Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年11月01日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-217
 精神と身体に関しては、心身一元論と心身二元論が顕著な思想の代表例です。キリスト教スコラ学の論拠とされたアリストテレスに代表される「心身一元論」によれば、身体の中に心が存在するから動いている。見えない物質であっても身体の中に存在する。一方、プラトンの「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能である心身二元論では、物質と精神はまったく違うものと考える。心とは目に見えない部分である。身体の中にあるとしても、腕なら腕、影なら影と目に見える形であらわすことができるものではない。其れ故に、心とは身体の一部分には存在しないと捉えます。デカルトの心身二元論は、精神に固有の機能として「自由意志」を認め、それを中心にして「心身合一」という人間の現実的なあり方を理解しようとする実践的な帰結をも伴っています。此れを受けて「心身合一」という事態が人間にとって根源的なものであるとしたのがスピノザの云う「心身合一」論です。
 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。
 証明 なぜなら、もし身体が人間精神の対象でないとしたら身体の変状である刺激状態の観念は(この第二部の定理九の系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。)により、神が我々の精神を構成する限りにおいて神のうちになく、神が他の物の精神を構成する限りにおいて神のうちにあるであろう。言いかえれば、身体の変状の観念は我々の精神の中にはないであろう。ところが、我々は身体の変状の観念を有する。ゆえに人間精神を構成する観念の対象は身体であり、しかも現実に存在する身体である。次にもし身体のほかにも精神の対象が他にあるとすれば、およそ何らかの結果の生じないようなものは一つとして存在しないのであるから、その対象から生ずる何らかの結果についての観念が必然的に我々の精神の中に存しなければならぬ。ところが(この第二部の公理五 観念の形相的有は、神が思惟する物と見られる限りにおいてのみ神を原因と認め、神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうでない。言いかえれば、神の属性の観念ならびに個物の観念は観念された物自身あるいは知覚された物自身を起成原因と認めずに、神が思惟する物である限りにおいて神自身を起成原因と認める)により、何らそうした観念が存しない。ゆえに我々の精神の対象は存在する身体であって他の何ものでもない。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。
 身体(肉体)は、通常一般では生命体と呼ばれるものの中でも比較的高度なものに適用されます。其れ故に、一部の信仰を除き、自己増殖機能を持たないウィルスに始まり植物や脳細胞を保有しないものには身体(肉体)概念を適用しません。更には、精神に至っては現在でも生物学的に人類に限る思想もあれば、異をとなえる思想も多くあるのが現状です。



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最終更新日  2021年11月01日 06時01分10秒
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