Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2012年07月15日
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カテゴリ: 夢有無有
「中国故事」殷鑑遠からず
 湯王を始祖とする殷王朝の最後の紂王と言えば悪王の代名詞のようになっていますが、紂王は才智武勇に勝れ、「殷鑑遠からず、夏后の世に在り」と言う西伯はじめ忠義の臣に恵まれていたにも拘わらず、夏の桀王そのままに、否それ以上の奢侈逸楽に耽ります
史記によれば紂王は鋭い頭脳、達者な弁舌、猛獣を素手で倒すほどの力を持っていました。彼は妲己(だっき)と言う美女に溺れ、酒池肉林の日々をおくり、人民には重税を課し、反対者には徹底的な弾圧と過酷な刑罰を与えたということです。この話は夏王朝最後の帝、桀王(けつおう)の話に実に良く似ています。重臣の一人、西伯昌(せいはくしょう)は紂王を諌めてこう言いました。「殷鑑遠からず夏后の世にあり。」西伯昌は桀王の故事を例に取り、主君を諌めたのですが逆に紂王の怒りを買い、追放されてしまいます。さてこのような圧政に対し反対勢力が出てくるのは当然のことですが、その中心になったのが、この西伯昌・周の文王です。周は殷の勢力範囲の西方、陝西省(せんせいしょう。)の岐山(きざん)の麓にいた民族です。文王は父の王季(おうき)を殷に殺されたため、打倒殷を悲願として着々と準備を進めますが途中で死去してしまいます。文王の死後周王となった武王は父の意志を継いで諸侯を糾合し、文王の位牌を掲げ殷を打倒すべく出陣しました。そして牧野の合戦で殷を破り、逃げ帰った紂王は宮殿に放火し、玉を身にまとい焼身自殺し、ここに殷は滅びました。
 その後、前256年周赧王五十九年秦軍は邯鄲敗戦後、軍備を整えてから将軍摎に韓を攻めさせた。秦軍は陽城(河南登封東南)、黍(河南登封西南)等の地を占領し、韓軍四万人を殺し、続けて趙の二十余城を落とし、趙軍九万人を殲滅させます。周赧王は秦軍の攻撃を恐れ、諸侯と連合して伊闕(河南洛陽西南。龍門)を出て秦軍と戦い、秦軍が陽城に向かう道を切断しようとしますが、秦軍は方向を変えて西周を攻めたため、西周軍が敗れ赧王は自ら秦に謝罪し、西周の領土三十六城、人口三万を秦に献上しますが、周赧王が後継者がなくて死に名義上存在していた周天子が完全に姿を消します。

殷墟1
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最終更新日  2012年07月15日 06時51分09秒
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