高記録だと思うがその数は100に近かった。詩人の書く文章は比喩が壮絶だと感じ入った。半端じゃない。散文のなかでぎらりと光る。こんなものとこんなものが!と一瞬驚くが、すぐさまなるほどと深く納得もする。「雨漏りの音のような相槌」「チェンバロの音は枯れた野草の花束である。繊維質のその音を聞いていると便秘がすぐになおりそうな気がする」なんてのがごろごろころがっていて、なんだかうれしくなってしまう。そしてわたしは「ルーガ」のなかの「にぎやかな未来」でこんな一節に出会う。「幸福というものは、ああ、幸福だと思ったとたん、なにかほかのものに変容する。幸福は一瞬のなかにしか生きられないもので、幸福という幻影を支えるものは、それ以外の例えば退屈や不安や不幸といったものだ。そしてその退屈や不安や不幸こそが、人生のほとんど全ての要素であり、それらこそが現実をかたちづくるものである。幸福というのは、そのあいまに点滅する、奇跡のような錯覚にしかすぎない。それを感じるためには、ちょっとした才能、鋭さよりも鈍感という名の才能こそが必要不可欠だ・・・」これは自分がずっと前から考えていることと全く同じなのでなんだかうれしくなってしまう。そして、ああそうか、詩集をいただいてからここにいたる一連の流れは、この一節に出会うためだったのかもしれないと納得する。そして・・・その小説のなかでこんな一節に出会っていやはやなんとも・・・と苦笑したりもするのである。「結婚っていうものが、わたし、いやでいやで。なんでまあ、こんないやなものを、みんな続けているんでしょう。でもねえ。ひとつくらいは、いやだ、いやだ、って言いながら、何かを続けていくのもいいような気がして。気がつけばこの年まで、一人の男とつきあってきたわ。まあ、途中にはいろいろあったけれど。籍は抜かなかったのよ。結婚って碾き臼ね。大きな臼で、長い年月かけてごりごりごりごり、お互いを碾きあう。凸凹も均されて、最後にあなた、ふーっと相手を吹いてごらんなさい。目も鼻も口も眉もすべてふきとんで、あとにはなにも残らないはずよ。身が粉になるまで、ごろごろごろごろ」
2006.10.11
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