Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年01月11日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-287
 この部第二部定理四九の系 「意志と知性とは同一である。」についての反対論の第一についての返答、反対論の第二についての返答は、意志すなわち同意能力が自由であって認識能力と異なるということ。反対論の第三については、観念の観念の真意、意志と知性の同一への反論への返答です。反対論の第四については人間の自由意志に対しての返答です。
 第一の反対論 意志は知性より広きにわたること、したがって知性と異なっていることを確定事項と思っていることにある。に対して私はこう答える。もし彼らが知性を明瞭判然たる観念とのみ解するなら意志が知性より広きにわたることは私も容認する。しかし私は意志が知覚一般あるいは思惟能力一般より広きにわたることはこれを否定する。また何ゆえに意志する能力が感覚する能力に比して無限であると言われるべきかは私のまったく了解しえぬところである。なぜなら、我々が無限に多くのものを(と言っても一つずつ順次にである。無限に多くのものを同時に肯定することはできないから。)同一の意志能力で肯定しうるように、我々はまた無限に多くの物体を、もちろん一つずつ順次に、そして同時にではなく、それは不可能だから、同一の感覚能力で感覚ないし知覚し得るからである。もし彼らが「我々の知覚しえない無限に多くのものが存在する」と主張するなら、私はそうしたものはいかなる思惟をもってしても、したがってまたいかなる意志能力をもってしても把握しえないと答えるであろう。しかし彼らは言う、「もし神が我々にそれらのものをも知覚させようと欲したとしたら、神は我々に、現に与えたよりもより大なる知覚能力を与えなければならなかったであろうが、より大なる意志能力は与える必要がなかったであろう」と。これはあたかも「もし神が我々に無限に多くの他のものを認識させようと欲したとしたら、その無限に多くのものを把握するには、神が現に与えたよりもより大なる知性を我々に与えることが必要であったろうが、実在に関するより一般的な、言い換えれば、より広汎な観念を与える必要はなかったであろうと言うに等しい。なぜなら、我々の示したように、意志とはある一般的な有、あるいはすべての個々の意志作用、言い換えればすべての個々の意志作用に共通のものを説明するためのある観念であるからである。だからもし彼らがすべての意志作用に共通的ないし一般的なこの観念を、我々の精神の能力であると信じているのなら、この能力が知性の限界を越えて無限にわたることを彼らが主張するとしても、何の不思議もないのである。なぜなら、一般的なものは、一の個体にも、多数の個体にも、また無限に多くの個体にも、等しくあてはまるのであるから。



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最終更新日  2022年01月11日 06時10分04秒
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