神の存否-181 スピノザは人間の感覚器官に頼った表象力には信を置いてはいないようです。言わずもがな、彼は人間の理知に信を置く社会生活を行動する実践倫理の立場です。スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想をば認めない。寧ろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配するという構図は棄却されます。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの言い換えれば、「理性の有」を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語の実相は単なる身体の運動であるとしています。スピノザにあっては、表象的な認識に依存した受動感情、即ち動揺する情念を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされています。我々人間の外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念、記憶力にのみ依存する観念を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識であす。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定するのです。