Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2012年07月16日
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カテゴリ: 夢有無有
「中国故事」烏合の衆
 烏合の衆とは、元来烏が集まったような規律も統制もない統制の取れていない集団、只のの寄せ集まりに過ぎず纏まらないものを指し、「後漢書」には王朗を指した言葉として各所に見えます。「晉紀総論」にも、晉を大混乱に陥れ東遷させるもとをなした漢王劉淵らを称して「新起の寇、烏合の衆」と言っており、その烏合の衆に天下がひっかきまわされたのは政治が乱れていたらだというのです。(注)には曾子の言葉をあげて、「烏合の衆ははじめは相歓ぶが、後には必ず相争う」とあります。烏合というのはカラスの集団を指し、カラスの集まりは、それぞれが勝手に集まって統一感のない集団とありますが、実は烏は非常に統制のとれた集団であり此の諺は烏に失礼かもしれません。
 出典は後漢書の耿エン伝で、前漢の末、外戚の王莽は権をほしいままにし、平帝を弑して儒子嬰を立て、さらにみずら新皇帝と称したが、ついに国を奪って国号を新と改めたのは西暦九年のことであった。しかし政治に失敗したため、各地に叛賊が横行し、なかでも緑林の兵や赤眉の賊はその大なるもので、天下は大混乱におちいった。この時にあたって起こったのが、のちに後漢の光武帝となった劉秀らの軍で、方々に王莽の軍を破り、二十三年には景帝の子孫である劉玄を立てて皇帝とし、ここに王莽をほろぼして再び漢の世にもどしたのであった。
 しかし、王莽がほろびたとはいえ、天下が静まったわけではない。各地に群雄割拠し、赤眉の賊も未だ盛んであり、劉秀は劉玄の下に大司馬として軍事に寧日がなかった。なかでも邯鄲に拠った王朗は、もと易者であったが、われこそは成帝の子・劉子興なりとでたらめを言い、兵を大いに集めて天子と称し、勢い当たるべかざるものがあったので、翌二十四年、劉秀は軍を率いて征伐に向かったのである。ところで、河北省の上谷の太守耿况は、前々から劉秀の人格を慕っていたので、子の耿エンを劉秀の麾下につかせようと思った。耿エンはこの時二十一歳、俊敏にして思慮深く、しかも兵法が好き、もとより喜んで劉秀の下へ急ぎ向かった。漢の皇帝の子孫と偽称して挙兵した王郎の軍隊を手下の孫倉と衛包の二人は急に心変わりして「劉子興は成帝の子で、漢の正しい血統の方だ。この方をさしおいて一体どこへ行こうとするのだ。」と言い出す始末です。耿エンは二人を引張り出し、剣を抜いて言います。「烏合の衆に過ぎない王郎の軍など枯れるを挫き腐れたるを折るように簡単に蹴散らすことができる」と。しかし、二人が王朗の方へ逃げ去るのを強いては止めようともせず、劉秀の下へと急ぎます。そうして劉秀を助けて数々の武勲を立て、のちには建義大将軍になります。

烏1
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最終更新日  2012年07月16日 09時18分43秒
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